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“8月2日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1921年=大正10年  アムステルダムオリンピックで日本人陸上選手が初の金メダルに輝いた。

オランダ・アムステルダムで開催された第9回大会では三段跳びの織田幹雄と200m平泳ぎの鶴田義行が出場して快挙を飾った。この大会から女子陸上選手の参加が解禁され800mに人見絹子が出場して銀メダルを獲得し日本人最初の女子メダリストになった。織田の優勝は大会関係者も想定しておらず、国旗が用意されていなかったので応援メンバーが持参していた4倍の大きさの日章旗を代わりに掲揚、君が代の吹奏も途中から行われたと織田が書き残している。織田は東京オリンピックでは陸上競技の日本代表総監督として指揮を執り「陸上の神様」「日本陸上界の父」と呼ばれた。

鶴田はロサンゼルスオリンピックでも金メダルを取り、競泳種目で連覇した。北島康介が08年の北京オリンピックでの連覇で肩を並べたことで紹介されたのは記憶に新しい。
こちらは悲しい偶然であるが「炎のスプリンター」と呼ばれた人見はアムステルダムオリンピック決勝からちょうど3年目のこの日、過労から肺炎を併発して入院していた阪大病院で逝去した。まだ24歳だった。それぞれのアスリートの栄光と悲惨もわが国のオリンピック史に刻まれている。

*1902=明治35年  大和田健樹の『宇和島日記』に車内販売の西洋弁当をくわしく紹介している。

『鉄道唱歌』の作詞で知られる<明治のトラベルライター>はこの日早朝、東京・牛込の自宅を出た。故郷の四国・宇和島の母親の墓参りに出かけるためだった。

大磯にては別荘めきたる家に髯ある人の令嬢と共に、朝飯の箸とり居るなど近くに見ゆ。七つ八つの男の童、わが汽車をみとめて何やらん歓ばしげに叫びをり。御殿場にては富士詣での白装束の人下車し、沼津よりおりたる客また多くして室の内すゞしければ、興津江尻のあたりは眠りつつ過ぎぬ。

西洋弁当と、売りに来れるを見れば、早くも静岡なり。今年の春まではなかりしかば、一つ試しみんとて笹折を開けば、中にはオムレツ、ハム、シチウ、コロッケ―などを入れ、小皿には塩と辛子とバターあり。赤茄子の酢に漬けた外には、ソースを入れたる小びんさえ添えて、ナイフの代わりには、ブリッキのくづ=ブリキ屑を入れたり。
景物として波の日の出の団扇をくれたることこそ、何よりも重宝なれ。これを手にして阿倍川にむかふ。ほしきは語り合ふ友ぞかし。

とある。この西洋弁当は上下二重折で上の折にはパン4分の1斤にバター、下の折には紹介したメニューが入って35銭だった。

*1897=明治20年  京都電燈の工夫が巡回中に開業以来はじめての「電気窃盗」を発見した。

現場となったのは西陣の需要家で電灯一灯だけの契約なのに被覆線をはぎ取り別のコードを利用して五、六灯をつけているのを発見した。急遽、警官二名を立会証人として証拠物件を押収したものの電気の窃取は開業以来例がなく果たしてそれが「犯罪」となるのかどうかがわからない。そこでわざわざ大阪市の尾島峰義弁護士に<鑑定>を依頼した。

半月後の17日付で尾島弁護士が作成した鑑定書が届いた。内容は「電気を窃取したる者は窃盗の罪として刑法第366條(旧刑法)に因って処分すべきものと思考する」というものだった。この事件は追加料金の徴収で裁判にはならなかったものの『京都電燈五〇年史』(1939=昭和14年発行)に「最初の電燈盗用事件」として紹介されている。

電気そのものがまだ珍しかった時代、先見の明があった亀岡生まれの政治家で実業家の田中源太郎(1833―1922)によって同社は関西から北陸にまで配電テリトリーを広げた。しかも<大口需要先>としてのちに京都市電に買収された日本初の路面電車・京都電気鉄道や鞍馬電気鉄道、比叡山ケーブル線の比叡山鉄道などを次々に設立したが戦時統制により発送電部門と配電部門が分離されて清算に追い込まれた。

その本社は現在、関西電力京都支店となっているJR京都駅前のあの丸い壁面の建物だがそれを知る人は少なくなった。

わが国の法制史ではその4年後の1901=明治34年に横浜共同電燈会社が同じような不正使用をした利用者を訴えた。一審は無罪だったが大審院=現・最高裁判所まで争われた末、逆転有罪となり、07年に施行された旧刑法に「電気は財物である」という規定が盛り込まれた。
現行刑法でもこれが踏襲され第235条に「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」とあり、さらに第245条「電気は財物とみなす」の規定で「電気窃盗」はれっきとした犯罪とされている。

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