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“12月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1892年  フランス革命の分岐点となるルイ16世に対する政治裁判が始まった。

とはいってもすでに一市民ルイ・カペーになっていたから元国王だったが。ジロンド派(党)はこれ以上の弾劾は必要なしとしていたが山岳派(党)はサン・ジェストの「人は罪なくして王たり得ない」という言葉に代表されるように在位中の<裏切り行為>をあげつらい極刑を要求した。

両派の争いは翌年に持ち越されたがジロンド派の必死の工作もむなしく1月20日に死刑宣告が下った。ルイの言葉は「私は罪なく死ぬ。私は敵を許そう。不幸な人民よ!」だった。翌日、刑が執行されるがフランスはこれ以降、過激派の恐怖政治がはびこることになる。そして裁いた者たちも暗殺され、裁判で死刑になった。国外に追放されたあとでも常に暗殺される危険もあるなど悲惨な最期が待っていた。

*1722=享保7年  幕府が江戸に設置した無料医療施設の小石川養生所ができた。

八代将軍吉宗と江戸町奉行大岡忠相が行った「享保の改革」のひとつである。<赤ひげ>と呼ばれた小石川伝通院前の町医者小川笙船が医者にもかかれず死んでいく下層民の苦しみを見かねて設置を「目安箱」に投書した。これが吉宗に届き忠相が設立の検討を命じられて現在の小石川植物園の場所にあった小石川薬園の中に建設された。長屋風の平屋の建物で2カ所の薬膳所が作られた。建設費は金210両余で与力、同心ら20人、医師は笙船父子をはじめ7人が治療に当った。緊急時には近くに住む藤堂、三宅両家のお抱え医師も応援させることで40人を収容した。

歩行できるものは自ら訪ね、それが出来ない者は親類や名主が代参したり連れてくることで治療期間中は飲食、衣服、寝具に至るまで支給した。当初は薬草の実験台にされるなどとささやかれたりしたのはここの医師たちはいずれも漢方医だったからでもある。後年になると町医者が登用されるようになるが、一方では長崎で学んだ蘭学派が町医者にも広がるようになる。そうした背景を描いたのが山本周五郎の『赤ひげ診療譚』とはいえまいか。

これを映画化した黒澤明監督の『赤ひげ』(黒澤プロ、1965)で説明すると赤ひげこと三船敏郎の新出去定(にいできょじょう)は漢方医、ここに配属されたのが長崎でオランダ医学を学んだ加山雄三演じる青年医師・保本登だ。「病気の原因は社会の貧困と無知によるものでこれには治療法はない」というのが口癖の赤ひげは、自ら日々、貧乏人と接し黙々と医術を施していく。

赤ひげはさらにつぶやく。「医が仁術だなどというのは、不当にもうけることを隠ぺいするために使うたわ言だ」と。二人が多くの軋轢を繰り返しながら成長していき幕府への仕官を断った保本に新出は養生所の運営を託すことになる。

作品は興行的には成功しながら完璧主義の黒澤は2年がかりの撮影で経費をかけ過ぎ、資金調達のために抵当に入れていた自宅を売却した。三船はこの作品でベネチア映画祭の最優秀男優賞をとったが黒白作品にもかかわらずひげを赤く染めて話題になりました。

*1888=明治21年  廃藩置県の最後に愛媛県から香川県が分離し1道3府43県が揃う。

香川県は旧讃岐国で松山県と宇和島県が一緒になって愛媛県となったのは旧伊予国だったことも分離につながった。明治元年に江戸が東京になったがそれ以外を対象にした廃藩置県は明治4年に始まった。平安時代から続いた特定の領主が領地、所領を支配する土地支配を根本的に否定するもので明治維新における最大の改革といえる。しかも全国では200万人以上にも上る藩士の大量解雇につながるものだっただけに、軍制とあわせて試行錯誤の連続だった。

当初は藩をそのまま県に置き替えただけだったから3府302県あった。府はそのままに翌年の明治5年には69県、6年60県、9年には35県になったが今度は面積が広過ぎるなどの弊害が問題になって分割の動きが続いていた。まあ色々あって<うどん県>の決断ものびてしまったわけです

*1942=昭和17年  敵性語=英語を使っていた雑誌名が日本語名に改題された。

『キング』は講談社(日本雄辧會講談社)が1925=大正14年から発行していた大衆娯楽雑誌で日本の出版史上初の発行部数100万部を突破したことで<国民的雑誌>といわれた。こちらは『富士』に改題されたがしばらくの間は「キング改題富士」と<抵抗>した。
戦後はふたたび『キング』に戻したが用紙統制などで立ち遅れ一時的に30万部まで持ち直したが戦前の勢いはなく、1957=昭和32年廃刊に。リニューアルした『日本』が『現代』にバトンタッチする形で同社を代表する月刊誌になった。

『サンデー毎日』は直訳して「<日曜毎日>でどうでしょう」と担当者がお伺いを立てたら「バカもの!毎日が日曜日だとは何事だ。海軍は月月火水木金金だぞ」と雷を落とされたというのは冗談。しかたなくライバルの『週刊朝日』と同じように『週刊毎日』にした。以前の『サンデー毎日』に戻ったのは戦後の昭和21年1月から。

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