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私の手塚治虫 第24回   峯島正行

  • 2016年4月19日 12:09

「ある街角の物語」の完成

虫プロの出発

一日おきの勤務、勤務時間は三時まで、昼食付、三時のおやつ支給。しかも、サラリーマンが足元にも及ばぬ高給で始まった手塚プロ動画部。これらの高待遇のもとはすべて、アニメーションの夢を実現すべく、夜昼もなく漫画を描き、稼ぎ貯めた手塚個人の財布から出ていた。それだけアニメーション制作に賭ける手塚の熱意は、燃え上がっていたといえよう。
手塚は、三時のおやつの時間から五時まで、漫画執筆を中断し、動画部にやってきた、第一作目と決めた「ある街角の物語」の絵コンテを書くためである。それが徐々にたまってくると、元東映動画の坂本雄作や、元横山隆一のオトギプロにいた山本暎一などのアニメーターが、それを補作して、完全な絵コンテにする作業を始めた。
絵コンテとは監督が、スク―リン上に展開するプランであり、製作スタッフへの作業指示でもあった。
手塚の描いてくる絵コンテは、完成したものではなく、手塚の意図が分るようにしただけのラフなもので、絵も説明も簡単なものであった。それを受け取った動画部の人は、完成された絵コンテに、まず仕上げねばならなかった。
絵コンテは、一カットごとに絵の構図、キャラクターの動き、背景を描きこんだ漫画の一コマのような絵が、二カット目、三カット目と縦に並んだ、こまわり漫画のようなものである。それぞれのカットの右側に、そのカットの秒数、セリフ、作画上の注文、撮影や音楽効果の注文、左側にシーン番号、カット番号を書きこんでゆく。
雑誌の漫画連載で、多忙を極める手塚は、三時を過ぎても、動画部に現れないことも多く、走り書きのメモ程度の、絵コンテを回してくることも多かった。動画部の人たちは、三時退社を止めて、一日おきの出勤も日勤に切り替えて、絵コンテ完成に、精を出すようになった。

九月になると、アニメ制作の現場となるスタジオ建設がスタートした。かねてから用意されていた手塚家に隣接する百坪ほどの土地が整備され、二千五百万円の予算で建築が始まった。建坪六十坪,二階建てである。動画部の人たちの意見を入れ、建物全体が、斜めの線を強調した、モダンな設計となった。
スタジオ名も、社の内外から募ったが、結局、手塚の案が通って、「虫プロダクション」に落ち着いた。
「虫」は自分の名前の虫であると同時に、アニメの虫という意味だと、手塚はスタッフに説明した。このスタジオの名前が、そのまま手塚プロから独立する、動画プロの名前となったわけである。
スタジオ建設の賑やかな音が響く中、一〇月になると、「ある街角の物語」の絵コンテは出来上がり、いよいよ原画を書き出すことになった。原画とはアニメの動きのもとになる画のことである。

永遠の手工業?

ここで、動画制作の行程を前出、山本暎一氏の「虫プロ興亡記」、豊田有恒氏の日本SFアニメ創世記」(二〇〇〇年、TBS・ブリタニカ)等によって、簡単に述べて置く。
新しく動画を制作する場合は、まずシナリオライターがシナリオを描く。それによって、先に述べたように演出家が絵コンテを制作する。
絵コンテが出来上がると、原画家(アニメーター)が、アニメーションの動きのもとになるキャラクターの絵を描く。アニメは、この原画をもとにして、一秒間につき、二四コマの少しずつ形のずれた画面からできている。それをつぎつぎとパッパッパと見せられると、目の残像で、画が動いて見える。
その絵を動画という。それを描く人が動画家と呼ばれる。
実際には一秒間に二四枚の動画ではなく、一二枚の動画で済ませている場合が多い。一枚の画で二コマ撮影しても、かなりなめらかな動きが見えるからだ。
そうすると、5秒間のカットだと、六〇枚の動画が必要で、三〇秒の場面だと動画の数は三百六〇枚必要になる。その一つ一つのカットの最初と最後の画が原画である。
つまり、原画家の描いた原画の間を、原画家と相談しながら,動画家がうめてゆき、一カットが出来上がる。
こうして、一カットの動画が出来上がると、それを仕上げ(トレース部)と背景(美術部)に回される。トレース部は画用紙に描かれたキャラクターを、セルと呼ばれる透明のアセテート版に、画の線をなぞって写してゆく。現在はこの作業は、コピー機によって簡略化されている。
そうして写し取ったものに色を塗る。白黒アニメの場合も、色の濃淡があるので、それを塗り分ける。
美術部は、回されてきたキャラクターの画の背景を描く。
以上が出来上がると、撮影部に送られる。撮影部では、カメラの下に背景をセットし、背景の上に、さっきのセルを重ねる。すると、キャラクターの部分は色が塗られているので、背景が隠れ、それ以外のところは、透明なので、背景が見えるというわけである。このセルを一枚一枚取り替えながら、一枚ずつシャッターを切ってゆく。
撮影の終わったフィルムは、現像所に持ち込まれ、ポジフィルムになる。これをラッシュと言い、これによって録音や編集作業をする。このラッシュを映写機にかけて、画の動きや撮影効果が、意図通りに出来ているか、スクーリンのうえで確認する。良ければそのカットは出来上がり、駄目な場合はリテーク、つまり最初から作り直しとなる。そうしてすべてのカットが出そろったときに、一本のフィルムの完成となる。
以上、簡単に述べたが、実際に、アニメが出来上がるまでには、大変な労力と人手を要するわけである。特に最初の動画制作までは、膨大な人手と時間を要する。これは動画が絵で描かれている以上、人の手で描くほかに、方法がないためである。
つまり事業としては、合理化の余地がきわめて少ない。絵を動かして物語を作るアニメは、機械化できない、永遠の手工業なのである。そこに手塚たちの創作家としての誇りもあるわけだが、事業としては、弱点でもあるわけだ。
このことが、アニメ・プロダクションの経営を困難にさせる要因であり、のちの虫プロの破綻の最大原因もここにあったと言えよう。

「鉄腕アトム」のテレビ化

しかし、虫プロの第一作で、虫プロの旗揚げを天下に知らしめる烽火にしようと手塚がもくろむ、芸術的実験作品「ある街角の物語」は、手塚の稼ぎをつぎ込んで、丁寧に作られていった。その年、昭和三六年の秋も深まる頃、原画作りからその後の作業も着々と進んでいた。人員も最初の四名から、徐々に増えて一五人になった。
意気揚々のうちに、その年も暮れ、新年を迎えた。手塚は虫プロを、手塚プロから独立させ、「株式会社虫プロダクション」を設立。資本金二百万円、全額手塚が出資、そして自ら取締役社長となった。手塚プロのマネージャだった山下が、虫プロ専務取締役を兼務した。このことは内外に、アニメーション制作に本腰を入れるという、彼の明確な宣言であった。
虫プロの内部では「ある街角の物語」に次ぐ、第二作制作が話題になっていた。手塚の理想のアニメを作ってゆくために、大衆的なアニメを造り、その売り上げと利益によって、その製作費を出してゆくというのが、手塚の描いた虫プロの将来像であったから、当然、第二作は、大衆的な興味を呼ぶ作品でなければならない。
虫プロの実質チーフアニメ-ターの立場になった、坂本を中心に、如何にして、金を稼げるアニメーションを作るか、論議を始めた。
彼らの頭に、ふと浮かんだのはテレビにアニメ番組をのせることだった。考えてみれば、日本で作られた本格的アニメが、テレビで放映されたことはない。そこに漫画アニメを流すようにしたら、必ず評判になるはずだ、と彼等は考えたのであった。
テレビでアニメをやるとしたら、一回限りで終わるものでは意味がない。一話一回の長編連続でなければ意味がない。しかし長編となると、膨大な資金と人員を要する。
アニメ映画の先駆的存在である東映動画では、一時間半の長編を一本作るのに、三百五十人のスタッフ、六,七千万円の製作費で、一年、二年という時間をかけて、制作している。
ディズニーや東映の作っているフル・アニメーションは、一秒に、十二枚の動画を使っている。これだと画面が滑らかに動く。これをテレビでやるとして、三十分番組だと、コマーシャルなどを抜いた本編の正味を二十五分間と考えると、動画枚数は一万八千枚必要となる計算である。毎週それだけの動画が出来るわけはない。もしやるとすると、数百人規模の動画家が必要になる。
アメリカでは、ディズニーのフル・アニメーションに対して、リミテッド・アニメーションという方式を編み出した。或るプロダクションがこの方式で漫画番組を作り出し、それが日本でも、関心を呼んだが、それは粗っぽくて、単純な四コマ漫画程度のものであったので、評判が悪かった。
虫プロの内部では、フル・アニメーションほど滑らかに絵が動かなくても、毎週完結する面白いストーリーがあれば、画はそう動かなくても、視聴者をひきつけることが出来のではないか、と考えたのだ。
「その原作者は、手塚治虫。その作品は鉄腕アトム!」
期せずして、彼等の口から、異口同音に、声がほとばしった。一番身近に原作の候補があったのだ。
それを一回正味、二五分の番組として、動画の枚数をどこまで縮められるか、改めて計算すると、原画一枚当たり一八コマ撮り、にすれば何とかなるという話になった。初めから終わりまで、一八コマ撮りにするのではなく、ある部分は二コマ撮りにして、滑らかに動かし、ある部分は五秒止めのカットを造るなどすれば、平均一回に、二千枚以下の動画ですむという計算をたてた。

一本、二千枚の動画

「鉄腕アトム」アニメ化案を手塚治虫へ提案するや、端からテレビアニメへの挑戦を考えていた手塚は直ちに、OKを出した。ただし、毎週放映、毎週一本ずつ制作となると、一本につき二千枚の動画では、労力的にも制作費から言っても、出来ないということになった。
手塚は、動画枚数をさらに減らして、千五百枚から千八百枚に抑えることにした。その為、手塚とアニメーターたちとの試行錯誤の結果、絵コンテで、動画枚数を食わない演技の工夫をすることにした。アニメーターの熟練度の必要なフル・アニメーション技法を捨て、絵心のあるものならば、誰でもできるような優しい技法も同時に研究した。
その結果、簡単で、動画枚数を減らせられるパターンが出来上がった。それは以下のような製作法だった。

1、 一枚の動画を三コマに撮る。
2、 キャラクターの顔のアップなど、動かさなくても、そうおかしくはないものは、動画一枚で済ます。
3、 歩いたり、走ったりするキャラクターの動きは、繰り返しの動画にして、背景の方をスライドさせる。
4、 人物が腕を振り上げたりする場合、顔と体は止めて、腕だけを部分的に動かす。
5、 セリフをしゃべる場合は、体を動かさず、口だけをパクパク動かす
其の他数項目の原則を基本にして、そのバリエーションで、動きのすべてを作り出すことにした。

手塚は、実際の仕事が始まってからさらに、現実的な方法を発案し実行した。手塚は、自ら次のように書き残している・
「『アトム』の絵がたまってくると、それを整理分類して積んでおき、同じ絵を何回も繰り返し使った。これはバンク・システムと名付けた方法で、(中略) バンクはつまり銀行であって、まあ、絵の銀行だ。アトムとか、お茶の水博士とか、ヒゲオヤジとかを別々に分類するだけではない。アトムならアトムの怒り、泣き、驚きなどの表情から、大写し、全身、遠景などに分け、はては手とか足とか口とか眼だけを別々に描いて分類した。自然現象の雨、風、雪や波、煙、噴火、崖崩れ、武器、各動物、乗り物、目を回した時出る星までナンバーを入れて分類した。これらを整理するスタッフは、毎週一回、ドサッと山のごとく持ち込まれる使用済みの新しい絵を悲鳴を上げながらより分けるのである」(ぼくはマンガ家、大和書房、一九七九年)

手塚は虫プロの内部を、テレビと映画部に分けた。テレビ部は今皆が考えている「鉄腕アトム」のような商業性に徹したもうかる仕事をする。映画部は、テレビ部のもうけた金で、「ある街角の物語」のような実験作品を作る。一番経験が多い坂本が、アニメーター全員のチーフになるとともに、テレビ部のチーフになり、映画部のチーフには、山本がなった。それぞれのスタッフは、映画部、テレビ部と固定せず、状況に応じて流動的に働くことに決めたのである。

穴見薫の売り込み

四月、スタジオが完成した。白塗りの瀟洒な建物である。虫プロのスタッフはそこに引っ越した。二階の大広間に、原画、動画、仕上げ、背景などの絵を描く連中が入った。二回の新人募集で、手塚や今井専務を除いて、スタッフの数は三八人に増加した。
五月。
虫プロの坂本が、一人の男を手塚のもとに、連れてきた。男の名は穴見薫。六尺豊かな大男、大手広告代理店、「萬年社」の企画部員だという。
この男が坂本と知り合ったのは、穴見の妻君が、東映動画では、名の知られたアニメーターであった関係からであった。東大在学中、学徒出陣、特攻隊員になったが、終戦で復員、一時新劇の仕事をした後、現在の仕事についたという。虫プロで、テレビアニメの企画を立てると聞いて、坂本に自らを売り込んで来たのだ。
テレビアニメを実現するには、広告代理店を通じ、製作者、テレビ局、スポンサーと結びつけなければならないことを知っていた坂本は、虫プロの仲間と共に、彼に会って、話を聞き、その熱意とテレビアニメへの夢を知り、手塚に紹介したのであった。
穴見は手塚に対して以下のように、必死な形相になって口説いたらしい。
「あなたたちの志を実現するためには、 テレビ局、スポンサー、広告代理店等、放送を構成する関係者たちへの啓蒙、説得、組織化がまず必要になります。これはかなりな大仕事です」
と述べ、自分がその業務に携わる広告代理店の役割について述べ立てた。広告代理店は単に、スポンサーとテレビ局の間に立って、放送料のマージンを稼ぐだけでなく、手塚らのやっているような、新しい仕事を成功させるのが使命である、と説いたのである。
「私は一広告代理店の社員ではなく、自分個人として、先生がなさろうとしている、前人未到の事業に参画させて頂きたい。私はみなさんの一員として自分の所属する萬年社を説得するとこから開拓を始めてみたい、ぜひそうさせてください」
大男の元特攻隊員が、必死の形相で、手塚に迫ったようだ。漫画作家である手塚は、テレビ用のアニメを作ろうとしているが、如何に売るかというビジネスの方面には、疎いし、作ることに夢中であったが、売る方法まで頭が回っていなかったのだ。
手塚はこの男の言を入れた。この時、その手腕は別として、穴見の言に嘘はなく、その誠実さも本物であったろう。手塚が彼を受け入れた後、もう虫プロの一員のように出入りしだした。
彼はその翌年に、虫プロの常務取締
役となり、この新しい企業の経営に当たるのであったが、私には、彼にその手腕があったとは思えないのだ。
彼はこうして、「鉄腕アトム」の制作販売に当たるのだが、その契約の時期とか、制作の方法を確立しないまま、アトムの放映を決めてしまったために、虫プロ全体が苦労するのである。私は中堅広告会社、萬年社の一社員にすぎないものが、野心に駆られて、虫プロの中に、会社経営のセンスのあるものがいないのを幸いに、この会社を牛耳ろうとしたために、虫プロの生存にさえ、影響を与えたと、思われるのである。いずれ、そのことは、おいおい述べてゆく。

ヤマハホールの発表会

夏に入って、映画部の努力の甲斐あって「街角の物語」の作業が進んで、秋にはどうやら、出来上がる見通しが立つようになった。手塚はスタッフを集めて、「アトム」の制作開始の宣言をした。
「アトムは僕の原作だから最初の何本かは、ボクが演出と原画はやります。慣れたところで、諸君にも演出、原画を描いていただきます」
といい、山本、今野など3人が「街角の物語」に集中し、他のスタッフは、手塚が書く原画をもとに、動画を描くことにした。仕上げや背景のスタッフは、両方の作品に共通とした。スタッフの数は、前述のように新旧三十八人である。その人たちの役割りは原画六、動画六、仕上げ一四、背景五、撮影四、制作進行二、総務一に割り振った。
これだけの人数で「街角」という実験作品と、毎週三十分のテレビアニメ、「アトム」を作って行こうというのである。それが出来るか、最初から疑問だった。「アトム」の場合、先に述べた通り、節約しても一週に二千枚近くの動画を要するのだ。そこが問題なのだが、ともかく発進した。
しばらくすると手塚の描いた「ァトム」の原画が三,四カット分が、テレビ部に届けられた。どうやら疾走する自動車のフロントからの眺めらしい。それから、原画は毎日、数カットずつ届けられて、一人の少年が、未来型車をぶっとばし、交通事故を起こすところまで、進んだ。そこに手塚が絵の説明といかなるカットにするか、を説明にやってきた。
漫画の執筆に追い立てられている手塚からは、そのようにポツリポツリとしか原画がでてこない。それを、ベテランの原画家が動画に描くのだから、すぐ消化してしまう。
二週間たっても、いくらも上がってこない。それを誰かかが口にすると「先生から原画が来ないのだからしようがない」
と原画部門の坂本が答えざるを得ない。現実に、テレビで放映されるようになったら、一週間のうちに原画と動画が上がらないと、放送に穴があく。しかも、一本の動画が二千枚近くになる。それを一週間で上げなければならない。それが出来るか、スタッフ全員が危惧していた。

秋も深まると、「ある街角」の方は作画作業をすべて終えて、最後の編集を終えると,長さが、三八分五二秒の中編作品になった。手塚は音楽を高井達雄に、効果音を制作グループに渡し、制作完了となった。手塚は十一月六日に、銀座のヤマハホールを借りて、「虫プロダクション第1回作品発表会」という名のもとに、試写会を開くことに決めた。
その発表会は、各方面の話題を呼び、当日は大盛況であった。
そして「街角」は、その年の「芸術祭奨励賞」を獲得し、続いて、「ブルリボン賞」「毎日映画コンクール大賞」を獲得した。
いまや手塚は、アニメーションの新しい旗手として、日本最初の芸術的なアニメ作家として、輝かしい日を迎えたのである。幼い時からの夢が見事に実ったといえよう。
手塚は、一年の日時と、一二〇〇万円の製作費がかかったと述べているが、この金額は、人気漫画家として、多くの連載漫画を抱え、締め切りに追われ、雑誌編集者からは、手塚嘘虫(うそむし)、手塚遅虫(おそむし)とよばれながら、悪戦苦闘の末、作り上げた金であった。またアニメの制作時間は、漫画執筆の間に、そっと抜け出して作った短い時間を重ねて作った時間であった。
この後、テレビアニメの「鉄腕アトム」の制作には、さらなる難関を続けて越えなければならなかった。(続く)

私の手塚治虫 第23回  峯島正行

  • 2016年3月11日 13:01

私の手塚治虫(23)
夢のアニメ制作
峯島正行

「アニメーション」への開眼

前章まで、手塚治虫の週刊漫画サンデー掲載関係の、成人漫画について主として論じてきたが、手塚は漫画サンデーに書かなくなってからも、成人漫画を描き続けた。
成人漫画は、手塚の業績の三大分野の一つ、と言える大業績と思っている。成人漫画を描き始めたころはすでに手塚は、児童漫画の世界で王者の地位に君臨していた。戦争直後の昭和二二年、単行本で、長編ストーリー漫画、「新宝島」を描き下ろしの単行本で出したところが、これが爆発的なベストセラーとなり、以来、「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」など多くのストーリー漫画の大作を発表、忽ちのうちに児童漫画の第一人者になった。
手塚の前にも児童漫画には、ストーリー漫画は、無きにしも有らずであったが、話が単純なものだったし、漫画と言えば一コマか四コマのお笑い漫画が、主流であった。
そのような漫画界に、小説のように複雑な物語を、手塚が戦時中から見てきた、ドイツ映画の手法を基にして、変化と迫力のあるコマ運びで、ストーリー漫画を描いてきた。この手塚が発明した漫画手法は従来なかった波乱万丈な物語、複雑な人間関係の表現を可能にした。
さらに手塚は医学博士にもなった、豊富な科学知識を利用して、ストーリー漫画にSF的世界をも持ち込み、新たな読者をひきつけた。こういう手塚的漫画はすっかり定着して、児童漫画の大きな潮流となった。
こうして学生の身でありながら、すでに大流行作家となり、大学卒業を控えて、将来医者になるか、そのまま漫画家で行くか大いに悩み、母親にも相談したという。母の自分のやりたい方を選びなさいという言に従って、好きな漫画家で通したという。
そして、医学博士の資格もたったことは既に述べたとおりである。

この児童漫画、成人漫画の他のもう一つの手塚の重大分野は、アニメーションの業績である。アニメーションは成人漫画と殆ど同時代に始められ、他の二大分野と並行して、大業績を上げたのである。そこから手塚は超人といわれた。
だが、後年アニメの制作会社、「虫プロ」の経営不振で、大変な苦労をなめなければならなかった。それが、手塚の唯一の、人生の躓きとなった。それについては後述する。

手塚のアニメーションへの開眼は早かった。小学生の頃、お父さんが、9ミリ半という、古い型の映写機を持っていて、百貨店で、家庭用にマンガフイルムを買ってきては、映してみせてくれた。正月が来ると町の映画館はマンガ映画大会を催した。外国の漫画、ミッキーマウス、ポパイ、ベティーちゃんといったアメリカンコミックのスターたちが登場する、映画を二十本本ほどならべて、上映した。
「お正月が来ると、オーバーを着て電車に乗って、デパートの食堂でごはんを食べて、マンガ大会を見るのが楽しみでたまりませんでした」(手束治虫全史・平成一〇年、秋田書店刊)と手塚は述懐している。
戦争に入ると、「くもとちゅうりっぷ」「桃太郎・海の神兵」などという傑作が公開され、手塚はそれに強くひかれた。
「僕は空襲の最中、ぼろぼろの映画館でこの『桃太郎・海の神兵』を見て感激して思わず泣いてしまった」(前掲書)と書き残している。
戦争が終わってから、人に借りた古いカメラで、漫画映画らしきものを自己流で作ったりしていたという。
戦後になると、外国の傑作漫画映画が輸入されるようになった。そのすべてを手塚は、映画館に通って見た。手塚は次のように書く。
「そのうちに、どしどし外国の立派な漫画映画が入ってきました。最初に見たのはフライシャーの『ガリバー旅行記』で次はソビエトの『私の仔馬』でした。
『ガリバー旅行記』は30回『私の仔馬』は50回も見てしまいました。しかし一番多く見たのは「バンビ」で朝から晩まで映画館に座っていました。
おなかがへっても、あんパンをかじり、夜になると、すぐ横のガードの下にある木賃宿にとまって、ひと晩中シラミにかまれながら、あくる朝、また映画館にとびこみました。全部で何回見たか覚えておりませんが、百三十回は見たと思います」(前掲書)と述べているが驚くべき、熱の入れようといえよう。
漫画映画を見るたびに、手塚は必ず将来、アニメーションを造ることを誓うのであった。
後年、手塚は「自分にとっては、漫画は本妻、アニメは愛人だった」とジョークを述べているが、まさに、愛人を持つには時間と労力と金がかかることにおいては、本妻を一人守るより何十倍になるかわからない位のものである。そして愛人のためには、身を滅ぼすことにもなりかねない。手塚は、まさにアニメという愛人のために、身は累卵の危機に
見舞われることになるのである。
青年の手塚に、そんな予測は出来る筈もない。しかし、アニメ制作には、金と労力がものすごくかかることは、手塚も予測できていた。
将来にアニメの夢を見て、図らずも当たりに当たっていた漫画に精を出したのであった。彼は、すでにアニメーションを制作をしていた横山隆一のオトギプロを訪ねて、アニメ制作の現場に触れていた。

莫大な漫画の年収

やがて経済的な面からも、アニメに取り組めるようになっていった。
それは漫画の収入が莫大になり、余裕が出来たからである。すでに昭和29年度において、関西長者番付の画家の部で、トップとなった。当時の金で、年収二百十七万円。週刊朝日で「知られざる200万円長者」として世間に紹介された。   そして、昭和三六年度には、日本全国の長者番付の画家、漫画家の部で、トップとなった。このような収入の拡大が、手塚をして、動画作成に導いて行くのであった。
横山隆一が、鎌倉の自宅に作った、「オトギプロ」では最初に「おんぶお化け」という作品を完成した。その試写会に招待されて、改めてアニメの魅力に取りつかれた。その完成祝賀会の会場で、横山におめでとうの挨拶をすると、横山から、「手塚君、君もそろそろマンガ映画を造ったら」とはっぱをかけられた。
「まだちょっと早い気がいたしまして」
と謙遜はしてみたものの、自分もいよいよ動画に乗り出す機会が近づいたとおもった、という。それから原稿料の収入をためて、動画作成の準備を始めた。
久里洋二、真鍋博、柳原良平の3人の当代を代表するイラストライターが集まって、「三人のアニメーションの会」というものをつくり、作品の発表をするという通知が手塚のところにも舞い込んだ。この三人の会の作品は八ミリの小品であった。確かに小品であるが、実験的意欲に燃えて作っていることが、よく分るような作品だった。
「あんたが作るのを待ってるぜ」
と久里洋二に肩を叩かれた、手塚はにやりと笑って、胸を叩いて、「もうすぐやりますよ」と言い返したという。実はその頃、商業動画の先駆をなした、東映動画の仕事を内緒でやっていたのであった。
昭和三十三年東映動画から頼まれ、手塚の作品「ぼくの孫悟空」を動画化したいのだが協力してくれと頼まれ、生まれて初めて、組織の一員として、動画作りに励んでいたのであった。手塚は組織の協力体制ということを学び取りながら、長編動画「西遊記」の構成の責任を果たした。
「西遊記」が好評だったので、次の作品「シンドバットの冒険」の構成を受け持つことになった。船の話なので、「どくとるマンボウ」の作者、北杜夫と共作した。

新築の事務所に尋ねてきた青年

「ぼつぼつ気分を一新して、念願の動画に手を出す時期が来たと思った。
家内に向かって
『これからおれは、大変な事業を始めるので、成功してもしなくても、うちはひどい窮乏生活に見舞われるが、我慢してくれ』
とくぎを刺しておくと、家内はダモクレスのような顔をした。もっとも僕が事業に失敗をしたとしても、医者に戻って商売をやり直せ、と女房がいう気遣いはまずなかった。家内は、医者の診察室の匂いが頗る嫌いで、ぼくの前にいい見合いの相手があったのだが、医者だと知って辞めてしまったくらいである」(ぼくはマンガ家・1979年、大和書房)   と冗談をまじえて、述べている。
練馬の西武線、富士見台に、四百坪の土地を手に入れ、スタジオ兼住宅を建て、中古ながら、アニメ用のカメラを買い、庭の隅の小屋を建て、そこに収めて、いざという日に備えた。
その新築の白亜の家に移り、漫画の仕事場とし、アニメ制作の準備を始めた。
富士見台と言えば、今位置は住宅地としてにぎわっているが、当時はまだ練馬区谷原町と言い、全くの田園地帯で、富士見丘の駅から、暫く行くと雑木林の向こうに、くっきりと富士山が浮かび、駅名を富士見ヶ丘と名付けられたのも頷ける光景であった。
手塚家の新築の家の周りは畑で、家の前は牧場で、牛がのそのそと歩き。「モーッ」と泣いていた。昭和三五年一〇月の、ある日そこに、編集者でもないらしい一人の青年が、訪ねて来た。
横山隆一のオトギプロのアニメーターをしていた、山本暎一という青年だった。彼は、完璧な芸術的なアニメーションの制作を見ざし、大衆的な作品を造ろうとしない横山のアニメ制作に飽き足らず、もっと広い観客を喜ばせる娯楽的な作品を作りたいと念願し、横山の庇護のもとにあった境遇を脱却して、娯楽アニメの制作を目指し新たな勉強をしていたところ、週刊誌で、手塚がアニメの制作に乗り出す、と書かれてあったので、手塚なら、自分の希望に沿った作品を作るのじゃないかと思い、矢も盾もたまらずとにかくやってきたのであった。         彼は後年、アニメの演出家として鳴らす男だが、このころはほんの白面の青年だった。後年、自著「虫プロ興亡記」(一九八九年、新潮社)で、彼は次のように記している。
「畠の真ん中に、二階建ての、白い、四角い、コンクリート作りのモダーンな建物が、ドーンと秋の陽を跳ね返し、輝いていた。まるで城館だ。度肝を抜かれ足がすくんだ」
勇気を鼓して、彼は重い門の扉を押して、やっとの思いで、玄関までたどりつき、ベルを鳴らした。すると端正な顔立ちの手塚夫人がドアーを開けた。
「僕は横山隆一先生のオトギプロにいたものですが、先生がアニメーションを始められると聞いたものですから、先生につかって頂けないかと思ってお願いにあがったんですが…」としどろもどろにいった。
「お約束ですか」と夫人は聞く。
「いいえ」
やっぱりだめか。絶望感みたいなものが心に沸く。
「ちょっとお待ちになって」
夫人はそういうと、奥に去って行った。やがて、手塚の弟子らしい男が
「どうぞ上がってください」
と案内に立った。その男は絵具が付いたズボンを汚らしくはいていた。この男が漫画家として後年大成した、古谷三敏だった。
応接間で待たされること三〇分、ガチャリと、ノブを回して、手塚が入ってきた。
「いや、どうもどうも」
とベレー帽の上から頭をかきながら、手塚調で挨拶した。
山本は、へえ手塚ってこんな若い人なのか、と一瞬思った。この時手塚はまだ三一歳であった。テーブルの上の缶入りのピースを一本、山本にとらせ、自分も、一本とって、お互いの煙草に火を点けた。二年余も働いたオトギプロをなぜやめたのかという話に入っていった。
「隆一先生は『おんぶお化け』という素晴らしい作品があるんですが、これを習作だからと言いて、一般には見せないんですよ。そこが淋しいんです。出来たものは大勢の人見せたいんです。大勢の人に見てもらうのには、芸術では大衆受けしないなら、芸術でなくてもいいとおもうんです」
「そういう気持ちわかりますよ」
「それでさんざん悩んだんですが、やっぱり納得するアニメ作りをやりたいんです」
「その気持ちわかります」
「それで先生がアニメーション映画をおやりになることを知りましたが、先生ならきっと大衆につながるものをお作りになると思って…」
「そうでしたか、しかし、やはり芸術的なアニメは作るべきです。僕がアニメをやるのも実験的な芸術作品をつくるためでして。そうでなくては、我々は作家じゃなくなります。
ただアニメを作るのにはお金がかかるし、実験作品はあまり売れないからそればっかりじゃ、制作活動が尻つぼみになってしまいますから。ぼくは実験作品を作る一方で、大衆娯楽作品を造ります。こちらは商品ですから、お客さんのくるような絶対面白い作品を作って、うんとヒットさせて、お金が儲かるようにしたいんです。そのお金で芸術作品を作るんです。」
やっぱり手塚だ、と山本は痛感する。
「そのために東映動画で技術の勉強もしたし、オトギプロにも行って、横山さんからいろいろ教えてもらったんです。この家を建てた時も隣へ、将来、スタヂオ建設する土地も一緒に買いましてね、それでまあ、ぼつぼつやれるところまで来たんですが…」
と手塚は若い青年に情熱の一端をほどばしらせた。
「先生、ぼくを雇ってください。お願いです」
青年はそう叫んでいた。
以上は前出、「山本映一著、虫プロ興亡記」により、描いたものだが、多くの虫プロの歴史をえがいた書籍があるが、その中で虫プロ草創期を描いたものでは、同書が一番、客観的で詳しく、手塚にインチメイトをもって書かれていると思われる。以下、山本の手塚プロ動画部入社の経緯について、同書に拠って、描いてゆく。それによって、当時の手塚の心境、がよく分ると思うからである

アニメーター並みの厚遇

その年が明けて、翌年昭和三六年の春手塚は、東映動画のベテランアニメーターであった坂本雄作を、手塚プロに入社させた。ベテランと言っても、まだ二六七の青年だった。それだけ、アニメは若い世代のものだった。
ついで広川和幸という青年を雇った。手塚フアン倶楽部にいた青年で、その春高校を出たばかりで、撮影担当を志望していた。もう一人、渡辺という女性で、CMプロダクションで、アニメの仕上げをやっていた人だった。
五月になって手塚は、山本を電報で呼び寄せた。まだ各戸に電話がひれていない時代であった。電報を受け取った山本が、手塚プロに電話すると、マネージャーの今井と称する人が電話に出て、話し合い六月の初め、初出勤が決まった。  その日出勤すると、四〇歳位に見える
痩せた猫背の今井が、待っていた。
「よろしくお願いいたします」
と頭を下げると、
「「もう、ここに来たとき呼び鈴押すことないです、他所の人ではないんですから」
よその人じゃないという言葉が,山本を痺れさせた。そしてすぐ月給の話になった。
「三万円でどうでしょう」
オトギプロで彼がもらっていた金の二倍ではないか」
当時アニメーターは特別の技能職とされ、相当に高級であったのだ。山本をアニメーターと認めての給料だった。
「じつは、すでに東映動画から坂本さんというベテランアニメーターが来てましてね、その人とのバランスがあるのでね、ご不満かも知れませんが」
「いえ、十分です」
と答えていた。」
「それは有難い。お昼になったら食事はみんなと外に食べに行きましょう。食事の代金は手塚の方で出しますので。それから三時には、おやつが出ます。おやつを食べたら、どうぞお帰り下さい。」

「え、えっ」
「出勤も当分は一日おきにしています」
そのようにアニメ制作にかかわる人を大事に扱ったのは、手塚が動画制作の夢と情熱をかけている証拠でもある。その厚遇ぶりにあっけにとられている山本に、
「じゃ先生に会って頂きましょうか」今井が仕事部屋のドアーをあける。とたんにガガガーンと物凄く大きな音で、音楽が響き渡っている。そこは一,二階吹き抜けの長方形の大きな部屋だった。部屋の片方の壁に、ステレオのスピーカーが植え込まれていて、交響曲の轟音は、そこから発せられているらしい。
今井が説明するのには、音楽好きな手塚はそのメロデーに載って仕事をすると能率が上がるといっていること、ボリュームを上げているのは、手塚がこのところ、徹夜続きで疲れているので、その眠気覚ましのためだ、という。
そのスピーカーの前に机が並び、そこに五,六名ほどの男女の若者が、漫画の原稿に消しゴムを掛けたり、墨やホワイトをぬったりしていた。つまり彼らは漫画のアシスタントであった。
彼等の頭の上はバルコニーのような二階になっていた。そこに手塚の机があり、手塚が背を向けて、漫画原稿を書いていた。
その背中に向けて今井が叫ぶ。
「先生!山本さんが来ました」
と叫ぶ。手塚は、ペンをすすめながら、
「はーい、ちょっと待って」と返事する。やがて原稿が一ページ分出来あがると、バルコニーの手すりに結び付けられた紐の先にクリップで止め、すとんとと落すと、丁度アシスタントたちの鼻先にぶら下がるように紐が調節されている。するとアシスタントが手を伸ばし、それを受け取る。
そこで手塚が立ち上がり、プレイヤーのボリュームを落とし、「いやーどうも、どうも」と降りてくる。
挨拶が終わると「悪いんだけど、今日は漫画の方が忙しいんでこれで失礼します。これからのことは、今井が心得ておりますから,ご相談ください」とまたベレー帽をかぶり直し机に向うのであった。
そのあと、山本にアシスタントを紹介されたが、轟音に消されて、名前など聞き取れなかった。部屋を出ると、轟音が止み、普通の世界に戻った。
手塚はアニメを始める決意をしても、漫画の仕事は増える一方のようであった。人気実力ナンバーワンの作家を出版社が、離しはしなかった。週刊の児童雑誌が発行されるに至って、仕事は膨張する一方だったのだ。
今井は各出版社の編集者が、屯して待っている部屋をも案内した。開け放たれた玄関お近くの部屋に、七、八人の男性が、花札を引いたり、寝転がって本を読んだりして、原稿の出来上がりを待っていた。

動画部の発足

さて最後に今井は玄関の上の二階の八帖ほどの部屋に連れて行った。そこで坂本らアニメのために入社した三人の人がいた。この人たちが、アニメの担当者だった。
どうやら山本を含めた四人が手塚アニメの草創のメンバーのようであった。
「宜しくお願いします」と山本は三人に頭を下げた。
「それで仕事は、何をすればいいんですか」
と今井に聞くと、
「まだ何もしなくていいんです。雑誌の仕事で、ガタガタしているうちは、手塚は手が離せませんしね、皆さんお机などが来るまでは、もうちょっと時間がかかりますので、それまでは何も仕事はしなくていいのです」
という話であった。
その日は三時に手塚の好物だというアイスキャンデーがおやつに出て、その日は終わった。

六月の半ばになって、やっと机が入った。それを手塚プロの二階の部屋に入れて、坂本、山本たちはそれぞれの机に着いた。手塚は同時に、手塚プロを一階の漫画部と二階の動画部に分けて、動画制作に乗り出すことにした。
その動画部に、七月になると、坂本とと同じ芸大で、二年後輩、やはり東映動画にいたアニメーター,紺野修司が入ってきた。さらにキャラクター・デザイナーとして、同じく芸大での新井某が入り、八月には、すぐ杉井儀三郎というアニメーターが参加した。坂本に言わせると、東映動画で天才といわれたアニメーターだったという。山本と同じく高校だけしか卒業していなかったが、後年「銀河鉄道の夜」「源氏物語」などを監督した。

こうして集まってきた動画部の人たちに対する待遇も、漫画部の人とは違っていたという。
「漫画部のアシスタントは、あくまでも、手塚という人格の一部にすぎない文字通りの助手だ。アニメのスタッフの方は助手ではなく、それぞれ個性を持った芸術家で、手塚と共同の仕事をする作家の集団という扱いだった」
と、山本は前掲書に書いている。
手塚が、出版社の編集者相手に闘争を繰り広げながら、徹夜をして創り出した漫画による稼ぎを、ドンブリ勘定式に、
アニメ関係の人の給料やその他に惜しげもなく、使っていたわけである。まだ動画部が、一銭の稼ぎもないうちにである。
それだけ、手塚の動画にたいする憧れと熱意が、高かったという証拠でもあろう。

手塚は動画部として確立する前から、坂本や山本の屯するところにやってきて、動画に対する夢を語るとともに、
意中にあった第一作とすべき、アニメーション映画のストーリーを原稿用紙数枚に書いてみんなに見せた。タイトルは「ある街角の物語」とあった。そこにはこんな詩のような荒筋が書かれていた。
ここにお大略を紹介してみる。

ヨーロッパのどこかの国のある街角。
今日も風船売りの小父さんがその路地にやってきた。その一つの風船が、なにかの拍子に、ひとつフワフワと飛んでしまった。アパートの屋根の樋にひっかかった。屋根裏に住む貧しい女の子は、それを取ろうとして、抱いていたクマのぬいぐるみを窓から落としてしまう。ぬいぐるみは屋根を転がって誰の手にも届かない樋に止まる。女の子はそのぬいぐるみにドロップを投げてやる。
屋根裏には子沢山ネズミの一家もいて、しょっちゅう騒動を繰り広げる。
路地の壁には様々なポスターが貼られている。その中の、酒場女のイラストポスターは、青年バイオリニストのポスターに色目を使っているが、青年は離れたところにある少女ピアニストのポスターにひかれている。やがて青年のバイオリンからも少女のピアノからも、愛の曲が流れ始める。
路地に立つ古い街灯は、もう寿命が尽きようとしていたが、ポスターの青年バイオリニストと少女ピアニストの励ましの合奏を聞き、力を振り絞って灯をともすことが出来る。
路地に植えられたプラタナスは今年も、種をまこうとしているが、舗装されている路地ではなかなかうまくゆかない。
こうしたささやかな住人達の日常生活の場へ、ある日突然、軍靴の音が鳴り響き、独裁者のポスターが、その街角に張られだす。住民たちの抵抗もむなしく、独裁者のポスターの大行進だ。
戦争がはじまり、街角にも爆弾が落ちる。そして多くの住民の死。青年と少女のポスターは爆風にはがれて一つになって燃え切った。
時は流れる。
戦争は終わった。廃墟の街角にあの屋根裏部屋の少女はがやってくる。瓦礫の下から焦げた熊の縫いぐるみを見つけ、頬ずりして抱きしめていた。傍ら土のほとりに、緑のプラタナスが芽を吹いていた。

これを動画部のみんなに読ませ、手塚は,おやつのカリントウをかじりながら、癖になっている貧乏ゆすりをしながら、
「どうですか」
と一同を見まわした。皆はいいですね、と溜めいき漏らし、息をつく。手塚は続ける。
「僕はこれを映像詩みたいな作品にしたいんです。せりふは一切なく音楽と効果音だけで表現してゆく」
「いいなー」
と誰かが声を発する。
「だけど売れますかね」
「商業的な映画館でやる興行は考えは無いんですよ。第一作ですから、我々の力が十分出ればいいんだ。うんと実験的な作品でいい。会場借りて上映会をやりましょうや」
皆それに同調する。
「じゃ僕が絵コンテを書きます。坂本氏と山本氏はキャラクターを書いてください。仕上げに渡辺さんと広川さんの仕事はその後ですね、ワハハハァ」
手塚の声は全く明るかった。
こうして夢の動画制作は、第一歩が踏み出されたのであった。
(続く)

私の手塚治虫第22回   峯島正行

  • 2015年1月31日 17:59
手塚のナンセンス漫画「サイテイ招待席」の主人公フースケ

手塚のナンセンス漫画「サイテイ招待席」の主人公フースケ

爆笑、微笑、冷笑、苦笑

漫画集団の中の競争相手

手塚が、漫画集団に入ったのは、昭和三九年だった。同時に入った漫画家に、当時の大人気漫画「アサカゼ君」の作者、サトウサンペイ、芸術派漫画家として、知的な笑いの井上洋介、サントリーの広告漫画を描いて、日本にウィスキー嗜好を根付かせた柳原良平などという、ある意味で一世を風靡した作家たちだった。この名前を見ただけで、当時の雰囲気が伝わってくるようだ。

手塚より二年ほど前、昭和三七年一一月には、小島功、久里洋二、鈴木義司、富永一朗、長新太の五人が入っている。何れも個性的な漫画をもって鳴らした連中だ。

手塚の親友、馬場のぼるは既に、おおば比呂司、谷内六郎と共に、五年前の昭和三四年一月に入団しているのだ。だから集団では、馬場はちょいとした先輩だったのである。

いずれにしても、ここに上がった名前を見ただけで、当時の大人漫画の盛況ぶりが偲ばれる。 手塚に遅れること、一年半で園山俊二、福地泡介が入団し、続いて砂川しげひさらが入団し、秋竜山も入会するとういうぐあいで、当時のナンセンス漫画の繁栄ぶりがうかがわれる。

園山俊二、福地泡介、東海林さだおの三人はともに早稲田大学の漫画研究会出身で三人がマスコミを大いに賑わし、漫画界の三派全学連と揶揄された。

こうして、ナンセンス漫画は、「漫画読本」「週刊漫画サンデー」「週刊漫画タイムス」等々青年漫画誌を中心に、黄金時代を築いた。

手塚もこの時代の、ナンセンス漫画に先輩同僚、後輩と交流しながら、自らのナンセンス漫画を洗練させていった。そういう手塚のナンセンス漫画の頂点に立っているのは、「漫画サンデー」誌上に,昭和四四年一〇月一日号から「サイテイ招待席」というタイトルで始まった、連作読み切り漫画である。月に一度の連作方式で、一話、24ページの長編。以前に紹介したシチュエーション漫画の方式で描かれたものである。これは、翌四五年の六月まで続いた。

毎回、時代を変え、場所を変え、主題を変えて、毎回パッとしない、あまり気のきかないフースケなる人物が主役として登場する。手塚の主張する、シチュエーション漫画の典型でもある。

シチュエーション漫画の主人公について手塚は次のように述べている。

「シチュエーション・コミックの主人公は、ぼんくらで、ぐうたらで、ピエロで、あたりまえの人間がいい。ちょっぴり抜けていて、なにかわけのわからないことがおきたら、オタオタ、ウロウロ、オロオロするような人物がいい。(中略) まあ、はっきりいうと、シチュエーションそのものがおもしろければ、主人公は狂言回しで、説明役にすぎない」(講談社版手塚治虫漫画全集「フースケ」あとがき)

「サイテイ招待席」シリーズでは、フースケは手塚の期待に見事応え、シチュエーションの変わるごとに、オタオタ、ウロウロ、としながら新しい笑いを次々創造してゆく。

この漫画は当然、当時の文春漫画賞に値する作品だったと思うのだが、保守的でイワユル芸術性にこだわる当時の審査員が、見逃してしまったために、候補にも上がらなかった。

手塚が漫画賞をとるのは、ずっと後年になって、昭和五八年に「漫画読本」に発表された劇画「アドルフに告ぐ」まで待たなければならなかった。「アドルフ」は純然たる劇画タッチである。「サイテイ招待席」の方が、漫画賞には、ずっとふさわしい作品だったと思われる。

この作品は、終了した直後、実業之日本社から、中の一話の題名をとって「ペックスばんざい」の題名で、作品のうちから七話を選び、出版された。発行は昭和四五年八月であった。

講談社版の全集では、「フースケ」という題名で、漫画サンデーに載った一〇作品と後に、昭和四七年に「小説サンデー毎日」に掲載した一作品を加えて、編集されている。

これらの中から一作品の内容を以下に紹介してみよう。「無能商事株式会社」という作品である。

無能商事という会社

無能商事の南似茂千太郎(なにもせんたろう)とフースケ

無能商事の南似茂千太郎(なにもせんたろう)とフースケ

敗戦のどん底から、世界第二の経済大国となった日本、それを担う大企業の中では、社員は実力競争に晒されている。同窓とか同郷とか、幹部の縁者といった派閥なんか通用しない。完全な自由競争の世界となった。落ちこぼれとか、無能力なものは、容赦なく、打ち捨てられていく。

こういう現象を、経営者としては、見捨てて置くことはできない。

社員同士、猛烈人間がぶつかり合い、友を友と思わず、人を見たら仇と思い、弱肉強食、社内は殺伐としてくる。これでは、気分よく社業に励む事も不可能になり、新規事業のためにプロジェクトを組むことも出来なくなる。そして無能の印を押されたものは、社内の競争に無関心、あくびをしながら一日過ごすことになる。ご存じ、下村フースケは、その無能社員のNO・1なのだった。

フースケは机の前でなかなか仕事に掛からない。出勤途上、貰った広告を見たり、鼻くそをほじったりしている。それを課長に咎められる。

「周囲の人を見てみろ、みんな仕事に熱中しておる。君は東大を最低の成績で出て、運よくわが社に入った。あの当時は学閥が物を言った。いまはぜーんぜん、そんなものはなんの役に立たん。実力の世界では君は無能だ!」

無能と怒鳴られる度に、向かいの女性社員の膝をむき出しにした足を見ながら、台風の去るのを待つのが、癖になっている。

「君が役に立たないことは、社内中がみとめている。それでも君は平気なのか」

と課長は怒鳴りつづける。

「そうだ、君は席を替わるのだ。ずーっと隅の塵籠の隣だ。君がいるところは新しい人間が座るのだ。早く移れ」

フースケが慌てて机の上を片つけると、課長は新入社員を紹介した、

「南似茂(なにも)千太郎くん!彼はある会社からわが社に出向なんだ」

南似茂は、目尻と眉が垂れ下がり、団子っ鼻の下が長い、間延びした顔をしていた。彼の机は、隅っこのフースケと、向き合う場所だ。フースケを見てニャリと笑った。それから、彼は女子社員が出したお茶を飲み、漫画雑誌を出して、悠々と腰掛の背に寄りかかって読み出した。その後、新聞を読み、机の上につっぷして居眠りを始めた。課長が怪訝な顔をして、前を通り過ぎた。その有様を見てフースケは「こりゃ相当の豪傑だぜ」とつぶやくのであった。

一方こちらは社長室。専務が呼ばれている。

「○○町にある無能商事から、毎月缶詰を仕入れることにした。倉庫を開けて置け」

と社長はいう。

「今時、缶詰?御冗談を」

「いや君、ビデオカセットというものが開発中らしいな。いまや、音も映像もカンヅメ時代じゃ。ウチもカンヅメを仕入れる」

なお怪訝な顔をする専務に、

「君はわが社を築いたこのわしの計画を疑うのかね」

社長に脅かされて、専務は唯々諾々と下がる。その月末、大型幌付きトラックが、倉庫前に到着。

「無能商事です」

缶詰がトラック一台分届いたのであった。それを下す従業員は、その軽さに驚く。「空じゃねえのか」とそれをお手玉のように扱う労働者に、担当部長が出てきて、

「こら玩具にしてはいかん。ちゃんと数えて倉庫に丁寧にしまえ」

と怒鳴りつける。

そのころ、フースケは喫茶店で、南似茂とお茶を飲んでいた。

「南似茂さんは前の会社ではどうだったんですか。」

「なにしろ社長に呼ばれてな、じかに君は出向せよといわれたんだ。向こう三年間、係長待遇でさ…」

「貴方がこっちへ来るとき、皆はどうだった」

「いや皆淋しがってね、何しろ僕は実力者だったから」

「それは信じられない」

「それじゃ僕が無能社員だったというのか。僕にけちつけるの」

「いやー、かえって感謝したい気持ちです。あなたが来て1か月、ぼくはほとんど怒られなかったんです」

フースケはオフイスの一場面を、頭に描きだす。

南似茂の席は上役や多くの社員たちに囲まれている。

「この書類は何です」

「こっちの報告書もやり直してください」

「計算が間違ってますよ」

と、口々に責めつけられている。それを遠くから見て、フースケは、い、ヒ、ヒ、ヒッと笑っている。

やがて部長、課長たち、上役が集まってくる。

「計算はくるう、字は読めない、おまけに君の電話の声はふにゃふにゃで聞き取れん」

と部長が言えば、経理課長は「車代がなぜあんなに多いんだ」と怒鳴り、総務の主任は「廊下で三回もインク瓶をひっくり返したり…」とがなり立てる。

やがて彼ら同士が話し合う。

「よくあんなのが、うちにきたもんだ、だれの紹介で入ったのかなー」

「社長だってさ」

「たぶん親戚なんだろう」

「各課に一人ずつ、ああいうのが入ったんじゃないか」

「だけどああまでひどかぁねぇだろう」

午後一時過ぎ、課長がやってきて、「南似茂はまだ戻ってこんのか」

フースケはその様子を見て、彼、やられるぞ、と期待を込めて様子を見ている。やっと戻ってきた南似茂に、課長が怒鳴りつける。

「ナニモくんッ」

「はァ」

「はァ、じゃないッ、時間の観念がないのか君は、君は無能だ!」

それをみてフースケはこう呟く。

「俺もああいわれたことがある。ああ人が言われているのを聞く気持のよさよ」

と呟く。

ところでその後、南似茂が社員旅行の幹事を命じられた。バス何台も連ねて、温泉地に行くのだが、各車両に乗車する人数がでたらめで、ぎゅうぎゅうのバスもあれば、パラパラしか乗らないバスもあり、社員たちはかんかんに怒った。その人員配置をした南似茂は、社員たちにっよって浴衣のまま、温泉の湧いている湯船に放り込まれた。

その南似茂を慰めにフースケが風呂場に出かけてゆく。

「おい酷い目にあったな」

というと、

「広間に行くとつるし上げに会うから、めしの間は、ここにいるよ」

そういう南似茂の胸に大きな

「M」という字の刺青があるのを見つける。みんなのいる場所に戻った、フースケはそのことをみんなに告げる。

「彼女の頭文字かしら」

「無能のMかしら」

「無能商事KKっての知ってる」

すると中年の社員が、

「無能商事ってのは、社長が変な缶詰をどっさり仕入れている取引先だってことだ」

「Mのマーク、無能商事…、それから変な缶詰、こりゃ何かありそうだな」と別の社員。

「つまりだ…社長は裏街道でこっそり密輸をやってんだ。マリファナか何かを缶詰にして…」

するとフースケは俄然正義感ぶりを発揮して

「よし!俺が倉庫を調べる、」

幾日かたって、深夜、秘かにフースケは、倉庫に忍び込んだ。

「これも社のため、法のため」と怖さをこらえて忍び足で、真っ暗な倉庫の荷物に近づく。うずたかく積まれた缶詰の箱を一つ一つ開けていく。然しどれもこれも空っぽ。次の缶詰の山をくずして一つ一つ調べる。全てが空。「これは詐欺か、ペテンか」

とフースケが叫んだその時、だれか倉庫に入ってくる音がした。しまったと思ったがもう遅い。忽ちフースケはみつけられた。その人物は社長だった。

「やぁ、君か、君だと思った。許すから安心してこっちに来なさい」

「これどういうからくりなんス。この缶詰、カラだと知っててなぜ買ったんです!」とフースケは開き直る。社長は「むふふ」と笑って

「これにはわけがある、まあ飲みながら話そうじゃないか」

と、バーのカウンターで、社長が話す。

「あの無能商事から買った缶詰は空気の缶詰だ。ハハハッ、驚くことはない。それは上っ面…。実は、ありゃ支払伝票のようなものでな」

それから社長は語る。

「なにを隠そう。無能商事というのは無能な社員をいろんな会社に出向させとるんじゃ。あの総務の南似茂千太郎なァ、ありゃ無能商事から来た男よ。

企業も社員も実力勝負になると、どうしても雰囲気がぎすぎすしていかん。社員は欲求不満、嫉妬、ストレスやらで、はけくちを求める。

そこに無能な奴がそこにいると、そいつに怒鳴り散らすことで、気分を晴らす。また、最低社員も、自分よりさらに無能な同僚がいるとコンプレックスは感じない。無能商事はそういう人間を貸しとるんじゃ。

うちの会社も各課に一人ずつ雇って、日がな一日怒鳴られて、それを全部メモしておいて、月末になると、その数だけ缶詰が来るんじゃ。」

「さっき最低社員と言いましたね。誰の事ですか」

「今だから言うが君のことだよ。しかし悲観するな、南似茂がきてから、君は一心奮起した。だから倉庫にまで忍び込んだ。頑張れよ」

フースケは一人になって呟く.南似茂の胸にあったのは、無能商事のイニシャルであったのか。

それから間もなくフースケは会社を辞めた。真相を知った今になっては務まるものか。彼は別の会社に入った。

そこでめきめき実力を発揮した。月給もあがった。それで結婚することになった。新婚旅行先の温泉の中で、胸に彫られたMの字の彫り物を、新妻に見つかった。

フースケ曰く「きみの会社にもMのイニシャルの男がいるかもしれませんよ」

以上が、「無能商事株式会社」のあらすじだが、高度成長期のサラリーマン社会をよくとらえているハナシと言えよう。

さまざまなシチュエーション

さて「サイテイ招待席」の中では、古今東西のさまざまな世界から、バラエティ豊かなシチュエーションが登場する。手塚自身が言う。「ここに収録されたシチュエーションが奇妙キテレツ、SF的で、バカバカシしい。だが、それに巻き込まれたフースケが、あっけにとられてウロウロするさまは、現代人のうろたえぶりとちっとも変らないはずである。フースケがその不条理ぶりをどうやって克服するか、浅チエを楽しんでいただければよいのである。」(講談社版手塚治虫全集・フースケ、あとがき)

そこに様々なナンセンスな笑いが生じてくる。爆笑、冷笑、微笑、苦笑、さまざまな笑いが、人の心をゆするのである。

例えば、「ゲテもの」と題された一編では、江戸時代の初め、大久保彦左衛門の頃にシチュエーションを設定している。その頃、食い物とくれば、極め付きのゲテもの好きの殿様がいて、そのお相手に選ばれたのが、下村風介なるサムライだ。毎晩のように、ヘビの天ぷらとかネズミの糞のつくだにとか、げじげじの三杯酢とかを、秘かに食いに出るのだが、そのお供して、殿と一緒に食するのが風介の役目だ。殿様のゲテもの好きは、戦国の昔、兵糧攻めにあった時の名残であった。

風介にとってはこれほどの苦痛はない。妻の前で嘆くと、賢妻の誉れ高い彼女は、「そのくらいのことで、長年のマイホームの夢を捨てろというの、この意気地なし」とどやされる。この賢妻は、すべて後ろ姿で描かれている。

やがてお家騒動が起きた時、風介は、大きな手柄を立て、家老に抜擢される。

「あーら、わが君」

と喜ぶ賢妻の顔が初めて正面から描かれる。その顔は、世にも稀なブスであった。それから風介が採用するお城の女中たちは、妻に勝るブスばかりである。下役の武士たちは嘆く。

「お家老のゲテもの趣味にも困るよなぁ」

また別の編では人間でないものに、人間であるフースケが手玉にとられるという漫画もある 。

「ペックス万歳」という話では、怠け者の会社員フースケが、銀座の路地裏で、男の一物が切られて落ちているのを発見、すわ大事件!と思いきや、それは頭を持ち上げ、足が生えて、フースケに近づく。キャーッと飛びあがるフースケ、小さな怪物がフースケの洋服の中に隠れて、その住まいにまで、ついてきて住みついてしまう。フースケはペックスと名づける。ペックスは、女性の尻を切り取ったようなメスをつれて来て、巣を営む。その巣はペースケが出すごみを集めて作られている。

すると子供が一晩に四,五匹生まれ、それがネズミ算式に増え、たちまちフースケの部屋いっぱいになる。それが広がり、東京中の道路はペックスで充満すが、街のごみはきれいになくなり、そこから、さまざまな滑稽な事件が起きるといった、架空の生き物が社会的大騒動を起こすという作品である。

また、「敷金なし」という漫画では、家の建物がフースケの相手役になっている。安サラリーマンのフースケは、安い引き越先を探している。とある新聞に、敷金なしで相当立派な家の賃貸広告が出ていた。こんなことはあり得ないと思いながらフースケが出かけてゆくと、真新しいモダーンな家で本当に敷金なしで貸すという。

大家のおばさんが言うことに、「この家は去年亡くなった主人と私が建てたもので、子供の無い私共は、娘のようなつもりで建てたのですが、一晩、この家に寝ると、みなさんお断りになるのです」

という。フースケはその家をあえて借りるとさまざまな、異変を経験するといったものがたりである。その怪異と暮らすフースケの姿が、読者を笑わせる作品である。

SF的なシチュエーションとしては、「月に吠える女たち」という作がその一例である。

大阪万博会場で、月の石を売ったところ、売れに売れたので、宇宙船「アポロ」に月の石を何度も取りに行かせた。月の表面がその為,テカテカに禿げた。禿というものは光るもので、禿げた月の光はカッと、地球を照らした。そのことが女性の性ホルモンを刺激した。人間の女の体は月に関係がある。ある夜地球の全女性の性欲が爆発、男であればどんな男にも、女性が襲い掛かるという事態になった。女性に襲われないのはフースケぐらいのものだった。女に襲われる男たちはフースケを羨ましがった……というように話が展開する作品であった。

ナンセンス漫画の革命

このように手塚は、笑いのシチュエーションにバライエティーを持たすことにより、今までにないナンセンス漫画を作り上げていったわけである。「サイテイ招待席」シリーズは手塚の大人向けナンセンス漫画の頂点を示す作品と言えよう。手塚自身も、小島功や、サトウサンペイや鈴木義司や、親友の馬場に負けるものかと、力を入れたに違いない。

漫画のコマわりの仕方や吹き出しの文字は手書きで入れてゆくというナンセンス本来の手法を用いながら、漫画集団の仲間とは全く異なった笑いの創出に成功したのである。それも集団の仲間がやらなかった、あるいはできなかった一篇24ぺージという長編をもって創出したのである。

手塚自ら次のように書いている。

「物語を映画的に展開しただけの劇画やストーリー漫画に、物足りなさや心細さを感じていましたから、漫画本来のユーモアやオチの面白さを、大人漫画雑誌に書くことで勉強しようと思いました。

時によっては編集者に『手塚さんは、どちらかというと、大人漫画の方がいきいきとして活気があるようにみえる』といわれたことがあります。ある程度のおとなっぽさと、思い切りの風刺や皮肉をかきまくることが、ぼくにとってはカタルシス(気分晴らし)になっていたことは事実です」(講談社版手塚治虫漫画全集・すっぽん物語、あとがき)

勿論フースケ物の他にも、傑作ナンセンス漫画は多数ある。たとえば「セクソダス」「品川心中」「すっぽん物語」等々であるが、一応フースケ物に、それらを代表させて、この編を終える。(続く)