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“12月5日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1791年  作曲家モーツアルトが午前0時55分、ウィーンで死去した。35歳だった。

現在はオーストリア領になっているザルツブルグで生まれた。ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトが本名である。モーツアルトが生まれた1756年当時、ここは「ドイツ国民の神聖ローマ帝国領」に属するいわゆる大司教領で、オーストリア大公領ではなかった。だからオーストリア生まれかというと<そうでもあるしそうでもない>ということになる。以前、ドイツのテレビ局が「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートを実施したところモーツアルトが選ばれた。これに在独オーストリア大使館が猛抗議したことから話題になった。

たしかにザルツブルグで生まれウィーンで暮らしていたから大使館の言い分にも一理あるが、ではドイツ人かといえばそうでもないとなる。モーツアルト自身は手紙のなかで再三「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」「我々ドイツ人がドイツ風に考えドイツ風に演奏しドイツ語で歌うことをやっと始めたのだ」と<ドイツオペラ宣言>を行っている。ちなみにあのヒトラーは<不名誉な存在>でドイツ人は忘れたいから「元はオーストリア人だった」と言うらしいけど。

モーツアルトの父親は神聖ローマ帝国の作曲家で教師でもあった。早くから息子の天才ぶりを見出して音楽を指導した。すると3歳でチェンバロを弾きこなし、5歳で最初の作品を作るなど才能を開花させた。7歳のときにフランクフルトでの演奏をたまたまゲーテが聴き「絵画ならラファエロ、文学でいうならシェイクスピアと並ぶと思った」と回想している。神聖ローマ帝国、フランス、イギリス、イタリアの宮廷で演奏して喝采を浴び13歳でザルツブルグの大司教宮廷楽団員となったとんでもない神童・天才少年だったわけだ。

1777年にはザルツブルグでの職を辞しマンハイムからウィーンへ。ここで結婚し、フリーの演奏家として活躍した。ハイドンから高い評価を受けたのもこの時代で「ハイドン・セット」という弦楽四重奏集を贈っている。他にはオペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』や「三大交響曲」の第39番、第40番、第41番を作曲した。

「皆さんからは私が天才であるとよくいわれますが作曲はまったく別です。長年にわたり私ほど有名な巨匠の作品を研究し尽くした人間はいません。作曲家であることは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味します」と語っている。

最後に書いた『魔笛』は体調不良をおしてプラハでの公演を手伝ったが病床に伏した。そのとき灰色の服を着た背の高い不気味な男が「レクイエム」の作曲を依頼しにやって来た。モーツアルトはこの男が<死の使者>だと思いながら弟子に曲を口述したが途中で息絶えた。弟子がその場にいたわけだから単に熱に浮かされての幻覚でもなさそうだがこの曲は未完成に終わった。

もうひとつ死にまつわる噂がある。公式記録には「急性粟粒疹熱」とされているが過酷な旅で患ったリューマチ熱はいいとして早過ぎる死からの<毒殺説>はおだやかではない。その才能は常に妬まれていたということかもしれないが貧民共同墓地とされる埋葬場所の詳細も不明で、唯一残る「モーツアルトのものとされる頭蓋骨」もDNA鑑定で親族との関連は決め手を欠くなど謎を残した。

交響曲『プラハ』『ジュピター』やセレナード『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を聴きながら原稿を書いていると<天才去ってただ名曲のみ残る>であるなあと改めて思う。

*1904=明治37年  日露戦争のヤマ場となった203高地攻防戦が日本の勝利で終わった。

ロシア軍は4ヶ月も守り抜いたが乃木希典将軍の大強行作戦によりようやく決着がついた。

野戦攻城屍作山 愧我何顔看父老=死者の山を見て私は彼らの父や祖父にあわせる顔がないという意味だが砲撃で山の形が変わったとされる激しい消耗戦は、作戦の詳細とともにさまざまな評価がされている。それはともかくとして戦争で多くの人命を失った自責の念が乃木のその後の人生につきまとった。戦没者遺族への訪問や戦傷者のために自分の年金を担保にしての「乃木式義手」の製作などもある。その最後が夫妻の殉死であろうか。

*1659=万治2年  吉原の名妓だった三浦屋の高尾太夫が死んだとされるのがこの日。

仙台藩第三代藩主の伊達綱宗が身請けしたとも伝えられるが言うことを聞かなかったので斬り殺されたともいわれ伊達騒動を題材にした話には必ず登場する。綱宗は放蕩三昧から翌年、わずか21歳で隠居させられてしまう。本当にそうだったのかは諸説のベールの奥だが、綱宗が当時の後西天皇と従兄弟同士だったので幕府が伊達家と天皇家が結びつくのを警戒し、放蕩を理由に使ったのではという説もある。

高尾太夫は吉原の太夫の中でも筆頭の「大名跡」でこの太夫は2代目の「万治太夫」と呼ばれる。さすがは伊達藩主、吉原一の名妓と浮名を流すとはだが、まずは太夫の胸に火を付けるところから始めた。これを「とぼす」というが、綱宗はとぼした火で自らの身や地位までも焼いてしまったわけです。

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