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“5月13日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1935年  トーマス・エドワード・ロレンスがイギリス南部でオートバイ事故を起こした。

<アラビアのロレンス>として知られる。1888年イギリス・ウェールズ生まれ。オックスフォード大学在学中にレバノンなどで十字軍の遺跡を徒歩で1,600キロも踏破しての調査を踏まえた卒業論文で最優秀の評価を得た。卒業後は大英博物館の調査隊に参加してシリアの遺跡調査やイギリス軍の依頼でイスラエル南部の砂漠などの軍事地図を作製した実力が評価され、第一次世界大戦が勃発すると陸軍省のカイロ情報部での軍用地図の作成や外務省にアラブ局が新設されると語学力を買われて転属となった。

情報将校としてのちにイラクの初代国王になるファイサル王子(1世)と知りあい、アラブ人の独立をめざしてオスマン帝国とのゲリラ戦を指揮した。砂漠のゲリラ戦では多くの戦果をあげ、その功績で中佐に昇進した。戦後はファイサル1世の調査団の一員として1919年1月のパリ講和会議に出席、1921年からは植民地省中東局でアラブ問題の顧問として大臣だったウィンストン・チャーチルの下で働いた。その後、英領だったインドや本国での勤務のあと35年3月に除隊となった。

ロレンスといえばラクダに乗った雄姿であり、アラブ服に首には白い布を巻き、頭にはかぶり物、腰には宝剣を差した民族衣装姿ではないだろうか。写真の背景はもちろん砂漠。軍での後半の十数年は過去の<砂漠での栄光>を忘れ去るためだけにあったとも思える。

軍役を解かれるとあこがれていたイギリス南部、ドーセットの自宅に何台ものオートバイを所有して過ごした。事故当日も友人への手紙を出すため愛用のオートバイにまたがって町の郵便局へ出かけた帰りで自転車に乗った少年を避けようとして転倒した。80キロものスピードだったからはるか先の路上に叩きつけられた。除隊後わずか2カ月後のできごとで航空機事故だけで7回、骨折は33カ所、粗食に耐え、砂漠の極限環境を生き抜いてきた肉体も蘇ることはなく意識が戻らないまま6日後の19日に死去、46歳だった。

生涯独身で過ごした。酒やタバコは飲まず菜食主義者だったロレンスはあるアンケートに
  好きな色:深紅
  好きな音楽家:モーツアルト
  好物:パンと水
  最大の喜び:睡眠
  最大の苦痛:騒音
と回答しているのにオートバイマニアだったというのはいかにも<矛盾>している。

彼が「アラブ諸国の独立に大いに尽力した」と評価される半面で「イギリスの国益に貢献しただけ」という二つに分かれるのも、矛盾を抱えながらの彼の人生そのものの投影のようにも思える。

*1939=昭和14年  NHK技術研究所が国産テレビの実験放送に成功した。

若柳社中による舞踊で『日の丸音頭』『浦島』『大原女』などのレコードに合わせて踊るだけの映像が流された。いまからすれば<隔世の感>ではあるが、器材から何からすべてゼロから作り上げるなど苦労の連続だったから関係者一同は感涙にむせんだとある。

そうかもしれないけどね。テレビ本放送はそのまた14年後だった。

*1938=昭和13年  航研機が1万1651キロの航続距離と平均時速186キロの世界新記録を出す。

パイロットの航空兵少佐の藤田雄蔵と副操縦士、航空機関士の3人が乗り組み、木更津飛行場を午前4時22分に離陸したあと銚子=犬吠埼灯台、太田=中島飛行機太田工場本館、平塚=航空灯台、木更津=飛行場中心の4点コースを62時間22分49秒で計29周して15日午後7時21分に無事着陸した。

航研は東京帝国大学航空研究所の略称で1918=大正7年に設立され航空技術の基礎研究を行っていた。航研機は陸軍の協力で開発され、胴体はジュラルミン、プロペラは木製の二枚羽で日本楽器(現・ヤマハ)ガソリンエンジンは川崎重工業がBMWからライセンス生産した12気筒の800馬力だった。全長14.6m、幅28mの主翼と尾翼には不時着時に発見されやすいように布張りに赤い塗料が塗られた。

周回飛行は自動操縦装置の故障のため5周で中断した10日に続くもので長距離無着陸飛行に備えバナナやサイダーに加えパラフィンや金属チューブ入りの流動食が用意され、夜間は周回地点では目印に発炎信号が焚かれた。飛行成功は新聞各紙で大々的に報道され切手も発行された。機体は終戦時まで羽田で保管されていたが進駐軍により「軍用機」と見なされ飛行場内の鴨池に捨てられたためまだそこに埋まっているはずという。

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