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“9月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1921=大正10年  安田財閥総帥の安田善次郎が大磯の別邸で右翼思想家に刺殺された。

大磯の山手、天王山の「寿楽庵」の門をたたいたのは紋付き袴の男で「東京市神田区小川町 弁護士 風間力衛」と名乗って名刺を差し出した。男は前々日から別邸の隣の旅館「長生館」に同じ名前で連泊しており前日にも「岡警視総監と渋沢栄一子爵の紹介だ」とこの名刺を出して安田への面会を求めたが紹介状もなかったので怪しまれて断られた。この日も早朝からやってきたが一応、正装だったこともあり別の書生が部屋に通してしまった。

女中がお茶を出して30分後に安田の悲鳴が聞こえたので駆けつけると安田は胸や顔を刺され縁側から庭にずり落ちて血だらけで虫の息だった。男は剃刀で首を切り自殺を図って間もなく死亡した。犯人の所持品から32歳の朝日平吾とようやく判明したのは所持品からで犯行に使った短刀と「労働ホテル設立趣意書」と書かれた書類が残されていた。朝日は満洲や朝鮮各地を<大陸浪人>として転々としたあと東京で「神州義団」を旗揚げした。とはいっても自分ひとりだったから見せかけの<それらしい団体>に過ぎなかった。資産家を訪ねては活動資金をねだり、断られると「こちらにも覚悟がある。出してくれないならここで切腹する」と脅すのがお決まりの手口だった。風間は実在の弁護士だったが本人ではなかったのでもちろん<偽名>で、主義主張以前の詐欺恐喝の果ての凶行だった。

安田は富山出身。20歳で上京、玩具店のあと海産物(鰹節)兼両替商に勤めた。ここで金融業に天職を見出し太政官札の買い占めで巨利を得たとされる。両替屋の安田屋は安田財閥となり多くの銀行を興したほか日本電気鉄道、帝国ホテルの設立発起人、南満州鉄道、東京電燈などの経営にも参画、日銀監事などをつとめてこの時代の国家運営に深くかかわった。安田銀行は富士銀行などを経てみずほフィナンシャルグループになり保険では損保ジャパンなどが知られる。

建設費用の過半を寄付したという日比谷公会堂や現在の千代田区立麹町中学校の校地などは安田の<陰徳>としての匿名寄付だった。東京大学の安田講堂は生前の約束を遺族が果たしたのでその名が残り、JR鶴見線の安善駅は安田が前身の鶴見臨港鉄道を支援したことを記念して付けられた。生前の善行は世間には知られていなかったから徒手空拳から一代で政商から財閥になった安田が本所にあった徳川御三家の旧・田安邸を購入した時には
なにごともひっくりかえる世の中や田安の邸を安田めが買う
と皮肉られた。安田自身は長寿の秘訣を問われると
  五十六十は鼻たれ小僧、男盛りは八十九十
と言っていたそうだからまさに<男盛り>の無念の死だった。

*1930=明治33年  チョンマゲがトレードマークだった銅山王の古河市兵衛の叙勲が決まった。

“口直し”というわけではないが同じく財閥がらみの話題を紹介する。古河財閥創始者として知られるが御一新以後も頑なにチョンマゲを通していたが従五位に叙せられることになってさあ困った。「御礼の宮中参内は洋装で」とあり、周囲から「洋装に合う髷(まげ)などはありません」と重ねて説得されて渋々東京・柳橋の一流料亭・亀清楼で「断髪式」を行った。そのあとはきれいどころをあげて<髷をサカナ>にしての大宴会だった。

*1936=昭和11年  初の捕鯨母船日新丸が川崎重工神戸造船所で竣工した。

わが国の南氷洋捕鯨は日本捕鯨が売りに出たノルウェ―の捕鯨母船を買い取って2年前から始められていたが沿岸捕鯨で実績のあった林兼商店が国産の母船を建造して参入することになった。設計図もイギリスから購入し、初めて6千馬力のディーゼルエンジンが導入された。イギリスに発注すれば工期が15カ月以上かかるところを隣の船台にあった巡洋艦の建造を一時棚上げして昼夜兼行の突貫工事によりわずか7カ月で完成させた。設計から工事の細部に至るまで会社代表として最前線に立ったのは土佐捕鯨出身で社長の信頼も厚かった志野徳助で外国船の捕鯨船長まで務めた。経験と英語力を買われて1930=昭和5年のベルリン捕鯨会議には代表として初参加している業界のボスでもあった。総トン数1万6千801トン、全長163メートル、幅22メートル。スクリューは間に合わなかったので1基だけになったが進水式には神戸市民5万人が詰めかけた。

そして10日後の10月7日志野を船団長にして、捕鯨船を従えてあわただしくもにぎやかに神戸港を出発した。連日、甲板に整列すると点呼、ラジオ体操に続いて
「オーロラ燃ゆる空のした 挙げよ制覇のときの声」
という日新丸行進曲を合唱しながら南を目ざした。

ところが29日にオーストラリア東岸のフリーマントル入港直後に志野が脳出血で急逝する。やむなく遺体は船室に氷詰めにし、乗り組んでいた社長の三男でのちに林兼産業の会長になる中部利三郎を船団長にして南氷洋に向かった。

<弔い合戦>の結果はシロナガスクジラ807頭、ナガスクジラ279頭など計1,116頭、鯨油1万5千280トンでライバルの日本捕鯨を大きく引き離した。

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