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あと読みじゃんけん(7)渡海 壮 血族の王

  • 2016年3月25日 19:21

岩瀬達哉の『血族の王』(新潮社)には「松下幸之助とナショナルの世紀」という副題がついている。妻と始めた大阪の町工場を事業拡大への飽くなき執念で世界企業に育て上げ、従業員38万人の一大家電大国へと成長させた松下幸之助。激動の時代を背景に数々の神話に彩られた「経営の神様」を、徹底した取材と新資料で描き直すことで血族の王たらんとした<もうひとつの顔>が見えてくる。

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬は創業者の幸之助から七代目の松下電器社長となった大坪文雄が創業90周年を迎えた平成20年(2008)に和歌山市禰宜(ねぎ)にある「生誕の碑」へ参拝するシーンから書き始める。鈍い青色の緑泥片岩に彫られた文字は母方の祖父が紀州藩の元藩士で和歌山に縁のあるノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹博士が揮毫している。

蝉の声がいちだんと激しさを増したころ、目の前を一台のセンチュリーが音もなく滑り込んできて、バックで切り返すと、墓所と生誕碑のあいだの小道にぴたりと停車した。8月5日午前8時55分のことである、とあるから取材中に偶然目撃したのだろう。

このわずか2カ月後の10月1日、大坪は社名をパナソニックに変更し、誰もが親しんだナショナルというブランド名を廃止して社名とブランドの統一を果たした。さらに2カ月後の12月19日には、パナソニックの初代社長として三洋電機の完全子会社化に向けた資本・業務提携の締結を発表する。三洋電機は幸之助の仕事を長年手伝ってきた義弟の井植歳男が戦後間もなく創業した。幸之助の妻、むめのが淡路島の尋常小学校を卒業したばかりの弟を呼んで町工場時代から苦労を共にしてきた。お互いが離れたとはいえ<血族の企業>という因縁があった。「墓参はその交渉経緯を報告することで大坪は精神的な後ろ盾を求めたのかもしれない」と。

同じ和歌山市に生まれた岩瀬は幼いころから松下幸之助がいかに柔軟な思考と斬新な発想の持ち主であったかをよく聞かされて育った。周囲の大人たちが語る幸之助のエピソードの数々は「二股ソケットは、下着のステテコを見て思いついた」など少なからず脚色されて面白おかしく仕立てられたものが多い。しかも「遠い歴史上の人物」であると思い込んでいたが連載執筆の話があったときに迷わず選んだのは松下幸之助で「正伝を執筆する予感」さえあったという。幸之助には『私の行き方 考え方』『経営回想録』をはじめ社史など多くの出版物がある。それ以外の資料を独力で渉猟し役員OBや元幹部社員などの証言者を探し出すことで限りなく実像に迫ろうとした。取材と執筆の旅は実に7年がかりとなった。

松下家のルーツは苗字帯刀を許された地主階級に属し、祖父の代までは隆盛を極めていた。しかし父、政楠(まさくす)は祖父の死後、本業の農業は小作人任せにして養蚕、村会議員活動に熱中、挙句の果ては米相場の失敗で先祖伝来の田畑、家屋敷を失ってしまう。一家は、大八車2台に家財道具を積むと和歌山市内に引っ越し下駄屋を開業するが2年ほどで閉店に追い込まれた。政楠が相場から足を洗えなかったことにもあった。明治37年(1904)11月23日、尋常小学校を4年で中退した9歳の幸之助も<荷物は着替えのシャツなどを入れたふろしき包みたった一つの着の身着のままの姿>で和歌山から大阪に向かった。日露戦争の勃発で世相は暗く、旅順総攻撃は連日のように苦戦が伝えられていた。親元を離れて奉公したのは大阪の繁華街・千日前に近い八幡筋の宮田火鉢店だった。ところがわずか3カ月目に店が廃業することになったため、店主の紹介で当時は新しい商売だった自転車店の小僧になる。おもに英国製自転車を扱う店として創業した五代自転車商会は、幸之助が奉公に来て二カ月後、船場堺筋淡路町から内久宝寺町に移転した。この店で幸吉と呼ばれて6年間、一人前の商人になるための修行に励んだ。

幸之助は常に「ぼくが今日あるのは、やはりこの店でご主人と奥さんから実に親身で、またきびしい指導を受けて、知らず知らずのうちにも商売の道というものを体得することができた、そのおかげである面が大きい」と懐かしんでいる。奉公していた五代自転車商会には関西地区の自転車選手がよく顔を出した。一時は選手になりたかった幸之助は、仕事前の早朝練習を重ねて競争会と呼ばれたレースに出場するようになると賞品を稼ぐまでになった。幸之助は父の死などの寂しさを埋めるように自転車に熱中するが堺の競争会でゴール前に落車、鎖骨を折る大けがで一時は人事不省となり、主人から以後の出場を禁じられてしまう。おりから番頭と小僧の中間で、商売がうまかった手代が店の商品を他所に売り、代金を使い込むという事件が明るみに出て、それを主人が訓戒だけで済まそうとしたのが許せず店を飛び出すことになる。

その後はセメント会社の臨時運搬工、大阪電灯の内線工を経て、北区大開町でアタッチメントプラグの製造を始めた。むめのとの結婚後は猪飼野に2畳と4畳半2間の平屋を借り、大阪電灯時代の同僚二人が加わった。これがすべての躍進の始まりになるところだったが登録実用新案が認められた「松下式ソケット」はようやく完成には漕ぎつけたものの大阪の街をかけずり回っても百個ほどしか売れず、用意した資金も底をついた。給料も払えず、社員も去っていってしまったから歳男の呼び寄せは苦肉の策でもあった。初めて「ナショナル」の商標をつけた自転車用角型ランプ、ラジオ・セット(受信機)が売れ行きを伸ばして日本全国に販売店網ができていく。なかには電球のように技術力や品質が及ばない二流品を<情>で引き受けた販売店の苦労もあって「一大コンツェルン」を築いていく。

戦中から戦後へ、松下電器グループはGHQにより財閥に指定され、一族には「財閥家族の指定」がなされた。巻末には参考資料として6ページにわたり財産目録などがある。苦境打開を目指して経済研究所のPHP研究所を立ち上げて間もなく幸之助自身が公職追放となり、奈落の底に突き落とされてしまう。そこからの再出発はまさに「明るい光あればさらに暗い陰あり」ではあるまいか。「義兄弟の違う道」で井植の独立を、「崩れゆく王国」では社史に汚点を残した中国への密貿易事件を取り上げる。「経営の神様」といわれた幸之助神話が光であるとすれば、晩年の幸之助は経営を松下家にとって盤石なものにするための焦りが陰となって付きまとった。多くのビジネスプランが反故にされ、人事抗争が渦巻いた裏面史も語られる。終章「ふたつの家族」では幸之助と井植の<もうひとつの家族>にもふれられている。こちらも間違いなく名経営者が秘かに大切にした<血族>であろう。

*岩瀬達哉『血族の王―松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫、2014)

“10月31日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年5月8日 23:46

*1919年  パリの古美術オークションに<フランス王・アンリ4世の首>のミイラが出品された。

モンマルトルの古美術商が入手したもので鑑定では「300年ほど前に殺されたアンリ4世のもの」とされたが決め手に欠けたのか、気味悪がられたか結局、引き取り手がなかった。本物と信じて疑わない古美術商はルーヴル美術館に寄贈しようとしたが断られ、ゴシップ記事の片隅を飾っただけで終わった。

アンリ4世とはどんな人物だったかをおさらいしておく。宗教改革による戦乱に揺れる1553年に生まれ、カトリックがプロテスタントを大量虐殺した聖バルテルミの虐殺(1572)に巻き込まれたが改宗することでかろうじて難を逃れた。父のアンリ3世の暗殺で王位を継ぎブルボン朝の初代国王になった。ナントの勅令(1598)を発布してカトリックとプロテスタントの融和に努め40年続いた宗教戦争を終結させた。疲弊した国の再建を進めるなか1610年5月14日に狂信的なカトリック信者に暗殺され、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。国民の人気が高く「大アンリ」とか「良王アンリ」と呼ばれた。

それならオークションに出されたミイラは<偽物>だったのかと思われるかもしれない。ところがフランス革命後の1793年に墓が暴かれ頭部が切断されて行方不明になった。当時なお名君として人気があったから熱烈な<信奉者>が持ち去ったものとされた。それがひょっこり出現したというわけだ。

さらに後日談がある。2010年、個人コレクションとして秘蔵されていたこのミイラが出てきた。さっそくアンリ4世の研究者や法医学者、化学者など19人の専門家チームが結成されて鑑定にあたった。ジャンヌ・ダルクのものとされていた遺体が別人と鑑定した法医学者のフィリップ・シャルリエ博士もいて最新の科学的手法が駆使された。その結果、骨格から<復顔>した顔が生前の肖像画と一致したことやデスマスクと骨格の合致、描かれた鼻のホクロや耳たぶに開けられたイヤリング穴が同じ位置に確認された。さらに当時のフランス王族に使われた遺体の防腐処理用の薬剤成分や年代鑑定、以前の暗殺未遂事件で受けた唇の傷跡があったことでアンリ4世本人のものであると確認した。

それで再度オークションに?いえいえ、今度はサン=ドニ大聖堂に戻されたようです。

*1940=昭和15年  午後10時を期して東京都内6カ所のダンスホールが閉鎖になった。

警視庁による「風紀取締強化策」として7月31日に発表され、3か月の猶予期間が満了になった。風雲急で<時局に合わぬ>とやり玉に挙がった各ダンスホールには専属のダンサーがいて踊りの相手をつとめた。1曲約3分でチケット1枚、チケットは10枚つづりで1円が相場だった。当局は最初から目をつけていたから「必ず軍国歌謡をバンド演奏すること」から始まり「出入り客の記名捺印」そしてとうとう「全面閉鎖」になった。

この日はどのホールも超満員で最後の『蛍の光』でラストダンスを踊ったあとも客はなかなか帰ろうとはしなかった。ダンサーたちもそれぞれ身の振り方を考えなければならず、他の水商売に転じたり故郷に帰ったりとさまざまだったが工場や事業所など生産の場に転じるのはまれだった。大正末年の開設以来踊り続けていたダンサーも多かったから無理からぬことだったか。

翌日からたばこの「バット」は「金鵄」に、「チェリー」は「桜」に。文部省は「絶対音感教育」を進めるという名目で、明治時代以来の「ドレミハソラシド」に替え<音名唱法>として「ハニホヘトイロハ」を採用すると発表した。この年流行った標語は「八紘一宇」「新体制・臣道実践」「南進日本」「一億一心」。

*1884=明治17年  埼玉県の秩父地方を中心とする「秩父事件」が起きた。

竹槍や鎌、斧、刀、猟銃などを武器に集まった農民数千人がいっせいに蜂起した。弾圧されて地下に潜った自由民権運動の自由党の旧党員やシンパらを核とした「秩父困民党」で「金のないのも苦にしやんすな、いまにお金が自由党」と唄いながら郡役所や警察などを次々に襲った。政府は軍隊を送って鎮圧に躍起だったが長野県の飯田や名古屋でも政府転覆計画が発覚したから政府首脳は「まるでフランス革命の前夜のようだ」と困惑した。

*1918=大正7年  一高生の川端康成は伊豆・修善寺温泉から友人に絵はがきを出した。

初めての本格的な旅行に伊豆半島を選んだ。最初の宿が修善寺温泉で「思ったほどよいところではありません」と書いたが翌日、天城峠の「トンネルの出口」で太鼓をさげた踊り子たちに出会う。伊豆大島からやってきて温泉場を巡る旅芸人の一行で、鬱屈した心を抱えて同じように旅をする<私>はそのひとり、いちばん若い薫という少女に魅かれてゆく。トンネルの闇から光のなかへ。青年が大人に脱皮する旅のひととき、ロマンチックな出会いと別れが『伊豆の踊り子』に。

“10月30日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年5月8日 23:36

*1938年  アメリカCBSラジオが午後9時すぎから突然<臨時ニュース>を流し始めた。

プリンストンから緊急ニュースです。ただいまニュージャージー州トレントンからの発表によりますと、今日午後8時50分に隕石と思われる巨大な炎に包まれた物体がトレントンから20マイルのグローバーズ・ミル付近の農場に落下しました。

人々はラジオに釘付けになった。するとこんどは現場からの<実況中継>に変った。

放送をお聞きの皆様、動きがありました!
物体の底の部分が開き始めました。

たった今、物体の端が外れようとしています。
てっぺんの部分がまるでネジのように回転し始めました。

大変です。みなさん、大変です。内部から何かが、何かが出てきました。
怪物です。何かを持っています。拳銃のようなものです。光線のようなものが出ています。

あっ、近づいた人に当たり炎があがりました。
悲鳴が聞こえます。炎が、炎が車に燃え広がりました。

これは当時23歳だったオーソン・ウェルズがプロデュースした『宇宙戦争』というラジオ・ドラマだった。宇宙人=火星人が地球に攻めてきたという内容で、現場からの実況中継は実際のニュース番組のように放送された。

レポーターの実況は前年に起きた大型飛行船ヒンデンブルク号の事故を泣きながら実況したアナウンサーそっくりで真に迫っていた。しかも舞台をニューヨークに移したことも<勘違い>を引き起こす原因になった。番組の途中から聴いたリスナーは<火星人が侵略してきた>と本気で信じてしまった。

ラジオ局には聴視者からの問い合わせが殺到した。電話回線がパンク寸前になってようやく局側も<異変>に気づき、何度も「これはドラマです」というスポットを入れて注意を喚起したもののリスナーの多くは家から飛び出し、避難を始めた数百台の車が道路を埋め尽くした。
警察は暴徒の襲撃に備えて番組終了後にラジオ局を緊急警備する一幕もありパニックは翌日の午後まで続いた。幸いにして1人の死者も出なかった。

この放送で一夜にして有名人になったウェルズはやがて俳優、監督、脚本家としても大御所になった。『市民ケーン』などの監督や『第三の男』、『白鯨』『パリは燃えているか』などでの存在感ある演技が特筆される。ひげ面で登場したニッカウヰスキーのテレビコマーシャルも懐かしいですねえ。

*1912=大正元年  フランスの活劇映画『ジゴマ』が治安を乱すとして上映中止に。

作家レオン・サジイの怪盗小説シリーズの映画化で、パリを舞台に変装名人の怪人ジゴマが毎回、殺人や強盗を繰り返すといういささかアブナイ作品で、いま風に言い換えると<ピカレスクロマン>か。東京・浅草の金龍館を皮切りに『探偵奇譚ジゴマ』の題名で前年11月に封切られるとたちまち大評判になり、連日超満員で劇場側は舞台両袖にまで観客を上げて対応した。日本における洋画の最初のヒットになった。

無声映画だから弁士・加藤貞利の『ジゴマ』ニックカーターの巻の前説明はこんな調子。

花のパリーかロンドンか。
月が啼いたかホトトギス。
夜な夜な荒らす怪盗は、題してジゴマの物語。
名探偵ポーリン死すとき、ニックカーターの手をしっかと握り、
御身、吾に代わりて怪盗ジゴマを捕らうべし。
これよりニックカーターの活躍となりますが、
追ってくわしきことは画面とともに説明つかまつります。

ここで弁士が笛を吹くと場内の灯りが消え、楽士席から「天国と地獄」の演奏が響きスクリーンには横文字のタイトルが・・・。

「凶賊ジゴマ」の別名もあったから少年犯罪を誘発するとか、実際にあった「ジゴマ団」による事件、泥棒を真似た「ジゴマごっこ」の流行などで世論の反対が高まってようやく警察が腰を上げた。内務省もこれを後押ししてジゴマ映画や類似映画の上映禁止通達が出された。上映禁止は全国に広まりそれまでは各警察署が行っていた映画などの興行にまで検閲が制度的にも整えられてようやくブームは下火になった。

*1921=大正10年  漏電による朝火事で東京の歌舞伎座が炎上した。

午前8時40分ころ地下の電気室から出火、純和風で総檜造り3階建ての建物は1時間以上燃え続けて焼け落ちた。この火事で3人が焼死、被害は500万円に上ると報じられた。1889=明治22年にできた第1期の外観は洋風だったのを1911=明治44年に大幅に改造し、帝国劇場に対抗して和風の外観にした。焼けたのはこの第2期歌舞伎座だった。再建工事は建物の躯体が完成したところでこんどは関東大震災に見舞われ、工事が中断したうえに敷地が震災道路の拡幅で削られそうになったが東京市長だった後藤新平の鶴の一声で中止になる一幕もあって翌13年12月にようやく完成し東京の新名所になった。

“10月29日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年5月8日 23:33

*1945=昭和20年  政府発行の「第1回宝籤(くじ)」が発売された。

1枚10円、1等賞金10万円で売り出し枚数は1千万枚。4等まで副賞として当時は手に入らなかった純綿キャラコ2反が付き、空くじ4枚でやはり貴重品だったたばこ10本入りの「金鵄」1箱がもらえた。見渡す限り焼野が原となった国内復興のためで駅の弘済会売店やデパート、たばこ販売所などいたるところで売られた。

政府は戦費の不足を補うために戦争末期の7月15日に「第1回奨金附勝札」を発行した。売り出し枚数は2千万枚だったが皮肉にも売り出し最終日の8月15日が終戦になったため「勝札」の名に反して<負け札>となってしまった。抽選は予定通り25日に行われたがさっぱり盛り上がらなかったからそれに代わる企画だった。

「欲しいものは多いが懐中の淋しい人たちは闇市を一巡も二巡もして、目でひと山の果物の数をかぞえてどこが一番安いのかをのぞきまわる。百円、二百円程度の月給生活者では十円札を楽々と出せるだろうか」という投書が新聞に載ったが誰もがのどから手が出るほどお金が欲しかったからその心理をついて売れ行きは予想外に良かった。

抽選は11月12日午前10時20分から日本橋三越百貨店の1階中央ホールで開かれた。パイプオルガンでベートーヴェンの第五交響曲「運命」が響くなか、観客から選ばれた若い女性2人が抽選機をガラガラと回した。回転が止まると数字が書かれた玉が転がり出る仕掛けだったが会場から「もっと回せ、もっと回せ」というヤジが飛んだ。

宝くじの起源は江戸時代初期の「富突き」にあるとされる。関西では摂津(大阪)箕面の滝安寺の「福富」が有名である。金銭上の利益ではなく信仰行事で毎年正月元日から7日まで天下安全、五穀豊穣の祈祷が行われた。7日の修正会の満座の日に開かれる「富会(とみえ)」には各地から大勢の参詣者が集まった。参詣者は小さな木札に自分の名前を書き、観音堂の前に置かれた唐櫃の上部の穴から差し入れる。その間、寺僧による読経が続き、終わると長い錐を持った僧侶が出てきて唐櫃をよく回して中の札を混ぜ富突きが始まる。
最初に突き当てた札を「第一の富」、続いて「第二の富」とそのたびに大声で唱えて<秘法のお札>を授けた。これを授かった者は「萬宝家に充つる霊験あり」とされ、幸運を逃がさないように夜通し歩いて帰宅した。「摂津名所図会」には富突きでにぎわう境内の様子が描かれている。それがやがて大きな賞金をかけての「御免富」につながり江戸や京・大坂では天保年間には最高額が金千両にまでなったが明治政府による全面禁止令で姿を消した。

<国破れても宝籤あり>ですなあ。敗戦の混乱にも負けない宝くじ好きの国民性、昭和20年の宝籤では三越の売場から1等が2枚出たと朝日新聞にあるがさて、当日会場に詰めかけた観客から当たりくじは出たのか。

*1785=天明5年  幕府は旗本・藤枝外記(げき)の禄高4千石を没収、妻と家臣を処分した。

藤枝家は徳川家光の三男綱重の母の縁戚につながる家で屋敷は湯島妻恋坂にあった。六代目の外記は婿養子で武蔵・相模を知行していた。ところが19歳の妻がありながら吉原の遊女・綾絹(綾衣)とねんごろになった。婿殿の息抜きだったのだろうがいくら旗本とはいえ吉原通いは遊興費がかさむ。そんなおり、裕福な町人からの身請け話が持ち上がり、外記は8月13日に遊女を連れ出し、浅草・千束村の百姓家で無理心中してしまう。綾絹は妻と同じ19歳、外記は28歳だった。

当初、藤枝家では外記の心中をひた隠し、家来の一人が死んだことにして役人の検視を受けた。しかしこれがやがて露見してしまう。妻ら関係者が処分され藤枝家は改易になった。旗本と吉原の遊女との心中スキャンダルは江戸の街を駆け巡った。江戸の人々は破滅より<道ならぬ恋>をとった外記を揶揄した。禄高は語呂がいいので切り上げて
「君と寝やろか五千石とろか、何の五千石君と寝よ」
という端唄がはやった。しかし警戒厳重な吉原からどうやって遊女を連れ出したのだろう。

*1787年  喜歌劇『ドン・ジョバンニ』がチェコ・プラハで初演された。

ご存じ、神を恐れぬ女たらしの主人公のオハナシである。スペインの貴族ドン・ジョバンニは<手当たり次第>といっていいほど手が早い。身分、容姿、老若を問わず、自称でも「愛の運び手」、おまけに剣の腕も立つ。今夜も従者のレッポロに見張りをさせてさるお屋敷に忍び込む。

初演に先立ち書きかけの原稿を持ってプラハに来たモーツアルトは友人の別荘にこもって仕上げを急いだ。だが、劇の印象を左右する序曲だけは最終日になっても未完成でようやく徹夜で書き上げた。初演のエステート劇場ではモーツアルト自身がタクトを振った。

ジョバンニが征服した女性はレッポロが記録しただけでその数、2,065人。しかしやがてあの強烈な音楽とともに地獄に堕ちてゆく。ということはやはり悲劇なのだろうか。ウーム。

“10月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

  • 2013年3月31日 23:17

*1520年  マゼランが南米・パタゴニアの海峡を越えて太平洋に抜けることに成功した。

のちに彼の名を取って「マゼラン海峡」と名付けられるがラプラタ川を遡ったり、いくつもの入江を試して迷ったりした末の海峡発見だった。通過には7日間もかかり、途中で艦隊最大の艦で多くの食料を積んでいたサン・アントニオ号とはぐれてしまう。5隻だった艦隊は1隻を難破で失っていたからこれで3隻になった。しかし提督のマゼランは「喜びのあまりはらはらと涙を流し、水路の出口の岬を<待望の岬>と命名した」と艦隊に同行していたイタリア・ベネチアの貴族だったアントニオ・ピガフェッタが書き残している。

マゼラン(1480-1521)は大航海時代のポルトガルの航海者で探検家である。本名は英語読みではフェルディナンド・マゼランだがポルトガル語ではマガリャネスだから近年は海峡名を現地呼称の「マガリャネス海峡」と表記されることが多い。速い潮流と暗礁だらけの<海の難所>でパナマ運河開通まではさらに南の南米・ホーン岬と南極大陸の間のドレーク海峡回りを選ぶ船が多かった。

マゼランは「スペイン艦隊を率いて初めて世界一周を成し遂げた」と紹介されるが実際にはこの翌年の4月27日にフィリピン・セブ島で原住民に襲われて戦死した。難破や破船で最後の1隻となった「ビクトリア号」だけがスペインに帰国したのはさらに翌年の1522年9月6日で出発時の約270人のうち世界一周ができたのはピガフェッタらわずか18人だった。つまり世界一周を成し遂げたのは「マゼラン艦隊」だったわけで、スペインでは世界一周の栄誉を最後まで生き残ったスペイン人船長のファン・セバスティアン・エルカーノらに与えた。

ではマゼランが名付けたとされる「太平洋」はどうか。ピガフェッタは自分たちが航海した海洋を太平洋と書いているが<マゼランが命名した>とはどこにもないそうだ。スペイン国王が彼らに謁見した際の記録にも「南の海(mar del sur)」とあるだけで艦隊の誰が太平洋と名付けたかは謎であるらしい。マゼランはポルトガル艦隊では東回りでフィリピン諸島まで行ったのでこの西回り航海と合わせれば<世界一周した>という擁護論もある。しかしそれさえもフィリピン諸島のどこかは不明だからつながらない可能性もあるという意見もあり探検家の栄光もまさしく<生きていりゃこそ!>ですなあ。

*1910年  ロシアの文豪で82歳のトルストイがこの日朝、家出した。

置き手紙に驚いた妻のソフィアは大声をあげて庭の池に飛び込み、娘らがあわてて引き揚げる一幕もあったがこれもいつものことだったらしい。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』『復活』などで名声を博し、自らの莫大な財産で貧困層への支援を続けたが受け取る印税や地代を断ったり農作業に従事したりする生活スタイルなどを巡ってはソフィアとしょっちゅう衝突した。

不仲から何度も家出を繰り返したことから今回の家出も<またまた>で、文豪は知り合いの修道院に泊まったあと妹を訪ねた。その後、鉄道で移動中に悪寒に襲われ、我慢できずにいまはトルストイ駅と名付けられている小駅で下車、運ばれた鉄道官舎で治療を受けていたが11月20日に肺炎により死去した。

それもあってソフィアはソクラテスの妻・クサンティッペ、モーツアルトの妻・コンスタンツェとともに「世界三大悪妻」に数える向きもある。カーネギーもトルストイが臨終の直前に「妻を近づけるな」と遺言したことやソフィアが「お父さんが死んだのは自分のせいである」と自責の言葉を述べたが、それを聞いた子どもたちは誰も反論しなかったエピソードを紹介している。しかし夫婦の対立は、トルストイが宗教や社会活動に傾倒して家庭を顧みなかったことや著作権などの遺産を「ロシア国民に移譲する」とする遺言状を作成しようとしていたことで10人以上もいた子どもたちを養い、生活を守るためには現実重視で生きざるを得なかったためとみることもできる。

立場を変えれば別の理由あり。夫婦喧嘩はやはり<犬も食わない>のでしょうか。

*1962=昭和37年  自然主義の代表的作家で文芸評論家の正宗白鳥が83歳で死去した。

トルストイを巡って小林秀雄と繰り広げた「思想と実生活論争」を思い出したからトルストイつながりで紹介する。生家は岡山県備前市の旧家で網元や材木商で繁栄した資産家だった。早稲田大から読売新聞に入社して文化・美術・演劇を担当したが退社して本格的な作家生活に入った。日露戦争後の青年像を描いた代表作の『何処へ』で自然主義文学の新境地を開いたと注目された。1935=昭和10年には島崎藤村らと日本ペンクラブを設立し、戦中から戦後にかけて第2代の会長をつとめた。

写真家・土門拳は敗戦直後の雑誌社で正宗に会った印象を「手の平に乗るような小兵な老人だった。ニッカー・ボッカー姿につぶれたリュック。だが何か凛として犯すべからざる気迫があったのが懐疑派作家、正宗白鳥だった」と書き残した。これだけで人物をほうふつとさせる土門ならではのたしかな描写力ではあるまいか。