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“4月11日” 「蚤の目大歴史366日」 蚤野久蔵

*1951=昭和26年  GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に解任が伝えられた。

愛妻・ジーン夫人を交えて来日した上院議員やノースウエスト航空の社長らと都内のホテルで会食中に「至急電報」と書かれた茶封筒が届いた。夫人がその封筒をマッカーサーに渡すと中を確認したあとしばらく無言だったが、やがて「ジーン、これで帰れるよ」と。

敗戦15日後の8月30日、神奈川県厚木航空基地に到着した専用機のタラップを降りるマッカーサーはカーキ色の長袖シャツに同色のズボンという略装にサングラスをかけ、おなじみのコーンパイプをくわえていた。以後、40万人の軍隊が日本へ進駐する。大都市には英語の道路標識や看板、米兵やジープが町中にあふれた。横須賀市では撤去されていたペリー上陸記念碑が一晩のうちに再建された。9月2日に東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上で行われた「降伏文書調印式」にあたって天皇は「敵対行為ヲ直チニ止メ武器ヲ措キ」という詔書を発し、27日には天皇がアメリカ大使館を訪問しマッカーサーと会談した。

開始時に撮影されたモーニング姿で直立する天皇と、腰に手を置いた略装のマッカーサーとの写真は内務省が「あまりに畏れ多い」としていったん発禁になったがGHQが解除を求めたため2日後の朝刊に掲載された。
戦勝国と敗戦国とのあまりの<差>を象徴するできごとに斎藤茂吉は「ウヌ、マッカーサーノ野郎」。
永井荷風は「敗戦国の運命も天子蒙塵(もうじん=塵をかぶる)の悲報を聞くに至ってはその悲惨もまた極れりといふべし」
とそれぞれの日記に悲憤を綴った。

それから足かけ7年。実質的には<罷免・更迭>といわれる突然の解任は、膠着した朝鮮戦争をめぐるトルーマン大統領との確執とされるが、離任するマッカーサーに対して衆参両議院が感謝決議を可決、20万人が沿道から見送った。人気があったのは本国でも同じで米議会の演説後のワシントンでのパレードは建市以来最高の50万人、ニューヨークではアイゼンハワーが終戦時に行った4倍、700万人がマンハッタンを埋め尽くした。有名な「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の名スピーチはこのときの米議会でのものだ。

*1152=仁平2年  仏道修行の果てに入水や焼身を遂げる<求道者>が都に急増した。

年号ではわかりにくいだろうから時代でいうと平安時代末期にあたる。「末法」の世相を反映して、念仏を熱心に唱えるだけでは成仏できないと身体を痛める苦行で仏の救いを求める僧があらわれ、高じて入水や焼身を遂げる<求道者>が急増した。藤原信西は「この日、或る僧、鴨川に入水して死去す、観る者堵(かき=垣)のごとし」と書き残している。両岸をずらりと埋めた観衆の面前で無事本懐を遂げた。

『宇治拾遺物語』にも「空入水(そらじゅすい)したる僧の事」という記事がある。30歳を過ぎたばかり、なかなかイケメンの僧が祇陀林寺(ぎだりんじ)に多くの人を集めて百日間の行を行った。連日、法華経を唱える儀式には貴族の女房の牛車がひしめいた。いよいよ実行日になると桂川まで大行列が続いた。僧は紙の衣に袈裟を着て車に乗ったが民衆が僧に向かって散米するのを
「目や鼻に入るじゃないか。堪えられないので志があるのなら紙袋に入れて寺のほうに送れ」
と言って不審がられる。

川岸に着くと<川原の石より多い>群衆を前に、お付きの僧に時間を聞き「申の下り」=午後4時ごろだったので「往生にはまだ早い。日が暮れるまで待て」となぜか引き延ばす。最後はふんどし姿で西に向かって水に飛び込んだものの、水中でもがいているところを引き揚げられた。
「助かった、このご恩はいずれ極楽に行ってからお返ししましょう」と言い残して逃げ出したところを群衆や子供らに捕まって川原の石で頭を割られた。命はかろうじて助かったようで、後日、世話になった人へ瓜を送ってきた書状に「前の入水の上人」と書いてきたというオチまでついている。

末法の世を迎えるという不安に貴族から庶民までが取りつかれた時代。東の鴨川、西の桂川と場所は異なるが、いずれも都を騒がせた一大パフォーマンスではありました。

*1952=昭和27年  NHKで始まったラジオドラマ『君の名は』の話題が列島を駆け巡った。

テレビなら「ねえ、見た、見た?」だろうが、ラジオだから「聞いた?」だったか。脚本家菊田一夫の代表作で、冒頭の「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」のナレーションも世の女性たちをしびれさせ、主人公の氏家真知子と後宮春樹の「会えそうで会えない」ストーリーが延々と続いて日本中がやきもきした。

<番組が始まると銭湯の女湯が空になった>という逸話は、ほとんどの庶民が銭湯に通っていた当時のかなりオーバーな形容だったようで岸恵子、佐田啓二の同名映画でのショールの「真知子巻き」や「ガラス越しのキス」などが大流行した。

当時はすべて生放送だったのでナレーションの来宮良子も、主題歌を作曲した古関祐而も毎回、スタジオに出かけてハモンドオルガンを演奏したという。

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