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“3月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1908=明治41年  時事新報がはじめての<日本一の美人>を発表した。

発表されるこの日の紙面は全国の注目を集めていた。少しでも早く見たいと本社前には早朝から刷り出しの紙面を求める行列ができた。

前年秋の社告で「日本全国美人コンクール」が発表されると人々はそれが大新聞の事業だけにあまりの突飛さに驚いた。すぐに「時事のような大新聞がこのような不謹慎なことを行うのはけしからん」とか「低俗な美人競争に応じて自らの美貌を誇るのは日本婦人の淑徳に反する」と非難が上がる。

内情を紹介すると企画は米国の新聞大手シカゴ・トリビューンが「世界美人競争」を立案し各国の大新聞にその国の「代表美人」を募集してもらうことになった。そして日本代表の選出で時事新報に白羽の矢が立った。

当然、社内にも反対論が渦巻いた。「わが社の品位を傷つける」と机をたたいて反対意見をぶち上げるのはまだ序の口で揉めに揉めた。断を下したのは31歳で社長になった福沢捨次郎だった。福沢諭吉の次男坊といったほうがわかりやすいが、オヤジがあまりに有名だから名前はその陰に隠れがちだった。とはいえ経営感覚といい論陣センスといい抜群で同社の最も華やかな時代を築いた当代随一の新聞人だった。

美人コンクールといっても現在のように水着姿などを審査するのではなく「写真による選考」だった。全国の有力紙に協力を要請しそれぞれの地域で写真を募集したなかから1次審査。さらに選ばれたのを2次審査分として10月から2月までの紙面に写真を大きく連載したから話題を呼んだ。

次には審査委員が発表されるとその顔ぶれに世間がうなった。13人全員のリストがあるが何人かを紹介しておく。
岡田三郎助(洋画家)、高村光雲(彫刻家)、新海竹太郎(同)、坪井正五郎(人類学者)、中村芝翫(女形俳優=注・5代目)、前田不二三(容貌研究家)。

そしていよいよ3月5日の紙面である。

「美人写真第二次審査の結果」として「日本第一美人 末弘ヒロ子嬢」を発表した。4段抜きで掲載された写真は和服姿で横笛を手に小首をすこし傾けた丸髷の愛らしい表情だ。「福岡県小倉市長末弘直方氏の令嬢と確定」と記事には「女子学習院在学中の16歳の学生」などとくわしく紹介した。名門の子女が美人コンクールに写真だけとはいえ応募したこと、しかも第一等に選ばれたことで、それがまた大変な反響を呼んだ。

ところが時の学習院院長は謹厳で有名なあの乃木大将だったからニュースを聞いた途端、カンカンに怒った。即日、「風紀上面白からず」ということで退学処分を申し渡した。主催者の時事新報は猛抗議したが、学校が宮内省の学習院(当時)で、校長が武人・乃木とあっては記事や社説などで食い下がり社を挙げてのキャンペーンもまったく通じなかった。

最後に後日談を。ヒロ子嬢はそのあと乃木と同じく日露戦争を戦った野津元帥の長男の陸軍大尉と結婚することになり媒酌人を乃木がつとめた。乃木も退学処分の<借り>を返し、何より福沢以下、時事新報の面々もようやく胸をなでおろした。

*1914=大正3年  親日家モラエスが『日本通信』の序章を書いた。

ポルトガルの首都リスボンに生まれ1899=明治32年に神戸副領事として赴任した。ポルト市の著名新聞「コメルシオ・ド・ポルト=ポルト商業新聞」に日本の政治・外交から文芸などを12年間にわたって寄稿した。これをまとめたものが『日本通信』である。

その序章。
「美しいある夏の日、世にもすばらしい古典の気のみなぎるなかで、神秘と熱狂に包まれて徳島の盆踊りを見た」
もちろん阿波踊りのことである。モラエスは神戸在勤中に芸者おヨネと出会い恋に落ちる。1912=大正元年にヨネが死ぬと職を辞しヨネの故郷・徳島に移住した。ここで出会ったのが阿波踊りであり、のちに一緒に暮らすことになるヨネの姪の斎藤コハルだった。

しかし彼女にも先立たれる。それでもモラエスは彼女たちの思い出を抱いて徳島に住み続けた。その暮らしは楽ではなく時にはスパイ容疑をかけられたりしながら1929=昭和4年、孤独のうちに75歳で亡くなった。その名をとった徳島市の「モラエス通り」には長いあごひげを生やした胸像があり、市内を見下ろす眉山の上にある博物館「モラエス館」に旧宅の一部が移築されている。

作家・新田次郎に<美しい日本に殉じた>モラエスの評伝で未完の絶筆となった『孤愁サウダーデ』がある。題名のサウダーデはポルトガル語で郷愁とか憧憬、切ない想いという意味という。

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