“1月21日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵
*1919=大正8年 世界的に流行したスペイン風邪が日本でも猛威をふるい多数の死者が出た。
前年3月にアメリカ中西部で発生し、東部のボストンなどに広まった。人類が遭遇した初めての「インフルエンザのパンデミック」と呼ばれる爆発的拡散はたちまちヨーロッパ全土に広まった。当時は第一次世界大戦下で疾病情報は機密にあたるとして厳しく検閲されていたが中立国のスペインはいち早く情報を発表したため発生元ではないのに「スペイン風邪」と呼ばれた。別名「世界風邪」「世界感冒」。感染者は6億人、死者は5千万人に上ったとされ、当時の世界人口が約18億人だったから3人に1人がかかった計算になる。
国内では前年10月ごろから大流行が始まり11月5日には芸術座の島村抱月が死亡した。抱月の死亡記事には「世界感冒から肺炎併発」とある。新聞には連日のように死亡広告が掲載され、1月に入ると「感冒の恐怖 死亡者に働き盛りの者多し」などの見出しで伝えた。「東京日日」は東京府内の死者は8日から14日までの1週間で898人、18日には1日だけで266人に上ったと死者急増を報道。火葬場はどこも満員で1週間以上も置かれたままになっているのはざら。府内の各駅から遺体を郷里や近県の火葬場へ送る遺族が急増し元旦からの20日間で上野駅53、両国駅23、東京駅15、新橋駅、新宿駅各4、飯田橋駅2とくわしい。さらに悪性感冒によって一家全滅のケースでは主人(小学校教師・32歳)妻(30歳)長男(7歳)長女(6歳)次女(4歳)次男(2歳)の6人が死亡、「悲惨なり」の記事もある。内務省の発表では死者は39万人。近年の研究では48万人に上ったとされている。
紹介した抱月以外に皇族の竹田宮恒久王、東京駅を設計した辰野金吾、女子教育者の大山捨松などがこの風邪により命を落としたことが知られている。
*1954=昭和29年 世界初の原子力潜水艦、アメリカ海軍のノーチラスが進水した。
全長97.5メートル、幅8メートル、排水量3千トン、乗員は105名だった。水中速力23ノットで潜航深度は213メートル、原子力機関の搭載により連続2,500キロの航続距離と丸1ヶ月の連続潜航が可能とされた。コネチカット州での進水式にはアイゼンハワー夫人が招かれ、1958=昭和33年8月には潜水艦として初めて北極点の潜航航海に成功したことでも知られる。このときの信号「ノーチラス、北90度」は最初の航海でテムズ川を通ったときの「本艦、原子力にて航行中」とともに有名。
フランスのSF作家ジュール・ヴェルヌの小説『海底二万里』などに登場する架空の潜水艦と同じ名前だがノーチラスはオウムガイという意味だ。
*1930=昭和5年 列強海軍の補助艦船の保有量制限を協議するロンドン軍縮会議が始まった。
イギリス首相・マクドナルドの呼びかけで参加したのはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの5カ国だったがフランスとイタリアは潜水艦の保有量制限などに反発して協定には不参加となった。日本は若槻禮次郎元総理を全権代表に送り、アメリカもスティムソン国務長官を派遣した。その結果、潜水艦を除いた艦船保有比率は米英10に対し日本は6に終わった。当初から7割確保をめざしていた海軍側は強硬に反対し、政府の調印は天皇の統帥する軍の大権を侵すものだと攻撃した。いわゆる「統帥権干犯問題」である。しかし濱口雄幸首相はこれを押し切って条約を成立させた。
これがこの年11月14日に東京駅で起きた右翼による濱口首相狙撃事件につながる。
*1912=明治45年 わが国初のスキー大会が新潟県の高田旭山コースで行われた。
総指揮にあたったのは2年前に来日したオーストリア・ハンガリー帝国の将校でスキーの名手だったレルヒ少佐。日露戦争で大国ロシアに勝利した日本の視察に派遣されたがスキーの腕前を聞いた高田第13師団の師団長・長岡外志が隊員への指導を依頼した。長岡は歩兵第58連隊から「スキー専修員」14人を選抜して学ばせた。後年、陸軍中将になる長岡は帝国飛行協会を創設、軍用気球研究会を立ち上げるなど「新しいもの好き」だった。自身は雪の降らない山口県下松出身だったが、頭には雪中行軍で多くの凍死者を出した八甲田山の遭難事故があったのではなかろうか。
レルヒは自費でスキー10組を製作し専修員を指導したが将校の家族や地元民らにもその楽しさを教えたから1ヶ月後には「高田スキー倶楽部」ができたことで高田=現・上越市がわが国の<スキー発祥の地>となった。レルヒの教えたのはストックに長い棒を1本だけ使うオーストリア式で、いわゆる「ボーゲン」などでスピードを制動しながらの山岳スキースタイルだった。指導開始の1年後に行われたこのスキー大会には上達した専修員9人が参加した。山の頂上から麓の射的場までのコースを1位が25分で滑降したという記録が残る。スキーの数からするとレルヒ自身も<模範滑降>を披露したのだろうか。「レルヒの写真」にあるフォームからは斜面を優雅に滑り降りる姿が目に浮かぶ。