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“10月27日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年3月31日 23:09

*1890=明治23年  東京・浅草六区に「十二階」と呼ばれる楼閣・凌雲閣が完成した。

浅草寺の境内の水田に池を掘り周囲に造られた街区が浅草六区で、見世物小屋や演劇場、活動写真館、オペラ常設館が並ぶいちばんの歓楽街となり突き当たりに凌雲閣がそびえた。朝日新聞は「凌雲閣は八角の煉瓦にて其の高さ二百二十丈余(=約66m)坪数は三十二坪(=約106㎡)、二階より八階まで種々の売店を設け、縦覧人昇降の便に供するため昇降室なるものを設け、電気を以て之を昇降す。頂上に昇れば富士も筑波も家も川も皆一眸=望のもとにあり」と紹介した。建物は八角形で赤煉瓦の外壁には各面ごとに窓があり、夜にはそこからの光が八方に輝いて公園の池に映る姿が錦絵や絵葉書などに残されている。昇降室とは15馬力の米国製の電気モーターで巻き上げる日本初登場のエレベーターで一度に20人が乗れて人気を集めた。これで一気に8階まで昇り、上階には階段を利用した。いちばん上の12階には30倍の望遠鏡が備え付けられ「時事新報」には「上野の森を打ち越して彼方を望み、千住製絨所や王子製紙所の煙突があたかも竹の子の頭のような奇景である」と書かれた。

11階は建物の裏と表に50燭光のアーク灯が吊るされ、10階は周囲に椅子を並べた眺望室、9階は上等休憩室、2―8階は46の売店があり各階を見ながら降りてきた。売店はそれぞれ工夫を凝らし、たとえば「清国コーナー」ではチャイナドレスの店員が現地で買い付けた商品を販売して大人気だった。入場料は大人8銭、小児4銭で「下足料要せず」と書かれている。入口に泥落としの棕櫚マットが敷かれていたから履物はそのままでよかったのにわざとらしいが昇降室の前での混乱防止のためだったか。11月10日に開業式、11日から公開と新聞広告などで大々的に宣伝した。開業特別企画は「米国南北戦争パノラマ館」で展示した武器はすべて当時の戦争に使われた実物、頭上に吊るした天幕=テントはグラント将軍が戦場で実際に使ったものであるという触れ込みだった。翌年夏の企画では東京府下の芸者100人の顔写真を館内に飾り、人気投票で票数の高い数名には金時計を贈るとして柳橋、吉原、日本橋、浅草、新橋などのきれいどころの名前を全員紹介している。

何かと話題を呼んだ観光名所だったが1909=明治42年1月21日には初めての身投げがあり「凌雲閣より飛降り自殺」と報じられた。神田須田町の鮨屋の長男・佐々木初太郎で26歳、吉原の娼妓、小桜こと吉岡かねに入れあげた挙句、夫婦になれないのを悲観したと報じられた。財布には「佐々木かね」名義の帝国貯蓄銀行須田町支店の預金通帳があったが記入された56円はすべて引き出されていた。手帳の走り書きに「自殺をするから小桜のところへ知らせて呉れろ」とあった。それにしても通帳には勝手に<入籍>していたのか。見出しには「女に溺れた神田ッ児」とある。

建物は二重壁で中心に<安全柱>が走り、周囲の円柱は長さ10間=18mを地中1間=1.8mずつ埋め込んだと書かれているが関東大震災では8階以上が折れて崩壊、地震発生時に展望台部分などにいた十人は福助足袋の看板に引っ掛かって助かった1人以外は転落死した。経営難から復旧は困難で陸軍工兵隊が出動し爆破解体されたのが最後の話題になった。

*1944=昭和19年  徳川夢声の『戦争日記』に大磯での大釣果が書かれている。

「大磯からの帰りの土産、大したもんだ。大アジ5、金目ダイ2、カマス3――これを大戦果、空母5、戦艦2、駆逐艦3と考える。お祝いに国民服1着誂える。これも大戦果」とある。夢声は日本におけるマルチタレントの元祖だが“老成した”雰囲気があったから40代には「夢声老」50代は「夢声翁」と呼ばれた。太平洋戦争中には各地へ慰問興行に出かけ占領地での日本軍の横暴ぶりをこの日記に残している。このときはちょうど50歳。戦争下なのに相模湾で気ままに海釣りとはいい気なもんだ!というより忙中閑あり、こうした息抜きができる余裕もあったというべきか。

*1931=昭和6年  第6回明治神宮体育会で日本人初の世界新が2つも生まれた。

織田幹雄が三段跳で15m58cm、南部忠平が走幅跳で7m98cmを出した。織田は広島県出身。早稲田大学生だった1928=昭和3年のアムステルダムオリンピックで15m21cmを記録して優勝しアジア人の金メダル第一号に輝いた。卒業後は朝日新聞社に入社していた。南部は北海道出身。織田と同窓でともに参加したアムステルダムでは三段跳で4位に入賞した。明治神宮体育会では走幅跳での世界新記録だったが、翌年のロサンゼルスオリンピックでは三段跳に出場、15m72cmで金メダル、走幅跳でも銅メダルを獲得した。南部の世界記録はその後40年間、日本人選手には破られなかった。当時は土の助走路でスパイクも旧式だったから南部の記録がいかに突出していたかがわかる。

*1975=昭和50年  角川書店創立者で俳人の角川源義が58歳で死去した。秋燕忌。
富山県出身、国学院大学に入学し折口信夫の短歌結社「鳥船」に入会した。大学を卒業し中学校の教師を経て1945=昭和20年に角川書店を設立した。阿部次郎の『三太郎の日記』を合本として上梓して成功を収め、岩波書店と新潮社が文庫では双璧だったところに角川文庫で割って入って成功させた。1952=昭和27年発行の『昭和文学全集』は記録的な売り上げとなって文芸出版社としての地歩を確立した。

俳人としては句集『ロダンの首』、『秋燕』、『神々の宴』、『冬の虹』や読売文学賞を受賞した『西行の日』がある。

  花あれば西行の日とおもふべし

“10月26日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年3月31日 23:04

*1922=大正11年  利根川源流の旅を続ける歌人・若山牧水はこの朝、老神温泉の宿を出た。

私は河の水上といふものに不思議な愛着を感ずる癖を持つてゐる。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其處にまた一つの新しい水源があつて小さな瀬を作りながら流れ出してゐる、といふ風な處に出会ふと、胸の苦しくなる樣な歓びを覚えるのが常であつた。銚子の河口であれだけの幅を持つた利根が石から石を飛んで徒渉出來る愛らしい姿になつてゐるのを見ると、矢張り嬉しさに心は躍つてその石から石を飛んで歩いたものであつた。片品川の奧に分け入らうと云ふのは実は今度の旅の眼目であつた。(『みなかみ紀行』)

長野・佐久新聞社主催の短歌会を済ませると草津、花敷、沢渡、四万、沼田、湯の平と温泉に泊まって前夜、利根川の支流・片品川沿いにある老神温泉に着いた。信州から上州、野州=下野への山旅だった。花敷と沢渡との間には千メートルを超す暮坂峠がある。牧水は草鞋(ぞうり)を履いて峠を越えた。

  草履よ
  お前もいよいよ切れるか
  今日
  昨日
  一昨日
  これで三日履いて来た
  履き上手の私と
  出来のいゝお前と
  二人して越えてきた
  山川のあとをしのぶに
  捨てられぬおもひもぞする
  なつかしきこれの草履よ   (『枯野の旅』)

あいにくの氷雨で風もある。番傘をさし油紙を体に巻いて出かける覚悟をしたがようやく雨が上がりかけたので宿を出た。連れと別れ、ひとりで急ぐ途中に「吹割の滝」があつた。

極めて平滑な川床の岩の上を、辛うじて足の甲を潤す深さで一帶に流れて来た水が或る場所に及んで次第に一箇所の岩の窪みに浅い瀬を立てゝ集り落つる。窪みの深さ二三間、幅一二間、その底に落ち集った川全体の水は、雪白な中に微かな青みを含んでくるめき流るゝ事七八十間、其處でまた急に底知れぬ淵となつて青み湛へてゐるのである。淵の上にはこの数日見馴れて来た嶮崖が散り残りの紅葉を纏うて聳えて居る。見る限り一面の浅瀬が岩を掩うて流れてゐるのはすがすがしい眺めであつた。(『みなかみ紀行』)

  岩蔭の青淵がうえへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
  高き橋此処にかかれりせまりあふ岩山の峡のせまりどころに  峡=かい

次々に歌が湧いてきてやがて雨もあがっていた。

*1909=明治42年  伊藤博文が満州のハルビン駅頭で暗殺された。

日本は日露戦争(1905=明治38年)に勝利した勢いに乗じて12月に大韓帝国に日韓条約を押し付け保護国とした。京城(ソウル)に統監府を置くと伊藤が初代統監に就任、3年半にわたり韓国併合を進めたから韓国国民から恨みを買っていた。統監を辞任すると枢密院議長に復帰したがハルピンでロシアの蔵相・ウラジミール・ココツェフと満州、朝鮮問題を非公式に話し合うためハルピンを訪れた。

伊藤ら一行の特別列車がハルビンに到着したのは午前9時、ココツェフが車内に乗り込んで会談し、同25分に一緒にホームに降り立った。軍楽隊の演奏のなかを伊藤が先に立って儀仗兵を閲兵し終わって日本人の歓迎者が居並ぶほうへ歩み寄ろうとした時に銃声が響いた。儀仗兵の後ろから何者かが至近距離でピストルを発射した。伊藤には3発が命中した。いずれも致命傷だった。

鳥打帽をかぶった狙撃犯はロシア官憲に取り押さえられた。朝鮮独立運動家で31歳の安重根でホームにねじ伏せられたときに「コリア(韓国)、ウラー(万歳)」と3度絶叫した。狙撃された伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだ。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知ると「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたのが最後の言葉であったとされる。享年69。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。

安は旅順で裁判にかけられ翌年2月に死刑判決、3月26日に死刑になったが、直前に世話をした看守に墨痕鮮やかに「為国献身軍人本分」と書き上げると左手に墨を塗って手形を押した。<国のために身を捧げるのは軍人の本分>という意味である。このあと安は従弟から贈られた朝鮮紬を着て処刑され、民族の誇りとして英雄視されることになる。

“10月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年3月31日 22:59

*1944=昭和19年  神風特攻隊がフィリピン・マバラカット基地からレイテ沖に初出撃した。

この時期、フィリピンを巡ってはマッカーサー指揮の連合軍が19日からレイテ島への大上陸作戦を開始していた。前段階の「レイテ沖海戦」ではガダルカナルの撤退以降、後退に後退を重ねてきた日本海軍は総力を結集し態勢の立て直しを図る「捷号作戦」を展開した。しかし開戦に先立ち米軍は猛爆撃により日本側の航空兵力1,200機近くを撃破し潜水艦群によって石油輸送路を分断したから燃料難で機動部隊は分散に追い込まれていた。さらに新鋭戦闘機グラマンF6Fの出現で編隊行動がとられたことで零戦が得意としてきた<一騎討ち戦法>が太刀打ちできなくなって彼我の航空戦力は逆転していた。

追い込まれた日本軍は第一航空隊司令長官大西滝治郎中将の号令で最初の神風特別攻撃隊が誕生する。早速20日に大和隊、敷島隊、朝日隊、山桜隊の4隊が編成されると翌日から延べ24機が出撃を繰り返したが悪天候などに阻まれて22機が帰還した。4度目の出撃となった敷島隊の関行男大尉以下5機はサマール島付近の海域で米空母群を発見して突入、護衛空母セント・ローを撃沈させ全員が戦死した。続いて大和隊などの11機が出撃し空母を含む5隻に損傷を与える戦果をあげたが全機が未帰還となった。

海軍は28日に作戦の詳細を発表して<殉忠裂帛の行動である>と称えたがこれ以降、零戦に250キロ爆弾を搭載しての体当たり攻撃は比島、沖縄作戦でも陸海軍とも<得意戦法>になる。アメリカ艦船の乗組員からは「カミカゼ」として恐れられた。

関は母一人子一人、5月に結婚したばかりで特攻隊編成の命令が下った日、妻に次の遺書を残した。満26歳だった。

満里子殿 何もしてやる事も出来ず散りゆく事は、お前に対して誠に済まぬと思って居る。何も言わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来て居る事と思う。御両親に孝養を第一と心がけ生活して行く様、色々思い出をたどりながら出発前に記す。

*1825・1838年  同じ日にウィーンとパリで大作曲家が誕生した。

ウィーンに生まれたのは「ワルツの王」といわれたヨハン・シュトラウス(1825―1899)。
『ウィンナワルツ』の作曲で知られる父、兄弟、子と続いた音楽一家のなかでは最も有名だ。毎年元旦に行われるウィーン・フィルのニューイヤーコンサート」は彼やシュトラウス・ファミリーの作品を中心にプログラムが組まれる。父親が音楽家になることに反対だったから大学では経済学を専攻させられた。ヨハンが作曲家となったのは父から独立して父と同じく管弦楽団を設立してからで互いに<ライバル>として競い合った。
作曲家のブラームスと親交を結び、リスト、ワーグナーとも知遇があった。第二のオーストリア国歌ともいわれる『美しき青きドナウ』をはじめ『芸術家の生活』『ウィーンの森の物語』『皇帝円舞曲』など168曲ものワルツをはじめ行進曲ではスエズ運河開通を記念した『エジプト行進曲』『ペルシャ行進曲』『スペイン行進曲』や多くのポルカ、オペレッタ『こうもり』などで世紀末のウィーンを彩った。

パリに生まれたのはジョルジュ・ビゼー(1838―1875)。
声楽教師の父とピアニストの母の英才教育を受け、幼い頃からピアノを学び9歳でパリ音楽院に入学した。抜群の記憶力だったとされ、1861年にはリストの新曲を一度聞いただけで演奏し、さらに楽譜を受け取ると完璧に弾いてリストを驚かせた。リストの紹介でシュトラウスと会っていたかも。歌劇『真珠採り』『アルルの女』『カルメン』などを残すが敗血症のため36歳で世を去ったから音楽家として歴史に名を残すのは『カルメン』が世界で繰り返し上演されたから。ビゼーにカルメンあり、カルメンにビゼーあり!

*1881年  不世出の大画家パブロ・ピカソが誕生したのも同じ日である。

スペイン南部、地中海に面した港町マラガに生まれた。バルセロナの美術学校からマドリードの王立美術アカデミーに進むが中退、プラド美術館に通ってベラスケスなどの名画を複写しながら絵画を独学した。20代でフランスに移った初個展の作品は「青の時代」として知られる。パリ・モンマルトルに部屋を借りて本格移住した。生涯に1万3千5百点の油絵と素描、同数の挿絵、10万点の版画、他にも彫刻や陶器なども残したから「最も多作な美術家」としてギネス記録に記された。

代表作をひとつだけ挙げるならやはり『ゲルニカ』だろう。スペイン内戦でバスク地方の小都市ゲルニカがフランコ政権の依頼によりドイツ空軍の「コンドル軍団」に爆撃されて多くの死傷者が出たことを非難して描かれた。長くニューヨーク近代美術館に預けられていたが1981年にスペインに返還されマドリードの美術館に展示されている。

無名時代、モンマルトルで親友だった女流作家ガートルード・スタインの肖像画を描いた。「ちっとも似ていないじゃないの」という彼女に「そのうち君のほうがこの絵に似てくるさ」と澄まして答えたという。

“10月24日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年3月31日 22:52

*1876=明治9年  熊本で旧士族による最初の反乱「神風連の乱」が起きた。

新政府の進める帯刀禁止令や散髪令などへの不満が爆発したものでこれに呼応して福岡の「秋月の乱」や山口の「萩の乱」が立て続けに起こり、翌年の「西南戦争」につながる。
中心になったのは別名を神風連といった敬神党。神道を重んじる復古主義・攘夷主義の思想団体を主宰した林桜園(おうえん・1798-1870)の私塾「原道館(げんどうかん)」の門下生ら約170人で組織された集団である。

この日、各所で武装し深夜、熊本城内にあった熊本鎮台や司令長官・種田政明邸、参謀長・高島茂徳邸、県令・安岡良亮邸などを襲撃した。種田と高島は死亡、対策会議を開いていた安岡は部下らとともに襲われ、その傷がもとで3日後に死亡した。警護の兵士らは防戦一方となり約60人が殺され負傷者も200人以上に上ったが翌日になって政府軍が巻き返し、城内に立てこもっていた神風連側を総攻撃した。首謀者の太田黒伴雄は銃撃を受けたあと介錯され死亡、生き延びたメンバーも自刃するなどで124人が死に、約50人が逮捕されて乱は鎮圧された。

「神風連の乱」そのものは<純粋に思い詰めた>若い旧士族を中心に起きた。だが事件は意外な人間模様をあぶり出す。種田邸には妾2人高島邸にも妾1人がいた。種田邸の小勝は怪我で済んだがあとの2人は巻き添えで死ぬ。小勝は東京・日本橋の芸者で気風の良さに惚れた種田が熊本へ連れて赴任した。小勝は夜明けを待って熊本電信局に走り、父親あてに「ダンナワイケナイワタシハテキズ」と打電した。電文が『仮名読新聞』に掲載されると「語簡にして意深く」と絶賛され<下の句>を作る者が続出するなど流行語になった。さらに後日談がある。小勝は熊本城内の陸軍病院で治療を受けて回復すると日奈久温泉で湯治した。西南戦争が起こると他の女性たちと熊本城に籠城して負傷兵を看病した。これが評判になり錦絵や講談、都々逸に取り上げられた。まさに<怪我の功名>と言うべきか。

*1929=昭和4年  「暗黒の木曜日」といわれたウォール街の株式大暴落が起きた。

壊滅的な株式下落は翌日の金曜日、さらに翌週の月曜日、火曜日と4段階にわたり続く。株式取引所の周辺は不安におののく人の群れがあふれ警備のために警官400人以上が動員されたことでも異様な雰囲気を醸し出した。株は連日売られ、一日で千三百万株が売られる大暴落になった。この週だけで破産した株屋が10人以上も自殺し、アメリカ初の株価大暴落は世界を揺るがしていった。

ニューヨークは世界の大都市に仲間入りし、ウォール街は世界の指導的金融センターのひとつになっていた。これに先立つ<狂騒の20年代>といわれた10年間は<富と過剰の時代>が続き、繁栄に酔いしれた人々は一夜成金の夢を追い、投資の危険性を危ぶむ声が何度も上がったにもかかわらず株投資に狂奔するばかりで誰も耳を貸そうとはしなかった。しかしたった一日で強気相場の楽観論と金融上の見せかけ利益は雲散霧消した。

株式の下降はさらに1カ月以上も続く。「20世紀最大の財政危機」ではあったが実体経済の変動とはずれがあったから続く世界恐慌に直接影響したのかについてはいまも議論がある。むしろ株式投資に失敗した多くの金融機関が破たんに追い込まれることで金融システムが崩壊したことが恐慌の直接の引き金になったとされる。やがて生産力そのものも低下し所得の不均衡や金融制度の不備が歪んだ経済状態を作り出していく。33年まで株価は下がり続け農業は崩壊、工業生産は止まり輸出超過の国際収支から大恐慌が確実に世界を覆って行くことになる。独立戦争に次ぐアメリカの悲劇とされる。

*1953=昭和28年  国会議事堂に滋賀県から運ばれた近江牛11頭が並んだ。

この日午前、3台の装飾トラックの荷台に油単(ゆたん)という派手な肩覆いを垂らし、紅白の腹帯を巻いた大きな近江牛を乗せて銀座通りをパレードした。松阪牛と神戸牛が首位を競っていた首都の肉牛商戦に割って入ろうという近江肉牛協会の宣伝作戦でトラックは日比谷通りから国会議事堂に向かった。玄関前に11頭が<整列>すると滋賀県選出で衆議院議長に就任していた堤康次郎が公務の時間を割いて現れ、1頭ずつの首にレイ=花輪をかけて回った。

国会への<牛の表敬訪問>など前代未聞のできごとだったから新聞カメラマンも多数待ち構えたが堤たちは空を見上げる。やがて飛んできたのはチャーターしたセスナ機で大量の小さなパラシュートがゆらりゆらりと落ちてきた。それぞれに30―50匁(約113―190グラム)の牛肉包みが取り付けられていた。セスナ機は新宿上空からも<牛肉のパラシュート>を投下した。用意されたのは約300包で新聞には「空から近江牛、都民のドギモを抜く」「拾った人は大はしゃぎ」などと報じた。これとは別に戦災孤児を収容していた都内の各孤児院には肉牛1頭分がプレゼントされたから子供達も大喜びだった。

堤は西武デパートやプリンスホテルなどの総帥だったから郷土が生んだ近江牛のPRには特に力を入れ、西武デパートとプリンスホテルの牛肉はすべて近江牛だった。こうした宣伝効果もあって近江牛の知名度も上がり、三越、松坂屋の売上トップが松坂牛なのに対抗して西武、高島屋、大丸、白木屋では近江牛がトップに滑り込んだという。

“10月23日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年3月31日 22:47

*1629=寛永6年  徳川幕府は京・大阪・江戸における遊女歌舞妓の興行を禁止した。

戦国時代の終わりに京で始まった出雲阿国(おくに)の「歌舞妓踊り」が一世を風靡した。阿国の興行は「異風なる男のまね」とされる。江戸時代初頭にかけて阿国を模倣して多くの一座が生まれ大都市だけでなく伊達藩の仙台などの城下町や港町、鉱山町、門前町でも興行が行われた。佐渡島正吉、村山左近、岡本織部、小野小太夫、出来島隼人、杉山主殿、幾島丹後守と『慶長見聞集』に残された名前はどこかの大名のようだがすべて人気女役者である。男装して面白おかしく舞い、新しい楽器の三味線などを弾いて歌などを披露した。

「かぶき」は「<歌>い<舞>う芸<妓>」からとった歌舞妓が変化したとも、異風の傾(かぶ)く風俗からきたとも。出来島隼人一座は21年前の1608=慶長13年にも家康よって駿府=静岡から「淫佚(いんいつ)である」として追放された。言い換えると<卑猥>あたりが適当だろうが人気役者の興行には数万人が集まり見物客の争いが絶えなかった。女歌舞妓追放では遊女が芝居に出演することや女舞い、女歌舞妓、女義太夫まで全面禁止となった。江戸から<追放>されたのは座を代表する「おしょう=和尚」と呼ばれた太夫30人、その他も百人に及んだ。これ以後は遊里の踊りなどで細々と伝えられ、代わって男役者が演じる「若衆(わかしゅ)歌舞伎」が人気になっていった。

寛永年間は三代将軍家光の時代だが駿府時代の家康にしても民衆のエネルギーはたちどころに不満のはけ口や権力批判として<暴発>することを防ごうとしたとはいえまいか。

*1889=明治22年  東京・熱海間に電信線が開通した。

20年前の横浜までに続いてようやく熱海まで開通したが当時の人々にとっては電線一本で相手に信号などの情報を伝える「電信」という通信手段がどうしても理解できなかった。弁当持参でやってきて空中の電線とにらめっこし「手紙はまだ通らないのか」といぶかしがった笑い話などが残る。
戦後、逓信省が郵政省と電気通信省に分割されたことから電気通信省独自の記念日として制定され長く電気通信記念日とされていたが1956=昭和31年に「電信電話記念日」に改称されたというのが豆知識。

*1669=寛文9年  最後のアイヌ民族蜂起「シャクシャインの乱」が松前藩の謀略で終結した。

シャクシャインはシブチャリ=現・日高支庁・静内(新ひだか町)の首長だった。伝説では三人兄弟の長男。「体駆巨大、容貌魁偉で走ること飛鳥の如し」とされ、静内の染退(しぶちゃり)から登別までを一日で往復した。片道でも百数十キロあるから話半分としても相当な健脚には違いない。

蜂起に加わったのは太平洋岸の白糠=釧路市と日本海岸の増毛を結んだ北海道の西半分に住んでいた「シュムウンクル=西の人」と呼ばれた集団である。直接の原因は同じ日高の首長ウトマサが交易に出かけた松前城下で急死した。これを知ったシャクシャインは毒殺されたのに違いないと激高した。背景には交易を巡って松前藩がこの年、物々交換の比率を極端に下げたのと積もり積もった松前藩の暴力的支配があった。反旗を翻したシャクシャインは各地に檄を飛ばす急使を走らせた。

「松前藩の非道は日を追ってひどくなっていく。和人はいまやわれわれアイヌ同胞を全滅させようと策略を企てている。ウトマサ毒殺が何よりの証拠ではないか。われわれを殺してこの大地を奪い取ろうとしているのだ。いまこそアイヌ同胞は立ち上がらねばならない。松前に攻め入り和人を一掃しなければゆくゆくはひとり残らず殺されるぞ。命をかけて立ち上がれ、武器を取って!」
奥地に入っていた和人の砂金掘りやタカを捕まえる鷹とり、やってきた交易船を襲った。死者は太平洋岸の各地で百数十人、日本海側で百五十人以上とされ、交易船も20隻近くが襲撃されるなど緒戦はシャクシャイン軍が優勢だった。松前を攻めたのは約2千、対する松前軍は半分だったが山刀や槍に弓矢だったシャクシャイン軍に対し、鉄砲などの火器で持ちこたえた。季節はやがて厳しい冬、長期戦になると援軍があるといっても松前軍は圧倒的に不利だった。

再三の和議申し入れに耳を貸さなかったシャクシャインだったが息子のカンリリカの勧めもあって総勢16人で城下に入り松前藩側と和議の条件をやり取りした。一行はそのまま引きとめられ和議の酒宴につく。酒が回ったところで隠れていた討伐隊がいきなり彼らを襲いシャクシャイン以下14人が惨殺され2人が捕虜にされた。宝物の大小の刀をはじめ武器を差し出して一同は丸腰だったからさしものアイヌの英雄もひとたまりもなく酒席は一瞬にして血で染まった。

「寛文蝦夷蜂起」とも呼ばれたこの乱以後、松前藩はアイヌの各首長に再び抵抗するようなことがあれば「神々の罰を蒙り子孫まで絶え果て申すべく候」という約定を結ばせている。ここにいう神々はアイヌの神=カムイでないことは明らかで露骨で不平等極まりないものだった。