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新・気まぐれ読書日記 (54) 石山文也  話術

  • 2018年5月12日 08:28

行きつけの書店の<新刊文庫コーナー>で見つけた徳川夢声の『話術』は、カバーを装丁した平野甲賀の独特な書体に“手招きされた”ようで、迷わずレジへ。帯にあるような会議、プレゼン、スピーチには最近はトンと縁がないし、いまさら「話し方の教科書」でもあるまいが、ま、それはそれ。巻末に「50年の怠慢を経て名著を読む」を寄せたフリーアナウンサー・久米宏のように<襟を正して読む>ことにした。


徳川夢声著『話術』新潮文庫=新潮社刊

とはいえ、この時期になっても書斎では冬の延長のフリース上着なので正そうにも襟がない・・・などと考えるうち、盟友の歴史ライター・蚤野久蔵が連載『書斎の漂着本』に夢声のことを書いていたのを思い出した。たしかあれは彼の「戦中日記」を引用した作品だったはず、と調べたら昭和26年9月に出版された『負けるも愉し』(二十世紀日本社刊)で49回から3回もの連続なのでよほど面白かったのか。

 

聞いてみると「夢声老の、あ、ごめん、若い頃から老人めいた雰囲気があったからそう呼ばれているのだけど彼の著作の中でいちばん版を重ねたのが『話術』だ。何冊かあるから他にも参考になりそうなのと一緒に届けておくよ」と。何冊も?大論文を書くわけじゃないのに、とは思ったがせっかくなので好意に甘えることにした。

 

徳川夢声(1894-1972)は、島根県益田生れで本名は福原駿雄(としお)。父の庄次郎は地元の警察官だった。三歳のとき、看護師を目ざす母、父方の祖母と上京後、間もなく母は幼いわが子を神楽坂の路上に置き去りにしたまま、年下の恋人のもとへ出奔する。それを知った庄次郎は遅れて上京し協議離婚が成立する。祖母に育てられた駿雄は子供の頃から独学で覚えた落語を教室で披露する人気者だった。東京府立一中(現・日比谷高校)時代には寄席に通い活動写真にも触れる。卒業後は落語家を目ざすが父親の反対で頓挫。「高座に上がるのは世間体が悪いがくらがりで話す“カツベン”ならいい」ということで進路を変えて活動写真の世界へ。見習い弁士・福原霊泉としてデビュー、洋画専門の赤坂葵館に転じたさいに館から「葵」にちなんで「徳川夢声」の名を貰う。慣例だった作品紹介の「前説」を排し、本編も美辞麗句を並べた七五調ではなくリアルな語り口を心がけるアイデアで頭角をあらわした。一方で宣伝誌『週刊アフヒ(=葵)』を創刊すると毎号のように夢声を絶賛する投書が寄せられた。

 

27歳で葵館を辞めてからもさまざまな映画館から引き抜かれ、一方で弁士以外のキャリアにも磨きをかけていく。当時の人気弁士や有名俳優が得意芸を披露する「ナヤマシ会」の世話人をはじめ、ユーモア小説の執筆や試験放送の頃からラジオ出演などを経験した。映画がサイレントからトーキーの時代になると弁士を廃業し、俳優や漫談家、文筆家として活躍の場を広げた。昭和14年(1939年)、ライフワークとなる吉川英治原作『宮本武蔵』を初めてラジオで朗読。戦後は日本初のラジオクイズ番組となったNHK「話の泉」に出演、テレビ放送が始まるとレギュラー番組を多く抱える<元祖マルチタレント>として圧倒的な存在感を示した。その中心となったのは磨き続けた“話術”で生涯に百冊以上の本を出したなかで『話術』はもっとも売れたロングセラーとなった。

 

これ以上は冒頭に紹介した久米宏や解説のライター・濱田研吾の「東京を愛した“雑の人”―徳川夢声について―」に譲るが、夢声が多用した「ハナシ=話」、「マンダン=漫談」の<夢声流表現>はそのままに『話術』の魅力に迫ろう。

 

ハナシというものは、実に実に大切なものです。

どのくらい大切なものか?それはハナシというものの封じられた人生を、よく考えてごらんなさい。

ハナシは、太陽の光や、空気や、水や、あるいは食物(くいもの)や、住居(すまい)や、着ものや、そうした生活に是非とも必要なものと同じように、人間の生活には絶対必要です。

ところが、それほど大切なハナシというものが、あんまり研究されておりません。いや、少しく大袈裟にいうと、まるで放ったらかしでありました。

放ったらかしの一番好い例は、私という、いわばハナシを稼業(しょうばい)にしている男が、実は研究らしい研究は、ほとんどしていなかったということです。

 

と書き出す。食物、住居、稼業にわざわざ振り仮名を添えたのは夢声の話ぶりをなるべくそのまま紹介したかったから。我々団塊の世代ならラジオやテレビを通じて彼の肉声に触れたことがあると思うからでもある。『話術』は総説、各説に分けて誰でもが学べるように微に入り細にわたり展開されていく。決して大上段に振りかぶるのではなくて夢声のあの話ぶりそのまま。ここまで読んだだけで見事に読者である私の心を捉えてしまうが油断はできない。

 

ハナシはだれでもできる。だれでもできるから、研究をしない。だれでもできるから、実は大変難しいものである。総説の第一章「話の本体」はこうまとめられる。だれでもできるから、実は大変難しい。続けて痩せても枯れても、私は専門家、くどいようだが第一人者とか、ときによると大御所なんて声がかかる人物ですぞと言いながらハナシとかマンダンというものは、日本中に名人がザラにいて、第一人者が充満しているわけです、とくる。本職と素人の差は突きつめて言うと「それによって生計を立てるか否かということ」と言うものの「本職はウマくて、素人はマズい」と決まれば問題は簡単だが、それがなかなかそうは行かない。巧拙にしても聞いてみて、これは巧い、これは拙い、と感じるだけで、別にメーターみたいなものがあるわけではない。「天狗は芸の行き止まり」とはいえ、世の中にはテングが充満していて素人の巧い人より、はるかにまずい本職がいる・・・。

 

―ハナシほど楽にできるものなし。

―ハナシほど骨の折れるものなし。

この二つの相反している言葉が、話術の上では、両方とも本当なのである。

 

「座談十五戒」「演説心得六カ条」などいずれも要点をわかりやすく解説するがここでも一見相反する要素が多く紹介される。

 

印象に残ったのはこの挿話。フランスの名優がある有名な劇作家と宴会の席上で「演技が大切か、脚本が大切か」と大激論になった。脚本が俳優の演技より重要だと譲らない劇作家に名優は「ではここのメニューを読んでここにいる諸君を全部泣かせてみせよう」と悲しい台詞の口調で読み始めると満座の人々がすっかり感動して涙を流した。もうひとつの寓話「蟻とキリギリス」も読み方ひとつで蟻に同情させたり、キリギリスに同情させたりできるという正反対の例を挙げて間の取り方、声の強弱、明暗、コトバの緩急などのコツを紹介する。

 

ところで蚤野が届けてくれたのは、昭和22年に秀水社から初めて出版された『話術』(=左)と同じく25年に版元が白楊社に移ってからの『話術』(=右)、翌26年に姉妹編として同社から出版された『放送話術二十七年』で、いずれも初版本。それにしてもよく集めたものと感心する。もう一冊は講談社吉川英治歴史時代文庫の『宮本武蔵(八)』。全8巻のなぜか最終だけなのでその理由を聞くと「揃って届けるとあなたの場合、原稿そっちのけで読んでしまうでしょ。それに佐々木小次郎とのあの巌流島の対決はこの最終巻だから」と。余計なお世話だ。

もっとも『話術』のほうは今回の新潮文庫では漢字や仮名遣いなどが新しくなっているので参考になる程度だな、と思いながら二冊を眺めるうち、秀水社版は終戦直後の物資不足の時代だったのでこれがそのまま表紙だが写真右の白楊社版をめくるとあら不思議、本体は出版社が別なのにデザインはまったく同じではないか。

それがこちら。煙をあげるタバコはショートピース。夢声がいつもくゆらせていたのをそのままデザインにしたのだろうが、それがまったく同じということはいくら多忙を極めていたとはいえ本人も当然、了解済みだったのだろう。

ついでに姉妹編の『放送話術二十七年』も紹介しておくがこちらは別のデザインである。

ラジオ、テレビの草創期に「物語放送」の定番スタイルを創造した夢声は放送台本に青鉛筆で書き込むのを習慣にしていた。それを「眼で読む文章を、耳で聞く文章に替える」と表現する。赤でなく青鉛筆だったのは訂正ではなく自己流の改変だったからか。

 

吉川英治の『宮本武蔵』で巌流島に向う舟で武蔵が船頭と語る場面。

「思い出した―この辺の浦々や島は、天暦の昔、九郎判官殿や、平知盛卿などの戦の跡だの」

眼で読めばこの「思い出した」がオカしくない。しかし私は「思い出した」を「ふーむ」に替える。「ふーむ」という声の響きに、思い出した感じを含ませる。聞いていて、その方が自然なのである。

 

―舷(ふなべり)から真っ蒼な海水の流紋に・・・。

この「流紋」を私は、ただの「流れ」に替える。眼で眺めれば「流紋」とは面白い文字であるが、これが耳で「リューモン」と聞いたとき、おそらくわかる人は幾人もあるまい。

 

―「武蔵か」厳流(=佐々木小次郎)から呼びかけた。彼は、先を越して、水際に立ちはだかった。

これを私は、次のように替える。

―「武蔵か」厳流は、先を越して、水際に立ちはだかった。

なぜかというと「武蔵か」という呼びかけは、声で表されるのだから、呼びかけたという説明の言葉は要らないからである。

 

なるほどなるほど。講談社文庫の『宮本武蔵』を確かめるまでもない。蚤野へは彼の好きな缶ビールでもお礼に差し入れておこう。

ではまた

 

新・気まぐれ読書日記 (53) 石山文也 琥珀の夢(その2)

  • 2018年2月3日 19:05

気の早い読者ならタイトルが『琥珀の夢』だから、信治郎いよいよウイスキーに挑戦するのか、と思われるかもしれない。とんでもない。明治・大正のこの時代、日本酒の需要に比べれば洋酒は微々たる需要しかなく、輸入販売でまかなえたから国産ウイスキーを手がけるという発想すらなかった。たとえ技術や生産設備があったとしても熟成されたウイスキーが商品となるのに早くて5年、ことによっては10年の歳月、まったく利益を生まない時間をかかえなくてはならない。利どころか、借り入れた金の利子を払い続けなければならない。世に幾多の商人がいてもこれまで誰一人として挑んだことはなく、それを「夢」として追いかける信治郎が<酔狂の極み>と言われながら挑戦を始めるのは表紙を紹介したこの下巻でも後半3分の2を過ぎてからである。さまざまな試行錯誤や戦争、天災地変、失敗や事業の撤退などをいちいち書き留はしないがもう少しお待ちいただきたい。


伊集院 静 著『琥珀の夢 下』集英社刊

 

開業9年目、寿屋洋酒店と名前を変えて間もなく誕生したのが「赤玉ポートワイン」である。作業場に籠ること丸二日半、新たな葡萄酒は昇る朝陽のようなお天道さんにあやかって「赤玉」と命名した。ラベルも気に入るまで何度もやり直させた。印刷所のオヤジとはこんなやりとりだった。

「あんさん、そんな赤色ではあかん。空にぐんぐん昇って行く朝陽の、あの真っ赤っ赤やないとあきまへん。一目見たら、あっ、これや、これが赤玉やと目に焼き付く赤やないとあきまへん」

「へぇ~、そやさかい、こうして三晩も店の職人と色出ししましたんだす」

「あかん、三晩やろうが、こないな赤色やあきまへん。すぐ戻って、やりなおしなはれ。あんさんとこの印刷なら博労町で一番の色出しがでけると見込んで頼んでんのや。銭はなんぼかかってもかましまへん。工場の方はもう赤玉がどんどんでけて、あんさんの仕事を待ってんだっせ。その子らに着せる着物だっせ。気張っとくれやす」

 

値付けも東京の「蜂印」葡萄酒を上回る1本38銭と米1升が10銭の当時、4升分に近い価格をつけることによって<真っ向勝負>に出た。とはいえ、販路拡大は自らの体力と持って生まれた愛嬌が頼りだった。四国への売り込みでは高松の得意先や松山の商人宿あてに100本ずつ送り、それを大八車に積んで大洲、八幡浜、宇和島、西条、新居浜をはじめ小さい町まで残らず回った。ひと回りする頃に顔は赤銅色に日焼けし、何度か草履を買い替えるほどで、知らない店では「漁師でもしとられましたかの」と聞かれるほどだった。

 

少し時期は遅れるが、寿屋第一号のポスターとなる赤玉のポスターは、女優の松島栄美子が赤玉の入ったグラスを手に何か言いたげな表情をみせるあのポーズが大評判となり世間を驚かせた。当時の常識からすれば大胆ではあったが半裸になっただけなのに日本初のヌードポスターと噂になり、赤玉を飲まない人たちからも、ポスターが欲しいとの申し出が殺到した。これも合格となるまでには実に1年近い歳月をかけてようやく完成したもので、後にドイツで開催された世界ポスター展で堂々の第一位を獲得した。

 

第一次大戦後は一時的に不況に陥ったが消費の増大が日本経済を下支えした。「赤玉」の売れ行きは地方都市で伸びていった。新聞広告も積極的に出し東京支店を開設するなど進出攻勢を本格化させた。国分商店を筆頭とする関東圏の問屋は信治郎の熱心な説得とさまざまな販売策により「蜂印」と対抗する葡萄酒として「赤玉」をプロモートし始めた。まさに自分の足で開拓した得意先の多さは強みであり、缶詰め問屋として十分繁盛していたから安売りをしなかったのも信用となった。この国分商店とは関東大震災直後に自ら準備した救援物資を海軍省に頼み込んで海路を運び、焼け残った社屋に届けた。集金に来たのかと心配する番頭に残った伝票を出させるとその場で全てを破り捨てて「これで決済は完了だす」と驚かせたエピソードも紹介される。

 

洋酒以外のさまざまな商品開発に信治郎は自慢の鼻と独特の勘で挑戦し続け次々に商品化していく。それでも国産ウイスキー作りへの道はまだまだ遠かった。

 

「誰もやったことのないことをやる」――信治郎のとてつもない夢は「赤玉」の好調な販売があったとはいえ、周到な準備と海軍のような洋酒党の開拓、資金にしても銀行だけではないスポンサーの確保、ありとあらゆる壁があった。

 

必要資金は大正期に入社した大番頭で秘書役でもあった児玉基治たちにこの先5年間で必要となる資金を試算させた。ようやく出てきたウイスキー蒸留所の建設費用は200万円を超えていた。当時の200万円は現在の金に換算すると十数億円になる。これに招聘する技術者の十年間の給与、材料費を加えると全ての金額がどれほどになるか見当もつかない。その上、そこに借り入れた金の利息がかかる。

 

壁のひとつが解決したのは中心となる技術者としてスコットランドで洋酒造りを学んで帰国した竹鶴正孝との出会いだった。京都・大阪府県境の山崎に作られた醸造所に仕込まれた原酒は眠りつづけた。10年間の契約のあと竹鶴は北海道の余市でニッカウヰスキーを興すが、残された原酒が目覚め「サントリーウイスキー12年もの角瓶」として日本特有の切子細工から発想を得た亀甲型のボトルデザインで登場したのは昭和12年だった。美しい琥珀色、黄金の色が売り出しから好調で国産ウイスキーの夜明けを告げるのにふさわしかった。

 

信治郎は「ようやっとでけたんやな。13年か・・・」と次々に入る「角」の注文を聞きながら山崎蒸留所が完成してからの歳月を思っていた。

 

今夜あたり、私もグラスを傾けながらもういちどこの本の余韻に浸ろうと思う。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (52)  石山文也 琥珀の夢(その1)

  • 2018年2月2日 18:40

明治12年の年が明けてほどなく“商いの都”大阪、道修町に近い釣鐘町の一角でひとりの男児が産声を上げた。江戸期から両替商を営む三代目鳥井忠兵衛、こまの第4子、次男で信治郎と名付けられた。道修町は江戸時代から薬種問屋が集まり「薬の町」として知られる。現在では田辺三菱のほか、武田薬品工業、塩野義製薬など日本を代表する製薬メーカーが本社を構えているものの「どしょうまち」と正確に読めた20代は10%を割り込んだことがつい最近もニュースになった<なにわ難読地名>のひとつである。

『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(伊集院 静、集英社刊)は、その次男坊を主人公にした小説である。13歳で道修町の薬種問屋の丁稚となり、薬種以外の合成葡萄酒の製造などを学び、20歳で鳥井商店を興すと洋酒造りと販売にまい進していく。研究を重ね「赤玉ポートワイン」を発売、さまざまな新事業、新製品開発にチャレンジするなかで周囲の大反対を押し切って日本初の国産ウイスキーの製造事業に乗り出した。鳥井商店は寿屋、サントリーと社名は変わるが、戦争などさまざまな苦難を乗り越えて世界有数の企業となったそのバックボーンには信治郎の「生き方」があった。

いわゆる企業小説や経済小説とは縁がなかった著者が日本経済新聞からの執筆依頼を引き受けたのは「信治郎の生涯を書くことは日本人の仕事に対する考え方、ひいては日本人とは何かということにつながると思ったからだ」と新聞インタビューに答えている。

伊集院 静 著『琥珀の夢 上』集英社刊

 

信治郎は三歳の頃、死地をさまようほどの重い病にかかった。このとき、信心深かった母のこまは御百度参り重ねたが、治ってからは決して体躯の大きくなかった息子の足腰を鍛えようと手を引いて天満天神や四天王寺へ連れていった。人が集まるこうした場所には物乞いがずらりと並んでいた。天神さんへ向う天神橋も別名“物乞い橋”と呼ばれ、橋が近づくとこまは信治郎に小銭をくれるが「お銭(ぜぜ)あげたかて振り向いたらあかんで。振り向いたらあかんよってにな」と鬼のような顔で言い聞かせた。少しでもキョロキョロしようものなら恐ろしく強い力で手を引っ張った。普段やさしい母が、どうして物乞いに施しをした後、彼らを振り向いて見てはならないときつい口調で命じたのかはずっと疑問だったが後年、ある意味の「陰徳」ではなかったかと思い至ったという。

 

信治郎が丁稚奉公に入った小西儀助商店は、倒産寸前まで追い込まれた店を彦根の薬屋で修行を積んだ奉公人だった店主が当時大阪にはなかった薬を刻む技術で借財を完済して身代をつないだ。研究熱心で知られ、店の仕事が終わった後の夜鍋もいとわなかった。信治郎は他の丁稚仲間が敬遠するこの手伝いを進んでつとめるうちさまざまな薬品の調合や活用知識を蓄えていく。手がけたのは合成葡萄酒、ブランデー、ベルモト酒はいまのブランデーである。失敗を重ねながらも実験の手控えだけでなく頭の中に膨大な知識が詰め込まれていった。近江商人に伝わる商売のやり方である<売り手良し><買い手良し><世間良し>の「三方良し」の精神も教わった。「商い言うもんは、山を見つけたら誰より先に登るこっちゃ。人がでけんことをやるのが商いの大事や」ということも叩き込まれた。

 

鳥井商店を開業したのは明治32年2月1日。京町堀と阿波掘にはさまれた細長い土地の間口2間の狭い店だった。商売の中心地の船場とは川を隔てた西へ延びる一画で、淀川から船で入る葡萄酒樽などは店の真裏から直接荷揚げできた。商いの中心となる葡萄酒の製造販売には欠かせない製瓶商が近くにあり、甘味を出すのに必要な砂糖商もある。何より大切な得意先の外国人居留地が橋を渡った中州にあったから、注文を受けるにも納品にも最良の場所だった。自前の「向獅子」ブランドの葡萄酒は東京、大阪だけでなく名古屋、九州圏でも国産のシェアトップの東京の「蜂印」には歯が立たない。経営の基盤となったのは缶詰、洋酒、炭酸水などで、店頭に置いてもらえたとしてもお付き合い程度でしかなかった。しかも日清戦争で軍への大口納入話を仲介した男に代金を踏み倒されて店が潰れかけるなど苦労が続いた。

 

明治39年9月1日に信治郎は屋号を寿屋洋酒店に変更した。新しい門出に際し葡萄酒のラベルもあざやかな金粉を加えた印刷に仕上げ、店内に棚を設けて並べ、問屋にも同じように陳列してもらった。さらに4色の色彩絵具で商品名を浮き彫りにした檜造の宣伝看板を各問屋や商店へ自らが木工店の職人と出向いて掲げてもらうと手代にも看板のお守代として祝儀袋を忘れなかった。得意先を回るのに購入したのは当時、百円、現在なら50万円以上もした輸入品の「ピアス号」で、昼間の船場界隈を「すまへーん、すまへーん、気い付けておくれやす、すまへーん」と猛スピードで走り回った。

 

購入先の五代自転車店の丁稚だったのがのちの松下幸之助で幸吉どんと呼ばれていた。修理したピアス号を届けるシーン。

棚の葡萄酒を珍しそうに眺める幸吉少年に信治郎は

「ところで今、何を見てたんや」

「す、すんまへん。こ、この棚の葡萄酒があんまりきれいなんで、つい見惚れてもうて。ほんまにすんまへん」

「何も謝ることはあらへん。坊の目にこの葡萄酒が綺麗に見えたか。そら、嬉しいこっちゃ」

「坊は故郷(くに)はどこや?」

「和歌山の海草だす」

「そうか、坊は紀州か。紀州は昔からええ商いがでける商人を出しとる土地や。坊も気張るんやで」

嬉しそうに信治郎を見返した目に強い光があったのに気付くとさらに続ける。

「坊には見どころがある。この棚の、この葡萄酒が綺麗やと思えることが商いの肝心のひとつや。商いはどんなもんを売ろうと、それをお客はんが手に取ってみたい、使うてみたい、この葡萄酒ならいっぺん飲んでみたいと思うてくれはらなあかん。それにはどこより美味いもんやないとあかんのや。ええもんをこしらえることが肝心や。ええもんをこしらえるためには人の何十倍も気張らんとあかんのや。そうやってでけた品物には底力があるんや。わかるか。品物も人も底力や。坊、気張るんやで・・・」

信治郎は丁稚の頭をやさしく撫でた。

 

この少年がのちに“経営の神様”と呼ばれる人物になろうとはお互い知るよしもなかったが二人が大阪から日本全国に商いの規模をすさまじい勢いでひろげ、やがて日本有数の企業となってからも、船場出身の商人として、互いに助け合う日々が来る。

(以下続く)

新・気まぐれ読書日記 (51)  石山文也 牛車で行こう

  • 2017年9月20日 10:29

購読紙の書評を読んで行きつけの書店に注文したら珍しく「版元重版待ち」とのこと。次はこれ、と意気込んでいた『牛車で行こう!』(京樂真帆子著、吉川弘文館刊)は副題に「平安貴族と乗り物文化」とあるから地味でマニアックな分野と思ったのが外れた。著者は私が住む滋賀県の県立大で人間文化学部の教授をつとめる。地元のチェーン店とはいえJRの駅を利用する際に立ち寄る小ぶりな書店なので新刊が必ず店頭にあるとは限らない。それにしても版元にもないとはよほど書評が<受けた>からなのか。この「読書日記」で書評子を紹介したことはなかったが入荷まで数週間待たされたので<勝手な思い込みかもしれないけれど>と断った上で清水克行・明治大教授(日本中世史、社会史)と明かしておく。見出しも「間違いだらけの車選び」。自動車評論家として活躍した徳大寺有恒の「間違いだらけのクルマ選びシリーズ」を思わせる。和歌でいえばまさに<本歌取り>、全国紙だけに私と同じような購買行動に走った?歴史好きが多かったのではあるまいか。

京樂真帆子著『牛車で行こう!』吉川弘文館刊

「職場での地位もそこそこ上がって経済的に余裕もできた。そろそろ憧れの牛車でも買って平安貴族のようなカーライフを満喫しようかというセレブにオススメな本がついに刊行された」と始まる。【車種】、【乗り心地】、【乗り方】、【マナー】と続くが【車種】を例に取ると、まず大事なのは車種選び。唐車(からぐるま)はベンツ、檳榔毛車(びろうげのくるま)はクラウン、網代車(あじろぐるま)はアクア。清少納言は檳榔毛がイチオシのようだが、やはり自身の分を弁えて、愛車はしっかりと選ぼう。それぞれの注意点を平安時代風にいうと面白おかしく「へうげて」続き、最後は「牛車を買おうという気のない人でも、牛車をめぐる悲喜劇を読むだけで十分に楽しめるだろう。また同時に古典や日本史の理解も深まること請け合いである。牛車は高価な買い物だが丁寧に扱えば数世代にわたって乗れる。買ってから後悔しないよう、購入を検討している人は、ぜひ事前に本書を熟読してほしい」と笑わせる。

 

ところが届いた本を実際に読んで意外だったのは「ベンツ、クラウン、アクアのたとえ」は著者が実際の授業で牛車の車種を学生に説明するときに使っていた。何だ、そうだったのか!その愛車はクラウンと同じトヨタのアクアというから、これも現代っ子たちには分かりやすく人気授業であるに違いない。

 

あらためて「車を選ぼう」で車種と身分・階層について。

そもそも牛車に乗ることができるのは、中流以上の貴族であって、逆に言うと、牛車に乗ることが貴族身分を表すことになる。荷車ではなく人が常用する車が広まっていったのは(=平安時代のはじめ)9世紀頃と考えられている。牛が引く車に乗るという習慣はまず女性貴族から始まり、徐々に男性貴族に広まっていった。牛車の中でも最高級車は唐車で唐庇車(からびさしぐるま)とも呼ばれ屋根の形に特徴があり今で言う高級外車のようなもので天皇や皇后、摂政、関白が乗るものだから平安京内でもそう簡単に遭遇できる車ではなかった。

 

次のランクは檳榔毛車で毛車(けのくるま)ともいった。うちわなどにも使われた檳榔という植物の葉を裂いて糸状にしたもので車体を編んだ車で糸を煮沸するので色素が抜け車体は全体に白っぽくなる。車体側面に窓=物見がないのも特徴で、四位以上の位を持つ大臣や大納言、中納言といった上級貴族の公卿たちが乗ることを許された。次が糸毛車、中宮や東宮、女御などが乗る車で車体全体が色糸で覆われており、模様が散らされている。1953年、大映のカラー映画『地獄門』(衣笠貞之助監督)では京マチ子演じる袈裟という後白河法皇の姉の上西門院のお付き女性が敵の目を欺くために身代わりとなって唐車を走らせまんまと成功する。追手が「あ、上西門院様のお車だ」と言って追いかけ始めたのは、車種がそのまま身分・階層を示すものだったからで時代考証的にも正しいという。毎年10月に行われる京都の時代祭に登場する牛車である。

 

最も一般的に乗用されたのは檜皮(ひわだ)や竹を薄く削り、あるいは細く割った板を網代(あじろ)に組んだものを車体に取り付けた網代車で、貴族が広く日常に使った。今でいう大衆車に相当し、女性が乗る「女車」、男性用の「男車」、はたまた身分を隠すためにいずれかを装ったものとさまざまあったからこれに乗るだけでは個人の特定はまず不可能だった。表紙に使われた京都府宇治市の「源氏物語ミュージアム」に復元されたのがこれにあたるそうだ。

 

『牛車で行こう!』はいよいよ佳境、平安貴族になったつもりで牛車に乗るシミュレーションに移る。まず大切なのは「牛車は後ろ乗り、前降り」というルール。後ろから乗るのはわかるとして前には牛がいるではないかと思われるかもしれないが、目的地に着くと降車のためにまずは牛を車から外して、少し離れたところに移動させる。これを「車かけはずさせ」といい、降車の邪魔になる牛をいったんどかせる。失敗例として挙げられたのは源平合戦の時代、北陸道を制圧して上洛した木曽義仲は官位を得て公家と同じように振舞おうとしたが生まれて初めての経験だったから大失敗をしてしまう。西国に落ちのびた平宗盛が京に残した牛車を使ったが後白河法皇の御所でそれを従者の雑色が教えてくれたのを無視し「いかに車であろうとも素通りなどすべきではないよ」と言い、後ろから降りてしまう。これが『平家物語』に書かれて、田舎者の武士は常識知らずととんだ笑いものになってしまった。

 

定員は4人乗り。『蜻蛉日記』などを引用して牛に近い前方が上座で前列右側が一番上席、その左側が二番目、後方左側が三番目、右が四番目となるが一人で乗車する際はふんぞり返ってまん中、ではなく前方左側が定位置になると解説する。身分の高い人と同乗する際に席順を間違えたりしたらとんでもないことになるし、嫌な人物と乗り合わせても用意してくれた人の手前もあるからひたすら我慢すべしと。さらに道で貴人の車と行き合ったらまず車を道端に停め、牛を外して車体を貴人の車に向けて傾ける。乗っている人全員が直ちに車を降り地面にひざまずいて心からのお辞儀をするのが礼儀という。車列が通り過ぎたら牛を元に戻して再度、乗り込むことになるが運が悪いとこれを何度も繰り返すことになる。それでも牛車に乗ることはステータスであり、決まりごとを守るのが当時の貴族の日常だから<歩いて行った方がマシ>とはならなかった。

 

車を引く牛にも詳しい。牛の着脱が牛車の運行の<鍵>であって車に牛をつけることを「車をかける」、牛を外すのを「車をおろす」と表現した。その牛にもランクがあり、とくに黄牛は「あめ牛」といい高級とされた。清少納言は『枕草子』にあめ牛が荷車を引くなど似つかわしくないと書き、このエンジン(=牛)は性能(=車を引く力)だけではなく見映えまでが評価の対象となったことがわかる。清少納言のお気に入りは、額は少し白みがかかっていて、腹の下、足、尾が白い牛。好みの牛飼童は大柄で髪が豊かで、赤ら顔の才気走った者であるという。才気走った者というのがいかにも「らしい」ですねえ。ところで近年の時代祭などに登場する牛は例外なく黒毛和牛である。牛飼童役も赤ら顔の若者なんていないからこちらも当世風のイケメンが選ばれる。

 

余談ながら『牛車で行こう!』というタイトル、私も一時熱中した電車運転シュミレーションゲーム「電車でGO!」を真似て『牛車でGO!』ならもっと面白いのにと思ったが(もちろん商標登録の絡みもあるからから無理だけど)著者は「あとがき」で、車は助手席ではなく運転席のほうが好きであるし、電車に乗ると運転席の後ろに陣取りたくなる。飲み会の後で教え子に連れられていった水戸のゲームセンターで「電車でGO!」を初めて体験した時には、学生にその席を譲ることなく熱中したものだったと書く。平安時代研究者としてリアルに牛車を描きたいという思いで書き綴ったこの本の根底にはわたしの乗り物好きがあるのだろう。平安京に暮らすように歴史を語りたい、というのはわたしの研究者としての信念でもあると結ぶ。こちらもお名前(=京樂)を<平安「京」を「樂」しむ>と覚えておくがなかなかお茶目というか、オモシロ真面目な方であろうと想像する。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (50) 石山文也 星の王子さま

  • 2017年8月11日 21:26

「そうか、この連載も50回目となるのか」と、取り上げた本が並ぶ書棚を見ながらささやかな感慨にふけっている。前身となるミニコミ誌への連載は、読んだ本の中から毎回、何冊かを紹介するスタイルの『気まぐれ読書日記』を計65回続けた。『Web文源庫』に移ってからは「1回1冊」に変えたが、取り上げる本や書くペースは同じく<気まぐれ>にさせてもらうことで、タイトルはそのままに「新」だけを付けた。初回は探検家・角幡唯介の『空白の五マイル』(集英社)だったがそれからの6年半はあっという間だった。多く読むジャンルや作者を聞かれれば「雑読です」とはぐらかすものの、新刊が出れば必ず読む何人かはいるわけで彼もそのひとりである。かといって同じジャンルや作者に偏らないよう、なるべく幅広い選択を心がけている。節目の50回目はさてどの本にしようかと迷ったが、所詮は通過点にしか過ぎないと思い直し、読み終わったばかりの岩波文庫創刊90年にして初めて文庫化となったサン=テグジュペリ作『星の王子さま』にした。訳は<歴史的名訳>とされる内藤濯(あろう)。子息でノンフィクション作家だった内藤初穂が残した誕生秘話満載の「備忘録」エッセイやテクジュペリの略年譜が収録されているのもうれしい。

 

サン=テグジュペリ作『星の王子さま』(岩波文庫)

 

時々に本を整理してきたが「たしか書庫にあったはず」と探したら第54刷(1992年7月10日刊)の単行本が見つかった。外函の底に「小学6年、中学生以上」とあるが、子供のではなくどこかの古書店で入手したのだろうか。もちろんこちらも内藤濯訳である。

『星の王子さま』(1992年刊、第54刷)

 

「岩波少年文庫」として1962年11月27日に発行され、10年目の1972年9月30日に大型単行本の体裁になり現在も再版されているからロングセラーとしては実に半世紀以上、読者に愛され続けていることになる。単行本化に合わせてこの年の初夏に書かれた「訳者あとがき」が今回の文庫化でも同じく再録されている。

 

この高度の童話を書いた人は、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリというフランスの作家です。1900年6月29日、リオンに生まれ、1944年7月31日、フランスの飛行中隊長として、コルシカ島の沖合を偵察しているうちに、姿を消したといわれている人です。20歳の頃からはやくも、航空に異常な興味をもちはじめ、なん度ともなく危地におちいったのでしたが、そのたびごとに、ますます情熱を燃やしつづけたほどの人で、それだけに、作家としての地歩もまた、たしかなものになったのでした。「南方郵便機」(1928)、「夜間飛行」(1931)、「人間の土地」(1939)などと作がつづいたのでしたが、それらの作の基調はといえば、北アフリカをはじめ、インドシナや南アメリカへと、いわば息つくひまもなく機翼をのばした人のいきいきした体験です。積雲と積雲との間を縫って“知られた世界と不可知な世界との国境”を身命を賭して感じた人の呼吸です。はるかな上空から見下ろした人間の土地の実相です。ところで、そういう異常人であるサン=テグジュペリは、1942年、北アメリカの客となっていました。

 

長く引用したのは、この「異常人」という表現が気になったからでもある。内藤はテグジュペリの人生をいい意味で「常人を越える」と表現したのだろうが、この言葉はここ半世紀で「異常な人」という負のイメージに変ってしまった。

 

それはそれとして続きを要約紹介すると、ナチスドイツに占領されたフランスを逃れてアメリカに亡命したテグジュペリは祖国に残した友人たちの悲境を思うと胸が痛んだ。なかでも若い頃から心を許しあってきたユダヤ人の親友、レオン・ウェルトのことがいちばん気がかりで、彼のためにこの物語を書いた。人によっては、この物語を逃避の文学と言う。苦痛となっている当面の問題、つまり祖国の急には触れずに、いわば散文詩風な美しい形で物語の筋を運んでいるからだが、人知れず心の底に燃えている憂愁なり信念なり待望なりは、さまざまな象徴となって読む人の心に迫る。見落としてならぬことは、散文詩風な物語が、一応は童話らしく見えても、つきつめると、童話を越えた魅力をもっていること。これこそは作者が子供時代との自然なつながりを絶えず念頭に置いて、それを新鮮ないのちの糧とした人だったから。「私のふるさとは、私の子供時代である。ある一つの国が、私のふるさとであるように」と強く言い続けた作者だけに「心で見なければ、物事はよく見えない。肝腎なことは目に見えない」という人間生活のほんとうの美しさが書かれている。喉が渇いた王子が航空士と手に手をとって、井戸を探しに砂漠を歩いて行く場面こそはこの作の絶頂だと、この作を読みぬいている誰もが言う。

――砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。

――家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ。

かようにぴたりと呼吸の合った言葉のやりとりがきっかけになって、王子の姿はまるで湯煙りのように空へ消えて行く。そういう「目に見えぬ美しさ」こそは、この作の最後の結びで、私(=内藤)は「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と言って演能の美を浮き彫りにした世阿弥の卓見をしぜん思い出す。

 

内藤初穂の「『星の王子さま』備忘録」では父の濯がこの物語を訳したのは満70歳の春で、第一高等学校や東京商科大学(現一橋大学)で永くフランス語を教えてきたが、翻訳を引き受けるまでその本の存在すら知らなかったことが明かされる。それを英訳本で初めて注目したのが当時、「岩波少年文庫」の編集顧問だった児童文学作家で翻訳家の石井桃子。濯は一読するなり宿命の出会いを感じた。なかでも序文の結びの「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」には身がすくんだ。さらに加えて、王子が試みる「星めぐり」を通しておとなの悪さもやんわりついている。その志の高さに言葉を失ったそうだ。原題は『ル・プチ・プランス(=小さな王子)』だが、濯は必ずしも王子のありようを写していないと感じて『星の王子さま』という新たな名を王子に与え、期せずしてロングセラーへの道を開いた。原作は数十ヶ国語に訳されているが原題を改めたのは日本語版だけである。当時は筆が持てないほど書痙(しょけい=手の震えや痛みを伴う病気)が進んでいたので、作業は口述筆記で行われ、出張筆記を担当したのが「岩波少年文庫」の編集員だった初穂の妻で毎週日曜日に行ったが原文のリズムを訳文に移す試行錯誤を重ねた。それは「日本語に砕くよりも、原文を活かし切る日本語を探して歩く、そう、散歩するような気持で、仕事に気が入りましたと話していた」と妻は回想している。たった一節一語をああでもないこうでもないとわずか一行に半日かかることも稀ではなかったという。

 

他にも多くのエピソードが紹介されているが、気になったのが略年譜もそこで終わりになっているフランスの飛行中隊長として、地中海で行方不明なったテグジュペリのその後。こういう雑学には詳しい歴史ライターの蚤野久蔵に尋ねたら、2003年9月にマルセイユ沖の海中からフランス空軍が第二次大戦中に使っていたロッキードP38型機が引揚げられ、その機体番号からテグクジュペリの搭乗機と判明したことを教えてくれた。さらに彼が今回の文庫の「王子のマントの色」を聞くので「緑色だよ」と答えたら、「持っていると言っていた単行本と比べてみたら面白いよ」と。そんなことってあるのだろうかと多少いぶかりながら確かめてみた。それがこちら。上がニューヨークでの初版の色に統一された緑色マント姿の王子、下はフランス版から続いた青色マント姿の王子である。

統一後の緑色マント姿の王子

フランス版以来の青色マント姿の王子

なんでも2000年のテグジュペリ生誕100周年に、それまで二種類あったマントの色を亡命先のニューヨークで先に出版された初版(オリジナル版)通りの「外側が緑で内側が薄い赤」に統一されたという。ニューヨーク版に遅れること2年後のフランス版出版当時、戦中戦後のどさくさもあって手がけたガリマール社は「外側が青で内側が赤」とした。その後、原画が見つかったことなどもあって遺族が統一を希望したのだそうだ。「テグジュペリ本人も緑色を<心の糧であり魂が落ち着く色>として大好きだったからね。喜んでいるんじゃないかな」と雑学の大家は付け加えた。

もし、みなさんも単行本の『星の王子さま』をお持ちなら、そのマントの色を確かめてみるのも一興かもしれない。

ではまた