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私の手塚治虫  最終章   峯島正行

  • 2016年10月30日 15:00

私の手塚治虫(終章)
峯島正行
小林一三の恩恵

手塚構想力の背景

思想家・鶴見俊輔は、その著、『漫画の戦後思想』(昭和四八年 文藝春秋)の「都市」という手塚治虫を論じた章の冒頭で「大正の末年に生れて宝塚で育ったという事実が、手塚治虫の構想力の背景をなしている」と述べている。
この文章の手塚は、大正末年生まれとされているが、これは昭和初年と訂正されなければならない。当時、手塚は大正一五年生まれと誤報され、それをあえて訂正しなかったために、それが世間にとおってしまった。事実は昭和三年生まれであることが、世間に知れたのは、亡くなった後のことである。だから、鶴見の文章が間違いだとは言えない。大事なのは、その後の言葉だ。
鶴見は、関西の私鉄の事業家は、一種のユートピア構想を持っていたとし、「中でも小林一三は、慶応義塾出身で、福沢諭吉の町人道を生かそうという志を持ち、(中略)私鉄阪急の経営に乗り出してから、彼は大阪の起点に百貨店を作り、終点の宝塚には大衆娯楽センターをつくることを考えた。先ず温泉ホテルをつくってから、そこに泊り客に見せるための少女歌劇を工夫し、自分で脚本を書いて、興行をはじめた。やがて、俳優を養成するための学校をつくり、それは寄宿制度の学校で、終点宝塚に置かれた」と、宝塚の生立ちを簡略に述べている。当時は少年少女の交際が自由でなく、親や教師の監視が厳しかった。それが宝塚ならば、同じ年頃の少女のしている芝居であるから、親たちも心配せずに、宝塚の歌劇を見ることを許した。
そこで娘たちは、同年輩の少女が男役と女役に扮して、はなやかな人生を演じるのをみた。普段見ている父親や兄弟の粗野な男と違って、女性が作り出す理想の男性を見て楽しむことができた。だから、現実の日常生活から逃避するという側面を持っている。
鶴見は、宝塚は、女形の演技が現実逃避の夢をもたらす歌舞伎と同様に、現実逃避の機会を売るという産業を開発し、それを維持したところに、小林一三の独創性があったという。温泉の附属的存在から離れて、宝塚独自の世界を築き上げたことは事実だ。
「『モン・パリ、わがパリ』、『私の夢の都マンハッタン、ブロードウエイ』というようにヨーロッパ、アメリカを謳いあげた出し物も多く、それらの歌のかけらとともに、西洋近代の理想が、手塚少年の心に住みついて、後に来る軍国主義時代にも変わることがなかった。
このユートピアの設計者小林一三が、彼の日本国家改造計画をひっさげて東京に乗り込み、国粋主義と格闘したころ、その影響をうけた手塚治虫は中学校の片隅で、彼なりに時流とたたかいつづけた」(前掲書)と書いている。
間接的に、であろうが、鶴見流にいうなれば、手塚治虫という人間形成に、最も影響を与えたのは、小林一三ということになる。

小林一三の手のぬくもり

私はこの小林一三という、日本資本主義史上稀にみる傑出した人物に会ったことがある。随分と昔の話で恐縮だが、たしか昭和二七、八年ごろのことである。
その頃、私は「実業之日本」という雑誌の新米の編集者であった。ある日、山田勝人編集局長が、編集部員に向かって、「明日の朝、東宝の小林一三を訪ねることになったが、誰か一緒に行きたい奴がいるか。尾崎(八十八助編集長)君も同行するが、もう一人くらいならいいだろうから」と大声を上げた。小林一三は阪急電鉄、東宝などの創業社長で、大物財界人である。私はすぐに手を挙げた。
「よし、ほかに希望者はいないか、よしそれじゃ峯島来い」

当時、映画が好きだった私は、東宝という会社に興味を持っていた。その前身をPCLといったが、そのころから映画界で最新の設備を誇り、後進の会社にもかかわらず、長谷川一夫、大河内伝次郎、山田五十鈴、入江たか子等の大スターを他社から引き抜き、いろいろ注目された。山本嘉次郎、衣笠貞之助、島津保次郎等の名監督を入社させ、話題作を提供し、戦時中は、東宝映画と名前を変え、その技術で「ハワイマレー沖海戦」を制作、特殊撮影を完成させ、また、黒沢明という世界的名監督を育てた。
戦後は、東宝争議という日本の労働運動史上に残る大闘争が行われ、その鎮圧にGHQの軍隊まで動員した。その為スターが皆離散、荒れ果てた撮影所だけを残して、ようやく収まった。
だが何事もなかったように見事に復活を遂げた映画会社、その実質経営者に会って見たかった。
もう一つ、私の勤務する会社では、「少女の友」という古い少女雑誌を刊行していた。その編集部の人たちは常に宝塚を話題の中心において、編集している姿に接していた。
仕事関係で日比谷付近を歩くと、東京宝塚劇場の周辺には、常に女学生達がたむろしていた。「少女の友」の編集部が宝塚を追いかけるのは当然だと思い、「宝塚とは何だろう」と日ごろ思っていた。その面からもその創始者であり、今日まで発展させた小林一三に関心を持っていた。それで一も二もなく、山田の誘いに応じたのであった。
ついでながら付け加えると、その頃「少女の友」には手塚治虫が何回か執筆している。

「小林邸に行く者は、明朝、八時一〇分前、都電某停留所前に集合」ということになった。当時実業家は、朝の仕事前に、ジャーナリスト等に会う人が多かった。
その日は、早めに下宿に帰った。ただ天候の具合が心配だった。夕刊を見ると大雪の情報が出ていた。翌朝、六時半ごろ目が覚めて、直ちに雨戸をくくると、はたして、庭に一〇センチほどの雪が積もっていた。当時は、雪が積もると、国鉄、私鉄、都電を含めて、電車やバスが、運航を停止することが多く、大雪により全都交通途絶の状態になることもしばしばであった。タクシーも普及せず、あっても雪の中を走ることはなかった。それに、公衆電話は極めて少なく、電話のある個人の家というものは稀であった。だから役所も、会社も、機能停止状態になってしまうのだった。
その朝、私はまず、電車が遅れ、遅刻して、編集局長に怒鳴られるのをまず恐れた。ニューギニア、ガダルカナル戦線生き残りの元軍曹、山田の大きな顔が、眼先にチラついた。私はゴム長をはいて、ともかく家を出た。下宿は世田谷、小田急の経堂であった。経堂には、車庫があったせいだろうか、私が駅に着くと、新宿行きの臨時電車が出るところだった。やっと飛び乗ったが、雪のため電車は超のろのろ運転。新宿に着いた時は、約束の時間も迫っていた。
都電の停留所に駆けつけたが、これも間引き運転の、のろのろ電車だ。やっと三〇分ほど遅れて約束の場所についたが、山田も尾崎もカメラマンもいなかった。後で叱られるのはいいとして、これからどうするか。とにかく、小林邸に行ってみることにした。玄関は閑散としていた。ベルを押すと、玄関の大きな障子が開いて出てきたのは、写真だけで知っている一三氏の長男で、当時東宝社長の米三氏だったので、吃驚して声も出なかった。ご本人の白髪の一三氏が、後ろに立っている。立ち竦む私を招き入れながら、一三氏が
「実業之日本の人か」と聞く。「はい」と答えると、
「雪の中をよく来た、寒かったろう、さあ上がれ、あがれ」
と手を取って、部屋へ案内してくれた。山田も、尾崎も来ていなかったのだ。部屋の中では,赤々とスト-ブの火が燃えていた。
「約束の時間を遅れまして」
と頭を下げると、一三氏は真っ白な白髪の頭をあげて、じっと私を見つめた。鋭い目つきと定評のある瞳が、揺れ動いた。それは、清く正しく美しくという、言わば、歯の浮くような言葉を本気に自分のものとして、多くのスターたちを何十年かけて育て上げた男の、厳しさをあえて抑えた目の色だったのかも知れない。
それから何を話したか、仔細は、今は忘れた。しばらくして、とにかく他日、山田、尾崎と尋ねることにして、また玄関まで送られて、社に向かったと思う。
次に会ったのは、季節がやや緩んだ早春の一日、尾崎編集長と大阪郊外の池田の自宅を訪れた時であった。今その家は池田文庫になっているが、静謐で趣のある家だったが、普通の住宅とは変わりない大きさだった。その時も鬼の経営者が、温和な老爺となって、宝塚の生徒たちの自慢話をされた。自宅で作られた暖かい昼食をごちそうになりながら、「嫁を貰うなら絶対宝塚の娘がいいぞ、清く正しく美しくというのは、お題目ではない。私は本気に、そういう娘を育てているのだ、」というような話をされたように記憶する。
私は独身だったが、華やかな宝塚の少女歌劇の女性など雲の上の存在と考えたりしながら、その話を聞いていたように思う。
付け加えると、山田と尾崎は、小林に親しい経済人、文化人との連載対談の企画があり、そのた打ち合わせのために、小林を訪ねたわけであった。小林がすぐに承諾し、実現することになった。雑誌で連載され、それが「小林一三対談一二題」という本にまとまって、昭和三〇年実業之日本社から刊行された。

「阪急沿線」という文化

それはともあれ、「私の手塚」を書くことになった時、すぐに、思い出したのは、この時の小林一三の事であった。手塚と小林とは、私には、二つの面から考えて、大きな関係があったと思える。
第一は、手塚は、小林が作った世界、文化的環境の中で、生まれ、成人し、仕事をし、成果を上げたということである。
第二は、やろうと決意をして手を付けた仕事は独特のアイデアを生かして、何が何でもやり抜くという、仕事の仕方が、両者に共通している。二人とも、とても一人の仕事とは思えぬ巨大で、膨大な仕事をし遂げたが、その方法に共通項があるように思えてならないのである。
鶴見俊輔に倣うようであるが、あの一見優しい穏やかな白髪の小柄な老人が、知らずして手塚治虫という、世界に冠たる英才を作り上げたことになるのではないかと思う。

小林を敬愛し、『「わが小林一三」――清く正しく美しく――』という小説を書いた芥川賞作家、阪田寛夫は、同作品の中で、「人文的世界・阪急沿線」という概念を打ち出している。そしてそれを作ったのが、小林一三だというのである。阪急沿線地域について次のように書いている。
「阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入り口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚から宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中辺りまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌、川筋に、まるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を以って地表をしっとり蔽っていた。いまから四〇年前のことである。
すべて山の斜面に面しており、中でも西宮―神戸間は海から山へせり上がってゆく狭い傾斜地を、一番海に近い家並みに沿って阪神電車、すぐその上を阪神国道電鉄(今日の阪神電鉄)、もう一段上を官鉄(今日のJR)一番山手を阪急電車が並んで走っていたのだが、一番上の線路のなお上に大正以来造られた住宅街は、山際をかすめて、大阪神戸間を二五分で駆けぬけた小豆色で統一された電車の姿や機能と相俟って、長い長い立体的で緑色の休息地――これまでの日本にはなかった、宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上に形作ってきたように思われる。昭和でいえば十年代半ばごろまで、……おそらく日本国中どこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅街はない」(阪田寛夫 わが小林十三)
著者の阪田は、少年時代のある日のたそがれ時、赤松の香りにむせぶような、その街の一画に立って、感傷に身を包まれ、洋風赤屋根の家の瓦や壁が紫色に染まっていくのを眺める。谷間や丘の上の家々に灯がともり、その窓ガラスの内側には、どうしてもスリッパをはいた聡明そうな美しい少女が憂い顔をして、立つていると信じざるを得なくなるのであった。蔦や薔薇の絡みついた家々に住む人には高貴な精神が、息づいているような感覚に襲われるのであった。
そこに住む人は、彼の想像するところ、衣食を大阪より神戸の外人街に依存し、令嬢や令夫人たちは、そこで手練れの職人の手になる外套を着、パンやチーズはトーアロードのドイツ食品店で求める……そんな感傷的な空想にふける少年の耳朶に強く響くのは、その美麗な住宅街の坂下の駅舎の周囲に咲く桜の花を吹き飛ばして、突っ走る、海老茶色の鋼鉄製の特急電車が発する鋭い轟音であった。
梅田駅を発車する流線形でもなんでもない海老茶色の車両が、二本に一本は特急となり、どの特急も西宮北口で前の普通電車に追いつき、三宮まで二五分で走るのだから、実に実用的だが、夢を追う少年阪田には、物足りないくらいであった。
この素敵な電車と共に、宝塚があった。
阪田は次のように書く。
「昭和一五年まで少女歌劇と呼ばれていた宝塚レビューは、これまた大阪育ちの私などにとっては「阪急沿線」と分けることのできない一つの世界の別な呼び方のようなものであった。花崗岩質の六甲と北摂の山塊との境界を流れてきた武庫川が大阪平野へ出る場所にたしかに宝塚という明治生まれの温泉地があった。その対岸に箕面有馬電気軌動線(阪急の前身)が、明治末から大正の初めにかけて建設した『新温泉』の建物のなかで、女ばかりの『学校』が『歌劇』の余興を続けているうちに、主客が転倒して少女歌劇の方が有名になってしまったには違いないのだが、この美酒に一度でも酔った人にとっては、それは形の無い香しい雰囲気のようなものであった。
……西宮北口にプラットフォームに降り立つと、山から吹き渡る風の匂いがまるで違って爽やかだった。たちまち私たちは精神の平衡を失った。プラットフォームに袴をはいた若い女性がいたとすれば、誰もが宝塚の生徒かと疑われた。男役の人たちは短く髪を刈り上げ,七三に分けたり、オールバッグにしたのを、ポマードで押さえつけていたからすぐ分ったが、娘役は普通の女の人と区別はつかなかったというより、この電車に乗る女の人は、身も魂も美しいという信仰がこちらの胸に最初からあって、その象徴が宝塚の生徒なのであった」(前掲書)
この作家の「阪急沿線」に対するほれ込みようは、それこそ信仰と化しているようにさえ思える。なお著者は続ける。
「……今津線の宝塚線に乗り換えて、三つ目の下車駅に来ると、(中略)このレールの先の同じ平面に、宝塚という匂いのいい世界が実在することがほとんど信じられないほどであった。それでいて、駅を出て丸い白みがかった石でしっかり土手を固めた水の無い川に沿い、松の枝の間から、時々赤い屋根の見える住宅街や、高台の果樹園や、まだ家の建たない広い松林だのは、すなわち宝塚の舞台装置であり、もう始まっているオ―ケストラの音合わせの響きなのであった」(前掲書)

宝塚の、この赤い屋根の住宅街に、手塚治虫が育った家があった。
だから、手塚は「阪急沿線文化」によって純粋培養された人間と言えるのだ。
先の阪田の表現を借りると、赤松林に四季だけがめぐってきた場所、ある日美しい住宅が生まれ、最初の種まき人である小林一三の意図を超え、おのずから美女の顔立ちをした住宅が育っていった。そこに住みついたのは妖精でも天女でもなく、具体的には大阪や神戸に仕事場を持つ人たちがその家族であった。その阪急沿線に生れた住宅街の住み手は、宝塚方面は部長、課長クラスであったという。
文学者らしい美化した表現であるが、この町は日本の資本主義社会が生んだ市民社会の人々の住み家であった。
東京にも田園調布や成城学園とか、近代的な住宅地が、昭和年代にできたが、これらは東急系電鉄を作り上げた五島慶太に招聘された小林一三の指導の下に出来たか、その真似であった。近代的な住宅地は、最初は小林一三が、阪急沿線に創造したものである。

手塚家の系譜

手塚治虫が五歳の年、住友金属の社員だった父の手塚粲(ゆたか)は、西宮から宝塚に引越した。大阪で、住友の社員と言えば、それだけでエリートであった。東京で三井、三菱の社員というのとはちょっと違ったニュアンスがあったようである。これは私が財界記者の頃、住友系の人と交わり会得した感覚である。
治虫の祖父太郎は、関西大学創立者の一人で、長崎控訴院長を務めた法律家であった。治虫の曽祖父は緒方洪庵の適塾出身の伊達藩藩医だったという名門の家柄、新しき阪急住宅に住むにふさわしい系譜であった。
だから手塚は、典型的な阪急沿線文化の先端的担い手の家に育ったわけで、そういう自己の育ちに、内心、強い矜恃をもっていたに違いがない。
手塚は、池田の池田師範付属小学校(現大阪教育大学付属小学校)というエリートの子弟がゆく小学校に通い、大阪の秀才校No1と言われた、府立北野中学に進学、さらに浪速高校を経て、大阪大学付属医学専門部を卒業するという秀才の道を進んでいった。

漫画家には、こういう育ちの人は殆どいない。地方の漫画好きの少年が、志を抱いて、上京して、苦労しながら画を出版社に持ち込みをやりながら、次第に認められて、世に出るといった、立志伝型の作家が多い。
例えば、加藤芳郎は、都庁の給仕をしながら、漫画を描きたくてたまらず、川端画学校の夜間部に通い、アサヒグラフその他の雑誌の投稿欄に投稿するということから、漫画家への歩みを始めた。その川端画学校で、やはり漫画を投稿していた小島功と知り合い、お互い切磋琢磨しあうという仲になった。
小島は尾久の洋服屋の長男に生まれ、当然親の跡を継がなければならないのを、何とか親を説得して、漫画の投稿をしていた。
もっと若手の、秋竜山は伊豆の漁師の息子、漁師をやりながら、漁村の若者宿から、漫画の投稿することから始まった。
サトウサンペイや杉浦幸雄など裕福な育ちの人もいたが、それなりに、世に出るまで衣食には苦労した。
少年漫画でいえば、藤子不二雄の二人、安孫子素雄、藤本弘二人は、富山県から、上京し、今日有名になったトキワ荘に住みつき、漫画家を目指した。そのトキワ荘に、満州引揚者の赤塚不二夫、岩手から上京した石森章太郎、寺田ヒロオなどなどが住みつき、それぞれの道を開いて行ったことは今更、言うまでもないことだ。

手塚は漫画家となり、日本一の稼ぎ頭となっても、以上述べた阪急沿線住宅地の人の住人生活を崩さす、むしろそれをよりどころとしていたといえる。
手塚は、多くの連載漫画を抱え、多忙過ぎて、締め切りにおくれがちな手塚の行動に、つねに多くの編集者の目が光っていたことは前に縷々述べた通だが、手塚は「逃げの名人」と言われ、編集者の目を逃れ、消えていなくなることがままあった。マスコミのパーティーなどで手塚の周囲には編集者がたむろし、或いは監視の目を光らしていた。にも拘らず行方不明となるのだ。
先に紹介した石津嵐は、よく手塚がパーティーに出るとき、きっと抜け出てくるから、どこそこで待っていてくれ、二人だけでゆっくり、一杯やろうと言われた。そして必ず監視の目を逃れて約束の場所に現れた。
「どうやって、抜け出てくるのか分らないけど必ずやってきた」
と石津は語るが、そうして苦労して出てきて、大酒を食らい、女の子の尻でもさすって騒ぐといったことをするかと思いきや、手塚のすることは、
「たいしたことはないのさ、例えばバーの『数寄屋橋』の皮の禿げたような粗末なソファーに座ってさ、ウィスキーを一,二杯、舐めるくらいのことで帰ってしまう。酔っぱらったり、騒いだりしたことは一度もない。あれで息抜きになったんだろうか」
と石津はいう。寝る間もない忙しい手塚にとって、たとえ十分でも自由な時間が持てればよかったのだろうか。私が思うに、手塚の観念でいえば、それで銀座で飲んだくれた事になるのだろう。手塚の書いたものを見ると、よくそんな表現をしている。その実態は以上のようなものだったと思う。

彼の本当の休息とか慰藉は、やはり阪急沿線の紳士としてのそれであらねばならなかったのだ。それは赤い屋根の住宅の中、綺麗に片づけられた美しい部屋で、家族と団欒することにあった。すなわち小林十三が期せずにつくった阪急沿線の文化の中に浸ることが、最大のリクリエーションだったのである。今その家庭の一場面を紹介しよう。
手塚の妻悦子が書いた『手塚治虫の知られざる天才人生』(講談社文庫)という本の後書きを子供達が書いている。娘、千以子の文章に次の一節がある。
「父と母はとても仲の良い夫婦でした。居間で私がテレビを見ていると、その横で父が母の膝枕で耳掃除をしてもらっていたり、あるいはこたつの中で足の引っぱりあいをしていたり。また、テレビからワルツが流れてくると、父は母を誘って立ち上がり、ダンスを始めます。二人とも恋人同士のようにはしゃいでいるのを見ると
『とてもお見合いで結婚した夫婦に見えないぞ』と感じます。いつか結婚したら、自分もこんな夫婦になりたいなぁと、あこがれていました」
そうして、なにかのお祝いでもあると、手塚はバイオリンを弾き、ピアノを叩き、家族で合唱する……。
手塚の精神の慰藉、そして肉体の慰安はここにあったのだ。
しかも手塚は、この家庭内でも、子供たちを一個の独立した人間として扱い、上から親の権威を使って言うことをきかしたり、過剰な甘えをさせることはなかったと、長男真が講演の中で、語っていたのを思い出す。
手塚は、阪急沿線の紳士としての、典型を演じ、その中に、紳士としての威厳、自負、をもって生きていたのだ。

宝塚と共に育つ

宝塚の手塚家の住まいは歌劇長屋と通称された地域にあった。そこには宝塚歌劇のスターたちが住んでいたからだ。隣に天津乙女、雲野佳代子の姉妹が住み、母親が熱心な宝塚フアンであったため、この二人に可愛がられたことは既に述べた。治虫は、舌がまわらない頃、「歌劇ねえちゃん」と呼ぶところを「タヌキねえちゃん」と呼んで笑われたものだという。
つまり、三,四歳のころから、毎月のように母親に連れられて、宝塚大劇場に行った。
長じてからも、手塚は宝塚を日常的に観ていたようだ。
講談社の漫画全集281 新宝島 に「ぼくのデビュー日記」と称して、大阪大学医専の学生だった昭和二一,二年の日記が併載されているが、それを読むとその一八,九歳の頃、宝塚大劇上に、よく見物に行ったことが、わかる。
例えば昭和二一年六月八日に「ヅカへ行った。割合良い席であったが、歌劇はあまり良くなかった」
とあり、六月二七日には「朝五時から新温泉の行列に立たされて、友達の義理と言いながら……」とあり、著者の注がついている。それには、当時宝塚劇場はよい席をとるため早朝から入り口に行列する。私は宝塚に住むものだからその役を仰せつかったとある。
また「母、美奈子(妹)と歌劇に行く」という文字も散見される。
またその頃すでに宝塚歌劇の機関誌、ファン雑誌「歌劇」「宝塚グラフ」などに、漫画を連載していたのだから驚く。
前述の日記に、その件についての記述が散見される。
昭和二二年三月二九日「本日、「歌劇」発売、小生の漫画が綺麗に出ていた。
五月一一日「一日中宝塚グラフの原稿」
五月一五日「歌劇事務所に拠ったら先日の漫画が気に入られたそうである」
このような記述が、随所にある。ということは、幼児の頃から成人するまで、宝塚歌劇にどっぷりつかり、そこから栄養を吸収してきたということであろう。それが漫画を描くようになって、文字どおり、鶴見俊輔の言う「想像力」の背景に成ったことは確かである。

宝塚の歌劇というものは、歌劇とは言いながら、全く西洋の「オペラ」とは別物で、全くの宝塚、小林一三の創造物である。
そのストーリーは、日本で言ったら、神話から、源氏物語から、中世、江戸時代をへて、近代文学に到るまで、最近では「ベルサイユのばら」のよう舞台で、西欧の楽器による音楽にのせて演技者が、歌とセリフにのせて、ものがたりを進展させてゆく。しかもその演技者は、しっかりと訓練された若い女性ばかり、男性役も老人役も若い女性が演ずるという歌舞伎と正反対の役作りで、演じられる。
勿論欧米の原作についても日本のそれとと同様、あらゆる舞台芸術、文芸作品からも、それも古典から現代作品までを、材料として、脚本をつくっていった。
これらのことは、長い年月をかけて、小林一三が、若いころ文学を志したという文才を生かし、自ら率先脚本を書き、後進の専門家を導いて創り出したものである。
しかも、レビューという、舞踊、歌謡による絢爛たる、舞台芸術を作り出し、興行のフィナーレを飾るという方式まで、独創したのである。
筆者は、この本書の原稿執筆中、たまたま初演時の「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネット役を演じられた、宝塚月組のプリマドンナだった、初風諄さんに知己を得たのを幸い、宝塚東京公演の二,三をご一緒させていただいた。初風さんのお陰で、その組のトップスターに会うこともできた。
そこで最初に感じたのは、男性の観客が思ったより多いということだった。勿論若い女性が圧倒的に多いには違いないが、男性が真剣に観劇していることにあらためて驚かされた。
そこで私は、日本の昨今の舞台芸術を考えると、リードしている集団は三つだと思えたのであった。一つは歌舞伎、一つは宝塚歌劇、一つは劇団四季のミュージカルではないか。その是非はともかく、宝塚は日本の最強の舞台芸術であることは確かだろう。
歌劇の舞台の面白さもさることながら、レビューの絢爛たる美しさも大変なものがある。
主役のスターが、舞台いっぱいに広がった階段を下りてくる華やかさ、そのスターが背負う羽飾りの大きさは尋常なものではない。
「あれは二〇キロもあるのです」
と、初風さんは言った。
この絢爛たる存在が、肥料となり、栄養となり、手塚のあの芳醇な漫画を生んでいったのだろう。
春日野八千代、越路吹雪、久慈あさみ、有馬稲子、淡島千景、月丘夢路、乙羽信子、轟夕起子、霧立のぼる、小夜福子、宮城千賀子、葦原邦子、寿美花代と、思い出すまま名前を並べただけでも、凄い顔ぶれだ。この人たちの舞台を、手塚は見つめたのだ。無数の彼女たちが作る舞台が、漫画を生む土壌とならぬはずはない。

手塚は、描きたい。描くことはいくらでもある。頼むから、仕事をさせてくれ。
手塚はそういって、あの虫プロが倒産し、何億の借金を背負いながら、あたかもなにごともなかったように、描き続け、漫画界第一人者の地位を微動だにも、させなかった。
昭和六年、発展途上にあった、宝塚大劇が火事になった。これで下手をすれば、せっかくファンを集めてきた、宝塚少女歌劇が、消えてなくなるピンチに立った。小林社長も焼けるおちる大劇を見つめていた。
だが箕面有馬電軌以来、阪急電鉄の急行化、住宅地の開発、少女歌劇と幾多の難関を乗り越えてきた小林は、わずか五二日間で、大劇場を再建させ、何事もなかったように、旧の如く少女歌劇を続けて行った。
或いは、戦後最大のストライキによって、目茶目茶になった東宝映画を、社長に復帰するや、たちまち復旧させ、何事もなかったように、旧に倍して繁栄をさせていった小林一三、その姿と、日本最初のテレビアニメ、アニメ映画を作った虫プロが無残な姿で倒産したにもかかわらず、借金取りが押し寄せる中で、平然と漫画を描き続け、ことが落着した後、何事もなかったように、一層漫画界における権威を増していった手塚と、その精神の強靭さにおいて通底、共通するものがあるように思えてならない。
それは手塚が、宝塚から学んだ、漫画のアイデアの出し方を持っていたこと、その腹の底には、あの美しい、阪急沿線の住宅地で培われた、端正で、力強い紳士の精神を持ち続けたことに拠ると私は確信する。

私の手塚治虫 第28回  峯島正行

  • 2016年8月24日 11:54

私の手塚治虫(NO28)
峯島正行
虫プロの終焉

「展覧化の絵」を自腹で制作

前回まで、虫プロの経営を担当した人たちの不適正というか、経営能力の足りなさ、そして不正まで飛び出し、虫プロの経営を難しくしたことを、縷々述べた。その経営力の無さが、手塚の年来の目的とした芸術性の高い、実験的作品の制作まで、困難にすることになった。
漫画家、九里洋二、柳原良平、イラストレーターの真鍋博の「アニメーション3人の会」が、昭和39年から「アニメーション・フェスティバル」と称して、一般に参加を求めたが、虫プロの人々は無関心であった。手塚は、小品を出品した。それを機に手塚は、漫画家や画家に、実験的アニメーションのイニシアチブをとらせる前に、本職の虫プロこそが、核になるべきだとして、虫プロの役員会に、劇場用の実験的アニメ、「展覧会の絵」の制作を提案した。昭和41年のことである。
役員会は資金繰りの苦しさを理由に、手塚の提案の受けいれを渋った。「展覧会の絵」は手塚が前から温めていた企画で、ムソルグスキー作曲、ラベル編曲「展覧会の絵」10節の各節を、視覚的にイメージ化して、具体的なエピソードを造り、それを繋ぎ合わせて、芸術的な世界を表現しようとするものであった。
考えてみれば、手塚が、虫プロを作った目的は、芸術的実験アニメを制作することで、テレビ・アニメ制作は、その資金を作る手段だったはずである。それが今や目的と手段が逆転してしまっているのだ。
手塚は役員会を無視して、二千万円の自腹を切って、この実験アニメを制作した。それが、完成したのは、昭和41年秋だった。
虫プロのテレビ・アニメの方は、その年の夏過ぎから、子供向きに作られた「ジャングル大帝、進めレオ編」の視聴率が急落し、翌年の3月で放映打ち切りが決まっており、テレビ・アニメの第一弾として、まる4年朝野を沸かせた「鉄腕アトム」も年内打ち切りが決まっていた。代わって、すでに紹介したように手塚の漫画「ぼくの孫悟空」を原作にした「悟空の大冒険」と「リボンの騎士」が制作中であり、前者は翌昭和42年の1月7日から、後者は、4月5日からの放映が決まっていた。
丁度そういう時期であったためか、その年の11月11日、虫プロは麹町区平河町の都市センターホールを会場に「第二回虫プロフェスティバル」という名前で、アニメの試写会を催した。手塚が自費で制作した40分ほどの実験アニメーション映画、「展覧化の絵」と1月から放送の決まったテレビ・アニメ「悟空の冒険」の第一話が上映された。それは昭和37年に、催された「ある街角の物語」と「鉄腕アトム」第1話が発表された「虫プロダクション第1回作品発表会」以来、丸4年ぶりの催しであった。
実験作品「展覧会の絵」は、それなりの評判を呼んだ。翌年の1月から2月にかけて、芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞、文部省推奨の教育映画として「丸の内ピカデリー」で公開された。また毎日映画コンクール大賞を受賞した。

「悟空」の失敗

テレビ・アニメの方は「ジャングル大帝」が専門家の受けが良かったにも拘わらず、視聴率が急速に下がり、ついに10パーセントを割るに至り、昭和42年の3月をもって打ち切りとなったのは前述したが、その理由については、手塚は、この作品の制作から始めたプロデューサーシステムの失敗だといっている。
「若いスタッフ――特に学校を出たての演出家たちは、自分の個性をアニメに出してみたいという意欲が強く、それが虫プロのモットーの一つであった“子共に最良の夢を与える”という線から、いつか大きく外れて、作品を玄人受けするハイブローなものにさせてしまったらしい。つまり作家意識が強く出すぎたのである。残念なことにプロデューサーシステムは、もう一つの弊害をもたらした。虫プロ内部を極めてセクト化してしまったことである。たとえば、『アトム班』と『ジャングル大帝班』とに分けたところ、班員たちが自分の城を守る事に精いっぱいで、班員の交流どころか、お互いをライバル視して顔もあわさない、という空気さえ生じた」
と手塚は書いている。(「現代」 昭和42年9月号 鉄腕アトム苦戦中)
この状態を見て、手塚の現場復帰が要請されたが、時すでに遅く、現場には、強い縄張りの箱のようなものが出来ていて、手塚でもその中には入れなかった。
かくして、理想に燃えて始まった虫プロも理想の方向から遠ざかり、手塚の意志の及ばない存在になっていったのであった。

「鉄腕アトム」の後を継いで、昭和42年正月から始まった「悟空の大冒険」も、虫プロの幹部やプロデューサーが、力を入れた作品にも拘わらず、思うような人気は出なかった。その年の9月いっぱいの放映で打ち切られる運命にあった。
また42年になって、制作を開始した手塚原作の漫画をアニメ化した「0マン」のパイロットフィルムが秋に完成,これを各テレビ局に提示したが、買う局はなかった。
そうすると、フジテレビ系列で4月から始まった「リボンの騎士」一本しか、虫プロ作品は、放映されていなという状況に陥った。
虫プロの存立に、影が差し始めたといっても過言でなさそうな状況となった。虫プロにとって、鳴り物入りで作り上げた、「悟空の大冒険」の失敗が大きく響いた。
悟空の失敗について、前掲文の中で手塚は次のように述べている。
「『孫悟空』は虫プロでは、ハイブローな『展覧会の絵』につぐ虫プロ第四番目の作品であるから、当然ある程度の俗受けする作品を作ることにしていたが、これが逆にハイブローな作品になってしまった。プロデューサー中心にがっちり固まった『強い箱』は、原作者の意見も、なかなか聞き入れてくれないようになってしまった。
更に悪いことにアメリカに売ろうとして、必要以上にバタ臭くしてしまったことである。
どんなにバター臭くしても、アメリカに売れるはずがなかった。アメリカでは昔からサルを主人公とした漫画はタブーだった。もう一つ、悟空には魔法が多すぎた。これもアメリカ人には理解できないことだった。
ボクはこれらを指摘して、日本人だけに向くストーリーで、制作費のかからない白黒で作るように助言したが、どういうわけか、カラー作品となり、内容も原作者のぼくがみてもよく分らない作品になってしまった。かくして子供たちに見放されて視聴率はガクンとさがった」(前掲文)

アニメ界の変貌

このような作品上の問題もあって、虫プロの営業成績に響いていったのであるが、そればかりでなく、テレビ・アニメが創始以来、五年の歳月がたち、アニメ界の周辺事情の変化も、営業に響いてきた。
この年、昭和42年10月の段階で見ると、国内で放映されているテレビ・アニメは,週15番組を数えるに至っていた。制作プロダクションは11社になった。そのうち4社が、週二番組を制作し、7社が一番組であった。虫プロは「リボンの騎士」一番組のみであった。
この問の状況について、虫プロのプロデューサーだった山本暎一は次のように述べている。
「15の番組枠を、11社で取り合うのだから、競争は激烈になる。どこの社も経営を維持するため、最低、週に2枠は欲しい。さらに、新しく参入を狙う社もある。そこで、売値をダンピングしたり、マーチャンダイジングの歩合を局に与えても、枠をとろうという社が出てきた」(「虫プロ興亡記」 一九八九年 新潮社)
かくして、テレビ・アニメ市場は、売り手市場から買い手市場に変わった。それが今まで制作プロダクションが主体だった作品市場も、買い手のテレビ局が、イニシアチブをとる傾向が強くなった。
これらの状況は虫プロに不利に働いた。それについて、山本はおよそ次のように、前掲書の中で述べている。
「虫プロは手塚を先頭にした、作家プロダクションである。資金作りのための作品でも、作家活動の一端だというプライドがあった。手塚の体面から言っても、他のプロダクションのように卑屈な商法や、あこぎな商売は出来ない。そうなると、どうしても競争力が不利になる。
それに、この頃、週刊児童漫画誌が急速に発行部数を伸ばし、一号数百万の単位で、発行されるようになった。そうなると、そこに新たに多くに人気漫画家が生まれた。横山光輝、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水木しげる、ちばてつや、川崎のぼる等、彼ら作品を原作にすれば、第一人者の手塚を大事にしなくても、原作に困ることもなくなり、視聴率を取れなくなることもなくなった。
だから手塚を総帥とすることが虫プロの決定的なメリットではなくなった。手塚原作の「0マン」が売れなかったのもこうしたアニメ界の状況変化と無関係ではなかった。
この秋、虫プロ関係で売り込みに成功したのは江戸川乱歩の小説、「少年探偵団」のアニメ化である「わんぱく探偵団」であり、虫プロ商事が作った川崎のぼる原作の「アニマル1」であった。どちらもテレビ局主導で生まれたものであった」
以上当時の虫プロの置かれた状況を端的にとらえていると思われる。

アニメラマ「千夜一夜」の人気

このような状況下に置かれた虫プロとしては、そこから脱却するために、なにか強烈な新企画をたてなければと、手塚が頭をひねっている時、「日本ヘラルド映画」から、劇場用の長編アニメーション映画をつくるよう要請があった。
ヘラルドの波多野三郎専務が、ヘラルドは映画の輸入をやってきたが、たまには映画を輸出して、外貨を稼ぐ方法はないかと考えた末、浮かび上がったのが、長編アニメ映画の輸出であった。それも大人が喜ぶ本格的な大衆娯楽作品にしたいということになって、その制作の相談に、手塚を訪れたのであった。
ヘラルドとしては、最初から海外輸出を狙うのではなく、まず国内で封切って、その売り上げで、制作費と宣伝費を回収して採算をとり、それから海外輸出を図るという考え方だった。国内の封切館としては、東京の代表的封切館である新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、東銀座の松竹セントラルでロードショウをする。すでに興行関係者は乗り気なのだと、波多野専務は 手塚に語った。
日本で最初の大人向けの大衆娯楽作品の長編アニメ―ション映画をこれまた日本で最初に超一流映画館で、ロードショウをする。まるで夢のような話である。手塚は、すっかりこの話に乗った。
ところが、当時の虫プロの財力では、制作費が出せないことが明瞭だった。この時点で、虫プロのテレビ・アニメは「リボンの騎士」一番組の放映しかなく、制作中の作品の前払いを受けて、ようやく凌ぐ状態だった。まして数千万円はかかるであろう、長編アニメ映画の制作費が出来る筈はなかった。
手塚は、それでも千載一隅の好機をのがしたくはなかった。そこで翌年になってからヘラルドに、制作するアニメの配給収入の前払いを交渉した。その結論が出るまで三か月もかかったが、配給収入の前払いと製作費の借入もヘラルドは承諾したが、配給収入のヘラルドの取り分は70パーセント、虫プロの取り分は、30パーセントになってしまった。
その取り分では、赤字になる可能性があったが、それでも、手塚は後に引かなかった。
作品タイトルはアラビアンナイトから題材をとった「千夜一夜物語」と決まり、昭和43年4月、両社社長の間で契約がまとまった。
早速、制作、総指揮、構成手塚治虫、監督山本暎一で、制作が開始された。手塚のシノプシスによって、ストーリーが出来てゆく。

――砂漠のかなたからバグダッドにやってきたアルディンは、水売りとなる。ある日奴隷市場で、美しい高価な女奴隷ミリアムを見初める。しかし貧乏な水売りには、買えない。折からの竜巻を利用してミリアムをかっぱらう。ミリアムとの熱愛。奴隷泥棒の罪を問われて、投獄されたが、そこから脱走、様々な困難と戦いついバグダッド一の富豪となり、王様となり、この世の快楽と富を謳歌するも、それも空しいものと悟り、より大きなものを求めて、砂漠の旅に出てゆく――
エロチックなシーンいっぱい、戦いあり、冒険あり、目くるめく、物語が展開する。

登場人物のキャラクターのデザイナーにやなせたかしを起用し、主人公の声優に、参議院議員になったばかりの青島幸男を、美貌の女奴隷には岸田今日子を依頼した。その他の声優は、劇団「雲」総出演となった。芥川比呂志、小池朝雄、伊藤幸子、加藤治子、文野朋子、三谷昇、橋爪功などなどである。手塚はまた、知人、友人の有名人に、一言ずつの声の出演を依頼し、にぎやかな完成を期した。すなわち、遠藤周作、吉行淳之介、北杜夫、筒井康孝、小松左京、大橋巨泉、大宅荘一、前田武彦、大橋巨泉、野末陳平等々。
しかし制作は、テレビ・アニメの制作と絡んだり、シナリオが進まなかったり、さまざまのことがからんで完成が遅れにおくれ、最後は昭和44年6月12日の封切り日の朝まで、かかってしまったという。

ふたを開けてみると「千夜一夜物語」は大ヒットした。業界ではこれをアニメラマと称し、売りまくった。アニメラマとはアニメーションとシネラマと結びつけた造語だった。
その年の日本映画の興行成績の第三位になった。その配給収入は、3億600万円であった。ヘラルドは、配給収入から経費として宣伝費とプリント代、8千800万円を引き、残りを7・3で分け、6千540万円を虫プロに払った。制作費の予定は4千500万円だったが、実際は、7千450万円かかってしまったので、910万円の赤字だった。「初めての試みだったので、内容に力を入れすぎたのであって、次回作からロスを減らせれば黒字になしうる」と山本監督は言った。
大人向け長編大衆娯楽アニメーションに、手塚は自信を持ったようで、二作目の話が持ちあがった。

「千夜一夜物語」に次ぐアニメラマ第2弾は「クレオパトラ」と決まった。手塚と山本が共同監督、キャラクターは小島功に依頼、そのストーリーは、数奇な運命をたどった美女クレオパトラの半生を、奇想天外なアイデアと妖艶なエロチシズムを、古代エヂプトとローマをバックに描く壮大艶麗な世界である。
昭和45年9月に無事に公開された。「千夜一夜物語」と同様、新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、東銀座の松竹セントラルのロードショウで封切られた。その配給収入はその年の第10位、海外への販路も伸び、一応の成績を収めることができた。これにより、劇場用長編アニメーションの前途は、一応定着したと手塚は自信を持った。
虫プロは、「千一夜物語」「クレオパトラ」のアニメラマの制作中も、テレビ・アニメの制作は、紆余曲折はありながらも、続けられていた。すなわち「わんぱく探偵団」の後、川崎のぼる原作の「アニマル1」石森章太郎原作の「佐武と市捕り物帳」、時代物怪奇物語「どろろ」、ちばてつや原作の「あしたのジョー」外国の原作の「ムーミン」牧野桂一原画の「アンデルセン物語」と続いていった。ただし、手塚の原作が少なくなり、原作を外に求めるようになったのも時代の変化による事で、やむを得なかったのかも知れない。

プロダクションの凋落

昭和46年代になると、アニメ界は「鉄腕アトム」のころと全く違った様相を呈するようになった。それを山本暎一の「虫プロ興亡記」では、次のように説明する。
「マーチャンダイジングの収入は『鉄腕アトム』の頃には、原作者と制作プロダクションのものだった。ところがテレビ局が、放送がなければ発生しない金だからと、当然の権利として分け前をとるようになった。さらに出版社や広告代理店、それぞれもっともらしい理由を振りかざし、分け前を要求して割り込んだ」(前掲書)
更にアニメを本にして出版したり、再編集して映画館に掛けたり、レコードを出したり、いろいろ二次使用で稼ぐことが広まった。そうなると次第に、アニメの制作主体は放送局になっていった。放送局が作品を決定し、広告代理店、原作の出版社、レコード会社、音楽出版社、などとプロジェクトを組み、アニメの制作が行われるようになった。アニメ・プロダクションはそのプロジェクトの一員に組み込まれ、テレビ局の指示にしたがって番組を作る下請け工場に位置付けられてしまった。そうして、プロダクションは作品を納入して、テレビ局からくる制作費だけで、採算を合わせるようになる。
そのプロダクションは、局から受け取る制作費から、まず利益金を差し引きして、残った額を制作費にする。そうなると高い月給をアニメーターに払うより、独立したアニメーターと契約し、制作費にみあうように出来高払いのアニメの料金を払うようになる。こうして、プロダクションの中核として、作家意識旺盛な誇り高きアニメーターが単なる下請けになっていくのはやむを得ない。それでも月給より、稼げるとなればいいとして、大勢に従うアニメーターが増加していった。
かつてアニメ・プロダクションは、アーチストとして、誇り高いアニメーターやカメラマンや演出家が切磋琢磨する創造の場であった。今やそのスタジオが、単なる制作管理事務所、外注から外注へと画の集散の場と化した。
この劇的変化が、夢の集散地だった虫プロの終焉の背景となって、手塚を敗北の道へと導くのであった。
そうして、虫プロの社内は、虫プロを事業体と重視する派と、虫プロ創業の方針だった、作家性と芸術性を重視する派と社内二つに割れた。
手塚は誰の作品を虫プロでアニメ化してもよいが前衛性、作家性こそ、虫プロの基本でなければならない。その作家性を維持するために、金を儲けるのであって、儲け仕事のための虫プロではないと、心底思い詰めていた。
だが、それに反対する勢力が虫プロの半分を制していた。
その辺が、筆者にはわからない所であった。虫プロの資本の全額は手塚の出資によるものであり、創業以来の、莫大な赤字は、手塚の腕一本で稼いだ、漫画の原稿料及び手塚の個人資産をつぎ込んで埋めてきたものである。
その絶対の資本家の方針に従わない会社の重役や社員が存在することは、一般の経済社会では許されないのである。それが虫プロ社内では、堂々とまかり通っていたのは、誠に不思議な現象と言わねばならないだろう。
その無法な事態が、虫プロでは罷り通ってしまっていたのだ。
虫プロの今後をアニメ集団で行くのか、営利事業で行くのかという手塚の問いかけに、なんども何度も社員総会が開かれたが、社内の体制は、後者を選んだ。
昭和46年6月、手塚はここまで育んだ虫プロを無き物にするのは、忍びがたかったのだろう、虫プロのそれまでの一切の借財を自分の借財として、社長の座を降りた。
後継社長に、制作部長だった川端栄一が選ばれ、資本金を200万円から1千万円に増資した。その資本金はだれが負担したか不明である。そして、労働組合も結成された。

倒産への道程

手塚は、すでに漫画制作のために創立した「手塚プロダクション」にこもって漫画を描いていられるならば、ことは平穏に過ぎたかもしれないが、そうはさせてくれない事情がった。
それは子会社の「虫プロ商事」の存在であった。虫プロ商事は、虫プロをアニメ制作だけに専念させて、独立採算出来るようにするため、虫プロの営業部、出版部、版権部を分離させて創立した会社であった。虫プロの専務今井義章を社長にして出発した。これを創立させた当時の穴見薫以下の虫プロの担当重役の迂闊さから、とんでもない結果をもたらすことになった。
それは虫プロ商事が、虫プロと競合するような事業に手を出さないことを定款等に明記し、虫プロと商事が競合することが無いように措置しておかなかったことだ。旧虫プロの経営者が、一つの事業体が組織されると、思わぬ方向に動き出すことがあり得るという、経営的常識がなかったためであろう。
案の定、商事の連中が、虫プロがなかなか採算の取れる事業体にならないため、手本をみせてやるというような余計な事を言いだし、商事が虫プロと同じく、アニメの制作を始めてしまった。それが「アニマル1」であり、「バンパイヤ」であった。その結果は、両方とも赤字、とくに後者の赤字は莫大だった。手本を見せるどころではなかった。それでも懲りず、日本テレビの番組の下請け的な仕事に、手を出していった。
これには、虫プロの幹部が大憤慨していた。もし商事に、手本を見せる力量があるなら、商事の社長の今井が、虫プロの専務であるのだから、虫プロでやればいい。
ただでさえ虫プロのシェア減少傾向にあるのに、虫プロを苦しくさせるだけではないか……。この場合今井という手塚子飼いの人間は、なんということだろう。手塚を苦しめる役割しか果たしていない。
商事の出版部は、最初、漫画雑誌「COM」を発刊、そこに、手塚の生涯をかけて描く大作といわれた「火の鳥」を連載、また当時の青年漫画流行の先端をゆく編集方針に、多くの読者が付き、相当の成績を上げた。筆者らも勉強のため、よく読んだものである。
やがて「COM」の他、「月刊ファニー」漫画単行本シリーズ「虫コミックス」などを発行する。
しかし、商事の利益の根源であった、マーチャンダイジングによる収入が、テレビ・アニメの手塚の原作による作品が、減るにつれて、激減した。これが商事にとっては大きな痛手になった。それに、テレビ・アニメ制作という余計な仕事で、一層赤字を増やしてしまった。
そんな時、「月間ファニー」の編集長が交通事故死したために「ファニー」が廃刊となり、その為の人員整理問題から労働組合が出来て、労使紛争となった。
ある日、商事の今井社長がやってきて、手塚に団交の席に出てくれという。
「それは困る。漫画を描く仕事があるし、僕は役員でもないし」
「それが先生、先生が社長になったんです。先ごろ役員会で決めて登記したのです。私が社長を降りて」
「そんな馬鹿な」
実は、親会社虫プロの役員でもある手塚の父親が、請われるままに手塚の実印を押してしまったという。それにしても、今井という男は何という男なんだろう。
大衆団交に当たった手塚は、締め切りに追われて漫画を執筆しながらのことで、死ぬ思いをした。結局、何時までもらちが明かず、社員のほとんどが、嫌気がさしてやめてしまい、団交は終わった。
事ここにいたっては、商事の終末も時間の問題であった。昭和46年、新しい担当部長のもとに「てつかまがじんレオ」という雑誌を出したが、返本が7割にも達した。このような状況で、ついに金繰りがつかなくなって、昭和48年8月22日、虫プロ商事は、不渡り手形をだし、倒産した。負債総額は1億2千万円だったという。

虫プロ商事の倒産は、虫プロの存続に強く響くのは当然だ。
昭和47年いっぱいで「新ムーミン」と「国松さまのお通りだい」の2本が、昭和47年いっぱいで、終了し48年4月から始まった「ワンサ君」もその9月いっぱいで終わる予定だった。それが終わると虫プロの仕事の予定はない。
虫プロ商事の破たんは、虫プロ系全体の破産ととらえた金融筋は、虫プロへの貸し出しの道を閉ざした。
長い間、虫プロの作品を放映してきたフジテレビは既に門戸を閉ざしていたし、他のテレビ局も新たに発注することはなかった。
虫プロは終わった。川端社長を始め役員が金融筋に債権棚上げ交渉の努力もむなしく、「ワンサ君」放映終了後、11月5日、不渡手形をだし、負債総額3億5千万円を抱えて倒産した。

手塚を救出した男

手塚治虫は、虫プロ及び虫プロ商事の膨大な債務をすべて、個人的に引きうけていた。
今、手塚はその借金の山を抱えて、それには為す術なく、ただ連載中の漫画を描き続けねばならなかった。
天下の手塚治虫、何処に行く!
手塚の進退は極まった。
その時、一人の男が、手塚の目の前に現れた。この人は、大阪の実業家で、アップリカ葛西という育児用家具を製造、販売する会社の社長の葛西健蔵という人であった。
かつて、葛西社長の経営する会社が、苦境にあったとき、テレビの「鉄腕アトム」を商標として、そのキャラクター・マークを学童用机、椅子、ベビーカーにつけることを思いつき、その交渉に、手塚のところに来たことがあった。アトムのマーチャンダイジングである。手塚は快く許した。そのお蔭で、葛西の会社は繁栄に向かった。
その葛西が突然、現れたのであった。手塚は「どん底の季節」という文章で、次のように書いている。
「『手塚先生、アトムのときはお世話になりました。葛西健蔵です』
『どうも、お恥ずかしい次第で』
『なんぎなことですな、先生、私お世話になったお礼心です。この後始末には私が及ばずながらお手伝いします』
と、葛西氏は僕の肩を叩いた。
『こうなったら思いきった整理をしはることです。出来る限り、債権者や社員の皆さんに真心をもって債務を、お返しし、先生は漫画家に戻りなはれ。(中略) 自分が忙しすぎて経営のでけん会社やってくなんて、意味おへんで。それに自分の稼ぎを全部つぎ込んではるなんて無茶苦茶や』
そして葛西氏は、ご自分が債権者の一人でありながら、先頭に立って整理の指示を始めた」(「手塚治虫漫画全集別巻13 手塚治虫エッセイ集」講談社)

著者が見ることができた虫プロ関連の文献では、手塚の債務の条件、形態、金額、抵当権の内容、債権者名、などが、具体的には、どこにも書かれてはいなかった。したがって再建策、再生の方法も詳細には、なにも分からかった。
そこで手塚の著書「ぼくのマンガ人生」(岩波新書、1997年)に載っている、「闘争心が彼の再生の原動力だった――葛西健蔵さん、苦境時代の手塚治虫を語る」という葛西の談話筆記らしい十頁ほどの文章にある範囲で、抽象的であるが、再生の経過を探ってみる。
それによるとまず、過去の作品は勿論、これから描かかれるものをも含めて、漫画であれ、アニメーションであれ、文章であれ、手塚の全作品の版権を、すべてを葛西氏の所有とする法的な手続きをとった。
手塚の場合、普通の会社の倒産と違って、本人自身が財産であった。機材や、証書を抑えたりする以外に、手塚個人を抑えれば金になる。彼が描く物がお金になり、すでに描いたものがお金になる。手塚個人を抑えられてしまうと、手の打ちようもなくなる。だから、過去、未来の版権を葛西氏の所有にしたのであった。
次に手塚の実印は、手塚夫人に持って貰い、葛西の許可なしには、実印を押してはならないことにした。それまでは実印を押してほしいといわれると、簡単に押してしまったり、もっと考えてから、と思っても、資料の目を通す暇が取れず、結局印を押してしまうことになっていた。だからとんでもない借金があった。
葛西は手塚について次のように言う。「手塚はお金の計算ができない人です。100万円くらいのお金の計算はできるのですが、1億円となるともうわからない。そんな人が経営は、土台無理なのです。鍵のかからない金庫のようなものだった。」
そうして、金庫の口を押さえておいてから、誠実に返済の交渉をした。四百坪の大邸宅の土地建物を売り、オフイスを小さなところに引っ越し、その金を返済に回してゆき、時には、何十人かの債権者の前で、葛西は手塚に代わって土下座して、謝り、そして返済方法の交渉をした。返せる借金は徐々にでも返し、一部は出世払いということにしてもらったりした。こうして絶対絶名の境地から脱出する事が出来たのであった。
それは葛西氏にとっても、大変な事業であった。
「そんな『再生』という大事業は私にとっても大変な事業でした。手塚氏とは一心同体にならないとできなかったのです。おかしいことですが、彼から大阪に毎晩電話がかかってくる。すると僕が風邪をひいているときは、必ず彼も鼻声になっているのです。二,三日おきに東京に通いながら、そんなふうにして、本当に二人三脚で、問題を一つずつかたづけて行ったのです。」
と言っている。そして手塚が絶望の淵から立直れたのは家族の支えもあったろうが、本人の気迫、バイタリテーが、ものを言ったと葛西は結論付ける。
葛西が。二〇人もの債権者の前で、土下座をしている時のこと、葛西が手塚に一緒に立ち会いますか、と聞いた。手塚は、ぼくは漫画を描くしかできません、借金をそれでかえすしかないのです、と言って、隣のビルで漫画を描いていた。怖い債権者が数十人も押しかけてきて、借金返せと迫っているのだ。普通なら、怖くて、怖くて漫画なんか描けるものではないはずだ。この時債権者に詫びながら、手塚は本当に天才だと、葛西は思ったという。
富士見台の大邸宅を売り払って下井草の借家に移るとき、手塚から葛西に電話が掛かってきた。「明日、借家に移ります」と、晴れ晴れした声でいう。明日から新しい生活が始まるのだ、という切り替えの見事さ、頑張りを感じさせる決意の強さに、葛西は打たれたという。

それから、手塚は手塚プロに籠って、ひたすら漫画を描いた。そして「ブラックジャック」という人気作品を描き、人間の真髄を追求した「ブツダ」で、遅すぎた文春漫画賞を受賞した。
葛西は手塚プロの取締役となり、預かった版権を守り、徐々に版権を手塚名義に戻し、一〇年程で、全部が手塚名義に還ったという。
手塚亡きのちまで、手塚プロの後継者の松谷孝征は、葛西を取締役として厚く遇して、その恩義に報いたという。(この項終わり)

私の手塚治虫 第27回  峯島正行

  • 2016年7月21日 09:27

私の手塚治虫 (第27回)
 アニメ鉄腕アトムの四年間
                  峯島正行
  手塚の作家精神  
            
手塚のアニメ制作方針は、前に述べたように、まず、第一に、実験的、芸術的なアニメの制作であり、そういう作品を継続的に制作するための、必用な資金を得ていく必要から、テレビの視聴者大衆を動員できる娯楽的な作品を作っていく、というものであった。その方針にしたがって、最初に作られた実験的な芸術作品が、「ある街角の物語」であり、次に、作られたのが、多くの子供たちを喜ばせた「鉄腕アトム」である。これがテレビ放映され、大成功を収めた。しかしその大成功ゆえに、娯楽作品としての成功を、一層発展させようという雰囲気も、生まれたことは確かである。
その経緯は、前回まで縷々述べてきた通りである。
手塚は「鉄腕アトム」の制作にあたっても、当初の基本姿勢を崩すことはなかった。手塚にとって「アニメ作家とはあくまで、実験作品を作ることで、芸術の前衛を切り開いて行く存在であり、厳しい生き方を強いられるものだ。そうしたアニメ作家の集合体が虫プロである。そんな虫プロが、娯楽作品を作って儲けようとするのは、あくまで実験アニメの資金を得るためで、生活安定のためではない」
この精神に徹していた手塚は娯楽作品である「鉄腕アトム」であっても、手塚の作品として納得のいく作品でなければならなかった。だから実際の制作現場では、一話、一話、制作をするに当っては、最初のキャラクターの原画制作、絵コンテ、シナリオ等、アニメの内容の根本をなす作業は、手塚自身が制作するか、或いは出来上がった案を手塚が承諾するということを厳密に実行した。  一話の作品が完成してからでも、気に入らなければ納期を遅らせてでも、徹底した作り直しをさせた。それには莫大な経費がかかったが、その埋め合わせのためなら、命を削るような思いで描いた漫画の原稿料を、惜しげもなくつぎ込んだ。

ただ、毎月、毎週の雑誌漫画の執筆、それに虫プロの経営の仕事、アニメ制作と、いくつも仕事が重なって、漫画原稿の締め切り時など、アニメのシナリオや絵コンテ、原画のキャラクターなどの仕事が、遅れて、しばしばアニメのスタッフの「先生待ち」という状態になり、スタッフ全体が手を空けて待っているというような状態が現出し、その為に生ずる出費も莫大なものになることも多かった。手塚の理想に共鳴して集まってきたベテラン・スタッフたちも、手塚の精神を自分のものとし、作品の質を維持するために払われる出費がいくらだろうと、自分のベストを尽くすという考え方だった。そのため寝食を忘れ、仕事に没頭するのが、虫プロ・アニメーターの意地であった。

重役たちの問題

以上のような状況の中で、「鉄腕アトム」は次々と視聴率を上げて行ったわけだが、その間、経営に当たる重役たちは、ただ人員の増加をもって、多忙さを切りぬけていったとしか思えないのである。当初6人で始まったスタッフが、昭和四〇年代に入ると、350人に膨れ上がってしまった。その人件費だけでも莫大である。
創業以来勤務している幹部アニメーターの給料は、日本のサラリ-マンとしては超高級になり、航空会社のパイロット並みとなったといわれ、一般のスタッフとの差が付きすぎてしまった。前にも言ったが、これが虫プロ崩壊まで糸を引くことになる。手塚は「といって大勢の社員の給料を上げたら、虫プロは崩壊する。頭が痛い」(月刊「現代」 昭和四二年九月号)と嘆いた。
ともあれ「鉄腕アトム」の成功によって事業としては赤字だったが、巨額の金が動いたことは確かである。巨額の金が動けば、当然それに群がる、わけのわからぬ人物が往来する。社員が増えれば、おのずから派閥や、それによるいがみ合いさえ起きるのは、当然の成り行きであっただろう。
当時、文芸進行課長という職にあった石津嵐はその頃の思い出について、次のように述べている。
「この頃の事では本当にいやな思い出しか残っていない。例えば、上層部では、重役同士の牽制から、役員閥とでもいったものが出来上がり、主だったスタッフたちはそれぞれの閥につながって、何やらきな臭い動きに終始していた。
そんな雰囲気に入りこめないスタッフたちはいつか知らず知らずのうちに蹴落とされ、裏切られ……」(『秘密の手塚治虫』 昭和五五年 太陽企画出版)
それに次いで、石津は、一つのエピソードを紹介している。沢山あった鉄腕アトムの原作も、二年程のするうちには底をついてきて、アトムを続けるためには、オリジナルな話を作っていかなくてはならなくなった。そのストーリーを造るためには、手塚と話しあい、その意中をくみ取って、新規な物語を創作し、それを、シナリオにまで組立てなければならない。その創作とシナリオを造るために、若い新進のSF作家、豊田有恒が起用された。豊田は、こうして虫プロの企画文芸課長の石津の元で、シナリオを書いていた。
ところが、時を同じくして、虫プロの次期作品として、新たに企画されていた作品の重要なキャラクターと近似したものが、某テレビ局の新番組の中で、そのまま使われていることが判明した。明らかに企画漏洩であった。誰かが某局に秘密を流したと疑われた。ところで、豊田が、その某局でも仕事をしていたのである。厭な空気が社内に流れた。豊田が情報漏洩の当事者と疑われたのである。
ある日、石津は役員室に呼びつけられた。そこには専務、常務といった連中がならんでいた。席上、代理店萬年社を辞めて虫プロ常務となった穴見薫が「企画を他局に漏らした犯人は豊田君としか思えない。君は彼の上司として、彼の身近にいる人間だ。思い当たることはないか」と問うた。
石津は自分にこの問題が絡んでくるとは思っていなかったので、驚愕した。
「そんな馬鹿な!豊田君に限って、そんなことをするような人間ではない」
さらに穴見は「某局の作品がつくられている同時期に、豊田君はうちのシナリオライターとして働いていたのだ。彼を疑うのは当然だ」という。
「いい加減にしてくれ、彼がそんな卑劣なことをするわけはないじゃないか。僕は男として、豊田を信じているのだ。彼の人柄を私ほど知っているものはない」
と石津は激怒して、怒鳴りまくった。
それから間もなく豊田の冤罪が晴れたが、一時期的にせよ、冤罪を着せられて傷つかぬ者はいない。豊田はそんな虫プロ幹部に失望して、虫プロを去って行った。後でわかったのだが、この時の真犯人は、石津を難詰したその重役にごく近い人物だった。
「よくもまあ、ぬけぬけとあんな尋問めいたことがやれたなものだ」と石津はそんな重役の存在を嘆いた。豊田は、その後、SF作家としてどんどんと実績を上げて行った。石津もやがて虫プロを去り、SF作家としての道を歩んでいくことになるわけだ。
このような経営陣を抱え、生涯の夢だったアニメを作っていった、手塚に、深い同情の念を禁じ得ない。
しかも、多くの従業員を抱えるしか能のない、これらの幹部たちが、虫プロがいつまでも赤字である責任を、芸術にこだわるあまり、仕事を遅らせ、出来上がった作品を自分のイメージに沿わないと、平気でリテイクをさせる、手塚の責任のように言いまわしていることを思うと、手塚の純粋さが気の毒で、涙が出てくる。

豊田有恒は、後年虫プロ時代を回想して、次のように言っている。手塚は「実際のところ、社長の仕事をするよりも、一クリエイターとして現場に居たかったようだ。シナリオ部門ばかりでなく、アニメの制作現場などにもよく顔をだしておられた。クリエイターであることを好んでいたからで、こう言っては語弊があるだろうが、社長の器ではなかった。社長ならだれでも勤まるが、世界の手塚治虫の仕事は、手塚治虫以外の人間にはできない」といい、制作中の作品のラッシュ試写の段階にいたって、リテイクが出ることがあったが、こういう場合「手塚治虫という人は、社長としての判断かけていた。(中略) 社長としての判断ならこうなるだろう。これは会社の信用にもかかわる欠点だから、リテイクしよう、だがこのミスの方は、まあこのまま出してもそれほど信用が損なわれるというものではない。だから不満は残るがこのままにしよう。社員も疲れているからここでは無理をさせられない。こういう判断が、世の中の社長のものだろう。だが、手塚先生はそうではない」(『日本SFアニメ創世記』 TBS・ブリタニカ 二〇〇〇年)
たしかに、手塚は社長の器ではない。それに数字、つまり金勘定のわからない人だ。このことは、虫プロが倒産した時、その整理に当たった葛西健蔵氏が、手塚の天才ぶりと人柄を称揚しながらも、百万円以上の金勘定になると全く分からない人だったと回想している。
だから、手塚のもとで経営の任に当たる人は、会社経営の経理部門の数字をはっきりつかみ、芸術家気質の手塚が納得する説明をしなければ、ならなかった筈である。その経営に当たった重役が、経理、会計に疎く、制作にあたって原価計算もしなかったことは、前述したとおりである。
作品内容については手塚の目が行き届いていたが、経理経営面では、どんぶり勘定のまま、進んでしまったのである。
そして社員の数が300人以上に膨れ上がるにつれて、人間的な問題が複雑になり、浅ましい問題まで起きるようになったのであろう

製作費を巡って

先にフジテレビと、鉄腕アトム放映の契約するとき、手塚は、フジテレビの幹部や広告代理店の萬年社の担当者の前で、鉄腕アトムの一回分の制作費は、55万円でいいといい、それで契約が成り立ったことを述べた。その席上には、虫プロの山下専務が同席していたことは確かである。
これは手塚の自伝『ぼくはマンガ家』の中で、述べられている。その席に萬年社の担当者の穴見薫がいたかどうかは、分明ではない。しかしこの事実は、身近な問題として知っていたことは確かだろう。フジテレビからの制作費は、55万円として契約が結ばれたとなっている。
ところが実際払われていたのは55万円でなく、155万円が支払われていたと、後年出版されたアニメ史研究書でも指摘されている。例えば『アニメ作家としての手塚治虫』 (津軽信行著 NTT出版 平成一九年)の中で、著者が虫プロの営業担当者だった須藤将三という人にインタビューをしている。それを引用させて貰うと
「これは穴見さんと、それから今井(義章)さんしか知らなかった話なんですが、『50万円はあまりにひどいよ』ということで、手塚さんには『50万円でうけていますよ』と話していましたけれど、実際は代理店の萬年社から155万円を受け取っていたんです。それでも非常に安いですけどね」
と須藤は言っている。これについて、著者は、「最終的な契約は一本55万円というのは事実だが、実は萬年社が虫プロとの裏契約的な措置として、萬年社がプラス100万円、つまり155万円を虫プロに払っていたという、驚くべきエピソードである」と述べ、さらに
「スポンサーとの交渉の場面に立ち会っていた虫プロのプロデューサー今井義章や萬年社の穴見薫らが再度スポンサーと交渉し、虫プロへ155万円が払える程度の条件を得て、手塚には55万円で契約していると言いつつ、実際には155万円が虫プロに支払われていた……。
それにしても放送局やスポンサーとの関係を考えると、虫プロがそんな『二重契約』のような状態で作品を代理店に送り込んでいたことが公になって、問題にならなかったかという疑問がわいてくる」と述べている。
「虫プロが萬年社から『二重契約』を得ていたとすれば、よく言えば虫プロという一法人の経営戦略が功を奏したといえようが、業界全体のありようを考えると、やはりこれは禁じ手である」と断じている。
また『日本動画興亡史 小説手塚学校』(皆河有伽著 講談社 平成二一年)という本によると、上記の問題について、手塚が、55万円で交渉した段階では、スポンサーの明治製菓、萬年社、虫プロの間には、まだ正式な契約書が交わされていなかったらしい。だから後になって
「手塚には内密に、一本分の制作費を155万円とした契約が取り交わされた。
本来、虫プロの社長である手塚が判を押さねば、契約が成立しないはずだが、手塚はこの事実を放映開始から半年近くの間知らされなかったという。
社長も知らぬ間に契約を成立させてしまうことができる……この不思議な体制が数年後、虫プロの危機を招くことになる。」
とこの本には書かれている。この文章の結びの部分は甚だ、不穏な話である
手塚の知らぬ間に印が持ち出されて、契約書に捺印されていたとすれば、明らかに違法である。著者は「この不思議な体制」と言っているが、誠に怖いはなしである。と共に、これが事実であったなら、純粋な「世界の手塚」を冒涜する事態であったといえよう。
以上二つの研究書を、たまたま私が読んだわけだが、ほかにもこういうレポートがあるのかどうかは、今のところ不明だが、このレポートの内容が真実であるかどうか、今の私には、調べようもない。だから、ここでは、このようなレポートがあるという報告だけにとどめて置く。

ただ穴見は、その何年か後、虫プロ商事を設立するとき、手塚の知らぬうちに、預かった手塚たちの実印を使って、手塚のアニメ全作品の放映権をテレビ局に売り渡す契約をして、虫プロを崖っぷちの危機に陥れたことがあった。それはいずれ、後段で述べるが、その萌芽が、このテレビアニメの最初の契約のときに現れているのかもしれないと思うのは、単なる邪推で済まされるかどうか。

赤字体質の実際

テレビアニメ「鉄腕アトム」のキャラクターが、商品に利用された版権料、いわゆるマーチャンダイズで稼ぎ、またアメリカに版権が売れて、版権料を稼いだにも拘わらず、虫プロは赤字だったらしい。週一本の制作費は、当時から250万円かかると、ずっと今日までいわれてきたが、この金額は、直接生産費なのか、間接経費や、人件費まで入れた額なのかは、分らない。いずれにしても、テレビ局から支払われる制作料だけでは、大赤字だったに違いない。それを、マーチャンダイジングによる収入や、アメリカに版権を売った代金で賄ってきたわけであるが、それでも、間に合わなかったようだ。
虫プロの中では、海外に版権輸出と、マーチャンダイジングによって虫プロは儲かっている、という空気が流れていて、そういう気分からおのずと増えていく出費の増大によって、赤字は、解消には向かわなかったらしい。
この赤字は、さすがの経営陣にとっても頭痛の種だった。その頃の経営陣の困惑ぶりを前掲山本暎一の『虫プロ興亡記』に拠ってみよう。
昭和三九年末の事と思われるが、ある日、チーフ・アニメーターの山本は重役室に呼ばれた。そこには穴見常務が待っていた。
「虫プロもねぇ、表面華やかだけど懐は苦しいんだよ」と常務がいう。
「まさか、だって、マーチャンダイジングの収入や海外売りやら、いっぱい入ってきているんでしょう。虫プロが金に困っているなんて誰が信じますか」
「しかし『鉄腕アトム』がテレビ局からくる製作費だけで出来てないのは、分るだろう。その制作費の赤字は莫大な額だ。版権収入や海外売りは、それを埋めるのにかなり消えてしまう」
「はあ」
穴見の説明は続いて行く。次の大企画である「ナンバー7」と「虫プロランド」の準備に金を食われている。さらに将来の発展を目指して増やしている社員の人件費とその教育費にも金がかかっている。それに設備投資も盛んである。第一スタジオの建坪を倍にしたし、道を挟んで、畑を借り、第二スタジオの建設中だ。ほかに二つの分室の部屋も借りているし、高価な撮影機や、連絡用の自動車も買い込んでいる。これではいくらアトムが稼いでも金は足りない。
本来なら、マーチャンダイジングの収入の大部分は原作者の手塚治虫個人のものであるはずである。それを全部、手塚からの借金ということにして、虫プロで使わして貰っているのだ。以上のことを穴見は諄々と説くのであった。
その上で、この赤字体質を治すために、これから制作するものは、制作費を倹約するために、一作ごとに制作予算をたて、その範囲内で制作して、その原価以上の金額で売るようにして、虫プロを黒字体質に変えていくのだと、穴見は山本に説明したという。
その方式による第一の作品に、手塚の名作「ジャングル大帝」を持ってくるというのであった。その総責任者、プロデューサーに、山本がなってほしいというのが、穴見の相談の目的だった。
当然、手塚の了解が必要な大事である。その了解を得ていると穴見は言う。

 プロデューサー・システムの導入

やっとここにきて穴見たちは、生産に当たっての金銭管理、経理のあり方について、無知な自分たちのやり方のまずさに、気が付いたというわけだ。やっと売値以下の金で商品を制作しなければ、企業は成り立たないことに気が付いたのであった。遅きに失する。それでは経営者としては落第だ。それでもなお、経営に対する自分たちに無知と無策を棚に上げて、赤字の責任は、手塚の作家的な芸術家的な制作方法にのみあるような考えから、抜けられなかった。手塚を抑えれば、黒字に転換できると安易に考えすぎていたと私は思う。

手塚は、次のように述べている。
「一昨年五月(昭和四〇年)、虫プロでは、穴見薫常務がこれまでのドンブリ勘定的経理を改め、虫プロを儲かる会社にしようとその改革に着手、まず僕にこう提言した。『手塚さん、あなたは経営に作家的立場を持ち込みすぎる。改革の第一歩はあなたに経営の主体からのいて貰うこと……今後の経営は、私たちにまかせてください』ぼくは彼の意見にしたがい、それまでのワンマン・システムを改めて、各人の個性を思う存分発揮してもらうため、社内にプロデューサー・システムをしくことにした。この新しいシステムによる第一作が『ジャングル大帝』である。(中略)勿論『ジャングル大帝』はぼくの原作だが、これのアニメーション化はぼくよりはるかに若いスタッフが手掛ければきっと若々しい、子供たちにアピールする作品になるだろうと期待した。思い切ってプロデューサー・システムに切り替えた理由の一つも、そこにあった」(月刊「現代」 一九六七年九月号 鉄腕アトム苦戦中)
そのプロデューサー・システムの第一回目のプロデューサーに選ばれたのが、山本であった。
穴見は、山本に向かって苦しい虫プロの経理面を説明したうえ、プロデューサー・システムに切り替えるにあたって、その最初の作品を山本にやってもらうことが、重役会で決まったから、早速準備にかかるように、と強く言うのであった。
漫画「ジャングル大帝」は、それまでの手塚の代表作の一つとされた傑作で、昭和二五年から七年間「漫画少年」に連載された長編ストーリー漫画である。手塚の作品の中でもひときわ長い大河ドラマであった。
アフリカのムーン山近くのジャングルの王者、白いライオンのパンジャの子、これも白いライオンのレオが、人間に育てられ、やがてジャングルに戻り、人間がきづいた文明を動物社会にも移そうと奮闘する物語である。
穴見は「これを30分番組で、毎週一回放送して、一年間、52本作る。勿論オール・カラーだ。どう、引き受けてくれるかい」
「やります。やらせて下さい」
これをやれば、先行する「ナンバー7」や手塚代表作の一時間番組「虫プロランド」担当の、坂本や杉井に肩を並べられる。山本の競争心を煽る提案である。
「坂本さんの『ナンバー7』の次の放送予定だ。今から準備してくれ。ただし三つの条件を守ってほしい。アメリカに売ることを成功させたい。そのためにNBCの関係者と話し合った結果なのだ。
第一が、放送一回一話完結、放送の時の順番を変えてもいいようにするためだ。
「しかし、先生の原作は話が連続して続いて行くんです。それを順序変えて放送したら、目茶目茶になっちゃう」
「そこを何とか、ストーリー構成で工夫してくれ。第二は黒人を出さない。もし出すなら悪役に使わない。第三は人間が動物を苛めないこと。まあ槍を突きさしたり、切り刻んだりしなければいいのだろう」
「先生は承知なんですか」
「承知している」
「手塚フアンは怒るだろうなー。どうでもあの名作をぶっ壊しても、アメリカに売らなきゃならないのですか」
「さっき話したような、経済事情でな。それを救うのは『ジャングル大帝』で成功するしかないんだ。最後にもう一つ条件がある」
「まだあるんですか」
「それは制作管理面だ。作品が出来たけれど、制作費に湯水のように使ってというのでは困る。厳密な予算管理の下でやってほしい」
「予算管理っていうのは、誰がするんですか」
「君に決まっているじゃないか。一本250万円、52本で1億3千万円、君に預ける。その範囲で作ってくれ。かかるものはしょうがないというやり方は止めにしてくれ」
穴見は初めて、もの造りの会社の重役らしいことを言った。今までは、それこそ、掛かるものはしょうがない、虫プロのあらゆる出費は「制作費」という「勘定科目』で一緒くたに処理すると言う、大雑把なものである。それをやめて、一本あたりに予算を立ててやろうとするのであった。
引き受けた山本は、原作を克明に読んで原作者の手塚の注文を聞く事から始めた。
手塚は、聞き分けのいい返事と意見を述べた。「あれは一〇年以上前の作品で今の子供にアッピールするように、現代感覚でやってほしい。ただ原作の持っている壮大な叙事詩という感じはなくさないで下さい」と話の分かるところを見せ、それから、放送の一年目は、レオの子供時代編にして、好評なら二年目大人時代編にするようにアドバイスするのであった。つまり大人と子供の二つのキャラクターに分けてそれぞれのエピソード集にするのがいいと、言うのだった。これだけ、大胆な料理法を出されると、山本は思い切ってやれると、肩の荷が少し軽くなったという。
ストーリー作りにかかるにあたって、シナリオライターに気心の知れた、辻真先を起用して、ストーリーを練った。一方、予算による制作の方は如何にするか、という問題は、先行する「ナンバー7」の制作費の立て方を見て、参考にしようと暢気に構えていた。ところが、その年、昭和三九年の暮も押し詰まって、穴見が慌ただしくやってきた。
「大変だ。坂本さんが、『ナンバー7』の制作担当を降りた。『ナンバー7』は中止だ」
坂本は、虫プロのプロデューサーで、アニメーターのトップである。その人物が新企画を降りたとなると大変ことである。
「『ナンバー7』は中止、虫プロランドは、この正月『新宝島』一本の放送で終わることに決まった。そうなると虫プロの放送のアニメは『鉄腕アトム』だけとなる。ここまで大所帯になった虫プロは支えられなくなる。だから残ったのは『ジャングル大帝』しかない。来年早々現場に入って、一〇月放送は可能だな、」
「まあまあ」
「その線で頼む、もし失敗したら、虫プロはおしまいだ」
山本は期せずして、虫プロの存亡を担うことになった。山本は考え込んでしまう。山本のアシスタントについた もり・まさき(後年漫画家となった真崎守)が、「でも、日本最初のオール・カラーのアニメをやるんだから楽しいじゃないですか」と山本を励ましたという。

アニメ「ジャングル大帝」の完成

昭和四〇年の正月四日。「ナンバー7」の中止、「ジャングル大帝」の発足などの新事態に備え、スタッフの編成替えが行われた。その会議には手塚を始め、プロデューサー、チーフ・ディレクターが集まった。山本は「ジャングル大帝」班に115人のスタッフを要求した。社内で一貫作業するために必要な人員だった。制作費の無駄を省くよう指示されていた「鉄腕アトム班」は90人の要求だった。虫プロの製作スタッフは230人いたから、25人ばかり余る事になった。そこで手塚が提案した。「W3」という手塚の漫画を急遽アニメ化する。チーフ・ディレクターは手塚が担当、白黒で30分、週一回放送の番組とすることに決まった。「鉄腕アトム」班から10人減らし、「W3」班は35人として、労力が足りない分は外注で間に合わせることになった。
「大丈夫ですか、先生」と穴見が心配したが、手塚は
「こうなったらやりますよ」手塚は意気軒昂ぶりを示した。
52本分の粗筋が出来たところで、山本は手塚の意見を聞きにいった。手塚は、ストーリーは最後の締め切り間際までに考えろ、と機嫌が悪かった。しかし、山本としては、端からスト-リー作りにかけたら日本一の手塚の目に適う筈がないと思っていたので、傑作を作ろうとするのを諦め、どんなことがあっても、時間に間にあうものを作る気持ちで、ストーリーを作った。これも予算の範囲で仕事をする、手段の一つであった。
もう一つ、予算の範囲で作るのは、計画的な生産である。その為には、一作ごとに、企画、作画、撮影、現像、編集、音響といった制作のプロセスごとに、いくらかかるかを掴んでいないといけないし、しかも完成後いくらかかったかを知るだけではなく、途中の時点でわからないと統制ができない。それらの方法は坂本の経験をもとに作ろうと思っていたのだが、もはやそれは自分でやるよりほかはない。
山本は何冊もの、簿記の本を買ってきて研究した。そうして工業簿記の原価計算ということが理解できるようになり、独自の原価計算の方法や月計、週計、日計の方法を創り出していった。アシスタントのもり・まさき(真崎守)が分析力のある所から、もりと協力して伝票や集計表を作っていった。それにしたがって、生産費の管理、原価計算を行っていった。演出家が原価計算の方法まで、自ら創らねばならない、というのも、虫プロが、経営面で、異常に遅れていたという証拠になろう。
ともあれここに、虫プロが、複式簿記による計算で、計画的生産が初めて、おこなわれるようになったのである。然しそれは虫プロ全体の経理とは違ったものなので、ジャングル大帝の班だけの専用にするしかなかった。それが
虫プロの経理の体制と合わないため、経理とやりあう場面もあったという。
“いいものを 早く 安く 楽しく”
をモットーに、山本は制作に打ち込み、四月の初めには、第一話が完成し、オープニング・フィルムを、スポンサー筋に見せるまでに至った。手塚もそれを見て
「画調がすごくモダーンになっているんでね、こりゃ僕のジャングル大帝とは違うなーと思ったけど、考えてみりゃ、テレビのアニメと漫画は違うんだし、あれでいいんじゃないか。自信を持ってやってください」とご機嫌だった。
昭和四〇年八月にスポンサーも決まった。カラーテレビの生産に進出した三洋電気、テレビ局はフジテレビ、一〇月六日の水曜午後七時から放映と決定した。「W3」もロッテがスポンサーとなり、六月からフジテレビ放送と決まった。
そして、「ジャングル大帝」はPTA全国協議会第一回推薦番組に決定した。その他多くの推薦を受けるに至る。
版権収入も着々のびて大ヒットの「鉄腕アトム」に迫る勢いであった。海外売りもアメリカの三大ネットワークの一つ、NBCにセールスが成功し、八月末に手塚と穴見が渡米していった。
視聴率も悪くなかった。第一話が21.7パーセント、以後21パーセントを上下していた。20パーセントを越えればヒット番組である。「鉄腕アトム」程の勢いはなかったが、手塚が制作に参加して無い事を思うと、まずまずの成績だった。
こうして放映が始まったが、次第に世評は上昇した。昭和四一年一月、テレビ記者会賞を受賞。三月には厚生省のテレビ映画優秀作品ベストテン第一位になり、五月には、厚生大臣児童福祉文化賞を受けるに至った。
こうして「鉄腕アトム」放送開始から、三年半の歳月がたった。その頃、テレビアニメは毎週一〇番組が放送さるにいたっていた。その内訳は、虫プロ、東映動画、TCJに三社が各二本、東京ムービー、Pプロ、日放映、チルドレンス・コーナーが各一という内訳になった。虫プロの二本は「鉄腕アトム」と「ジャングル大帝」で、「W3」は六月で終わっていた。「鉄腕アトム」は三年半という歳月を経て、陰りが見え初め、40パーセントを超えた視聴率も、27,8パーセントにまで落ちていた。
かわって、トップに立ったのは、ナンセンス・ギャグの流行の勢いに乗った、藤子不二雄原作、東京ムービー制作の「オバケのQ太郎』で、35パーセント超える視聴率を得ていた。「ジャングル大帝」は平均24パーセントで、健闘した。
虫プロの経営者は、「ジャングル大帝」の劇場用映画作成を企画したが、担当したプロジューサーの坂本が、意気込みすぎたのか、なかなか進行しなった。そのうちに映画の封切り予定日が迫ったので、山本がテレビ版「ジャングル大帝」を何本か纏めて、構成して、急遽映画版を作った。七月東宝系で封切られたが、大評判というほどにはならなかった。それでも次の年のベニス国際映画祭に出品され、サンマルコ銀獅子賞を受賞した。

子会社虫プロ商事の設立

「鉄腕アトム」の放映は、その一二月で、丸四年目を迎えようとしていた。それで、虫プロはさらに一つの転機を迎えようとしていた。「鉄腕アトム」はその年いっぱいで終了が決まった。かわって「悟空の大冒険」と「リボンの騎士」の二本が、準備されつつあった。
前者は手塚の漫画「ぼくの孫悟空」を原作に、チーフ・ディレクターに、杉井儀三郎、プロヂュウサーに、虫プロ最古さんの制作進行係であった、川端栄一が当たり、発足させたものである。後者は同名の手塚の漫画を原作に、これは手塚がチーフ、ディレクターとなり、プロデューサーには、東映から来た渡辺忠美が担当と決められた。
川畑と渡辺の二人のプロデューサーには、「ジャングル大帝」制作で行われたような、予算管理方式による制作が、穴見常務から厳命されていた。「ジャングル大帝」では穴見の指示した予算枠内での制作が、山本の努力により、ほぼ実現できていた。このことが穴見に強い自信をあたえた。それで予算管理方式を一層強化しようというのである。
それと同時に、経理部には、帳簿や伝票のシステムを改良し、従来のドンブリ勘定方式を排して、迅速に原価計算が出来る、複式簿記による管理方式に切り替えることを命じた。事業発足五年たって初めて、近代的経理方式に切り替えようとするのである。あまりに遅きに失したというべきであろう。
それでも穴見は、
「プロデューサー・システムと管理機構が育てば、よい作品が健全な財政の中で生み出されるようになる。そうなってはじめて、虫プロの事業体としての基盤がしっかりして、アニメ文化形成に、リーダーシップを発揮できる」
と周囲に説いて回った、という。同時に彼は新しい酒は新しい革袋に盛らねばならない、という言葉を引いて、虫プロの新スタジオの建設を主張してやまなかった。
虫プロの社員は今や、400人を超えて、彼らを収容するスタジオも、手塚の私邸内の第一スタジオではとっくの昔に、足りなくなり、近所の土地を借りて第二スタジオを建てて、まだ足りず、第三、第四、第五スタジオと富士見台のあちこちに分散して存在していたし、その他に、池袋に版権部、渋谷に営業部と、諸方に虫プロは分散している現状だった。これらを一か所に集めって機能的なスタジオを造ろうという計画を、穴見は立てていた。用地も、東急が開発中の多摩ニュータウンに決めた。
それらの実行には、多額の金がかかる。
そのためにも創立からの赤字体質から脱却しなければならないと穴見は、説いて回った。
テレビ局からの制作費の中で、アニメをつくっていかないと、虫プロは真に、儲けることはできない。ジャングル大帝は、一応、予算管理で作る道筋を付けたが、局からくる製作費の中で制作出来たわけではない。一本あたりに250万円で作ったが、それはテレビ局からの制作費と、マーチャンダイジングや輸出で得た収益で補填した数字なのである。
テレビ局からくる製作費の中で、制作して、海外売りやマーチャンダイジングの収入があれば、それがまるまる利益になるようにするべきだ。マーチャンダイジングや、海外売りは恒常的にあるものではないし、その額も予想できるもではないので、それに頼っては危険だ。以上のように穴見は説いて回った。こういう考え方は、事業をする者にとっては、ごく当たり前の事柄だが、それまでの虫プロのスタッフの頭にはなかった問題である。
これまでは海外売りや、マーチャンダイジングで、運よく莫大な収入を得て来たので、制作費が増大しても、赤字は何とか補填できるという安易な考えが、浸みついてしまったわけである。
そこで、その年の九月、虫プロの独立採算を維持する考えが浸透するようにと考え、虫プロという会社から、版権部、出版部、営業部を切り離し、「虫プロ商事」という別な子会社とし、虫プロは制作部門だけの会社にした。こうして虫プロは、テレビ局から払われる制作費だけで採算をとるようにしたわけである。マーチャンダイズの版権料や海外売りの収入を、虫プロ商事に入金して、温存し、これをもっと有効に使おうというのであった。こうして虫プロの赤字体質からの脱却を図ったわけだ。虫プロ商事は今井専務を社長にして、池袋に事務所を開いた。   
これらの施策は穴見の主導で、展開したので穴見体制と社内では呼んだ。
手塚は特に反対はしなかったようだが、このような会社に組織にしてしまって、虫プロが持っていた最大の長所であった、「作家精神」の衰退により、今後つくられる作品の質について、危惧したようだ。
だが、冷静な第三者の目から見れば、この方策は、はなはだ危険を孕んだものと見なければならなかった。組織というものは、一つできれば、その組織は、それが生み出された事情を離れて、勝手に動いて行くものである。そのことを頭に入れているものが、虫プロには、誰もいなかった。はたして虫プロ商事が、虫プロの繁栄に反した事業を、勝手に始めたりして、虫プロの存立を脅かしていくのである。このことは後章で述べることになろう。

 恐るべき背任
ところで、二社に会社の分離が行われて、間もなく、つまりその年の一二月、残業をしていた、穴見がスタジオで夜食を食いながら、急病で倒れ、そのまま亡くなるという惨事がおきた。病名は「クモ膜下出血」であった。
日本で最初のテレビアニメ「鉄腕アトム」の創始に奮闘した穴見が、それから丸四年「鉄腕アトム」が放送を終了した、昭和四一年一二月、時を同じくして生涯を閉じた。享年四二歳の若さであった。
手塚は、穴見の葬儀を虫プロの社葬にした。そして穴見の改革した構想をそのまま続けることにして、スタッフたちの不安を解消した。ただし新スタジオ建設計画は、見送りとなった。

その、穴見の急死のショックがまだ消えぬうちに、穴見の犯した大事件が発覚したのである。その事件を『日本アニメーション映画史』(山口且・渡辺泰共著、有分社 一九七七年)によって、述べてみよう・
穴見の死後、その居室の整理にあたっていた虫プロの社員が、とんでもないものを発見した。
それは虫プロの誰も知らないうちに作られた、フジテレビとの契約書であった。その契約書には、虫プロの社長以下重役の判が押され、全く合法的に完全なものであった。
その契約の内容というのは、虫プロがフジテレビから1億3千388万円の金を借入する代償に、虫プロの全フィルム資産をテレビ局に譲渡するという内容であった。なぜそのようなことが、穴見一人で出来たかというと、虫プロと、虫プロ商事とに分離するにあたって、新会社の登記のために、穴見が、虫プロの役員、つまり手塚を始め、手塚の家族で、役員をしていた人の印鑑、他の役員の印鑑を、全部穴見が預かっていた時期があった。その間に、その印鑑を使い、秘密裏にフジテレビとの契約書が作成されたのであった。
手塚をはじめ役員一同青くなって、フジテレビに契約書破棄の交渉に行った。局の方でも
「手塚先生もご存知なかったのですか」
と驚く始末だった。それからあれこれ交渉し、やっとフィルムの所有権は取り戻すことができた。しかし向こう一〇年間、放映権はフジテレビが占有するということで、やっと決着がついた。昭和五三年になって、フジテレビの占有はやっと終了した。
この事件は、まったく穴見の背任であった。なぜ穴見が、そんな背任を犯したのか、今日なお不明である。
手塚はその著書、『ぼくのマンガ道』(平成20年 新日本出版社)の中で、この事件について
「人を信じろ、しかし、人を信じるな」
ということを、深く胸に刻んだ、と述べている。(続く)

私の手塚治虫  第26回  峯島正行

  • 2016年6月24日 15:09

どんぶり勘定だった虫プロの経理

記録的視聴率

日本最初の毎週放映のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」好調にスタートを切った。第一週は27・8%の視聴率であったが、二週目は28・9%、第三週は、29・6%としり上がりの好調ぶりであった。そして第四週目の1月22日の放送では、大ヒットの基準である、30%の線を越え、32・7%の視聴率を記録した。
それに気をよくして、制作者一同、昼夜兼行で頑張った。手塚は当時を回想して、次のように書いている。
「三八年一月一日、アトムは第一回の放映を開始した。この時の感慨は終生忘れられないだろう。わが子がテレビに出演しているのを、はらはら見守る親の気持ちだった。終って、エンドタイトルが出た時、
『アーあ、もうこれで一本分終わってしまったなあ』
とつくづく思った.次の一週間はあっという間にたってしまった。
スタッフは、死にものぐるいで徹夜の奮闘を続けた。作っても、作っても、毎週一回の放映というテレビの怪物は、作品をかたっぱしから食っていった。二,三ヶ月のうちに、視聴率や、評判が上がるのに反比例して、スタッフの顔はぞっとするほど痩せ衰えていった。みんなを支えていたものは、我々は開拓者なんだというプライドだけだった。何人かが、ノイローゼになり体にガタがきて休んでしまった。アトムの画面に、ときどき、楽屋落ちのスタッフの似顔絵が出てくることがあったが、それがみんな、やつれはて、鬼気迫った顔に見えた」(『ぼくはマンガ家』大和書房、昭和54年)
と当時の苦闘ぶりを振り返っている。
だが視聴率ますますあがった。第五話にいたって、34・2%とさらに増加した。2月5日の第六話にいたっては、34・6%と驚異的な数字に跳ね上がった。大ヒット番組である。最初の連続テレビ・アニメとしては大成功であった。第七話では、30%と一時後退したがすぐに持ち直し、第十一話では35・1%を記録した。それ以後、同程度の視聴率を獲得し続けた。テレビ局もこうなっては黙っていられなくなり、五十万円という馬鹿安かった、一話の売値を、百万円ほどに自発的に上げたという。それでも製作費は赤字であった。

マーチャンダイジングとアメリカ輸出

やがて、多くの玩具メーカーや繊維業者がアトムのキャラクターを商品のマークに使いたいと、申し込んできた。つまりマーチャンダイジングの申し入れである。それまでの日本の漫画を商品に応用することは、ほとんどが野放しの状況だった。何処の誰でもが勝手に雑誌の漫画や映画の主人公を使って商品に利用しても、野放しの状態で、原作者は泣き寝入りの状態であった。そのなかでデイズニー・プロのバンビやダンボを使った場合には、確実にロイヤリティをとって、そこから大きな利潤を得ていた。手塚はこのディズニーを手本に、ロイヤリティを確実にとることにした。
一方、それまであった手塚治虫ファンクラブを発展的に解消させ、あらたに「鉄腕アトム倶楽部」という名の虫プロクラブを発足させた。これによって、全国に虫プロとキャラクター商品の愛好者を組織して、視聴率のアップとマーチャンダイジングの料金増大を図った。
この業務は虫プロ専務の今井が担当したが、さばききれない量になり、4月には大阪に虫プロ関西版権部を設ける繁盛ぶりだった。この好況ぶりで、版権収入は瞬くうちに、一憶数千万円を超す収入を上げた、という。
その年、昭和38年の暮れ、ビデオ・プロモーションというエージェンシーの社長から、「商談でアメリカに行くことになったが、ついては向こうの業者に、アニメのアトムを見せたいと思うが、見本に一巻、貸してもらえないか」という申し込みを受けた。そのビデオ・プロモーションというのは、広告の企画制作を行う会社であったが、タレントやアーティストのマネージメント、テレビ番組の企画制作から、テレビ番組の輸入業務まで、幅広く活動していた。永六輔などのようなアイデアタレント。久里洋二、柳原良平、トシコ・ムトーといった異色の漫画家を抱えた先端的なプロモーションだった。
そこでアトムの第一話「アトム誕生の巻」と第三話「火星探検の巻」を選び「お願いします」と渡した。このことによつて手塚は、
「だが正直なところ、一本や二本ならともかく、日本のアニメ・フィルムがアメリカで売れるとは信じられなかった。(中略)ことテレビ界に関する限り、本家のアメリカが相手では、せせら笑われるだけだと思っていた」(前掲『ぼくはマンガ家』)
と自ら語っている。
ところが、何か月かたって、アメリカの三大ネットワークの一つ、NBCの商事部が興味を示していると、ビデオ・プロモーションから連絡があった。さらに何本か見本を送った。すると、一年の放送分の52本買うから契約したいという話になった。このときは、手塚は欣喜雀躍したという。この話をまとめてくれたのは、ビデオ・プロモーションのSという敏腕部長だった。S部長は、アメリカ人より英語が達者と言われるくらい語学が達者なうえに、商売の駆け引きも、達者な人だった。
この商談の成立は、たちまち業界に漏れて、日本中が大騒ぎになった。その年の10月、手塚は正式契約をするため、アメリカに飛んだ。その頃は海外旅行が珍しいころだったので、行くとなれば、空港に大勢の人が送りに来て、大変な騒ぎになるのだった。手塚の場合も、バスを一台、チャーターして、虫プロ関係者全員が羽田に見送りに行った。同行のビデオ・プロモーションの社長はソフトを被っているのに手塚は、いつものベレー帽姿のままだった。
この時の契約内容は、ビデオ・プロモーションのS部長の手腕によって、買い手側が、フィルムに自由に手を入れることが出来る買い取り制でなく、売値を配給歩合制にした。それによって編集権はプロヂューサーの手塚のものとして、上映に際しては、日本人のメインスタッフの名前を、放送フィルムの中で明記することなどを条件に、一年52週分のフィルムを渡すという契約であった。収入は一本当たり1万ドル、52本で二億円の収入が見込まれた。
放送に当たっては、アトムという名前は「アストロ・ボーイ」と変えられた。アトムという言葉はアメリカでは「屁」を意味する言葉なので、このことは虫プロも飲まざるを得なかった。
アストロ・ボーイとなづけたわけはというと、NBCのゼネラルマネージャーのシュミットという人が、自分の子供にパイロットフィルムを見せて、どういう名前を付けたらいいと思うかと質問したところ、少年が「アストロ・ボーイ」と叫んだので、つけたのだという。渡米した、手塚がその家に招待されて、その話を聞き「じゃ坊やにパテント料を払わなければなりませんね」と冗談を言って、大笑いになったというエピソードが残った。
「アストロ・ボーイ」は全米の子供たちを大いに喜ばせた。

以上述べたような「鉄腕アトム」の成功に、アニメ界は驚くべき速さで、反応した。テレビのCM等を制作していた大手のアニメプロダクションが,新たにストーリー・アニメを造りだし、テレビで放送されるようになった。早くも、アトムの人気が高まった昭和38年の9月、大手のプロダクション、TCJが小島功の仙人部落をアニメ化して、日本テレビで放送した。然しこれは大人対象のエロチックな作品で、放送時間が深夜であったためか、先駆的作品ながら家庭になじまず、すぐに打ち切りとなった。
その一方、TCJは「鉄人28号」をフジテレビに、「エイトマン」をTBSに登場させ、東映動画が「狼少年ケン」をNETから送りだし、これらは、アトムのライバルとなってゆく。
競争相手の乱立

迎え撃つ、元祖虫プロ側は、新たな対抗手段を考え出してゆく。昭和39年1月に放映された「鉄腕アトム」の「地球防衛隊の巻」がテレビ・アニメ最初のカラー版として、40%を超える視聴率を稼ぐという大成功をおさめた。それを契機に、手塚の漫画作品「ナンバー7(セブン)」を日本最初のオールカラーでテレビアニメ化する企画を立て、虫プロ最高のアニメーター坂本雄作をチーフに選び、その準備にはいった。
同時に、手塚の傑作マンガ群の中から「新宝島」「リボンの騎士」「0マン」等傑作、36本を選び、これをそれぞれ1時間のカラーアニメに作り、順次放映してゆくという企画をたて、これも俊英アニメーターの杉井儀三郎をチーフにして、制作準備を開始した。坂本は「鉄腕アトム」のチーフディレクターだったが、それを山本暎一にバトンタッチし、「ナンバー7」のかかりきりとなるという熱の入れようだった。

このような虫プロの成功によって、その中核をなす原画家、演出家は、全スタッフの花形で、虫プロの大看板になった。一方、アニメーターの不足から、アニメーターを増やしていった。最初は手塚関係から人を入れていた。手塚のアシスタントだった北野英名、漫画家の村野守美、りん・たろうなどが入ってきたが、それだけでは到底足りず、一般からも募集して、アニメーターばかりでなく、スタッフ全体を増やしていった。
そういう連中が、それぞれ我こそはテレビ・アニメのパイオニアと自負して、虫プロの中をのし歩いた。最初六人で始まった虫プロも昭和40年代に入ると三百五十人という大所帯になってゆく。
こうなると、古いアニメーターは、虫プロの大看板となって、その給料は、「日本のサラリーマン」としては、超Aクラスの高給取りになり、多くの社員との差がつきすぎるようになってゆく。ここに虫プロの禍根が生まれる素地の一つがあった。

雑誌の原価計算とアニメの原価計算

ともあれ、このように順調な滑り出しを見せた虫プロだったが,裏に回ってみると、その財務、経理、計算の面では、全く原始的で、億という金を扱いながら、家計簿にも及ばない、どんぶり勘定的な計算でしか、収支が計算されていなかったのだから、驚く。なぜ、もっと精密な、原価計算、複式簿記式のシステムによる、経理、経営がなされなかったのであろうか。一つの商品を作るときは、まず精密な原価計算によって、収支のあり方を研究することから始まる。
虫プロの出発は、手塚とその下に集まったアニメーターが中心になって始まった。彼らはまず、アニメを創る意欲に燃えた芸術家であった。彼らの最大関心はいかにして、アニメを作り出してゆくか、という創作家の心情から出発した。これは当然な話であろう、だが事業が進むに従い、多種類の多くの人が協力し合い、出来上がったものを売ってゆくとなると、制作から、販売までのマネージングをする人が必要となるわけである。このマージャーが最初にやることは、作るものの原価計算である。それはごく自然に、普通の事業体では行われているものである。

ここから私個人の経験をもとに話を進めてみよう。
私は、昭和30年代から40年代かけて、週刊誌二誌、月刊誌数誌の創刊当事者だった経験がある。一つの雑誌を創刊しようとすると、まず、編集内容、方針を決める。その方針、内容に従って、雑誌の版型、ページ建て、発行部数などを決める。それによって、直接の原価を算出する。
まず紙代、表紙の紙代から、本文用紙、オフセットページの用紙、本文用紙の紙代を、部数に従って、割り出す。さらにこれらの原稿を印刷する印刷費、これらが物理的な制作費である。
次に編集経費を出す。まず編集担当者の役割に従って、人数とその総人件費を出す。次に原稿制作の費用、原稿料、取材費、カメラなど諸道具の費用を割り出す。これらの総計が直接編集費である。
編集経費と制作費を足したものが、直接生産費である。これに広告収入をプラスして、さらに、宣伝費を差し引いた金額が、雑誌の直接総原価となる。
さらに、この直接原価に間接経費をプラスしたものが、この雑誌の総原価となるわけである。間接経費とは、雑誌を発行する当該事業を維持する諸経費、つまり販売、広告、宣伝、経理、総務の経費など当該事業の総経費のうち、その雑誌が負担すべき金額をいう。その金額は、当該事業の総売り上げのうち、その雑誌売り上金が何パーセントを占めるか、によって割り出してゆく。これが間接経費である。直接経費に、この間接諸経費を足した金額が、この雑誌の総生産費となるわけである。これを発行部数で割った金額が一冊当たりの生産費となるのである。
その雑誌の総売上金から、総生産費を引いた金額が、一号当たりの利益あるいは損失となるわけである。
雑誌の販売を簡単に述べておくと大体定価の七掛けで、販売取次業者に卸される。卸した雑誌が全部売れるわけではない。必ず返品がある。その返品があまり多いと、収入は原価を割ってしまう。出荷部数の何割何部まで売れればとんとんになるかの境界線を、返品許容率という。この数字を見ながら、次の生産部数を考え、また生産費を減額するか、増額するか、調節していかなければならない。ここに雑誌経営の困難さと面白さがある。販売実部数が、伸びれば伸びるほど、販売益は幾何級数的に上り、反対だと、幾何級数的に、利益は減少する。だから一冊当たりいくらの原価でできているか、ということが、雑誌経営担当者が考えていなければならない根幹なのである。
このように原価計算と雑誌経営とは密接な、因果関係にあり、その数字は、経営担当者が、常に把握していなければならない。

どんぶり勘定の経理

以上のような雑誌経営担当者の苦労を味わってきた、私の目から見ると、虫プロでは、「鉄腕アトム」が終わるころまで、何等の財務管理、生産管理、原価計算のもとに、経営された気配がない。虫プロに関する情報をいかに集めても、経営面からする分析は、ほとんど見当たらなかった。
総売上金から、総出費を差し引き、それが赤字になって金が足りなかったら、手塚が漫画で稼いだ金で埋め合わせてゆくといった、原始的というか、全く会計に無知な、あえて言えば、どんぶり勘定で、経営が行われていたとしか、思われないのである。その帳簿ももっとも単純な単式簿記によるものだったと推理される。
手塚自身次のように述べている。
「プロダクション創立以来、虫プロの収支とマンガ家手塚治虫の収支は渾然一体であった。(中略)虫プロが大勢の社員を抱えて今日まで仕事を続けてこられたのは、ぼくの収入をそのまま、虫プロに回してきたからにもよる」(「現代」1967年9月号「鉄腕アトム苦戦中」)
虫プロの幹部アニメーターの中にも、昭和40年になってからだが、そこに気付いた人がいる。例えば「ジャングル大帝」のチーフディレクターとして、制作の一切を任された山本暎一が、大略次のように述べている。
「虫プロの経理は、手塚の漫画原稿と、その制作と収入の記帳方法を延長してできている。それは、あらゆる出費を『制作費』の勘定科目で処理するなどおおざっぱである。漫画の原稿づくりならそれで十分だし、アニメも一本作るだけなら、その程度でも把握できなくはない。しかし、複数の作品を同時進行で制作するとなると、もっときめの細かい帳簿や伝票のシステムが必要になる。
先ず虫プロの全作品の出費をひとまとめに帳簿につけるのではなく、作品ごとに分けてつけなければならないし、企画、設定、作画、撮影、現像、音響といった制作のプロセスに分けて掴まないといけない。
そういう、原価計算や、月計、集計の方法が、それまでの虫プロにはないのだ。なにしろ、テレビ・アニメというものが始まって間もなく、経理の人がアニメの作業内容に知識がないから、どんな帳簿システムを造ればいいのかわからないのである。」(前掲、『虫プロ興亡記』)
アニメーター、制作者である山本が、以上のことに気がついたのは、虫プロが始まって四年を経た後である。
虫プロの経営者であり、所有者は、100パーセントの出資者である手塚治虫である。その手塚治虫のもとに、アニメーションに大きな夢を抱く志に共鳴して協力を申し出た、アニメーター達、そしてその制作に協力したいと集まった人たちで、虫プロが創業されたのは、今まで述べてきた通りである。手塚とその周辺に集まった人たちは、いわば芸術的は制作者であり、財務、経理など経営面に無知な人ばかりであった。山本は、その中にあって、最も早く財務管理、原価計算の必要に気づいた人だった。

近代経営を知らない経営者

以上述べてきたような、財務管理、原価計算、複式簿記の計算法による伝票管理のようなことは、少し、経営的知識があれば、すぐ気づくはずである。手塚は漫画家として第一人者ではあったが、経営的な事務に関して、あるいは経営的な知識は全くと言ってなかった人だといえるだろう。中学、大學と漫画を描き続け、それが認められて以来、夜も寝ずに漫画を描かざるをえなかった手塚に、虫プロの社長だからといって、経営者の目をもてといっても無理な話であろう。
虫プロで、その経営面を担当する重役は、手塚の他、山下専務、穴見常務、小学館の編集者から転身してきた桑田常務などという人がいた。山下は手塚プロのマネージャーとして、編集者と手塚の間に立って、漫画原稿の進行、受け渡しを担当してきた人で、アニメの経営にはそれほどタッチしたとは思われぬ。桑田は総務方面の働き手であったが、アニメの経験は少なかったろうと思われる。
アニメの経営の役割を担ったのは、穴見薫であろう。彼が広告代理店の社員として、虫プロに入り込み、テレビと関係を付け、「鉄腕アトム」のテレビ放送に持っていったのである。その翌年、虫プロの経営に当たるべく、常務取締役役として、虫プロに転属した。はじめから「鉄腕アトム」にかかわった人である。
もし彼に、経営者としての知識なり、才能があれば、虫プロのどんぶり勘定的な単式簿記式の収支管理だけやって、原価計算や、計画、生産管理面で、何もしていないことに気が付き、原価計算による生産管理システムの確立を直ちに、手塚に提案した筈である。それに気が付かなかったのは、経理、生産管理などの知識がないため、虫プロ経営の欠陥に気付かなかったのだろうか。経営者としては経理、生産管理に対する知識に欠けていて、したがってこういう生産会社の経営者の資格に欠けていたということはなかったのだろうか。

アニメの生産管理は、先に紹介した雑誌の生産管理に比べて、そう難しいとは思えない。
アニメ制作は、手作業から脱却できないといわれたとおり、人件費の管理さえ厳密にやれば、比較的簡単で、雑誌の制作費の計算に比して、それほど難しいとは思えない。
まず一つの漫画をアニメ化するとなると、その原作料、あるいは印税をきめる。次に、原作を脚本化する脚本料を決める。その後の作業は、シノプシス、それによる原画制作、動画制作、背景制作は携わるアニメーターの人件費とそれに要するカンバス、絵の具、筆具などの機材の代金。それから撮影、現像、音響の費用、この行程は諸機材と人件費、音楽の作曲料などが入ってくる。これらの直接経費に加え、制作、進行の人件費、諸事務費を加えたものが、直接原価ということになる。それに当該事業が行う販売諸経費、間接の人件費などを、一本一本のアニメに割り振る間接経費を計算し、左記の直接経費にプラスすれば、アニメの総原価が出てくる。
テレビ局からくるアニメの制作代金、およびそのマーチャンダイジングによる収入などを足したものから、総原価を引いて行けば、一本一本の売上利益、或いは売上損が出てくる。
この原価計算を基に、帳簿システム、伝票制を充実させれば、立派に経理組織は成り立つと思うがどうであろうか。その経理の状況から、次の企画、作品の制作資料が生まれてくるはずである。

手塚は、一〇〇パーセント出資のオーナー経営者であり、自分のアニメ制作方法には、ワンマン的態度で、経営の改良を素直に受けいれたとは思えないが、誠実に説明をしながら、以上のような合理的な会計制度によって、経営改善を提言していったならば、それを拒否することは、まずなかったのではなかろうか。その提案を受け入れ、生産管理による経営に、理解していったに違いないと私には感じられるのであるがどうであろう。
しかし、経営の重大な役割を果たす重役が、数字による経営、生産管理に無知であったなら、これは悲劇である。重大な禍根が残っていくはずである。
私は後年の虫プロ崩壊の悲劇のもとはここにあったと思われるのであるが、如何なものであろうか。 (続く)

私の手塚治虫 第25回   峯島正行

  • 2016年5月16日 15:20

日本最初のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」

パイロット・フィルムの試写

手塚治虫は、昭和三四年一一月に予定された、虫プロ第1回作品発表会に、「ある街角の物語り」と同時に、半分ほど、原画の撮影が終わっていた、「鉄腕アトム」のパイロット・フィルムを、上映することに決めた。パイロット・フィルムとは、作品のサンプルのことで、これを見れば、どんな番組が出来るかわかりやすいので、テレビ局やスポンサーとの契約の資料となるものである。

このパイロット・フィルムを造るのにも、大変な苦労をしなければならなかった。先にも説明したように、アニメーションを制作する場合、製作者の意図に沿って、シナリオ担当者がシナリオを造り、それにしたがって、画コンテを造る。そこには、一カットごとに構図とか、キャラクターの動き、背景が描きこまれ、カット版号セリフ、作画の注文なども描きこまれる。

それを受けた原画家が、それにしたがって原画を描き、動画家がその動きを描いて行くのである。

ところが、漫画に忙しい手塚は、画コンテを造る暇がないから、一カットの原画案が、ポツリポツリと原画家のもとに送られてくるに過ぎない。それがどう繋がっていくのか、原画家は分らない。つまり、画コンテは、手塚の頭の中にしかないので、原画が出来ると、それがどう繋がるのか、いちいち手塚に現場に来て貰い、順序を並べて貰わねば仕事は進まない。

その原画の案を受け取るのは、坂本というベテランをトップにしているから原画はすぐに書きあがってしまう。それで手塚に催促するというような進み具合で、能率が上がらなかった。

その為、一一月の発表会がきまったころまでにやっと一話の半分ほどの撮影しか、あがっていなかった。発表会に間に合わせるために、その半分にちかい一〇分ほどのフィルムに、セリフと音楽を入れて、やっとのことで、パイロット・フィルムを作り上げる始末であった。

それでも動画部のアニメーターたちが、その試写を見て、第一話のストーリーが理解できた。

二一世紀の東京。科学者天馬博士は、可愛い一人の息子のトビオ少年を交通事故で亡くし、トビオそっくりのロボットを作り、息子と思い一緒に暮らす。しかしロボットは一向に成長をしない。怒った博士は、ロボットをサーカスに売ってしまう。一〇万馬力の力を持ち、足からジェット噴射で飛ぶそのロボットは、鉄腕アトムと名付けられ、辛い暮らしを押し付けられている。

科学省長官のお茶の水博士は、それを知り、アトムをサーカスから取り戻そうと立上がる……、そうしてあの物語が痛快に展開する。

その試写を見て、製作スタッフはみんな拍手喝采だった。

経営部門の弱体

「虫プロ興亡記」の著者、山本映一は、このパイロット・フィルムの効果につて、簡単に記している。

「パイロット・フィルムの効き目はてきめんだった。局はフジテレビ、スポンサーは明治製菓がきまった。 放送は来年(昭和三八年)1月1日からの毎週火曜日午後六時一五分から四五分までの三〇分となった」(虫プロ興亡記・一九八九年、新潮社)

前述の穴見薫の属する広告代理店の萬年社が動き、スポンサーやテレビ局を回り、このように、早く契約がまとまりスポンサーが決まったということは、作品の前途に、明るい期待を持たせるに十分であった。しかし虫プロとしては、この早急な契約で、二つのマイナス要因を抱えてしまった。

その一つは、契約に際して、手塚が一回の放送料を五十五万円でいいと、はっきり明言してしまったことだ。テレビ局側の方が、そんな安くて、いいのかと念を押したくらいであった。実際は一回の製作費は、二百五十万円は掛かったといわれている。同席していた、虫プロ専務の今井がしきりに、目で合図を送ったにも拘わらず、手塚は平然たるものであった。

これについて手塚は次のように述べている。

「当時、普通のテレビ劇映画の製作費が四、五十万円で、それから飛び離れて高ければ、とてもスポンサーは寄り付かないだろうという思案が一つ。それにうんと安い制作費を発表しておけば、とてもよそでは、それだけではできないだろう――という計算をたてたぼくは、心で泣いて、赤字覚悟でこういったのだ」(ぼくはマンガ家 大和書房 昭和五四年)

あまり安いので、裏になにかあるのではないかと、明治製菓の方で疑ったが、結局手塚の人柄が信用され、契約は無事結ばれた。この製作費はその後,百万円程度、引き上げられたという説もあるし、広告代理店の萬年社が、百五十万にして、虫プロに払ったとかいろいろの説があるが、真相はわからない。いずれにしても、製作費は、放映後引き上げられたのは事実であろうが、それは制作実費に満たない金額であったのは事実ではないだろうか。

第二のマイナス要因は、虫プロの制作能力が検討されずに、放映時期と毎週の放映とし、一回の長さを三〇分と決めてしまったことである。その頃の虫プロの制作能力からすれば、毎週三〇分のアニメーション制作し、それを翌年の一月から放映開始するということは、困難だということは、虫プロの事情を知っているものの眼から見れば、分る筈ではなかったのではなかろうか。

民放のテレビ局が、新番組を始まるときは、電通、博報堂といった、広告代理店が、製作者、テレビ局、スポンサーの間にたち、それぞれの立場、条件を勘案しつつ、契約関係を決めてゆくのが、民放開始以来の慣習のようであった。時には製作者の力をつけるために、人材、資金の面倒まで見る場合さえあった。

「鉄腕アトム」の場合、萬年社の穴見薫という人物が、早くから、虫プロに接近し、制作スタッフと交流し、手塚の広告代理店として協力する約束を取り付けていたので、当然、萬年社が広告代理店として、役割を果たすことになったのであろう。

だから、実行困難な契約を結んだ責任の一端は、萬年社とそれを代表した穴見にあったというべきであろう。

これが萬年社でなく、当時隆盛を極めていた電通とか博報堂とかが、代理店としてついていたならば、どうなったか。虫プロがまだ、制作部門には、一応の人物がある程度揃っていたが、事業経営体としての経営部門が何もできていなかったことを見れば、直ちにその面の充実に力を貸し、また適当な人材を探し出して虫プロに投入させたかも知れない、と思われる。そして、経理、人事、生産管理、対外交渉などの、経営部門の整備を図ったはずであり、その部門が制作部門と相計って、合理的な生産計画、販売計画を立てて、事業を進めたはずである。

勿論、虫プロの社長であり、オーナーであった手塚が経営者である。社長である手塚に、経営する時間なり、その能力があったかという問題を考えてみよう。手塚は、作家としては超一流、世界的なタレントである。然し経営の面については、それと同程度の経験なり、才能があったかというと、疑問とせざるを得ないだろう。そういう場合、手塚社長の作家としての才能に見合うだけの、見識を持った経営担当者が社内にいれば、その言に納得して、経営面を担当させることは、手塚としてもやぶさかでは無い筈であろう。

ところが残念なことに萬年社というのは、そういう人物を探し出したりする能力があったか、また穴見にそういう経営的な才能があったか、どうか、やはり疑問とせざるを得ないだろう。

萬年社という会社は、日本で、最も古い広告代理店で、大阪に本拠を置き、大正時代には大いに栄えたが、昭和に入り、大阪の大企業が本拠を東京に移し始めてから次第に勢力が衰え、一九九〇年に多額の負債を抱え、自己破産してしまう。虫プロに接したしたころは、いわば衰微に向かう斜陽会社であった

テレビアニメにも一〇本ほど関係しただけで終わっている。その十本の最初が鉄腕アトムだったわけである。そういう斜陽会社と取引せざるを得なかったのは、虫プロの不運だとしか言いようがない。穴見もその社員として、懸命に働いたのであろうが、籍を置く会社が左前では、持てる力を発揮できなかったのかも知れない。恐らく、日本最初のテレビアニメを制作する会社に、経営のアドバイスする力も、それに当たる人材を、探し出す能力も無かったといえるのではないだろうか。穴見自身もサラリーマンとして,萬年社の社員として、一部門を担当しただけの経験しかもたず、契約をむすぶだけでも必死だったのではないだろうか。私は彼が、功を焦りすぎたのではないかとさえ、勘ぐりたくなるのを禁じ得ない。

かくして、虫プロは、手塚の力で制作部門では、坂本雄作、山本暎一などを擁し、一流の人材が集まったが、経営部門は人を得なかった。漫画部門の一マネージャーだった山下が専務になったが、経営者型の人物ではない。広告代理店の萬年社、およびその社員穴見薫に事態を見極める力がなかったため、社長の手塚の手の及ばぬ経営部門を補佐、あるいはリードできる人物がないまま、日本最初のテレビアニメ制作に、見切り発車の如く乗り出してしまったことが、後々、マイナス要因として、大きくは働くことになったしまった、と言えるのではないか、と思われる。

「鉄腕アトム」放映が始まった後、穴見が常務として経営に当たることになるが、前記の如く、この人物にそれだけの才腕があったか、どうか。それは、のちになって、一層はっきりしてくる。

ものを作る経営は制作部門と経営管理部門とに自然に分れる。管理部門とは、生産費の管理、その為の経理、生産物の原価の策定、そこから販売計画の樹立、販売の実践と進んでゆく。虫プロの場合、手塚が漫画で稼いだ金を虫プロにつぎ込み、その金で、ドンブリ勘定式に製作、従業員の雇用、その他経費を支払って行く。手塚は、その為にマンガの仕事から手を抜くことは不可能であり、そこからアニメ制作が遅れるという、悪循環の繰り返しになってゆくのはやむを得なかった。

連日徹夜の多忙さ

契約を結んだ以上、実行しなければならない。「鉄腕アトム」の来年一月一日の第一回の放送を控えて、一〇月末になってになってやっと第二話の原画制作があがるという進行状況で、その遅れを取り消すため、虫プロのテレビ部は、夢中で働いた。

一方の映画部の「ある街角の物語」の方は一一月に入ると完成のめどがついた。映画部の連中は、一斉にテレビ部の応援に回った。テレビ部のアトムの方は10月いっぱいでようやく第二話が上がり、11月に入って漸く第三話にかかっていた。年内に最低でも五,六話のストックが出来ないと、毎週の放映に支障をきたす恐れがある

山本暎一は自分の当時の働きぶりを書いている。

「能率を上げるには、結局、時間で頑張るしかなく、日曜も祭日もなくなり、全員が終電車まで残った。明太(この文章の主人公、つまり山本と等身大の男の名)ら独身者は、無人のアパートへ深夜帰ってまたすぐ出てくるのも面倒くさく、そのまま朝まで描きつづけた。

机に向かっていると時間の経過への関心がなくなり、気が付いたら三,四昼夜過ぎていた、などということがザラだった。右手の鉛筆を持つところや、小指の画用紙に擦れる部分の皮がすりむけて赤い肉がのぞき、血染めの原画が出来たりして、包帯を巻かねばならなかった。腹がへったら近所の店からラーメンや焼きそばをとり、眠くなったら机の下にもぐりこんで寝た。……ここはもう浮浪者の巣窟だった」(前掲書)

その頃、虫プロに入社した人物に、若き日のSF作家、石津嵐がいる。石津は元来が演劇青年だったが、若気の至りで、やることなすこと失敗の連続で、完全に食い詰めた。そんな時、電車の中で拾った新聞に、アニメーション映画スタッフ募集という広告があるのを見て、ただちに応募した。アニメーションも、虫プロの社長が手塚治虫であることも知らずにである。そんなうらぶれた青年が無事合格した。面接のとき、やたらに忙しい部署で働きたいと、焼け気味に云ったのだが、そんなこと言わなくても、全社を挙げての大多忙の中に、いやでも放り込まれたのであった。

最初は進行係の一人になったらしいが、

「ボクは、わけのわからないままにあらゆる雑用にこき使われることになったのだ。その初出社の日から1か月というもの、家に帰ることが出来なかった。

全スタッフが、一人三役、四役というハードスケジュールをこなしていたわけで、それは、もう、とても人間様の生活とも思えぬ地獄の様相を呈していた」(秘密の手塚治虫・昭和五五年、太陽企画出版)と、自著に当時の虫プロの様子を描いている。

このような状況の下で、作業の遅れは一挙に解消しようにもなく、時日は刻一刻と過ぎてゆく。

止めるか、進むべきかの境目

テレビ部のチーフアニメーターであり、演出家である坂本は、現在の進行状況では、週一本の放映に穴がなくという心配を、強く感じていた。仲間の原画家を集めて、心情を述べた。

「おれ達が全員でかかれば、1週間で上げなければならない原画と動画に、いまだに四週も五週もかかっている。その遅れの原因には、漫画の方で忙しい手塚先生の手を待つロスも大きい。テレビ・アニメの開拓は漫画を描く片手間で、やれるようなもんじゃない。

と言って,今の虫プロを支えているのは、手塚先生の原稿料収入だし…。テレビアニメは虫プロだけの問題ではない。アニメの未来がかかっている。もしスタートしてしまっておれたちが途中で失敗したら、二度とテレビ・アニメをやるものがいなくなる。だからこの際先生の覚悟を確かめに行こうと思っているんだ」

という坂本の言葉によって、アニメーターが打ち揃って、手塚の仕事場に押しかけていった。手塚は中二階の仕事場で、風邪を引いたといって、寝転んで、原稿を書いていた。

手塚は一同の話を聞いて

「君たちがそこまで考えてくれて、こんな嬉しいことはない。僕にちょっと考えさしてほしい」

と、言うことで、一同はその場を引きさがった。手塚の返事はすぐに来た。それは、手塚が演出、原画を受け持つのは第三話までとし、第四話からは、坂本、杉井、山本、石井、紺野の五人の原画家に任せようというのだった。つまり五人がローテーションを組み、順繰りに各一話ずつ演出を担当する。五人が五週間で、一本の作品のシナリオ、画コンテを描き、原画を描き上げる。

動画以後の仕事は人を分けずに、それぞれのセクションが総がかりで、一本分の作業をしてゆく。

手塚は、シナリオと画コンテのチェック、キャラクターのデザインを引き受け、さらに時間があれば原画を手伝う。時々手塚も一本の作品を担当する。

というものであった。

以上の手塚の提案を皆が受け入れた。漫画で忙しい手塚の手が空くのを待つという計算できない要素が排除され、きつくても、自分たちが頑張れば作業が進むので、この体制を歓迎した。

十二月。現場の苦闘は続いていた。放送開始前に五本をストックしたいという願望も、第三話のダビング完了までが精いっぱいだった。その第三話は、一月一五日に放送されてしまう。一月二二日に放送する第四話は、今作画中である。間に合うのか? よしやそれがやっと間に合ったところで、その次は?

そんなことを考えるとスタッフの面々は、恐怖に身が縮んだ。世間は年末多忙さの真っただ中にあったが、虫プロのスタッフは忙しさの限度を通り越していた。虫プロのテレビアニメの責任者の坂本は強烈な不安に駆られ、ひたすら鉛筆を握り続ける動画家の全員と、アニメにかかわる各部門の責任者を、代理店の穴見を含めて、招集をかけた。

「おれはテレビアニメを手塚先生に提唱し、今日まで必死にやってきた。しかしこのままやってゆけるか?これだけ奮闘してもまだスケジュールに間に合わない。

このまま進むべきか、いったん退くべきか。止めるなら今が最後のチャンスだ。退く、ことに勇気を擁することもある。とにかく放送が始まってしまってからでは、取り返しがうつかない。どうだ、止めると結論が出たら、すぐに先生の元に駆けつける。どうだい?」

と、声涙ともに下る決断を示した。これに反対したのは、山本だけであった。その時、穴見が立ち上がった。大きな図体の男の口から、重々しそうな声が出た。

「僕も反対です。坂本さん、男児たる者、時に命をかけても、腹を切る気でやらなきゃならない場合があるのではないですか。ここは死ぬ気で団結して、やって見ようじゃないですか。この際は、一致団結でやりぬくべきではないですか」

学徒兵の特攻隊上がりらしく、特攻精神でやろうというのだ。みんな黙った。坂本は口を引き締め、「じゃ、血のションベンたらしてもやり抜くか、どうだみんな」

反対するものがなかった。

この時は、男の意気地、特攻精神で行くことになったが、私は、坂本の言うとおり、いったん引いて置いて、十分とはいかないまでも、相当の物的、人的な準備をし直して、改めて出発した方が良かったと、思えるのである。さすが坂本はアニメの先駆者としての先見性があったと、今は思えるのである。

日本人の悪い癖で、男だ、やってやろう、という精神論が、往々にして、勝ちを占めるのである。この特攻精神で何が何でもやり抜こうとしたため、虫プロには、特殊な精神構造が生まれ、それが蔓延し、結局は後年の破局を生み出していったと思われる。

視聴率二七パーセントの大成功

ともあれ、この時以来、虫プロの空気は、冷静な計算より、一層、意気で仕事する雰囲気が強くなったといえようか。

「虫プロはおもちゃ箱をひっくり返したような会社だった。世間の常識に収まるものは一人もいなかったといってよいだろう」

鉄腕アトムの頃、虫プロで、制作進行の仕事をしていた柴山達雄という人物が、「虫プロてんやわんや・誰も知らない手塚治虫」(創樹社美術出版・平成二一年)という本の中で書いている文章である。仕事が目茶目茶な忙しさのために、非常識の人間ばかりできてしまったのだろう。

「地獄のアトム制作に身を投じたが、不夜城と化したスタジオは、鉄腕アトムならぬ徹夜アトム、練馬鑑別所に引っ掛けて練馬貫徹所と、内外から言われるほどの凄まじさだった。動かない漫画を動かすのは口で言うほど簡単なことではない。二三分三〇秒のアトム一話分に描く動画原稿は二千枚から三千枚である。アニメーター不足、連日の徹夜、体力の消耗、鉛筆を握ったまま椅子から落ちて、そのまま床に眠りこけるものが続出した。

ひとたびスタジオに入るや十日や二十日帰宅できなかった。手塚自身もその渦に飲み込まれていた。一日の睡眠時間は二時間ほどあっただろうか。しばしばスタジオの床の上で、ぼろ雑巾のように眠っていた」(前掲書)

というありさまだった。それが延々と続いた。

そのかわり、家内工業的な、牧歌的な面白いところもあった。原画を描くアニメーターは、すでに述べたように高い報酬を受けていたが、その後一般募集で入社してきたスタッフは、会社の規模通りの報酬しか貰っていない。例えば先の石津嵐氏だって、月給一萬三千円ほどしかもらっていなかった。

だが毎日、昼食時になると、手塚のお母さんがスタジオに現れ、スタッフの一人一人に、百円玉、ひとつずつ手渡してくれた。昼食代だ。

「これは定められた給料以外に手塚先生の好意から捻出されたものであった。

この百円玉を握って、近くの蕎麦屋に駆けつけ、五〇円のたぬきそばと四〇円大盛りライスをかっ込んだ。あの頃のことは、手塚先生を語るとき、どうしても連想してしまう風景なのである。

青春の記憶というものは、なぜか、いつも空腹感を伴うものである。」

と石津は前掲書に書き残している。

昭和三八年の元旦。午後六時一五分、フジテレビは、日本中の家庭に、「鉄腕アトム」を送った。先ず谷川俊太郎作詞、高井達雄作曲の、あの懐かしい歌が流れた。

もう引き返せない!

だが、視聴率は二七パーセント。大成功だ。

スタッフ一同、誰も彼も、強い感動に包まれた。前人未踏の大事業をやってのけたのだ。日本最初のテレビ・アニメ。長い間の制作の苦しさも忘れた。

坂本は、去年の暮の暗い顔つきはどこへいったやら、新たな決意で、第四話の撮影にかかり、手塚は新たな作画に入った。それらがやがて、三〇パーセントを超える視聴率を稼ぎ、さらにカラー化により、四〇パーセントを超えるに至るのである。(続く)