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“10月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1872=明治5年  群馬の富岡製糸場が操業を開始した。

明治政府が「殖産興業」のモデルとして建設した初の機械製糸工場で選んだのは製糸先進国フランスの技術だった。繊維商社の横浜駐在員の技師ポール・ブリュナが工場の建設段階から指導し、フランスから繰糸機や蒸気機関を輸入した。

完成した工場は世界に誇れる規模ながら操業開始には思わぬ難問があった。周辺地域に労働力はあっても工場での生糸製糸が理解されず外国人に指導されることには大きな抵抗があった。「覚えが悪いと油を絞られ、下手をすれば血まで吸い取られる」という噂も囁かれて女工が集まらなかった。政府は士族階級なら教養があるから大丈夫だろうと踏み、士族の子女を中心に数百人の女工が<日本全国から>集められた。

信州・松代藩の士族の娘だった横田英子は父親から「国の名、家の名を辱めるな」と言われ、母親から「男の人もたくさんいるだろうから、身を持ち崩さぬように」と注意された。英子は「手込めにあえばいざしらず、心さえ確かに持ちおりますれば、身を汚し御両親の御顔にさわるようなことはいたしませぬ」と気丈に答えて士族の娘としての誇りと使命感を抱いて富岡に向かった。ようやく仕事にも慣れた翌年6月に皇太后と皇后が視察に訪れた。英子は糸を切らさないように必死になりながらもこのときを逃したら二度と竜顔=ご尊顔を拝すことはできないと思い、一瞬だけ横目で見て目に焼き付けたことを日記に残している。

工場建設に当たったのは民部省、完成後は大蔵省、内務省、農商務省と所管が変わった。官吏として建設に尽力した渋沢栄一は後年「富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もある。日本の製糸近代化に真に貢献できたのは富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々である」と書いている。ある意味の自己批判であるが、いかんせん大規模すぎて採算がとれず官営工場払下げ令によって1893=明治26年に三井に払い下げられた。その後は「三渓園」を残した横浜の生糸商原富太郎に渡り、片倉製糸紡績会社(現・片倉工業)の所有として1987=昭和62年まで115年間操業を続けた。

東京ドームとほぼ同じ約5ヘクタールの敷地には繰糸所、繭置所、検査人館、首長館、女工館、ブリュナを記念するブリュナ館などが残る。2005=平成17年に国の史跡に登録され、世界遺産暫定リストに登録されて正式登録を待っているのはご存じの通りだ。

*1922年  米プロ野球のヤンキース対ジャイアンツ戦が初めて全米にラジオ中継された。

両チームとも本拠地はニューヨークにあったから同じようにニューヨークを冠していた。ヤンキースの球団名はニューヨーク・ヤンキースで現在も変わらないが、ジャイアンツは1958年にサンフランシスコへの移転を機会にサンフランシスコ・ジャイアンツに変わった。

ヤンキースタジアムが完成する前年だったので全試合がジャイアンツの本拠地のポロ・クラウンズスタジアムで行われた。残念ながら細かな試合経過はお伝えできないがジャイアンツがヤンキースに移籍してきたばかりのベーブ・ルースを徹底的な<四球作戦>で封じてこの年と翌年は優勝したと伝えられる。さて、どんな中継だったのでしょうねえ。

*1957=昭和32年  インドのネール首相が愛娘のインディラを伴って来日した。

ニューヨークの国連総会に参加した帰りだった。日本が安保理の非常任理事国に当選したこともあって<親日派>の首相は行く先々で国民の大歓迎を受けた。白い帽子に茶色のアチカン=国民服姿の首相は皇居訪問や当時の岸首相、国連演説から戻った藤山外相らと6回もの首脳会談をこなし、念願だった広島の原爆慰霊碑に参拝して花束を捧げた。忙しい日程のなかで8日には上野動物園を訪問し平和を願って1949=昭和24年に贈ったインドゾウの「インディラ」と8年ぶりの対面をした。

「インディラ」は娘の名前にちなんで命名されたが全国の児童らの手紙がネール首相に届けられて寄贈が実現した。手紙は戦前、上野動物園で飼われていた象が空襲で逃げ出すのを恐れて処分されたのを悲しむ内容が綴られていた。GHQも「復興事業」の名目で特例として輸入を許可、お披露目3ヶ月で100万人以上の入場者を記録した。空前の象ブームの余韻はまだ続いていたからエサをやる首相らに「インディラ」が大喜びだったと報道された。

ネールは独立後の初代首相に就任すると自らは社会主義者であることを宣言し、非同盟・中立外交を推進しながら国内では計画経済を推進した。内政的にも民主主義体制を堅持してインドを「世界最大の民主主義国家」に育て上げた。しかし人口増加に追いつけないまま最大課題の貧困は解消できず経済政策は次第に行き詰っていった。

娘のインディラのほうはその後、第5代と第8代の首相になるが1984年に暗殺され、あとを継いだ第9代首相の息子も自爆テロに巻き込まれて命を落とした。そう思えば父と娘にとって贈り主自身も「平和の使徒」として大歓迎を受けた日本訪問はいちばん楽しい時間だったのかもしれない。

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