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書斎の漂着本 (48)  蚤野久蔵 花傳書  

つい最近、浜大津(滋賀県大津市)の古書店で偶然見つけた戦前版の岩波文庫の一冊である。他より1センチほど背が高かったから戦前のものと判断したが、背表紙が黒ずんでいて題名がほとんど見えなかったのを引っ張り出してようやく世阿弥の『花傳書』とわかった。もっとも長年の経験で書名などからその本の<正体>を確かめたとしても、興味分野でなければ徒労に終わるのが分かっているのに反射的にそれをやってしまうのは、古本マニアの習性というより、探索好きなヒマ人=私のクセに違いない。

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同じ棚に改造文庫の『近世封建社会の研究』(本庄栄治郎著)があったから奥に座る老店主に他の改造文庫はないのかを尋ねたが「あいにくこれだけですねえ。昔は時々出ましたけど・・・」という返事だった。他にも雑談をした手前、何も買わずに帰るのも申し訳なくて2冊とも買うことにした。とはいっても『花傳書』が150円、改造文庫が100円だったから、「まとめて」とか「思い切って」とは言えないけれど。世阿弥は例をあげると瀬戸内寂聴の『秘花』(新潮社)を読んだりして関心があった興味分野だったが、同じ岩波文庫の新刊(題名変更で『風姿花伝』)を持っていたから、あくまで「戦前版の岩波文庫なら、ま、いいか」と納得することにした。

店頭では奥付までは見なかったが表紙の中央に判読不明ながら直径4センチの円形蔵書印がわずかに残り、中表紙には「板倉」の丸印、裏表紙をめくったところに「東京京橋南伝馬町 中川文林堂 電話京橋一六四七番」のいわゆる古書店票が貼ってある。ということは最初に円形蔵書印を押した学校などの組織が新刊を購入し、その後不要になったか何かの事情で古書店の中川文林堂が引き取った。それを入手した板倉氏か、その後の所有者X氏、またはその親族が大津の古書店に売却した。いずれにしても<流れ流れて>湖国・滋賀にやってきたわけです。わざわざ「その親族が」というのは、古書業界ではよくある「没後の書籍一括売却」という意味。うちも私が先に死んだらそうなるだろうなあ!

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写真左が「戦前版」(野上豊一郎校訂)、右が「戦後版」、同じく野上・西尾実の校訂である。野上は夏目漱石門下で東京帝大の同級生には安倍能成や藤村操、岩波書店を創業する岩波茂雄がいた。法政大学の英文学教授を長くつとめ、戦後は総長として大学の復興に当たったが在職中の昭和25年に没した。戦前の理事時代には森田草平や内田百閒を教授陣に招いたことでも知られる一方でバーナード・ショーなどイギリス演劇の研究家でもあった。能楽研究者としても戦前、ケンブリッジ大学で世阿弥について講義し、自ら監修した能として初のトーキー『葵上(あおいのうえ)』を紹介して大きな話題を呼んだ。戦後版の『風姿花伝』は昭和33年に出版されたが、東京帝大の後輩でもあり、東京女子大学から野上と同じ法政大学で教授をつとめ国立国語研究所の初代所長に就任した西尾が手掛けた。「校訂者のことば」には生前、野上と改訂を約束していたことが詳しく紹介されている。写真は平成8年発行の第55版である。

あらためてこの戦前版を調べてなんと昭和2年11月5日発行の初版だったのには驚いた。岩波文庫171『花傳書』世阿弥作、野上豊一郎校訂、定価は二十銭である。「初版本コレクター」ではないことはこれまで何度か紹介しているし、むしろ再版のほうが、その後の増刷事情がうかがえるという利点もある。初版だったのはただの偶然だが、岩波文庫はこの年7月に「万人の必読すべき真に古典的価値がある書を低価格で広く普及させること」を意図して発刊された。発行者は当然ながら岩波茂雄である。体裁をうっかり「裸本」と紹介しようとして思いとどまったのは当時の岩波文庫にはカバーはなく、パラフィン紙をカバー代わりに巻くのも、日本・東洋思想(緑)、外国文学(赤)などと色分けの帯を導入するのも時代がかなり下がってからだった。

もうひとつ、戦前版はご覧になって上の「天」の部分がギザギザに見えるはずだ。専門用語でいうところの「天アンカット」。いわゆる<フランス装風>の雰囲気を出すためだそうで、切らないために却って手間がかかったので製本所泣かせだったという。

11月の『花傳書』で通番が171ということは初年度だけで200冊の刊行となるのではないかと『岩波文庫解説総目録1927~1996』で調べてみたら、初月の7月は夏目漱石『こゝろ』、幸田露伴『五重塔』、樋口一葉『にごりえ・たけくらべ』、倉田百三『出家とその弟子』、島崎藤村自選『藤村詩抄』、トルストイ『戦争と平和、第1巻』、チェーホフ『桜の園』など23冊を一気に発売した。8月はさすがにペースダウンして『古事記』、『芭蕉七部集』、アダム・スミス『国富論、上巻』など6冊、9月は『新訓万葉集、上巻』など3冊、10月はマルクス『資本論第一巻第一分冊』が初登場するなど16冊、11月はこの『花傳書』など9冊、12月は『東海道膝栗毛』、『徒然草』など13冊で計73冊だった。それにしてもすごい。

7月の出版開始は<生き馬の目を抜く>出版界にあって発売を“読書の秋”まで待たないというのが岩波の強行作戦だった。学校が夏休みに入った7月10日の朝日新聞に半ページ大の広告を出したから大きな反響があった。多くの激励と祝辞が全国から寄せられただけでなく、発売日にはたくさんの客が店頭に詰めかけた。なかには全点を買っていく人も多く、岩波自身も「本屋になってよかったと初めて実感した」と伝わる。しかも低価格とはいえ書店に対してはすべて「買切り制」だったから、出版界としても文字通り<空前の偉業>だった。「どこの町でも岩波文庫がひと通り揃っている本屋が、その町一番の本屋だと思われた時代があった」と山本夏彦の『私の岩波物語』(文藝春秋)にある。当然ながら「掛け売り」しても、在庫補充はすぐまた現金での仕入となり、書店の方も町一番にふさわしい財力が必要だった。

いつになったら「中身」の紹介をするのだと言われそうだが、ご存知の方も多いだろうから手短に。

一般には戦前版のように『花伝書』といわれるがくわしくは『風姿花傳書』。筆者は能楽を大成した世阿弥最初の能芸論書で「能楽の聖典中の聖典」とされる。世阿弥=観世元清の生年は1364年と伝わるが異説もある。没年も1443年とされるが配流先の佐渡で没したのか都に戻ったのかはこれまた謎である。第一の「年来稽古條々」から第七の「別紙口伝」までが順に述べられる。第一では、人の人生を「七歳」、「十二、三より」、「十七、八より」、「二十四、五」、「三十四、五」、「四十四、五」、「五十有余」の七期に分けて各時期の特質と稽古の仕方やその心構えを説いている。

平均寿命が当時とは延びているから現在に当てはめればかなりのズレはあるかもしれないが、たとえば七歳では「風度(ふと)し出(い)ださんかゝりを、うち任せて、心のまゝに、せさすべし」。つまり「あまり細かいことを詰め込まないで、子の自発性に任せなさい」とある。これはいまの学校教育だけでなく、習い事やスポーツなどあらゆることに通じるのかもしれない。さらに、世阿弥は能によって実現されるべき美しいものを「花」と呼び、それには若さに伴って自然に現れる美しさ=「時分の花」と、稽古を重ねることで得られる美しさ=「誠の花」があるとする。「時分の花」はその時期を過ぎれば失われるし、「時分の花」を「誠の花」と思って慢心すれば「花」はたちまち失われる。これに反して「誠の花」は、稽古を積み重ねれば年をとっても「花」を保つことができるだろうという。

さて、われわれ団塊の世代に該当しそうな<老年>にあたる「五十有余」を世阿弥は「せぬならでは手立てあるまじ」という。多くをしないことが花を咲かす手立てであるという教えは何やらありがたい気もするが、「好色・博打・大酒は三重戒」や「稽古を続けていれば」の厳しい前提条件付きである。しかも生涯を通じて修練に修練を重ねるべし、とあることなどを考えれば世阿弥がさらに説く「幽玄の境地」など望むべくもない私など凡百には「はるかに道遠し」であるなあとため息をつくばかり。

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