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“12月31日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1931=昭和6年  東京・新宿に軽演劇場「ムーラン・ルージュ=赤い風車」が開場した。

新宿駅東口、当時はほこりっぽくて<馬糞横町>と呼ばれた武蔵野館通りに面した3階建ての建物で屋根には風車が看板代わりに取り付けられていた。定員は430人、立ち見を入れても800人程度の小劇場だった。大晦日のこの日がこけら落としでかつ初日だったから以来、ムーランの毎年の初日は大晦日ということになった。

設立者は浅草・玉木座の支配人だった佐々木千里で、文芸部に当時文壇の新興芸術派と言われた竜胆寺雄や吉行淳之介の父・吉行エイスケ、オペラ作家の楢崎勤、島村竜三、清水ケイチュウらがいた。プログラムは盛り沢山で新しいセンス、軽いタッチで風刺のきいたナンセンス・コメディが中心だった。初演のプログラムを紹介すると

一. 清水ケイチュウ作
 ナンセンス
 猿の顔はなぜ赤いのか  七景
二. 中村正常作
 吉行エイスケ演出
 ウルトラ女学生読本
三. ヴァラエティ
 A 石井舞踊詩研究所出演  六曲
 B 楢崎勤案 榊原正振付  七曲
四. 高田稔作
 大人用お伽ナンセンス
 恋愛禁止分配案
五. 当間吉作
 レビュー
 水兵さんはエロが好き

まあ、紹介はしたが<よくわからん>というのが正直なところではある。外に向かっては軍部の暴走が満州事変を引き起こし、国内は長引く不況に世界恐慌の余波を受けて失業者が街にあふれた時代、ムーランは山の手の知識階級や学生をターゲットにして「小市民的悦楽のメッカ」としていたが経営は苦しかった。それでも宣伝上手な座主の佐々木は安上がりの珍妙な宣伝を行った。

たとえば新宿駅の伝言板に毎日「〇〇さん、ムーランで待つ」というのを、別名でいくつも書く。これは消されるまで<8時間有効>となった。当時、全盛だった神宮球場の六大学野球では毎試合、電話で架空の人物を呼び出した。当時はマイクがなかったので呼び出し係は「ムーラン・ルージュの〇〇さん」と書いた大きなプラカードを持って場内を一巡した。または座員が銭湯で「こんどのムーランの出し物はおもしろくて人気らしい」と大声で話す。こちらは<口コミ>である。とにかくあの手この手で集客に努めた。

のちにNHKのテレビドラマなどで大御所になる作家で脚本家の伊馬春部が文芸部時代に手がけた都会風センスの風刺劇や望月優子、千石規子、明日待子などの人気女優、羽衣歌子、小林千代子ら歌手の活躍で「ムーラン・ルージュ時代」と呼ばれる最盛期を迎える。学徒出陣で戦地に出征する学生らが「明日待子万歳!天皇陛下万歳!」と次々に叫んだこともあった。

戦争中は敵性語禁止で「作文館」に改名され東京大空襲で全焼したが戦後、同じ場所に復活して大スター森繁久彌や楠トシエ、由利徹、春日八郎など多くのコメディアンや歌手を出した。1951=昭和26年に閉館となるがムーランから巣立った演劇・喜劇人は700人と言われる。

*1935=昭和10年  「災害は忘れたころにやってくる」の名文句で知られる寺田寅彦58歳で没。

物理学、気象学など多彩な研究で知られる。『万華鏡』『柿の種』『触媒』など多くの科学随筆を残した。澄んだ文体と柔軟な精神で入水や火口への投身自殺の心理まで論じた。彼らが履物をそろえてから身を投げる姿を論じて
「結局は<生きたい>のである。生きる為の最後の手段が死だといふ錯覚に襲はれるものと見える」(『触媒』)

それとも引用は冒頭の「災害は忘れたころにやってくる」のほうが良かったか。

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