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池内 紀の旅みやげ(最終回・50) 終着駅─横浜市・鶴見線

  • 2015年2月16日 17:57

JR鶴見線は鉄道マニアの元祖宮脇俊三が書いて以来、ノリ鉄組の聖地のようなところらしい。京浜工業地帯の埋め立て地を走り、鶴見と扇町を結んでいる。これを主線とすると、支線が二本、まるでつり革のようにブラ下がっている。一方の終点は海芝浦駅、もう一方は大川駅。支線だから主線の分岐駅で乗り換える。宮脇本によると、海芝浦駅は東芝の敷地内にあるので、東芝あるいは東芝の関連会社の社員しか改札を通れない。駅のホームは海に突き出たぐあいで、殺風景ではあれ、多少とも水上都市アムステルダムに似ている──

鉄道マニアではないが、おもしろそうだから土曜日の社員コースに乗ってみることにした。ついでに鶴見の総持寺のお土産コーナーに寄ってこよう。禅宗の大寺は代々優れたシェフ僧侶がいて、肉・魚介類の代用品を発明してきた。そのうちのより抜きが土産として売られているものである。

たかが横浜の手前という意識があってノンビリしていたら、鶴見駅に着いたのが午後三時過ぎ。しかしまあ海芝浦まで十数分だから十分余裕がある。そのはずだったが、土、日、祝日の時刻表を見て愕然とした。午後は一時間に一本がせいぜいで、時間帯によっては0本もある。それでも海芝浦行きはまだいいほうで、大川駅へは朝、夕だけ。昼間は一本も走っていない。

「分岐駅まで行くと、そこから出る便があるじゃないか」

ひとり合点で主線に乗って、支線の分岐する浅野駅まで来たが、支線をつなぐ便など一つもない。すぐ前が広大な運河で、その向うは石油備蓄基地らしく、タンクがずらりと並んでいる。手前はJFEの工場。世間にうといのでJFEといわれても何の会社だかわからない。建物の巨大さ、敷地の広さからして大企業らしいことはわかった。冬の浜風は氷のように冷たいのだ。ふるえながら海芝浦行きを待っていた。

「海芝浦の駅」表示板。まさしく終着駅の雰囲気。ちょっと寂しげ。

「海芝浦の駅」表示板。まさしく終着駅の雰囲気。ちょっと寂しげ。

そのうち疑惑がきざした。目的地に着いたとしても、すでに冬の日が暮れかけている。社員しか出られない駅であれば、引き返すしかないが、0本の時間帯にぶつかると、一時間以上も身を切る海風にもまれていなくてはならない。むしろ鶴見にもどり、日を改めたほうが賢明なのではあるまいか。──主線の鶴見行きが近づいてくる。大あわてでホームを移り、明りのついた暖かい車内に走りこんだ。

この夜は川崎のホテルに泊まった。十数分の路線が二日がかりになるとは夢にも思わなかった。

翌日は用心して早朝九時に鶴見駅着。時間待ちに鶴見線のホームをブラついていて、昨日下車した浅野駅が、浅野セメントで知られる浅野総一郎にちなむことを教えられた。鶴見線は大正十五年(一九二六)、浅野総一郎が音頭をとって、鶴見臨海鉄道として開業。のちに国鉄に移管された。途中に安善駅というのがあるが、これは安田財閥の安田善次郎にちなむ。終点の扇町駅は、浅野家の家紋の扇を駅名にした。かつての実業家たちは平然として、公私を混同したとみえる。

無事、浅野駅で分岐すると、駅は新芝浦、海芝浦の二つだけ。おそらく一帯が、すべて東芝の敷地なのだ。どのような部局か、日曜出勤の人らしいのが十数人、終点で降りると浮かぬ顔で改札を出ていく。のこったのは当方ひとり。いや、もう一人いて、その人は改札の横の建物の戸口にいた。駅員だと思ってたずねると、東芝の守衛で、建物は駅舎ではなく守衛所だそうだ。改札も改札ではなく会社の入口である。頭ではわかって感覚的には終着駅の改札口に駅の事務室があって、駅員が立っているとしか思えない。

「やはり出られませんか」

会社の入口であって、そもそも出るための口ではないのである。

親切な方で、隅の時刻表を指さして注意を喚起してくれた。折り返しを乗り過ごすと、次の時間帯は便がない。お礼のついでにJFEは何の略字かたずねると、「昔は日本鋼管といった」という。おそろしく大きな埋め立て地のあちこちにJFEのマークがついているから日本を代表する企業と思われるが、こちらには実業団バスケットボールの強かった会社としか記憶にない。

ホームは確かに海の上に突き出ている。しばらく京浜運河と川崎港の風景をながめていた。煙突、クレーン、ベイブリッジ、赤白ダンダラ模様のタンク、どれも近づけばバカでかいのだろうが、遠くからだとあどけない。まっ黒な箱のような石油タンカーがゆっくりとやってきた。およそ殺風景な風景だが、これはこれで二十一世紀の詩情をたたえているようにも見える。

京浜工業地帯といわれてから久しいけれど、この風景もまた、妙に懐かしいような、たまに見るといいですね。

京浜工業地帯といわれてから久しいけれど、この風景もまた、妙に懐かしいような、たまに見るといいですね。

そのあと、総持寺に立ち寄って、誰が見てもアサリとしか見えないが、実は麩(ふ)でつくった漬け物というのをいただいた。炊きたてのご飯にのせてよし、酒のつまみによし。たしかにどう見てもアサリだが、アサリではなく、しかし味はよく漬かったアサリそのものだった。

【今回のアクセスは文中にあるので省略】

[お知らせ]

「池内 紀の旅みやげ」は今回をもって終了します。ながらくご愛読ありがとうございました。連載分は近く『ニッポン旅みやげ』(青土社)として刊行されます。

なお次回より「ヒトラーの時代」を始めます。ヒトラーは一九三三年に政権をとると、またたくまにドイツ国民の人気と信頼をかちとりました。いかにして短期間に国民をとりこむことができたのか。

その経過をたどり、「国民的英雄」が誕生するまでのさまざまなメディア戦略を考えていきます。どうぞご期待下さい。

(池内 紀)

池内 紀の旅みやげ(49) 三筋の町──滋賀県・水口町

  • 2015年1月16日 14:25

三味線は三弦でできている。その三本の糸の両端を結ぶと、どうなるか。まん中に筋のある細長い袋になるだろう。紡錘形、あるいは昔の飛行船に似ている。近江(おうみ)の水口町(みなくちちょう)はそんな形をしているらしい。
なにかのことで知っていたが、実際に訪ねてみて驚いた。まさにそのとおり。一本の道が急に三本に分かれて町並みをつくり、三本がまた一本になって町並みがとぎれる。人よんで「三筋の町」である。
東海道五十三次のうち、江戸から数えて五十番目。滋賀県甲賀郡水口町だったのが、「平成の大合併」後は甲賀市水口町になった。町の格が一つ下がったみたいで、先祖が泣いているかもしれない。水口藩二万五千石、誇り高い外様大名だった。今も水口城の石垣や内堀がのこされ、堀を渡ると復元された櫓がそびえている。
とすると城下町のはずで、ふつう城下町は城を中心に地割りがされて、決して紡錘形になったりしないものだ。お城の前の図書館に水口歴史民俗資料館が付属しており、一巡して疑問がとけた。古城山に羽柴(豊臣)秀吉が城を築かせ、子飼いのものを城主にした。関ヶ原の戦いで家康が勝ち、豊臣の息がかかった城は廃城、堀も埋められた。家康はさっそく街道の整備にかかり、水口は宿駅に指定された。埋められた内堀と平行して街道が通り、宿場の拡大につれて、逆側にもう一つの通りができて三筋になった。南と北の宿外れで三本道が合わさって一本になる。

水口町の三筋の道は本当に分かれてますね。不思議な光景です。

水口町の三筋の道は本当に分かれてますね。不思議な光景です。

いま見るような水口城ができたのは、宿駅ができてから四十年ばかりあとであって、城下町は後発組なのだ。江戸後期につくられた「東海道分間延絵図」という絵地図が展示してあったが、「三筋の町」が長大なムカデのようにのび、頭のところに城下町がちらばっている。明治になるとこちらの城も廃城になり、家老以下のサラリーマンは失業。家・屋敷も多くが取り壊された。一方、商人、職人町の紡錘形は、つつがなく生きのびて現代につづいている。
広重の浮世絵「東海道五十三次」シリーズのうち、もっとも知られた保永堂版は、水口が「名物干瓢(かんぴょう)」で紹介されている。夕顔(ゆうがお)といって、ウリ科のつる草が大きな球形の実をつける。その皮をむいて干し上げたのが干瓢で、水口一帯の特産だった。広重は取材のときに作り方をよく見ていたのだろう、ムシロの上に大きな俎板(まないた)を据えて、女が包丁で皮をむいている。紐状にむいたのを、まわりにかけていく。赤ん坊を背負った小娘がかかえているが、夕顔は赤ん坊よりも大きい。向いの家でも垣根に干しており、当地の地場産業だったことが見てとれる。現代ではすし屋で「かんぴょう巻き」を注文するときぐらいだが、かつては保存食として煮しめなどに重宝された。

広重の浮世絵、「東海道五十三次之内 水口」 保永堂版 こんな風に時代を経ても残るものがあると言うことが、なんともいいですね。

広重の浮世絵、「東海道五十三次之内 水口」 保永堂版 こんな風に時代を経ても残るものがあると言うことが、なんともいいですね。

水口のある甲賀地方は滋賀県・三重県・奈良県の三方が合わさる地点にあって、JR東海道本線と関西本線のはざまにあたる。不便なぶん、エア・ポケットのように見過ごされていて、三筋の町がよく古型をとどめているのは、そのせいかもしれない。別名が「曳山(ひきやま)の町」で、宿場町として栄えていたころ、町内ごとに豪華な曳山(山車(だし))をつくった。いまも水口神社の祭礼には華やかに巡行する。三筋が南で一つに合わさる近くは横田の渡しといって、「東海道十三渡(わたし)」の一つだった。目印の常夜燈がのこされているが、台座もろとも十メートル近くもあって、東海道最大のもの。かつての水口商人の財力のあかしだろう。
寺の一つに芭蕉の句碑がある。甲賀と隣り合うのか伊賀地方で、俳聖芭蕉はもともと伊賀・藤堂家に仕える下級武士だった。俳諧に転じて江戸に出たのちも、くり返し郷里に帰ってきた。そのつど水口の宿を通った。旧友と二十年ぶりに会ったときに詠んだのが、
「命二つの中に生(いき)たる桜かな」
旧お城下の威光のせいか、小さな町なのに県合同庁舎や税務署、裁判所、検察庁などがあって、役人が多いのだろう。役人の数はかわらないが、町の人口はへりぎみで、昼間の三筋の通りは森閑としてひとけがない。かわりにやたらとノラ猫がいて、二匹、三匹とつれだって歩いている。仲たがいしていたのがバッタリでくわしたようで、やにわに黒いのが三毛にとびかかり、三毛がすっとんで逃げ出した。命二つ、迫真の追いつ追われつが、空き家の軒まわりで演じられていた。あらためて知ったのだが、ノラ猫のうなり声は町内一円にひびきわたるほど、野太くて迫力があるものである。

【今回のアクセス:東海道本線の草津駅で草津線に乗り換え、貴生川で近江鉄道に乗り換えて水口石橋駅下車。三筋の入り口まで徒歩三分】

池内 紀の旅みやげ(48) 謎ずくめ─兵庫県・石の宝殿

  • 2014年12月17日 16:42

山陽新幹線が新神戸駅を出て、明石を過ぎ、姫路に近づいてくると、右手に石切り場が見えてくる。小山全体が石でできているらしく、大きく切り開いた切断面が淡い肌色の垂直の壁をつくっている。みるみる近づき、よく見ようとする間もあらず、背後に去って視野から消えていく。
山陽本線の場合は線路がずっと北寄りで石切り場に近く、もっとよく見えるはずだが、高架でないのであまり見えない。建物のあいだにチラッとのぞく程度で、石切り場と向き合って神社があるらしく、千木をのせた銅屋根が青さびをふいている。宝殿(ほうでん)が下車駅で、住宅地を抜けて、ゆるやかな坂道をのぼっていくと、石垣を築いた上に拝殿がのっている。
「日本三奇 史蹟 播磨国乃寶殿 生石神社 旧社格 懸社」

播磨の国 宝殿 生石神社 本殿 なにやら妖しげな雰囲気です。

播磨の国 宝殿 生石神社 本殿 なにやら妖しげな雰囲気です。

旧字の看板が何やらものものしい。斜面につくられているので、拝殿からまた石段を上がったところに本殿がある。そこまではよくある神社のスタイルだが、ふつう神鏡などの置かれている奥がまるきりちがう。正方形の巨大な岩が鎮座しているのだ。自然の大岩ではない。あきらかに人の手が四角形にととのえた。三方が岩壁で、石室として切り開けたと思われる。下は水路になっていて一見のところ、水の中に巨石が浮いているように見える。
生石(おしこし)神社といって、略記によると「人皇十代崇神天皇の御代日本全土に悪疫が流行して人民死滅の境」にあったとき、オオアナムチとスクナヒコナの二神が天皇の夢枕にあらわれた。お告げに従い、ここに生石神社を祀ったところ、たちまち悪疫が終息したという。
巨石については別の言い伝えがあって、右の二神が国土鎮めのため石の宮殿を造営していたとき、アガノカミらが反乱を起こしたので、二神は工事を中止
して山を下り、賊神を鎮圧した。宮殿は未完成のまま残され、「石の宝殿、鎮(しずめ)の石室(いしむろ)」の名をもつにいたった。──
要するに、いつのころ、誰が造ったともしれない。石室は「浮石」ともいわれ、水中に浮く様式をとっており、三間半(約七メートル)四方で、高さ二丈六尺(約六メートル)、水脈の上につくられていて、その水はいかなる旱魃にも涸れることがなく、万病に効く、霊水とされてきた。

「石の宝殿 鎮の石室」 石が水に浮いて見える。恐いような奇妙な気分になる。

「石の宝殿 鎮の石室」 石が水に浮いて見える。恐いような奇妙な気分になる。

不思議ずくめ、謎ずくめなのだ。万葉集巻三に「志都のいわや」「石のみやゐ」などの名でうたわれており、当時すでに広く知られていたことがわかる。八世紀以前に水脈を探索して、その上に巨岩を正方形に切り開ける技術をもった石工集団がいたわけだ。石には平たい溝(みぞ)のようなものが三方についていて、何かの用を果たしたものと思われるが、はたしてどのような理由によったのか、いっさいわからない。
奈良の明日香村に「鬼の俎(まないた)」「鬼の厠(かわや)」とよばれる石造物があって、やはり、いつのころ、どのような目的で造られたのかわからない。古墳時代の終りごろに石の文化があり、西日本各地で、さまざまな用途をおびて石の造営がされたらしいのだが、大半が壊され、散佚し、上に埋もれた。松本清張が古代推理に石の宝殿もとりあげたが、文書のなさにねを上げた。奈良の石造物に彫りつけてある溝に注目して、酒造りの舞台を考えてみたりしたが、石の宝殿の巨石の溝には立ち往生するしかないのだった。神祇の儀式にでもあてたものか。しめ縄の張りめぐらされた岩は、一個の巨大な謎というしかないのである。
私は姫路の生まれであって、高校まで播磨で過ごした。生石神社は「学問の神」を兼ねており、小学生のころには何度か遠足で行った。
「ベンキョーができますように」
みんなで御参りしたあとは自由時間で、裏手の高台を走りまわった。石切り場は危険なので近寄るなといわれていたが、こっそり入りこんで、花崗岩の小片を宝物のようにひろってきた。昔から採掘されていて、時代ごとに採掘場を移すので、古いところは暗灰色をした石の壁が大きな柱状に並んでいた。
大人になってドイツ語にもホーデン(Hoden)のあることを知った。辞書には「精巣」「睾丸」の訳語がついている。俗にいう金玉である。旧国鉄のころ、宝殿駅が時間調整の駅だったらしく、列車が入ると駅のアナウンスがあった。
「ホーデン、ホーデン、十分間停車」
作家尾崎士郎に「ホーデン侍従」という小説があって、文中に「ペニス笠持ち/ほーでんつれて/入るぞヴァギナの/ふるさとへ」とうたわれている。正確にいうとヴァギナに入れるのはペニスのみであって、ホーデンは入口まで行きついても中に入れてもらえず、いつも門番のように控えている。それはそれとしてわが石の宝殿には、すぐにしなだれるペニスなど歯牙にもかけず、ホーデンさまがいつも悠然とそりかえっているのである。
【今回のアクセス‥文中にあるとおり、JR山陽本線宝殿下車。駅名と並んで写真をとると、ご利益があるかもしれない】

池内 紀の旅みやげ(47) 絞りの里─愛知県有松

  • 2014年11月19日 17:42
有松宿の町並みは心にさわやかな風をおくってくれます。

有松宿の町並みは心にさわやかな風をおくってくれます。

東海道五十三次はよく知られている。お江戸日本橋を発って京の五条まで五十三の宿場がつないでいた。江戸からいうと品川宿が一番で、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚……。歌川広重の版画シリーズはマッチ箱にも使われて、いつのまにやらなじんでいた。

これに対して五十三次に加え「間(あい)の宿」があったことは、ほとんど知られていない。その名からもわかるように、宿と宿の間の中間駅で、二つの宿のへだたりが大きすぎるところにつくられた。その一つが、三十九番池鯉鮒(ちりふ)(知立)と四十番鳴海(なるみ)の間に設置された有松宿である。五十三次が整えられて数年後の慶長十三年(一六〇八)に誕生した。旅行者の訴えを聞き、また幕府役人が歩いてみて、少々キツすぎると判断したのだろう。地鯉鮒は三河、鳴海は尾張である。現在の新幹線駅と同じで宿駅誘致の綱引きがあったようだが、尾張側に落ち着き、まず知多半島の阿久比(あくひ)という集落から八名が移ってきた。何もない原野を開いて、準宿駅の役目を果たす。

そのかぎりではワキ役だが、移住してきたなかに竹田庄九郎と言う知恵者がいた。地場産業として木綿の絞りを開発。斬新なニューモードがたちまち評判をよび、上り下りの旅人が必ず間の宿で足をとめていく.木綿が材料だから安価でかさばらず、軽くて丈夫で、手みやげにピッタリ。その上、絞り文様がシャレていて、浴衣、手拭、風呂敷、帯などに打ってつけ。上々の売れ行きをみて、尾張藩が庇護に乗りだした。他所での生産と卸を禁止。ほかならぬ尾張の殿さまが有松ブランドにお墨付きを与えたわけだ。

名鉄有松駅で降りて、ブラブラと南へ向かった。最初の信号のある四つ角に来て、左右を見渡したとたん、おもわず息を吞んだ。木造二階建て、日本の伝統的な美しい建物が、ゆっくりうねった道を埋めている。瓦屋根、白壁、連子格子のあいだに石積みの蔵が見える。そんな場合、町おこしの予算をつけ、映画のセットのように家並みを再現したケースが多いが、有松はあきらかにそうではない。ひと目で違いがわかる。コンピュータ仕様の設計図ではなく、長い歳月がこれをつくり上げた。

大屋根のはしにツンと突きでているのが「大棟(おおむね)」と呼ばれる商家のスタイルだろう。「虫籠(むしこ)窓」といって、二階の窓は漆喰(しっくい)で虫籠のような太い桟をつくったかたち。一階の側壁は白と黒とが格子縞になったナマコ壁。蔵には雄壮な鬼瓦がのっている。窓はぶ厚い二枚の土扉が観音開きになる。隣家との境をつくるのが卯建(うだつ)。サエない男を俗に「ウダツが上がらない」というが、有松の当主たちは、いずれも高々と卯達をあげた。

かつては絞り問屋が軒を並べていたが、さすがに職業替えがあって商店はいろいろながら、古い家は守ってきた。天明四年(一七八四)に大火があって、有松宿全焼。再建にあたり火に強いナマコ壁や土壁による家屋で統一したというから、二百年をこえる歳月にわたって伝統を守り、立て替えや建て増しにも、まず町並みの調和を考えた。年二回刊行の「有松町づくりの会」の会誌「有松」は七十一号を数える。この種の会ができたときは、ふつうはほぼ手遅れで、新建材と安普請の無惨な通りになりはてたのちに、乱杭歯のような数軒を保存するのが関の山だが、有松には先見性のある商人・市民がいたのだろう。所得倍増の高度成長のころ、ビル立て替えを言う人がいたにちがいないが、よその轍を踏まなかった。今となっては旧来の町並みがたのもしい遺産となり、強力な宣伝役もやってくれる。
「江戸情緒ただよう町並みを散策する」
「絞りのいろはを見学する」
「有松東海道青空市」
「有松絞りまつり」
「晩秋の有松を楽しむ会」
お隣りの旧宿駅は雑然として殺風景な郊外町にすぎないなかで、かつての補欠が華やかに現代に生きている。
「ダーシェンカ──自然酵母一〇〇% 石窯パン オーガニック素材で安心安全」

有松宿のおしゃれなカフェ。カレル・チャペックの小説の主人公がこんなところにいる、驚き。ステキです。

有松宿のおしゃれなカフェ。カレル・チャペックの小説の主人公がこんなところにいる、驚き。ステキです。

商家をあざやかに改造したカフェ。チャペックの小説の主人公に借りた名づけが粋ではないか。
「蔵コンサート」
重厚な蔵からモーツアルトのフルートが流れてくる。
「田舎なつかしの唄をあなたに」
カラオケでがなるのではなく、アコーディオンの伴奏というところが優雅である。
石窯パンをパクつき、香りのいいコーヒーをいただいて、なおも通りをブラついていると、軒にのったガラスと青銅の角灯が目にとまった。「アンドン看板」といって、夜になるとポッと淡い明かりがつき、屋号を映し出す。闇に一点の絞りを染めつけた具合である。

【今回のアクセス:JR名古屋駅で名鉄に乗り換え。有松駅下車後すぐ】

池内 紀の旅みやげ(46)豊前のグランド・キャニオンー福岡県香春町

  • 2014年10月17日 12:47

無人駅でおりて駅前広場へ出たとたん、足がとまった。正面の高みに奇妙なものがあって、しばらくまじまじとながめていた。判断がつかなかったからである。岸壁が削(そ)いだようにのびていて、一カ所がパックリ口をあけ、そこだけが白い。一瞬、アメリカ・アリゾナ州のグランド・キャニオンを連想した。写真で見ただけだが、似たような形のところがあった。ただし、グランド・キャニオンは渓谷で、水面から突き出ていたと思う。こちらの岸壁は石の砦のように山上に乗っていた。
福岡県田川郡香春町(かわらまち)。小倉から日田彦山線で約三十分。古くからひらけていて、万葉集にもうたわれている。「豊国の香春は吾家(わぎへ) 紐児(ひものこ)にい交(つが)り居れば香春は吾家」(巻九、一七六七)。昔は豊前国(ぶぜんのくに)香春である。岩山を香春岳といって、麓に鏡山(かがみやま)という地名がのこっている。万葉集にはまた「河内王を豊前国鏡山に葬りし時手持女王の作れる歌三首」が収録されており、河内王という貴人が当地に葬られ、ゆかりに女性が歌にした。その一つ。「王(おおかみ)の親魂(むつたま)会へや豊国の鏡の山を宮と定むる」
そんなことを本で知って、奈良の飛鳥(あすか)のような万葉振りの土地を想像してやってきたのに、和製グランド・キャニオンと出くわすとは思わなかった。

福岡県のグランド・キャニオン 香春町の香春岳の山容はなかなかの迫力です。

福岡県のグランド・キャニオン 香春町の香春岳の山容はなかなかの迫力です。

地図によると香春岳は一の岳、二の岳、三の岳と岩峰がつらなっていて、町から見えるのは一の岳のようだ。全山が石灰質でできており、パックリと口をあけたのが砕石場で、よく見ると中腹に塔のようなものがあって、砕石を運ぶベルトコンベアが川沿いに向けてのびている。標高は五〇〇メートルあまりだが、異彩を放つ岩山である。古人は特別の山と考え、麓に貴人を葬ったのだろう。
「鏡山」のほか、近くには「勾金(まがりがね)」という地名もあって、鏡山ー勾金ー香春とくると、早くに鉱石の採掘がはじまり、工人の集落ができていったのではあるまいか。鏡山には神功皇后が新羅に出兵するとき、必勝を祈願した丘があって、神社が祀られている。近くに銅山の抗口にあたる「間歩(まぶ)」が残されており、その銅で宇佐神宮の神鏡を鋳造したところから「神間歩(かんまぶ)」と呼ばれているーー
タクシーでひと廻りしたいのだが、無人駅の駅前に人影がなく、タクシーの看板もない。仕方がないので川を渡って、古い通りに入った。
「従是南豊後日田道」
空地のわきの石柱によって、この道が豊後と結ぶ街道だったことがわかる。少し行くと赤レンガの塀の前に「御茶屋香春藩庁跡」の石柱が立っていた。江戸時代は小倉藩に属し、藩主の領内巡見のための宿泊所として、御茶屋があった。幕末の混乱期に、そこが小倉藩の藩庁をつとめたことから、こんな二重の命名になったらしい。
さらに行くと、ちょっとした更地がひらけ、中央の奥まったところに三段式の石柱がある。とにかく石柱の多いところである。

田川郡役所跡

香春町役場跡

明治末年に田川郡の郡役所が置かれ、郡制廃止ののちに町役場として使われていた。さぞかし古雅ないい建物だったと思うが、取り壊して更地にした。山を背にしており、公園にするとステキな憩いの場になると思うが、町当局は業者に売り払ったようだ。大きなけばけばしい不動産広告が立ててあった。
「旧香春町役場跡地 宅地分譲開始!」石柱のある小さな一角だけをのこして、全十区画、「プラチナタウン」という。山おろしの風にまっ赤な「分譲中」の旗が音をたててはためいていた。
一つ一つはっきり覚えているのは、ここにくるまで誰とも会わず、まるきり人の姿を見なかったせいである。町の通りには「肉のまつかわ」「仕出し 鉢盛」「長谷川療術院」「鮮魚 刺身」「宝石 時計」……古びた看板がつづくだけで、どこもシャッターが下り、カーテンが引きまわしてある。シャッター自体が錆つき、カーテンが陽にやけて黄ばんでいた。ふつうどんなにさびれた街でも、美容院と理髪店は営業しているものだが、理髪店のガラス戸に手書きの「おわび」が貼ってあった。病気療養のため店を閉じるという。最後の砦が落ちたぐあいだ。ひとけのない通りに午後の陽ざしがさしかけ、建物の影がギザギザ模様をえがいていて、そこをノラ猫がゆっくり歩いていく。
まるで白昼夢のようだった。辺りは無人の町のように静まり返っている。そのうち軽トラが一台走ってきて、走り去った。

福岡県の香春町。かつてあった光願寺の庭にいにしえの記憶を抱え込んだ大楠の木が頑張っていた。

福岡県の香春町。かつてあった光願寺の庭にいにしえの記憶を抱え込んだ大楠の木が頑張っていた。

かつて山の背に光願寺という寺があった。キリスト教禁令のとき、その寺の庭で宗門改めの踏絵が行なわれたという。豪雨で山が崩れて、廃寺になったが、山門前の樟(くす)だけがのこっていた。幹は空洞だが、急斜面にしっかり根を張り、四方に枝をのばしている。樟の小花は白っぽい黄色で美しい。秋に実をつけて、樟脳(しょうのう)のもとになる。無人のキャニオンを見張っている番人のようで、見上げていると、なにやらいとしい気がしてくるのだった。

【今回のアクセス:香春岳は登れるのだろうが、とっつきの道がわからなかった】