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“1月19日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1934=昭和9年  エチオピアの王子から「黒田子爵の令嬢・雅子さんを妃に」の電報が届いた。

黒田子爵令嬢とは千葉の旧・久留里藩主だった黒田広志の次女で関東高女卒の当時21歳。朝日新聞で「エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の従弟のリジ・アリア・アベベ王子が妃に日本女性を望んでいる」という記事を読んで両親には内緒で応募したところ第一候補に選ばれた。2月には王子のサイン入り写真も届き、とんとん拍子に話が進むかと見えたが、エチオピアに覇権を伸ばしていたイタリア政府の横槍や、宮内省の<消極的態度>などからとうとう辞退に追い込まれ破談になった。

王子がなぜ日本女性との結婚を望んだかというと皇帝の戴冠式に日本の外交官が出席した返礼に王族メンバーの一員として訪日した際に好印象を抱いたのがきっかけ。イタリアのムッソリーニ首相は日本が日露戦争を引き起こしたことや中国大陸への侵攻などで日本には強い警戒感を持っていたため、イタリアが狙うエチオピアと日本が友好国になることは何としても避けたいという思惑があったとされる。

しかしその後、イタリアと日本は同盟国となったのだからこのロマンスがもし実っていたらどうなったのだろうと思わざるを得ない。

*1915=大正4年  第一次世界大戦下のイギリスをドイツの軍用飛行船ツエッペリンが空爆した。

攻撃目標にされたのはドーバー海峡に面した港湾都市だった。飛行船はさらにロンドンも攻撃したが、速度が遅いため夜間攻撃しかできないのが弱点でイギリスは灯火管制や防空隊の出撃で対抗した。その効果もあって飛行船が次々に撃墜されたことでドイツ軍は翌年には攻撃中止に追い込まれた。飛行船出撃に必要だった爆撃機による制空権の確保が次第に難しくなったからでもあった。

1428=正長元年  青蓮院の僧・義円=足利義教が「くじ引き」で室町幕府の第六代将軍になった。

南北朝の合一を果たし有力守護を抑えて室町幕府の絶頂期を作った三代将軍・義満が没して20年、息子の四代将軍・義持は死の床についていた。5年前には息子の五代将軍・義量に将軍職を譲った。父・義満と同じように実権を手放すことはなかったが義量はわずか2年で早世していた。病は重篤で早急に次期将軍の候補を決める必要があったため僧ながら義持の信任の厚かった三宝院満済が病床を訪ねて真意を聞いた。すると義持は「自分が指名したとしても守護たちが従う気がなければどうにもならぬ」と嘆息するばかり。仕方なく満済はかねてから有力守護と申し合わせていた<神前でのくじ引き>を提案した。それを聞いた義持は「さもあろう(=そうか)」とうなずき、苦しい息で「ならば余の死後に行うべし」と命じると18日に死去した。

その遺言によって石清水八幡宮の神前でくじ引きが行われたのが翌19日であるとされる。候補者は4人、有力守護が居並ぶなかで満済が用意したくじを管領畠山満家が慎重に引くとそれが青蓮院の僧・義円だった。義円はただちに還俗して六代将軍となるが、義持の死の翌日にくじ引きをしたというのは有力守護が臨終の場に集まっていたとしてもあまりにも段取りが良すぎる。今なら京都から京阪電車で山麓の「八幡市駅」まで30分ほどでそこからケーブルもあるが、当時の交通事情では丸一日以上はかかったはずで従者を引き連れてとなると往復するだけでも数日以上はかかりそうだ。

ところで僧・義円とは何者だったかというと義満の4男で義持の弟。異母弟が爵位をうけたことで父の後継者からは外れ、出家して青蓮院に入った。その後は得度して門跡になり天台座主に上りつめたが「天台開闢以来の逸材」として大僧正をつとめた。そうならくじ引きはきわめてキナ臭い。巧妙に仕組まれた<出来レース>だったのではないだろうか。そのため「くじ引き将軍」と呼ばれ、還俗していったんは義宣と改名したが<世を忍ぶ>と噂されて義教に改めたとされる。

この「くじ引き将軍」髪が生え揃うのを待って翌年3月、征夷大将軍になると兄の治世で失墜した幕府の権威を復興させる。勘合貿易を復活して財政基盤を高めると社寺への介入を積極的に進めた。別名「悪御所」「狂乱将軍」とも。少しでも気に入らなければすぐに首を斬ったから<万人恐怖>と形容されて恐れられた。苛烈な政治に反発も強く1441=嘉吉元年6月、招かれた赤松邸で暗殺された。47歳の絶頂での死だった。

*1946=昭和21年  NHK「のど自慢素人音楽会」がこの日から始まり参加希望者が殺到した。

初回の応募者は約900人。人気の曲目は『リンゴの歌』『旅の夜風』『誰か故郷を思わざる』だった。『リンゴの歌』は前年10月にGHQ検閲第一号映画として封切られた松竹映画『そよかぜ』の主題歌で、レビュー劇場の照明係を演じる松竹歌劇団員出身の並木路子が歌って大ヒットした。当時はまだ鐘による途中採点はなく「ハイ、予選通過」「もう結構です」と審査していったが10人以上『リンゴの歌』が続いたというのもざらで「予選通過」の30人を選ぶのも一苦労どころではなかった。

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