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“8月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1936=昭和11年  前畑秀子がベルリンオリンピック女子200m平泳ぎで金メダルを獲得した。

前畑を猛追したのは地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルだった。スタート直後から会場全員が総立ちとなり放送席ではNHKの河西三省アナが「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」を20回以上も絶叫、公式録音では割愛されたが差が縮まると「前畑、危ない!」とも。レース開始予定の午前0時を過ぎたため、河西は冒頭に「スイッチを切らないでください」から中継を始めた。日本女子として初の金メダル獲得に深夜にもかかわらずラジオにかじりついていた国中が感動した。興奮しすぎて心臓マヒで亡くなるという<笑えない事件>も起きた。

前畑が栄光を掴むまではいくつもの困難があった。1914=大正3年、和歌山県橋本市生まれ。家業は豆腐屋で高等小学校を卒業後は家業を継ぐはずだったが、近くを流れる紀ノ川で覚えた水泳で小学5年の時に女子50m平泳ぎで学童新記録を出す。高等小2年には汎太平洋女子オリンピックに出場し100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝した。

この実力を認めた名古屋・椙山女学校(現・椙山女学園)創立者の椙山正弌が前畑に寮を提供し、学園内に新しくプールを作るなど全面的に応援した。1931=昭和6年に母と父を脳出血で相次いで失うが、悲しみを乗り越えて練習に打ち込み、翌年のロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎで銀メダルを獲得した。この時点で引退も考えたが「次は金を!」という周囲の強い期待に押されてさらに猛練習を重ねて栄光をつかんだ。

ゴール直後、前畑は自らロープをくぐって金メダルを逃して茫然とする隣のコースのゲネンゲルに泳ぎ寄り握手を求めた。それを見た他の選手たちも2人を取り囲んでお互いの健闘をたたえあった。いまの大会ではなかなか見られなくなった心温まる光景だ。戦争を挟んで前畑とゲネンゲルとの親交は続き、1977=昭和52年にはベルリンで再会、ともに50mを泳いでゲネンゲル家に宿泊した。1995=平成7年2月24日、80歳で兵藤=旧姓・前畑没。5カ月後、あとを追うようにゲネンゲルも84歳で亡くなった。

*1884=明治17年  『時事新聞』が大うちわを使った銭湯の“珍サービス”を紹介している。

東京・赤坂区一ツ木町の「松の湯」は、脱衣場の天井に幅3尺、竪9尺(1.0m×3.0m)の大うちわを吊るし番頭が風を送っている。「早く汗を乾かして涼しみを覚えしめんが為の一工夫」というこの巨大うちわは特別注文だが、柄を入れても<竪9尺>とは江戸っ子もびっくりの大きさ。女湯でも、とは書いていないから男湯だけのサービスだったか。まだ扇風機はない時代、このアイデアは大受けだったが番頭さんはさぞやたいへんだったろう。

*1900=明治33年  「大圓朝」と呼ばれた落語家の初代三遊亭圓朝が61歳で逝く。

1839=天保10年、初代橘屋圓太郎(初代圓橘)の子として江戸・湯島で生まれ、1855=安政2年、圓朝を名乗って真打に昇進した。こう書くと省略したように思われるかもしれないが活躍はここからだからお許し願いたい。「落語中興の祖」といわれる圓朝は、落語家としてという以上に「言文一致体」という日本語表現を一代で確立したことでも知られる。二葉亭四迷も影響を受けたひとりだ。

人情話を語らせたら右に出るものがいないとされた。あまりのうまさに他の師匠連が嫉妬して圓朝の演目を先回りして演じたため、ならばと新作を次々に発表することになった。人情話の定番とされる『芝浜』や『文七元結(ぶんしちもっとい)』を創作したが、同じ演目でも今のよりはずっと長かった。他にも『怪談牡丹灯籠』、『怪談乳房榎』、『真景累ケ淵』などおなじみの怪談話から海外文学作品のイタリア歌劇を翻案した『死神』も手がけた。

圓朝は舞台プロデューサーとしての才能もあったから旗揚げ当初は「鳴り物入り道具仕立て芝居噺」で人気を集めた。派手な衣装に薄化粧、まるで旅役者か若衆歌舞伎のような容姿で高座に上がった。芝居と講談と落語をミックスしたようなものらしい。「二葉亭四迷も影響を受けた」と紹介したが、高座をのぞいたこともあっただろうが圓朝は自分の演目を速記者に書きとらせ新聞に発表した。これが大人気になり作品それぞれの“全貌”が今に伝わっているのもこのおかげだ。それが<雲>を呼び、四迷の『浮雲』になった、というのは冗談だけど。

交友関係も多彩で政治家で剣・禅・書の達人の山岡鉄舟に師事し、その紹介で京都・天龍寺の滴水和尚から「無舌居士」の道号を授かった。「舌先で語るのではなく心の奥の<芯>で語らなければ本当の噺ではない」という戒めという。圓朝はその話を紹介して「あたしは舌なしでいきますから皆さんもどうか耳なしでお聞きください」といって受けたという。禅の道も極めた圓朝ならではのエピソードではあるまいか。

戒名も「三遊亭圓朝無舌居士」、鉄舟が開いた台東区谷中の臨済宗全生庵にともに眠る。ところで圓朝の名跡は“大きすぎて”いまだ襲名されないままである。

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