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“8月25日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1543=天文12年  大隅国・種子島の西村小浦に百余人が乗った異国船が漂着した。

南蛮=ポルトガルの商人であることがわかり島の中心の赤尾木津に回航させた。薩摩・島津家が招いた僧の南浦文之(なんぼぶんし)は『鉄炮記』をこう書き始める。鉄炮は鉄砲のことだが、鉄砲を見たこともなかった島民たちは「奇怪な一物」と呼び、火薬は「妙薬」、弾は小団鉛とあるから鉛玉だったか。「妙薬を其中に入れ火を放てば即ちたちどころに中(あた)らざることなし」と見物の面々はその百発百中に驚いた。

当時わずか16歳だった島主の種子島時尭(ときたか)はこれを見て「希世の珍となす」つまり、世にも珍しいものじゃと2丁の銃を二千金(両)もの大金で買い取った。あっぱれな<大人買い>じゃありませんか。しかも家臣の篠川小四郎に火薬の製法、刀鍛冶の八板金兵衛に鉄砲製造法を研究させたというから先見の明だけでなく抜かりもなかった。噂を聞きつけて紀州・根来寺の杉坊妙算という僧がはるばる島を訪れて鉄砲の譲り受けを交渉、時尭はその熱意にほだされて一丁を譲り火薬の製法まで教えている。持ち帰った鉄砲を見本に根来寺では刀鍛冶が量産し僧兵を武装させて大阪・石山合戦では信長軍を撃退したからこちらは<早いもの勝ち>。ひと足遅かったのが堺の商人、橘屋又三郎。時尭に残る一丁を譲ってくれと熱心に頼んだが「いくら金を積まれてもこれは手元に置く」と断られた。それでもと頼みこんで足かけ2年ほど島に滞在して鉄砲と火薬のすべてを究め、堺に帰るとすぐに製造を始めると販路を関東にまで広げ「鉄砲又」の異名をとったからこちらは粘り勝ち。それにしても時尭は心の広い人物でしたねえ。

では、鉄砲という名前も知らなかったのになぜ記録が『鉄炮記』というのかといえば書かれたのが江戸時代初期の1606=慶長11年と時代が下がるから。それが「倭寇が伝えたのが種子島より先」などの異説を呼ぶところ。証拠にはならないが鉄砲の別名は「種子島」、これは間違いなし。

*1944年  「パリ解放」により晴れての「ラ・マルセイエーズ」歓喜の大合唱。

ヒットラーは「パリの陥落はフランスの陥落でありドイツの敗勢の象徴になる。パリは廃墟以外での姿では敵に渡すな」と言い続けた。パリ防衛司令官にイタリア戦線で戦功のあったコルティッツ大将を任命、パリに架かる全ての橋を爆破して最後の一兵になるまで戦えと厳命した。軍中枢へは長距離砲やV1ロケット、空襲、あらゆる手段でパリを灰にせよと命じた。それが実行されたかどうかを「パリは燃えているか?」とあの甲高い声で3度も叫んだ。これはルネ・クレマン監督の『パリは燃えているか』(1966)のイメージだけど。

BBC放送は23日正午に「パリ解放」の臨時ニュースを流したが、このたくらみは腰の重い連合軍の進軍を督促する<工作放送>で間もなく誤報と訂正された。24日正午にはフランスの突入部隊の戦車がパリ市庁舎前に到着したことでノートルダム大聖堂の鐘が打ち鳴らされたがドイツ軍はまだ健在であると知って市民らはあわてて避難した。
そして25日、正午にエッフェル塔の頂上にシーツで作った三色旗が掲げられた。この旗を掲げたのは40年6月30日のパリ陥落の日にハーケンクロイツ旗を掲げるため三色旗を泣きながら下ろした消防士だったがさまざまな紆余曲折というか、虚実渦巻いた末だからこんどは感涙だったか。
午後3時30分、コルティッツ大将が降伏文書に署名、日暮れまでにはドイツ軍のほとんどの部隊が降伏した。午後4時30分、ド・ゴールはパリ市庁舎で「臨時政府の帰還とパリ解放」の演説をして広場を埋めた群衆が「ラ・マルセイエーズ」の大合唱。さまざまな混乱と興奮のうちに眠れない夜を迎えるわけです。

*1932=昭和7年  森下雨村原作の日活太秦作品『喜卦谷君に訊け』が封切られた。

雨村はわが国「探偵小説の父」と呼ばれる。主役には二枚目俳優の島耕二、恋人役に宝塚出身の星玲子で帝都座や富士館、神田日活などで上映された。本名は森下岩太郎。高知県出身で早稲田大学英文科を卒業すると新聞記者を経て出版大手で黄金時代の博文館に移り『新青年』の創刊に携わった。海外探偵小説の紹介をはじめて手がけ、エドガー・アラン・ポー、クロフツ、コナン・ドイルなどを次々に翻訳して人気を博した。自身も探偵小説を多く書いたがこの『喜卦谷君に訊け』は週刊朝日に寄稿した短編でコメディタッチの探偵小説(推理小説)である。

雨村は『新青年』時代に江戸川乱歩や横溝正史を発掘したことでも知られる。乱歩はデビュー作の『二銭銅貨』が読者の絶賛を浴び、『D坂の殺人事件』に続いて書いた『心理試験』で作家専業に。ところで雨村は無類の釣り好きだった。印税収入などもあったのだろうが50歳でいっさいの名声を捨てて帰郷すると一野人に徹し、半農半漁、うらやましいような“釣魚生活”に入る。

まさしく河童の別称・猿候(えんこう)をしのぐような魚を追う日々。遺稿集の『猿候川に死す』は釣りの名作として有名だから私のように「釣り文学者」としてインプットしている方も多いのではなかろうか。

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