1. HOME
  2. ブログ
  3. “8月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

“8月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1927=昭和2年  第13回全国中等学校優勝野球大会のラジオ実況中継が始まった。

全国高校野球選手権大会の前身で各地の予選参加の389校を勝ち抜いた22校で争われた。予選参加校が約4千校という現在に比べると十分の一にも満たなかった。2年前に開局した大阪放送局=JOBKは球場を運営する阪神電鉄に野球中継を打診したが「ラジオで放送したら見に来る人がおらんようになるのと違いますやろか」などと心配されて交渉は難航、主催の朝日新聞も巻き込んでようやく実現にこぎつけた。

ところが中継の承認をもらった放送局も野球放送をどうやったものかわからない。アナウンサーでは魚谷忠が局内で唯一野球を知っているというのでとりあえず抜擢したが魚谷にしても「青天の霹靂」だった。たしかに第2回大会で大坂・市岡中学の三塁手として慶応普通部と決勝を戦い2-6で敗れて準優勝した経験はあったがそれは野球選手として。関西学院を卒業後、銀行に就職していたが大阪放送局がアナウンサーを募集しているという新聞記事を見て応募したもののスポーツ担当をめざしたわけではなかった。

アナウンサーへの応募では保証人が必要になり困り果てた。安定した銀行員から転職することを家族に知れたら大反対される。その時に頼んだのはあろうことか銀行支店長だった。魚谷は悩み抜いた末に市岡中学の先輩でのちに高野連会長になる佐伯達夫に相談すると「野球のほうはいいとしてしゃべるのはお前の担当だ」と言われとりあえず解説を引き受けてもらう。最後はいつも誰かが助けてくれる得な性格だったが本番までは不安だった。

記念すべき初放送は札幌一中対青森師範の試合。延長12回の熱戦で札幌一中が勝利したがその第一声は「JOBK、こちら大阪放送局甲子園臨時出張所であります」から始まった。放送では、中学生を対象にして英語と日本語を混ぜて中継することにしたので「セカンド、二塁へのゴロ」とか「打ちました、右翼、ライトへのフライ」という具合だった。

当時の放送記録で再現するとこんな感じだった。
「いまピッチャーがボールを投げます。そら投げました。そらバッター打ちました。あっ大飛球です。センターが、中堅が走ります。そら受けました」という具合だった。「そら」や「あっ」などが多いのは大阪弁をなるべく抑えようという工夫でもあった。
試合が終わると佐伯に全体の総評を頼んだ。

魚谷自身は冷静に試合の状況を伝えようとしたがゲームが白熱して興奮気味になった場面のほうが聴取者に<受ける>ことがわかって来た。選手心理にも詳しかったので必要場面ではそれも入れた。佐伯との講評を交えた野球談議も絶妙で次第に人気を呼んでいった。

ところで<野球通>のアナウンサーは魚谷だけだったから8日間で全21試合をひとりで担当しなければならなかった。中継の途中でニュースや経済市況、天気予報などが入ったもののしゃべりっぱなしだったから野球部出身で体力には自信があり、体調維持を心がけたが準決勝戦あたりからは声がかすれてしまったという苦労話がある。

この年の放送エリアは大阪放送局管内だけだったが、この人気をベースに翌年からは東京や名古屋でも放送が始まった。しかも中継放送の実現で居ながらにして試合の様子が刻々とラジオ電波に乗って伝えられてみると意外にも「放送を聞いて球場で観戦したくなった」という声が相次いで観客が増えて阪神電車の幹部諸氏を安心させた。

*1925=大正14年  イギリスBBCの台本を翻訳した初のラジオドラマ『炭鉱の中』が登場。

小山内薫演出、山本安英らが出演した。当時は映画台詞劇、放送舞台劇、ラジオ劇などと呼ばれたがまだラジオドラマということばはなかった。

冒頭、アナウンサーが「これは炭鉱が舞台ですから電灯を消してお聞きください」と話したので係が東京放送局=JOAKのあった愛宕山から見下ろすと東京の街は闇に沈んでいったという。省エネ・節電の夏に贈る<ほんまかいな>のオハナシ。

*1863年  フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家ドラクロア没、65歳。

代表作の『キオス島の虐殺』は残虐でどぎつすぎると当時のサロンでは賛否が渦巻いた。「絵画自体の虐殺である」という酷評もあったが政府買い上げになった。劇的な画面構成と華麗なまでの色彩表現はルノワールやゴッホなど多くの画家に影響を与えた。1830年の7月革命に材をとった『民衆を導く<自由の女神>』は彼の肖像とともに「旧100フラン紙幣」に描かれアトリエ兼自宅は現在「国立ウジェーヌ・ドラクロア美術館」になっている。

死後、アトリエの作品群の中に「偽アトリエ印」とされるものが見つかったことで<再検討が必要>とされる作品もかなりあることでも知られる。パリの旧市庁舎の「平和の間」の天井画は弟子の作品とされている。作品を所蔵している美術館は悩ましいところだろう。
ドラクロワ死してなお<真贋の森>に君臨す。

関連記事