Web遊歩人

Web遊歩人
You are currently browsing all posts tagged with 新・気まぐれ読書日記

新・気まぐれ読書日記 (45) 石山文也 昭和十八年幻の箱根駅伝(その2)

  • 2017年4月6日 23:42

選手たちはひとかたまりになって、三宅坂の陸軍省前を通過、虎ノ門から三田の慶応義塾前を通り、札の辻で旧東海道の京浜道路(国道15号線)に入った。品川を過ぎる頃には先頭集団が絞られてきたなかで意外にも頭一つ抜けたのが立教、これに日大が懸命に喰らいつく展開となった。その後ろを文理科が追い、やや遅れて慶應、法政、専修、早稲田、中央、東農大が続いた。拓殖と青学はしばらくすると集団から離された。この順位で大井、大森、蒲田と選手たちが駆け抜けてゆく。異変が起きたのは六郷あたりで、突然、立教が一気に飛び出して独走し始めた。これに他選手はついてゆけず、9時25分過ぎにそのまま鶴見中継所に飛び込んだ。1分25秒後に日大、続いて東京文理、4位が慶應で首位から3分25秒遅れだった。

各校の1区の攻防のあらましを<いまふうに>紹介するとこうなる。現在の箱根駅伝は大会のはるか前から各校の有力選手が話題になる。前年に行われる出雲、全日本で各校主力選手がぶつかり、今年の青学のように「三冠」の行方や各校の戦力分析が細かく報道される。そういう意味では主力選手や話題選手は視聴者にあらかじめインプットされ、テレビ中継にしても放送各社が先頭の第1放送車から後方の放送車、バイクカメラ、中継所のカメラなどを駆使することで選手それぞれの刻々の動きを多面的に伝える。しかも年々、技術革新が競われるのはご存知のとおりである。

澤宮も同じように各校の順位の変動を詳しく紹介しているが、読者諸氏は各選手についてご存知ないのであるからその健闘ぶりについては本書に譲ることにする。試合経過よりも戦時中に行われたこの大会は既に始まっていた繰り上げ卒業などもあり、出場選手を集めるのも容易ではなかったことを思い起こして欲しい。しかも前年の大会は見送られていたから最低人数の頭数をようやく揃えた各校には初めて箱根を走る選手や異色のメンバーもいた。例えば東京文理は短距離=400m専門の5人に加え、家庭の事情で退部していた800mの元部員と校内マラソンで快走を見せたラグビー部員を口説き落として補欠1名を入れた11人の選手をようやく確保した。他校も似たり寄ったりの状況で同じ陸上競技でも投擲(とうてき)専門の選手までいた。投擲とは手を使って物を遠くに投げることで、砲丸投げ、円盤投げ、ハンマー投げの総称である。澤宮は資料を駆使して各選手の育った環境や練習風景、あるいは日大の中距離=800m選手で青森県弘前市出身の成田青司が残した日記を織り交ぜて練習風景や大会当日の模様などを紹介していく。成田は復路山下りの6区を走り、襷を繋いだ。

そんなことはいいから往路の結果はどうなったのか?ですか。まあ、そう急ぎなさんな。おっと国なまりが思わず出てしまった。

この写真、サイドカーからの声援を受けて力走するのは日大の4区、古屋清一である。他校よりも日大は比較的資金に余裕があったのか、それともOBが提供したのだろうか。

往路の山登り5区はトップで襷を受けた慶應の岡博治が安定した走りを見せた。多くの学校がガソリン不足の折、木炭車や自転車を使ったなかで慶應はここでもサイドカーを投入、急傾斜地点でも選手にぴったりとくっついて走った。おかげで岡も2位の日大を5分45秒も引き離して往路優勝を飾った。

大会二日目の6日は真冬の寒さで草木も霜で凍りついた夜明けを迎えた。芦ノ湖には霧がかかり吹く風も冷たいなか、選手らは午前7時には箱根神社に集合、周辺の道を軽く走り始めた。同30分には選手関係者全員が揃って参拝した。スタートは予定より30分遅れの8時半。慶応、日大に次いで17秒差で法政が飛び出していった。途中、宮ノ下では往路と同じく慶大塾長の小泉信三が帽子を振って大きな声援を送ったがその甲斐なくこの5区で慶應は抜かれて法政、日大に次いで3位となった。日大・成田も気力を振り絞って2位に食い込んだ。

その後の展開も下位の各校は大きな順位変動があったものの上位3校は互いに譲らず、最終10区のスタート順は1位法政、2位慶應で3位日大はトップから1分半遅れだった。多摩川にかかる六郷橋で慶應が法政をいったんは抜くが再び並ばれて蒲田、大森と並走が続く。逆に日大・永野は21回大会(昭和15年)で兄弟選手として優勝に貢献した弟の常平で本来の専門は800mだったが「区間賞男」として鳴らした兄に勝るとも劣らぬ勝負強さがアンカーには最適だったものの序盤で早くも2分50秒の差を付けられていたから当然ながら先頭2選手の姿は全く見えない。永野の伴走は主将・杉山繁雄で「お前、どこで抜くか」という杉山に永野は「八ツ山(橋)で抜く!」と大きく答えた。「よし、それで行こう!」と杉山は応じたが八ツ山橋は国鉄(現JR)品川駅の手前で、レースも後半どころか終盤に近い。

6キロ付近でようやく杉山が慶應と法政の選手の姿をとらえた。「永野見えたぞ!」という声を聞くと永野は加速して予定通り八ツ山橋で追いつき、3人が並んだ。そのまま、品川駅前、泉岳寺前、札の辻まで来た。ここから赤羽橋に向かって左折すると慶應のキャンパスとなる。そうなれば地元だけに応援団も多い。日大・永野はここで猛然とスパートした。差は一気に広がり、「優勝確実」を信じて約5百人が詰めかけた慶應応援団は目を疑った。それでも慶応・荘田は大応援団の前で法政を抜き返して面目を保ったが順位は変わらず、日大が13時間45分5秒で見事総合優勝、全校が無事完走した。6区を走った日大の成田はゴールの靖国神社に先廻りしていた。この日の日記に「遂に永野氏トップに出で九段に入ったのはピンク、ピンクだ、日大だ。熱戦の末遂に勝った」と記した。天気は快晴で、暖かい日だったとも記録している。

「死ぬまでにもう一度箱根を走りたい」という学生たちの必死の思いが大会を実現させ、長く「幻の」と言われ続けた昭和十八年の箱根駅伝はこうして終わった。冒頭にも紹介したこの本のサブタイトルは「ゴールは靖国、そして戦地へ」である。各選手の活躍ぶりを細かく紹介する紙幅がなかったので戦地に散った選手名はいちいち挙げないが、日大・成田は終戦前日の8月14日に二人乗りの特攻機でジャワ島のアメリカ軍基地へ向う途中、静岡県沖でエンジンが故障して墜落、同乗者は即死したが大けがをしたもののたまたま通りかかった漁船に救助されて奇跡的に生還した。成田はさっそく陸上競技を再開し、昭和21年の第一回国体の400mに青森県代表として出場、3位に入賞している。その後は建築業を興したが箱根駅伝の思い出は特攻で亡くなった仲間への哀惜もあってか多くを語らなかったという。

もう一人、日大の主将だった杉山は3年間のシベリア抑留を経て帰国、山形県庁に勤務しながら、山形市の陸上競技の大会審判を引き受けた。地域のマラソンのコーチをする一方で日大の校友会の世話役も積極的につとめ、91歳で亡くなる直前に娘が聞き書きで校友会誌に箱根駅伝の思い出を『秘話』として残したが、シベリアでの悲惨な体験は語ろうとはしなかった。人生最期の思いを語るとき、その心はあの18年の箱根が占めていたはずだと澤宮は書いている。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (44) 石山文也 昭和十八年幻の箱根駅伝(その1)

  • 2017年2月9日 14:41

通算93回目となる今年の箱根駅伝は青山学院大学が圧倒的な走りで戦後初、3年連続の完全優勝を飾った。往路復路とも沿道に多くの応援の観衆を集め、常に「伝統の」を冠して紹介される大会も太平洋戦争の直前、軍部の圧力により昭和15年の第21回大会でいったん中止に追い込まれた。しかし、学徒動員で死ぬ前にもう一度箱根を走りたいという学生たちの強い願いは「戦勝祈願」という名目で開催に漕ぎつけた。それが昭和18年1月の「紀元二千六百三年靖国神社・箱根神社往復関東学徒鍛錬継争大会」である。永く「幻の大会」と言われてきたがのちに第22回と認知された。その全貌をノンフィクション作家の澤宮優が『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)で明らかにした。青学はこの大会が初参加。「ゴールは靖国、そして戦地へ」のサブタイトルが選手たちのその後の運命を暗示する。

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

箱根駅伝は<日本マラソンの父>と呼ばれる熊本県玉名郡出身で、ストックホルムなど3度のオリンピックにマラソンランナーとして出場した金栗四三(1891-1983)が中心になって創設した。第1回大会は大正9年2月14日、15日に開催された。主催は報知新聞社で、早稲田大学、慶應大学、明治大学、東京高等師範(のちの東京文理大学、現・筑波大学)の4校が参加したので名称は「四大学専門学校対抗駅伝競走」だった。

当時はまだマラソンという言葉はなく「葦駄天」が通用語だったことでもわかるように各校とも長距離選手は少なくメンバー確保に苦労した。なかには日比谷交差点で警備を担当していた警察官が箱根を走りたい一心で警察を退職して受験、見事選手になったエピソードや、脚力自慢の人力車夫を替え玉参加させたのが発覚するなどの珍事も紹介している。なぜバレたかというと前の選手を追い抜くたびに「あらよっと」と声を出したからというのが笑わせる。年を追うごとに参加校も増え、昭和9年には13校になって応援合戦も盛んになっていく。いつしか箱根駅伝は正月の風物詩となり、今日の流行語・山の神の元祖として昭和11年のベルリンオリンピック1万メートル代表に選ばれた日大の鈴木房茂のようなスター選手も現れた。箱根の温泉街は年末年始と駅伝で「正月が2度来る」とか小田原では「駅伝が通らなければ正月が来ない」とまで言われたという。

一方で箱根駅伝にも戦時体制の影が近づいてきた。昭和12年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、翌13年にはさまざまな組織を戦時体制に動員させる国民精神総動員法が施行され、14年には国民徴用令で軍需産業への徴用が始まった。15年1月の第21回大会は行われたが、夏に予定されていた東京オリンピックも中止になった。9月、日独伊三国軍事同盟締結、10月には大政翼賛会が発足して政党政治は無力化、戦争に向かっての挙国一致の国家体制が作られていく。16年の大会が中止に追い込まれたのも東海道と箱根路での軍事利用を優先したためだった。箱根駅伝に向けて物資の乏しいなかで連日の苦しい練習を積んできた各校は代替レースとしてこの年1月と11月の2回、東京・明治神宮と青梅・熊野神社を往復する「青梅駅伝」を開催した。学生たちは「青梅を走っても心は箱根」ではあったものの12月、ついに太平洋戦争が始まった。

行きつけの大型書店の「新刊コーナー」でこの本を見つけたのは発売直後の10月だったと記憶している。他にも何冊か購入したので、いつものことながら「まえがき」を読んだだけで「正月の箱根駅伝までには読了しよう」とベッドわきの書棚に積んでおいた。それが災いしたのですね。毎年正月恒例となっている箱根駅伝のTV中継を観戦して何か忘れ物をしているような気がして・・・それでこの本を思い出したという次第。もちろん当時と現在では道路事情も違えば沿道の風景もまったく異なる。それでもコースのポイントや湘南の海、函嶺箱根山、芦ノ湖、富士山などは同じだと思えば<タイムスリップした気分>で読み進めることができた。この連載を読んでいただく方は先刻ご承知だろうが、あくまで「読書日記」ですから。こうした余計なことも書いてしまう。

青学OBでもある澤宮は学生たちがどうやって軍部を説得していったかを詳細に追う。政府中枢や軍部などの先輩、縁戚の縁を辿って何度も跳ね返されながらも突破口と妥協点を見つけ出したのが冒頭に紹介した「戦勝祈願名目」での開催だった。ほぼ正式にめどが立ったのは前年の17年10月だった。

そこから各校は選手集めに奔走するが、「箱根をもう一度走りたい」と熱望していた箱根や青梅駅伝の経験のある選手の多くは2度の繰り上げ卒業で出征しているから短距離、中距離、あるいは投擲やハードルの選手を総動員し、はたまた足に自信があると聞けば一般学生にまで声をかけた学校もあった。それでも常連校の明治、日本歯科、東洋などは選手、補欠の計11人が集められず参加を断念した。物資も不足するなか、時局を反映して伴走は自動車一台になった。しかもガソリン不足のため、多くは山登りの5区に回され、平地ではもっぱら自転車が使われた。資金不足も深刻で、経営難に陥っていた報知新聞は読売新聞に吸収合併されていたから、事務局員の学生たちは唯一資金の出そうな読売本社に日参して朝から晩まで座り込んだ。態度が硬かった新聞社側も彼らの熱意に打たれ、ついに資金提供してくれた。実際にお金が支払われたのは大みそかで、すでに除夜の鐘が鳴っていた。このときは参加校の各マネージャーも隣の部屋に控えていたから配られたお金を持って喜び勇んで各校の合宿所まで急いで戻った。復活した箱根はわずか4日後に迫っていた。

関東学徒鍛錬継争大会当日の昭和18年1月5日(火)朝は見事に晴れあがった。まだ寒かったが、じきに駅伝にふさわしい日和となるだろうと予感させた。大会参加の11校を50音順で紹介すると青山学院専門部(現・青山学院大学)、慶應義塾大学、専修大学、拓殖大学、中央大学、東京農業大学、東京文理科大学(現・筑波大学)、日本大学、法政大学、立教大学、早稲田大学で、選手不足で出場がかなわなかった明治大学の選手も計時員をつとめることになった。午前8時のスタートだったが選手たちは7時には集まって準備運動に余念がない。何より関係者が驚いたのは参加大学の校友、教職員、陸上部のOBたちが靖国神社に大挙して集まったことである。人々にとって年頭を飾る箱根駅伝が2年ぶりに行われるとあって居ても立ってもおられず駆けつけたことで神社前の広場は立錐の余地もないほど応援の人垣で埋まった。一区の選手たちは他の部員に守られ、霜の降りた道をゆっくり走り、体をほぐす。校友たちが選手の手を強く握りしめ「頼むぞ」と声をかける。

7時半になると1区の選手全員と大会役員、関係者が靖国神社に参拝して戦勝を祈願して結団式を行った。参拝が終わると選手は体にまっとった厚着の服を脱いでユニフォーム姿になった。選手たちに各校のスクールカラーの襷が右肩からかけられるとそれぞれがゆっくりとスタート地点である大鳥居に向かい、身体を震わせながらスタートラインで待つ。8時ちょうど、大会会長が大きな声で「ヨーイ、ゴー」、同時に右手を上げた瞬間、選手たちは一斉に飛び出した。

(以下続く)

新・気まぐれ読書日記 (43) 石山文也  酔眼日記

  • 2016年11月1日 00:52

<緑陰読書>にちょうど良さそうと購入したが、ヒマな日に限って雨。キャンプのお誘いもこないうちに読了した。本山賢司の『酔眼日記』(東京書籍)は建設業界誌などに寄稿した約100作を一冊にまとめた。「旅と酒」なら当方も負けはしないだろうが、遠征も含めてあくまで遊び=自腹だから帯にあるように「あっちこっちで酒のんで、文とスケッチ」がシゴトというのはホント、うらやましい。

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

著者の本山は私が<アウトドア・野遊び系>と勝手に名付けているイラストレーターのひとり。書庫を探すとデビュー作の画文集『海流に乗って―僕と九つの島』(山と渓谷社、1987)が見つかった。他にもあるだろうがこれだけでいい。『「宝島」探訪記』を読んでいるうち、「そういえば」と思い出したからである。「宝島」は鹿児島県の屋久島と奄美大島の間に連なるトカラ列島のひとつで、北から口之島、中之島、諏訪瀬島、悪石島、小宝島、宝島、横当島と並んでいる。この7島が住民の住む有人島で、残りの無人島3島を含めて十島(としま)村といい鹿児島市内に村役場がある。

img007

なぜ詳しいかというと私も宝島に行きたいと資料を集めたもののどうしても休みが取れず断念したから。島に渡るには鹿児島と奄美大島の名瀬間を結ぶフェリー「としま」しかない。鹿児島を出るとそれぞれの有人島に寄港しながら名瀬へ。名瀬からは同じように折り返す。もちろん鹿児島と奄美大島には空路があるがフェリーに乗り継ぐには運航日の確認だけでなく、空港から港までのアクセスにも気を配る必要がある。いまは週2便だが当時はたしか週1便だけで、海が荒れたら欠航し、島まで行っても入港できずに通過することもあるからスケジュールによほど余裕がなければとんでもないことになる。『海流に乗って』では運航日の変更などトラブルに見舞われたと紹介しているが今回はすんなり渡れたようだ。

島には新しい住人がいた。大物釣り師のKと、画家のKの両氏だ。かって泊った坂本さんの離れは廃屋になっていたがオバさんは元気だった。むろん僕のことは覚えていない。小柄なオバさんはプロレス好きで、テレビを見ながら「この野郎!殺(や)っちまえ、そこだ」と大声で怒鳴る。ふだんは大人しい人で、毎日おいしい料理を作ってくれた。大物釣り師のKはザルの飲み助で、毎晩ふたりで「さつま白波」をあびるように飲んだ。

そのKから「すっかり禿げてしまったが島の娘と結婚した」と便りがあった。手紙と一緒に、トビウオの干物や、島の野生のミカン、今や名物になった落花生を送ってくれた。甘味が苦手なのを知っていて、黒砂糖も荷に入れてくれた。「今年あたりか来年か、はたまたいつになるかはわからないが、三度目の宝島行きを考えている。そんな計画が頭に棲みつくと、旅の虫が騒ぎだす。あの亜熱帯の島が懐かしい」とある。なぜか画家のKのことは何も書かれていないが、あこがれの島へシゴトとはいえ何度も行けるというのはいいですなあ。

『下山家宣言』は、山の雑誌からの原稿依頼を「登山はしないので」と断ろうとしたが断れずに「下山家第一号」を宣言したオハナシ。下山に開眼したのは富士山という。登山口の五合目まで早朝新宿発の富士急行バスで行って、ひたすら下山する。高尾山は頂上まではケーブルカー。それから参道脇の道を下山する。どんな手段を取っても登らずに下るだけ。これが下山の条件。ありそうだがなかなかないと。たしかに、下りといっても多少の凹凸はあるだろうし。

おもしろかったのは『大岩の真実』だ。山梨と静岡の県境を流れる佐野川上流部で渓流釣りのエキスパートの友人が見つけたという<謎の大岩>に心を動かされてその友人を引っぱり出して探索に出かける。

富士宮市の浅間神社を横手に身延線と合流、南へ5キロほど下り、富士川沿いに北へ。県境を超えると山梨で、ここで佐野川が富士川と合流している。井出から佐野川の上流を目指す。ダム湖の天子湖をやりすごし、さらに上流へ向う。岸辺にしげるマタタビの葉の一部が白化し、木漏れ日を浴びて輝く。梅雨入り前のぐずついた空模様。太陽が雲間にかくれて、道路が意味ありげに陰る。と、その大岩が忽然と姿を現した。全体はひしゃげた五角形。一部が岸にかかり、片側は流れにえぐられている。流れは清冽で、苔むした巨岩があちこちの岸にゴロリと寝転がっている。大岩の中心には太陽らしきものが描かれ、プリミティブな線が表面をのたくっている。

img005

あたりは緑が濃く、空気がねっとりと重い。天候のせいか、不気味な気配がしないでもない。スケッチをすませ、大きさの目安になるように岩に乗って証拠写真を撮った。帰り道、川下の無人だと思っていた店先で、オバさんがムシロを敷いて赤ジソの葉を取る作業をしていた。昭和16年創業のタバコ屋のオバさんに大岩のことをたずねてみたら・・・。

著者が50年来、続けてきた居酒屋とバー通いは、焼酎のホッピー割りでスタート。おおよそ1時間で神輿をあげ、仕上げは50.5度の七面鳥のレッテルの酒をストレートでダブルというのがお決まりのコースという。「酩酊はしない。鼻歌のひとつやふたつ出るぐらいに飲んだ翌日、宿酔いにはならないが妙に涙目になり、うるうるする。これを酔眼というのである」とわざわざ「追記」に書いている。

「50.5度の七面鳥のレッテルの酒」といえば<バーボンの王道>と言われるアメリカ、ケンタッキーを代表するワイルド・ターキーですな、サントリーの巨額買収で話題になった。今夜も著者のいう獣道をいそいそと辿り、どこかの店の片隅で飲っているかな。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (42) 石山文也  オライオン飛行

  • 2016年10月13日 17:57

どんな風の吹き回し?と言われるかもしれないが、久しぶりに恋愛小説を紹介しよう。あれ、苦手ジャンルじゃなかったの?と問われれば、読むのはいいけどここに書くのは、とはぐらかしておく。『群像』連載中から話題になった高樹のぶ子の『オライオン飛行』(講談社)は9月末に単行本化されたばかり。新刊コーナーで「第二次世界大戦前夜、日本に墜落したフランス人飛行士と歴史の闇に隠された恋―恋愛小説の名手が史実を基に大胆に描く時空を超えた恋のミステリー」という帯に惹かれた。

高樹のぶ子著『オライオン飛行』(講談社刊)

高樹のぶ子著『オライオン飛行』(講談社刊)

オライオン(Orion)は星座の王者・オリオン座で知られるギリシャ神話の巨神オリオンの英語読みである。初冬に真東からあらわれ、冬の間は南の空高く全天を支配し続け、春になると真西へ沈んでいく。中心は日本でも昔から名高い二等星の「三つ星」が一直線に並び、これを囲むようにふたつの一等星とふたつの二等星が平行四辺形をつくる。天文マニアならアルファ、ベータ、ガンマ、カッパなどの名前とそれぞれの位置まで言い当てるかもしれない。オリオン神は海の上を陸上と同じように自由に歩くことができたことから星座になっても<天上を駆ける狩人>とされた。

1936年(昭和11年)フランス人冒険飛行家で32歳のアンドレ・ジャピーはパリ―東京間を100時間以内で到達できるかを競う空の賞金レースに参加していた。28歳で飛行機の操縦資格を取ったアンドレは翌年早くもパリ―アルジェ間のタイムレースを制し、パリからオスロ、チュニス、サイゴンまでの各レースでも新記録を達成してレジオン・ド・ヌール勲章を受けた。使用機は本来の青色を赤色に塗りかえたコードロン・シムーンで、11月15日の日曜、間もなく日付が変わる夜の11時46分、パリ郊外ル・ブルージェ空港を飛び立った。ちなみにシムーンというのは型式名でサハラ砂漠を吹く熱風を意味する。『星の王子さま』の作者として知られるサン=テグジュペリがリビア砂漠に墜落したときに操縦していたのも同じ機種である。

空冷式6気筒エンジンは排気量8千CC、220馬力の4人乗り単発プロペラ機。木製で全長8.7m、布張りの主翼の面積は16㎡、両翼間の幅は11m、重量は1,240キロだった。テグジュペリの機には整備士が同乗していたが、あらゆる故障に対応でき、天測の技術があったアンドレは整備士を乗せず懸賞飛行には有利な単独飛行を選択した。今回もコックピットの中は操縦席以外の座席を取り払って燃料タンクに改造し、給油目的の着陸を最小限にすることを狙った。最高時速は350キロ出せたが巡航速度を270キロに抑えても毎時50リットルのガソリンと1.25リットルのエンジンオイルを消費する。シリア・ダマスカス、パキスタン・カラチ、インド・アラハバッド、ベトナム・ハノイを経由して香港に着陸したのは3日後の18日午後5時10分、パリからの合計時間は55時間と15分だった。

ここで季節外れの台風に遭遇して一晩の足止めを食う。運命の19日朝、ようやく暴風は収まったものの強風下を日の出1時間半前に離陸した。台風を避けるため海岸に沿って6時間後に上海上空を通過、ここから東シナ海を一気に横断して日本をめざした。とはいえ逆風に阻まれエンジンの出力を最大限にしてもなかなか進めない。アンドレは少しでも風の影響を減らすため海面すれすれ10mほどを飛ぶことを選んだ。海面にたたき落とされれば助かる見込みも機体の発見も難しい。香港を発ってようやく10時間後に長崎県の野母崎半島を確認したが、絶えざる風との格闘で、どう計算しても燃料は東京まではもたない数値であることが判明した。

東京からの無線のやりとりでやむなく福岡県の雁ノ巣飛行場に着陸して給油することを選んだが、その手前に立ちはだかったのは佐賀・福岡県境にある脊振山(せふりやま)だった。厚い雲に視界が阻まれたのと乱気流に巻き込まれて高度が稼げなかったのかは不明だが機は午後4時ごろ山頂付近に墜落した。もちろん作中ではここまでの苦闘や、墜落直前までの状況などを臨場感たっぷりに紹介する。立木をなぎ倒した機体は大破、足の骨折や頭部に裂傷を受けたアンドレは気絶、機体に挟まれて身動きできなかった。幸運だったのは燃料に引火しなかったのと山中にいた炭焼きの村人が轟音を聞いていたこと。急報を受けた消防団員や医者も追いかけるように現地へ向かった。夜間にもかかわらず機体が赤色だったのも発見を助けることになった。

「これってどこまでが史実なの?」と盟友の歴史ライター・蚤野久蔵に聞いたところ「昭和11年か。2・26事件と前畑ガンバレのベルリンオリンピック、それと例の阿部定事件が起きた年だね。ちょっと調べてみる」といつもの調子で答えて小一時間ほどして返事があった。

岩波書店の『近代日本総合年表』には「11.19 パリ・東京100時間懸賞飛行のフランス機、佐賀県脊振山山中に墜落」と2行しか載っていなかったけど、遭難翌日の20日に東京日日新聞(現・毎日新聞)が「号外」を発行していたよ。見出しを紹介すると「沸機佐賀縣下で墜落、ジャピー氏重傷を負う」、「脊振山中で機體は滅茶々々」、「ゴール目前に壮図挫折す」、「立木に衝突して墜落、重體だが生命別条なし」、「驚く沸大使館」、「海上横断の冒険?ジャピー氏のコース」とあるよ。見出しは旧字体で「ゴール目前に」は右から左だ。「重傷のジャピー氏」という説明の顔写真は、ヘルメットにゴーグル姿でなかなかの美男子じゃないか。俳優のジャン=ポール・ベルモンドみたい。これが事故後の写真だったら包帯ぐるぐる巻きだろうけどね。救出から佐賀市にあった九州帝大第二病院(現・佐賀県立病院)での治療経過なども各新聞にさまざま取り上げられて、当時としては大ニュース、美談てんこ盛りだよ、と相変わらずの<茶々入れ>だ。おまけに恋の話はどこにも書かれてないけど、面白そうだからその本を貸してね!と約束させられてしまった。

アンドレの操縦ぶりやレースに賭ける思い、着陸地でのさまざまなできごとはともかく、ここまでは「紛うことない史実」であることがわかった。では「史実には書かれていない恋」とは何か。

アンドレが搬送された九州帝大病院には日本語がわかる宣教師や長崎から来たフランスの領事らが手術に立ち会うなどものものしい緊張感が漂った。手術も含めて担当看護婦となったのが18歳の桐谷久美子、一年後輩で女学校時代からの友人の島地ツヤ子がサブをつとめることになった。そして恋に落ちたのは久美子だった。ツヤ子は「恋人争い」を演じたのか?いやふたりの恋の<すべての秘密>を抱えてその後の人生を生きた、とだけ書いておく。

久美子の弟の娘がひそかで、里山家に嫁ぎあやめを授かったが、あやめが16歳の時に自宅の階段から転落してあっけない最後を遂げた。あやめは生まれつき股関節の変形が原因で足が不自由なことから恋愛や結婚という<人並みの幸せ>をとっくに諦めている。福岡市内の短大を卒業後は父の再婚を機に実家を出て、いまはイタリアンレストランに住み込んでスフレケーキづくりの腕を磨く26歳である。母の遺品のなかに懐中時計と何枚かの写真があった。白衣姿で写真に写る久美子はなかなかの美人で子どものときから母から写真を見せられるたびに「自慢のご先祖さま」という思いを強くした。久美子は戦後も看護婦を続け、弟を大学にやった。まさにキャリアウーマンのはしりだったがあやめが生まれる前に亡くなった。なかでも写真の1枚にはドキリとした記憶があった。久美子はベッドサイドにタオルのようなものを胸に抱えて立っていて、ベッドには上半身を起こした首の長いハンサムな外国の男がいた。男は久美子と同時に笑ったような気配で、二人ともカメラを見てはいるのだが二人の間に通う親密な空気が写真の中に立ちこめていた。シャッターを切る瞬間にはお互いに顔を見つめて会話していたのではないだろうか。写真の裏にはアンドレ・ジャピー、1936年とメモがあって母からフランス人よと聞いた記憶がある。写真の中のアンドレ・ジャピーは手に懐中時計を持っていた。いまこの時計はあやめの持ち物になっているが数年前からは動かなくなっていた。

あやめは犬を散歩させる途中にある鉢嶺時計店に修理ができるかどうかを聞いてみることにした。66歳の店主、一良は腕のいい時計職人だったが2年前に妻を亡くしてからは閉店を先延ばしにしている。懐中時計の修理など何十年ぶりだから自信はなかったもののあやめの真剣さに心が動き、預かって金庫に仕舞っておいた。一方のあやめは休みの日に実家に帰ってあらためて母の残した写真類を探した。記憶にあった写真とともに見つかったのは多くの新聞記事やフランス大使から病院の主治医に当てた感謝の手紙などだった。記事は概ね美談で飾られていた。さらに銀行勤めの父親に頼んで調べてもらった九州大学の資料から島地ツヤ子の住所が判明し、孫が同じ場所で眼科医院を経営していることがわかった。ツヤ子本人は認知症をわずらって介護施設に入院していた。見舞いに行ったあやめが唯一、聞き出せたのは「ニワトリノハコ」というひとこと。それが医院に奇跡的に残されており、ツヤ子への書簡や久美子の日記が見つかった。それからも多くの偶然に助けられてあやめは「80年前の秘密」を探っていく。行き先だけ明かしておくとアンドレの故郷、フランス東部のボークールである。時計の修理に一役買った一良も介添え役として同行することになった。

読者はいくつもの情報のピースを頭に入れてあやめたちとミステリーの旅に出る。天才飛行家と美人看護婦がお互いに言葉が通じないなかでまさぐるように燃えた生涯で一度きりの、命がけの恋と別れ。読み終わったいまも久美子がアンドレに懸命に教えようとした日本語「セ・ツ・ナ・イ」が心に残る。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (41)  石山文也 旅の食卓

  • 2016年9月27日 16:20

北海道の石狩鍋から九州屋久島の焼酎を使った豚骨まで、紹介される「忘れられない味」はどれもが思わず<食欲が湧いてくる>のが不思議だ。エッセイストでドイツ文学者、池内紀のおとなの旅日記『旅の食卓』(亜紀書房)は、写真ひとつないのにそう思わせるのはなぜだろう。高級旅館や一流ホテル、料亭などはいっさい登場しない。ふるさとの風土と人々が育て守ってきた<庶民の味>ばかり。さあ、あなたならどれを味わう旅に出ますか?

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

著者は1940年生まれであるという。

食べざかりが戦後の窮乏期ときている。ひもじい思いをかみしめながら成長した。腹がへると、おなかが声を上げることをよく知っている。「グー」とうなったり、「クエー」と叫んだり、「グワー」とうめいたりする。子ども心にカラっぽの胃袋の中で腹の虫が七転八倒している姿を想像した。だから、グルメ自慢ではなく庶民の味をおいしく食べることに人一倍情熱を傾ける。「おいしく食べる秘訣は何?」と聞かれれば迷わず「腹が減っていること」と答える。少年期に身にしみて知ったとおり、空腹はいかなる料理にもまさる味つけをする。

たしかにそうである。著者がいう「わがルール」の一つがそこから生まれた。

「食事は三度ではなく朝夕の二度、省いた一度分は、空腹をもたらす調味料」。

そ、そこまではちょっと・・・

『石狩川と鮭』は、石狩川の下流域、石狩平野のまん中あたりにある当別町のビジネスホテルを足場にして3泊の取材行である。石狩川はアイヌ語の「非常に屈曲する川」を意味するイ・シカリ・ベツに由来するそうで北海道中央部の石狩岳を水源にして平野部に入って蛇行を繰り返しながら日本海に注ぐ。長さは信濃川、利根川につぎ国内3番目、流域面積は利根川についで2番目、日本を代表する大河である。道内きっての穀倉地帯となった現在からは想像できないが、探検家近藤重蔵が明治政府に提出した報告書には「水源までおよそ百里の間、左右うち開け候は平地沃野のみにて樹木鬱茂、夷人所々に住居、川上まで夷人粮魚(りょうぎょ)おびただしくこれあり」とあると紹介する。

ここでいう粮魚の代表はもちろん鮭である。ビジネスホテルのフロントには、第二、第三のおつとめといったタイプの年輩者がおられるもので、土地のこと、また夜の居酒屋にくわしい。そんな人の助言をかりる場合は知ったかぶりをしないこと。素直にきいてメモをとったりしていると、親身になって教えてもらえるというのが池内流の極意だ。「アキアジ(=鮭)ならここ」、「石狩鍋ならこちら」と地元イチ押しの店を地図にしるしをつけてもらうと、いざ出陣!

石狩鍋は漁師が食べていたのをそれぞれの料理店がメニューに取り込み工夫をこらした。はじめは単に鮭鍋、あるいはドンガラ鍋と言っていたものが、いつのころからかこの名前に落着き、北海道の鍋料理の代表になった。一番の特徴は、鮭の身だけでなく、頭も背骨も内臓も全部入れこむこと。生鮭の「あら」がうまいのだ。その点でいくと、「ドンガラ」の言い方がもっとも合っていた気がする。

ここまで書いたら何度か味わった店自慢の「合わせ味噌」と適度に煮込んだ野菜、蓋を取ったらグツグツ煮立つ音と鮭のあのじんわりした香りを思い出した。人気番組の裏アナウンサーではないが「もう、たまりませーん」。

二日目は少しはりこんで鮭料理のコース。はじめに背ワタの塩辛「めふん」、鮭味噌、塩引き鮭の焼物、飯(い)寿司、かじ煮、焼き漬、骨せんべい、酒びたし・・・。すべて鮭づくし。欲ばって平らげたので、腹を撫でながら、軒につるされた鮭のように口をアングリあけてホテルに戻ってきた。

当然ながら<食レポ>に留まらない。北海道に移住した元佐賀藩士で開拓者の子としてこの地に生まれたプロレタリア作家、本庄陸男(1905-1939)を取り上げる。肺結核により35歳で亡くなる前年の昭和13年(1938)に『石狩川』を発表した。これが代表作になる。本庄は石狩川を一つの川ではなく、生死のはじめから語られた大いなる生きものであって、野の生きものと同じように季節ごとに姿を変える存在と書いた。冬は冬眠である。

「イシカリの原野を二つに区切るこの大河も冬は眠って了うのであった。水は底ひくくもぐって鳴りをひそめた。その上に雪が降り積っていた。川も全く姿をかくしていた」

そっと春の息吹がただよってくると、川がムックリと目をさます。雪が沈んで川筋を見せ始める。

「ぶきみな音を、うおンうおンと響かせる。閉めつけた凍氷を呪うような叫びが聞こえる。やがて春は、下から、地のなかからも来るのであった」

三日目もまた鮭料理、いささか食傷気味だったが教わった店に出かけた。鮭の店で鮭を避けるのは失礼なので三日続きであることを断わって「とびきりをちょこっと」と注文した。頭に白い鉢巻をした主人は頬をふくらませて思案してから、小皿をいくつか並べてくれた。串に刺した鮭の心臓の塩焼き、軟骨の「ひず」、皮とすり身とはらこを一緒に煮た「こかわ煮」、白子の刺身、みそ汁には内臓が入っていた。

なんともうらやましい「鮭修行」ではないか。

『播州のそうめん丼』では生まれ故郷だけに、生産地の中心の「龍野そうめん」のうんちくが面白い。銘柄は市中を流れる揖保川にちなむ「揖保乃糸」だけ。手延べそうめんは播州のあちこちでつくられているが、龍野にある兵庫県手延素麺協同組合が一手に製品を管理して、合格したものをこのブランドで出荷するからだ。もうひとつ、龍野で有名な醤油は協同組合の大工場が、麹づくり、仕込み、醗酵、圧搾までの工程を一手にやって「生(き)揚げ」と呼ばれる醤油のもとにする。そののち、配分された各社で独自の味つけをしてそれぞれの銘柄で市場に出荷する。地場産業ならではの知恵だ。私の知る奈良大峰山の登り口、天川村に共同の製造所がある伝統薬の「陀羅尼助(だらにすけ)」は醤油方式に近い。下痢止めや胃薬として用いられ<和薬の元祖>といわれる。丸薬にしたのが飲みやすさから今は製造の主流となった「「陀羅尼助丸」である

「そうめん丼」は龍野のうどん屋でたまたま食したそうで、丼鉢にごはんを盛り、上から野菜をたっぷり入れた味噌汁仕立のそうめんをぶっかける。「冷や飯に熱い汁がしみて、なんともうまい」という。ふー。

もうひとつ、『長崎のカツ丼』はこうだ。

まず容器がいい。丼は丼鉢がつきもので、大ぶり、厚手、まん丸い蓋付き。全体がお多福の頬のように福々しい。おいしく食べるということの幸せを、まさしく容器であらわしていて、アツアツを、しばらくうれしく撫でまわしている。蓋をとると、フワリと湯気が立ちのぼる。いっしょに仄かな匂いが鼻をくすぐりにくる。知られるとおり丼物は上の具と下の飯からなりたっており、正確にいうと、下の飯は二種類あって、おしるのしみたところと、しみていない白いごはんのところとがある。わが独断であるが、その比率七・三といったところが望ましい。おしるのしみていない白いごはんが大切なのだ。三くち四くちとしみたのが続くと、舌が重くなる。そんなとき白いごはんを口に運ぶと、舌が浄められたぐあいで、味覚が再び活気づく。

おしんこをつまんでひと息入れ、目分量で勘案する。具の残り、おしるのしみた残り、白いごはんの残りと、せわしくかきこんでいるようでも、きちんと味と量の配分をしながら、一つぶ残さず、きれいにたいらげた。丸い丼物はそれ自体が胃袋の形と似ており、中身がそっくり鉢から袋に移動した。手にした鉢の重みが胃袋に移り、鉢にしたのと同じように、われ知らず腹を撫でていた。

おっと忘れるところだった。巻末に特別付録:イケウチ画伯謹製「旅の絵はがき」3葉が付いている。旅先で思い出した誰かさんにあなたの「旅日記」を出すというのも一興かもしれない。

(こちらもお腹が空いたので)ではまた