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書斎の漂着本 (100) 蚤野久蔵 西洋音楽の知識

  • 2018年2月10日 18:19

4年前に始めたこの連載もちょうど100回目。まだ道半ばなので、はしゃぐ気はないものの「節目」ではあるので、これまでに取り上げたことがないジャンルを紹介することにした。明治・大正・昭和と作曲家、音楽教育家としてわが国の音楽界に大きな足跡を残した小松耕輔(こまつ・こうすけ)が初心者向けに書き下ろしたわが国初の入門書『西洋音楽の知識』である。大正9年5月25日に発刊されると30日に早くも再版、6月5日に3版を出していることからも大変な人気だったことがわかる。発行元は東京・神田のアルス書店で、巻末の出版案内に北原白秋、室生犀星、三木露風、相馬御風などの小唄楽譜や歌集が掲載されているところから音楽、詩歌関係専門の出版社のようだ。

 

     小松耕輔著『西洋音楽の知識』(アルス書店刊)

 

数年前に京都・寺町通りの古書店の「均一棚」=店頭にある雑本を並べた棚=のいちばん上にあったのを手にとったのがきっかけ。外函もぼろぼろで何度も修理したあとがあるし背表紙の金箔押しも剥げかかっている。所有者は余程大切にしてきただろうに誰も購入しなければそのまま廃棄処分されてしまうだろうと思ったわけで・・・。現在と違い当時の本は著者のプロフィール紹介がないのがほとんどで、私も関心分野以外は不勉強ゆえ、著者が「わが国の音楽界に大きな足跡を残した人物」とは知らなかった。当然ながら出版社そのものも少なく、逆に言えば著名人や有名な学者が著者なのだから購入する側は「書いたのが誰であるか」がわかっていたわけですね。新聞広告やこの本にも書かれている楽器店の店頭ポスターなどで知ると<書店に急いだ>から短時間に版を重ねた事情も伺える。

 

 

外函と表紙の裏側の2か所に「U.SUGIMOTO」のゴム印らしきものが押してある。この本を長く愛蔵していたのはこの「スギモト」なる人物なのか。インクはセピア色に変色しているが最終処分、つまり売却されたのが京都の古書店だから京都市かその近辺に住まわれていたのだろうと想像する。

函が壊れかけているので慎重に本を取り出し、ぱらぱらとめくりながら目次などを走り読み、あとで紹介する写真や挿画、このゴム印を見てわずか数分、いや1分足らずで音楽には門外漢ながら興味が湧いた次第。いつもながらの古本買い主義というか、均一棚を前にしての私の心得は<迷ったら買う>。かといってここまで傷んだ本を買ったことは経験がないし、そんな本を連載の節目に選ぼうとは自分でも不思議ですねえ。

 

冒頭に紹介した小松耕輔についての記述は書斎に戻ってから仕入れた「あと知識」と告白して続ける。

 

『広辞苑』には、作曲家、秋田県生れ、フランスに留学。音楽評論や音楽教育の分野でも活動。日本最初の歌劇「羽衣」、歌曲「泊り船」など。(1884-1966)とわずか3行だった。何冊かの人名辞典にあたるとほとんどにその名があるが、なかでも詳しかった『コンサイス日本人名事典』(三省堂)にはさらに、東京音楽学校(東京芸大)在学中にわが国最初の洋楽の手法による本格的なオペラ「羽衣」(1906)を作曲するなど、創作オペラ運動の先駆者として活躍。1920~23(大正9~12)パリ音楽院作曲科に留学後、1927(昭和2)国民音楽協会を起こしてわが国最初の合唱コンクールを創始し、みずからも童謡や合唱曲を多数発表して合唱運動の先駆者の1人となり、敗戦後は学習院大、お茶の水女子大、東邦短大の教授を歴任し、音楽教育の面からわが国音楽界の発展につくした。

 

「序」には「此書は音樂の初學者に向って其の一班を知らしめんがために書かれたものである。其故になるべく専門的の説明を避けて通俗を旨とした。止むを得ざる限り樂譜等の挿入をさけ、文字の説明のみを以て了解せしむるやうに心掛けた。樂譜を讀み得るものに向って音樂を説くは容易であるが、然らざるものに向って説明を試みるは極めて難事である。」と書く。目次に続く最初の挿画はその下に右から左へ「黙想せるヴエトオヴエン」とある。あごを引き、目は真正面をぐっとにらみつけているように見えるからとても「黙想している」ようには思えないけれど。

 

 

もうひとつはざっと数えただけで数百人規模が写る写真である。「グスタアヴ・マアラア氏作第八交響楽の演奏」(フイラデルフイアオルケストラ)とある。

 

「ヴエトオヴエン」にしても「グスタアヴ・マアラア氏」や「オルケストラ」もそのままでは読みにくいと思われるので以下は現行漢字、現代仮名遣い、人名は『広辞苑』最新版(第七版)に拠ることとし、最低限の言い換えはお許しいただきたい。例を挙げると「序」は「この本は音楽の初心者向けに(略)文字の説明だけでわかりやすく(以下略)」、挿画は「黙想するベートーヴェン」、写真は「グスタフ・マーラー、フィラデルフィアオーケストラ」とさせていただく。

 

小松が言う通り<難しいことを初心者向けにわかりやすく>というのは難事だろう。管楽器についての助言をもらったことに謝意を表するとあげた瀬戸口藤吉も『コンサイス日本人名事典』によると、

 

明治・大正期の軍楽隊指揮者・作曲家。海軍軍楽師時代に鳥山啓作詞によった<守るも攻むるも>の「軍艦」を作曲、のちに「軍艦行進曲」として改作、1911年のイギリス国王戴冠式には軍楽隊を率いて列席し、ヨーロッパ各地で演奏した。

 

余談ながらこのイギリス国王はエリザベス女王の祖父に当たるジョージ5世である。「軍艦行進曲」は昔よく通ったパチンコ店でかかっていたあの曲、「軍艦マーチ」ですね。調子のいい時には鼻唄が出そうになった。ただし「攻むる」じゃなくて「攻める」と覚えていた。反対にかなりつぎ込んでもう帰ろうかと思っている時にこれがかかると、もうちょっとやって負けを取り戻そうなんて気になって・・・結局、食事代までスッてしまう羽目に。

 

他にも多くの助言や協力をもらい、忙しいなか何年もかけて試行錯誤や推敲を重ねてようやく脱稿に漕ぎつけたと思われる。ありきたりの表現で恐縮だが<懇切丁寧><微に入り細にわたり>構成されて仕上げられた「本物の労作」なのだ。「あくまで音楽初心者にわかってもらうためどうするか!」という小松の並々ならない目配りがあふれている。「序」は5月1日付、初版が20日印刷、25日発行で、パリ音楽院に留学したのはこの本の発刊と同じく大正9年である。当時ヨーロッパへ向かうのはイギリス領だったシンガポールからインド洋、スエズ運河、地中海経由の南回りの船便で2か月近くかかったたから、そのあとあわただしく出発したのだろう。

 

書き出しは「秋もようやく更けて、夜な夜なの虫の声も何となく身にしむ頃となると、楽器店の飾り窓や新聞の雑報がはやくも音楽会の開かれることを報じるであろう」と始まる。「そこで私は諸君と共に音楽会のために楽しい一夜を過ごそうと考えた。そして音楽会について心ゆくばかり諸君と会話を交え、興つきない秋の夜を語り明かそう」「上野の秋の日曜はそうでなくても人出が多い。その中を自動車や俥(=人力車)が列をなして音楽会の会場へと急ぐ。定刻の午後2時近くなると、はやくも会場が立錐の余地もないほどになる。諸君が会場のドアを入ろうとするその手には今日演奏されるプログラムが渡されるであろう」として例をひく。

 

プログラムには「曲目」、ソナアタ(=ソナタ)は「奏鳴楽」、シムフオニイ(=シンフォニー)は「交響曲」、コンツエルト(=コンツェルト)は「司伴楽」、ロンドは「旋轉調」、メロデイ(=メロディ)は「旋律」、リズムは「節奏」、ハーモニーは「和聲(声)」の漢字を当てているが、それぞれの<たとえ>もおもしろい。

 

「いまここに一つの川がある。川は昼夜を分かたず流れる。流れ行く水はすなわち旋律(Melody=メロディ)である。川の水は時に洋々と流れ、時に滔々と流れる。そこには水の足踏みが聞かれるであろう。これが節奏(Rhythm=リズム)である。川の両岸にはたえず変わりゆく景色がある。時には広々とした野原を過ぎ、時には緑したたる杜(森)の影をうつし、あるいは白楊(はくよう=ドロノキ、ドロヤナギ)の茂みを通り、咲き誇る花びらに接吻(くちづけ)してゆく。これらの水にうつることごとくの物象が即ち和聲(Harmony=ハーモニー)である。水の流れが歌い、足踏みし、岸の影をやどして流れゆくとき、そこには全き(まったき=欠けたところがない)音楽の象(すがた)がある。」

 

思いついたのは<大正ロマンの香り>。門外漢の私には「そうですか、たしかに・・・」とひたすら頷くしかない。

 

演奏会で使われるさまざまな楽器については弦楽器、管楽器から始まって大型打楽器のティンパニーからシンバル、トライアングル、タンバリンに至るまで詳細な図を紹介しているからこの本を会場に持参しても見比べられそうだ。演奏される曲の作者も器楽・声楽の作家として41人、歌劇では17人を網羅しているから十分すぎるほどだったろう。とくに歌劇はモーツアルトの『魔笛』、ワグナーの『タンホイザー』、ヴェルディの『アイーダ』、ビゼーの『カルメン』というように代表作品の舞台写真を添えている。

 

なかでも「黙想せる」の挿画まで紹介したベートーヴェンには13ページといちばん多くを割いている。

1770年12月16日、ドイツ・ボンに生れた。父はエレクトラル寺院のテノール唱歌者で、祖父もまた協会の楽師長を勤めた人である。父は飲酒家で幼児の家庭はかなり悲惨を極めた。かつ彼は病身であったために常に荒涼たる生活を送り、家庭の温かさを知ることができなかった。このために彼は却って満足を芸術に求めるようになる。日常交際を嫌い、隠遁的な偏狭な生活を送らせた。

 

「田園シンフォニー」、唯一の歌劇「フィデリオ」、「第九交響曲」、「荘厳ミサ曲」を次々に公にしたあたりから聴力を失い、手の指のマヒが進行してピアノが弾けなくなると「音楽家にとってこれ以上の悲惨はあり得ないことである。彼はまた物質的にも非常な貧窮に陥った。彼を扶(たす)けた貴族たちも大方死に、また四散して今は僅かばかりの金を得るさえ困難であった。靴に穴ができたため外出を見合わせることもしばしばだった」と苦しい生活をこれでもかというくらい紹介する。

 

かくして彼は1826年11月に重い風邪にかかり、次第に衰弱して翌27年3月26日、雷鳴とどろき、暴風雨の激しい午後の6時に最後の息を引きとった。彼の葬儀にはたくさんの人の大なる哀悼のうちに行われた。

 

これでお終いかというとまだ続く。さらに代表的な作品の細かい解説が終わると「彼は古典音楽の殿将であると同時にロマン的音楽の最初の人である。音楽はバッハに至って一転し、モーツアルトに至って再転し、ベートーヴェンに至って更に衣を着け替えて近代音楽の急先鋒となったのである。彼は日常寡言、人と交わることを好まず、陰鬱なる性質を懐いて、しかも心中には燃ゆるがごとき情熱と人生に対する愛とをもっていた。ある批評家の言った通り、彼の音楽は「人間の精神から霊火を発せさせるもの」である。その熱烈真摯な点は他のいかなる音楽家も及ばない、と絶賛して結ぶ。

 

ここまで読むとなんというかフーッと息を吐いてしまいそうな・・・。他の人物についてもそれぞれ緩急をつけるように描かれているから持ち主と思われるゴム印「スギモト氏」も繰り返し読みふけったのではあるまいか。

書斎の漂着本 (99) 蚤野久蔵 空母プロメテウス

  • 2018年1月31日 18:28

新聞の訃報で京都在住の作家、岡本好古(よしふる)氏の逝去を知った。(本年1月)7日、虚血性心不全のため左京区の自宅で死去、享年87歳。記事を読みながら駆け出し記者時代に先輩記者のお伴をしてご自宅に伺ったのを思い出した。この先輩とは以前から知り合いだったようで、昭和46年の第17回小説現代新人賞を受賞した『空母プロメテウス』が直木賞候補になったその<予定稿>のための取材だったと記憶する。結局、候補のまま終わったので先輩の記事は日の目を見なかったが書庫の奥に単行本があったはずと、ひと苦労して引っぱり出した。

岡本好古著『空母プロメテウス』(講談社刊)

当時はこうした予定稿や予定写真が当然のように準備された。予定稿は「そうなった場合の予想記事」だが、選挙の場合は「バンザイ写真」が用意された。本社から遠い早版地域は開票結果が出る前に締め切りがあるためで結果が間に合う遅版ではバンザイよりはダルマに片目を入れる「当選ダルマ」の写真が使われた。バンザイ写真の撮影では落選癖のある立候補者が「これだけは今回も元気よく精一杯の声を出しておきますのでご唱和下さい。各社の皆さんよろしいか」などという自虐発言で事務所が失笑に包まれる一幕もあった。いまではテレビのナマ実況が当たり前になり、予定写真もなくなったが選挙事務所からダルマそのものも消えて久しいですねえ。

 

なぜ先輩のお供をしたかというと取材カメラにはまったく笑わないことで有名だった医学博士の取材で<笑わせた>実績があったから。脳の中枢神経系のひとつ錐体外路(すいたいがいろ)系の研究で知られる京都大学の平澤 興(ひらさわ・こう)名誉教授=当時=が勲一等瑞宝章を受けた取材だった。博士は医学部長のあと京大総長を2期6年つとめた。いつもの取材は各社とも科学部やいわゆる「大学回り」記者が担当し内容も専門分野に終始したのと、カメラ嫌いだったのか笑ったところを見せなかった。ところが叙勲記事なら新米の私でも間に合うというデスクの判断だったのかピンチヒッターに選ばれた。事前に「錐体外路系とは大脳皮質の運動野(や)と延髄を結ぶ神経系で不随意筋をコントロールする。不調の場合の代表疾患がパーキンソン病である」くらいはにわか仕込みしたものの医学の専門分野だけに内容についてはちんぷんかんぷんだった。それでも受章の感想などをひととおり聞いた後、「先生、取材前にご専門は錐体外路と聞いて中学校の頃にカエルの足に電流を流すとピクピクするあれかと思いました」と言った途端に破顔一笑。「カエルの実験を思い出したというのは君が初めてだよ」とあきれられたところをすかさずカメラマンがシャッターをパチリ。この写真が取材各社の中では唯一、「受章を喜ぶ平澤博士」ということになったわけです。

 

『空母プロメテウス』はベトナム戦争で「北爆」を担う大型空母プロメテウスに配属された日系二世の海軍軍医大尉ケイル・ハマナカが主人公で、ハマナカが軍港サンディエゴの埠頭から乗艦してわずか数週間後、思わぬ爆発事故により空母がトンキン湾に沈むまでの顛末を活写し、新人賞選考委員の柴田錬三郎、山口瞳、結城昌治、野坂昭如、五木寛之をうならせた。ハマナカが艦内で偶然再会するコネチカットの高校時代の同窓、リチャードはその後、工科大学で流体力学を専攻し空軍パイロットに。すでにこの空母から100回以上の離発着を成功させていたが「おれは飛行機が怖い。恐怖をおさえて飛んできた。だが、慣れることはない。大胆とか臆病というのは男の評価ではない。科学者の君ならわかるだろう。要は過敏か無神経かだ」そして、どうだ、おれの飛行恐怖症はかなりなものだろう、と私(=ハマナカ)をこづき「プロメテウス・・・か、科学を結集した船にこう名づけるなど、海軍も感心にも自己反省しているようだ」と続ける。ギリシャ神話のプロメテウスは天帝ジュピターの許から火を盗んで地上に持ち帰ったが、天罰で内臓を食われたという。「科学・・・人間がこれを乱用しているのを神は怒り給わないか」と私はつぶやいた。そしてその不安は的中する。

 

単行本になったのは翌年5月で同じくベトナム戦争を舞台にした『アロウヘッド』、『鬼軍曹』、『蒼いファントム』と太平洋戦争での沖縄戦に向かう米駆逐艦が特攻機の攻撃を受ける『KAMIKAZE』のいずれも『小説現代』に発表された戦争もののシリーズを収録している。初の単行本だったせいか著者紹介には「英文タイプ業のかたわら、18年前に“得意な想像力”を頼りに小説家を志す。以来大変な試行錯誤の連続。時には吉川英治に凝り時代物を書き、また司馬遼太郎、松本清張のボリュームに圧倒され、ペンを折りかけたのもしばしば。文字通り苦節18年の末、『空母プロメテウス』で選考委員の絶賛を得た」と率直に記している。さらに「あとがき」では「掲げたテーマは<機械と人間>。高々とのぼりを立てたものの、力不足で持ちこたえかねる担ぎ手にはならぬ積りである」と書いている。

 

ここで思わず声を上げるところだった。表紙を描いたのは何とイラストレイタ―の生頼範義(おおらい・のりよし1935-2015)じゃありませんか。このあと、いったん奥さんの郷里、宮崎市に転居したが『スター・ウォーズ』ジョージ・ルーカス監督に見出されてシリーズのポスターを制作するなどして世界的な名声を博した。ならば中表紙も紹介しておきましょう。

岡本氏の取材に戻る。作家の創作現場を訪ねたのはこれが初めてだった。階段をあがった窓のない狭い部屋に照明スタンドを置いただけの木製の机が一つ、原稿用紙はあったか無かったか思い出せないが意外にも本はほとんどなかったのが印象的だった。天井からは釣りに使うテグスにプラモデルの戦闘機が2、3機ぶら下がり、多分、昼間だったと思うが、あるいは夜だったのかはっきりしない。覚えているのは表紙の「スカイフォーク」の模型を手にして動かしながら熱く語った。「パイロットは操縦桿を巧みに動かして急上昇したり、急旋回したりするわけですがコックピットでの孤独はすごいと思う。何キロ、何十キロも先の目標に照準を合わせて瞬時にミサイルのボタンを押す。不意に敵機と遭遇したり、対空砲火を受けたりするリスクが絶えないから生還は期し難いかもしれないし、脱出できたとしても捕虜になる確率も高い。離着艦するのもある意味、はなれ業だ。恐怖で失神しないまでも失禁はしょっちゅうらしい。これは模型にすぎないけれどいじっているとさまざまな想像力が湧いてくる・・・」と。この取材は結局記事にはならなかったが「パイロットの孤独」「恐怖による失禁」「はなれ業」などを断片的に覚えている(ような気がする)。

 

この本をなぜ持っているかというと東京時代に古書店の均一棚で見かけ、なつかしくなって購入したから。お会いした時も時おり前髪が額にぱらりとかかるこんな感じだったが幻に終わったわれわれの「直木賞受賞の予定写真」はもっと表情があったことだけは確かだ。

書斎の漂着本(98)蚤野久蔵 畫譜 吾輩は猫である

  • 2017年7月1日 15:33

近藤浩一路の『畫譜 吾輩は猫である』(昭和29年、龍星閣刊)には汗の思い出がある。いつだったかは忘れたが毎夏に京都・下鴨神社で開催される「下鴨納涼古本まつり」で見つけた。お盆をはさんでの6日間、それでなくても暑い盛りの恒例イベントである。市中が大混雑する「五山送り火」の日は敬遠するが、帰りに友人とビアホールで待ち合わせして冷たいビールを飲むのを楽しみに地下鉄、バスを乗り継いで出かける。会場となる参道、糺(ただす)の森の両側に店ごとに数十のテントが並ぶ。張り出した枝が直射日光をさえぎるとはいえ到着する頃にはもう汗びっしょり。私のお目当ては均一棚の雑本なので入口で配られるうちわを使いながら見て回る。汗を拭きながらのせいぜい数時間だから掘出し物のあるなしにかかわらず脳内ランプに生ビールマークが点滅?し始めると退散である。

『畫譜 吾輩は猫である』(龍星閣刊)

近藤は明治17年(1884)山梨県生まれ、東京美術学校西洋画科を卒業、白馬会や文展に出品を重ねた。大正4年(1915)に読売新聞の漫画記者になると政治漫画や挿絵を担当した。美術学校時代の同級生で朝日新聞の漫画記者として活躍した岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評された。新聞連載を『校風漫画』と題して出版すると人気を呼び、続いて企画したのが夏目漱石の『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』で文章は漱石、漫画が浩一路といういわばコラボ作品で当時の新潮社版は<幻の漫画本>とされる。

そこまで知った上でこの『畫譜 吾輩は猫である』を求めたのかというと、それは違う。「吾輩は猫である」→夏目漱石→畫譜?→近藤浩一路?→値段(多分数百円)という反応順で、中身をのぞいて「おもしろそう」と思ったから即購入ということに。前段で紹介したのはあくまで「あと仕入れの知識」というわけ。ついでに紹介すると漱石が『吾輩は猫である』を初めて「ホトトギス」に書いたのは友人の高浜虚子の依頼だった。初稿は虚子からの指摘もあって書き直したが再提出すると「なかなかおもしろい」と採用となった。題名は「猫伝」はどうかという漱石に対し、虚子が書き出しの一節から『吾輩は猫である』に決めた。(高浜虚子『俳句の五十年』)連載は大変な好評を博し、一躍作家・漱石のデビューとなったから上編を初め服部書店、のち大倉書店から。中編、後編を大倉書店から出版した。いずれも現在は数万円から程度のいいものは数十万円というマニア垂涎の高価本らしい。

龍星閣刊『畫譜 吾輩は猫である』は、漱石の文をあらかた引用しながらどこにもその名前はなく、奥付も「著者、近藤浩一路」だけであることからも「復刻版」ではなく、あくまで近藤が漱石の『吾輩は猫である』の各シーンをイメージして描いた「畫譜」という位置づけのようだ。権利関係がうるさくなった現在では考えられないのではなかろうか。

書き出しの部分は「一 苦沙彌先生」のタイトルで、吾輩は猫である。名前は無い。から始まる。原作は、吾輩は猫である。名前はまだ無い。だから「まだ」が省略されている。腹が減った吾輩が忍び込んだ屋敷が英語教師の苦沙彌先生宅で、見つけた下女の「おさん」が吾輩の首根っこをつまんで外へ抛り出す。何せ空腹だから侵入、抛り出しを4、5回繰り返しているうちに「何だ騒々しい」と言いながら奥から出てきた先生、吾輩の顔をつくづく眺めていたが「そんなら内へ置いてやれ」と言ったまま引っ込んでしまう場面。畫譜では「おさん」の名前はなく単に下女となっている。いまや下女も差別語で「お手伝いさん」と言い換えるのだっけと思い、『朝日新聞の用語の手引』を引いてみたらいずれも見当たらなかった。畫譜では「おさん」の出番はここだけなので「名前なし」となった。

かくして「家猫」になった吾輩、恩義のある先生には精一杯の感謝をしなくては申し訳ない。先生が書斎で昼寝をしている時には背中の上に乗ってマッサージ?をしているわけです。

 

畫譜は各場面ごとに挿画を添えて合計100場面。ページの代わりに番号を振ったタイトルが付く。いわゆる菊版を横にした版型で、見開きの右ページは文章が右側、左ページはその逆で、それぞれ中央に漫画=挿絵が配されている。原作から猫の手ではないがそれぞれを「拝借」しているからストーリーそのものはほぼ同じのようだ。いくつか紹介しようと思ったがきりがないので吾輩の毛色、その最後、まだ無かった名前はどうなったのか、の三点に絞ってお届けする。

毛色はご覧に入れた2場面でおわかりのように畫譜の吾輩は全身真っ白、つまり白猫である。手元にある角川文庫(平成9年6月10日、改版85版)の表紙を担当したわたせせいぞうのは白黒ブチである。右目のあたりが黒でなんともかわいい。

 

同じこの角川文庫版には初版本の写真が掲載されている。「挿画 橋口五葉、中村不折」とある。漱石は熊本五高時代の教え子の弟で東京美術学校を卒業したばかりの橋口五葉(本名・清)をわざわざ千駄木の自宅に呼んで本の装丁を頼んだことが日記に残る。五葉は巨人猫が人間世界を睥睨するイメージの表紙カバーを古代エジプト絵画風のカットで提案しているから署名はないが初版本上編のほうの黒猫の扉絵が五葉であろう。その裏の同じく初版本の下編の挿画は署名があるからもう一人の中村不折で、尻尾の先まで全身が黒一色でいずれも黒猫である。

 

 

毛色がさまざまあるということは原作には毛色について書かれているかもしれないがこれ以上詮索しない、つまり「白黒つけない」ということで次に進む。

先生宅は来客が多く、友人などが集まって議論をたたかわせたり、碁を打ったりする。この日も熊本出身の三平が嫁をもらう報告に、おみやげのビールを抱えてやってきた。居合わせた迷亭、独仙、寒月、東風は三平の艶福を祝してそれで乾杯、ひとしきり大騒ぎしたが秋の日暮は早い。「大分遅くなった。もう帰ろうか」と一人が立つとお開きになった。

「九七 月下のビール」 吾輩が勝手へ来て見ると、コップが盆の上に三つ並んでいる。その二つには半分ほどビールが残っている。ものは試しだ。猫だって飲めば陽気になれぬこともあるまい。思い切って飲んでみる。舌がピリピリして口の中が苦しくなったのには少々驚いた。一度は見合わせたが、人間は良薬口に苦しと言って風邪などを引くと、顔をしかめて変なものを飲む。飲むから癒るのか、癒るから飲むのか、今迄疑問だったが丁度よい機会だ。この問題をビールで解決してやろうと思ってぴちゃぴちゃと・・・。

「九八 猫ぢゃ猫ぢゃ」 吾輩は一杯のビールを飲み干し、更に二杯目も。ついでに畳の上にこぼれたのも拭うごとく腹に収めてやった。すると次第にからだが暖かくなる。眼のふちがボウッとする。歌が唄いたくなる。猫ぢゃ猫ぢゃが唄いたくなる。最後にはふらふらと歩きたくなる。外へ出ればお月様今晩はと挨拶がしたくなる。どうも愉快だ。

「九九 行水」 陶然と酔った吾輩は、そこらじゅう目的もなく、ふらふら、よたよた散歩をするような、しないような心得で、しまりのない足をいい加減に運ばせて行くと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端、ぼちゃんとばかり吾輩は大きな甕(かめ)の中におっこちてしまった。ここは夏まで水草が茂っていたが、その後鳥が来てそれを食い尽したうえに行水を使ったりした。吾輩は今、吾輩自身が鳥の代わりにこんな所で行水を使おうとは思いも寄らなかった。水から縁までは四寸余もある。足をのばしても届かない。飛び上がっても出られない。呑気にしていれば沈むばかりだ。無暗にがりがりともがいてみたが、そのうちに身体が疲れてくる。

「一〇〇 南無阿弥陀仏」 吾輩も最早いくらもがいたって到底助かりっこないのを知ったので「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれ限り御免蒙るよ」と足も頭も自然の力に任せて抵抗しないことにした。次第に楽になってくる。苦しいのか有難いのだか見当がつかない。水の中に居るのだか、座敷の上に居るのだか判然としない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否楽そのものさえ感じ得ない。日月(じつげつ)を切り落とし、天地を粉韲(ふんせい=粉々に)して不可思議の太平に入る。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、有難い有難い。

最後の場面のこの挿画、なかなか出色と思いませんか。日月いずれかといえば夜だから月でありましょう。蛇足だけど。

裏表紙は座布団に後ろ向きで座っている「ありし日の吾輩」でおしまいおしまい。

近藤は大正11年(1922)には岡本らとヨーロッパ各地を旅行、フランスを拠点にゴヤやエル・グレコの作品を鑑賞するためスペインにも足を伸ばした。このときの旅行記が『異国膝栗毛』。昭和に入ってからも長くフランスに住み美術評論家のアンドレ・マルローらと親交を結んだ。昭和37年(1962)に78歳で没した。

そうそう、名前はどうなったのかが残っていました。忘れるところだった。正解は「最後まで無かった」。小説のほうは吾輩という猫の目から見た先生宅というか人間社会を痛烈に風刺した作品だからそれでいいけれど、名前なしでは呼ぶのに困ると思うのは私だけではないはず。

書斎の漂着本(97) 蚤野久蔵 日本と世界の人名大事典

  • 2017年1月30日 22:58

この角度なら題名のように<大事典らしく>見えるから不思議だ。実際のサイズは縦15センチ、横10.5センチのA6判だからA4コピー用紙の四分の一の大きさ、厚さは3センチで全826ページ。もっとも「縮刷版」とあるのだから細かいことは抜きに「掌にすっぽり収まる小型本」だけで良かったか。谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)は長らく事典や図鑑、辞書類の棚の隅に眠っていた。奥付をみると昭和49年3月10日発行の12訂刷で、定価は1,300円だからリーズナブルな値段だとしても新刊で買ったとは思えないからやはり古書店で見つけたのだろう。値段も数百円か、せいぜい5百円止まりだったはずだからいつどこの古書店で入手したのかも忘れてしまった。そのうえせっかく手に入れたのに他に日本人、外国人などに分かれた人名事典がそれぞれ何冊かあるので引いてみる機会もなかった。まさに「不遇な漂着本」だったわけだが前々回、前回と小型本を取り上げたので、ついでの機会に3冊目を、となった次第である。

谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)

谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)

あらためてこの本のどこに関心を持ったのだろうと考えてみる。なぜ買う気になったか?ですね。でも単に安かったからではなさそうで、そりゃそうだ。何かのわけがあるはず・・・。このカットはどこかで見たような・・・。ギリシャ彫刻・・・そうか、ミロのヴィーナスだ!それは間違いないけど、これに魅かれたわけじゃないし・・・ウーム・・・。理由をあげるならやはり冒頭に紹介した小型本なのに大事典とあるところ。もうひとつは、人名事典は同じ出版社でも日本人名、外国人名と別々になっているのが普通なのに、この1冊で両方が引けるというのが面白いと思ったのではなかったか。世界的大ヒットとなったあのピコ太郎のPAPPほどではないが<ありそうでなかった組み合わせ>である。私見であるが人名事典が分かれているのは編著者の専門分野が大きく日本史、世界史にジャンル分けされるのと、例えば図書館に納入するにしてもあわよくば両方買ってもらえるとすれば出版社の営業政策からみても有利なのではあるまいか。

編者の谷山茂は表紙に大阪市立大学名誉教授、文学博士とあるだけなので他の人名事典で調べてみると明治43年(1910)生まれ、岡山県出身、京都帝国大学文学部国文科卒。大阪市立大学の助教授、教授を歴任、定年退官後に京都女子大の学長をつとめた。中世和歌文学とくに藤原俊成・定家研究の第一人者で、日本学術会議会員、『新編国歌大観』代表編集委員。『新古今集とその歌人』で角川源義賞を受賞、平成6年(1994)に亡くなっている。

谷山博士は「はしがき」で選考の基準について述べている。
古代から現代にいたる世界の歴史は、休むことなく進んでいる。本書はその歴史をつくる人間の中から、人類文化の発展に、民族国家の興亡に寄与した人物を、政治家・科学者・武将・経済人・芸術家・宗教家などあらゆる方面から古今東西に求めて、その実績を記述し、適切な解説をほどこしたものである。その大部分は私たちの処世の範となる偉人英才であるが、なかには、ふたたびこのような人が現れないことを人類のために祈りたい人物もある。正と不正、善と悪といった固定観念によらず、ある時代、ある世代の歴史を作り、時代を動かし、また世に影響を与えた人物約六〇〇〇名を挙げた。

「ふたたびこのような人が現れないことを人類のために祈りたい人物」ですか。古くは帝政ローマの暴君・ネロ、血の粛清の旧ソビエト連邦のスターリン、ユダヤ人大虐殺のナチス・ドイツのヒトラー、隋の煬帝(ようだい)、カンボジア、クメール・ルージュのポル・ポト将軍、文化大革命の下放政策で多くの犠牲者を生んだ中国の毛沢東、人食い大統領と言われたウガンダのアミン大統領・・・。このなかでポル・ポトとアミンはなかったが、まだまだあるのでしょうねえ。ちなみに「あいうえお順」なので【あ】は江戸末期の儒者で水戸学の代表的思想家、会沢正志斎(あいざわ・せいしさい=1782-1863)から始まる。続いて古代ギリシャの詩人、アイスキュロス(前525ごろ-前456)。ギリシャ悲劇の代表『アガメムノン』で知られる。3人目が大正・昭和期の詩人、会津八一(1881-1956)、4人目がアメリカの軍人・大統領、アイゼンハウアー。「アイク」の愛称で呼ばれた。水戸学、アガメムノンの解説などがあってこれでちょうど1ページである。いちばん最後は【わ】の完顔阿骨打(わんやんあくだ=1068-1123)で中国(満州)金の初代皇帝。女真族の出身。契丹(きつたん)の遼(りょう)の支配から独立し、1115年ハルピン付近の会寧府(かいねいふ)に都して、国号を金と定めた。のち宋と結んで、遼の勢力を満州から駆逐することに成功した。

残念ながら私、最初の会沢正志斎もこの完顔阿骨打も知らなかった。紹介したのは最初と最後だけだったが日本人、外国人が混在しているところが面白い。しかも何ページにもわたって日本人名ばかりが続くところや外国人名ばかりのところもある。フランス国王もルイ9世、11世、12世、13世、14世、15世、16世、18世は載っているが8世までと10世、17世はどんな国王だったのか気になる。まあ8世までは特筆すべき事象はなかったのかもしれないが「喧嘩王」と呼ばれたルイ10世はわずか1年半の在位中、ブルゴーニュ公国やイングランドとの争いが絶えず、24歳の若さで急死した。もう一人のルイ17世はフランス革命で父のルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されるとパリのタンブル塔に幽閉されたままわずか10才で病死した。谷山博士はこの二人を外したのでこちらも他の人名事典で調べてわかった。

ここまで書いて、好奇心旺盛な私、そもそも縮刷版に先行する「元版」があったのでは、と酔狂にも版元の㈱むさし書房に問い合わせてみた。京都・大阪を結ぶ京阪電車沿線の大阪市阿倍野区美章園にある。以下がその報告である。

現在の代表者は『日本と世界の人名大事典』の発行者だった稲橋兼吉氏のご子息、俊治氏で事典類からは撤退したが学習参考書などの出版を手がけておられることがわかった。俊治氏の話では元版は昭和39年8月1日に発行、昭和60年代まで版を重ねたそうだ。大きさは縮刷版の倍のA5判、活版印刷で定価4,500円だった。一方の縮刷版は学生や社会人が気軽に引いてもらえるように内容はそのままで堅牢なビニール加工の表紙をつけて企画したが、最盛期はこちらの方が何倍も売れたという。人名事典は業界大手といわれる岩波書店や平凡社、三省堂などいずれも東京で、それに対抗して「大阪の出版社ここにあり」とがんばったものですと。なかでも当時は<人名事典のタブー>とされていた現存の人物も含まれていたため、改訂のたびに生没を調べたり、在庫を出荷する際に亡くなっている人物は同じ活字を使って手作業で没年を印字したりしたそうだ。「倉庫に何冊かあったはずだからよろしければ差し上げましょうか」というご厚意でいただいたのが下の写真左(昭和60年6月10日、改訂16版)である。

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「縮刷版を頼んでいた印刷所の火事で刷版が焼けて作り直したり、何でこの人物が入っていないのかとねじ込まれたり、ここが違うと熱心な読者から指摘を受けたり、色々あったようですけどすべて父の時代でした。いまは事典や辞書はみなさんネットや電子辞書で検索する時代ですからこれもいい思い出です」という俊治氏の声が耳に残った。

書斎の漂着本(96)蚤野久蔵 五分間演説集

  • 2017年1月10日 21:36

有名人といえども「スピーチが苦手」いう人は意外に多い。英国王・ジョージ6世も吃音(=どもり)を克服するまでは大変な努力を重ねたことをアカデミー賞の作品賞など4部門を受賞した映画『英国王のスピーチ』(2010年)で知った。「スピーチ下手の国民」と言われる日本人ならなおのこと悩みは尽きなかったろうから多くのハウツー本が出版された。先日、京大前の古書店で見つけて思わず購入した雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』もそんな一冊である。幅9センチ、高さ14.5センチのほぼはがき大で336ページの外函付。昭和4年9月に大阪の村田松榮館から定価60銭で売り出されている。

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

この年は前年に起きた「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」での政府責任を追及する野党民政党の動きが不発に終わるなかで、天皇の<不信>により田中義一内閣が総辞職して、浜口雄幸内閣が誕生した。新内閣は緊縮財政を唱える一方では金解禁を実施するなど経済立て直しをスローガンに掲げたがそれは遅々として進まず、世界的な恐慌の波が目前に迫っていた。巷には「東京行進曲」、「君恋し」などが流れ、これらヒットレコードの映画化が進んだ。こうした時代背景が例文にも見られるのが興味深い。

表紙は蝶ネクタイにメガネと髭の「弁士」が握りこぶしを振り上げて熱弁をふるっている。例文の多くにあるように「諸君」から始まる演説そのままをイメージしたカットである。ガラスコップの水はまだ七分目ほどだから最初の一口を飲んだばかりだろうか。いや、題名が「五分間」だから水は単なる<お飾り>だったか。「水をさすのは止めろ!」とヤジが出そうなので本題に戻す。そもそも雄辧=雄弁とは弁論ともいい、歴代首相や多くの政治家を輩出した早稲田大学雄弁会が有名だが、この演説集を手がけた雄辧研究会なるものは正体不明で、書店のお抱え筆者が手がけたのかもしれない。いまどきの「専門ライター」ですね。

「序文に代へて」では「ラジオを聞きながらボロボロと涙を流している人があるかと思うと一方には馬鹿に興奮して聞いている人がいる。これを見てラジオに泣いたり、怒ったりしていると思ったら大間違いである。彼らはその放送された題目のプロット(筋)とリズムとを銘々の境遇に取り入れ、これに共鳴してある者は涙を流し、ある者は緊張するのである。演説もこれと同じだ。話す人は一人で聴者は多い。従って一人の口から出る同一の話によって聴者に多種多様なショックを与えることになるのだ」と演説の意義を強調する。そして「聴者の受け取る感動はラジオや蓄音器よりも深刻だ。それらは単に耳にだけしか刺激を与えないが演説となると話す本尊(=演説者)を前において耳と目の二覚官(=感覚器官)に刺激を受けるからである。話すということは文章よりも、その他あらゆる方法や機関よりも自己を表白する上において最も強い機能を持っている。しかし同じ話すにしてもその話ぶりに巧拙があり、その内容に貧富の差があり、態度やその他の影響も手伝って相手に与える反響に異同があり、時をすると目的と全く反対の結果を招くことがある。これらは話すことの最も下手な例である。ともかく人は巧みに話すことによって、自己の幸福をより多く受け取り得られるのである以上、何人も上手に話したいと望むのは人情である。本書はこうした要求に応じ、最も新しい時代において巧みに話すことを望む人たちに対し、何かの便宜を与えるであろうことを自信して現れた(出版した)ものである」とPRしている。「機関」は当時、情報を受信するための主要な手段だったラジオや蓄音機=レコードを指し、「内容に貧富の差がある」とはそれが「豊かであるか貧しいか」ということだろう。当時も今も変わらないが、こうしたハウツー本は「手に取ったときから<読後の効果>をそそのかすのである」と言ってしまうと身もフタもないか。

「演武場開場祝賀演説」は「諸君、今日の日本は奢侈淫靡の悪気流が渦を巻き、ただでさえ人は文弱に流れんとしているのであります。そこへ加えてあてにもならない平和論を振り回して惰弱の空気を吹き送るから士気の萎靡はほとんど収拾すべからざる有様であります。堂々たる日本男子でありながら白粉(おしろい)をつけ、香水を振りまいて得意然と反り返っているがごときはその現れである。恋愛至上主義だの、享楽気分だの歯の浮くような寝言ともうわ言とも分からぬことを臆面もなく吹き散らし、新しい思想の持ち主らしい顔で高く止まっている変性男子の多いのもその現れの一つであります。そんな奴らを跋扈させておいたら帝国の前途は一体どうなるのか、諸君、思いここに至るは痛憤浩歎、自ら涙のこぼれるのを覚える次第ではありませんか」が前段。「かかる軟体動物性時代において武士道的競技の随一なる柔道の修行を行い、かつこれを宣伝することはそれによって勇猛清廉なる男子的気象を養い、

おっと気象は気性の誤植とここでミスを発見!

頑丈事に堪える壮健なる肉体を作るのみならず、鼻持ちならぬ方今の文弱を押しつぶし、憐れむべき惰眠から叩き起こす痛快なる一大面棒である。かくして初めて我が帝国はその惰弱より救われ、淫蕩より引揚げられ、その尊厳と神聖とが保たれるのである。柔道の道場が開かれるのを見て痛快に堪えず、あえて駄弁を叩いてこれを祝し、諸君の批評に訴えるものである」。ウーム。

「只」や「之」などは平仮名にし、文語表現の一部は現代語に変えたが文弱、奢侈淫靡(しゃしいんび)、萎靡(いび)、跋扈(ばっこ)、痛憤浩歎(つうふんこうたん)、一大面棒(いちだいめんぼう)などは、正直、タイムスリップしてこの演説を聞いただけでは漢字を思い浮かべる自信はないことをおわかりいただこうとそのままにしてある。これが全文であるが率直に言って頭でっかちで龍頭蛇尾の見本のような気がする。

「結婚披露会にて」では大時代的な定型そのものだから失礼ながら皆さん下を向いてアクビしていそう。「本日は目出たき結婚披露会に招待の栄を受け、祝意を表するは私の欣慶措く能わざるところであります」から始まって新郎を「学識において徳望において青年紳士の模範的人格者であり・・・」とか新婦を「女学校在学時よりすでに才媛を唄われ、花の如き美貌と多方面にわたる高尚な趣味と貞淑なる婦道の持ち主で・・・」など誉めちぎって最後は「尾の上の松の幾千代かけて両君の上に幸多からんことを祈り、謹んで祝意と敬意を表する次第であります」と。ま、五分間なら居眠りまではいかないか、というのが意地悪な感想である。

勇ましいタイトル「壇上の獅々吼」として紹介されているのは移民問題、戦争と軍縮、芸術と思想、漢字の難しさとローマ字の普及、軍事演習と兵士の民家分宿批判とさまざまだがまさに雄弁会の面目躍如といったところだから少しばかり紹介しておこう。

「生ぬるい救済」は、当時流行した富豪からの寄付が病院や医学研究にのみ傾いているのをチクリ。「金ができると病気にかかりやすい」という経験からの思いつきかもしれない。せいぜい長生きして現生の享楽に耽溺したい、もし病気にかかった時はできるだけ尽力をつくしたいという人情に対しては非難をさしはさむ余地はない。寄付者に敬意を払うにやぶさかではないが、何ゆえに彼らは病院ばかりに寄付をしたがるのか。病院を建てるとその名は永久に残るからか。諸君、わが国の医療機関は大体において不自由を感じていないのであります。社会公共とか救済のためならばもっと緊急な火の付くようなことがたくさんある筈で、売名的ではなく真に社会を救済したいという精神があるならば火急なるものから順を追って救うことがより意義のある行為ではありますまいか。寒い夜を公園のベンチの上で明かしている幾千の失業者は少しも省みられずして、数年先または十数年先に至って初めて役に立つ救済機関(=病院)に寄付する篤志家の行為は涙ぐましいことではあります。だが、失業者に一杯のうどんを振舞うことは一時的ではあるが、それを知らない篤志家が多い現世相を何と言ったらよいのでしょう。私は売名を予期する公共事業には賛成できない一人であります。私もそう思うからこれには一応パチパチ(拍手)。

「ヤンキーの挑戦と国民の覚悟」では米国海軍が大正14年の大演習以来、ハワイ真珠湾の防備に力を入れ、太平洋艦隊の大部分が入ることができる岸壁や大船渠(ドック)、将校や兵員宿舎の建設を急いでいることを挙げ、米国の軍備論者の着眼点がハワイを中心とした太平洋に置かれ、明らかに日米戦争を予測した企てであるまいか、とブツ。さらに彼=米国は20浬(=かいり、約37キロ)の距離にある一切のものを焼き尽くす威力を持つ死光線を発明し、これを太平洋に配備する準備を進めているのは見逃すことのできない敵対行動であると。死光線とは「死のレーザー光線」の意味だろうが「しかし諸君、今は起(た)つ時ではない。沈勇を誇る日本人はあくまで慎重な態度をとり、満を持して放たざる覚悟を定めることが今の場合、最も大切なことであります」と結んでいる。太平洋戦争の火ぶたを切ったのはこの真珠湾だったが、最後は死光線をはるかに上回る広島、長崎への新型爆弾=原爆の投下だった。

ところで本体はめくったりしたあともほとんどないのに外函だけはひどく傷んでいる気がする。ひょっとして元の所有者は演説のたびに「緊張してあがらないお守りがわり」にこれを持ち歩いていたのでは。まさかそれはないか。