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“1月4日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1947=昭和22年  戦争の激化で中断されていた箱根駅伝が3年ぶりに復活した。

1920=大正9年に始まった大会は、開戦の1941=昭和16年に東海道、箱根路の使用が禁止されて中止に追い込まれた。代わりに明治神宮水泳場前と青梅熊野神社前往復の駅伝を行ったが盛り上がらなかった。大会を運営する日本学連が解体するなかで昭和18年に<戦勝祈願>を目的に靖国神社・箱根神社往復「関東学徒鍛錬中継走大会」を開催、第22回大会としたものの学徒出陣などで大会どころではなくなった。

復活大会には読売新聞が共催になり10校が参加した。1日目は土曜日で明治の1区を任された戸田省吾選手は、常藤監督が自宅を開放していた荻窪の合宿所で3時半に起床、自動車部のサイドカーに乗ってスタートの読売新聞本社前に急いだ。当時、周辺にホテルはなく各校も郊外などに宿泊した。伴走はジープあり木炭トラックありとさまざまで、応援には空の石油缶や笛、太鼓などを持ち込んだ学校もあった。明治は鉢巻き姿の常藤監督自らサイドカーからメガフォンでダミ声をからした。

この年は多摩川に架かる六郷橋が工事中で、川下の大師橋を渡ったため約7.5キロも遠回りとなったが往路で差をつけていた明治が14時間42分48秒のトップでゴールインした。準優勝は中央、アンカーの平井文夫選手はビルマ戦線で捕虜になりマラリアに罹ったものの見事に復活して鋭い追い込みを見せた。

ちなみに<駅伝高速時代>といわれて新記録を出した2012=平成24年の東洋大の記録は4時間近く早い10時間51分36秒だから隔世の感があります。

*1960年  『異邦人』などで知られるノーベル賞作家アルベール・カミュが交通事故で急逝した。

カミュはフランス領だったアルジェリア出身、アルジェ大学卒業後、ジャーナリストとして活躍する一方小説を書き『異邦人』や『シシュポス(シーシュポス)の神話』などで注目された。第二次大戦下のフランス・パリに移るとサルトルやボーヴォワールらと知り合い親交を深め<不条理の作家>として知られるようになる。しかし、革命を巡る政治的暴力に対してのサルトルとの論争では暴力忌避の立場をとり続けたことで批判を浴びた。

第二次大戦後は極限状態における市民の連帯を描いた『ペスト』がフランスで幅広い読者を獲得、1956年に43歳でノーベル文学賞を受賞した。インド(当時は英領インド帝国)のキップリングの41歳に次いで二番目の若さだった。カミュは南仏プロヴァンスの田園地帯に別荘を手に入れて執筆活動を続けていた。この日、友人が運転する車の助手席に乗りパリに戻る途中、突然タイヤがパンクし車が道路脇の立ち木に激突、カミュは即死、友人も病院で亡くなった。46歳だった。

「人生の意味を問うのが作家の仕事。しかし人生に特段の意味があるわけではない」と言い続けた。ウーム、なるほど<不条理>ですなあ。

*1877=明治10年  明治政府はたび重なる地祖改正反対の暴動を受けて地祖減額を決めた。

江戸時代までは米による物納制度だったのを明治新政府は地祖改正により土地の価値に見合った金納=金銭による課税にあらためた。当初は地価の100分の3(%)の課税だったがこれに反対して前年12月には三重県・松阪を中心に愛知、岐阜、堺などにも広がる「伊勢暴動」が起きた。竹槍を持った農民らは至る所で決起し「役のつくものは<コウヤク(膏薬)>でも打ち崩せ」と気勢を上げ、役場や学校、兵営など役人のいるところは片端から壊したり放火した。

暴動は官軍の出動で間もなく鎮圧されたが死者35人、重軽症者48人を出す騒ぎに発展したため政府は勢いに押されて地租を2.5%に減額することを発表した。これを東京日日新聞は「竹槍でちょいと突き出す二分五厘」と報じた。

*1943=昭和18年  正月三が日を自宅で過ごした永井荷風は浅草、上野などをぶらついて帰宅した。

天気は晴れ、前日より寒気は緩んでいたから戦時下とはいえ雷門や仲店は人出で埋まり観音堂(浅草観音)への参拝はあきらめた。しかし「玉の井に行く理由もないから」と引き返し、帰宅後に『犬の声』という詩を書くと「未定草なり」と記して眠りについた。

  ふけわたる  闇の夜に  さびしさゆゑか  吠る犬。
  消ゑかかる  ともし火に  われ唯ひとり  すすり泣く。
  犬なけば  かなたより  その友聞きて  こたふるに
  われはそも  何ゆゑに  声さわがしく  なかざるや
  うたがひと  さげすみの。  この世を憂しと  知るゆゑに。

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