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池内 紀の旅みやげ(45) 大黒さま恵美須さま──福島県柳津

  • 2014年9月22日 17:14

ふつうは「柳津(やないづ)の虚空蔵(こくうぞう)さま」。正式には円蔵寺の福満虚空蔵尊といって、日本三虚空蔵の第一だそうだ。
只見線の会津柳津のすぐ近く、開基が大同二年(八〇七)というから、とてつもなく古い歴史をもっている。只見川と柳津の町を見はるかす山腹にあって、石段をのぼっていくと、悠大な景色がひらけてくる。
虚空蔵を祀るのが七日堂、またの名が菊光堂で、毎年一月七日に催される「裸まいり」は有名だ。ふんどし一丁の男たちが午後八時の太鼓を合図にお堂に殺到して、押し合い、もみ合いして先を争い、天井から下げられた太い麻縄をよじのぼる。無事梁の上までのぼると、願いごとが叶えられる。外は雪と氷でも、堂内は男の熱気でムンムンする。
こちらが出かけたのは、季節外れの週日で、ほとんど人がいなかった。すぐ前の只見川がやけに広いのは、下流にダムがあって水がせきとめられるからで、水深のある湖のようだ。菊光堂は文政十三年(一八三〇)の再建というが、桁行十六間、二重大唐破風というつくり。実に堂々として、なんとも豪壮である。どうやって急な山の斜面に巨大な柱や梁を持ち上げたものか。薄暗いお堂に裸まいりの名残らしい太い縄が垂れていた。
円盤形の鐘一面に彫り物がしてあって、ロープを打ちつけると鈍い音がする。正面といわず、柱と言わず、一面の千社札がはりめぐらしてある。お堂が大きいので、拝殿の奉納絵馬もグンと大きい。畳二枚ないし四枚分もありそうなのが天井近くに掲げてある。安永といえば一七七〇年代だが、黒ウルシの大板に金と白と紅で龍が描いてある。金がややくすんだほかは、白、紅とも昨日色づけしたように鮮明である。絵馬職人が定番の龍王を描いただけだろうが、長い胴、カッと口をあけた頭、尖った牙、鋭い鉤爪。構図が大胆で、シュールな絵のようだ。
五条の橋の上の義経と弁慶では、義経が欄干に片足立ちして、目玉をひんむいた弁慶がナギナタを取り落とした一瞬を絵にしており、迫力ある躍動感がみなぎっている。
福満講という信者のグループがあって、支部が何十周年かの記念額を奉納した。名前だけではつまらないという声が出たのだろう。羽織袴に着飾った男衆がゆっくりとお詣りをするぐあいに描かれている。先頭は白髪の長老格で、杖をつき、やや背中が曲がっている。髪はオールバックか七三だから、明治になってからだろう。絵師は人それぞれ、また羽織の紋まで描きわけるのに苦労したのではなかろうか。

イヨッ! ご両人!待ってました。恵比須さまと大黒天さま 表情がなんともいいですねぇ!

イヨッ! ご両人!待ってました。恵比須さまと大黒天さま 表情がなんともいいですねぇ!

上に気をとられていて、首が痛くなった。首筋をもみながら視線をもどしたとたん、満面笑みをたたえた顔と出くわしてギヨットした。太い円柱の横にかくれぎみだが、おなじみの七福神のご両人、大黒さまと恵比須さま、大黒天は俵に乗り、恵美須神は足を組んで腰かけたかたち。両名ともほぼ同じ高さで並んでいる。大黒が右手に打出の小槌、恵美須が釣り具とタイをかかえた姿はおさだまりのとおり。

俵に乗って、打ち出の小槌を持った姿は豊かな表情とともに微笑ましい大黒天。

俵に乗って、打ち出の小槌を持った姿は豊かな表情とともに微笑ましい大黒天。

釣り具と獲物の鯛を抱えた恵美須さんのなんとも嬉しそうな顔。つりこまれて、こちらもニッコリしたくなる。ゆったりと大らかな気持ちが自然にわいてくるよう。

釣り具と獲物の鯛を抱えた恵美須さんのなんとも嬉しそうな顔。つりこまれて、こちらもニッコリしたくなる。ゆったりと大らかな気持ちが自然にわいてくるよう。

一本から彫り出し、ポッテリとした福耳、ゆったりしたお腹、衣服紋、そして福々しい笑いを彫りつけた。よほどの工匠とみえて、全身、細部、表情、どれといわず大らかで自然なつくりで、こちらもついニッコリして頬っぺたや耳たぶを撫でたくなる。ながらく諸(もろ)びとに撫でられてきたのだろう。耳と頬とお腹と小槌と魚がテラテラして光っている。大黒天の足下の俵には金袋がつまっているようで、これも撫でまわされてテラテラ。一般にリチギにお寺参りして福を願うような人は金袋に縁がないものだが、これだけみごとな福の神さまに対面すると、信心のお返しがあるような気がしてくる。
ベランダ状の大きな縁に立つと、夕陽が川面を染めていた。無数の三角波がキラキラと輝いている。かたわらのじいさんによると、水深のある魚淵にはウグイがいるそうだ。ハヤともいうし、生殖期になると腹に赤い線が出るところからアカハラともいう。体長三十センチもの大きいのがウジャウジャいるが、天然記念物なので釣れない。近くの温泉に泊まると、塩焼きが出るそうだ。お膳のハヤは天然記念物ではないらしい。
しも手に柳津商工会の歓迎のアーチが見える。かなり古びているが墨の雄渾な字体で「夢心」「末廣」「蛍川」などがアーチの上で躍っている。虚空蔵さまの町は地酒の里でもあるらしい。

【今回のアクセス:会津若松から只見線で約一時間。会津柳津下車、徒歩五分】

池内 紀の旅みやげ(44)名寄教会─北海道名寄市

  • 2014年8月20日 16:25

北海道を道南、道東、というぐあいに、方角によって区分したりするが、道北は北の果て稚内を頂点とする三角であって、名寄(なよろ)市はそのエリアの中心都市である。古い世代は大相撲の名寄岩でなじんだものだ。「老雄名寄岩」といったのは、四十をこえ、髪が薄くなっても土俵に上がったからだ。あだ名が「怒り金時」で、にらみ合うほどに、まっ赤になり、形相ものすごくブチかました。ただし、土俵を下りるとやさしいおじさんで、とりわけ子どもたちに人気があった。ほんのしばらくだが、大関までいったと思う。「名寄岩物語」といって映画にもなった。さして恵まれないからだで、努力一筋の関取として、人気の点では横綱だった。
そんなことを思い出しながら、駅前通りをブラブラ歩いていった。名寄岩の銅像があるらしいが、「まちなかマップ」には出ていない。「怒り金時」を覚えているような人間の骨董品は、お呼びではないのかもしれない。
北海道の町の特徴だが、道路がきちんと碁盤目につくられていて、見通しがいい。「名寄第一電気館」の標識につられて右に折れた。まっすぐのびた道路は人っこひとりいなくて、遠近法の原理にともない、目のとどく先っぽが一つの点になっている。名寄は明治三十年代に町づくりがはじまったそうで、主に山形、福島、富山からの開拓団が入った。当時、道北の原野は一面の深い森で、まず木材業が基幹産業になった。名寄岩は少年のころ材木運びをしたので、それで足腰が強くなった。
「電気館」というのは初期の映画館につけられた名前である。うれしいことに名寄には、それが残っている。稚内に映画館ができるまでに、ながらく日本最北の映画館と称したらしい。「第一」というのは映画産業華やかなりしころ、ほかにも電気館があったからだろう。現在は第一のみで、「仕事は快速、恋は各駅停車、旅するハートフル・コメディ」を上映中。
手づくりの看板のキャッチコピーがどこかしら懐かしい気がするのは、いかにも正統派のつくり方で、映画好きの館主は、もしかするとわれらと同輩の骨董組かもしれない。駅から離れているのに、ビジネスホテルが一つ、二つとあらわれた。北海道では車がメインの乗り物であるからで、駅前につくる必要はない。とするとアメリカ式のモーテルが発達しそうなものだが、日本人は機能一点張りではなく、たとえビジネス用であれ、「展望風呂付き」といったのが好みに合うようだ。
もういちど碁盤目を右に折れると市役所のわきに来た。市民会館の向かいの木立の中に、シャレた建物がのぞいている。西田直治郎といって、当市きっての木工場の共同経営者だった人が大正十一年(一九二二)に建てたとある。和洋折衷で、イギリス積みのレンガと、ドイツ風片流れの屋根、そこに和風が巧みに組み合わせてある。

北国の名寄市に立っている明治時代の「名寄教会」いい雰囲気ですね。おとぎばなしに出て寄贈。

北国の名寄市に立っている明治時代の「名寄教会」いい雰囲気ですね。おとぎばなしに出てきそう。

そこからすぐのところだが、市立図書館の向かいに、ひっそりと名寄教会の会堂が控えていた。こちらはさらに古く、明治四十二年(一九〇九)の建築。しっかりした木造りで、正面は切妻破風、上が丸いタテ長の窓。ポーチ状の玄関の天井に鐘が二つ吊るされていて、ためしに綱を引くと澄んだ音を立てた。
「どなたでもおこしください 牧師 R・N・ウィットリー」
日曜の礼拝には、二つの鐘が軽快に打ち鳴らされるのだろう。木工場経営者たちを中心にしたキリスト教徒の寄付でできたという。原野を切り開いて基幹産業を確立するにあたり、仏教ではなくキリスト教精神が大きな支えになったことがみてとれる。教会であれば宗教活動のセンターだが、講演会や講習会にもあてられたのだろう。半地下の構造で、教会とホールを合体させたスタイルになっている。濃いグリーンの壁に赤い屋根。赤レンガの煙突が美しいアクセントをつくっていた。

名寄教会の中の鐘。自分で引いて撞けるというのはなんだか不思議な気分になりそう。

名寄教会の中の鐘。自分で引いて撞けるというのはなんだか不思議な気分になりそう。

「怒り金時」は、このような風土のなかで成長した。ブチかまして押す戦法をリチギなまでに守っていた。だからはたかれたりすると、あっけなく倒れたが、それでも自分の戦法をつらぬいた。子どもたちはそれなりに見るべきところを見ていたわけだ。
駅にもどる道筋で、名寄新聞社の建物に行きあった。北海道は北海道新聞一色と思っていたが、地元の小新聞社が頑張っている。小さな二階建てながら、近年に新築されたとみえてデザインがシャレている。しばらく足をとめて、しみじみとながめていた。
若いころはジャーナリスト志望で、新聞社の就職を考えていた。それも全国紙でも県紙でもなく、いわば「町の新聞」にあたるもの。記者・営業マン合わせて十人か、せいぜい二十人でやっている。現在は知らないが、当時は各地にそのタイプの新聞社があった。明治の自由民権のころに創立された由緒ある新聞もあって、きちんとした主義主張をもち、土地にしっかり根を下ろしていた。ヨーロッパでは今もそれが主流で、発行部数三万なり五万なりがおおかたである。何百万もの部数をかぞえるのは、スポンサーつきの御用新聞か、ハダカとスキャンダルが売り物系ときまっている。
そろそろ就職を考えだしたころ、小新聞社から会社概要を取り寄せたりした。北海道と信州をねらっていたのは、住みたいところと考えたからで、おおかたは旅行気分だった。リンゴの実る町で新聞記者になり、リンゴのような頬の娘と恋愛をして、腕を組んで散歩する──その程度の就職志望であって、おもえばノンキな時代だった。

【今回のアクセス‥名寄教会まではJR宗谷本線・名寄駅から徒歩十分】

池内 紀の旅みやげ(43)江戸の掘抜──山梨県河口湖

  • 2014年7月18日 15:56

大きな川や湖には水量を示すスケールが立てられているものだ。専門用語でどういうのか知らないが、目盛りを刻んだ細い板であって、大きな物差し状のものが水からスックと突き立っている。
ときおり、そのタテの標識版に小さな横板がついている。洪水や増水のときの異常水位を示すもので、利根川などには何本もの横板がついており、洪水常習地帯だったことを伝えている。
これは河口湖のもので、上の横板には「昭和十三年洪水高3・07m」、下には「昭和十年洪水高2・50m」と記されている。数字上はたいしたこととも思えないが、見上げる横板の高さよりして、そこまで満々と水があったと思うと、ただならぬ風景だったにちがいない。

河口湖の水量計。

河口湖の水量計。

それ自体は何でもない標識だが、まさにその水量をめぐり、二百年近くに及んで汗と血をしぼるような土木工事が行なわれたことを思い出すと、様相が大いにちがってくる。
歴史の本には「河口湖掘抜(ほりぬき)」として出てくる。河口湖畔の船津から、山一つ向うの赤坂までトンネルを掘り、水を送ろうというのだ。湖畔の村々は毎年のように洪水で苦しんでいた。一方、山向うの新倉村は水に乏しく、こちらは旱魃に悩まされた。
立ちはだかる山を動かすことはできないが、水を通す穴を掘ることはできる。一本の隧道が治水と水利の効用をもち、二つの苦しみを一挙に解決できる。
元禄三年(一六九〇)、郡内領主秋元但馬守喬和(たかかず)の命により、全長約四キロに及ぶ掘抜き工事が始まった。道具といえばせいぜいのところ鶴嘴(つるはし)や石鑿(いしのみ)ぐらいで、クワとモッコが補助をする。堅い岩盤は「焼堀り」といって、その上で火を燃やし、石質を軟化させてから崩していった。煙の処理のために竪穴を掘った。竪穴は土砂の搬出や、進路の確認のためにも必要で、深さ四メートルから二十三メートルに及ぶものが計九本つくられた。
取水口と出口の双方から掘りすすめ、中で合わさるはずが、当時の測量技術のせいだろう、隧道は大きな食い違いをみせて合わさらなかった。
期待が大きければ、落胆も大きい。隧道熱は一挙にさめて、以後、放置されていたが、弘化四年(一八四七)、工事再開。部分的に旧隧道を改修しつつ新しく掘りすすめ、六年後についに完成。悲願の通水をみた。しかしながら水位の見つもりに計算ちがいがあったとみえて、水量に乏しく、増水対策、開田のいずれにもさほど効用をみせてくれない。文久三年(一八六二)、みたび工事にとりかかり、三年後に完了。ようやく大量の水が湖から山向うへと送られて新田を誕生させた。着工から数えると一七〇余年後のことだった。元禄年間のことがほとんどわからず、弘化以後の記録だが、総工費一二〇〇〇両、総労役のべ一〇余万人とある。もっぱら人海戦術で土木史上に珍しいトンネル工事をやってのけた。
現在の船津は河口湖遊覧船発着所であって、小公園、土産店、旅館が並んでいる。天皇お泊まりの由緒を誇る河口湖ホテルもすぐそばだ。冨士レークホテル、山梨宝石博物館、「湖上の女神」、河口湖ハーブ館……。誰もがリゾート地の観光に忙しく、掘抜工事の由来などには関心を抱かない。観光地図には、華やかなエリアの中の一点のシミのように「河口湖新倉掘抜史跡館」とある。
富士急の終着河口湖駅のやや東かたに「新倉」の三叉路がある。しかし、そこから船津までは一キロたらずであって、旱魃で苦しんだ旧新倉村ではないだろう。史跡館のあるのは船津三叉路から湖に出る手前、旅館街の入口の山沿いで、黒々とした溶岩のかさなり合う斜面にポッカリと穴が口をあけていて、中に石仏が祀られている。すでに地形が大きく変わってしまって、取水口がどこにあったのかも判然としないが、石仏のある穴は掘抜の一部にちがいない。
かたわらの古びた建物の奥まったところに、通り側とは別の入口があって、「日本最長手掘トンネル 河口湖掘抜史跡館」の看板があって、「入館料 大人500円 小人300円」。しかし、入口にはさびついたシャッターが下りていて、看板自体も放置されたぐあいなのだ。開館時間が黒く消されており、史跡館というよりも正確には「史跡館史跡」というべきものかもしれない。

日本最長手掘トンネル河口湖掘抜史跡館の史跡ですか?

日本最長手掘トンネル河口湖掘抜史跡館の史跡ですか?

冨士五湖のうち、河口湖は賑やかだが、一つ西の西湖はもの静かな湖である。南には広大な青木ヶ原の樹海、北は十二ヶ岳をはじめとする山々。先だって周遊バスに乗って西湖を一周してきた。そのあと、気になったので船津で下りて、数年ぶりに「掘抜史跡館」の前に佇み、黒々とした石の重なりと、ポッカリと口をあけた穴をひとしきりながめていた。
前代未聞の土木工事は噂をよんで、工事現場には連日、多くの見物客がつめかけていたのではなかろうか。風雲急を告げる幕末にあって、風光明媚な湖畔の山で、フシギな隧道工事が進んでいた。当事者は神に祈る思いで見守っていたのかもしれないが、民衆には多少とも風変わりな祭礼である。その点では「日本最長手掘トンネル」の多少ともショー的なキャッチフレーズは、トンネルの一面を要約しているかもしれない。
それはともかく、前近代の土木技術がみせた貴重な成果の一つである。町当局は資料をまとめ、残された隧道を整備して、「水の物差し」にかかわる過去の記憶を、きちんと残す必要があるのではなかろうか。

【今回のアクセス:】富士急・河口湖駅よりゆっくり歩いて十分たらず。河口湖町教育委員会の説明板がある。

池内 紀の旅みやげ(42)涅槃経ミクロコスモス─旧品川宿

  • 2014年6月18日 16:06

用があって都心に出てきて、思いのほか早く用件をすませたときなど、どこかに足をのばしたくなるものだ。中央線沿線に住んでいるので、西の方にはなじみがあるが、東の総武線や、北の王子、浦和方面はまるで知らない。「つくばエクスプレス」と聞くと、一泊で出かけるような遠方の乗り物を思ってしまう。

この日は三時すぎに神田で用をすませた。神田駅近くには午後早くから開いている居酒屋があるが、何となく縄ノレンという気分ではなく、昔風の落ち着いた喫茶店で、香りのいい珈琲を飲み、少し考えごとをしたいと思った。フランチャイズ系のチェーン店ではなく、すわると冷たい水がきて、やおら注文。ジョッキのようなカップにバケツ一杯風のコーヒーではなく、挽きたて、煮だしたてが、店主のこだわりのあるカップで出てきて、口に運ぶと香ばしい匂いが鼻をくすぐりにくる──そんな珈琲。

記憶というのはヘンなはたらきをするもので、とたんに思い出した。京浜急行の青物横丁駅を出たところ.ある女性から交番のすぐわきに「イケウチさん好みの喫茶店」があるとおそわったことがある。二年あまりも前のことで、「わざわざ品川くんだりまでなァ」と思って聞き流した。どこで二年間眠っていて、いかなるメカニズムで甦ったのか、やにわに青物横丁が記憶をかすめた。風変わりな駅名で、ズラリと野菜や果物の店が並んでいるふぜいである。品川経由の京急乗り換え、ものの十五分もしないうちに当の駅に降り立っていた。

交番はすぐに見つかった。すぐわきの「イケウチさん好みの喫茶店」というと……ドアが閉まり、そこに貼り紙がしてある。近年よくあるのだが、この貼り紙というのがイヤなもので、たいていの場合、通いなれた銭湯や理髪店の休業を告げている。時代に合わない世代が通いなれた店は、お店自体が時代に合わず、主人が老齢で、そろそろしおどきということになったケースである。

その覚悟をして、こわごわ近づいたところ、ヤレうれしや、休業のご挨拶ではなく、奥のボイラーが故障したので、取り替え工事のため臨時休業とのこと。喫茶店にボイラーというのも奇妙であるが、古風なつくりの店であって、何かの理由でボイラーがついているのかもしれない。古風なだけでなく、よく見ると、ドアや窓飾りにもこだわりがありげで好ましい。まだ一度も入ったことはないのに、なにやらなじみの店的親しみを覚える。前をウロウロしていると、となりの交番の前に警官がいて、問いたげにこちらをみた。

京急と交叉する通りに「ジュネーヴ平和通り」と標識が出ている。青物横丁がどうして急にジュネーヴになるのか不可解だが、ジュネーヴに似ても似つかぬ通りを行くと四つ辻に出た。こちらはオーソドックスな「東海道」の標識で、おもえば品川は東海道五十三次の一番目の宿場である。京から下ってきた人には第五十二番目で、はるばる来しものかなの思いがしたにちがいない。

右に曲がると品川寺(ほんせんじ)という立派な寺で、古木の下に大きな青銅の地蔵がすわっている。「江戸六地蔵」の一つだそうだ。ジュネーヴから突然、江戸と対面して、頭は了解しても感覚がともなわない。お地蔵さまが夢の風景のように見える。奥に入ると大銀杏(いちょう)がそびえている。樹木も高齢になるとお化けに似てくるらしく、太い幹から乳が垂れて固まったようなものが何本も下がっている。おとなりは閻魔堂で、地獄の大王がハッタとにらんでいる。これまた突然の出現で現実感覚が伴わず、何やら白昼夢を見ているここちである。

しかし、人間はすぐに現実に目ざめるようで、夕方のけはいに居酒屋が恋しくなってきた。「香ばしい珈琲を味わいながら考えごとをする」というのが当初の目的だったと思うが、ボイラーの故障ひとつで思いがけない周遊をした。距離にするとほんの数百メートルだが、青物→ジュネーヴ→地蔵→お化け銀杏→閻魔様ときて、時空間をへめぐった気がしないでもない。さしあたり品川駅に近い吞み屋で、カン酒を手に考えごとをすることにして、しかしよく考えてみると、さして考えごとの必要があるわけでもないのである。

考えごとをするために彷徨った末の光照山真了寺の山門の象さんです。品川区

考えごとをするために彷徨った末の光照山真了寺の山門の象さんです。品川区

気持ちがふっきれて身が軽くなった。同じ道はつまらないので、ジュネーヴを通りから一つ先の小路づたいに京急駅へ向かっているとフシギな門に遭遇した。青銅づくりで鳥居のかたちをしているが、横木にあたるのが三本ある。左右の柱には頭に飾りをつけた象が長い鼻をのばしている。その上に仏がいて、さらにその上にバクのような動物や、極楽鳥がレリーフ状に刻まれている。「光照山 真了寺」と金文字が入っているから、寺の山門にあたるのだろう。

品川宿の古刹・真了寺の不思議なブロンズの山門。めぐる輪廻の世界があるのですね。

品川宿の古刹・真了寺の不思議なブロンズの山門。めぐる輪廻の世界があるのですね。

内側はカラーつきで、蓮の花が咲き乱れ、羽衣をひるがえして無数の天女が舞っている。上に立て琴のようなのが二つ乗っていて、これが奏でる楽音につれて天女が舞い、天界から霊が下りてくる趣向のようだ。あまりに突飛なので、再び現実感覚がともなわず、しばらく、ボンヤリとブロンズ門の下に佇んでいた。

確かダンテの『神曲』地獄篇には、「この門をくぐる者は希望を捨てよ」といった意味のことが刻んであったが、幸い品川の門は、そんな邪険なことはいわない。慈悲の涙を流しているように見える。涅槃(ねはん)経がどういうものか知らないが、万物が哀しむとき、象もまた涙を流すと聞いた。何でもありのニッポン国五十三次旧宿場の外れで、ありがたいお経のミクロコスモスを一巡したぐあいである。

【今回のアクセス:京急・青物横丁下車、二十分でゆっくり一巡できる】

池内 紀の旅みやげ(41) 血の素─三重県関

  • 2014年5月20日 14:57

名古屋で関西本線に乗り換えた。桑名、四日市、亀山。次の関(せき)で下車。坂道をのぼっていくと十字路に出る。とたんに二十一世紀が十九世紀に逆転したような町並みに入っていた。

「関の地蔵さま」で知られた旧宿場町で、東海道五十三次の四十七番にあたる。その点では五十三のうちの一つにすぎないが、ここがユニークなのは、旧の町並みの大半がそっくり残っていることだ。だから「展望台」と呼ばれるちょっぴり背の高い建物から眺めると、古い瓦屋根がかさなり合って、うねうねとつづいている。奇妙な黒い二筋道が、ゆるやかに湾曲してのびている。

よく観光ポスターなどで歴史的な家並みを見かけるが、たいていは写真のマジックで、実際に訪ねてみると、ほんの何軒かがチラホラとあるだけ。すぐ隣りはコンクリートやプレハブや合板づくりである。そのほんの数軒も、あれこれ手を入れて観光の目玉にしたまでのこと。その点、伊勢の関宿はまるきりちがう。歴史的家並みが現代にそのまま生きており、連子格子の奥で美容院が営業している。魚屋、野菜・果物店、米屋、酒屋、雑貨店……。いずれも暮らしに必要な商店である。重厚な白壁の店内にドコモの製品が並んでいる。どうしてこれほどみごとに町並みが残されたのだろう?

首をひねりながらノンビリと歩いていった。何軒かごとに参道がひらけて、奥に寺や神社がある。よそ者にはわからないが、組みなり隣保なりの単位があって、それぞれの小さな共同体を氏神さまや「お寺さん」が守っている。南に国道が走っていて、旧道を往き来するのは暮らし用の車だけ。ほぼ中央の地蔵堂と前の広場が宿場町コミューンのヘソにあたるのだろう。そこから西の家並みが小振りになる。大工、石工、指物師などの職人衆のエリアだった。現在も工務店の名入りの軽トラが軒先にとめてある。

「アレレ……」

「補血強壮ブルトーゼ」なんだか随分元気になりそうな看板です。

「補血強壮ブルトーゼ」なんだか随分元気になりそうな看板です。

おもわず足がとまった。まっ赤なBlut(ブルート)が目にとびこんできた。ドイツ語で「血」の意味であって、たしかに血のように赤い。「補血強壮・ブルトーゼ」。薬屋のガラス戸に張り出されている広告。ポスターのデザインは、大正時代から昭和初年に流行したアール.デコ調で、そのころの商品と思われる。いつの時代にも体力の衰えをクスリで回復したい中高年がいるもので、そのための強壮剤である。「味の素」が登場したころであって、とすると血の素があってもおかしくない。

神社の縁側でミカンを食べながら小休止。ことのついでに裏通りを探訪してわかったが、旧の家並みはウナギの寝床のように細長くて、裏手は畑につづき、野菜や果樹がうわっている。そこは宅地にもなるわけで、日当りの悪い表通りの家は表札だけにして、日常の生活は裏の新宅といったケースが少なくないようだ。表札と暮らしを二本立てにすれば、古い住居を壊さずにすむ。

しかし、そうはいっても暮らしにくさにねをあげて、住みいいのに建て換えたい人が次々と出てきたはずだ。昭和四十年代に始まる日本経済の高度成長のなかで、瓦屋根、土壁、格子戸の建物は惜しげもなく打ち壊されて、安っぽい新建材のものがとってかわった。日本の町の景観は、この時期を境に一挙に醜くなった。

かつての関宿で知られた旅籠が記念館になっており、そこの展示で知ったのだが、やはり先覚者がいた。昭和初年にはやくも関町の古さを生かす提言をした人がいる。世の発展から取り残されたように思っていた町民に、この古さこそ貴重である旨を説いてまわった。日本全国が「所得倍増」に浮かれだし、何であれ古いものを毛嫌いして新しいものにとびついたころ、再び古い町並みの意味を説く人があらわれ、グループが形成され、町に働きかけて景観条例をつくるまでになった。日本中が打ち壊しに走っているただなかで、古さを生かした町づくりは勇気のいることだったのではなかろうか。セメントとコンクリート組にアナクロニズムだとせせら笑われたにちがいない。

瓦屋根が続く、ゆるやかな波のうねりのように、家を被いつくして緩やかな波はどこまでも人の住まいを、大事に守っているのです。

瓦屋根が続く、ゆるやかな波のうねりのように、家を被いつくして緩やかな波はどこまでも人の住まいを、大事に守っているのです。

よく見ていくとわかるが、単に古いままではないのである。「血の素」の広告のように、過去の記憶を封じこめたような小物(こもの)を装飾として配置する。暮らしのための改良、補修には伝統とマッチする工夫をほどこしていく。どうしても現代の家屋を主張する人には、建物を奥に引くかたちにして、通りに面したところに古さをデザインした塀をつくってもらう。住人の数ほど注文はあるだろうが、ねばり強く話し合って解決していけばいいのである。関町の景観がここちよいのは、住民自治の精神が支えになっているからだ。

地蔵堂の階段で、涼しい風に吹かれていると、杖をついた老人がヨチヨチやってきた。どこから来た、何しに来た、どこへ行く、と警官が尋問するように問いただされた。

「日本の中心を知っているか?」

「血の素」を愛用したような血色のいい顔。長寿眉の下で、目がギョロリとにらんでいる。東京と言いかけ口ごもっていると、やにわに杖でドンと階段を叩くなり、「ここだ、関だ」としゃがれ声で言った。それが証拠にここを境にして、東を関東、西を関西というじゃろう──。

言われると、そんな気がしたので、「なるほど」とうなずくと、じいさんは満足げに回れ右をして、またヨチヨチと歩いていった。

【今回のアクセス‥関西本線関駅より徒歩約十分】