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“9月17日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1952=昭和27年  伊豆諸島の南にある明神礁が爆発した。

正確に言うと「海底火山」の噴火を通りかかった漁船が見つけた。焼津漁港所属の「第11明神丸」でこの船名をとって明神礁と名付けられた。位置は東京の東南408キロ、伊豆諸島・青ヶ島の南55キロの太平洋上にある。10キロ東のベヨネース列岩と合わせて豆南(ずなん)諸島の別名もある。明神礁は6日後の大爆発で海底に消えたがその翌日の24日、現地調査をしていた海上保安庁の測量船「第5海洋丸」が20時30分の定時連絡を最後に行方不明になった。空と海からの大掛かりな捜索でも船体は見つからなかったが現場付近の海域から大量の軽石に混じって船体の一部とみられる木片が回収された。木片には爆発で飛散した無数の小岩片が突き刺さっており観測船が火山爆発に巻き込まれたことが判明したことで乗員31人全員の殉職が発表された。

後日談がある。「第5海洋丸」は緊急対応の調査出動だったため、1人が遅刻した。船は定刻に出港したので彼は遠ざかっていく船を見て桟橋で地団太踏んで悔しがった。この話はもちろんどこにも発表されなかったが琉球大学の加藤祐三名誉教授が『軽石 海底火山からのメッセージ』(八坂書房)に書いているので実話なのであろう。

もうひとつ、2012年3月の東京都議会で「ベヨネース列岩の名前も日本名にしてはどうか」という質問があり、石原都知事は「大賛成でありまして、責任を持ってやりたいと思います」と答弁した。こちらは1846年にフランスの軍艦「ベヨネース」が見つけたことから名前がついた。東京都の管理だからまったくの<都内マター>のような気もするが時期が時期だけにヘタすると“噴火”しないともかぎらない。

*1929=昭和3年  漂泊の歌人・若山牧水が静岡県沼津市千本松原の自邸で43歳の人生を閉じた。

駆けつけた大勢の友人や親族を見まわし「なぜみんなそんなに俺を見ているのだ」とひとこと、その後じきに昏睡状態に入った。妻だけでなく誰にも死を覚悟してのことさらな言動ひとつ残さずに逝った。宮崎の医者の長男として生まれ、早稲田大学時代には北原白秋らと親交があった。沼津の自然をこよなく愛し、とくに千本松原の景観に魅せられ一家をあげて移住した。伐採計画が持ち上がると反対運動の先頭に立って計画を断念させた。旅を愛し、行く先々で歌を詠んだから日本各地に歌碑がある。なにより酒好きで酒量は毎日1升(1,800㏄)と豪語し死ぬ前まで6.5合(1,200㏄)を飲み続け、死因は肝硬変。死後しばらくしても腐臭もしなかったので医者が「生きたままアルコール漬けになった」と驚嘆したという逸話を残した。

*1942=昭和17年  無季俳句の俳人・篠原鳳作が鹿児島市の自宅で療養中に死去した。

すぐ隣で生後7か月の長女に添い寝していた妻も気づかなかった。30歳、心臓麻痺による突然死だった。本名は国堅(くにかた)、1929=昭和4年に東京帝大法学部を卒業したが職につかず鹿児島に帰郷した。3年生のときに「ホトギス」に初入選したこともあって句作を続けたいという気持ちもあったろうが小津安二郎監督の映画『大学は出たけれど』の題名がそのまま流行語になるほどの不況でもあった。翌30=昭和5年1月から福岡の俳誌「天の川」に投稿をはじめ、1年後には鹿児島に支部をつくるほど熱中した。

両親の強い勧めもあって3月に沖縄県の宮古中学に公民・英語科の担当として赴任した。代表作となる
満天の星に旅ゆくマストあり
しんしんと肺碧きまで船の旅
は、宮古時代の作品である。「しんしんと」の句碑が開聞岳をのぞむ長崎鼻の公園にある。新興俳句、なかでも無季俳句運動の先頭に立って鳳作は理論と実作に挺身した。「季題は不用、俳句は高翔する魂の羽ばたきでなければならない」という鳳作の主張に「京大俳句」の西東三鬼らは心酔した。

3年後、鳳作は母校鹿児島県立第二中学の教諭に転任、鹿児島銀行頭取の4女と結婚、長女を授かった。
指しゃぶる瞳のしづけさ蚊帳垂る
吾子たのし涼風をけり母をけり
涙せで泣きじゃくる子は誰の性
「サンデー毎日」に掲載されたこの「赤ん坊」が最後の作品になった。

通夜の夜、鹿児島は防空演習のため灯火管制が敷かれていた。うす暗い灯りの下で集まった俳句仲間が口々に「新興俳句はどうなるんだ」と泣きながら口にした。それを聞くと母親が「国堅は新興俳句に殺されたんです」と切り裂くような声で叫んだから一同、ひとこともなかった。母親は嫁が次の子を宿していることを知っていたこともあってたまらず口にしたのかもしれない。

翌年4月、妻の実家で鳳作似の長男が生まれた。

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