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“6月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1582=天正10年  豊臣秀吉が主君・織田信長の弔い合戦となった「山崎の戦い」に臨んだ。

織田信長が非業の最期を遂げた「本能寺の変」の11日後にあたる。<主君討たれる!>の報を受けた豊臣秀吉は備中(岡山)高松城での毛利軍との一戦を急遽、和議で切り上げ京へとUターンした。弔い合戦のための「中国大返し」である。

陣を敷いて待ち受けるのはクーデターを起こした明智光秀軍。山城国と摂津国の境、地形でいうと京都盆地と大阪平野の境目。いまのサントリー山崎蒸留所より少し北のあたり、新幹線、JRや阪急京都線、名神高速道路などが淀川と天王山の間の狭いところを走る。当時は氾濫を繰り返す淀川の沼沢地が広がっていたから実際にはさらに狭かった。ここの地名をとった「山崎の戦い」がまさに始まろうとしていた。

当時の合戦がどんなものか上空から案内したいところだったが厚い雲に覆われて雨が降りしきり視界も相当悪いのであきらめた、などという冗談はさておき、都に近い方、北側の光秀軍は勝龍寺城の西数キロあたりに構えた本陣に5千。最前線は山崎を越えて摂津方面に伸びる北国街道沿いに斎藤利三・柴田勝定の美濃衆2千。すぐ後ろに明智茂朝ら近江衆の3千が控え、その東側に津田信春の河内衆2千、西側に並河掃部ら丹波衆2千が陣を敷いた。秀吉があまりにも早く引き返してきたため援軍を集めるのには苦労したが、その他もあわせて総勢1万6千、武器としてかなりの数の鉄砲が準備された。

「復仇の大義」つまり主君の仇打ちを掲げて攻め上ってきた秀吉軍は、途中で短期決戦のカギを握る摂津衆の中川清秀、高山右近を味方につけた。さらに四国攻めで参陣が遅れていた織田信孝、丹羽長秀の軍が加わったことで4万にふくれ上がった。

戦いが始まったのは昼過ぎ、いちばん東側の淀川沿いの津田陣営を中国から引き返した尾張織田家の池田恒興らが突いた。それに続くように光秀軍西端の天王山近くにいた並河陣営などを地元の地理に明るい摂津衆が山から駆け降りるかたちで急襲した。サッカーでいうとサイド攻撃です。たちまちペナルティー・エリア=中心部でも入り乱れての混戦になったが光秀軍が頼りにした自慢の鉄砲の火薬が雨で濡れて不発になったり、弾込めに手間取ったりと大誤算。各陣営の雑兵が武器を捨てて逃げ出すなどして小1時間で劣勢になると旗本からも逃亡が相次いだ。

攻め立てる秀吉軍に対し光秀軍は防戦一方に追い込まれ、わずか1千足らずが勝龍寺城に後退したが間もなく全軍総崩れになった。光秀は夜陰にまぎれてわずかな供廻りだけで本拠の近江坂本城をめざしたが、途中、小栗栖の竹藪で落ち武者狩りの竹槍に突かれて落命した。生年不詳だから享年53とも54とも。

さて、ここから始まるのが岡本綺堂の戯曲『小栗栖の長兵衛』の主人公・長兵衛の物語。ばくちや酒、けんかに明け暮れ、村中から嫌われ、父親にまで見放される乱暴者。きょうも馬を盗んだ疑いをかけられたことから怒って暴れ回ったため村人から<簀巻き>にされてしまう。

そこに現れた秀吉の家臣により長兵衛が謀反の大将・明智光秀を竹槍で討った手柄者とわかると皆の態度が一変する。長兵衛を村一番の英雄とほめたたえ、長兵衛も竹藪に隠しておいた竹槍を取り出し<英雄の証>として馬にまたがって秀吉の陣のある京の都にのぼって行く。

生涯約200作の作品を新歌舞伎のために書き下ろした綺堂の代表作のひとつで、1920=大正9年に二代目市川猿之助(初代猿翁)が初演した。これを2012年に東京・新橋演舞場で行われた「六月大歌舞伎」で市川中車を襲名した<元俳優・香川照之>が長兵衛を演じた。初代猿翁の孫にあたる中車の歌舞伎初デビューはなかなかの評判だった。

という次第にて、最後は市川猿之助一門の新たな門出を祝して「いよっ、澤潟屋(おもだかや)!」で締めまする~ゥ。

*1948=昭和23年  作家・太宰治が愛人の山崎富栄と玉川上水に入水心中した。

戦後の混乱期に一躍ベストセラーとなった『斜陽』などの作者として知られる。遺書が残されていたものの太宰には二度も自殺未遂した前歴もあったから最後まで<覚悟の上>だったのか<ためらったが滑り落ちた>のか、あるいはどちらかが<さあ早く>と誘ったのかという疑問は残る。いまと違い現場は昼でも寂しい場所で深夜になると真っ暗で人通りはなく目撃者がいなかったから時間などは一切不明だった。

この少し前、旧友のひとりと上水沿いを散歩中に「ここに落ちるとおしまいだ。底で水が渦を巻いているからな。それに底の方は、横っ腹が水でえぐられてこっぽり窪んでいるんだ。だから落ちると岸には這い上がれない」などと話していた。これも状況証拠だがちょうど太宰39回目の誕生日になったはずの19日に三鷹市牟礼にある明星学園前の「新橋」下流の杭に引っ掛かっている2人の死体が見つかった。太宰の死に顔は微笑、富栄は苦悶の表情だったと伝わる。

太宰が眠る市内下連雀の黄檗宗禅林寺ではその誕生日に「桜桃忌」が行われる。

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