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“4月12日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1961年  ロシアが世界初の有人宇宙飛行に成功した。

宇宙飛行士第1号となったガガーリン少佐は「地球は青かった」の言葉を残した。
もっとも地球から200キロの周回軌道からの第一声は「私はいま地球を見ている。視界は極めて良好である」だった。記者会見での冒頭の言葉はロシア語での「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」を英訳したときに「地球は青かった」に略されたとも。モスクワ放送は「空は非常に暗かったが、地球は薄青色だった」と伝えた、など諸説ある。ガガーリンの著書『宇宙への道』では「地球はみずみずしい色調にあふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた」と訳されている。

ガガーリンは20人の訓練生の中で最終候補の2人に残った。もうひとりは2番目の宇宙飛行士となるチトフだったが、ボストーク宇宙船は球形で非常に狭かったので、身長が158cmだったガガーリンが選ばれたという。また、打ち上げ時の階級は中尉だったが帰還前に大佐への昇進が伝えられたのは、当時の政府高官が無事生還できない場合を考えたとも。

帰還したガガーリンは一躍、全世界の「時の人」になった。フルシチョフ首相との対面で「宇宙計画を成功に導いたのはロシア共産党の偉大さの証明だ」と激賞したことで大いに気に入られ、宇宙計画先進国ロシアの広告塔として世界中を回り翌年5月にはワレンチナ夫人を伴って来日した。しかし1968年3月、飛行指揮官になるためのミグ戦闘機の訓練中に34歳で墜落死した。

ロシアのジョークにこんなのがある。
宇宙から帰還したガガーリン大佐の歓迎パーティーで
ロシア正教の総主教がガガーリンに質問した
総主教:「宇宙を飛んでいるときに神の姿は見えましたか」
ガガーリン:「周りを見渡しましたが何も見えませんでした」
総主教:「わが息子よ、このことは自分の胸だけにしまっておくように」
しばらくしてこんどはフルシチョフ首相がガガーリンに同じ質問をした
フルシチョフ:「宇宙を飛んでいるときに神の姿は見えましたか」
(総主教のとの約束を思い出したガガーリンは正反対の答を口にした)
ガガーリン:「はい、見えました」
フルシチョフ:「同志よ、そのことは自分の胸だけにしまっておくように」
(レーニン主義は<宗教>を否定しているから)

*1968=昭和43年  柔構造による地上36階、地下3階の高層ビル「霞が関ビル」が完成した。

147mの高さは当時の日本一で、総重量は約10万トン、総容積は約50万立方メートルで、大きな体積を比較するのに東京ドームができるまでは「霞が関ビルの何杯分」という表現が使われた。現在は「東京ドームの何個分」に代わったが<1東京ドーム=2.48霞が関ビル>という。

「霞が関ビル」以後に建てられた高層ビルも次々に解体や建て替えが進んでいるからこちらも<新・霞が関ビル>への計画が進んでいるのだろうか。

*1861=文久元年  ロシア軍艦の「対馬占領事件」が大きな展開を見せ外交問題に発展した。

2月3日から対馬の浅茅(あそう)湾深くに入り込んだロシア海軍の軍艦が引き起こした事件で別名を「ポサドニック号事件」と呼ばれる。ビリリョフ艦長は対馬藩に「荒波で船が破損し、航行できなくなったので修理のために来航した」と主張して勝手に上陸して兵舎や工場、練兵場などを建設した。さらに乗組員らは周辺の測量を行ったり木材を伐採したり、小動物を捕獲して食糧にしたりとやりたい放題で住民との小競り合いが続いていた。対応に苦慮する藩は長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだが回答はなかった。

ロシア側は対馬藩に対して藩主への面会を再三要求し、上陸地点の租借を要求してきた。これを<既成事実>として幕府との交渉を有利に進めようという狙いがあったが対馬藩は使者を派遣して問題解決にあたる姿勢を見せながらの引き延ばし作戦を続けていた。

この日、ロシア兵が短艇で大船越の水門を通過したのを藩の警備兵が制止しようとして銃殺され、郷士2人が軍艦に拉致されてしまう。藩は引き延ばしの<懐柔策>で食糧や塩、薪炭などを与えることをロシア側に申し入れるうち、ようやく幕府の「咸臨丸」で外国奉行の小栗忠順が対馬に到着した。

これで解決したのかというとまだまだ二転三転した。小栗の<対馬を幕府の直轄領>とする案が老中の反対にあい小栗が外国奉行を辞任してしまう。そこにアジアでの権益確保をめざすイギリスが介入してきて国境の島は揺れに揺れ、ポサドニック号がようやく対馬から退去したのは8月15日だった。

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