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私の手塚治虫  最終章   峯島正行

  • 2016年10月30日 15:00

私の手塚治虫(終章)
峯島正行
小林一三の恩恵

手塚構想力の背景

思想家・鶴見俊輔は、その著、『漫画の戦後思想』(昭和四八年 文藝春秋)の「都市」という手塚治虫を論じた章の冒頭で「大正の末年に生れて宝塚で育ったという事実が、手塚治虫の構想力の背景をなしている」と述べている。
この文章の手塚は、大正末年生まれとされているが、これは昭和初年と訂正されなければならない。当時、手塚は大正一五年生まれと誤報され、それをあえて訂正しなかったために、それが世間にとおってしまった。事実は昭和三年生まれであることが、世間に知れたのは、亡くなった後のことである。だから、鶴見の文章が間違いだとは言えない。大事なのは、その後の言葉だ。
鶴見は、関西の私鉄の事業家は、一種のユートピア構想を持っていたとし、「中でも小林一三は、慶応義塾出身で、福沢諭吉の町人道を生かそうという志を持ち、(中略)私鉄阪急の経営に乗り出してから、彼は大阪の起点に百貨店を作り、終点の宝塚には大衆娯楽センターをつくることを考えた。先ず温泉ホテルをつくってから、そこに泊り客に見せるための少女歌劇を工夫し、自分で脚本を書いて、興行をはじめた。やがて、俳優を養成するための学校をつくり、それは寄宿制度の学校で、終点宝塚に置かれた」と、宝塚の生立ちを簡略に述べている。当時は少年少女の交際が自由でなく、親や教師の監視が厳しかった。それが宝塚ならば、同じ年頃の少女のしている芝居であるから、親たちも心配せずに、宝塚の歌劇を見ることを許した。
そこで娘たちは、同年輩の少女が男役と女役に扮して、はなやかな人生を演じるのをみた。普段見ている父親や兄弟の粗野な男と違って、女性が作り出す理想の男性を見て楽しむことができた。だから、現実の日常生活から逃避するという側面を持っている。
鶴見は、宝塚は、女形の演技が現実逃避の夢をもたらす歌舞伎と同様に、現実逃避の機会を売るという産業を開発し、それを維持したところに、小林一三の独創性があったという。温泉の附属的存在から離れて、宝塚独自の世界を築き上げたことは事実だ。
「『モン・パリ、わがパリ』、『私の夢の都マンハッタン、ブロードウエイ』というようにヨーロッパ、アメリカを謳いあげた出し物も多く、それらの歌のかけらとともに、西洋近代の理想が、手塚少年の心に住みついて、後に来る軍国主義時代にも変わることがなかった。
このユートピアの設計者小林一三が、彼の日本国家改造計画をひっさげて東京に乗り込み、国粋主義と格闘したころ、その影響をうけた手塚治虫は中学校の片隅で、彼なりに時流とたたかいつづけた」(前掲書)と書いている。
間接的に、であろうが、鶴見流にいうなれば、手塚治虫という人間形成に、最も影響を与えたのは、小林一三ということになる。

小林一三の手のぬくもり

私はこの小林一三という、日本資本主義史上稀にみる傑出した人物に会ったことがある。随分と昔の話で恐縮だが、たしか昭和二七、八年ごろのことである。
その頃、私は「実業之日本」という雑誌の新米の編集者であった。ある日、山田勝人編集局長が、編集部員に向かって、「明日の朝、東宝の小林一三を訪ねることになったが、誰か一緒に行きたい奴がいるか。尾崎(八十八助編集長)君も同行するが、もう一人くらいならいいだろうから」と大声を上げた。小林一三は阪急電鉄、東宝などの創業社長で、大物財界人である。私はすぐに手を挙げた。
「よし、ほかに希望者はいないか、よしそれじゃ峯島来い」

当時、映画が好きだった私は、東宝という会社に興味を持っていた。その前身をPCLといったが、そのころから映画界で最新の設備を誇り、後進の会社にもかかわらず、長谷川一夫、大河内伝次郎、山田五十鈴、入江たか子等の大スターを他社から引き抜き、いろいろ注目された。山本嘉次郎、衣笠貞之助、島津保次郎等の名監督を入社させ、話題作を提供し、戦時中は、東宝映画と名前を変え、その技術で「ハワイマレー沖海戦」を制作、特殊撮影を完成させ、また、黒沢明という世界的名監督を育てた。
戦後は、東宝争議という日本の労働運動史上に残る大闘争が行われ、その鎮圧にGHQの軍隊まで動員した。その為スターが皆離散、荒れ果てた撮影所だけを残して、ようやく収まった。
だが何事もなかったように見事に復活を遂げた映画会社、その実質経営者に会って見たかった。
もう一つ、私の勤務する会社では、「少女の友」という古い少女雑誌を刊行していた。その編集部の人たちは常に宝塚を話題の中心において、編集している姿に接していた。
仕事関係で日比谷付近を歩くと、東京宝塚劇場の周辺には、常に女学生達がたむろしていた。「少女の友」の編集部が宝塚を追いかけるのは当然だと思い、「宝塚とは何だろう」と日ごろ思っていた。その面からもその創始者であり、今日まで発展させた小林一三に関心を持っていた。それで一も二もなく、山田の誘いに応じたのであった。
ついでながら付け加えると、その頃「少女の友」には手塚治虫が何回か執筆している。

「小林邸に行く者は、明朝、八時一〇分前、都電某停留所前に集合」ということになった。当時実業家は、朝の仕事前に、ジャーナリスト等に会う人が多かった。
その日は、早めに下宿に帰った。ただ天候の具合が心配だった。夕刊を見ると大雪の情報が出ていた。翌朝、六時半ごろ目が覚めて、直ちに雨戸をくくると、はたして、庭に一〇センチほどの雪が積もっていた。当時は、雪が積もると、国鉄、私鉄、都電を含めて、電車やバスが、運航を停止することが多く、大雪により全都交通途絶の状態になることもしばしばであった。タクシーも普及せず、あっても雪の中を走ることはなかった。それに、公衆電話は極めて少なく、電話のある個人の家というものは稀であった。だから役所も、会社も、機能停止状態になってしまうのだった。
その朝、私はまず、電車が遅れ、遅刻して、編集局長に怒鳴られるのをまず恐れた。ニューギニア、ガダルカナル戦線生き残りの元軍曹、山田の大きな顔が、眼先にチラついた。私はゴム長をはいて、ともかく家を出た。下宿は世田谷、小田急の経堂であった。経堂には、車庫があったせいだろうか、私が駅に着くと、新宿行きの臨時電車が出るところだった。やっと飛び乗ったが、雪のため電車は超のろのろ運転。新宿に着いた時は、約束の時間も迫っていた。
都電の停留所に駆けつけたが、これも間引き運転の、のろのろ電車だ。やっと三〇分ほど遅れて約束の場所についたが、山田も尾崎もカメラマンもいなかった。後で叱られるのはいいとして、これからどうするか。とにかく、小林邸に行ってみることにした。玄関は閑散としていた。ベルを押すと、玄関の大きな障子が開いて出てきたのは、写真だけで知っている一三氏の長男で、当時東宝社長の米三氏だったので、吃驚して声も出なかった。ご本人の白髪の一三氏が、後ろに立っている。立ち竦む私を招き入れながら、一三氏が
「実業之日本の人か」と聞く。「はい」と答えると、
「雪の中をよく来た、寒かったろう、さあ上がれ、あがれ」
と手を取って、部屋へ案内してくれた。山田も、尾崎も来ていなかったのだ。部屋の中では,赤々とスト-ブの火が燃えていた。
「約束の時間を遅れまして」
と頭を下げると、一三氏は真っ白な白髪の頭をあげて、じっと私を見つめた。鋭い目つきと定評のある瞳が、揺れ動いた。それは、清く正しく美しくという、言わば、歯の浮くような言葉を本気に自分のものとして、多くのスターたちを何十年かけて育て上げた男の、厳しさをあえて抑えた目の色だったのかも知れない。
それから何を話したか、仔細は、今は忘れた。しばらくして、とにかく他日、山田、尾崎と尋ねることにして、また玄関まで送られて、社に向かったと思う。
次に会ったのは、季節がやや緩んだ早春の一日、尾崎編集長と大阪郊外の池田の自宅を訪れた時であった。今その家は池田文庫になっているが、静謐で趣のある家だったが、普通の住宅とは変わりない大きさだった。その時も鬼の経営者が、温和な老爺となって、宝塚の生徒たちの自慢話をされた。自宅で作られた暖かい昼食をごちそうになりながら、「嫁を貰うなら絶対宝塚の娘がいいぞ、清く正しく美しくというのは、お題目ではない。私は本気に、そういう娘を育てているのだ、」というような話をされたように記憶する。
私は独身だったが、華やかな宝塚の少女歌劇の女性など雲の上の存在と考えたりしながら、その話を聞いていたように思う。
付け加えると、山田と尾崎は、小林に親しい経済人、文化人との連載対談の企画があり、そのた打ち合わせのために、小林を訪ねたわけであった。小林がすぐに承諾し、実現することになった。雑誌で連載され、それが「小林一三対談一二題」という本にまとまって、昭和三〇年実業之日本社から刊行された。

「阪急沿線」という文化

それはともあれ、「私の手塚」を書くことになった時、すぐに、思い出したのは、この時の小林一三の事であった。手塚と小林とは、私には、二つの面から考えて、大きな関係があったと思える。
第一は、手塚は、小林が作った世界、文化的環境の中で、生まれ、成人し、仕事をし、成果を上げたということである。
第二は、やろうと決意をして手を付けた仕事は独特のアイデアを生かして、何が何でもやり抜くという、仕事の仕方が、両者に共通している。二人とも、とても一人の仕事とは思えぬ巨大で、膨大な仕事をし遂げたが、その方法に共通項があるように思えてならないのである。
鶴見俊輔に倣うようであるが、あの一見優しい穏やかな白髪の小柄な老人が、知らずして手塚治虫という、世界に冠たる英才を作り上げたことになるのではないかと思う。

小林を敬愛し、『「わが小林一三」――清く正しく美しく――』という小説を書いた芥川賞作家、阪田寛夫は、同作品の中で、「人文的世界・阪急沿線」という概念を打ち出している。そしてそれを作ったのが、小林一三だというのである。阪急沿線地域について次のように書いている。
「阪急神戸線の西宮北口あたりから六甲山系沿いに神戸の東の入り口まで、また西宮北口まで戻って直角に同じ六甲山脈を今津線で東の起点宝塚の谷まで、そして宝塚から宝塚線で北摂の山沿いに大阪に向かって花屋敷から池田、豊中辺りまで、その線路より主として山側の、原野であった赤松林と花崗岩質の白い山肌、川筋に、まるで花壇や小公園や、時には箱庭をそのまま植え込んだような住宅街が、ある雰囲気を以って地表をしっとり蔽っていた。いまから四〇年前のことである。
すべて山の斜面に面しており、中でも西宮―神戸間は海から山へせり上がってゆく狭い傾斜地を、一番海に近い家並みに沿って阪神電車、すぐその上を阪神国道電鉄(今日の阪神電鉄)、もう一段上を官鉄(今日のJR)一番山手を阪急電車が並んで走っていたのだが、一番上の線路のなお上に大正以来造られた住宅街は、山際をかすめて、大阪神戸間を二五分で駆けぬけた小豆色で統一された電車の姿や機能と相俟って、長い長い立体的で緑色の休息地――これまでの日本にはなかった、宙に浮かんでいる匂いのいい世界を、この地上に形作ってきたように思われる。昭和でいえば十年代半ばごろまで、……おそらく日本国中どこにも、これほど自然と人工の粒のそろった美しい住宅街はない」(阪田寛夫 わが小林十三)
著者の阪田は、少年時代のある日のたそがれ時、赤松の香りにむせぶような、その街の一画に立って、感傷に身を包まれ、洋風赤屋根の家の瓦や壁が紫色に染まっていくのを眺める。谷間や丘の上の家々に灯がともり、その窓ガラスの内側には、どうしてもスリッパをはいた聡明そうな美しい少女が憂い顔をして、立つていると信じざるを得なくなるのであった。蔦や薔薇の絡みついた家々に住む人には高貴な精神が、息づいているような感覚に襲われるのであった。
そこに住む人は、彼の想像するところ、衣食を大阪より神戸の外人街に依存し、令嬢や令夫人たちは、そこで手練れの職人の手になる外套を着、パンやチーズはトーアロードのドイツ食品店で求める……そんな感傷的な空想にふける少年の耳朶に強く響くのは、その美麗な住宅街の坂下の駅舎の周囲に咲く桜の花を吹き飛ばして、突っ走る、海老茶色の鋼鉄製の特急電車が発する鋭い轟音であった。
梅田駅を発車する流線形でもなんでもない海老茶色の車両が、二本に一本は特急となり、どの特急も西宮北口で前の普通電車に追いつき、三宮まで二五分で走るのだから、実に実用的だが、夢を追う少年阪田には、物足りないくらいであった。
この素敵な電車と共に、宝塚があった。
阪田は次のように書く。
「昭和一五年まで少女歌劇と呼ばれていた宝塚レビューは、これまた大阪育ちの私などにとっては「阪急沿線」と分けることのできない一つの世界の別な呼び方のようなものであった。花崗岩質の六甲と北摂の山塊との境界を流れてきた武庫川が大阪平野へ出る場所にたしかに宝塚という明治生まれの温泉地があった。その対岸に箕面有馬電気軌動線(阪急の前身)が、明治末から大正の初めにかけて建設した『新温泉』の建物のなかで、女ばかりの『学校』が『歌劇』の余興を続けているうちに、主客が転倒して少女歌劇の方が有名になってしまったには違いないのだが、この美酒に一度でも酔った人にとっては、それは形の無い香しい雰囲気のようなものであった。
……西宮北口にプラットフォームに降り立つと、山から吹き渡る風の匂いがまるで違って爽やかだった。たちまち私たちは精神の平衡を失った。プラットフォームに袴をはいた若い女性がいたとすれば、誰もが宝塚の生徒かと疑われた。男役の人たちは短く髪を刈り上げ,七三に分けたり、オールバッグにしたのを、ポマードで押さえつけていたからすぐ分ったが、娘役は普通の女の人と区別はつかなかったというより、この電車に乗る女の人は、身も魂も美しいという信仰がこちらの胸に最初からあって、その象徴が宝塚の生徒なのであった」(前掲書)
この作家の「阪急沿線」に対するほれ込みようは、それこそ信仰と化しているようにさえ思える。なお著者は続ける。
「……今津線の宝塚線に乗り換えて、三つ目の下車駅に来ると、(中略)このレールの先の同じ平面に、宝塚という匂いのいい世界が実在することがほとんど信じられないほどであった。それでいて、駅を出て丸い白みがかった石でしっかり土手を固めた水の無い川に沿い、松の枝の間から、時々赤い屋根の見える住宅街や、高台の果樹園や、まだ家の建たない広い松林だのは、すなわち宝塚の舞台装置であり、もう始まっているオ―ケストラの音合わせの響きなのであった」(前掲書)

宝塚の、この赤い屋根の住宅街に、手塚治虫が育った家があった。
だから、手塚は「阪急沿線文化」によって純粋培養された人間と言えるのだ。
先の阪田の表現を借りると、赤松林に四季だけがめぐってきた場所、ある日美しい住宅が生まれ、最初の種まき人である小林一三の意図を超え、おのずから美女の顔立ちをした住宅が育っていった。そこに住みついたのは妖精でも天女でもなく、具体的には大阪や神戸に仕事場を持つ人たちがその家族であった。その阪急沿線に生れた住宅街の住み手は、宝塚方面は部長、課長クラスであったという。
文学者らしい美化した表現であるが、この町は日本の資本主義社会が生んだ市民社会の人々の住み家であった。
東京にも田園調布や成城学園とか、近代的な住宅地が、昭和年代にできたが、これらは東急系電鉄を作り上げた五島慶太に招聘された小林一三の指導の下に出来たか、その真似であった。近代的な住宅地は、最初は小林一三が、阪急沿線に創造したものである。

手塚家の系譜

手塚治虫が五歳の年、住友金属の社員だった父の手塚粲(ゆたか)は、西宮から宝塚に引越した。大阪で、住友の社員と言えば、それだけでエリートであった。東京で三井、三菱の社員というのとはちょっと違ったニュアンスがあったようである。これは私が財界記者の頃、住友系の人と交わり会得した感覚である。
治虫の祖父太郎は、関西大学創立者の一人で、長崎控訴院長を務めた法律家であった。治虫の曽祖父は緒方洪庵の適塾出身の伊達藩藩医だったという名門の家柄、新しき阪急住宅に住むにふさわしい系譜であった。
だから手塚は、典型的な阪急沿線文化の先端的担い手の家に育ったわけで、そういう自己の育ちに、内心、強い矜恃をもっていたに違いがない。
手塚は、池田の池田師範付属小学校(現大阪教育大学付属小学校)というエリートの子弟がゆく小学校に通い、大阪の秀才校No1と言われた、府立北野中学に進学、さらに浪速高校を経て、大阪大学付属医学専門部を卒業するという秀才の道を進んでいった。

漫画家には、こういう育ちの人は殆どいない。地方の漫画好きの少年が、志を抱いて、上京して、苦労しながら画を出版社に持ち込みをやりながら、次第に認められて、世に出るといった、立志伝型の作家が多い。
例えば、加藤芳郎は、都庁の給仕をしながら、漫画を描きたくてたまらず、川端画学校の夜間部に通い、アサヒグラフその他の雑誌の投稿欄に投稿するということから、漫画家への歩みを始めた。その川端画学校で、やはり漫画を投稿していた小島功と知り合い、お互い切磋琢磨しあうという仲になった。
小島は尾久の洋服屋の長男に生まれ、当然親の跡を継がなければならないのを、何とか親を説得して、漫画の投稿をしていた。
もっと若手の、秋竜山は伊豆の漁師の息子、漁師をやりながら、漁村の若者宿から、漫画の投稿することから始まった。
サトウサンペイや杉浦幸雄など裕福な育ちの人もいたが、それなりに、世に出るまで衣食には苦労した。
少年漫画でいえば、藤子不二雄の二人、安孫子素雄、藤本弘二人は、富山県から、上京し、今日有名になったトキワ荘に住みつき、漫画家を目指した。そのトキワ荘に、満州引揚者の赤塚不二夫、岩手から上京した石森章太郎、寺田ヒロオなどなどが住みつき、それぞれの道を開いて行ったことは今更、言うまでもないことだ。

手塚は漫画家となり、日本一の稼ぎ頭となっても、以上述べた阪急沿線住宅地の人の住人生活を崩さす、むしろそれをよりどころとしていたといえる。
手塚は、多くの連載漫画を抱え、多忙過ぎて、締め切りにおくれがちな手塚の行動に、つねに多くの編集者の目が光っていたことは前に縷々述べた通だが、手塚は「逃げの名人」と言われ、編集者の目を逃れ、消えていなくなることがままあった。マスコミのパーティーなどで手塚の周囲には編集者がたむろし、或いは監視の目を光らしていた。にも拘らず行方不明となるのだ。
先に紹介した石津嵐は、よく手塚がパーティーに出るとき、きっと抜け出てくるから、どこそこで待っていてくれ、二人だけでゆっくり、一杯やろうと言われた。そして必ず監視の目を逃れて約束の場所に現れた。
「どうやって、抜け出てくるのか分らないけど必ずやってきた」
と石津は語るが、そうして苦労して出てきて、大酒を食らい、女の子の尻でもさすって騒ぐといったことをするかと思いきや、手塚のすることは、
「たいしたことはないのさ、例えばバーの『数寄屋橋』の皮の禿げたような粗末なソファーに座ってさ、ウィスキーを一,二杯、舐めるくらいのことで帰ってしまう。酔っぱらったり、騒いだりしたことは一度もない。あれで息抜きになったんだろうか」
と石津はいう。寝る間もない忙しい手塚にとって、たとえ十分でも自由な時間が持てればよかったのだろうか。私が思うに、手塚の観念でいえば、それで銀座で飲んだくれた事になるのだろう。手塚の書いたものを見ると、よくそんな表現をしている。その実態は以上のようなものだったと思う。

彼の本当の休息とか慰藉は、やはり阪急沿線の紳士としてのそれであらねばならなかったのだ。それは赤い屋根の住宅の中、綺麗に片づけられた美しい部屋で、家族と団欒することにあった。すなわち小林十三が期せずにつくった阪急沿線の文化の中に浸ることが、最大のリクリエーションだったのである。今その家庭の一場面を紹介しよう。
手塚の妻悦子が書いた『手塚治虫の知られざる天才人生』(講談社文庫)という本の後書きを子供達が書いている。娘、千以子の文章に次の一節がある。
「父と母はとても仲の良い夫婦でした。居間で私がテレビを見ていると、その横で父が母の膝枕で耳掃除をしてもらっていたり、あるいはこたつの中で足の引っぱりあいをしていたり。また、テレビからワルツが流れてくると、父は母を誘って立ち上がり、ダンスを始めます。二人とも恋人同士のようにはしゃいでいるのを見ると
『とてもお見合いで結婚した夫婦に見えないぞ』と感じます。いつか結婚したら、自分もこんな夫婦になりたいなぁと、あこがれていました」
そうして、なにかのお祝いでもあると、手塚はバイオリンを弾き、ピアノを叩き、家族で合唱する……。
手塚の精神の慰藉、そして肉体の慰安はここにあったのだ。
しかも手塚は、この家庭内でも、子供たちを一個の独立した人間として扱い、上から親の権威を使って言うことをきかしたり、過剰な甘えをさせることはなかったと、長男真が講演の中で、語っていたのを思い出す。
手塚は、阪急沿線の紳士としての、典型を演じ、その中に、紳士としての威厳、自負、をもって生きていたのだ。

宝塚と共に育つ

宝塚の手塚家の住まいは歌劇長屋と通称された地域にあった。そこには宝塚歌劇のスターたちが住んでいたからだ。隣に天津乙女、雲野佳代子の姉妹が住み、母親が熱心な宝塚フアンであったため、この二人に可愛がられたことは既に述べた。治虫は、舌がまわらない頃、「歌劇ねえちゃん」と呼ぶところを「タヌキねえちゃん」と呼んで笑われたものだという。
つまり、三,四歳のころから、毎月のように母親に連れられて、宝塚大劇場に行った。
長じてからも、手塚は宝塚を日常的に観ていたようだ。
講談社の漫画全集281 新宝島 に「ぼくのデビュー日記」と称して、大阪大学医専の学生だった昭和二一,二年の日記が併載されているが、それを読むとその一八,九歳の頃、宝塚大劇上に、よく見物に行ったことが、わかる。
例えば昭和二一年六月八日に「ヅカへ行った。割合良い席であったが、歌劇はあまり良くなかった」
とあり、六月二七日には「朝五時から新温泉の行列に立たされて、友達の義理と言いながら……」とあり、著者の注がついている。それには、当時宝塚劇場はよい席をとるため早朝から入り口に行列する。私は宝塚に住むものだからその役を仰せつかったとある。
また「母、美奈子(妹)と歌劇に行く」という文字も散見される。
またその頃すでに宝塚歌劇の機関誌、ファン雑誌「歌劇」「宝塚グラフ」などに、漫画を連載していたのだから驚く。
前述の日記に、その件についての記述が散見される。
昭和二二年三月二九日「本日、「歌劇」発売、小生の漫画が綺麗に出ていた。
五月一一日「一日中宝塚グラフの原稿」
五月一五日「歌劇事務所に拠ったら先日の漫画が気に入られたそうである」
このような記述が、随所にある。ということは、幼児の頃から成人するまで、宝塚歌劇にどっぷりつかり、そこから栄養を吸収してきたということであろう。それが漫画を描くようになって、文字どおり、鶴見俊輔の言う「想像力」の背景に成ったことは確かである。

宝塚の歌劇というものは、歌劇とは言いながら、全く西洋の「オペラ」とは別物で、全くの宝塚、小林一三の創造物である。
そのストーリーは、日本で言ったら、神話から、源氏物語から、中世、江戸時代をへて、近代文学に到るまで、最近では「ベルサイユのばら」のよう舞台で、西欧の楽器による音楽にのせて演技者が、歌とセリフにのせて、ものがたりを進展させてゆく。しかもその演技者は、しっかりと訓練された若い女性ばかり、男性役も老人役も若い女性が演ずるという歌舞伎と正反対の役作りで、演じられる。
勿論欧米の原作についても日本のそれとと同様、あらゆる舞台芸術、文芸作品からも、それも古典から現代作品までを、材料として、脚本をつくっていった。
これらのことは、長い年月をかけて、小林一三が、若いころ文学を志したという文才を生かし、自ら率先脚本を書き、後進の専門家を導いて創り出したものである。
しかも、レビューという、舞踊、歌謡による絢爛たる、舞台芸術を作り出し、興行のフィナーレを飾るという方式まで、独創したのである。
筆者は、この本書の原稿執筆中、たまたま初演時の「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネット役を演じられた、宝塚月組のプリマドンナだった、初風諄さんに知己を得たのを幸い、宝塚東京公演の二,三をご一緒させていただいた。初風さんのお陰で、その組のトップスターに会うこともできた。
そこで最初に感じたのは、男性の観客が思ったより多いということだった。勿論若い女性が圧倒的に多いには違いないが、男性が真剣に観劇していることにあらためて驚かされた。
そこで私は、日本の昨今の舞台芸術を考えると、リードしている集団は三つだと思えたのであった。一つは歌舞伎、一つは宝塚歌劇、一つは劇団四季のミュージカルではないか。その是非はともかく、宝塚は日本の最強の舞台芸術であることは確かだろう。
歌劇の舞台の面白さもさることながら、レビューの絢爛たる美しさも大変なものがある。
主役のスターが、舞台いっぱいに広がった階段を下りてくる華やかさ、そのスターが背負う羽飾りの大きさは尋常なものではない。
「あれは二〇キロもあるのです」
と、初風さんは言った。
この絢爛たる存在が、肥料となり、栄養となり、手塚のあの芳醇な漫画を生んでいったのだろう。
春日野八千代、越路吹雪、久慈あさみ、有馬稲子、淡島千景、月丘夢路、乙羽信子、轟夕起子、霧立のぼる、小夜福子、宮城千賀子、葦原邦子、寿美花代と、思い出すまま名前を並べただけでも、凄い顔ぶれだ。この人たちの舞台を、手塚は見つめたのだ。無数の彼女たちが作る舞台が、漫画を生む土壌とならぬはずはない。

手塚は、描きたい。描くことはいくらでもある。頼むから、仕事をさせてくれ。
手塚はそういって、あの虫プロが倒産し、何億の借金を背負いながら、あたかもなにごともなかったように、描き続け、漫画界第一人者の地位を微動だにも、させなかった。
昭和六年、発展途上にあった、宝塚大劇が火事になった。これで下手をすれば、せっかくファンを集めてきた、宝塚少女歌劇が、消えてなくなるピンチに立った。小林社長も焼けるおちる大劇を見つめていた。
だが箕面有馬電軌以来、阪急電鉄の急行化、住宅地の開発、少女歌劇と幾多の難関を乗り越えてきた小林は、わずか五二日間で、大劇場を再建させ、何事もなかったように、旧の如く少女歌劇を続けて行った。
或いは、戦後最大のストライキによって、目茶目茶になった東宝映画を、社長に復帰するや、たちまち復旧させ、何事もなかったように、旧に倍して繁栄をさせていった小林一三、その姿と、日本最初のテレビアニメ、アニメ映画を作った虫プロが無残な姿で倒産したにもかかわらず、借金取りが押し寄せる中で、平然と漫画を描き続け、ことが落着した後、何事もなかったように、一層漫画界における権威を増していった手塚と、その精神の強靭さにおいて通底、共通するものがあるように思えてならない。
それは手塚が、宝塚から学んだ、漫画のアイデアの出し方を持っていたこと、その腹の底には、あの美しい、阪急沿線の住宅地で培われた、端正で、力強い紳士の精神を持ち続けたことに拠ると私は確信する。

私の手塚治虫 第28回  峯島正行

  • 2016年8月24日 11:54

私の手塚治虫(NO28)
峯島正行
虫プロの終焉

「展覧化の絵」を自腹で制作

前回まで、虫プロの経営を担当した人たちの不適正というか、経営能力の足りなさ、そして不正まで飛び出し、虫プロの経営を難しくしたことを、縷々述べた。その経営力の無さが、手塚の年来の目的とした芸術性の高い、実験的作品の制作まで、困難にすることになった。
漫画家、九里洋二、柳原良平、イラストレーターの真鍋博の「アニメーション3人の会」が、昭和39年から「アニメーション・フェスティバル」と称して、一般に参加を求めたが、虫プロの人々は無関心であった。手塚は、小品を出品した。それを機に手塚は、漫画家や画家に、実験的アニメーションのイニシアチブをとらせる前に、本職の虫プロこそが、核になるべきだとして、虫プロの役員会に、劇場用の実験的アニメ、「展覧会の絵」の制作を提案した。昭和41年のことである。
役員会は資金繰りの苦しさを理由に、手塚の提案の受けいれを渋った。「展覧会の絵」は手塚が前から温めていた企画で、ムソルグスキー作曲、ラベル編曲「展覧会の絵」10節の各節を、視覚的にイメージ化して、具体的なエピソードを造り、それを繋ぎ合わせて、芸術的な世界を表現しようとするものであった。
考えてみれば、手塚が、虫プロを作った目的は、芸術的実験アニメを制作することで、テレビ・アニメ制作は、その資金を作る手段だったはずである。それが今や目的と手段が逆転してしまっているのだ。
手塚は役員会を無視して、二千万円の自腹を切って、この実験アニメを制作した。それが、完成したのは、昭和41年秋だった。
虫プロのテレビ・アニメの方は、その年の夏過ぎから、子供向きに作られた「ジャングル大帝、進めレオ編」の視聴率が急落し、翌年の3月で放映打ち切りが決まっており、テレビ・アニメの第一弾として、まる4年朝野を沸かせた「鉄腕アトム」も年内打ち切りが決まっていた。代わって、すでに紹介したように手塚の漫画「ぼくの孫悟空」を原作にした「悟空の大冒険」と「リボンの騎士」が制作中であり、前者は翌昭和42年の1月7日から、後者は、4月5日からの放映が決まっていた。
丁度そういう時期であったためか、その年の11月11日、虫プロは麹町区平河町の都市センターホールを会場に「第二回虫プロフェスティバル」という名前で、アニメの試写会を催した。手塚が自費で制作した40分ほどの実験アニメーション映画、「展覧化の絵」と1月から放送の決まったテレビ・アニメ「悟空の冒険」の第一話が上映された。それは昭和37年に、催された「ある街角の物語」と「鉄腕アトム」第1話が発表された「虫プロダクション第1回作品発表会」以来、丸4年ぶりの催しであった。
実験作品「展覧会の絵」は、それなりの評判を呼んだ。翌年の1月から2月にかけて、芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞、文部省推奨の教育映画として「丸の内ピカデリー」で公開された。また毎日映画コンクール大賞を受賞した。

「悟空」の失敗

テレビ・アニメの方は「ジャングル大帝」が専門家の受けが良かったにも拘わらず、視聴率が急速に下がり、ついに10パーセントを割るに至り、昭和42年の3月をもって打ち切りとなったのは前述したが、その理由については、手塚は、この作品の制作から始めたプロデューサーシステムの失敗だといっている。
「若いスタッフ――特に学校を出たての演出家たちは、自分の個性をアニメに出してみたいという意欲が強く、それが虫プロのモットーの一つであった“子共に最良の夢を与える”という線から、いつか大きく外れて、作品を玄人受けするハイブローなものにさせてしまったらしい。つまり作家意識が強く出すぎたのである。残念なことにプロデューサーシステムは、もう一つの弊害をもたらした。虫プロ内部を極めてセクト化してしまったことである。たとえば、『アトム班』と『ジャングル大帝班』とに分けたところ、班員たちが自分の城を守る事に精いっぱいで、班員の交流どころか、お互いをライバル視して顔もあわさない、という空気さえ生じた」
と手塚は書いている。(「現代」 昭和42年9月号 鉄腕アトム苦戦中)
この状態を見て、手塚の現場復帰が要請されたが、時すでに遅く、現場には、強い縄張りの箱のようなものが出来ていて、手塚でもその中には入れなかった。
かくして、理想に燃えて始まった虫プロも理想の方向から遠ざかり、手塚の意志の及ばない存在になっていったのであった。

「鉄腕アトム」の後を継いで、昭和42年正月から始まった「悟空の大冒険」も、虫プロの幹部やプロデューサーが、力を入れた作品にも拘わらず、思うような人気は出なかった。その年の9月いっぱいの放映で打ち切られる運命にあった。
また42年になって、制作を開始した手塚原作の漫画をアニメ化した「0マン」のパイロットフィルムが秋に完成,これを各テレビ局に提示したが、買う局はなかった。
そうすると、フジテレビ系列で4月から始まった「リボンの騎士」一本しか、虫プロ作品は、放映されていなという状況に陥った。
虫プロの存立に、影が差し始めたといっても過言でなさそうな状況となった。虫プロにとって、鳴り物入りで作り上げた、「悟空の大冒険」の失敗が大きく響いた。
悟空の失敗について、前掲文の中で手塚は次のように述べている。
「『孫悟空』は虫プロでは、ハイブローな『展覧会の絵』につぐ虫プロ第四番目の作品であるから、当然ある程度の俗受けする作品を作ることにしていたが、これが逆にハイブローな作品になってしまった。プロデューサー中心にがっちり固まった『強い箱』は、原作者の意見も、なかなか聞き入れてくれないようになってしまった。
更に悪いことにアメリカに売ろうとして、必要以上にバタ臭くしてしまったことである。
どんなにバター臭くしても、アメリカに売れるはずがなかった。アメリカでは昔からサルを主人公とした漫画はタブーだった。もう一つ、悟空には魔法が多すぎた。これもアメリカ人には理解できないことだった。
ボクはこれらを指摘して、日本人だけに向くストーリーで、制作費のかからない白黒で作るように助言したが、どういうわけか、カラー作品となり、内容も原作者のぼくがみてもよく分らない作品になってしまった。かくして子供たちに見放されて視聴率はガクンとさがった」(前掲文)

アニメ界の変貌

このような作品上の問題もあって、虫プロの営業成績に響いていったのであるが、そればかりでなく、テレビ・アニメが創始以来、五年の歳月がたち、アニメ界の周辺事情の変化も、営業に響いてきた。
この年、昭和42年10月の段階で見ると、国内で放映されているテレビ・アニメは,週15番組を数えるに至っていた。制作プロダクションは11社になった。そのうち4社が、週二番組を制作し、7社が一番組であった。虫プロは「リボンの騎士」一番組のみであった。
この問の状況について、虫プロのプロデューサーだった山本暎一は次のように述べている。
「15の番組枠を、11社で取り合うのだから、競争は激烈になる。どこの社も経営を維持するため、最低、週に2枠は欲しい。さらに、新しく参入を狙う社もある。そこで、売値をダンピングしたり、マーチャンダイジングの歩合を局に与えても、枠をとろうという社が出てきた」(「虫プロ興亡記」 一九八九年 新潮社)
かくして、テレビ・アニメ市場は、売り手市場から買い手市場に変わった。それが今まで制作プロダクションが主体だった作品市場も、買い手のテレビ局が、イニシアチブをとる傾向が強くなった。
これらの状況は虫プロに不利に働いた。それについて、山本はおよそ次のように、前掲書の中で述べている。
「虫プロは手塚を先頭にした、作家プロダクションである。資金作りのための作品でも、作家活動の一端だというプライドがあった。手塚の体面から言っても、他のプロダクションのように卑屈な商法や、あこぎな商売は出来ない。そうなると、どうしても競争力が不利になる。
それに、この頃、週刊児童漫画誌が急速に発行部数を伸ばし、一号数百万の単位で、発行されるようになった。そうなると、そこに新たに多くに人気漫画家が生まれた。横山光輝、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水木しげる、ちばてつや、川崎のぼる等、彼ら作品を原作にすれば、第一人者の手塚を大事にしなくても、原作に困ることもなくなり、視聴率を取れなくなることもなくなった。
だから手塚を総帥とすることが虫プロの決定的なメリットではなくなった。手塚原作の「0マン」が売れなかったのもこうしたアニメ界の状況変化と無関係ではなかった。
この秋、虫プロ関係で売り込みに成功したのは江戸川乱歩の小説、「少年探偵団」のアニメ化である「わんぱく探偵団」であり、虫プロ商事が作った川崎のぼる原作の「アニマル1」であった。どちらもテレビ局主導で生まれたものであった」
以上当時の虫プロの置かれた状況を端的にとらえていると思われる。

アニメラマ「千夜一夜」の人気

このような状況下に置かれた虫プロとしては、そこから脱却するために、なにか強烈な新企画をたてなければと、手塚が頭をひねっている時、「日本ヘラルド映画」から、劇場用の長編アニメーション映画をつくるよう要請があった。
ヘラルドの波多野三郎専務が、ヘラルドは映画の輸入をやってきたが、たまには映画を輸出して、外貨を稼ぐ方法はないかと考えた末、浮かび上がったのが、長編アニメ映画の輸出であった。それも大人が喜ぶ本格的な大衆娯楽作品にしたいということになって、その制作の相談に、手塚を訪れたのであった。
ヘラルドとしては、最初から海外輸出を狙うのではなく、まず国内で封切って、その売り上げで、制作費と宣伝費を回収して採算をとり、それから海外輸出を図るという考え方だった。国内の封切館としては、東京の代表的封切館である新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、東銀座の松竹セントラルでロードショウをする。すでに興行関係者は乗り気なのだと、波多野専務は 手塚に語った。
日本で最初の大人向けの大衆娯楽作品の長編アニメ―ション映画をこれまた日本で最初に超一流映画館で、ロードショウをする。まるで夢のような話である。手塚は、すっかりこの話に乗った。
ところが、当時の虫プロの財力では、制作費が出せないことが明瞭だった。この時点で、虫プロのテレビ・アニメは「リボンの騎士」一番組の放映しかなく、制作中の作品の前払いを受けて、ようやく凌ぐ状態だった。まして数千万円はかかるであろう、長編アニメ映画の制作費が出来る筈はなかった。
手塚は、それでも千載一隅の好機をのがしたくはなかった。そこで翌年になってからヘラルドに、制作するアニメの配給収入の前払いを交渉した。その結論が出るまで三か月もかかったが、配給収入の前払いと製作費の借入もヘラルドは承諾したが、配給収入のヘラルドの取り分は70パーセント、虫プロの取り分は、30パーセントになってしまった。
その取り分では、赤字になる可能性があったが、それでも、手塚は後に引かなかった。
作品タイトルはアラビアンナイトから題材をとった「千夜一夜物語」と決まり、昭和43年4月、両社社長の間で契約がまとまった。
早速、制作、総指揮、構成手塚治虫、監督山本暎一で、制作が開始された。手塚のシノプシスによって、ストーリーが出来てゆく。

――砂漠のかなたからバグダッドにやってきたアルディンは、水売りとなる。ある日奴隷市場で、美しい高価な女奴隷ミリアムを見初める。しかし貧乏な水売りには、買えない。折からの竜巻を利用してミリアムをかっぱらう。ミリアムとの熱愛。奴隷泥棒の罪を問われて、投獄されたが、そこから脱走、様々な困難と戦いついバグダッド一の富豪となり、王様となり、この世の快楽と富を謳歌するも、それも空しいものと悟り、より大きなものを求めて、砂漠の旅に出てゆく――
エロチックなシーンいっぱい、戦いあり、冒険あり、目くるめく、物語が展開する。

登場人物のキャラクターのデザイナーにやなせたかしを起用し、主人公の声優に、参議院議員になったばかりの青島幸男を、美貌の女奴隷には岸田今日子を依頼した。その他の声優は、劇団「雲」総出演となった。芥川比呂志、小池朝雄、伊藤幸子、加藤治子、文野朋子、三谷昇、橋爪功などなどである。手塚はまた、知人、友人の有名人に、一言ずつの声の出演を依頼し、にぎやかな完成を期した。すなわち、遠藤周作、吉行淳之介、北杜夫、筒井康孝、小松左京、大橋巨泉、大宅荘一、前田武彦、大橋巨泉、野末陳平等々。
しかし制作は、テレビ・アニメの制作と絡んだり、シナリオが進まなかったり、さまざまのことがからんで完成が遅れにおくれ、最後は昭和44年6月12日の封切り日の朝まで、かかってしまったという。

ふたを開けてみると「千夜一夜物語」は大ヒットした。業界ではこれをアニメラマと称し、売りまくった。アニメラマとはアニメーションとシネラマと結びつけた造語だった。
その年の日本映画の興行成績の第三位になった。その配給収入は、3億600万円であった。ヘラルドは、配給収入から経費として宣伝費とプリント代、8千800万円を引き、残りを7・3で分け、6千540万円を虫プロに払った。制作費の予定は4千500万円だったが、実際は、7千450万円かかってしまったので、910万円の赤字だった。「初めての試みだったので、内容に力を入れすぎたのであって、次回作からロスを減らせれば黒字になしうる」と山本監督は言った。
大人向け長編大衆娯楽アニメーションに、手塚は自信を持ったようで、二作目の話が持ちあがった。

「千夜一夜物語」に次ぐアニメラマ第2弾は「クレオパトラ」と決まった。手塚と山本が共同監督、キャラクターは小島功に依頼、そのストーリーは、数奇な運命をたどった美女クレオパトラの半生を、奇想天外なアイデアと妖艶なエロチシズムを、古代エヂプトとローマをバックに描く壮大艶麗な世界である。
昭和45年9月に無事に公開された。「千夜一夜物語」と同様、新宿ミラノ座、渋谷パンテオン、東銀座の松竹セントラルのロードショウで封切られた。その配給収入はその年の第10位、海外への販路も伸び、一応の成績を収めることができた。これにより、劇場用長編アニメーションの前途は、一応定着したと手塚は自信を持った。
虫プロは、「千一夜物語」「クレオパトラ」のアニメラマの制作中も、テレビ・アニメの制作は、紆余曲折はありながらも、続けられていた。すなわち「わんぱく探偵団」の後、川崎のぼる原作の「アニマル1」石森章太郎原作の「佐武と市捕り物帳」、時代物怪奇物語「どろろ」、ちばてつや原作の「あしたのジョー」外国の原作の「ムーミン」牧野桂一原画の「アンデルセン物語」と続いていった。ただし、手塚の原作が少なくなり、原作を外に求めるようになったのも時代の変化による事で、やむを得なかったのかも知れない。

プロダクションの凋落

昭和46年代になると、アニメ界は「鉄腕アトム」のころと全く違った様相を呈するようになった。それを山本暎一の「虫プロ興亡記」では、次のように説明する。
「マーチャンダイジングの収入は『鉄腕アトム』の頃には、原作者と制作プロダクションのものだった。ところがテレビ局が、放送がなければ発生しない金だからと、当然の権利として分け前をとるようになった。さらに出版社や広告代理店、それぞれもっともらしい理由を振りかざし、分け前を要求して割り込んだ」(前掲書)
更にアニメを本にして出版したり、再編集して映画館に掛けたり、レコードを出したり、いろいろ二次使用で稼ぐことが広まった。そうなると次第に、アニメの制作主体は放送局になっていった。放送局が作品を決定し、広告代理店、原作の出版社、レコード会社、音楽出版社、などとプロジェクトを組み、アニメの制作が行われるようになった。アニメ・プロダクションはそのプロジェクトの一員に組み込まれ、テレビ局の指示にしたがって番組を作る下請け工場に位置付けられてしまった。そうして、プロダクションは作品を納入して、テレビ局からくる制作費だけで、採算を合わせるようになる。
そのプロダクションは、局から受け取る制作費から、まず利益金を差し引きして、残った額を制作費にする。そうなると高い月給をアニメーターに払うより、独立したアニメーターと契約し、制作費にみあうように出来高払いのアニメの料金を払うようになる。こうして、プロダクションの中核として、作家意識旺盛な誇り高きアニメーターが単なる下請けになっていくのはやむを得ない。それでも月給より、稼げるとなればいいとして、大勢に従うアニメーターが増加していった。
かつてアニメ・プロダクションは、アーチストとして、誇り高いアニメーターやカメラマンや演出家が切磋琢磨する創造の場であった。今やそのスタジオが、単なる制作管理事務所、外注から外注へと画の集散の場と化した。
この劇的変化が、夢の集散地だった虫プロの終焉の背景となって、手塚を敗北の道へと導くのであった。
そうして、虫プロの社内は、虫プロを事業体と重視する派と、虫プロ創業の方針だった、作家性と芸術性を重視する派と社内二つに割れた。
手塚は誰の作品を虫プロでアニメ化してもよいが前衛性、作家性こそ、虫プロの基本でなければならない。その作家性を維持するために、金を儲けるのであって、儲け仕事のための虫プロではないと、心底思い詰めていた。
だが、それに反対する勢力が虫プロの半分を制していた。
その辺が、筆者にはわからない所であった。虫プロの資本の全額は手塚の出資によるものであり、創業以来の、莫大な赤字は、手塚の腕一本で稼いだ、漫画の原稿料及び手塚の個人資産をつぎ込んで埋めてきたものである。
その絶対の資本家の方針に従わない会社の重役や社員が存在することは、一般の経済社会では許されないのである。それが虫プロ社内では、堂々とまかり通っていたのは、誠に不思議な現象と言わねばならないだろう。
その無法な事態が、虫プロでは罷り通ってしまっていたのだ。
虫プロの今後をアニメ集団で行くのか、営利事業で行くのかという手塚の問いかけに、なんども何度も社員総会が開かれたが、社内の体制は、後者を選んだ。
昭和46年6月、手塚はここまで育んだ虫プロを無き物にするのは、忍びがたかったのだろう、虫プロのそれまでの一切の借財を自分の借財として、社長の座を降りた。
後継社長に、制作部長だった川端栄一が選ばれ、資本金を200万円から1千万円に増資した。その資本金はだれが負担したか不明である。そして、労働組合も結成された。

倒産への道程

手塚は、すでに漫画制作のために創立した「手塚プロダクション」にこもって漫画を描いていられるならば、ことは平穏に過ぎたかもしれないが、そうはさせてくれない事情がった。
それは子会社の「虫プロ商事」の存在であった。虫プロ商事は、虫プロをアニメ制作だけに専念させて、独立採算出来るようにするため、虫プロの営業部、出版部、版権部を分離させて創立した会社であった。虫プロの専務今井義章を社長にして出発した。これを創立させた当時の穴見薫以下の虫プロの担当重役の迂闊さから、とんでもない結果をもたらすことになった。
それは虫プロ商事が、虫プロと競合するような事業に手を出さないことを定款等に明記し、虫プロと商事が競合することが無いように措置しておかなかったことだ。旧虫プロの経営者が、一つの事業体が組織されると、思わぬ方向に動き出すことがあり得るという、経営的常識がなかったためであろう。
案の定、商事の連中が、虫プロがなかなか採算の取れる事業体にならないため、手本をみせてやるというような余計な事を言いだし、商事が虫プロと同じく、アニメの制作を始めてしまった。それが「アニマル1」であり、「バンパイヤ」であった。その結果は、両方とも赤字、とくに後者の赤字は莫大だった。手本を見せるどころではなかった。それでも懲りず、日本テレビの番組の下請け的な仕事に、手を出していった。
これには、虫プロの幹部が大憤慨していた。もし商事に、手本を見せる力量があるなら、商事の社長の今井が、虫プロの専務であるのだから、虫プロでやればいい。
ただでさえ虫プロのシェア減少傾向にあるのに、虫プロを苦しくさせるだけではないか……。この場合今井という手塚子飼いの人間は、なんということだろう。手塚を苦しめる役割しか果たしていない。
商事の出版部は、最初、漫画雑誌「COM」を発刊、そこに、手塚の生涯をかけて描く大作といわれた「火の鳥」を連載、また当時の青年漫画流行の先端をゆく編集方針に、多くの読者が付き、相当の成績を上げた。筆者らも勉強のため、よく読んだものである。
やがて「COM」の他、「月刊ファニー」漫画単行本シリーズ「虫コミックス」などを発行する。
しかし、商事の利益の根源であった、マーチャンダイジングによる収入が、テレビ・アニメの手塚の原作による作品が、減るにつれて、激減した。これが商事にとっては大きな痛手になった。それに、テレビ・アニメ制作という余計な仕事で、一層赤字を増やしてしまった。
そんな時、「月間ファニー」の編集長が交通事故死したために「ファニー」が廃刊となり、その為の人員整理問題から労働組合が出来て、労使紛争となった。
ある日、商事の今井社長がやってきて、手塚に団交の席に出てくれという。
「それは困る。漫画を描く仕事があるし、僕は役員でもないし」
「それが先生、先生が社長になったんです。先ごろ役員会で決めて登記したのです。私が社長を降りて」
「そんな馬鹿な」
実は、親会社虫プロの役員でもある手塚の父親が、請われるままに手塚の実印を押してしまったという。それにしても、今井という男は何という男なんだろう。
大衆団交に当たった手塚は、締め切りに追われて漫画を執筆しながらのことで、死ぬ思いをした。結局、何時までもらちが明かず、社員のほとんどが、嫌気がさしてやめてしまい、団交は終わった。
事ここにいたっては、商事の終末も時間の問題であった。昭和46年、新しい担当部長のもとに「てつかまがじんレオ」という雑誌を出したが、返本が7割にも達した。このような状況で、ついに金繰りがつかなくなって、昭和48年8月22日、虫プロ商事は、不渡り手形をだし、倒産した。負債総額は1億2千万円だったという。

虫プロ商事の倒産は、虫プロの存続に強く響くのは当然だ。
昭和47年いっぱいで「新ムーミン」と「国松さまのお通りだい」の2本が、昭和47年いっぱいで、終了し48年4月から始まった「ワンサ君」もその9月いっぱいで終わる予定だった。それが終わると虫プロの仕事の予定はない。
虫プロ商事の破たんは、虫プロ系全体の破産ととらえた金融筋は、虫プロへの貸し出しの道を閉ざした。
長い間、虫プロの作品を放映してきたフジテレビは既に門戸を閉ざしていたし、他のテレビ局も新たに発注することはなかった。
虫プロは終わった。川端社長を始め役員が金融筋に債権棚上げ交渉の努力もむなしく、「ワンサ君」放映終了後、11月5日、不渡手形をだし、負債総額3億5千万円を抱えて倒産した。

手塚を救出した男

手塚治虫は、虫プロ及び虫プロ商事の膨大な債務をすべて、個人的に引きうけていた。
今、手塚はその借金の山を抱えて、それには為す術なく、ただ連載中の漫画を描き続けねばならなかった。
天下の手塚治虫、何処に行く!
手塚の進退は極まった。
その時、一人の男が、手塚の目の前に現れた。この人は、大阪の実業家で、アップリカ葛西という育児用家具を製造、販売する会社の社長の葛西健蔵という人であった。
かつて、葛西社長の経営する会社が、苦境にあったとき、テレビの「鉄腕アトム」を商標として、そのキャラクター・マークを学童用机、椅子、ベビーカーにつけることを思いつき、その交渉に、手塚のところに来たことがあった。アトムのマーチャンダイジングである。手塚は快く許した。そのお蔭で、葛西の会社は繁栄に向かった。
その葛西が突然、現れたのであった。手塚は「どん底の季節」という文章で、次のように書いている。
「『手塚先生、アトムのときはお世話になりました。葛西健蔵です』
『どうも、お恥ずかしい次第で』
『なんぎなことですな、先生、私お世話になったお礼心です。この後始末には私が及ばずながらお手伝いします』
と、葛西氏は僕の肩を叩いた。
『こうなったら思いきった整理をしはることです。出来る限り、債権者や社員の皆さんに真心をもって債務を、お返しし、先生は漫画家に戻りなはれ。(中略) 自分が忙しすぎて経営のでけん会社やってくなんて、意味おへんで。それに自分の稼ぎを全部つぎ込んではるなんて無茶苦茶や』
そして葛西氏は、ご自分が債権者の一人でありながら、先頭に立って整理の指示を始めた」(「手塚治虫漫画全集別巻13 手塚治虫エッセイ集」講談社)

著者が見ることができた虫プロ関連の文献では、手塚の債務の条件、形態、金額、抵当権の内容、債権者名、などが、具体的には、どこにも書かれてはいなかった。したがって再建策、再生の方法も詳細には、なにも分からかった。
そこで手塚の著書「ぼくのマンガ人生」(岩波新書、1997年)に載っている、「闘争心が彼の再生の原動力だった――葛西健蔵さん、苦境時代の手塚治虫を語る」という葛西の談話筆記らしい十頁ほどの文章にある範囲で、抽象的であるが、再生の経過を探ってみる。
それによるとまず、過去の作品は勿論、これから描かかれるものをも含めて、漫画であれ、アニメーションであれ、文章であれ、手塚の全作品の版権を、すべてを葛西氏の所有とする法的な手続きをとった。
手塚の場合、普通の会社の倒産と違って、本人自身が財産であった。機材や、証書を抑えたりする以外に、手塚個人を抑えれば金になる。彼が描く物がお金になり、すでに描いたものがお金になる。手塚個人を抑えられてしまうと、手の打ちようもなくなる。だから、過去、未来の版権を葛西氏の所有にしたのであった。
次に手塚の実印は、手塚夫人に持って貰い、葛西の許可なしには、実印を押してはならないことにした。それまでは実印を押してほしいといわれると、簡単に押してしまったり、もっと考えてから、と思っても、資料の目を通す暇が取れず、結局印を押してしまうことになっていた。だからとんでもない借金があった。
葛西は手塚について次のように言う。「手塚はお金の計算ができない人です。100万円くらいのお金の計算はできるのですが、1億円となるともうわからない。そんな人が経営は、土台無理なのです。鍵のかからない金庫のようなものだった。」
そうして、金庫の口を押さえておいてから、誠実に返済の交渉をした。四百坪の大邸宅の土地建物を売り、オフイスを小さなところに引っ越し、その金を返済に回してゆき、時には、何十人かの債権者の前で、葛西は手塚に代わって土下座して、謝り、そして返済方法の交渉をした。返せる借金は徐々にでも返し、一部は出世払いということにしてもらったりした。こうして絶対絶名の境地から脱出する事が出来たのであった。
それは葛西氏にとっても、大変な事業であった。
「そんな『再生』という大事業は私にとっても大変な事業でした。手塚氏とは一心同体にならないとできなかったのです。おかしいことですが、彼から大阪に毎晩電話がかかってくる。すると僕が風邪をひいているときは、必ず彼も鼻声になっているのです。二,三日おきに東京に通いながら、そんなふうにして、本当に二人三脚で、問題を一つずつかたづけて行ったのです。」
と言っている。そして手塚が絶望の淵から立直れたのは家族の支えもあったろうが、本人の気迫、バイタリテーが、ものを言ったと葛西は結論付ける。
葛西が。二〇人もの債権者の前で、土下座をしている時のこと、葛西が手塚に一緒に立ち会いますか、と聞いた。手塚は、ぼくは漫画を描くしかできません、借金をそれでかえすしかないのです、と言って、隣のビルで漫画を描いていた。怖い債権者が数十人も押しかけてきて、借金返せと迫っているのだ。普通なら、怖くて、怖くて漫画なんか描けるものではないはずだ。この時債権者に詫びながら、手塚は本当に天才だと、葛西は思ったという。
富士見台の大邸宅を売り払って下井草の借家に移るとき、手塚から葛西に電話が掛かってきた。「明日、借家に移ります」と、晴れ晴れした声でいう。明日から新しい生活が始まるのだ、という切り替えの見事さ、頑張りを感じさせる決意の強さに、葛西は打たれたという。

それから、手塚は手塚プロに籠って、ひたすら漫画を描いた。そして「ブラックジャック」という人気作品を描き、人間の真髄を追求した「ブツダ」で、遅すぎた文春漫画賞を受賞した。
葛西は手塚プロの取締役となり、預かった版権を守り、徐々に版権を手塚名義に戻し、一〇年程で、全部が手塚名義に還ったという。
手塚亡きのちまで、手塚プロの後継者の松谷孝征は、葛西を取締役として厚く遇して、その恩義に報いたという。(この項終わり)

私の手塚治虫  第26回  峯島正行

  • 2016年6月24日 15:09

どんぶり勘定だった虫プロの経理

記録的視聴率

日本最初の毎週放映のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」好調にスタートを切った。第一週は27・8%の視聴率であったが、二週目は28・9%、第三週は、29・6%としり上がりの好調ぶりであった。そして第四週目の1月22日の放送では、大ヒットの基準である、30%の線を越え、32・7%の視聴率を記録した。
それに気をよくして、制作者一同、昼夜兼行で頑張った。手塚は当時を回想して、次のように書いている。
「三八年一月一日、アトムは第一回の放映を開始した。この時の感慨は終生忘れられないだろう。わが子がテレビに出演しているのを、はらはら見守る親の気持ちだった。終って、エンドタイトルが出た時、
『アーあ、もうこれで一本分終わってしまったなあ』
とつくづく思った.次の一週間はあっという間にたってしまった。
スタッフは、死にものぐるいで徹夜の奮闘を続けた。作っても、作っても、毎週一回の放映というテレビの怪物は、作品をかたっぱしから食っていった。二,三ヶ月のうちに、視聴率や、評判が上がるのに反比例して、スタッフの顔はぞっとするほど痩せ衰えていった。みんなを支えていたものは、我々は開拓者なんだというプライドだけだった。何人かが、ノイローゼになり体にガタがきて休んでしまった。アトムの画面に、ときどき、楽屋落ちのスタッフの似顔絵が出てくることがあったが、それがみんな、やつれはて、鬼気迫った顔に見えた」(『ぼくはマンガ家』大和書房、昭和54年)
と当時の苦闘ぶりを振り返っている。
だが視聴率ますますあがった。第五話にいたって、34・2%とさらに増加した。2月5日の第六話にいたっては、34・6%と驚異的な数字に跳ね上がった。大ヒット番組である。最初の連続テレビ・アニメとしては大成功であった。第七話では、30%と一時後退したがすぐに持ち直し、第十一話では35・1%を記録した。それ以後、同程度の視聴率を獲得し続けた。テレビ局もこうなっては黙っていられなくなり、五十万円という馬鹿安かった、一話の売値を、百万円ほどに自発的に上げたという。それでも製作費は赤字であった。

マーチャンダイジングとアメリカ輸出

やがて、多くの玩具メーカーや繊維業者がアトムのキャラクターを商品のマークに使いたいと、申し込んできた。つまりマーチャンダイジングの申し入れである。それまでの日本の漫画を商品に応用することは、ほとんどが野放しの状況だった。何処の誰でもが勝手に雑誌の漫画や映画の主人公を使って商品に利用しても、野放しの状態で、原作者は泣き寝入りの状態であった。そのなかでデイズニー・プロのバンビやダンボを使った場合には、確実にロイヤリティをとって、そこから大きな利潤を得ていた。手塚はこのディズニーを手本に、ロイヤリティを確実にとることにした。
一方、それまであった手塚治虫ファンクラブを発展的に解消させ、あらたに「鉄腕アトム倶楽部」という名の虫プロクラブを発足させた。これによって、全国に虫プロとキャラクター商品の愛好者を組織して、視聴率のアップとマーチャンダイジングの料金増大を図った。
この業務は虫プロ専務の今井が担当したが、さばききれない量になり、4月には大阪に虫プロ関西版権部を設ける繁盛ぶりだった。この好況ぶりで、版権収入は瞬くうちに、一憶数千万円を超す収入を上げた、という。
その年、昭和38年の暮れ、ビデオ・プロモーションというエージェンシーの社長から、「商談でアメリカに行くことになったが、ついては向こうの業者に、アニメのアトムを見せたいと思うが、見本に一巻、貸してもらえないか」という申し込みを受けた。そのビデオ・プロモーションというのは、広告の企画制作を行う会社であったが、タレントやアーティストのマネージメント、テレビ番組の企画制作から、テレビ番組の輸入業務まで、幅広く活動していた。永六輔などのようなアイデアタレント。久里洋二、柳原良平、トシコ・ムトーといった異色の漫画家を抱えた先端的なプロモーションだった。
そこでアトムの第一話「アトム誕生の巻」と第三話「火星探検の巻」を選び「お願いします」と渡した。このことによつて手塚は、
「だが正直なところ、一本や二本ならともかく、日本のアニメ・フィルムがアメリカで売れるとは信じられなかった。(中略)ことテレビ界に関する限り、本家のアメリカが相手では、せせら笑われるだけだと思っていた」(前掲『ぼくはマンガ家』)
と自ら語っている。
ところが、何か月かたって、アメリカの三大ネットワークの一つ、NBCの商事部が興味を示していると、ビデオ・プロモーションから連絡があった。さらに何本か見本を送った。すると、一年の放送分の52本買うから契約したいという話になった。このときは、手塚は欣喜雀躍したという。この話をまとめてくれたのは、ビデオ・プロモーションのSという敏腕部長だった。S部長は、アメリカ人より英語が達者と言われるくらい語学が達者なうえに、商売の駆け引きも、達者な人だった。
この商談の成立は、たちまち業界に漏れて、日本中が大騒ぎになった。その年の10月、手塚は正式契約をするため、アメリカに飛んだ。その頃は海外旅行が珍しいころだったので、行くとなれば、空港に大勢の人が送りに来て、大変な騒ぎになるのだった。手塚の場合も、バスを一台、チャーターして、虫プロ関係者全員が羽田に見送りに行った。同行のビデオ・プロモーションの社長はソフトを被っているのに手塚は、いつものベレー帽姿のままだった。
この時の契約内容は、ビデオ・プロモーションのS部長の手腕によって、買い手側が、フィルムに自由に手を入れることが出来る買い取り制でなく、売値を配給歩合制にした。それによって編集権はプロヂューサーの手塚のものとして、上映に際しては、日本人のメインスタッフの名前を、放送フィルムの中で明記することなどを条件に、一年52週分のフィルムを渡すという契約であった。収入は一本当たり1万ドル、52本で二億円の収入が見込まれた。
放送に当たっては、アトムという名前は「アストロ・ボーイ」と変えられた。アトムという言葉はアメリカでは「屁」を意味する言葉なので、このことは虫プロも飲まざるを得なかった。
アストロ・ボーイとなづけたわけはというと、NBCのゼネラルマネージャーのシュミットという人が、自分の子供にパイロットフィルムを見せて、どういう名前を付けたらいいと思うかと質問したところ、少年が「アストロ・ボーイ」と叫んだので、つけたのだという。渡米した、手塚がその家に招待されて、その話を聞き「じゃ坊やにパテント料を払わなければなりませんね」と冗談を言って、大笑いになったというエピソードが残った。
「アストロ・ボーイ」は全米の子供たちを大いに喜ばせた。

以上述べたような「鉄腕アトム」の成功に、アニメ界は驚くべき速さで、反応した。テレビのCM等を制作していた大手のアニメプロダクションが,新たにストーリー・アニメを造りだし、テレビで放送されるようになった。早くも、アトムの人気が高まった昭和38年の9月、大手のプロダクション、TCJが小島功の仙人部落をアニメ化して、日本テレビで放送した。然しこれは大人対象のエロチックな作品で、放送時間が深夜であったためか、先駆的作品ながら家庭になじまず、すぐに打ち切りとなった。
その一方、TCJは「鉄人28号」をフジテレビに、「エイトマン」をTBSに登場させ、東映動画が「狼少年ケン」をNETから送りだし、これらは、アトムのライバルとなってゆく。
競争相手の乱立

迎え撃つ、元祖虫プロ側は、新たな対抗手段を考え出してゆく。昭和39年1月に放映された「鉄腕アトム」の「地球防衛隊の巻」がテレビ・アニメ最初のカラー版として、40%を超える視聴率を稼ぐという大成功をおさめた。それを契機に、手塚の漫画作品「ナンバー7(セブン)」を日本最初のオールカラーでテレビアニメ化する企画を立て、虫プロ最高のアニメーター坂本雄作をチーフに選び、その準備にはいった。
同時に、手塚の傑作マンガ群の中から「新宝島」「リボンの騎士」「0マン」等傑作、36本を選び、これをそれぞれ1時間のカラーアニメに作り、順次放映してゆくという企画をたて、これも俊英アニメーターの杉井儀三郎をチーフにして、制作準備を開始した。坂本は「鉄腕アトム」のチーフディレクターだったが、それを山本暎一にバトンタッチし、「ナンバー7」のかかりきりとなるという熱の入れようだった。

このような虫プロの成功によって、その中核をなす原画家、演出家は、全スタッフの花形で、虫プロの大看板になった。一方、アニメーターの不足から、アニメーターを増やしていった。最初は手塚関係から人を入れていた。手塚のアシスタントだった北野英名、漫画家の村野守美、りん・たろうなどが入ってきたが、それだけでは到底足りず、一般からも募集して、アニメーターばかりでなく、スタッフ全体を増やしていった。
そういう連中が、それぞれ我こそはテレビ・アニメのパイオニアと自負して、虫プロの中をのし歩いた。最初六人で始まった虫プロも昭和40年代に入ると三百五十人という大所帯になってゆく。
こうなると、古いアニメーターは、虫プロの大看板となって、その給料は、「日本のサラリーマン」としては、超Aクラスの高給取りになり、多くの社員との差がつきすぎるようになってゆく。ここに虫プロの禍根が生まれる素地の一つがあった。

雑誌の原価計算とアニメの原価計算

ともあれ、このように順調な滑り出しを見せた虫プロだったが,裏に回ってみると、その財務、経理、計算の面では、全く原始的で、億という金を扱いながら、家計簿にも及ばない、どんぶり勘定的な計算でしか、収支が計算されていなかったのだから、驚く。なぜ、もっと精密な、原価計算、複式簿記式のシステムによる、経理、経営がなされなかったのであろうか。一つの商品を作るときは、まず精密な原価計算によって、収支のあり方を研究することから始まる。
虫プロの出発は、手塚とその下に集まったアニメーターが中心になって始まった。彼らはまず、アニメを創る意欲に燃えた芸術家であった。彼らの最大関心はいかにして、アニメを作り出してゆくか、という創作家の心情から出発した。これは当然な話であろう、だが事業が進むに従い、多種類の多くの人が協力し合い、出来上がったものを売ってゆくとなると、制作から、販売までのマネージングをする人が必要となるわけである。このマージャーが最初にやることは、作るものの原価計算である。それはごく自然に、普通の事業体では行われているものである。

ここから私個人の経験をもとに話を進めてみよう。
私は、昭和30年代から40年代かけて、週刊誌二誌、月刊誌数誌の創刊当事者だった経験がある。一つの雑誌を創刊しようとすると、まず、編集内容、方針を決める。その方針、内容に従って、雑誌の版型、ページ建て、発行部数などを決める。それによって、直接の原価を算出する。
まず紙代、表紙の紙代から、本文用紙、オフセットページの用紙、本文用紙の紙代を、部数に従って、割り出す。さらにこれらの原稿を印刷する印刷費、これらが物理的な制作費である。
次に編集経費を出す。まず編集担当者の役割に従って、人数とその総人件費を出す。次に原稿制作の費用、原稿料、取材費、カメラなど諸道具の費用を割り出す。これらの総計が直接編集費である。
編集経費と制作費を足したものが、直接生産費である。これに広告収入をプラスして、さらに、宣伝費を差し引いた金額が、雑誌の直接総原価となる。
さらに、この直接原価に間接経費をプラスしたものが、この雑誌の総原価となるわけである。間接経費とは、雑誌を発行する当該事業を維持する諸経費、つまり販売、広告、宣伝、経理、総務の経費など当該事業の総経費のうち、その雑誌が負担すべき金額をいう。その金額は、当該事業の総売り上げのうち、その雑誌売り上金が何パーセントを占めるか、によって割り出してゆく。これが間接経費である。直接経費に、この間接諸経費を足した金額が、この雑誌の総生産費となるわけである。これを発行部数で割った金額が一冊当たりの生産費となるのである。
その雑誌の総売上金から、総生産費を引いた金額が、一号当たりの利益あるいは損失となるわけである。
雑誌の販売を簡単に述べておくと大体定価の七掛けで、販売取次業者に卸される。卸した雑誌が全部売れるわけではない。必ず返品がある。その返品があまり多いと、収入は原価を割ってしまう。出荷部数の何割何部まで売れればとんとんになるかの境界線を、返品許容率という。この数字を見ながら、次の生産部数を考え、また生産費を減額するか、増額するか、調節していかなければならない。ここに雑誌経営の困難さと面白さがある。販売実部数が、伸びれば伸びるほど、販売益は幾何級数的に上り、反対だと、幾何級数的に、利益は減少する。だから一冊当たりいくらの原価でできているか、ということが、雑誌経営担当者が考えていなければならない根幹なのである。
このように原価計算と雑誌経営とは密接な、因果関係にあり、その数字は、経営担当者が、常に把握していなければならない。

どんぶり勘定の経理

以上のような雑誌経営担当者の苦労を味わってきた、私の目から見ると、虫プロでは、「鉄腕アトム」が終わるころまで、何等の財務管理、生産管理、原価計算のもとに、経営された気配がない。虫プロに関する情報をいかに集めても、経営面からする分析は、ほとんど見当たらなかった。
総売上金から、総出費を差し引き、それが赤字になって金が足りなかったら、手塚が漫画で稼いだ金で埋め合わせてゆくといった、原始的というか、全く会計に無知な、あえて言えば、どんぶり勘定で、経営が行われていたとしか、思われないのである。その帳簿ももっとも単純な単式簿記によるものだったと推理される。
手塚自身次のように述べている。
「プロダクション創立以来、虫プロの収支とマンガ家手塚治虫の収支は渾然一体であった。(中略)虫プロが大勢の社員を抱えて今日まで仕事を続けてこられたのは、ぼくの収入をそのまま、虫プロに回してきたからにもよる」(「現代」1967年9月号「鉄腕アトム苦戦中」)
虫プロの幹部アニメーターの中にも、昭和40年になってからだが、そこに気付いた人がいる。例えば「ジャングル大帝」のチーフディレクターとして、制作の一切を任された山本暎一が、大略次のように述べている。
「虫プロの経理は、手塚の漫画原稿と、その制作と収入の記帳方法を延長してできている。それは、あらゆる出費を『制作費』の勘定科目で処理するなどおおざっぱである。漫画の原稿づくりならそれで十分だし、アニメも一本作るだけなら、その程度でも把握できなくはない。しかし、複数の作品を同時進行で制作するとなると、もっときめの細かい帳簿や伝票のシステムが必要になる。
先ず虫プロの全作品の出費をひとまとめに帳簿につけるのではなく、作品ごとに分けてつけなければならないし、企画、設定、作画、撮影、現像、音響といった制作のプロセスに分けて掴まないといけない。
そういう、原価計算や、月計、集計の方法が、それまでの虫プロにはないのだ。なにしろ、テレビ・アニメというものが始まって間もなく、経理の人がアニメの作業内容に知識がないから、どんな帳簿システムを造ればいいのかわからないのである。」(前掲、『虫プロ興亡記』)
アニメーター、制作者である山本が、以上のことに気がついたのは、虫プロが始まって四年を経た後である。
虫プロの経営者であり、所有者は、100パーセントの出資者である手塚治虫である。その手塚治虫のもとに、アニメーションに大きな夢を抱く志に共鳴して協力を申し出た、アニメーター達、そしてその制作に協力したいと集まった人たちで、虫プロが創業されたのは、今まで述べてきた通りである。手塚とその周辺に集まった人たちは、いわば芸術的は制作者であり、財務、経理など経営面に無知な人ばかりであった。山本は、その中にあって、最も早く財務管理、原価計算の必要に気づいた人だった。

近代経営を知らない経営者

以上述べてきたような、財務管理、原価計算、複式簿記の計算法による伝票管理のようなことは、少し、経営的知識があれば、すぐ気づくはずである。手塚は漫画家として第一人者ではあったが、経営的な事務に関して、あるいは経営的な知識は全くと言ってなかった人だといえるだろう。中学、大學と漫画を描き続け、それが認められて以来、夜も寝ずに漫画を描かざるをえなかった手塚に、虫プロの社長だからといって、経営者の目をもてといっても無理な話であろう。
虫プロで、その経営面を担当する重役は、手塚の他、山下専務、穴見常務、小学館の編集者から転身してきた桑田常務などという人がいた。山下は手塚プロのマネージャーとして、編集者と手塚の間に立って、漫画原稿の進行、受け渡しを担当してきた人で、アニメの経営にはそれほどタッチしたとは思われぬ。桑田は総務方面の働き手であったが、アニメの経験は少なかったろうと思われる。
アニメの経営の役割を担ったのは、穴見薫であろう。彼が広告代理店の社員として、虫プロに入り込み、テレビと関係を付け、「鉄腕アトム」のテレビ放送に持っていったのである。その翌年、虫プロの経営に当たるべく、常務取締役役として、虫プロに転属した。はじめから「鉄腕アトム」にかかわった人である。
もし彼に、経営者としての知識なり、才能があれば、虫プロのどんぶり勘定的な単式簿記式の収支管理だけやって、原価計算や、計画、生産管理面で、何もしていないことに気が付き、原価計算による生産管理システムの確立を直ちに、手塚に提案した筈である。それに気が付かなかったのは、経理、生産管理などの知識がないため、虫プロ経営の欠陥に気付かなかったのだろうか。経営者としては経理、生産管理に対する知識に欠けていて、したがってこういう生産会社の経営者の資格に欠けていたということはなかったのだろうか。

アニメの生産管理は、先に紹介した雑誌の生産管理に比べて、そう難しいとは思えない。
アニメ制作は、手作業から脱却できないといわれたとおり、人件費の管理さえ厳密にやれば、比較的簡単で、雑誌の制作費の計算に比して、それほど難しいとは思えない。
まず一つの漫画をアニメ化するとなると、その原作料、あるいは印税をきめる。次に、原作を脚本化する脚本料を決める。その後の作業は、シノプシス、それによる原画制作、動画制作、背景制作は携わるアニメーターの人件費とそれに要するカンバス、絵の具、筆具などの機材の代金。それから撮影、現像、音響の費用、この行程は諸機材と人件費、音楽の作曲料などが入ってくる。これらの直接経費に加え、制作、進行の人件費、諸事務費を加えたものが、直接原価ということになる。それに当該事業が行う販売諸経費、間接の人件費などを、一本一本のアニメに割り振る間接経費を計算し、左記の直接経費にプラスすれば、アニメの総原価が出てくる。
テレビ局からくるアニメの制作代金、およびそのマーチャンダイジングによる収入などを足したものから、総原価を引いて行けば、一本一本の売上利益、或いは売上損が出てくる。
この原価計算を基に、帳簿システム、伝票制を充実させれば、立派に経理組織は成り立つと思うがどうであろうか。その経理の状況から、次の企画、作品の制作資料が生まれてくるはずである。

手塚は、一〇〇パーセント出資のオーナー経営者であり、自分のアニメ制作方法には、ワンマン的態度で、経営の改良を素直に受けいれたとは思えないが、誠実に説明をしながら、以上のような合理的な会計制度によって、経営改善を提言していったならば、それを拒否することは、まずなかったのではなかろうか。その提案を受け入れ、生産管理による経営に、理解していったに違いないと私には感じられるのであるがどうであろう。
しかし、経営の重大な役割を果たす重役が、数字による経営、生産管理に無知であったなら、これは悲劇である。重大な禍根が残っていくはずである。
私は後年の虫プロ崩壊の悲劇のもとはここにあったと思われるのであるが、如何なものであろうか。 (続く)

私の手塚治虫 第25回   峯島正行

  • 2016年5月16日 15:20

日本最初のテレビ・アニメ「鉄腕アトム」

パイロット・フィルムの試写

手塚治虫は、昭和三四年一一月に予定された、虫プロ第1回作品発表会に、「ある街角の物語り」と同時に、半分ほど、原画の撮影が終わっていた、「鉄腕アトム」のパイロット・フィルムを、上映することに決めた。パイロット・フィルムとは、作品のサンプルのことで、これを見れば、どんな番組が出来るかわかりやすいので、テレビ局やスポンサーとの契約の資料となるものである。

このパイロット・フィルムを造るのにも、大変な苦労をしなければならなかった。先にも説明したように、アニメーションを制作する場合、製作者の意図に沿って、シナリオ担当者がシナリオを造り、それにしたがって、画コンテを造る。そこには、一カットごとに構図とか、キャラクターの動き、背景が描きこまれ、カット版号セリフ、作画の注文なども描きこまれる。

それを受けた原画家が、それにしたがって原画を描き、動画家がその動きを描いて行くのである。

ところが、漫画に忙しい手塚は、画コンテを造る暇がないから、一カットの原画案が、ポツリポツリと原画家のもとに送られてくるに過ぎない。それがどう繋がっていくのか、原画家は分らない。つまり、画コンテは、手塚の頭の中にしかないので、原画が出来ると、それがどう繋がるのか、いちいち手塚に現場に来て貰い、順序を並べて貰わねば仕事は進まない。

その原画の案を受け取るのは、坂本というベテランをトップにしているから原画はすぐに書きあがってしまう。それで手塚に催促するというような進み具合で、能率が上がらなかった。

その為、一一月の発表会がきまったころまでにやっと一話の半分ほどの撮影しか、あがっていなかった。発表会に間に合わせるために、その半分にちかい一〇分ほどのフィルムに、セリフと音楽を入れて、やっとのことで、パイロット・フィルムを作り上げる始末であった。

それでも動画部のアニメーターたちが、その試写を見て、第一話のストーリーが理解できた。

二一世紀の東京。科学者天馬博士は、可愛い一人の息子のトビオ少年を交通事故で亡くし、トビオそっくりのロボットを作り、息子と思い一緒に暮らす。しかしロボットは一向に成長をしない。怒った博士は、ロボットをサーカスに売ってしまう。一〇万馬力の力を持ち、足からジェット噴射で飛ぶそのロボットは、鉄腕アトムと名付けられ、辛い暮らしを押し付けられている。

科学省長官のお茶の水博士は、それを知り、アトムをサーカスから取り戻そうと立上がる……、そうしてあの物語が痛快に展開する。

その試写を見て、製作スタッフはみんな拍手喝采だった。

経営部門の弱体

「虫プロ興亡記」の著者、山本映一は、このパイロット・フィルムの効果につて、簡単に記している。

「パイロット・フィルムの効き目はてきめんだった。局はフジテレビ、スポンサーは明治製菓がきまった。 放送は来年(昭和三八年)1月1日からの毎週火曜日午後六時一五分から四五分までの三〇分となった」(虫プロ興亡記・一九八九年、新潮社)

前述の穴見薫の属する広告代理店の萬年社が動き、スポンサーやテレビ局を回り、このように、早く契約がまとまりスポンサーが決まったということは、作品の前途に、明るい期待を持たせるに十分であった。しかし虫プロとしては、この早急な契約で、二つのマイナス要因を抱えてしまった。

その一つは、契約に際して、手塚が一回の放送料を五十五万円でいいと、はっきり明言してしまったことだ。テレビ局側の方が、そんな安くて、いいのかと念を押したくらいであった。実際は一回の製作費は、二百五十万円は掛かったといわれている。同席していた、虫プロ専務の今井がしきりに、目で合図を送ったにも拘わらず、手塚は平然たるものであった。

これについて手塚は次のように述べている。

「当時、普通のテレビ劇映画の製作費が四、五十万円で、それから飛び離れて高ければ、とてもスポンサーは寄り付かないだろうという思案が一つ。それにうんと安い制作費を発表しておけば、とてもよそでは、それだけではできないだろう――という計算をたてたぼくは、心で泣いて、赤字覚悟でこういったのだ」(ぼくはマンガ家 大和書房 昭和五四年)

あまり安いので、裏になにかあるのではないかと、明治製菓の方で疑ったが、結局手塚の人柄が信用され、契約は無事結ばれた。この製作費はその後,百万円程度、引き上げられたという説もあるし、広告代理店の萬年社が、百五十万にして、虫プロに払ったとかいろいろの説があるが、真相はわからない。いずれにしても、製作費は、放映後引き上げられたのは事実であろうが、それは制作実費に満たない金額であったのは事実ではないだろうか。

第二のマイナス要因は、虫プロの制作能力が検討されずに、放映時期と毎週の放映とし、一回の長さを三〇分と決めてしまったことである。その頃の虫プロの制作能力からすれば、毎週三〇分のアニメーション制作し、それを翌年の一月から放映開始するということは、困難だということは、虫プロの事情を知っているものの眼から見れば、分る筈ではなかったのではなかろうか。

民放のテレビ局が、新番組を始まるときは、電通、博報堂といった、広告代理店が、製作者、テレビ局、スポンサーの間にたち、それぞれの立場、条件を勘案しつつ、契約関係を決めてゆくのが、民放開始以来の慣習のようであった。時には製作者の力をつけるために、人材、資金の面倒まで見る場合さえあった。

「鉄腕アトム」の場合、萬年社の穴見薫という人物が、早くから、虫プロに接近し、制作スタッフと交流し、手塚の広告代理店として協力する約束を取り付けていたので、当然、萬年社が広告代理店として、役割を果たすことになったのであろう。

だから、実行困難な契約を結んだ責任の一端は、萬年社とそれを代表した穴見にあったというべきであろう。

これが萬年社でなく、当時隆盛を極めていた電通とか博報堂とかが、代理店としてついていたならば、どうなったか。虫プロがまだ、制作部門には、一応の人物がある程度揃っていたが、事業経営体としての経営部門が何もできていなかったことを見れば、直ちにその面の充実に力を貸し、また適当な人材を探し出して虫プロに投入させたかも知れない、と思われる。そして、経理、人事、生産管理、対外交渉などの、経営部門の整備を図ったはずであり、その部門が制作部門と相計って、合理的な生産計画、販売計画を立てて、事業を進めたはずである。

勿論、虫プロの社長であり、オーナーであった手塚が経営者である。社長である手塚に、経営する時間なり、その能力があったかという問題を考えてみよう。手塚は、作家としては超一流、世界的なタレントである。然し経営の面については、それと同程度の経験なり、才能があったかというと、疑問とせざるを得ないだろう。そういう場合、手塚社長の作家としての才能に見合うだけの、見識を持った経営担当者が社内にいれば、その言に納得して、経営面を担当させることは、手塚としてもやぶさかでは無い筈であろう。

ところが残念なことに萬年社というのは、そういう人物を探し出したりする能力があったか、また穴見にそういう経営的な才能があったか、どうか、やはり疑問とせざるを得ないだろう。

萬年社という会社は、日本で、最も古い広告代理店で、大阪に本拠を置き、大正時代には大いに栄えたが、昭和に入り、大阪の大企業が本拠を東京に移し始めてから次第に勢力が衰え、一九九〇年に多額の負債を抱え、自己破産してしまう。虫プロに接したしたころは、いわば衰微に向かう斜陽会社であった

テレビアニメにも一〇本ほど関係しただけで終わっている。その十本の最初が鉄腕アトムだったわけである。そういう斜陽会社と取引せざるを得なかったのは、虫プロの不運だとしか言いようがない。穴見もその社員として、懸命に働いたのであろうが、籍を置く会社が左前では、持てる力を発揮できなかったのかも知れない。恐らく、日本最初のテレビアニメを制作する会社に、経営のアドバイスする力も、それに当たる人材を、探し出す能力も無かったといえるのではないだろうか。穴見自身もサラリーマンとして,萬年社の社員として、一部門を担当しただけの経験しかもたず、契約をむすぶだけでも必死だったのではないだろうか。私は彼が、功を焦りすぎたのではないかとさえ、勘ぐりたくなるのを禁じ得ない。

かくして、虫プロは、手塚の力で制作部門では、坂本雄作、山本暎一などを擁し、一流の人材が集まったが、経営部門は人を得なかった。漫画部門の一マネージャーだった山下が専務になったが、経営者型の人物ではない。広告代理店の萬年社、およびその社員穴見薫に事態を見極める力がなかったため、社長の手塚の手の及ばぬ経営部門を補佐、あるいはリードできる人物がないまま、日本最初のテレビアニメ制作に、見切り発車の如く乗り出してしまったことが、後々、マイナス要因として、大きくは働くことになったしまった、と言えるのではないか、と思われる。

「鉄腕アトム」放映が始まった後、穴見が常務として経営に当たることになるが、前記の如く、この人物にそれだけの才腕があったか、どうか。それは、のちになって、一層はっきりしてくる。

ものを作る経営は制作部門と経営管理部門とに自然に分れる。管理部門とは、生産費の管理、その為の経理、生産物の原価の策定、そこから販売計画の樹立、販売の実践と進んでゆく。虫プロの場合、手塚が漫画で稼いだ金を虫プロにつぎ込み、その金で、ドンブリ勘定式に製作、従業員の雇用、その他経費を支払って行く。手塚は、その為にマンガの仕事から手を抜くことは不可能であり、そこからアニメ制作が遅れるという、悪循環の繰り返しになってゆくのはやむを得なかった。

連日徹夜の多忙さ

契約を結んだ以上、実行しなければならない。「鉄腕アトム」の来年一月一日の第一回の放送を控えて、一〇月末になってになってやっと第二話の原画制作があがるという進行状況で、その遅れを取り消すため、虫プロのテレビ部は、夢中で働いた。

一方の映画部の「ある街角の物語」の方は一一月に入ると完成のめどがついた。映画部の連中は、一斉にテレビ部の応援に回った。テレビ部のアトムの方は10月いっぱいでようやく第二話が上がり、11月に入って漸く第三話にかかっていた。年内に最低でも五,六話のストックが出来ないと、毎週の放映に支障をきたす恐れがある

山本暎一は自分の当時の働きぶりを書いている。

「能率を上げるには、結局、時間で頑張るしかなく、日曜も祭日もなくなり、全員が終電車まで残った。明太(この文章の主人公、つまり山本と等身大の男の名)ら独身者は、無人のアパートへ深夜帰ってまたすぐ出てくるのも面倒くさく、そのまま朝まで描きつづけた。

机に向かっていると時間の経過への関心がなくなり、気が付いたら三,四昼夜過ぎていた、などということがザラだった。右手の鉛筆を持つところや、小指の画用紙に擦れる部分の皮がすりむけて赤い肉がのぞき、血染めの原画が出来たりして、包帯を巻かねばならなかった。腹がへったら近所の店からラーメンや焼きそばをとり、眠くなったら机の下にもぐりこんで寝た。……ここはもう浮浪者の巣窟だった」(前掲書)

その頃、虫プロに入社した人物に、若き日のSF作家、石津嵐がいる。石津は元来が演劇青年だったが、若気の至りで、やることなすこと失敗の連続で、完全に食い詰めた。そんな時、電車の中で拾った新聞に、アニメーション映画スタッフ募集という広告があるのを見て、ただちに応募した。アニメーションも、虫プロの社長が手塚治虫であることも知らずにである。そんなうらぶれた青年が無事合格した。面接のとき、やたらに忙しい部署で働きたいと、焼け気味に云ったのだが、そんなこと言わなくても、全社を挙げての大多忙の中に、いやでも放り込まれたのであった。

最初は進行係の一人になったらしいが、

「ボクは、わけのわからないままにあらゆる雑用にこき使われることになったのだ。その初出社の日から1か月というもの、家に帰ることが出来なかった。

全スタッフが、一人三役、四役というハードスケジュールをこなしていたわけで、それは、もう、とても人間様の生活とも思えぬ地獄の様相を呈していた」(秘密の手塚治虫・昭和五五年、太陽企画出版)と、自著に当時の虫プロの様子を描いている。

このような状況の下で、作業の遅れは一挙に解消しようにもなく、時日は刻一刻と過ぎてゆく。

止めるか、進むべきかの境目

テレビ部のチーフアニメーターであり、演出家である坂本は、現在の進行状況では、週一本の放映に穴がなくという心配を、強く感じていた。仲間の原画家を集めて、心情を述べた。

「おれ達が全員でかかれば、1週間で上げなければならない原画と動画に、いまだに四週も五週もかかっている。その遅れの原因には、漫画の方で忙しい手塚先生の手を待つロスも大きい。テレビ・アニメの開拓は漫画を描く片手間で、やれるようなもんじゃない。

と言って,今の虫プロを支えているのは、手塚先生の原稿料収入だし…。テレビアニメは虫プロだけの問題ではない。アニメの未来がかかっている。もしスタートしてしまっておれたちが途中で失敗したら、二度とテレビ・アニメをやるものがいなくなる。だからこの際先生の覚悟を確かめに行こうと思っているんだ」

という坂本の言葉によって、アニメーターが打ち揃って、手塚の仕事場に押しかけていった。手塚は中二階の仕事場で、風邪を引いたといって、寝転んで、原稿を書いていた。

手塚は一同の話を聞いて

「君たちがそこまで考えてくれて、こんな嬉しいことはない。僕にちょっと考えさしてほしい」

と、言うことで、一同はその場を引きさがった。手塚の返事はすぐに来た。それは、手塚が演出、原画を受け持つのは第三話までとし、第四話からは、坂本、杉井、山本、石井、紺野の五人の原画家に任せようというのだった。つまり五人がローテーションを組み、順繰りに各一話ずつ演出を担当する。五人が五週間で、一本の作品のシナリオ、画コンテを描き、原画を描き上げる。

動画以後の仕事は人を分けずに、それぞれのセクションが総がかりで、一本分の作業をしてゆく。

手塚は、シナリオと画コンテのチェック、キャラクターのデザインを引き受け、さらに時間があれば原画を手伝う。時々手塚も一本の作品を担当する。

というものであった。

以上の手塚の提案を皆が受け入れた。漫画で忙しい手塚の手が空くのを待つという計算できない要素が排除され、きつくても、自分たちが頑張れば作業が進むので、この体制を歓迎した。

十二月。現場の苦闘は続いていた。放送開始前に五本をストックしたいという願望も、第三話のダビング完了までが精いっぱいだった。その第三話は、一月一五日に放送されてしまう。一月二二日に放送する第四話は、今作画中である。間に合うのか? よしやそれがやっと間に合ったところで、その次は?

そんなことを考えるとスタッフの面々は、恐怖に身が縮んだ。世間は年末多忙さの真っただ中にあったが、虫プロのスタッフは忙しさの限度を通り越していた。虫プロのテレビアニメの責任者の坂本は強烈な不安に駆られ、ひたすら鉛筆を握り続ける動画家の全員と、アニメにかかわる各部門の責任者を、代理店の穴見を含めて、招集をかけた。

「おれはテレビアニメを手塚先生に提唱し、今日まで必死にやってきた。しかしこのままやってゆけるか?これだけ奮闘してもまだスケジュールに間に合わない。

このまま進むべきか、いったん退くべきか。止めるなら今が最後のチャンスだ。退く、ことに勇気を擁することもある。とにかく放送が始まってしまってからでは、取り返しがうつかない。どうだ、止めると結論が出たら、すぐに先生の元に駆けつける。どうだい?」

と、声涙ともに下る決断を示した。これに反対したのは、山本だけであった。その時、穴見が立ち上がった。大きな図体の男の口から、重々しそうな声が出た。

「僕も反対です。坂本さん、男児たる者、時に命をかけても、腹を切る気でやらなきゃならない場合があるのではないですか。ここは死ぬ気で団結して、やって見ようじゃないですか。この際は、一致団結でやりぬくべきではないですか」

学徒兵の特攻隊上がりらしく、特攻精神でやろうというのだ。みんな黙った。坂本は口を引き締め、「じゃ、血のションベンたらしてもやり抜くか、どうだみんな」

反対するものがなかった。

この時は、男の意気地、特攻精神で行くことになったが、私は、坂本の言うとおり、いったん引いて置いて、十分とはいかないまでも、相当の物的、人的な準備をし直して、改めて出発した方が良かったと、思えるのである。さすが坂本はアニメの先駆者としての先見性があったと、今は思えるのである。

日本人の悪い癖で、男だ、やってやろう、という精神論が、往々にして、勝ちを占めるのである。この特攻精神で何が何でもやり抜こうとしたため、虫プロには、特殊な精神構造が生まれ、それが蔓延し、結局は後年の破局を生み出していったと思われる。

視聴率二七パーセントの大成功

ともあれ、この時以来、虫プロの空気は、冷静な計算より、一層、意気で仕事する雰囲気が強くなったといえようか。

「虫プロはおもちゃ箱をひっくり返したような会社だった。世間の常識に収まるものは一人もいなかったといってよいだろう」

鉄腕アトムの頃、虫プロで、制作進行の仕事をしていた柴山達雄という人物が、「虫プロてんやわんや・誰も知らない手塚治虫」(創樹社美術出版・平成二一年)という本の中で書いている文章である。仕事が目茶目茶な忙しさのために、非常識の人間ばかりできてしまったのだろう。

「地獄のアトム制作に身を投じたが、不夜城と化したスタジオは、鉄腕アトムならぬ徹夜アトム、練馬鑑別所に引っ掛けて練馬貫徹所と、内外から言われるほどの凄まじさだった。動かない漫画を動かすのは口で言うほど簡単なことではない。二三分三〇秒のアトム一話分に描く動画原稿は二千枚から三千枚である。アニメーター不足、連日の徹夜、体力の消耗、鉛筆を握ったまま椅子から落ちて、そのまま床に眠りこけるものが続出した。

ひとたびスタジオに入るや十日や二十日帰宅できなかった。手塚自身もその渦に飲み込まれていた。一日の睡眠時間は二時間ほどあっただろうか。しばしばスタジオの床の上で、ぼろ雑巾のように眠っていた」(前掲書)

というありさまだった。それが延々と続いた。

そのかわり、家内工業的な、牧歌的な面白いところもあった。原画を描くアニメーターは、すでに述べたように高い報酬を受けていたが、その後一般募集で入社してきたスタッフは、会社の規模通りの報酬しか貰っていない。例えば先の石津嵐氏だって、月給一萬三千円ほどしかもらっていなかった。

だが毎日、昼食時になると、手塚のお母さんがスタジオに現れ、スタッフの一人一人に、百円玉、ひとつずつ手渡してくれた。昼食代だ。

「これは定められた給料以外に手塚先生の好意から捻出されたものであった。

この百円玉を握って、近くの蕎麦屋に駆けつけ、五〇円のたぬきそばと四〇円大盛りライスをかっ込んだ。あの頃のことは、手塚先生を語るとき、どうしても連想してしまう風景なのである。

青春の記憶というものは、なぜか、いつも空腹感を伴うものである。」

と石津は前掲書に書き残している。

昭和三八年の元旦。午後六時一五分、フジテレビは、日本中の家庭に、「鉄腕アトム」を送った。先ず谷川俊太郎作詞、高井達雄作曲の、あの懐かしい歌が流れた。

もう引き返せない!

だが、視聴率は二七パーセント。大成功だ。

スタッフ一同、誰も彼も、強い感動に包まれた。前人未踏の大事業をやってのけたのだ。日本最初のテレビ・アニメ。長い間の制作の苦しさも忘れた。

坂本は、去年の暮の暗い顔つきはどこへいったやら、新たな決意で、第四話の撮影にかかり、手塚は新たな作画に入った。それらがやがて、三〇パーセントを超える視聴率を稼ぎ、さらにカラー化により、四〇パーセントを超えるに至るのである。(続く)

私の手塚治虫 第24回   峯島正行

  • 2016年4月19日 12:09

「ある街角の物語」の完成

虫プロの出発

一日おきの勤務、勤務時間は三時まで、昼食付、三時のおやつ支給。しかも、サラリーマンが足元にも及ばぬ高給で始まった手塚プロ動画部。これらの高待遇のもとはすべて、アニメーションの夢を実現すべく、夜昼もなく漫画を描き、稼ぎ貯めた手塚個人の財布から出ていた。それだけアニメーション制作に賭ける手塚の熱意は、燃え上がっていたといえよう。
手塚は、三時のおやつの時間から五時まで、漫画執筆を中断し、動画部にやってきた、第一作目と決めた「ある街角の物語」の絵コンテを書くためである。それが徐々にたまってくると、元東映動画の坂本雄作や、元横山隆一のオトギプロにいた山本暎一などのアニメーターが、それを補作して、完全な絵コンテにする作業を始めた。
絵コンテとは監督が、スク―リン上に展開するプランであり、製作スタッフへの作業指示でもあった。
手塚の描いてくる絵コンテは、完成したものではなく、手塚の意図が分るようにしただけのラフなもので、絵も説明も簡単なものであった。それを受け取った動画部の人は、完成された絵コンテに、まず仕上げねばならなかった。
絵コンテは、一カットごとに絵の構図、キャラクターの動き、背景を描きこんだ漫画の一コマのような絵が、二カット目、三カット目と縦に並んだ、こまわり漫画のようなものである。それぞれのカットの右側に、そのカットの秒数、セリフ、作画上の注文、撮影や音楽効果の注文、左側にシーン番号、カット番号を書きこんでゆく。
雑誌の漫画連載で、多忙を極める手塚は、三時を過ぎても、動画部に現れないことも多く、走り書きのメモ程度の、絵コンテを回してくることも多かった。動画部の人たちは、三時退社を止めて、一日おきの出勤も日勤に切り替えて、絵コンテ完成に、精を出すようになった。

九月になると、アニメ制作の現場となるスタジオ建設がスタートした。かねてから用意されていた手塚家に隣接する百坪ほどの土地が整備され、二千五百万円の予算で建築が始まった。建坪六十坪,二階建てである。動画部の人たちの意見を入れ、建物全体が、斜めの線を強調した、モダンな設計となった。
スタジオ名も、社の内外から募ったが、結局、手塚の案が通って、「虫プロダクション」に落ち着いた。
「虫」は自分の名前の虫であると同時に、アニメの虫という意味だと、手塚はスタッフに説明した。このスタジオの名前が、そのまま手塚プロから独立する、動画プロの名前となったわけである。
スタジオ建設の賑やかな音が響く中、一〇月になると、「ある街角の物語」の絵コンテは出来上がり、いよいよ原画を書き出すことになった。原画とはアニメの動きのもとになる画のことである。

永遠の手工業?

ここで、動画制作の行程を前出、山本暎一氏の「虫プロ興亡記」、豊田有恒氏の日本SFアニメ創世記」(二〇〇〇年、TBS・ブリタニカ)等によって、簡単に述べて置く。
新しく動画を制作する場合は、まずシナリオライターがシナリオを描く。それによって、先に述べたように演出家が絵コンテを制作する。
絵コンテが出来上がると、原画家(アニメーター)が、アニメーションの動きのもとになるキャラクターの絵を描く。アニメは、この原画をもとにして、一秒間につき、二四コマの少しずつ形のずれた画面からできている。それをつぎつぎとパッパッパと見せられると、目の残像で、画が動いて見える。
その絵を動画という。それを描く人が動画家と呼ばれる。
実際には一秒間に二四枚の動画ではなく、一二枚の動画で済ませている場合が多い。一枚の画で二コマ撮影しても、かなりなめらかな動きが見えるからだ。
そうすると、5秒間のカットだと、六〇枚の動画が必要で、三〇秒の場面だと動画の数は三百六〇枚必要になる。その一つ一つのカットの最初と最後の画が原画である。
つまり、原画家の描いた原画の間を、原画家と相談しながら,動画家がうめてゆき、一カットが出来上がる。
こうして、一カットの動画が出来上がると、それを仕上げ(トレース部)と背景(美術部)に回される。トレース部は画用紙に描かれたキャラクターを、セルと呼ばれる透明のアセテート版に、画の線をなぞって写してゆく。現在はこの作業は、コピー機によって簡略化されている。
そうして写し取ったものに色を塗る。白黒アニメの場合も、色の濃淡があるので、それを塗り分ける。
美術部は、回されてきたキャラクターの画の背景を描く。
以上が出来上がると、撮影部に送られる。撮影部では、カメラの下に背景をセットし、背景の上に、さっきのセルを重ねる。すると、キャラクターの部分は色が塗られているので、背景が隠れ、それ以外のところは、透明なので、背景が見えるというわけである。このセルを一枚一枚取り替えながら、一枚ずつシャッターを切ってゆく。
撮影の終わったフィルムは、現像所に持ち込まれ、ポジフィルムになる。これをラッシュと言い、これによって録音や編集作業をする。このラッシュを映写機にかけて、画の動きや撮影効果が、意図通りに出来ているか、スクーリンのうえで確認する。良ければそのカットは出来上がり、駄目な場合はリテーク、つまり最初から作り直しとなる。そうしてすべてのカットが出そろったときに、一本のフィルムの完成となる。
以上、簡単に述べたが、実際に、アニメが出来上がるまでには、大変な労力と人手を要するわけである。特に最初の動画制作までは、膨大な人手と時間を要する。これは動画が絵で描かれている以上、人の手で描くほかに、方法がないためである。
つまり事業としては、合理化の余地がきわめて少ない。絵を動かして物語を作るアニメは、機械化できない、永遠の手工業なのである。そこに手塚たちの創作家としての誇りもあるわけだが、事業としては、弱点でもあるわけだ。
このことが、アニメ・プロダクションの経営を困難にさせる要因であり、のちの虫プロの破綻の最大原因もここにあったと言えよう。

「鉄腕アトム」のテレビ化

しかし、虫プロの第一作で、虫プロの旗揚げを天下に知らしめる烽火にしようと手塚がもくろむ、芸術的実験作品「ある街角の物語」は、手塚の稼ぎをつぎ込んで、丁寧に作られていった。その年、昭和三六年の秋も深まる頃、原画作りからその後の作業も着々と進んでいた。人員も最初の四名から、徐々に増えて一五人になった。
意気揚々のうちに、その年も暮れ、新年を迎えた。手塚は虫プロを、手塚プロから独立させ、「株式会社虫プロダクション」を設立。資本金二百万円、全額手塚が出資、そして自ら取締役社長となった。手塚プロのマネージャだった山下が、虫プロ専務取締役を兼務した。このことは内外に、アニメーション制作に本腰を入れるという、彼の明確な宣言であった。
虫プロの内部では「ある街角の物語」に次ぐ、第二作制作が話題になっていた。手塚の理想のアニメを作ってゆくために、大衆的なアニメを造り、その売り上げと利益によって、その製作費を出してゆくというのが、手塚の描いた虫プロの将来像であったから、当然、第二作は、大衆的な興味を呼ぶ作品でなければならない。
虫プロの実質チーフアニメ-ターの立場になった、坂本を中心に、如何にして、金を稼げるアニメーションを作るか、論議を始めた。
彼らの頭に、ふと浮かんだのはテレビにアニメ番組をのせることだった。考えてみれば、日本で作られた本格的アニメが、テレビで放映されたことはない。そこに漫画アニメを流すようにしたら、必ず評判になるはずだ、と彼等は考えたのであった。
テレビでアニメをやるとしたら、一回限りで終わるものでは意味がない。一話一回の長編連続でなければ意味がない。しかし長編となると、膨大な資金と人員を要する。
アニメ映画の先駆的存在である東映動画では、一時間半の長編を一本作るのに、三百五十人のスタッフ、六,七千万円の製作費で、一年、二年という時間をかけて、制作している。
ディズニーや東映の作っているフル・アニメーションは、一秒に、十二枚の動画を使っている。これだと画面が滑らかに動く。これをテレビでやるとして、三十分番組だと、コマーシャルなどを抜いた本編の正味を二十五分間と考えると、動画枚数は一万八千枚必要となる計算である。毎週それだけの動画が出来るわけはない。もしやるとすると、数百人規模の動画家が必要になる。
アメリカでは、ディズニーのフル・アニメーションに対して、リミテッド・アニメーションという方式を編み出した。或るプロダクションがこの方式で漫画番組を作り出し、それが日本でも、関心を呼んだが、それは粗っぽくて、単純な四コマ漫画程度のものであったので、評判が悪かった。
虫プロの内部では、フル・アニメーションほど滑らかに絵が動かなくても、毎週完結する面白いストーリーがあれば、画はそう動かなくても、視聴者をひきつけることが出来のではないか、と考えたのだ。
「その原作者は、手塚治虫。その作品は鉄腕アトム!」
期せずして、彼等の口から、異口同音に、声がほとばしった。一番身近に原作の候補があったのだ。
それを一回正味、二五分の番組として、動画の枚数をどこまで縮められるか、改めて計算すると、原画一枚当たり一八コマ撮り、にすれば何とかなるという話になった。初めから終わりまで、一八コマ撮りにするのではなく、ある部分は二コマ撮りにして、滑らかに動かし、ある部分は五秒止めのカットを造るなどすれば、平均一回に、二千枚以下の動画ですむという計算をたてた。

一本、二千枚の動画

「鉄腕アトム」アニメ化案を手塚治虫へ提案するや、端からテレビアニメへの挑戦を考えていた手塚は直ちに、OKを出した。ただし、毎週放映、毎週一本ずつ制作となると、一本につき二千枚の動画では、労力的にも制作費から言っても、出来ないということになった。
手塚は、動画枚数をさらに減らして、千五百枚から千八百枚に抑えることにした。その為、手塚とアニメーターたちとの試行錯誤の結果、絵コンテで、動画枚数を食わない演技の工夫をすることにした。アニメーターの熟練度の必要なフル・アニメーション技法を捨て、絵心のあるものならば、誰でもできるような優しい技法も同時に研究した。
その結果、簡単で、動画枚数を減らせられるパターンが出来上がった。それは以下のような製作法だった。

1、 一枚の動画を三コマに撮る。
2、 キャラクターの顔のアップなど、動かさなくても、そうおかしくはないものは、動画一枚で済ます。
3、 歩いたり、走ったりするキャラクターの動きは、繰り返しの動画にして、背景の方をスライドさせる。
4、 人物が腕を振り上げたりする場合、顔と体は止めて、腕だけを部分的に動かす。
5、 セリフをしゃべる場合は、体を動かさず、口だけをパクパク動かす
其の他数項目の原則を基本にして、そのバリエーションで、動きのすべてを作り出すことにした。

手塚は、実際の仕事が始まってからさらに、現実的な方法を発案し実行した。手塚は、自ら次のように書き残している・
「『アトム』の絵がたまってくると、それを整理分類して積んでおき、同じ絵を何回も繰り返し使った。これはバンク・システムと名付けた方法で、(中略) バンクはつまり銀行であって、まあ、絵の銀行だ。アトムとか、お茶の水博士とか、ヒゲオヤジとかを別々に分類するだけではない。アトムならアトムの怒り、泣き、驚きなどの表情から、大写し、全身、遠景などに分け、はては手とか足とか口とか眼だけを別々に描いて分類した。自然現象の雨、風、雪や波、煙、噴火、崖崩れ、武器、各動物、乗り物、目を回した時出る星までナンバーを入れて分類した。これらを整理するスタッフは、毎週一回、ドサッと山のごとく持ち込まれる使用済みの新しい絵を悲鳴を上げながらより分けるのである」(ぼくはマンガ家、大和書房、一九七九年)

手塚は虫プロの内部を、テレビと映画部に分けた。テレビ部は今皆が考えている「鉄腕アトム」のような商業性に徹したもうかる仕事をする。映画部は、テレビ部のもうけた金で、「ある街角の物語」のような実験作品を作る。一番経験が多い坂本が、アニメーター全員のチーフになるとともに、テレビ部のチーフになり、映画部のチーフには、山本がなった。それぞれのスタッフは、映画部、テレビ部と固定せず、状況に応じて流動的に働くことに決めたのである。

穴見薫の売り込み

四月、スタジオが完成した。白塗りの瀟洒な建物である。虫プロのスタッフはそこに引っ越した。二階の大広間に、原画、動画、仕上げ、背景などの絵を描く連中が入った。二回の新人募集で、手塚や今井専務を除いて、スタッフの数は三八人に増加した。
五月。
虫プロの坂本が、一人の男を手塚のもとに、連れてきた。男の名は穴見薫。六尺豊かな大男、大手広告代理店、「萬年社」の企画部員だという。
この男が坂本と知り合ったのは、穴見の妻君が、東映動画では、名の知られたアニメーターであった関係からであった。東大在学中、学徒出陣、特攻隊員になったが、終戦で復員、一時新劇の仕事をした後、現在の仕事についたという。虫プロで、テレビアニメの企画を立てると聞いて、坂本に自らを売り込んで来たのだ。
テレビアニメを実現するには、広告代理店を通じ、製作者、テレビ局、スポンサーと結びつけなければならないことを知っていた坂本は、虫プロの仲間と共に、彼に会って、話を聞き、その熱意とテレビアニメへの夢を知り、手塚に紹介したのであった。
穴見は手塚に対して以下のように、必死な形相になって口説いたらしい。
「あなたたちの志を実現するためには、 テレビ局、スポンサー、広告代理店等、放送を構成する関係者たちへの啓蒙、説得、組織化がまず必要になります。これはかなりな大仕事です」
と述べ、自分がその業務に携わる広告代理店の役割について述べ立てた。広告代理店は単に、スポンサーとテレビ局の間に立って、放送料のマージンを稼ぐだけでなく、手塚らのやっているような、新しい仕事を成功させるのが使命である、と説いたのである。
「私は一広告代理店の社員ではなく、自分個人として、先生がなさろうとしている、前人未到の事業に参画させて頂きたい。私はみなさんの一員として自分の所属する萬年社を説得するとこから開拓を始めてみたい、ぜひそうさせてください」
大男の元特攻隊員が、必死の形相で、手塚に迫ったようだ。漫画作家である手塚は、テレビ用のアニメを作ろうとしているが、如何に売るかというビジネスの方面には、疎いし、作ることに夢中であったが、売る方法まで頭が回っていなかったのだ。
手塚はこの男の言を入れた。この時、その手腕は別として、穴見の言に嘘はなく、その誠実さも本物であったろう。手塚が彼を受け入れた後、もう虫プロの一員のように出入りしだした。
彼はその翌年に、虫プロの常務取締
役となり、この新しい企業の経営に当たるのであったが、私には、彼にその手腕があったとは思えないのだ。
彼はこうして、「鉄腕アトム」の制作販売に当たるのだが、その契約の時期とか、制作の方法を確立しないまま、アトムの放映を決めてしまったために、虫プロ全体が苦労するのである。私は中堅広告会社、萬年社の一社員にすぎないものが、野心に駆られて、虫プロの中に、会社経営のセンスのあるものがいないのを幸いに、この会社を牛耳ろうとしたために、虫プロの生存にさえ、影響を与えたと、思われるのである。いずれ、そのことは、おいおい述べてゆく。

ヤマハホールの発表会

夏に入って、映画部の努力の甲斐あって「街角の物語」の作業が進んで、秋にはどうやら、出来上がる見通しが立つようになった。手塚はスタッフを集めて、「アトム」の制作開始の宣言をした。
「アトムは僕の原作だから最初の何本かは、ボクが演出と原画はやります。慣れたところで、諸君にも演出、原画を描いていただきます」
といい、山本、今野など3人が「街角の物語」に集中し、他のスタッフは、手塚が書く原画をもとに、動画を描くことにした。仕上げや背景のスタッフは、両方の作品に共通とした。スタッフの数は、前述のように新旧三十八人である。その人たちの役割りは原画六、動画六、仕上げ一四、背景五、撮影四、制作進行二、総務一に割り振った。
これだけの人数で「街角」という実験作品と、毎週三十分のテレビアニメ、「アトム」を作って行こうというのである。それが出来るか、最初から疑問だった。「アトム」の場合、先に述べた通り、節約しても一週に二千枚近くの動画を要するのだ。そこが問題なのだが、ともかく発進した。
しばらくすると手塚の描いた「ァトム」の原画が三,四カット分が、テレビ部に届けられた。どうやら疾走する自動車のフロントからの眺めらしい。それから、原画は毎日、数カットずつ届けられて、一人の少年が、未来型車をぶっとばし、交通事故を起こすところまで、進んだ。そこに手塚が絵の説明といかなるカットにするか、を説明にやってきた。
漫画の執筆に追い立てられている手塚からは、そのようにポツリポツリとしか原画がでてこない。それを、ベテランの原画家が動画に描くのだから、すぐ消化してしまう。
二週間たっても、いくらも上がってこない。それを誰かかが口にすると「先生から原画が来ないのだからしようがない」
と原画部門の坂本が答えざるを得ない。現実に、テレビで放映されるようになったら、一週間のうちに原画と動画が上がらないと、放送に穴があく。しかも、一本の動画が二千枚近くになる。それを一週間で上げなければならない。それが出来るか、スタッフ全員が危惧していた。

秋も深まると、「ある街角」の方は作画作業をすべて終えて、最後の編集を終えると,長さが、三八分五二秒の中編作品になった。手塚は音楽を高井達雄に、効果音を制作グループに渡し、制作完了となった。手塚は十一月六日に、銀座のヤマハホールを借りて、「虫プロダクション第1回作品発表会」という名のもとに、試写会を開くことに決めた。
その発表会は、各方面の話題を呼び、当日は大盛況であった。
そして「街角」は、その年の「芸術祭奨励賞」を獲得し、続いて、「ブルリボン賞」「毎日映画コンクール大賞」を獲得した。
いまや手塚は、アニメーションの新しい旗手として、日本最初の芸術的なアニメ作家として、輝かしい日を迎えたのである。幼い時からの夢が見事に実ったといえよう。
手塚は、一年の日時と、一二〇〇万円の製作費がかかったと述べているが、この金額は、人気漫画家として、多くの連載漫画を抱え、締め切りに追われ、雑誌編集者からは、手塚嘘虫(うそむし)、手塚遅虫(おそむし)とよばれながら、悪戦苦闘の末、作り上げた金であった。またアニメの制作時間は、漫画執筆の間に、そっと抜け出して作った短い時間を重ねて作った時間であった。
この後、テレビアニメの「鉄腕アトム」の制作には、さらなる難関を続けて越えなければならなかった。(続く)