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“6月22日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1958=昭和33年  ブラジル・サンパウロの夜空にはじめて日本の花火が上がった。

この年は「笠戸丸」での初移民から50年目にあたり、皇族として三笠宮崇仁ご夫妻を招いて「日本移民五十年祭」が開催された。それまでは日本の敗戦を頑として認めようとしない「勝ち組」と「理解組(負け組)」が長い間激しく対立していたが、これを契機にわだかまりが消えたといわれている。

11日にリオデジャネイロのガレオン空港に到着した三笠宮ご夫妻は全官庁や学校が休みになるなど国を挙げての熱烈歓迎を受け、18日には祭の中心会場となるサンパウロに移動した。空港には州知事、市長や日系移民の代表ら多数が出迎えた。3ヶ月間にわたる数多くのイベントの中の最大の目玉は日本の花火の打ち上げでブラジル政府は東京から39歳の花火師・小勝郷右(おがつ・きょうすけ)を招いていた。

それまで多くの国で花火を打ち上げてきた小勝も南米は初めてで今回ばかりは勝手が違った。日本から地球の裏側までは船便で1カ月半以上かかる。準備したのは大型の打ち上げ花火1,800発のほか速射花火350発、スターマイン8台、いつもは「ナイヤガラ」と名付ける仕掛け花火もブラジルのイグアスの滝にちなんで300メートルの幅のある「イグアス」を用意したが厳重に梱包したはずのドラム缶の中の花火がカビだらけになっていたりして大あわてで乾燥させたり組み立て直したりするハプニングもあった。

現地紙や日本語新聞が特集を組んで三笠宮ご夫妻の動静や小勝の準備ぶりを事細かく紹介するなどしたため奥地の移民の間にもニュースが広まった。するとどうだ、日系移民たちが数千キロも離れた奥地の農園からも飛行機やバスを乗り継いで数日前からやって来た。なかには何台ものバスを連ねた親戚家族ぐるみというグループもありサンパウロ市内は日系人だらけに。当日は会場のビエラピエラ公園は1世、2世、3世の日系移民だけでなくブラジル人などを含めて10万人以上の見物客であふれ返った。

いよいよ点火、たった一人で乗り込んだ小勝は紺木綿の印半纏と手ぬぐいで“ほおかぶり”したいつものスタイルで走り回りながら休む暇なく花火に点火していった。大型花火は日本特有の菊や牡丹などを中心に選んでいたから南米の夜空に大輪の花を咲かせるたびに会場は花火の音と歓声で揺れた。ブラジルでは見たこともない仕掛け花火の「イグアス」も長い時間にわたり見事に光の帯を輝かせた。そして1時間10分、最後まで息をつかせぬ光と音のページェントが無事終わった。

もちろん会場の貴賓席では大観衆と同じように三笠宮ご夫妻や多くの要人らが感動に浸っていただろうが伝えたかったのは実はこれから紹介するエピソードだ。

最後の1発が打ち上がり、すべてのプログラムが終了したのを見届けた小勝は全身が煤で真っ黒になり汗びっしょり。協力してくれた現地スタッフとはことばが通じなかったから5、6人とただただ抱き合って喜んだあとは全員が疲れきってその場にへたり込んだ。会場一面に硝煙が漂い、さっきまでが嘘のような静寂に包まれていた。そこに現地の世話人が「ぜひ花火師に話したいという人が来ている」と告げに来た。

やってきたのは孫らしい青年に両側を支えられた77、8歳の老人だった。老人が「日本から来たのか」というので「そうだ」と答えると「花火やさんか」と聞くので「そうだ」と答える。やがて老人は故郷の広島あたりのなまりでぽつりぽつりと話しはじめた。

わしが50年前に笠戸丸で日本からブラジルに渡って来たときは、それこそ星雲の志に燃え必ず成功して見せると決心していた。しかしそんな楽なものではなく、それこそ自殺した方がずっと楽だと思えるような苦労の連続だった。本当に身を粉にして働いて、働いて、奥地ではあるがどうやらコーヒー園が持てるまでになった。

この50年の間、日本のことを一日として忘れたことはなかった。もうこの年になっては体もきかなくなり、日本へ帰ることはとてもじゃないが不可能だ。そう思っていた矢先、あなたが日本の花火をブラジルまで持ってきて打ち上げてくれた。その上、昔の日本では見たこともなかったような立派な花火だったので、ブラジルに来て以来、こんなにうれしかったことはない。わしはブラジルに骨を埋めるつもりでいるが、日本の花火がブラジル人の度肝を抜いてくれたことで胸がすっとした。これで先に死んでいった大勢の友人知人たちにも冥土でいい土産話ができる。本当に見事な花火だった。嬉しかった。ありがとう。ありがとう。

小勝の手をがさがさしたしわだらけの手で握り締めていつまでも離そうとしなかった老人の涙ながらの話はまだまだ続くが、このくらいにしておく。

小勝自身も、日本から持ってきて打ち上げた花火が、ただ美しいとかきれいだとかいうだけでなく、日系人の人たちにこんなにも喜ばれていたのかと思うと、まったく花火師としての冥利に尽きるとあらためて感動したとその著書でこの夜の思い出を紹介している。
参考:
*『花火――火の芸術』(小勝郷右、岩波新書、1983)
*『世界の空に花火を咲かせて――花火師ひとり世界冒険奮戦記』(同、かのう書房、1987)

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