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書斎の漂着本 (58)  蚤野久蔵 海女の島  

未来社刊の『海女の島』はフォスコ・マライーニによる舳倉島の取材記で昭和39年(1964)に出版された。表紙のような美人の海女さんがいる島がどこにあるかというと能登半島、輪島市の北50キロの日本海に浮かんでいて「へくら」と読む。ただし、いまはどこでもそうだけれど、体温やけがを守るウエットスーツが普及しているから念のため。

著者のマライーニはイタリア・フィレンツェ生まれの人類学者で戦前は北海道大学に籍を置いてアイヌの信仰などを研究した。戦後はイタリアに帰国したが昭和28年(1953)に再来日し、日本各地を巡って記録写真を撮影するなど写真家としても知られる。舳倉島での記録はイタリアのレオナルド・ダビンチ社から大型の写真集『リゾラ・ディ・ペスカトリーチ(=漁婦の島)』として出版されて話題となり欧米での翻訳版が計画された。日本語版は出版社側が同じ版型でなければと渋るのを著者が聞き、そのなかの代表的な写真と取材記の提供を快諾したことで実現した。これを詩人で翻訳家の牧野文子が著者所有のイタリア・ドロミテの山荘にこもって邦訳したことがあとがきに書かれている。

独特の潜水漁や風習を伝える海女の風俗は朝鮮半島や済州島あたりから海を渡って日本列島にやってきたとされる。古代中国の史書『魏志倭人伝』にも邪馬台国へ至るまでの国々の人々が「水に潜って好んで魚やアワビを採る」という記録がある。それが邪馬台国マニアとして海女に関心を持つきっかけになった。海女は対馬の豊、福岡の鐘崎、伊勢志摩、房総半島やNHKの朝ドラ『あまちゃん』で大人気となった北三陸などにいまも残る。私も北三陸以外は海女ゆかりの場所を何度も旅をしてきた。

img076はじめて舳倉島に渡ったのは平成3年(1991)春の連休で、その年の夏休みを利用して計画したシーカヤック仲間との遠征の下見だった。知人の伝手をたどって輪島市の知り合いを紹介してもらい、伴走船や宿舎を確保したうえで海上保安部の出先や警察にも顔を出して連絡船で島に向かった。このときは漁期ではなかったので海女さんには会えなかったが、民宿に一泊して島を見学した。一周5キロほどなので舳倉島灯台、龍池、奥津姫神社などを回っても2時間弱だった。島には荷物運搬のための三輪自転車やリヤカーだけで車はないので道幅といい、石を乗せた屋根といい、本の挿絵のイメージそのままだった。違ったのは石敷きの路面がコンクリートに変わっていたことぐらいか。

一行が東京から舳倉島に向かったのは昭和30年代の7月24日だったようだ。「上野駅発21時19分の列車の最後尾の車両に、18個の荷物と一束になって、息を切らしてなだれこんだ」とあるが、年号までは書かれていない。「探検隊」はマライーニ本人に、映画監督の経験のある村田さんとその若い助手・高橋、間際に同行を頼まれた<なんでもかんでも、日本をすっかり見たがっている>冒険好きのアメリカ婦人ペニーの計4人。荷物が多いのは水中撮影の機材一式に加えて、万一屋根の下に泊めてもらえない場合のためにテントや自炊道具なども用意したから。確かに探検隊と呼ぶにふさわしい。津幡で乗り換えて輪島にはようやく翌日の昼過ぎに着いた。輪島いちばんの宿・富士屋に落ち着くと翌日は一日がかりで米、野菜、酒、あいさつ用の土産物、布団、蚊に備えての蚊帳まで買いそろえて次の日に出る16トンの「舳倉丸」を予約した。

島に着くとお寺に宿を取った。修学旅行に来ていた男女6、7人の高校生と引率の先生も同宿で、彼らはもっぱら植物や昆虫採集、地質調査や魚類観察に懸命だった。探検隊はどうにか海女たちに接触しようとするが、いちばんの繁忙期だけに無視され続ける。写真機を持ち歩いただけで留守番の老婆や男たち、子供までが道や浜辺から姿を隠してしまう。肝心の海女たちは天候さえよければ昼間は夫が操る舟に乗って漁に出掛けている。夕方5時過ぎに戻ってくると船を陸に引き揚げ、漁具や縄などを家に運びこむと採ったアワビなどを仕分け直ぐに夕食の準備にかかる。海女は誰も疲れていることもあって話もしない。しかも暗くなる前に一家で食事を済ますと誰もが寝入ってしまう。まさに<取りつく島もない>とはこのことだった。出掛けていた漁業組合長が島に戻ってきても事態は一向に変わらなかった。「一年で働ける漁期はわずか3か月だし、島には何もない。きれいな旅館や映画を見に金沢においでなさいよ・・・」とまで言われる始末だった。

ある日の午後、マライーニたちはペニーを誘って島の反対側の岩礁地帯に出かけた。マライーニはその先でマスクをつけ海中銃を持って海に潜った。ちょうど出くわしたのが大きなタイで、狙いをつけて見事に一発で仕留めた。それを集落に持ち帰るにあたってマライーニはあることを思いついた。

「ペニー、元気を出してもらわなきゃならない。みんなのために一つ犠牲を払ってもらわなきゃ」
「いま僕たちは村へ帰るでしょう。僕が先に立って、君は何歩かあとからついてきて、だがスリップだけになって、胸をあらわにしてね」
「えー」
「たぶん、海女たちが、外国の女たちも彼女たちと同じようにしているのを見たら、ずっと近付きやすくなることだろうし・・・そう思いませんか」
「わかったわ。パブリック リレーションンズ バイ ストリップティーズ、エー(=裸で悩ます渉外ってわけね)」

間もなくこの小さい行列は村に入った。でっかいタイを担いだ手に海中銃をもった男が先に立ち、そのうしろから、健康法による裸体主義集団から出てきたような外人のストリップ一つの女が、全く無頓着にやってくるのである。夕方のいちばん活気のある時間だったので最初は誰も無頓着だった。舳倉では裸体の女なぞ森の中の木みたいなもので、日常あたりまえのことなのである。裸体の外人の女、哀れなペニーも例外ではなかったが「バネの付いた筒(=海中銃)」の奇怪な仕業で捕えた立派なタイは、確かに見ものであったのだ。はじめて彼らは騒ぎ出して、遠慮なぞというものはしなくなった。

こちらは<郷に入れば>ですねえ。いまならセクハラまがいの思いつきにしても。彼らの関心が集中したのは<まったくの添え物>だった海中銃だ。
「どんなにしてこのタイを捕まえたのかね。この変な物(=海中銃)をどういうふうに使うのか?売るならいくらだね?どう使うものだか、やって見せておくれ・・・」

その日を境に撮影も思いのほか順調に進んだ。漁のさまざまな苦労話から言い伝えや風習、奥津姫神社でのお祭の細かなことまで色々な人たちから取材し記録したし、どの舟に乗りこんでも大歓迎だった。戦時中、フィリピンで愛息を失った老漁師からは息子との思い出の舟をいまだに修理しながら使っている話を涙ながらに聞き出す。お盆の最終日にはこの老人と一緒に海へ帰る死者を送る小舟=お精霊舟の製作から載せるお供物、作法のすべてを見学した。

見て下さい。家の仏壇の前に供えてあったものをみな集めてススキの葉の束の中に包んであります。おにぎりがありますし、カブや果物があり、うどんがあります。ここに菓子、それから花――みんなこうした物を藁づとの中に入れて一艘の舟のように造り、それから舵、帆柱、帆揚げ綱、いろいろの小旗・・・。また海へ戻ってゆく私の息子よ、さようなら。来年までさようなら。

いちいち頷きながらマライーニ自身ももらい泣きしているようでもある。島人のひとりずつに寄り添って心を通わせることができたのもあの「思いつき」のお蔭だった。

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腰綱に挟んでいるのは貝を岩から離す「カイガネ」、右の写真は「サイジ」と呼ぶ木綿布を細かく刺しつけた一種の褌(ふんどし)である。

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私のほうは輪島で知り合った元校長さんの教え子という海女さんだった方のお宅にお邪魔して思い出話を聞いたことがある。たまたまこの『海女の島』も持参したが、彼女はこの本を見るのははじめだったようで写真を指さしながらこれは誰々とひとりずつ名前をあげた。そして右の写真に「これは私、若かったのねえ、あらー」と喜んだあと、何人かは亡くなったと寂しそうにつぶやいた。「昔と変わったのはウエットスーツを着るようになって若い人は水着を着たり色々です。時代だもの。私はサイジを思い出代わりに持っています」と引き出しから出して見せてくれ「手に取ってご覧なさい」とまで(たしか言われたか)。

私としては写真の美女が目の前にいるご本人だったことで“動揺”したうえに「手に取って」もいきなりだったこともあって「いやいや・・・」くらいは言ったかどうか。さらに「いくつもあるからよければ一枚差し上げますよ」と言われたのをあわてて固辞した。きっと顔まで真っ赤になっていたのでしょうねえ。持参した本は<お土産がわり>に彼女に進呈したから、戻ってからもう一冊を購入した。だからこれは2冊目、いまもこの写真を見るたびに顔を赤くしているあの時の自分を思い出すような気がする。

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