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“5月28日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1634=寛永11年  江戸幕府の鎖国における唯一の貿易地、長崎・出島の造成が始まった。

島に渡る橋や門、塀などは幕府が負担したが大半の費用は高島四郎兵衛ら長崎の有力者が出資した。造成には2年間かかったが最初のポルトガル人に次いでオランダ東インド会社が200年間にわたって居留した。造成費用は借地料から支払われたが貿易の優先権もあったろうから元は取れたか。扇型にした理由は諸説あるが、伺いを立てた3代将軍家光が自らの扇を示し、見本にせよといったからとシーボルトの『日本』には書かれている。

*紀元前585年  イオニアの七賢人のひとりタ―レスがこの日の皆既日食を見事的中させた。

そんな古い話、ダイジョウブと言われそうだがちゃんと記録にも残っている。イオニアは古代ギリシャの国のひとつで地中海の北、エーゲ海に面した吟遊詩人・ホメーロスの舞台としても知られる。多才で測量術や天文学に長けていたのでエジプト・ギザのピラミッドの高さを計算で割り出したことで有名。中学の数学の教科書には必ず出てくる「タ―レスの定理」でもおなじみ。「半円の弧に対する円周角は直角である」の、あれ。
「あれ、じゃあ分からない」ですか。ウーム。円の中心を通る直線で円を切り取ると半円でしょ。その両端から円周の任意の点に2本の線を引くと不等辺三角形ができる。それは必ず直角三角形になる。タ―レスみたいに地面に書いて説明はできないけどここで引っ掛かっていたら先に進めません。

ある時、彼の飼っているロバの背中に塩を入れた袋をのせて市場に運ぶ途中、川を渡る際にロバがつまずいた。塩が溶けて流れてしまったので台無しに。翌日も川の同じ場所に差しかかるとまたロバがつまずいた。つまずくと荷物が軽くなることをロバが<学習>したというわけ。さらに翌日、タ―レスは考えた。こんどは塩の代わりに綿(海綿説も)を積んで市場に向かう。そしてロバがつまずくと濡れた綿は何倍にも重くなったと。

ある時、タ―レスの母親が息子に嫁さんを娶らせようとした。タ―レスは「まだその時ではない」と答えた。それからずいぶん経ってもまだ独身だったので母親が「いくらなんでも嫁さんをもらったらどうだい」と言った。タ―レスは「もうその時ではない」と答えた。
このあたりになると真偽のほどは定かではないですなあ。

*1193=建久4年  曽我兄弟が領地争いで暗殺された父親の仇を討った。

そのとき兄の曽我十郎祐成(すけなり)は5歳、弟の曽我五郎時致(ときむね)は3歳。親の仇は鎌倉の筆頭大名になって富士の巻狩の総奉行になっている工藤祐経(すけつね)。ようやく巡り合ったところでの五郎のせりふ。

きょうはいかなる吉日にて、日頃逢いたい見たいと、神仏をせがんだ甲斐あって、今逢うたは優曇華の、花待ち得たるきょうの対面、三がの荘の福は内、鬼も十八年来の、今吹き返す天津風・・・

これは実況ではなくて歌舞伎の時代狂言『寿曽我対面(ことぶきそがのたいめん)』の工藤館(やかた)の段。お正月といえば、ということで毎年初春の江戸ではこれが上演される。一座の主だった役者が顔を揃えて、それぞれの得意役に扮するならわし。敵役とはいっても一座のトップの役者が祐経をつとめる儀式的な意味合いもあったそうだ。

えっ、場面が違うと申されても。仇討はこのあとすぐだけど<名セリフ>はここなので。案内役の拙者に免じて、ひらにひらにお許しあれ。

*1733=享保18年  隅田川の川開きではじめて花火が打ち上げられた。

前年に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うため始まったとされる。最初は20発程度を打ち上げるだけののんびりしたもので、鍵屋が担当した。広重の「名所江戸百景」に描かれた両国花火も1発だけですものね。いまのにぎわいを当時の人たちに見せたらきっと腰を抜かすのでは。

分家の玉屋が出てくるのは1810=文化7年。2業者体制になったことで双方が腕を競い合った。交互に別々の場所から打ち上げたので「かぎや~」「たまや~」と見物客は自分がいいと思ったほうの屋号を叫んだ。新しくできた玉屋のほうが工夫を重ねた<新作花火>を打ち上げたことで次第に評判が高くなり、川柳に「玉やだと又ぬかすわと鍵や云い」という時代もあった。しかし玉屋は1843=天保14年に爆発事故を起こして全焼、「江戸処払い」を命じられ、1代で断絶した。

花火は江戸の華。両国のにぎわいは1日3千両といわれた。朝の青物市で千両、昼の広小路界隈の見世物で千両、夜は納涼の花火の千両で、しめて3千両。

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