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新・気まぐれ読書日記(34) 石山文也 カサンドラ

  • 2016年2月13日 01:08

新刊コーナーに並んだ桑原水菜の『カサンドラ』(角川書店)を手にしたのは題名からだ。表紙には客船らしい船が描かれ、帯には「傑作!船上サスペンス―絶海の船上で繰り広げられる、男たちの熱き闘い!」とあるから海洋が舞台なのは明白なのに、頭に浮かんだのはヨーロッパの山岳地帯を走る国際特急列車を舞台にしたあのパニックサスペンス映画『カサンドラ・クロス』(昭和51年、1976)だった。

桑原水菜『カサンドラ』(角川書店)

桑原水菜『カサンドラ』(角川書店)

こう書き始めると、まさに<脱線覚悟>、おっと脱線なんて不吉な用語は鉄道ファンに叱られそうだが、頭に浮かんだ共通の「カサンドラ」が本の購入動機になったのだから勘弁してほしい。というわけで最初に映画のほうを紹介しておく。

急患を装ってジュネーブの国際保健機構に潜入したゲリラが銃撃戦の末、逃走した1人がパリ、アムステルダム経由ストックフォルム行の国際列車に紛れ込む。感染性の極めて強い細菌に感染した疑いもあり、事件の発覚と感染の拡大を恐れた保健機構のアメリカセクション情報部員のマッケンジー大佐(バート・ランカスター)は、千人の乗客ごと列車を闇に葬ることを計画する。列車の爆破計画を察知して乗客を救出しようと奮闘する神経外科医のチェンバレン博士(リチャード・ハリス)、博士の元妻で女流作家のジェニファー(ソフィア・ローレン)らが乗っている。列車は刻一刻、廃線になったポーランドのカサンドラ・クロス鉄橋へと進んでいく。英・独・伊の合作は最後まで息をつかせない迫力はさすがで、私、ロードショーだけでなく、ビデオでも観ました。結末は分かっているのに毎回、手に汗握って。

かくして脳内に「カサンドラ・クロス」のイメージが残像のように残った次第。どういう意味なのか。帯をそのまま引用させてもらうと「カサンドラ=人名・神話:トロイア王の娘。国家の滅亡を予言したが、太陽神アポロの呪いにより、その予言は誰にも聞き入れられなかった」。では表紙の客船の名前が「カサンドラ」なのか?いやいや、そんな(不吉な)ことはありません。

昭和28年(1953)夏、旧日本海軍の空母を<改装>したアメリカ船籍の豪華客船は、ギリシャ神話の“光の女神”からとった「アグライア号」という船名で横浜港大桟橋に接岸していた。全長170メートル、全幅22メートル、総トン数1万5千トン、主機関は非公開とされていたが最高速力は30ノット、時速に換算すると55.5キロメートルとなる。白亜の美しい客船は仙台港を経由して横浜港と北海道・函館港を往復する3泊4日のお披露目航海のためである。前身は昭和13年(1938)に建造された大型船「さんぱうろ丸」で、有事には空母などに改造できるように設計され、主にブラジル・サンパウロへの南米航路に就航していた。徴用後は階段状の優美な上部構造を撤去して無骨な飛行甲板を載せ、空母「海鷲(かいしゅう)」と改名されていた。多くの徴用船が米潜水艦の雷撃を受けて、ことごとく海の底に沈んでいったなか、数少ない生き残りとして、終戦で米軍に接収された。その後、占領下の佐世保工廠のドックで船体の改造に2年、その後、3年以上をかけてエンジンや操舵設備、係留設備等を取りつける艤装(ぎそう)を終えた。搭載した新型エンジンは極秘工事で、船会社も「これは船の革命だ」と自慢するだけあってこの航海は実力を披露する格好の機会だった。

招待客には通商産業相で民主自由党所属の衆議院議員・児波源蔵、大蔵官僚・中平康隆、商社出身で民政党の衆議院議員・要真、大手重電メーカー丸菱電機社長・祖父江仙三、プラズマ研究の第一人者で物理学者の大学教授・波照間秀樹、毎経日報社長・醍醐万作と懐刀の専務・合田始、GHQ諜報部所属マクレガー中佐、船主セブンシーラインズのオーサー社長、船の新型エンジンを設計したバークレイ研究所のナギノ博士、そのエンジンを製造したエレクトリック・バーナード社のジム・ストーン社長らが乗船していた。児波の警護役が民間護衛会社から派遣されたことになっている主人公の入江秀作で、陸軍中野学校出身。戦時中は上海で諜報活動に従事していた。前年、警察予備隊から改変・発足した国の保安機関・保安隊の情報部にあたる「2部」に所属しているが軍歴を隠して何とか乗り込んだ上海からの引揚船で瀕死の重傷を負っていた同じ諜報員仲間の戦友、佐賀英夫を佐世保に着く直前で失った。入江の真の任務はソ連側スパイに流出しかけている機密情報の流出阻止と持ち出そうとした者の<抹殺>だった。機密情報の暗号名は“カサンドラ”、はたして入江はその流出を防げるのか。

当面の課題はこの船に乗っているという、もうひとりの潜入保安官―暗号名“マルヤ”と接触することだったが翌朝、波照間教授が自身の一等船室で腹部を刺されて死んでいるのをお湯の入れ替えに来たキャビンボーイが見つけた。死因は失血死。同じ日の昼過ぎには上部貨物デッキでマクレガー中佐がピストルによって眉間を撃ち抜かれて殺されているのが発見された。14時30分、船は濃霧に包まれた仙台沖に投錨。接舷した海上保安庁の巡視船に二人の遺体を預ける手はずだったが、タラップから上って来た保安官は「赤雹梯団(せきはくていだん)」を名乗る武装集団で、ブリッジを占拠したあと、目的地を変更してベーリング海峡を経て北極海沿いにあるソ連の軍港、アルハンゲリスクに向かうよう命令した。ところがこんどは船を奪還してアメリカに向かおうとする集団が現れて壮絶な諜報戦と血みどろの死闘が繰り返される。いったい誰が敵で、誰が味方なのか、しかも混乱のさなかに船内に火災が発生する。鳴り続ける非常ベル、やむなく総員退船となるのか、乗客らの運命は。

登場人物の名前をわざわざ書いたのはいささか意味がある。この年は終戦から8年、人々の多くが辛くも生き抜いた過酷な戦争を引きずっていた。野望や<密命>を帯びてこの船に乗っているかもしれない。船には船長以下、多くの乗組員や乗客サービスにあたるスタッフもいるからその一部を紹介したに過ぎない。もちろんミステリーだからこの先は「読んでのお楽しみ」ということにさせてもらうが、“カサンドラ”が何を指すのかがなかなか明らかにされないので、記憶に残る冒頭の映画のシーンと同じく久し振りに<手に汗握って>読了した。「俺はこの国のひとたちを信じたい。日本には日本の、日本だからこそ選べる道があるって!」残された入江がつぶやいた言葉である。

ではまた

新・気まぐれ読書日記(33) 石山文也 京都ぎらい

  • 2015年12月4日 17:36

朝日新書の『京都ぎらい』(井上章一、朝日新聞出版)が異例ともいえる版を重ねている。しかも、ここまではっきりと「京都が嫌い!」と題名にうたった本は初めてではあるまいか、いや、初めてに間違いない!と自称・京都本ウォッチャーの私が<断言>する。私自身も長年、京都の町に親しんできたし、いわゆる「京都本」のたぐいはついつい買ってしまう。買わないまでも何が書かれているかは調べておくことにしている。ある年は、ビジネス用に『京都手帳』を使っていたぐらいだ。もっとも自称のほうは、他人からとやかく言われる筋合いはないけれど、帯にあるように「千年の古都」なので京都が好きか嫌いかと問われると、そこは「まあ、好きです!」と答えることで好き嫌いの旗色はとりあえず抑えておく<京都になじもう>とする習性だけは身についた。

井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)

井上章一『京都ぎらい』(朝日新聞出版)

井上は現在、日文研=国際日本文化研究センターの教授で副所長をつとめる。経歴紹介にある著書は『霊柩車の誕生』や『美人論』などをはじめとしてほとんど読んできたし、講演会でも京都市出身と聞いた記憶があるのに、そこには「京都府出身」とある。たしかに行政区分でいうと京都府京都市であって、京都市も京都府に含まれているがどういうことなのか。

私が生まれたのは、右京区の花園、妙心寺のすぐ南側である。そして、五歳の時に、同じ右京区の嵯峨、清涼寺釈迦堂の西側へひっこした。その後、二十年ほどは、嵯峨ですごしている。私には、嵯峨の子としてそだったという、強い自意識がある。花園も嵯峨も、右京区にくみこまれている。行政的には、京都市にぞくするエリアである。京都市に生まれ、そしてそだったという自己紹介に、いつわりはない。なぜ、そう書くことに、ためらいをおぼえるのか。京都以外の人々は、なかなかピンとこないかもしれない。だが、京都の街中、洛中でくらす人々なら、すぐに了解するだろう。井上は嵯峨そだちだったのか、京都の人じゃあなかったんだな、と。(「京都市か、京都府か」)

おわかりだろうか。井上のいう「洛中」を分かりやすく解説するといわゆる「碁盤目のなか」で下京、中京、上京区をさす。しかも上京区でも西陣は違うというのだ。国立民族学博物館の初代館長だった梅棹忠夫発案という全国の方言を紹介する「方言・桃太郎」装置に対する中京の新町御池で生まれ育った男の返答がこちら。
「京都を西陣のやつが代表しとるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気なんやな」西陣あたりがえらそうにふるまうのは、かたはらいたいと言う。いやはや、京都はこわい街である。(同)

中京の老舗の令嬢という30代の独身女性は酒席でこんな話をしたという。
「とうとう、山科の男から(縁談の)話があったんや。もう、かんにんしてほしいわ」
「山科の何があかんのですか」
「そやかて、山科なんかに行ったら、東山が西のほうに見えてしまうやないの」(「山科もきらわれて」)

所帯を持ってからの井上は、宇治に居を構えている。京都から東南に半時間、あの国宝・鳳凰堂の平等院で有名な町である。つまり宇治市民であるから、
宇治の分際で、京都を名のるな。身の程を、わきまえよ。そんな京都人たちの怒号を耳にして、私は心に誓っている。金輪際、京都人であるかのようにふるまうことは、すまい。嵯峨そだちで宇治在住、洛外の民として自分の生涯はおえよう、と。(「宇治もまた、ゆるされず」)

ブラジル・リオデジャネイロの大学にある日本語学科で日本文化を教えに行ったときには仕方なく「京都からきました」と自己紹介した。
このくだりを読んで、しゃらくさいと感じる洛中棲息者は、いるだろう。嵯峨そだちで宇治ずまいやのに、ブラジルでは京都の人になりすまさはったんですか。そら、あんな遠いとこまでいったら、ばれる気づかいはおへんわな。ひとときでも、京都からきたと言えて、御気分もよろしおしたやろ。以上のような皮肉を想いつくだろう京都人の姿も、私の脳裏をよぎらないわけではない。(「“KIOTO”がしめすもの」)

ところがこの自己紹介は、しばしばほほえみとともに受け止められた。なぜか。リオにはゴキブリやシロアリを専門にする「KIOTO」という害虫駆除の会社があり、街中の至る所でこのロゴが車体に書かれた車を目にする。自己紹介が笑いを誘ったのはそのせいかもしれないと、ようやく一矢をむくいる。ここまで読んできたら、「京都ぎらい」の井上のペースに乗ってしまう。
「お坊さんと舞子さん」、「仏教のある側面」では連綿と続く京都と宗教を。「皇居という名の行在所」、「京都をささえた江戸幕府」、「江戸と京都の建設事情」では歴史の中から京都と江戸・東京を対比させる。

冒頭に書いた自称・京都本ウォッチャーの私から「ここから読み始めては」と思わず勧めたくなるのが「あとがき」の、七は「ひち」である、という話である。
七五三という言葉を、私は「ひちごさん」と読む。「しちごさん」とは、まず言わない。私にとって、七は「ひち」であり、「しち」は不快にひびく。(中略)京都には七の字をふくむ地名が、いくつかある。七条、七本松、上七軒などである。それぞれ、地元の人々は「ひちじょう」、「ひちほんまつ」、「かみひちけん」とよぶ。七条に関しては「ひっちょう」という古い世代も、いなくはない。

この本で京都洛中の悪口を書いている。洛外で生まれ育った私の、洛中になじめぬ部分を、あげつらってきた。しかし、七の読みに関しては、価値観をわかちあうことができる。この点だけは京都人にあゆみよれる。私は七を「ひち」と読むだけの連帯感が、かぼそいことをわきまえている。まあ、私なんかにすりよられた洛中の人々はめいわくがるような気もするが。
といってあげたのが地名の上七軒である。本文中のあるページに書いた上七軒に初校の校正刷りでは「かみしちけん」とルビがふられてきた。東京で仕事をする校閲者は、やはり「しち」としか読まないようであるとは思ったものの、井上は最後まで抵抗した。かつて朝日新聞社から本を出した時には書籍編集部からすべて「しち」で統一されてしまったという苦い経験を持つ。後裔の朝日新聞出版からも同じように「しち」を押し付けられそうになって「それならルビなしでもいい」と<譲歩>はしたが、さて。私はその結末に思わずにやりとした、とだけ書いておく。

ではまた

新・気まぐれ読書日記(32)  石山文也  水中考古学

  • 2015年11月26日 17:51

いまも水中考古学の第一線で活動する井上たかひこが、小難しいはずの専門分野をわかりやすく紹介してくれる。「クレオパトラ宮殿から元寇船、タイタニックまで」と副題にある『水中考古学』(中公新書)は、入門書であるとともに海底に眠る宝物を一緒に潜って探しに行くような知的冒険の旅にいざなう。

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水中考古学は水面下の遺跡や沈没船を発掘、保存、調査する研究分野である。著者の井上は「水中考古学の父」と呼ばれるジョージ・バス博士にあこがれて渡米、東洋人で初めて水中考古学の学位を取得した。以来、この道一筋、世界各地で多くの水中発掘調査に携わってきた。はるか遡ること3千3百年前、トルコ沖の地中海に沈んだ青銅器時代の難破船は、単に「ウル・ブルンの難破船」だけでは具体的なイメージが湧かないが、「金銀宝石類など時価数十億円相当を積んで当時の古代エジプト王朝の若き王ツタンカーメンのもとに向かう途中だったと推測されている」となると贅沢な積荷を想像する。さらに「不幸なことに嵐に遭遇、船長らの必死の操船もむなしく、激浪は木の葉のようなその船を翻弄し、海底深く引きずり込んでいった」と<時間経過>が込められると臨場感さえ感じる。

井上にとって初めての実地体験となるこの難破船の調査は、水深40メートルを超える深海潜水となった。船は水深43~51メートルもある急傾斜面に引っ掛かるように沈んでいた。水中メガネとシュノーケルだけで水面下10メートルまでを何度も素早く潜る訓練から始め、ようやく海底までの潜水許可が出た。潜水病の危険を避けるため、海底での滞在時間はわずか20分に制限されるから素早い潜水が不可欠。難破船の近くにはダイバーの安全確保と母船との交信用に透明プラスチック製の半球を鋼鉄の底板に取り付けたドーム型の「水中電話ボックス」が設けられた。ドーム内には母船からホースで常に新鮮な空気が送られるのでマスクなしで直接呼吸ができ、隊員同士の会話や船上への電話が可能だった。

東地中海のこのあたりは水が青く澄んでいても海底は見えない。先輩隊員二人の指導があるとはいえ、恐怖で顔が引きつった。慣れてくるとようやく船が沈む海底はさらさらした砂地で、その先は陸地のほうにせり上がる岩棚、背後の砂地は傾斜を深めて暗い海底へ続くことがつかめた。沈没船のまわりを、月面に降り立った宇宙飛行士のように、緩慢な動作で少しずつ歩いて行く。あたりには大小の壺や金属のインゴット(かたまり)、石の碇などが折り重なって散らばる見たこともない光景が広がる。目を凝らすとマンタのつがいが、広げた大きなヒレをマントのようにゆっくりと上下に動かしながら暗黒のかなたへ消え去った。

表紙の写真に写る壺はアンフォラという容器で、オリーブ、ザクロ、香料や香辛料として使われるテレピン樹脂、ガラス塊などありとあらゆるものが詰まっていた。金属インゴットは武器や甲冑などになる青銅の材料になる銅や錫で合計10トンもあった。寝台や椅子などファラオの調度品の材料に使う黒檀や象牙、黄金のペンダント、メダルや絶世の美女とされたエジプトの王妃ネフェルティティの名が彫られたスカラベ(タマオコシコガネ形のお守り)も見つかった。全長15メートルの船は真っすぐな木目をもち材質が緻密で含まれる成分から腐食や虫食いに強いことで知られる良材レバノン杉が使われていた。

水中考古学は海賊船になどに積まれた財宝探しのトレジャーハンティングとは違い、引き揚げ後の保存処理や調査分析が最も重要になる。「引き揚げてからの考古学」といわれるゆえんである。インゴットのような重量物や大型の遺物、かさばる壺などは鉄枠に入れてエアバルーン=水中気球で水面まで運ぶ。小さな遺物は区画ごとにエアリフト=吸い上げ式浚渫機で砂や泥と一緒に船上まで瞬時に運ばれる。これらが水中考古学の秘密兵器だ。出土した遺物の分析などから船はシリアかパレスチナ周辺で建造され、カナンの港あるいはキプロス島で荷物を積み込み、南トルコの沖をエーゲ海のロードス島やクレタ島を経由してギリシャ本土を目ざしていたらしい。沈没したのは遺物や陶器の形などから紀元前千三百年頃、古代エジプト第18王朝を支配したツタンカーメン王の時代に東地中海一帯を定期運航していた「王家の船」の一隻であろうと推定された。

井上は巨大地震で沈んだ「海のポンペイ」ジャマイカのポート・ロイアル海底都市、長崎県鷹島沖の元寇船の調査などを手がけ、いまはスポンサーを探しながら千葉県勝浦沖に沈む黒船ハーマン号の調査を続けている。幕末に始まった戊辰戦争の末期、榎本武揚が率いる旧幕府軍は箱館(函館)五稜郭に立て籠もって最後の抵抗を試みた。明治新政府はその鎮圧を東北諸藩に命じたが苦戦続きだった。ハーマン号は熊本藩主が実弟の津軽藩主のために横浜に寄港していた蒸気船をチャーターして援軍として向かわせた黒船である。藩士350名、米国人乗組員80名を乗せて出帆したが明治2年(1869)2月13日夜、房総半島沖でシケに遭い破船、藩士200名以上、乗員22名が犠牲になった。ハーマン号は挿画で紹介するように三本マスト、三層甲板をもつ蒸気外輪船。全長71メートル、二基のエンジンボイラーは最大出力1100馬力を誇る当時日本に往来した外国船では最大級の木造船だったが、視界不良のなか暗礁に乗り上げたのが原因で大破した。この大事故はニューヨーク・タイムズ紙でも報道された。くわしい調査が進めば「海から見た幕末・維新史の新資料」として注目されるはずである。

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水中考古学が産声を上げてまだ55年。日本ではなじみ薄い分野だったがユネスコ水中文化遺産保護条約などの後押しを受けて急速に脚光を浴び始めている。水中ロボットの利用でより深い海底にも手が届くようになった科学技術の進歩も見逃せない。海底遺跡をそのまま海中で保存・公開する「海底遺跡ミュージアム」という新たな試みも動き出した。この本ではエジプト・アレクサンドリア沖の海底に眠る女王クレオパトラの宮殿、イギリス・ポーツマス沖に沈んだ英国王陛下の旗艦メアリー・ローズ号、中国・泉州沖の宋代沈船、韓国・新安沖の元代海船、近代の海難事故では大西洋に沈んだタイタニック号、和歌山県串本沖で遭難したトルコ海軍のエルトゥールル号なども取り上げている。島国日本の周りにはまだ日の目を見ていない遣唐使船、御朱印船、南蛮船など数千もの歴史的な船が埋もれているほか、突然の大地震や洪水などで海に沈んだ島々、港湾なども多い。

「いまや水中考古学なくして人類の歴史や文化を語ることは不可能であり、水中考古学こそ魅惑的な海の謎を解明する扉口なのです」という井上は、子供のころ『宝島』を読んで海にあこがれた。それがやがて海底の難破船や宝物を巡る探検や調査に向かうことになる。「ギリシャ神話に登場する都市トロイアを発見したシュリーマンのエピソードのように、ワクワクするような夢をこの本に込めた。それが私たち水中考古学者のささやかな願いですから」という井上のことばを引いておく。

ではまた

新・気まぐれ読書日記(31) 石山文也 虚栄

  • 2015年11月4日 16:17

「がん治療開発の国家プロジェクトは覇権争いの場と化した」という帯に惹かれて手に取った。医療サスペンスにしては変わったタイトルが何を指すのかが読む前から気になったこともある。現役医師でもある久坂部 羊の『虚栄』(角川書店)は、がん治療開発の最先端に鋭く切り込む。「主な登場人物」だけでも24人、470ページを超えるがサスペンスフルな展開に魅了されて一気に読了して久し振りの興奮を味わった。

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プロローグは201X年1月、人気歌舞伎俳優が56歳という若さで亡くなる。死因は胃がん。診断から死亡まで、3カ月という速さだった。3月にはバラエティ番組で売り出し中の看護婦タレントが急激に進行する卵巣がんで死亡。彼女自身が番組で歌舞伎役者の死を「普通では考えられない凶悪ながん」とコメントしていたが、彼女のほうはわずか5週間だったから一時は自殺説まで流れたものの主治医によってようやく否定された。4月には45歳のロック歌手が喀血して急死、死因は肺がんの血管浸潤による頸動脈破裂だった。3カ月前に風邪をひき病院でレントゲン写真を撮ったときにはがんは写っていなかった。ところが解剖でがんは肝臓と脳、および腹部リンパ節にも転移していたことがわかった。連続する著名人のがん死を受けてマスコミはいっせいにがんの特集を組んだ。三人に共通するのは、発見から死までのあまりに急激な進展だったので国民の関心が一気に高まった。

政府も総理自らの指示で凶悪化したがんの治療をめざす「プロジェクトG4」をスタートさせる。プロジェクト名はがんに対する四大治療法の手術、抗がん剤、放射線治療、免疫療法から名付けられた。外科グループ=手術は、大阪・阪都大消化器外科、内科=抗がん剤グループは東京・東帝大腫瘍内科、放射線科グループは京都の京御大放射線科、免疫療法科グループは東京の慶陵大免疫療法科が選ばれた。メディア関係各社の中では報栄新聞社医療科学部が中心となる。プロジェクト発足の記者会見ではがん治療の4グループを統合して総戦力でがん撲滅に立ち向かう「集学的治療」の必要性が強調される。ところが、8千億円という巨額予算だけに初年度は各グループ1千億円ずつ、次年度はそれぞれの効果を見て配分を大幅に変えることになり、早くも主導権争いが始まる。

阪都大は「神の手」を持つとされた玄田教授を筆頭にロボット手術導入を強力に進めようとする准教授と対立する講師の主人公・雪野光一が医者としてのありかたを模索する。東帝大は薬品業界に大きな力を持つ朱川教授にかわいがられている講師の赤崎が携帯電話やスマホなどからの電磁波がDNAに突然変異をもたらすことを動物実験で証明したとして科学雑誌にセンセーショナルな論文を発表する。放射線科グループの京御大は福井県に放射線を使った大規模治療センターを計画中で多額の建設費がかかる。免疫療法科グループの慶陵大は米国の大学で実績を積んだメンバーでは紅一点の白江教授が自分の名を冠した研究プロジェクトで巻き返しを図ろうとする。それぞれの研究成果を合わせた「集学的治療」以前に、どの分野が主導権を握るのか騙し合い、情報リーク、そのための暗躍がさまざまな形で展開する。

一方のマスコミは報栄新聞の女性記者矢島塔子が上司に「効果は不明、などと書いたらそんな記事を誰が読むか」と言われながら取材に奮闘する。さらに「偽がん・真がん説」を唱える放射線科教授の医師・岸上は、外科医が手術で治したと思っている患者はすべて「偽がん」なので、手術をしなくても死ななかったという過激な持論を展開する。タイトルの「虚栄」は、主人公の雪野が、がん治療の専門誌を読みながら「ごたいそうなタイトルが並んでいるが、中身はいずれも、実際の治療には結びつかないものばかりだ。仮定と、推察と、希望的観測に基づく推論。医療はがんを克服しつつあるなどとアピールするような論文は、恥ずべき虚栄だ」と思うシーン。あるいは「結局は時代の限界なのですよ。今は医学が進んでいるから、何でも分かるはずだと考えている人が多いようですが、決してそんなことはない。実際は分からないことだらけです。何でも分かるように見せかけているのは、医学の虚栄ですよ」と語るあたりに象徴的だが、医者として患者のために何をするのが最良の善意なのかが、立場上そうできない悩みと共に繰り返し示される。矢島は自身がいるマスコミも読者に期待を持たせる記事ばかりを報道するのは一種の虚栄ではないかと自問し続ける。

そして、この作品に登場する教授や准教授の何人かだけでなく矢島も自身を実験台にした体験取材で偶然、ステージⅣの胃がんが見つかる。もう一人、「がん放置派」の岸上までもがんにかかってしまう。まさに国民の二人に一人ががんにかかる現代、がん治療の裏表を知り尽くしている医師たちは、あるいは情報の最先端にいる矢島はどういう治療法を選択するのか。覇権争いの結末と合わせて彼らの運命はどうなるのか。これが最初に「久し振りに一気に読了した」と書いたゆえんでもある。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (30)  石山文也 鯨分限

  • 2015年11月1日 16:27

表紙でご覧に入れるように『鯨分限』(伊東潤、光文社)は、鯨漁復興に命をかけた実在の人物の生きざまを描いた歴史小説である。分限(ぶげん)とは江戸時代の富豪のことで、<鯨一頭七浦をうるおす>といわれた鯨漁で、捕鯨集団「太地鯨組」は鯨分限となった。ところが幕末になるといくらでも鯨が捕れた時代は過ぎ去り、浜は不漁にあえいでいた。さしもの鯨組の土台もぐらつき、その立て直しを託されたのが主人公・太地覚吾である。

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覚吾は天保4年(1833)6月、黒潮洗う太地の捕鯨集団、太地家の長男として生まれた。幼少の頃から英才は近隣にまで聞こえ、武芸、運動、音楽、詩歌にも優れていた。何よりも腕っ節が強く、同年代の男の子を次々と喧嘩で倒した。父親も「棟梁は学問だけでなく体力でも誰にも負けてはいかん」と小さい頃から鯨を仕留める刃刺(はざし)の息子たちと同じく銛打ち訓練をさせたから足腰も強く12歳で成人並みになっていた。最大長1丈5尺(4.5メートル)、最大重量2貫目(7キロ)もの銛を天高く放り投げるには尋常でない足腰の強さが必要になる。親類一族は覚悟のことを、大鯨を網に追い込んで弱らせ銛で仕留める「網取漁法」を創始し、太地に空前の繁栄をもたらした三代目の角右衛門頼治の生まれ変わりだと喜んだ。

最初の試練は12歳になった正月に訪れる。実際の鯨漁を初めて見学に行った沖合で12間(22メートル)もある抹香(まっこう)鯨に遭遇した。網に追い込むまでは良かったが、鯨は水中から海面へ飛び出す捨て身の「底上がり」という想定外の動きで暴れ、覚吾の乗った船が転覆して深みに引きこまれた。ようやく浮かび上がったところへ鯨が向って来た。直前で鯨は逃げ去ったもののもう少しで死ぬところだったから敗北体験から始まった。5年後、父は「漁にあたる沖合衆とは一蓮托生」という棟梁としての心得を伝えて亡くなる。覚吾は17歳で家督を継ぐが周囲から信頼を得るまでは親類から後見役が立てられるという決まりで、そこから覚悟は新宮から大阪、江戸と商売や人生を学んでいく。人生というのは薄幸の娘おせんに片恋慕したがようやく行き先をつかんだ江戸で、彼女は形見の三味線「雲居遥か」を残して病死していた。ここでもまた敗北の結果だった。

嘉永7年(1854)、22歳になった覚吾は生まれ故郷の太地に戻って来る。鯨組の棟梁に就任するためである。後見役の末娘の卯野を娶ると大きな借財をして老朽化した鯨船をすべて新調し納屋などの設備も一新した。漁も上向いてきた矢先の11月、後に幕府による改元で「安政東海地震」と名付けられた激震とそれに伴う大津波が襲来、多数の人命だけでなく船や漁の道具、個々人の財産、あらゆる古記録までもが失われた。これまた敗北ではあったが覚吾はあきらめない。新天地を求め大型鯨が多くいた蝦夷地への視察に出かけたのは4年後の安政5年(1858)だった。当時、蝦夷地へ向うことは「地獄に行くようなもの」とされていたから同行者の家族たちは泣いて引きとめた。死の危険は蝦夷地だけでなく往復の海路にもあったからである。

蝦夷地では度重なるロシア船の乗組員によるアイヌたちへの横暴に一矢を報いる冒険譚が展開するが、時代は覚吾に味方してはくれない。太地を管轄する新宮藩やその母藩の紀州藩は外国船の襲来などに備え熊野灘一帯の漁民たちを輸送船の漕ぎ手として徴用することになった。覚吾らが駆り出されたのは第二次長州征伐で、運悪く長州軍に捕まってしまい赤間関(下関)まで連行される。高杉晋作により危うく処刑されるところを「りょうま」という土佐人に助けられる。もちろんあの坂本龍馬である。

「覚吾さんとやら、世の中は変わるぜよ。武士も働かにゃならん日が、必ず来るぜよ。時代の変化に逃げたらいかん。逃げんと立ち向かうぜよ。ほいたら変化が、いつの間にか自分の懐に入っちゅうがよ」。たしかに龍馬の言いそうなことではありますねえ。ま、小説ですから。

覚吾の人生最大の試練は明治11年12月に起きた大量遭難で「大背美流れ」と呼ばれる。子育て中の背美=セミクジラは子鯨を守ろうとして大暴れすることから太地では昔から「背美の子持ちは夢にも見るな」という格言があった。暮れも押し迫った24日午後、20間(37メートル)を越える子持ちの背美が見つかった。しかも太地の北隣にある三輪崎の鯨組が取り逃がしたことがわかったので太地鯨組としてはその面目かけても仕留めたかった。ようやく鯨を曳航して浜に戻ろうとしたが天候が急変してしまう。鯨発見から遭難、漂流まで伊東の筆が描くドキュメントはこの小説のクライマックスである。

25日の夜が明けた。風は相変わらず強く、大西に変わった。船団は、ずるずると黒潮本流に向かって流されていた。しばらくすると水平線の辺りに、明らかに黒潮本流とおぼしき黒い帯が見えてきた。船団は恐慌状態に陥り、皆、懸命にそこから離れようとした。しかし、本流に行きつくまでに渦や乱流に巻き込まれ、互いに舷側をぶつけ合うようになった。遂に船団は、黒潮が海を切り裂いて進む際に造り出される巨大なうねりに捕えられた。その時、うねりの頂きから六番船が落下し、四番船に激突した。舷側を破壊された四番船は一気に浸水し、乗っていた者たちは、海に放り出された。

生存者が最後に目撃した惨状の一場面を紹介するが<小説以上のシーン>が活写され息をつかせない。生き残った者と戻らなかった者、その家族・・・歓喜より悲嘆が浜をどん底に突き落とすが覚吾はいっさい逃げなかった。これを境に太地鯨組は終焉を迎える。

著者は、この物語を「大背美流れ」で死んでいった男たちに捧ぐ―と書く。

「わいは時代と戦ってきた。時代という化け物は、何度となくわいの前に立ちはだかった。だか、わいは負けんかった」という覚吾は終生、三味線「雲居遥か」を手放さず、生前に自ら「無持院覚吾唯足居士」という戒名を付けた。「無持院」は何も残せなかった人生を皮肉り、「唯足」はそれでも自分なりの生き方に満足しているという意味である。

数え77歳の人生を終えた覚吾の死に顔は、微笑んでいるように見えたので葬儀の参列者たちは「棟梁は、大背美流れで亡くなった人たちと、あの世で酒を酌み交わしているよ」と噂したという。激動の時代を生きたひとりの男は、いかなる高波をも乗り越えられることを証明し、この世から静かに船出していった。

ではまた