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私の手塚治虫(1) 峯島正行

一、M・A・N・G・A旅行団の世界一周

飲みながらできた旅行案

十二月の初旬、まだ寒さが皮膚を刺すほどではない。銀座裏の通りは、むしろ空気が浮き立つような熱気さえある。高度成長のただ中にあって、懐も膨らんでいる男たちは陽気な声を上げて,蹣跚と歩いている。中年の太った男共は、社用という錦の旗を掲げて車を乗り付けてくる。

二台の車に分乗してやってきて、堀端通りの、銀座日航ホテルの近所で、私たちは降り立った。

「おい、これじゃどこに行っても満員だぜ、満席で入れねえってこともあるぞ」

と、先に車から降りた加藤芳郎が直ちに町の雰囲気を感じ取っていった。

「こういう時こそ、ベレーのスマちゃんの所に行ってやろうよ」

万事そつがなく、気転のきく西川辰巳が、直ちに加藤に応じた

「どうです、横山さん」

と横山隆一に聞いた。何しろママの伊藤スマ子さんは横山隆一の、古くからの御贔屓で、                                      「ベレー」の名付け親なのである。そのためもあって、開店以来漫画家たちに、気安いたまり場として、愛用されてきたが、事情あって新たに倶楽部式の店として、再開店したばかりであった。

車を降りたのは、横山、加藤、西川の他,近藤日出造、杉浦幸雄、岡部冬彦、小島功の六名と私であった。一行は数寄屋通りを少しあるいて、ビルの二階の「ベレー」にどやどやと登ると、案の定、客は少なく、空席が多かった。その一角を、占領し、賑やかに談笑が始まった。

十二月初旬のその日、私の編集している週刊漫画サンデーで、来年、つまり昭和四二年の年頭特大号の企画の一つとして、人気漫画家の放談会を、赤坂の料亭で、催したのであった。久振りに親しい仲間が集まったので、話は弾んで、一同笑い通しという賑やかな座談会となった。会場で食事も終わって雑談に入っても、談笑は続き、いつ終わろうともしなかった。

「これから銀座に行って飲み直しながら話の続きをやろう」

と杉浦あたりから声がかかったのであった。 反対をする人がいるはずはない。すぐに車を呼ばせたのであった。

ベレーに移って一層話は盛り上がり、いい年をして、まるで学生のコンパみたいな騒ぎだった。その場の空気が高揚したある瞬間をとらえ、近藤が

「おい、この仲間で、世界1周旅行でもしたら、きっと面白いぞ」

とその場の思い付きのように言った。その実、近藤の腹の中では、そういう腹案を持っていて、その場で出して見せたような感じもした。近藤は堅い顔をしていて、結構アジテイタ―なのである。その前年まで、海外旅行を二,三年続けていた西川が

「そりゃいい、やりましょう、やりましょう」

と叫んだ。加藤がテーブルを「賛成」と言って叩いた。それで忽ち全員賛成。

「向こうに行ったら加藤はうるせいだろうな」

と岡部がいい、横山も「ま、この連中なら旨くゆくさ」といった。

黙って成り行きを見ていた私に、近藤が言った。

「おい、峯さん、君も参加しろよ」

すると小島が

「それはいい」

と言ってくれた。そうだ、そうだ、と時の勢いも手伝って、これで私の参加が決まってしまった。

すると近藤がいった。「俺たちに旅行は面白いぞ、絶対、一緒に来いよ。ただし条件がある。仲間の一人としてゆくのだ。俺たちの同人としてゆくのだ、いいか。編集者として行くのではない、この条件を承知するか」

否応もなく承知する。「じゃこれで決まりだ。」と横山がいい、拍手した。横山は付け加えた。

「しかしどうせ行くのなら、もう少し仲間を増やしてもいいんじゃないか。その方が賑やかでいい。全部で十二,三人てところかな」

「じゃ,誰を誘う」と若手の小島が言う。「まず泰(横山泰三)ちゃんは誘っても断るだろうな。」と兄の隆一が言う。すると「賢ちゃん(荻原賢二)、英ちゃんか(塩田英次郎)か」と西川。「英ちゃんは来るだろう、賢ちゃんは誘っても、奥さんが許さないだろう、でも誘うだけ誘うか」と加藤が言う。

「もっと若手では」と近藤。

「手塚君」といったのは、岡部だったか。「しかし手塚はいけるかな、あの忙しさで」

すると、前々から手塚に親しい小島が

「絶対に行くと思うよ、彼は漫画集団の仲間と遊ぶのが、楽しくてしようがないらしいよ。いつもは仕事が一杯だけどよ、今度の計画なら、時間を作ってくるよ」

と断言した。

「それなら馬場君もいい」、と横山。それからサンペイ(サトウ)ちゃん、鈴木ぎし(義司)と声が上がる。

「鈴木はありゃ、ちょいとね、何しろキザッペだから、でも誘って見ようか」と加藤。

「そうそう、おおば(比呂司)を忘れちゃいけないよ」と誰かが言う。みんなも「そうだ、そうだ」で、誘う人の人選は終わり。

そこでこの場にいる人と、新たに誘う人を入れたメンバーを年の順に並べてみよう。

年齢順に、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄、塩田英二郎、荻原賢治、西川辰巳、おおば比呂司、岡部冬彦、加藤芳郎、峯島正行、馬場のぼる、鈴木義司、手塚治虫、小島功、サトウサンペイという顔ぶれ。最高齢の近藤が六〇歳、横山五九、最低のサンペイが、三八歳。手塚はその時、年を二歳上にさばを読んで、公表していたが、実際は小島と同年。

この顔ぶれをよくご覧になってください。何気なく、飲みながら出てきた人選が、絶妙なバランスと当時の漫画ジャーナリズムの傾向を、具体化している。

家庭的なナンセンス漫画を代表する横山、尖鋭な批判的ナンセンスの加藤芳郎、女性の礼賛者小島功、女の裏表をリアルに表現する杉浦幸雄、土俗的な日本の風土を歌う馬場のぼる 都会人の生き方をしゃれのめす鈴木義二、近代社会に残る八さん、クマさんと大家さんの人情夜話を描く西川辰巳、何事にも一言、言ってみたいがそれができないサラリーマンの悲哀を描くサトウサンペイ、日本の薄っぺらな中産階級の真実をつく岡部冬彦、人間の活動する現場の生きた姿をユウモアたっぷりに表現するおおば比呂司。児童マンガの世界でSF的な視野と地球的規模に立つ視点で、巨大な世界を築き、アメニの世界でも活躍し、最近は成人に向けた作品を発表している天才、手塚治虫と、当時の漫画の動向を代表する人材が並んである。

お互いに人選をするとき、個人関係や個々の親密さを、それぞれがこの場に持ち込まなかったことにも感心した。選に漏れた人も、あとで、それを口に出して不平を人もいなかった。

例えば小島には十六,七の少年時代から一緒の漫画を描いてきた仲間がいる。また芸術的な同志もいる。彼らの名を一人として口に出さなかった。また友人たちも、後日、なぜ自分を推薦しなかった、という人も一人もいなかった。

漫画家は、人それぞれ分も違えば、性格も違うことを、お互いに知っているのである。

この点が、当時の漫画集団のひとびとの素晴らしい英知であった。こういう人選を、酒を飲む場で、忽ち決めていった才気と先鋭な感覚を、私は後年になって、色々な苦労を積んだ後、初めて深く認識し得たのであった。

この人選に関連して、近藤日出造が私に語ったことがある。

「俺たちの旅行はな、往くから帰るまで、ワハハハと笑いあいながら、終始するはずだ。それが一番俺たちのいいところなんだ。団体で、海外旅行すると、中で対立が起き、或るいは派閥ができて、旅行中、争ったりするものなのだ。普段仲のよかったものが旅行後、絶交になったりする例はいくらでもある。

俺たちの場合は違うぞ、羽田をたつ時から羽田でわかれるまで、和気あいあい愉快に笑いあいながら過ごしてくるから、よく見ていろよ。これは君の最大の勉強になるぞ。」

なるほど、近藤の言った通りになった。のち私もいろいろの団体旅行で海外に行ったが、しみじみ近藤の言ったことが思い当たったのであった。

とにかく三〇日の世界一周旅行とし、西川が幹事となって、旅行計画をたてる。新たに誘うものには連絡をすることに決まった。五月中旬を出発とし、それまでに各自は連載漫画を描いているものは書きだめなどの準備をすることが決まった。

最後に分かれる前に横山が、強調した。

「これは漫画集団の行事としての旅行ではないということをよく認識して置くべきだと思うんだ。親しい友達が集まって旅行するんだ。集団全員に声をかけて、志望者がゆくのではないからな。うっかり集団、集団の旅行のような口をきいて、集団の諸君から誤解されないよう気を付けよう。誤解されると誘われなかった奴は何と思うか。ここにいる連中よりいい仕事をして、人気もあるやつも大勢いる。そんなことはこの旅行に関係ないんだ。

気の合ったやつが勝手に旅行するのだ。集団には関係ないことを忘れないようにしよう」

誰にもそれに依存はなかった。それで乾杯となった。

翌日、私は困った事実に気が付いた。実はこの仲間に、富永一朗が入っていないことである。富永は私の雑誌に連載した「ポンコツおやじ」が急速に人気が出たため、注文が殺到し、その中には、粗雑な内容の雑誌も多かった。そして、月に二百頁描いても追いつかず、原稿料もそれなりに得られないという状態が、現出した。私は、彼の師匠である杉浦幸雄に相談して、富永を私の社の嘱託に委嘱、生活をお保障するだけの、原稿料を払うことにし、ある種の雑誌には執筆をしないという契約を結んだ。

そのお蔭かどうかわからないが、彼は「ポンコツおやじ」「チンコロねえちゃん」等で、天下を人気を浚った。

富永とはそういう関係があるというのに、富永を置いて、私が旅行に参加するというのは、どういう結果を生むか予測できない。

そこで杉浦幸雄のところに相談に出かけた。

富永の参加を要請に対して杉浦は、

「富永ねえ」

と首をひねっている。杉浦の弟子でもあるし、その紹介で、「ポンコツおやじ」も始めたわけである。杉浦は、自分の弟子であるゆえに、一層富永の性格を知っていたからだ。

最後にやっと「富永のことは、横山、近藤、その他の諸君と話してみる」という返事をもらった。

近藤の、「富永一人ぐらいで、この漫画旅行団がどうなるってことでもあるまい」という一言で、富永の賛加が決まった。このいきさつは、富永本人は一切知らなかった。

旅行団の名前は、正式に『M・A・N・G・A旅行団』と決定した。メンバーは近藤、横山、杉浦、塩田、西川、岡部、おおば、富永馬場、手塚、小島、佐藤、峯島の十二人と決まった。団長は近藤、副団長は横山、杉浦と決まった。

最初一番張り切っていた加藤が、日刊紙連載、その他の事情で、どうしても時間が取れなかった.鈴木も同様であった。旅に出るにあたって、これが最も心残りな事だった。

旅行の行程は、東回りで五月九日羽田出発、ハワイのホノルルをはじめとし、それからロスアンゼルスにわたり、アメリカ各地を経て、万博中のモントリオール、それからヨーロッパに渡り、各地を経て最後はコペンハーゲン、北回りで帰国、欧米二十九都市、三〇日間の日程だった。仕事の都合で、手塚はロスから参加、塩田英二郎、サトウサンペイはロンドンで合流と決まった。

旅行中の宿泊代は、前払いとなった。当時はまだ為替管理下にあり、持ち出せるドルは一人当り五百ドルと決まっていた。

宿泊、交通費は、前もって日本で、円で支払い、旅行社が現地で所有するドルを流用させてもらう。だから持ち出せる一人当たり五百ドルは、丸々小遣いとなった。西川の誠意が通じて、旅行社が好意的に協力してくれたのであった。

当時の公定相場は、1ドル¥360であったから5百ドルは一八万円。今日1ドル¥7,80台のことを考えると、ドルに威力があったものである。

全員は小遣いとしては、この5百ドル意外に持ってゆかないことを申し合わせた。金の面で不公平があってはならないというわけだ。

五百ドルあれば、特別な贅沢品とか骨董でも買わない限り、当時として十分な金額であった。

モントリオールの万博

モントリオール万博会場でバスを待つ一行。右端筆者

モントリオール万博会場でバスを待つ一行。右端筆者

昭和四十二年年五月九日、いよいよ 羽田出発となった。当時はまだ、海外旅行というと、沢山の人が空港に送りに来てくれたものである、家族、友人や出版社の幹部、社員はもちろん、銀座の美女たちも大勢見送りに来てくれた。羽田のロビーは大賑わいだった。その万歳の声に送られて乗り込んだ飛行機が、新鋭のDC8であった。最後のプロペラ機である。

富永の参加を渋った杉浦の杞憂も、表に出ることなくすんだ。彼が不平や非難がましい言葉をバスの中などで、口にすることがたまにはあったが、横山や近藤は、実にうまい洒落やジョークで、冗談話として押さえ、後には何も残らなかった。和気あいあいのうちの旅は進んだ。

ロスアンゼルスのホテルでは、手塚治虫が例のベレー帽姿で、にこにこ笑いながら、待ち受けてくれた。彼が一行に加わって、何となく全体が明るくなったような気がした。彼の人柄がそうしたのだろう。それから一緒の行動したはずだが、彼は終始、目立つような行動をとることなかった。彼についての具体的な思い出はそんなに多くはない。

モントリオール万博会場の手塚氏

モントリオール万博会場の手塚氏

おそらくは部屋に閉じこもり仕事をしていた時間も、あったではないか。

モントリオールのカナダ万博,(expo67)では、彼と一緒に各国のバビリオンを見て歩いた気がする。「どうも日本館は面白くないね」と周りにいた、おおば等と感想を漏らしていた。

三年後に予定されているExpo70の大阪万博の企画に関係している手塚としては、考えさせられるところが大きかったらしい。

手塚は一日モントリオールに残ってなお研究してから、皆を追いかけることになった。ただ流石科学マンガの大家であって、帰国後、サンケイ新聞に発表した漫画などを見ると、見るところは見ている感じだった。

「手塚治虫大全」(1)マガジンハウス1992年刊

「手塚治虫大全」(1)マガジンハウス1992年刊

スペインのマドリッドで手塚は追いついた。

その日、闘牛を見たりしたが、翌日ゴヤの美術館と言われるほどゴヤの作品が多い、プラド美術館にいった。ゴヤの大作を見た後、ある展示室に行くと、山のように、習作として描かれたゴヤの素描画、スケッチの類が、本箱のような棚に山と積まれていた。

これには素人の私も吃驚した。今日ではこんな見せ方はしていないだろう。しかし漫画家は喜んで、群がって丁寧に一枚一枚、見ていた。このときのことを手塚は書き遺している。

「……ゴヤの絵がうんとあった。

ゴヤ、当時のどの画家もそうであったように、宮廷に出入りして月給をもらっていた。王族の肖像など、まるで人形のように無表情で死んでおり、乗馬などのデッサンもおかしい。来てみたら、壁に掛けて斜め下から鑑賞すると、デッサンがくるっていても、ちょうどよく見えるそうだ。

だがここにはゴヤ自身はいない。

下町のおかみさん連中が口角を飛ばしている絵、大きな画面のすみに犬一匹を描いたもの、悪魔の競演の乱痴気騒ぎ、これらにはゴヤはいる。その絵と一緒に、鑑賞者に笑いかける。

これが漫画家の道だと思う。権力や圧力の庇護があって、漫画家に何ができようか。」(ぼくはまんが家、1979年、大和書房刊)

また沢山の素描画の山に群がる仲間たちから離れて、休憩用のソファーのどっかり腰を落とし、

「ちぇっ、くだらねー」

と嘯いた、サムライが一人いたのにも驚嘆した。

また手塚は次のような冷やっとするエピソードも、書き残している。

「マドリードのプラド美術館にあるピカソの立派な壷の前で馬場のぼる氏と、ぼくは記念写真を摂った。

壺の置かれた台に寄りかかり、ぼくは当然反対側から、馬場氏も寄りかかっているだろうと思って、からだを任せた。ところがである。反対側に馬場氏はいなかった!

傾いた台はいまにも倒れそうになり、ピカソの壺はグラリと一回転した。あわや!ぼくは、真っ青になって壺をかかえた。いやもう、汗でぐしょぬれ、体毛は逆立ち、生きた心地はない。中略

その日以来、マラリア熱の周期のように、この日の出来事が夢になって反復してうなされる。」

このことは手塚以外、誰も知らなかったらしい。誰も口にしなかった。この事件の時誰がカメラを向けていたのか知らない。カメラマンもファインダーを覗いていて気が付かなかったのだろうし、馬場氏も気が付かなかったのであろう。つまり手塚一人が、冷や汗を流したのだろうと思われる。

モンマントルからモンパルナスまで

この後ロンドンで、塩田、サトウが無事合流、ソーホー裏の小屋で見たストリップショウに一同感銘したが、そのことは割愛して、パリの話に移る。

ロンドン塔を訪れた一行。右から西川、横山、杉浦、おおば、近藤、サトウ、小島、富永、塩田、馬場

ロンドン塔を訪れた一行。右から西川、横山、杉浦、おおば、近藤、サトウ、小島、富永、塩田、馬場

ドゴール空港には、パリ在住の益田義信画伯(三井物産の創始者益田孝の孫、文芸趣味の事業家益田太郎冠者の息)が出迎えてくれた。横山からあらかじめ連絡しておいたものであろう。

その日はいいホテルが取れなくて、モンパルナスの小ホテルに、泊まることになっていた。ついたホテルというのは映画「モンパルナスの夜」のどこかに出てきそうな古い、小さなホテルであった。貧窮したモディリアーニがこの辺を歩いたかもしれない感じだ。

フロントには、「外人部隊」や「みもざ館」に、出てくるフランソワーズ・ロゼーのようなおばさんが一人で、小さなフロントで、我々の入室を裁くのであった。われわれは狭い廊下で順番が来るのを待っていた。

旅たつ前に、フランス語を勉強したという杉浦が、「ボンジュール・マダム」とあいさつしたが、一切無視され、「ほら」とばかりに、昔風の重い鍵を押し付けられただけであった。エレベーターが、手動式で二人乗りであった。ガシャっと大きな重い鍵を開けると、中は広くて、ゆったりした寝台がならんでいた。今宵、同室の馬場のぼると顔を見わせて、「こんなホテルも悪くないね」

再開発された現在のモンパルナスにはこんな場所はあるまい。

その夜は益田画伯の案内で、「ツールダルジャン」で、正餐を喫する予定になっていた。型通りに、アペリチフから始まったが、酒の選び方から料理の選び方から、一流だと、ボーイ長が、益田画伯にお世辞を言ったという。

ここは鴨(と言っても合鴨です)料理の専門店だから主菜は、鴨の焼き物であったが、今テーブルに出す鴨は開店以来、何番目にあたるか、数字を書いたカードをくれる。何十何万目のカモだという証明書である。そのカードを見て馬場が、言った。

「これが本当のカモナンバー」

このジョークは大受けに受けた。有名な話であるから、ご存知の方も多かろう。

翌日は、夕食を早めに食べて、夜のパリ探訪ということになった。既に個人的に行く場所を決めている人もあった。残ったものは、益田画伯の案内で、歩くことになった。私は、日本を出て以来、すべての行事に参加し、夜の世界を歩く方にも付き合って、実はパリに着いた時には、疲労困憊状態で、一晩ぐらいは寝ようと思っていた。何しろスケヂュールは、丹念で律儀な西川さんが作ったものだから、少しも時間の無駄もないようにできている。それにやはり大先生がと一緒だから、年中気を張っている。疲れてあたり前だ。

しかし、好奇心につられて益田画伯についていった。

モンマントルの丘の下の、ムーランルージュ近くの歓楽街のバーに往くと、女性がたむろしている。その女が寄ってきて、「シャンペン御馳走して」とねだる。「ウイ」と言ったらその夜の商談が成立するのだという。

商談成立させる積りはまったくなかったが、そういう場面を見るのは面白そうだった。

二,三か所のカフェなどで時間過ごし、いざモンマントル歓楽街へとなると、体がダウンした。眠くて動けなくなった。

益田画伯に頭を下げて謝り、そこから一人で帰らせてもらうことにした。すると、手塚が「僕も一緒に帰る」という。

二人でタクシーを拾った。そのころは日本人の海外旅行ブームが起きる前のことで、昔ながらのヨーロッパ流が、残っていた時代だ。食堂はなダークスーツの背広でないと入れない、我々のブロークン英語など聞き取ってくれる者などいない時代だ。

運転手にホテルの名前と場所を描いたカードを渡すだけである。モンマントルはパリの北にはずれに近い、モンパルナスは南の方である、その真ん中をセーヌが流れている。だからかなりの長距離になる。オペラ座を過ぎてセーヌに向かって走っているあたりで、

「峯さん困った。小便がしたい、もう持たない」

「ホテルまで持ちませんか」

「ダメダメ、とても」

手塚がいう。トイレのあるところで止めてもらわなければならぬ。それを運転手にどう伝えるかだ。われわれの英語などでは、とてもパリの運転手には通じない。どう伝えたらいいか。ふっと一案が浮かんだ。

「先生、絵を描いたら」

「うん」

と言って、手塚は手帳を出してさらさらと、噴水によくある小便小僧のみたいな絵を描いて、ひきちぎって、運転手に見せた。フランス人の運転手はユウモアを介する男だったらしい。

絵を見てうなずくとにっこり笑って、カフェの前にとめて、指をさし「トワレ、トワレ」と叫んだ。トワレと言えば相手に通ずると教えているのだ。

しばらくしてさばさばとして、手塚は無事帰ってきた。あの時は、こちらもどうなることやらやきもきしていたので、手塚が車に乗った時には、こちらも生き返った思いだった。このことは手塚が随筆、漫画で書いているので、読まれた方も多かろう。

鉄腕アトムのカナダ万国博見物

鉄腕アトムのカナダ万国博見物

ホテルに着くと、ロゼーおばさんが面倒くさそうに、前世期的巨大鍵を出すのを受け取って、各自の部屋に入った。私はシャワーを浴びるのも面倒で,着替えるとすぐにベッドにはいった。その日の同室者は馬場だったが、彼もすぐ帰るだろうと予測していた。馬場はああいう遊びは絶対にしないし、近づかない男なのだ。

案の錠、私が眼をつむる前に、ドアをそうっとあけて帰った。そっと開けてもでかい鍵でガシャっとやるのだから、音が出る。

「ね、僕もね。帰ってきちゃった、うふふ」

「分ってる、分ってる」

と私は起き上がりもせず、そのまま寝てしまった。翌日、ローマに向かった。

手塚治虫の帰国

ローマの宿は、古い石造りの立派なホテルだった。夕暮れに到着したので、すぐに夕食だった。食堂に集まるとき、旅行鞄のカギをかけ、その中にこれも鍵をかけた小鞄に、現金二〇〇ドルとパスポートを入れた財布を忍ばせて、部屋に置いてきた。部屋を出るとき、ボーイらしい男が、じろじろ見ながら通り過ぎていったのが気になった。

食後部屋に戻ると、サムソナイトの金属製の鞄が真っ二つひろげられ、あらゆるものが散らかり放題に投げ出されていた。調べてみると、虎の子の二百ドルだけが失われ、パスポートは無事だった。現金だけをとるための所業だった。

同室の馬場のぼるの鞄もやられたが、こっちは現金が入ってなかったので、被害は最少で済んだ。

こういう場合、イタリヤではどうにもならない。現金だけは、部屋に置くなというコンダクターの忠告に忠実でなかったのだから、私としては身から出たさびだが、当夜の旅行団の一事件ではあった。

翌日はお決まりのローマの遺跡めぐりだったが、その留守中に、東京から手塚に電話が入った。夕食の席に出た手塚が、虫プロでボヤ起きたようなことを言った。責任者である自分は、帰国するとみんなに告げた。コンダクターに連絡を頼み、明日の午前中の日航機の席も取ってもらったとみんなに告げた。

本当にボヤが出たのか、虫プロに何か事件が起きたのをボヤと表現したのかわからなかった。翌朝、バスで観光に出かける我々のバスに乗って、日航の営業所まで間で行くことになった。バスが走り出すと

「おお、そうだ。もう旅行チェックは、要らないから、お金を盗られた峯さんに上げよう」

とチェックにサインを始めようとした。「先生、もう旅も半分以上すぎましたから大丈夫です」

と、遠慮したが、小切手帳にサインを始めた。ところが車の渋滞で、動きが取れないといっていた、案内ガールが、突然「日航事務所につきました、駐車できませんのでお早く降りてください」と、催促した。手塚は、

「せっかくなのに残念だね」

とバスを降りて行った。私は手塚のサイン済みの、小切手帳を手にすることはできなかったが、自分の会社に何かが起きて急遽帰国する間際になっても、旅仲間に気を使ってくれた親切が、身に浸みた。

当時、手塚が経営する虫プロは一つに頂点を迎え、従業員、五百人に増大したといわれたが、人気番組,フジテレビの、鉄腕アトムも、前年いっぱいで終了しており、新たにこの年から「悟空の太冒険」「リボンの騎士」などがテレビアニメとして始まっている。

また、膨れ上がった虫プロの整備のため、版権業務と出版業務を、虫プロから離し、新たに虫プロ商事という会社を設立したばかりであった。そこから『COM]という漫画雑誌を前年の暮れに発刊した。それらの新たな重い責任がこの年、手塚の肩にかかっていた。この年は、だから色々と問題が起きやすい年であったのかもしれない。

いずれにしても、何かの問題が生じて、息抜きのため、友人の漫画家と、旅行に出た手塚が、ヨーロッパの果てから、引き戻されてしまったのである。

最後に、もう一つ大事なことはこの年の初めから、最初の成人向けの長編漫画「人間ども集まれ」を描いていたことである。自分の雑誌に連載されているこの作品の進行を、強い期待を以って私は見守っていたのである。

≪本文では敬称を略させていただきました。お許しください。

また参考資料、取材に協力いただいた方のお名前などは、いずれまとめて紹介させていただきます≫

ジャイロトロン

ジャイロトロン

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