書斎の漂着本 (4) 蚤野久蔵 コン・ティキ号探検記
「好きな探検記のベスト5」を挙げるとすれば必ず入れたいのが『コン・ティキ号探検記』であろう。ノルウェ―の人類学・海洋学者のトール・ヘイエルダールが南米大陸と南太平洋のポリネシアとの人類移動を証明するために1947年に行った「コン・ティキ号」という古代筏を使って行った実験航海の記録である。今回紹介するのは<新旧>の『コン・ティキ号探検記』ということになる。
従来の学説ではイースター島のモアイ像に象徴される巨石文化を持ったポリネシアの人々は、西方の東南アジアからやってきたとされていたのに対し、ヘイエルダールはまったく逆ルートの東方からの南米起源を裏付けようと考えた。彼は苦心して資金を集めるとペルーに出かけ、現地の住民とともにジャングルからバルサ材を伐り出し、ロープを使った昔ながら方法で筏を組み上げた。「設計図」の元になったのはインカ帝国を征服したスペイン人が残した図面だったから古代さながらの復元筏で、船体中央には竹を編んだ壁にバナナの葉を葺いた小屋、マングローブを逆V字に取り付けた帆柱には布の帆が張られた。船名の「コン・ティキ」は古代インカの太陽神からとった。
最終的に乗り組んだのはキャプテンの当時32歳のヘイエルダールと5人の仲間、それに1羽のオウムだった。4月28日にペルーのカヤオを出港したが沿岸近くを北に流れるフンボルト海流という激しい潮流を乗り越えることができず自力航行は断念、ペルー海軍の軍艦に曳航されて80キロ沖合から漂流を開始してイースター島を目ざした。彼らは大波にオウムをさらわれるなど多くのトラブルを乗り越えて102日後の8月7日に約8千キロ離れたツアモツ諸島のラロイア環礁に座礁したものの島民によって無事救出された。
探検記は父が購読していたリーダース・ダイジェストで初めて読んだ記憶があるが、はっきり覚えているのは中学時代に父が全巻予約した筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」によってである。その第1巻に、スウェン・ヘディンが中央アジアの幻の湖・ロブノールを探す『さまよえる湖』、間宮林蔵の『黒龍江(ウースリー)紀行』などとともに収録されていてそれが第一回の配本だったこともあって繰り返し読んだ。本のジャンルでは何よりもノンフィクションが好きだった父は「内容が違うのもあるから」と新版の「現代世界ノンフィクション全集」をまたまた全巻予約し、無駄遣いを母がこぼしていたのを思い出す。もっとも父は本を買ってくるのは好きだったが、熱心に読むのは私だったからそれが父なりの<教育法>だったのかもしれない。新旧の全集は父の遺言もあって私が引き取ったからそろってわが書庫に“漂着”してきたことになる。こちらは全集のなかにはいっているので単に<新のほう>とだけ紹介しておく。
では<旧のほう>というとこの2冊である。戦後間もなく東京・月曜書房から出版された単行本で、左が昭和25年(1950)1月発行の初版、右が同じく翌年4月の第三版である。いつ手に入れたのかは忘れたが古書店の店頭で題名が目にとまり、懐かしくて思わず手にとったのが運の尽きで結局、買ってしまった。
「初版本マニア」というわけではないけれど、私が<物心つく>はるか前に、帯にあるように「重版又重版!!」とか「各界の名士絶賛推薦!!」となった話題本だったのかと知ったのと、紹介された「名士」の顔ぶれやコメントが面白かったから、ということもあったか。
第三版にはさまれていた月報には「太古の筏にのって南太平洋を西へ西へと漂流すること四ヶ月 !! 何故こんな無鉄砲な冒険が決行されたのか?いまや全読書界の話題になっている実録科学冒険譚」とある。ご丁寧に「現地撮影写真版三十二葉、B6版280頁、定価200円」と紹介されている。他には、阿部公房『壁』、花田清輝『二つの世界』、梅崎春生『櫻島』、W・S・モーム著、日高八郎訳『スパイ物語』(中野好夫氏推薦序文)などがあり、当時の出版事情がうかがえる。だが一般的になったのは筑摩書房の「世界ノンフィクション全集」の登場以来かとも思うがいまは普通に使われる「ノンフィクション」という用語はまだ使われていない。帯には「今や世界のベストセラーとなった実録科学冒険譚」と書かれている。月報の<実録科学冒険譚>がそのまま、現代ならさしずめ「ノンフィクション」とする代わりに使われ、シカゴトリビュン(=トリビューン)紙評と、「各界の名士」として6人が登場する。
シカゴトリビュン紙評「大当たり!何たる本・・・それはヴァイキングが地球から一掃されていないことを示した」 ここでヴァイキング云々もヘンですねえ。著者がノルウェー生まれだとしても。
徳川夢声氏評「とても面白い。一人の青年が自分の信念に従って無茶をやるところが大いに愉快なり」 32歳のヘイエルダールもまだ<青年>であるか。
梅崎春生氏評「夢と冒険にあふれた楽しく魅惑的な記録。一夜の耽読に値する」 一夜で読み切るのは無理と思うけど。
中野好夫氏評「たしかに二十世紀の奇書たるを失わない」 奇書?そうかなあ。
超多忙な人気者の夢声氏はどこにも顔を出すことで知られるが、月報にも新刊が紹介されている各氏は出版社とは「持ちつ持たれつの関係」だったろう。そう考えると「狭い日本に住みあいた人々よ、ぜひ御一読お楽しみあれ」という高田保氏評と「とにかく現代の世の中が飢えている健康な書物である」という金森徳次郎氏評も<出版社の作文>とも思える。
さらに花田清輝氏評に至っては「この本は、アバンギャルドの手になった二十世紀のオデュスセイアー(=オデッセイ)だ。著者は科学者だがまた危うきに遊ぶことを恐れない無邪気な芸術家でもある。光と風と夢と――次々に展開してゆく太平洋の風物は、わたしにワルト・ディズニイの作品を連想させる」 アバンギャルドが前衛的活動家、オデュスセイアーが伝説のギリシャ詩人ホメロスの一大叙事詩としても<大上段に構えすぎ>の表現で、ワルトでもウォルトでもよろしいけれどディズニー作品を連想させるというのもこれまたなんだかなあ、ではある。
最後にもうひとつ付け加えると、紹介した新旧4つの『コン・ティキ号探検記』はいずれも水口志計夫(しげお)訳である。冒頭、この探検がおこなわれた年を1947年と紹介したがこれは私が書き足しておいたものだ。何が言いたいのかというとヘイエルダールの原著には年号が書かれていなかったようなのだ。あるいはその年か翌年に発表したから当然のこととして省略したのか、それともどこか別のところにあったのか。邦訳のほうは同じ水口訳を使っていることもあって、いずれも地図をはじめどこにも年号は見当たらない。
「<面白さ時空を超える>と思えばそんな瑣末なことなんかどうでもいいじゃないの」と言われそうだが、探検記マニアとしてはどうしても気になるのだ。