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あと読みじゃんけん (13)   渡海 壮 惜檪荘だより(その2)

  • 2016年9月13日 22:20

実はこの『惜檪荘だより』(岩波書店)を読むまで、知らなかったというか、気付かなかったことがある。著者は人気時代小説の『酔いどれ小藤次留書』や『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズなどで活躍しているのはご存じの通りだが、1970年代には写真家としてスペインに滞在し「黄金の時代」といわれた闘牛社会を取材していた。私は以前、鹿児島県の徳之島で「伝説の横綱」として活躍した実熊(さねくま)牛を描いた小林照幸のノンフィクション『闘牛の島』(新潮社、1997)に惚れ込み、沖縄に売られていった実熊牛の哀れな末路を追いかけたことがある。そういえば、と書庫の奥から探し出したのがこの『闘牛はなぜ殺されるか』(新潮選書)である。同一人物だったとはと不思議な偶然に驚いた。

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

「闘牛への招待」から始まって、地中海一帯にあった牡牛信仰、男社会から女の時代に変わる「闘牛社会の変革」、「闘牛はピカソに何を与えたか」、「闘牛はなぜ午後5時に始まるか」など微に入り細にわたり闘牛を紹介した労作である。題名の理由は、牡牛は信仰の対象で猛きものの代名詞として闘牛場の砂場に登場するが「祝祭の当然の帰結」として殺される。表舞台からラバに引かれて去ったわずか5分後には食肉として処理される。年間3万頭以上もの牛が闘い死んでいく闘牛は「スペイン文化の神髄」とされ、失業率の高い国を支える観光産業ではあるが、動物愛護の思想が強く主張されるにしたがって捕鯨反対の国際世論に押されて商業捕鯨が禁止されたように確実に衰退の道を進むだろうと示唆している。

写真家時代に佐伯が取材に同行したのは作家の堀田善衛、詩人の田村隆一、英文学者の氷川玲二らがいる。一時期、佐伯は堀田がマネージャー役の夫人と住んでいたスペイン・グラナダのマンションに運転手兼小間使いとして居候していた。いつもは寡黙でレース編みなどで静かに時を過ごしていた夫人は一度その勘気に触れると老練の編集者も出版社の重役も震え上がる。日本では永く逗子に住んでいたから「逗子のライオン」と怖れられていた。あるとき「佐伯、作家というものはね、文庫化されてようやく一人前、生涯食いっぱぐれがないものなのよ」としみじみ、そして誇らしげに呟いたという。芥川賞作家の堀田は老舗文庫に名を連ねていた。売れっ子作家は雑誌連載をハードカバーに纏め、さらに数年後か十数年後に、読者と識者の厳しい目に曝され、価値を認められた本が「古典」として文庫化されるのだと言いたかったわけである。田村からは詩人らしくあれこれあった人間関係を学んだ。スペインで知り合った氷川とはその生前20年ほどの付き合いがあり、文章の手ほどきを受けた。いまでも覚えているのは「原稿用紙でもいい、初校ゲラでもいい。一見して黒っぽく感じたら、こなれた文章ではないということだ」と教わった。こうしたエピソードが惜檪荘修復のさまざまな場面に挿まれているから、単に熱海での専門家を巻き込んだ純粋な工事進行の紹介にとどまらず飽きさせない。

佐伯はなぜ仕事場の条件として「海の見える地」を選んだかについてあらためて書く。スペイン時代にお金の工面を願った佐伯に母親は「先祖は豊後の大友宗麟配下の地下者(じげもん)で、天正年間、薩摩に追われて肥後に逃げた一族であるから恥ずかしい真似だけはするな」と手紙で説諭した。豊後はリアス式海岸の海の国、南蛮に憧れを抱いたキリシタン大名の大友宗麟が活躍した地である。佐伯は福岡県の旧八幡市折尾(現・北九州市)生まれで「幼い頃は海への思い入れが格別にあったとは思えないが後年、時代小説を書くようになった時、豊後を迷うことなく物語の舞台に選んだ。スペインに憧れたのも宗麟が夢半ばにして潰えた野望を思うてか。また海を想う気持ちも海の民の豊後者だからか、ともかく私の体内にも同じ血が流れていて海に憧憬を抱いたのだと勝手に考えている」と。だからか、『酔いどれ小藤次』の主人公赤目小藤次にしても豊後森藩ゆかりで『居眠り磐音』の坂崎磐音は架空だが豊後関前藩中老の嫡男という設定だ。

修復工事に戻ろう。建築当時の設計原図は吉田が描いた22枚のスケッチが東京芸大建築学科に残されていたが、現況の「実測図」を起こすことからはじめられた。窓の金具から戸車にいたるまで原寸大で、さらに床下と天井にはカメラを入れて現況を出来るだけ正確に把握することが進められた。吉田は京都からわざわざ職人を呼んでさまざまな工夫を凝らした。なかでも洋間の開口部は、雨戸、網戸、ガラス戸、障子、それぞれ3枚、計12枚の戸をすべて戸袋に仕舞うことで創られた開口部=額が醸し出す壮大な「絵」でまさに<十二単>を思わせた。のちに岩波ホールの支配人岩波律子に聞いたエピソードが紹介されている。ここに一夜泊ったポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ夫妻が窓からの眺めに感動した。日本画、なかでも浮世絵にも関心があった監督の絵には歌川広重風の斜めに突き刺さる雨が描かれていた。<吉田の黄金比率>ともいわれる横広のガラス窓をそのまま額縁に見たてたか。静的な雨だれよりもあえて広重の動的な雨を描くことで滞在記念の絵にダイナミズムの息吹を与えている。

工事はまず、洋間の床板のチーク材が一枚一枚丁寧に剥がされてナンバーが打たれた。吉田デザインの応接セット、文机、天井の照明器具も取り外され修理技術のある高島屋(=デパート家具部)に預けられた。すべての建具、部材、建物の解体から始まり、例えば石畳は庭の一角に砂を敷き詰めた「仮置場」が作られてそのままの配置で移動、保存された。上棟式には岩波家からワイダ監督が描いた絵と岩波茂雄と親交があり惜楽荘にも縁があった安倍能成の書が届けられた。

長く続いた再建工事については詳細にわたり過ぎることもあるからあえて紹介しない。この間、佐伯に前立腺がんが見つかって手術したり、その気分転換のためにベトナムに旅行したりとさまざまあったが、特筆しておきたいのは佐伯を大いに力づけた俳優・児玉清の存在だろう。古今東西の書物を読破し続けた児玉には『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)などの著書がある。『居眠り磐音』シリーズが15巻に達した新聞対談が初回だった。児玉は幼い頃、講談本を愛読していて時代小説に親近感を持っており、佐伯の著書を読破していた。いつの日か時代小説を書こうと思っている。それを文庫書き下ろしでねと、どこか引け目を感じていた佐伯の胸中を見抜くように「面白いからこそ読者の支持を受け、売れるんです。悔しかったらキャッシャーのベル(会計レジの音)を鳴らす作家になれということですよ。作家は読者に支持されてなんぼの存在です」と喝破した。児玉はその後も年2回のペースで佐伯と対談し、以来、会うたびに同じ言葉を吐いて鼓舞してくれたばかりでなく、いろいろなところで『居眠り磐音』は面白いよと宣伝これ努めてくれたお陰で、二百万部だったシリーズ累計が五百万部を超え、一千万部に化けた。いわば大恩人である。惜檪荘の洋間で行われたNHKのテレビドキュメンタリーでは「佐伯さん、これはやりがいのあるすばらしいプロジェクトです」とその決断を認めてくれたのに楽しみにしていた完成披露を待たずに亡くなった。

完成した惜檪荘のたたずまい

完成した惜檪荘のたたずまい

惜檪荘の修復落成式は平成23年(2011)10月13日に行われた。付き合いのある編集者、岩波家と岩波書店関係、不遇な時代を支えてくれた友人知人たちだけで60名になった。そうなると惜楽荘での飲食はできないので、建物見学のあとは近くのレストランでの宴となった。出版関係では角川春樹事務所の御大自ら出席し、乾杯の音頭をとってくれるということが知れると、他社も「うちも幹部を」となったが、それをすべて断ったのも佐伯流だった。当日は曇り空で宴が始まる頃には雨が降り出した。主賓の角川は「新たに惜楽荘主人に就いた佐伯は、時代小説に転じた当初から売れたわけではありません。うちでハードカバーとして出した『瑠璃の寺』は全く出ませんでした、はい。ところが文庫化すると動き出した」とスピーチした。児玉の令息で当時はタレントだった北川大裕も児玉の元マネージャーと出席してくれて降り続く雨を「これは父が流すうれし涙の雨です。おれもこの場に居たかったという雨です」と佐伯を感動させた。なかでも場を盛り上げたのが司会に指名された某社の文庫担当だった。佐伯が考えもしなかったほどの「あがり屋」で、冒頭から惜檪荘を「落石荘」と言い間違え、佐伯を「そ、それでは落石荘番人の・・・」と失笑ならぬ爆笑を誘って会場を大いに和ませた。それもあってではなかろうが、文庫版には背と表紙に、単行本では帯だけにしかなかったルビがふってある。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)

あと読みじゃんけん (12)   渡海 壮 惜檪荘だより(その1)

  • 2016年9月13日 11:10

岩波書店の創業者・岩波茂雄は太平洋戦争が始まる直前の昭和16年(1941)9月、熱海・伊豆山に別荘を建てた。眼下に熱海湾、正面には相模灘に浮かぶ初島、遠くに大島を望む絶景の地だ。設計から施工までのすべてを任された建築家・吉田五十八(いそや)は日本古来の数寄屋造を独自に改良した住宅を手がけ<近代数寄屋建築の旗手>と評された。そこに岩波が惚れこんだ。敷地内に檪(れき=クヌギ)の老木があり、それを伐ることを惜しんで建物の位置を変えたことから惜檪荘(せきれきそう)と名付けられた。竣工から70年、建物が売却されることを聞いて「番人」に名乗りを上げたのが人気時代小説作家の佐伯泰英である。『惜檪荘だより』(岩波書店)は佐伯初のエッセイ集で、主役でもある惜檪荘の歩みや、縁あって譲り受けるに至ったきっかけ、解体修復工事の一部始終を縦糸に、写真家としてスペインの闘牛を追った半生などを横糸に紹介している。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波書店刊)

惜檪荘はJR熱海駅から東北方向に800mほど離れた熱海市海光町に建つ。昭和10年代に分譲された別荘地の一角で、当時は山本五十六の別邸、水光荘や、後年、文化勲章を受章した彫刻家・平櫛田中旧宅、野村証券創始者・野村徳七の塵外荘などが並んでいた。近年は昭和レトロの雰囲気を残す「石畳地区」として人気の観光スポットになっているが、佐伯が仕事場探しのため初めて訪れた当時は訪れる人もなく、敷地に通じる門柱の照明器具に「岩波別荘」とあるだけで「なんだ、岩波さんか」と思ったという。同じ出版界に生きる人間とはいえ、思想書や哲学書、さらには岩波文庫を中心として広く出版事業に携わるアカデミックな社風とはまるで縁がなかったからでもある。

佐伯は時代小説に転じて4、5年目、大出版社が見向きもしなかった中小出版社相手の「文庫書き下ろし」というスタイルで『密命』や『秘剣』シリーズなどを書いていた。売れなければあとがないなかで、ようやくその日暮らしを脱する目途が立ったところで、編集者との付き合いを必要最小限にし、パーティーの類いも出席したことはなかった。熱海に仕事場を持とうと考えたのは都内のマンションでの職住同居から抜け出したかったからということもあるが、都内からだと新幹線や車でわずか1時間半ほどなのに、その当時の熱海は寂れていた。「熱海の住人には叱られようが、その寂れようが気に入って熱海に白羽の矢を立てたのは生来のへそ曲がりのせいだ」という。

契約した建物は「岩波別荘」のすぐ上にあって共用の石段があり、「惜檪荘」という正式名があるのはあとから知った。仕事場からは海側に一段下がった位置にあるため、山桃や柿など木々に遮られて屋根がちらりと見えるだけで建物の全容は知れなかったが70余年の松籟を聞いてきた屋根は軽い弧を描いて、艶を漂わせて官能的であった。娘さんがインターネットで建物について書かれた本を買い集めて、岩波と吉田の頑固と意地のぶつかり合いの末に生まれた作品であることを知るにつけ「見てみたい」と希求するようになった。数か月後、惜檪荘に庭師が入っているのを見て、親方に見せてくれませんかと声をかけてみた。「家は見せることはできないが庭ならいいよ」ということで初めて敷地に足を踏み入れた感動をこう書く。

まず海が目に入った。「ええっ」と娘が絶句した。わずかに距離が離れただけで海の風景が違っていた。松の枝越しに見える相模灘、その真ん中に初島が浮かんでいた。視界を東に転じたら別の海が待っていた。真鶴半島の突端の三ツ石に白く波が洗う景色だった。(中略)惜檪荘の名の由来となった老檪は、支え木に助けられて地上二メートルのところから直角に角度を変えて横に幹を伸ばしていた。昔の写真で見るより幹は痩せ細っていた。筋肉を失い骨と皮だけになった媼(おうな)の風情、平ったい幹の所々にうろを生じさせていた。

植木屋の親方が、「隣にあるのが二代目の檪」と教えてくれた。初代が枯れることを想定して二代目が用意されたらしい。だが、私の目にはすくすくと育つ二代目より腰の曲がった初代礫がなんとも好ましく、したたかに映った。

惜檪荘は雨戸が建て回されて内部の様子は窺うことはできなかった。だが、見慣れた屋根と茶色の聚楽壁が調和した簡素な佇まい、三十坪の建物が相模灘を眼下に従えて清楚にして威風堂々としていた。雨樋を設けていないせいで屋根の庇の景色がなんとも淡麗であった。屋根を流れてきた雨を雨落ちが受ける仕組みは、建物を実にすっきり見せた。

これだけで佐伯が惜檪荘にぞっこん惚れ込んだことが伝わるが、すぐに変化があったわけではない。熱海に仕事場を設けた佐伯はますます仕事に打ち込んだ。年間の出版点数が12冊を超えて<月刊佐伯>と呼ばれ始めたころだった。自分ではさほど意識しなかったがストレスが溜まり、体調を崩してしまう。「石畳の住人」となって3年目のことだ。初めて出版各社の編集者に集まってもらい、今後の出版点数を抑制する話し合いの後、当分の静養が決まった。その夜、家族としみじみ話し合い家族が洩らした「お父さん、無理してこの仕事場を手に入れておいてよかったね」の言葉に自身も共感し、心から安堵した。毎日仕事場からぼおっと相模灘を眺めて、ジョウビタキ、目白、四十雀、雀が庭木を飛び回る風景を見ていれば心が休まった。こうしてこの石畳の風景に体調を取り戻すことができ、仕事を再開した。

岩波の代理人から惜楽荘を手放すことになりましたので隣人の皆様にはお断りをしておきますという丁寧な挨拶を受けたとき、佐伯は言葉を失った。垣根越しに季節を楽しんできた桜も、その桜に絡みついて季節の様子を見せる椿も花のつかない藤も、鳶が遊ぶ大松も、いや惜楽荘までも消えていくのかと茫然自失した。時勢が時勢だけに開発業者に渡ればその先の展開は目に見えていた。松が切られ、惜楽荘が潰され、崖地の起伏が整地されマンションが建築される。仕事場の向こうにコンクリートの塊が出現すると思うとぞっとした。恐る恐る代理人に連絡をとり、無謀な思いつきを打診してみた。

その結果、佐伯が惜楽荘の番人に就くことになり、初めて建物の内部を見ることができた。しかしこの建物をどう活用するか、どう社会に還元するかのアイデアはなかった。

戦時下、新築家屋30坪の制限があるなかで吉田は岩波の要望をすべて満たすことに全力を注いだ。

・指呼のうちに見える、大洋の青緑、初島を真正面に眺めるため、方位を三十五度東に振って建てること。
・居間はもちろん、浴室、便所、洗面所などの雑室にいたるまでいずれの部屋からも海が眺められるように平面計画を考慮すること。
・浴室の位置は、その浴槽に浸りながら寄せくる怒涛が巨巌を噛むさまを眺め得るようなところを選ぶこと。
・家全体から受ける感じを出来得るだけ簡粗にすること。

信州人であった岩波の海へのあこがれがそのまま表れたように思える。吉田も眼前に広がる相模灘と岩波の注文をどう拮抗させるかに頭を悩ませたろうが、それだけに佐伯の素人目にも、建物自体に無駄なく景観との完璧な調和があった。戦前に建築された建物は岩波という出版文化の組織と資金に庇護されていたにも拘らず、やはり目に見えないところが痛んでいた。

あらためて家族と話し合い、岩波茂雄と吉田五十八がイメージした建物へ修復しようと決心した。吉田のまな弟子の建築家と永年、惜楽荘を手入れしてきた工務店の助力を得ることができた。「なにも付け足さずなにも削らず」という修復の基本路線と「七十年の歳月が加えた景色、古色」は大事にすべきという考えでいよいよ修復工事が始まった。

(以下、続く)

あと読みじゃんけん (11)  渡海 壮 本で床は抜けるのか

  • 2016年9月8日 19:04

西牟田靖の『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)は、蔵書家の不安な気持ちを射止めるそのものズバリの題名である。帯には、気づけば部屋中本だらけ、床抜け危機、勃発!家族も巻き込む蔵書問題へ果敢に挑んだ体験記・・・と「読まねば」と思わせる惹句が並ぶ。

西牟田靖著『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)

西牟田靖著『本で床は抜けるのか』

かくいう私、サラリーマン生活最後となった東京での11年半におよぶ単身赴任生活では、本が溜まりにたまってしまった。若いころから本を「偏愛すべき宝物」と思っているせいか本に囲まれていると、まったりした気分になる。書店もそう、あの雰囲気がたまらない。週に何回かは大手書店の新刊・話題書コーナーをのぞいて読みたい本を「品定め」するのを楽しみにしていた。限られた小遣いを有効に使うためには優先順位が要るわけで、実際に手にとり「新本で買うかどうか」を決める。将来、使えそうな資料として入手するのなら「古書でもいいや」ということになる。

素面(しらふ)の場合は、もより駅からの帰りに必ず古書店に寄り道した。わざわざそう書いたのは「飲んだら寄るな」は店への礼儀であると思うし、そもそも反省多きわが人生、オーバーかもしれないが酔ったはずみで、はロクなことがない。古書店での本選びはまさに真剣勝負、店頭の均一棚にせよ、店内の棚でめぼしい本をチェックするにせよ、わが流儀は「迷ったら買い」だから酔いは禁物なのである。当時はいまほど古書店のネット情報が普及していなかったのであくまで現物の「掘り出し」しかなかった。値段が安いからといって記憶に頼ることなく、手帳にはさんだジャンル別に抜き書きした「探書本リスト」で確かめることにしていた。喜んで買ってきたらすでに本棚に並んでいたなどという残念な思いを重ねた失敗から学んだというわけだ。

住んでいたのはJR中央線西荻窪から徒歩7、8分の2階建ての木造アパートの2階だった。階下と2階が一所帯ずつで階下の住人は「女性占い師」といううわさだった。中央線沿線、なかでも荻窪や西荻窪界隈にはアンティークショップと並び古書店も多い。駅からは、どの道から帰っても古書店があるし、よく行った店をあげると片手では収まらない。休日は散歩代わりに早稲田や神田神保町の古書店街へよく出かけた。神田も含め「古本まつり」があるとリュックを担いで足を伸ばした。まるでハイキング気分、購入した本を入れて帰るのには重宝した。「品定め」した新刊はほとんど宅配専門の「さかえだ書店」に注文した。店主の栄田さん自ら毎日、大手取次が集まる通称・神田村に出かけて本を仕入れて自転車で配達するという東京ならではの無店舗書店で、手作りのミニコミ誌に本にまつわるエッセイを書いていたからでもある。

住み始めはがらんとしていた部屋は数年たらずのうちに本で埋まった。壁際はすべて本棚、高さ180cm、幅80cm、7段のスチール書棚だけでも最後には10本ほどになった。その半分を変形3畳ほどの板の間部分に向かい合わせに置き、地震で倒れないように突っ張りを入れていた。雑誌類は腰高窓の下に二段ほどの棚をいくつか作って平積みで並べた。栄田さんが納品にやってくるたびに「大丈夫ですかね」と言い始めたのはいつごろからだったか。注文した本の代金を渡して少し立ち話をしての帰り際に「それにしても地震が起きたら」とか必ず付け加えた。それが聞こえたのか、それとも何かの霊感が働いたのか、階下の占い師は「田舎に帰ることにしました」と挨拶に来て引っ越していった。いまもどこかの街で「他人の運勢」を占っているのだろうか。そのあとを借りたのは、すぐ隣に住む某私立大学の名誉教授で、定年退官と同時に研究室の本を整理してくれと言われたので、ということだった。「横文字の専門書ばかりなので図書館に寄贈するわけにもいかないし・・・」とこぼしておられた。相槌はうったものの不勉強がばれてしまいそうなのでそれ以上は尋ねなかったが一時期、あのアパートは上下とも「本だらけ」だったわけだ。

『本で床は抜けるのか』に戻ろう。筆者は自宅とは別に書斎として友人と借りていた都内のシェアハウスが本で埋まってしまったため、引越しを検討するところから書き始める。アジア・太平洋諸島の元日本領土、北方領土や竹島といった国境の島々をテーマにしたノンフィクション作家なので、自身だけでなく蔵書の悩みやその解決法をテーマとして取り上げる取材の旅が始まった。

私もたまたま新聞の切り抜きを持っているが平成17年2月に東京・目白の古いアパートの二階の床が崩れ、階下に住んでいた老人が挟まれて重傷を負った。原因は住人で埼玉県の某市役所に勤務する当時56歳の男性が、住み始めた昭和50年代後半から、新聞や雑誌をほとんど捨てず、ひたすら部屋に積み重ねていたのがその重さに耐えきれず・・・というものだった。発生は午後7時前、本人の帰宅前だった。近所の主婦の証言では「ドーンという爆発のような音がして水道管も破裂した。レスキュー隊や消防団がバケツリレーで雑誌などをかき出したが、救出に2時間もかかった」という。アパートの前に山のように積み上げられた雑誌や新聞の写真が添えられている。

これほどでなくても本は時に凶器になる。崩れた本で扉が開かなくなって半日近く浴室に閉じ込められた評論家・草森紳一は『随筆 本が崩れる』(文春新書)で体験を生々しく伝えたが東京のマンションだけで3万冊あったという。草森死後の蔵書の行方、都下あきるの市にある少女マンガの館のルポ、蔵書のすべてを処分し『捨てる女』(本の雑誌社)で紹介したノンフィクション作家の内澤旬子のケース。蔵書を電子化した人、私設図書館を建てた人、大きな書庫を建てた人・・・いまふうに「ヤバイ本」も多すぎると大地震の場合は凶器になりうるし、同居人=家族からすればあまりの偏愛ぶりはヤバイわけで、筆者もそれが原因で(それだけではないかもしれないが)奥さんが娘を連れて出て行ったとカミングアウトする。その時の蔵書数は1,000冊以上、2,000冊未満。自慢するわけではないがわが書斎に比べれば・・・いまのところカミサンが出て行く気配はないが、これ以上の蒐集は止めておこう。

あと読みじゃんけん  (10) 渡海 壮  探検家36歳の憂鬱

  • 2016年6月29日 18:31

子どものころから「たんけんか」に興味があった。長じてそれは「探検家」と書くことを学び、彼らが残した「探検記」を読むのが大好きになった。あこがれの探検家が活躍するのは南極や北極をはじめアフリカ、アマゾン、ヒマラヤ奥地など<地図の空白部>だった。気に入った探検家の名前をいちいち挙げないがざっと勘定しても数十人は下らないだろう。あこがれが高じて将来の目標を「探検家になる」ということにしたものの、氷に覆われた南極や北極は多くの命を奪った想像を絶する極寒の地だし、ジャングルに覆われたアフリカやアマゾンの奥地は未開民族だけでなく命を落とす未知の風土病の危険もありそうだった。単なるあこがれからというやわな動機だったし行先はどこでもよかったのだから、順番違いというか本末転倒だったわけで単なる夢に終わった。角幡唯介は<なれなかった私>がいまいちばん注目している探検家だから初のエッセイ集『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋)に、憂鬱なんてタイトルをつけるなんて「どゆこと!」と思ったのである。

角幡唯介著『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋刊)

角幡唯介著『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋刊)

北海道芦別生まれの角幡は早稲田大学探検部OBでチベットでは世界最後の空白部といわれたヤル・ツアンポー渓谷の核心部や、隊員129人全員が行方不明になったことで極地探検史上最悪の悲劇となった19世紀の英・フランクリン遠征隊の謎を求めてカナダ北極圏1600キロを踏破した。帯の写真はそのときのものだろうか。「生のぎりぎりの淵をのぞき見ても、もっと行けたんじゃないかと思ってしまう」。こんな惹句が目に入ったら、もう読む前からわくわくしてしまう。

探検家になりたいという夢だけで終わったヘナチョコの私が言うのは生意気かもしれないが、冒険とは個人にとってあくまで主体的なものだ。今こそ冒険が必要な時代だとしてもそんなものなどなくても生きていけるし、豊かな世の中だから社会生活で失敗しても飢えることはない。ところが冒険家の力量や精神力が試される極限の世界では、存在そのもの、つまり命があっけなく奪われる。角幡の肩書は「ノンフィクション作家・探検家」であるが、探検することで生計を立てているわけでなく探検したことを文章に組み立て直すことで原稿料を手に入れる。あるいはその派生として講演やテレビ出演もあるかもしれない。一時は新聞記者をしていたこともあって文章力もあるし、朝日新聞の書評委員をつとめたこともある。これまで手にしたのは開高健や大宅壮一の名を冠するノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞、新田次郎文学賞などであるが、自身は「探検家」という希少種で勇ましい存在であることにこだわり続ける。

そんな角幡であるが一方では探検そのものや取り巻く時代の流れを冷静に分析している。フランクリン隊の場合、当時の北極海における北西航路の発見は、英国社会の大きな関心事で国家事業そのものだった。70年代の米国のアポロ計画や、現在中国が国をあげて推し進めている宇宙開発事業に近かったと思われる。大衆は北極探検に熱狂し、フランクリンは月に第一歩をしるしたニール・アームストロングのような時代を代表する英雄だった。エベレストが未登峰だった時代にも初登頂を目指して死んだ登山家のジョージ・マロリーは、世界最高峰に挑戦する理由を聞かれて「そこに山があるからだ」と答えたというが、別にそんな気障なセリフを吐かなくても①世界最高峰と②未登峰という二つの社会性が備わっていたので冒険をしない人にも登頂を目指す理由は比較的分かりやすかったはずだ。

1990年代以降、社会のポストモダン的な状況が進展したことも、冒険の世界から大きな価値が失われた、ひとつの要因であるように思われる。冒険する価値のある対象が地球上から失われてしまっただけでなく、仮にそれがあったとしても、もはやそうした大きな価値観自体が社会の関心をひかなくなったという事情もある。例えば1999年にエベレストに登頂した野口健や、その後の石川直樹、現在の栗城史多(のぶかず)といった、従来の登山家像とは異なる「エベレスト登山家」たちが、既存の登山界からの反発と嫉妬を受けつつも、お茶の間の支持を受けた理由は、彼らがエベレストそのものの物語を描いたからではなく、非力な青年が世界の最高峰に挑戦するという自らのヒューマンドラマを描いたからであるという。

探検から冒険へ、角幡は学生時代に読んだ本の中でも特に印象深いものの一冊として南米アンデスで体験した自身の壮絶な遭難劇を書いた英国の登山家ジョー・シンプソンの『死のクレバス』を挙げ、もしシンプソンが成功裏に登山を終えたとしたらこれほどスリリングな物語は書けなかっただろうと分析する。冒険の現場とは通常、冒険をしない人が考えるほどスリリングではない。冒険の最中は単調で退屈な時間が続くことが多く、人間のいない自然を相手に行う場合はことのほか顕著だ。冒険に行くだけでは面白い文章が書けないことが多い。北極を歩くという行為、スキーをはいてとぼとぼ氷の上を歩いているところを文章にしたところで、面白いことなんて何もない。
雪の上を歩いた。寒かった。飯を食った。寝た。
悲しいことにこのたった合計二十二文字しかない文章で、北極を冒険することのかなりの部分は説明されてしまっている。(シロクマを見た。という一文を加えてもいいかもしれない)北極の冒険とは何かを私なりに定義すると「文章で表現すると数行で終わってしまうようなことが何十日間も続く行為」ということになる。単独行だと仲間同士の会話さえなくなるので、なおさらである。つまり、冒険はノンフィクションには適さないのであると。

そりゃそうだろうなあ。ツアンポー渓谷で死を意識したものの結果的に生還できたからこそあの『空白の五マイル』(集英社、のち文庫)が生まれたのだろうし、自身が振り返るように絶望の淵で死を覚悟したことで「ひと皮むけた」ことは確かだろう。<死の危険>と常に隣り合わせであることも逆説的ではあるが冒険の魅力だから。「あとがき」で角幡は、今回のエッセイや雑文にはなんの自己規制なく「雑念」を書くことができた。本のタイトルに「憂鬱」というネガティブな語感を伴う言葉を選んだのも全編を通して流れる自己否定的なニュアンスを、この言葉がうまく表現している気がしたからであると書いている。合間にはさまれた日常そのままのブログ記事にもクスリと笑わされることが多かった。

ただし、「私の中には、エッセイストという肩書をいつか名刺に加えてやろうというただならぬ野心が、ふつふつと湧きあがっている」というのだけはもうしばらくはお預けにしていただきたい。ファンとしては「探検家・角幡唯介」の生きざまと、ノンフィクションをまだまだ楽しませて欲しいからである。

*『探検家の憂鬱』角幡唯介、文春文庫(2012)

あと読みじゃんけん(9)渡海 壮 当マイクロフォン

  • 2016年4月5日 01:11

三田完の『当マイクロフォン』(角川書店)はNHK屈指の語り手で<伝説のアナウンサー>と言われた中西龍の生涯を描いた評伝小説である。この表紙イラストは本人の特徴をよくとらえているが、ラジオがメインの時代だったから「顔」よりもその「声」で国民の記憶に深く刻まれた。いまや「中西龍って誰?」という方も多いだろうが、長くNHKラジオ第一放送の『にっぽんのメロディー』を担当した。「唄に思い出が寄り添い、思い出に唄は語りかけ、そのようにして、歳月はしずかに流れていきます」という名ナレーションは独特の<濁り漂う声質>の抑えた淡々とした話術が全国のリスナーを魅了した。『NHKのど自慢』『きらめくリズム』や多くの連続テレビ小説、大河ドラマ『国盗り物語』の語り手としても活躍した。

三田完著『当マイクロフォン』(角川書店刊)

三田完『当マイクロフォン』(角川書店)

「当マイクロフォン」は自称(=私)の代わりに中西が好んで使ったことで彼のトレードマークになった。『にっぽんのメロディー』はテーマソングのあと「歌に思い出が寄り添い」のお決まりのフレーズに続いて「みなさん今晩は。お心豊かにお過ごしでしょうか、にっぽんのメロディーです」から始まる。そしてリスナーから届いたリクエスト葉書の一枚ずつを読んでいく。

「〇〇県〇〇市〇〇町の誰それさん、お葉書ありがとうございました」。

「初めてお便りを差し上げます。今からもう何十年も前にどこかの映画館で聞いた曲です。どこの映画館だったのか、どんな映画だったのかはすっかり忘れてしまいましたがその中で聞いた『雪の降る町を』をリクエストします。できれば高(こう)秀男さんの歌でお願いします」。

「畏まりました。それでは高秀男さんの歌で『雪の降る町を』をおかけします・・・」。

曲が終わると中西が選んだ季節の俳句のコーナーで句の意味を思い入れたっぷりに解説していく。葉書に「風邪などひかれておりませんか」とあると、「当マイクロフォンはこの冬、風邪はまだひいておりません。おかげさまで大丈夫ですが、お心遣いほんとうに痛み入ります」とこれまたていねいに答える。

中西は昭和3年(1928)、後に東京都港区長になる父清太郎と妻ハツの長男として生まれた。満州で張作霖が爆殺され、その処理をめぐって田中義一内閣が大揺れに揺れていたさなかである。干支の辰年にちなんで、龍という名がつけられた。禅の修行で漢籍に親しんでいた父親は漢音の読み「リョウ」を尊重した。5歳のとき、実母は次男を産んで数時間後に24歳の若さで他界した。一時は兄弟別々に親族の家に預けられたが3年後に父親は31歳の後添いをもらい、兄弟は同じ家で暮らすことになる。多感な時期にもかかわらず継母からは厳しすぎるしつけをされたから、長じてもことある毎に継母や、継母を家に迎えた父親に反発した。大学進学後も森繁久彌が出演している新宿の劇場ムーラン・ルージュに連日足を運び、無頼を気取った着流し姿で若い役者が集まる酒場に入り浸る。挙句の果てには「旧華族の奥様」との間に子どもができたと父に堕胎費用を泣きつく。父は病院まで手配するが知人の警察OBに調べてもらうとそれは真っ赤な嘘で病院に連れて行ったのは新橋烏森の見番に所属する枕芸者の鶴一こと有本加津だった。

大学をどうにか卒業した中西は昭和28年、NHK第26期生アナウンサーとして協会に仮採用され3カ月の研修が始まった。わが国初のテレビジョン放送が始まった年で同期は18人だった。「社会人になれば、いやがおうでも規範に基づく行動をとるだろう」と期待した父親が自身の区長という立場が脅かされないようにあらゆる人脈と伝手を頼ってひそかに手を回した<尽力>のおかげでもあった。配属は熊本中央放送局、5月の赴任にあたっては東京駅に「急行阿蘇」を見送るNHK関係者に混じって父の姿もあった。ところが次の停車地、新橋からこの列車に加津が乗りこんだ。

これから始まる長い社会人生活、NHKのアナウンサーという望んだとしてもちょっとやそっとではなれない職業についた中西だったが<内縁の家内>を連れて熊本駅に降り立った。新人でなくても異例中の異例。しかも白絣の和服姿は夏目漱石の『三四郎』の主人公が同じ白絣に袴姿で熊本から列車で上京するのとは逆の経路でやってきたのにそれを真似たのか。赴任した直後に市役所に加津との婚姻届を出して「芸者から足抜けさせる」という約束を果たしたが7月の終わりに加津がいなくなる。同じころ局には「中西がNHKのアナウンサーらしからぬおこないをしているので天誅を加える」という電話があった。見番がやくざ者を使って加津を取り戻したのか、それとも自身から逃げ出したのかはわからなかったが二度と戻ることはなかった。それからもやくざ者からの電話がしばしばかかってきたので中西はわずか一年で鹿児島に転勤になる。ここでは遊郭に入り浸り、さらに旭川では飲み過ぎて生放送に遅刻したり地回りと揉めたりと各地で<武勇伝>を作りながら富山、名古屋と地方局を転々とした。

昭和40年夏、中西は東京アナウンス室に異動の内示を受けた。やがて金曜ドラマ『文五捕物絵図』やテレビドラマのナレーションを担当していく。番組を支えた多彩な出演者以上にドラマのト書きを語るNHKアナウンサーらしからぬ、アクの強い存在感。まさに新時代の活動弁士(カツベン)として多くの視聴者に衝撃を与えた。語りに惚れこんだ美空ひばりとは「芸・ひとすじの道―美空ひばり三大都市コンサート」にナレーションで参加した。たとえば『悲しい酒』はこうである。

父の強さと 母の愛
父の笑いと 母の涙
夜更けに想う 半生のくさぐさに
ひとは哀しみという言葉の意味を
あらためて知るのです
さかずきに 零した涙 飲みほして
ああ、今宵も外は
しんしんと冷えています

東京公演はNHKホールで行われ、その客席に中西は妻とふたりの息子を招いた。リサイタルの模様は後日、民放で放送されたから中西はNHKの現役アナウンサーでありながら民放に声の出演を果たすという珍しい実績を作った。

地方局時代から中西は筆マメだった。時には得意の俳句を添えた。リクエスト葉書や手紙は他のアナウンサーの何倍も、というより群を抜いていた。プレゼントもよく届いた。そうした一人ひとりに礼状を欠かさなかった。中西には『ことばつれづれ』など自著が10冊近くあるが、なかには『俳句の手帖』とか『俳句の楽しみ方』といった本も出している。フリーになってからも本の注文があるとせっせとサインして発送した。各地からの講演依頼も多く、旅先で色紙への揮毫を求められると好んで<茫々哀憐>としるした。「ぼうぼうあいれん」と読む。たとえ幸福の絶頂にいても、それは悲哀の入口でしかないという意味である。

評伝小説『当マイクロフォン』は何回読んでも思わぬところでウルっとしてしまう。業と因果に翻弄されて、地方局を流転したその人生の山坂に、ではない。母を恋い、激情に身を明け渡し、芸の鬼となった男のストーリーは最後の転院とあっけない死、葬儀とその後の収骨の情景から始まる。平成10年10月29日、脳梗塞のため死去、70歳だった。火葬場の係員が喉仏を、白手袋をした掌に載せて遺族に見せようとしたその時、すり寄った遺族の一人が係員の肘にぶつかった拍子に、くだんの骨片は掌から滑り落ちた。中西節といわれる独特の語り口と美声で全国のファンを魅了した元NHKアナウンサー、中西龍の喉仏は、にぶく光る銅のトレイにぶつかって粉々に砕けた。読んだときには、ここでウルっと。いくら涙もろいからって泣いたわけじゃありませんから。その場に居合わせたみたいで心に染みたわけです。