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新・気まぐれ読書日記 (44) 石山文也 昭和十八年幻の箱根駅伝(その1)

  • 2017年2月9日 14:41

通算93回目となる今年の箱根駅伝は青山学院大学が圧倒的な走りで戦後初、3年連続の完全優勝を飾った。往路復路とも沿道に多くの応援の観衆を集め、常に「伝統の」を冠して紹介される大会も太平洋戦争の直前、軍部の圧力により昭和15年の第21回大会でいったん中止に追い込まれた。しかし、学徒動員で死ぬ前にもう一度箱根を走りたいという学生たちの強い願いは「戦勝祈願」という名目で開催に漕ぎつけた。それが昭和18年1月の「紀元二千六百三年靖国神社・箱根神社往復関東学徒鍛錬継争大会」である。永く「幻の大会」と言われてきたがのちに第22回と認知された。その全貌をノンフィクション作家の澤宮優が『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)で明らかにした。青学はこの大会が初参加。「ゴールは靖国、そして戦地へ」のサブタイトルが選手たちのその後の運命を暗示する。

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

箱根駅伝は<日本マラソンの父>と呼ばれる熊本県玉名郡出身で、ストックホルムなど3度のオリンピックにマラソンランナーとして出場した金栗四三(1891-1983)が中心になって創設した。第1回大会は大正9年2月14日、15日に開催された。主催は報知新聞社で、早稲田大学、慶應大学、明治大学、東京高等師範(のちの東京文理大学、現・筑波大学)の4校が参加したので名称は「四大学専門学校対抗駅伝競走」だった。

当時はまだマラソンという言葉はなく「葦駄天」が通用語だったことでもわかるように各校とも長距離選手は少なくメンバー確保に苦労した。なかには日比谷交差点で警備を担当していた警察官が箱根を走りたい一心で警察を退職して受験、見事選手になったエピソードや、脚力自慢の人力車夫を替え玉参加させたのが発覚するなどの珍事も紹介している。なぜバレたかというと前の選手を追い抜くたびに「あらよっと」と声を出したからというのが笑わせる。年を追うごとに参加校も増え、昭和9年には13校になって応援合戦も盛んになっていく。いつしか箱根駅伝は正月の風物詩となり、今日の流行語・山の神の元祖として昭和11年のベルリンオリンピック1万メートル代表に選ばれた日大の鈴木房茂のようなスター選手も現れた。箱根の温泉街は年末年始と駅伝で「正月が2度来る」とか小田原では「駅伝が通らなければ正月が来ない」とまで言われたという。

一方で箱根駅伝にも戦時体制の影が近づいてきた。昭和12年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、翌13年にはさまざまな組織を戦時体制に動員させる国民精神総動員法が施行され、14年には国民徴用令で軍需産業への徴用が始まった。15年1月の第21回大会は行われたが、夏に予定されていた東京オリンピックも中止になった。9月、日独伊三国軍事同盟締結、10月には大政翼賛会が発足して政党政治は無力化、戦争に向かっての挙国一致の国家体制が作られていく。16年の大会が中止に追い込まれたのも東海道と箱根路での軍事利用を優先したためだった。箱根駅伝に向けて物資の乏しいなかで連日の苦しい練習を積んできた各校は代替レースとしてこの年1月と11月の2回、東京・明治神宮と青梅・熊野神社を往復する「青梅駅伝」を開催した。学生たちは「青梅を走っても心は箱根」ではあったものの12月、ついに太平洋戦争が始まった。

行きつけの大型書店の「新刊コーナー」でこの本を見つけたのは発売直後の10月だったと記憶している。他にも何冊か購入したので、いつものことながら「まえがき」を読んだだけで「正月の箱根駅伝までには読了しよう」とベッドわきの書棚に積んでおいた。それが災いしたのですね。毎年正月恒例となっている箱根駅伝のTV中継を観戦して何か忘れ物をしているような気がして・・・それでこの本を思い出したという次第。もちろん当時と現在では道路事情も違えば沿道の風景もまったく異なる。それでもコースのポイントや湘南の海、函嶺箱根山、芦ノ湖、富士山などは同じだと思えば<タイムスリップした気分>で読み進めることができた。この連載を読んでいただく方は先刻ご承知だろうが、あくまで「読書日記」ですから。こうした余計なことも書いてしまう。

青学OBでもある澤宮は学生たちがどうやって軍部を説得していったかを詳細に追う。政府中枢や軍部などの先輩、縁戚の縁を辿って何度も跳ね返されながらも突破口と妥協点を見つけ出したのが冒頭に紹介した「戦勝祈願名目」での開催だった。ほぼ正式にめどが立ったのは前年の17年10月だった。

そこから各校は選手集めに奔走するが、「箱根をもう一度走りたい」と熱望していた箱根や青梅駅伝の経験のある選手の多くは2度の繰り上げ卒業で出征しているから短距離、中距離、あるいは投擲やハードルの選手を総動員し、はたまた足に自信があると聞けば一般学生にまで声をかけた学校もあった。それでも常連校の明治、日本歯科、東洋などは選手、補欠の計11人が集められず参加を断念した。物資も不足するなか、時局を反映して伴走は自動車一台になった。しかもガソリン不足のため、多くは山登りの5区に回され、平地ではもっぱら自転車が使われた。資金不足も深刻で、経営難に陥っていた報知新聞は読売新聞に吸収合併されていたから、事務局員の学生たちは唯一資金の出そうな読売本社に日参して朝から晩まで座り込んだ。態度が硬かった新聞社側も彼らの熱意に打たれ、ついに資金提供してくれた。実際にお金が支払われたのは大みそかで、すでに除夜の鐘が鳴っていた。このときは参加校の各マネージャーも隣の部屋に控えていたから配られたお金を持って喜び勇んで各校の合宿所まで急いで戻った。復活した箱根はわずか4日後に迫っていた。

関東学徒鍛錬継争大会当日の昭和18年1月5日(火)朝は見事に晴れあがった。まだ寒かったが、じきに駅伝にふさわしい日和となるだろうと予感させた。大会参加の11校を50音順で紹介すると青山学院専門部(現・青山学院大学)、慶應義塾大学、専修大学、拓殖大学、中央大学、東京農業大学、東京文理科大学(現・筑波大学)、日本大学、法政大学、立教大学、早稲田大学で、選手不足で出場がかなわなかった明治大学の選手も計時員をつとめることになった。午前8時のスタートだったが選手たちは7時には集まって準備運動に余念がない。何より関係者が驚いたのは参加大学の校友、教職員、陸上部のOBたちが靖国神社に大挙して集まったことである。人々にとって年頭を飾る箱根駅伝が2年ぶりに行われるとあって居ても立ってもおられず駆けつけたことで神社前の広場は立錐の余地もないほど応援の人垣で埋まった。一区の選手たちは他の部員に守られ、霜の降りた道をゆっくり走り、体をほぐす。校友たちが選手の手を強く握りしめ「頼むぞ」と声をかける。

7時半になると1区の選手全員と大会役員、関係者が靖国神社に参拝して戦勝を祈願して結団式を行った。参拝が終わると選手は体にまっとった厚着の服を脱いでユニフォーム姿になった。選手たちに各校のスクールカラーの襷が右肩からかけられるとそれぞれがゆっくりとスタート地点である大鳥居に向かい、身体を震わせながらスタートラインで待つ。8時ちょうど、大会会長が大きな声で「ヨーイ、ゴー」、同時に右手を上げた瞬間、選手たちは一斉に飛び出した。

(以下続く)

書斎の漂着本(97) 蚤野久蔵 日本と世界の人名大事典

  • 2017年1月30日 22:58

この角度なら題名のように<大事典らしく>見えるから不思議だ。実際のサイズは縦15センチ、横10.5センチのA6判だからA4コピー用紙の四分の一の大きさ、厚さは3センチで全826ページ。もっとも「縮刷版」とあるのだから細かいことは抜きに「掌にすっぽり収まる小型本」だけで良かったか。谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)は長らく事典や図鑑、辞書類の棚の隅に眠っていた。奥付をみると昭和49年3月10日発行の12訂刷で、定価は1,300円だからリーズナブルな値段だとしても新刊で買ったとは思えないからやはり古書店で見つけたのだろう。値段も数百円か、せいぜい5百円止まりだったはずだからいつどこの古書店で入手したのかも忘れてしまった。そのうえせっかく手に入れたのに他に日本人、外国人などに分かれた人名事典がそれぞれ何冊かあるので引いてみる機会もなかった。まさに「不遇な漂着本」だったわけだが前々回、前回と小型本を取り上げたので、ついでの機会に3冊目を、となった次第である。

谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)

谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)

あらためてこの本のどこに関心を持ったのだろうと考えてみる。なぜ買う気になったか?ですね。でも単に安かったからではなさそうで、そりゃそうだ。何かのわけがあるはず・・・。このカットはどこかで見たような・・・。ギリシャ彫刻・・・そうか、ミロのヴィーナスだ!それは間違いないけど、これに魅かれたわけじゃないし・・・ウーム・・・。理由をあげるならやはり冒頭に紹介した小型本なのに大事典とあるところ。もうひとつは、人名事典は同じ出版社でも日本人名、外国人名と別々になっているのが普通なのに、この1冊で両方が引けるというのが面白いと思ったのではなかったか。世界的大ヒットとなったあのピコ太郎のPAPPほどではないが<ありそうでなかった組み合わせ>である。私見であるが人名事典が分かれているのは編著者の専門分野が大きく日本史、世界史にジャンル分けされるのと、例えば図書館に納入するにしてもあわよくば両方買ってもらえるとすれば出版社の営業政策からみても有利なのではあるまいか。

編者の谷山茂は表紙に大阪市立大学名誉教授、文学博士とあるだけなので他の人名事典で調べてみると明治43年(1910)生まれ、岡山県出身、京都帝国大学文学部国文科卒。大阪市立大学の助教授、教授を歴任、定年退官後に京都女子大の学長をつとめた。中世和歌文学とくに藤原俊成・定家研究の第一人者で、日本学術会議会員、『新編国歌大観』代表編集委員。『新古今集とその歌人』で角川源義賞を受賞、平成6年(1994)に亡くなっている。

谷山博士は「はしがき」で選考の基準について述べている。
古代から現代にいたる世界の歴史は、休むことなく進んでいる。本書はその歴史をつくる人間の中から、人類文化の発展に、民族国家の興亡に寄与した人物を、政治家・科学者・武将・経済人・芸術家・宗教家などあらゆる方面から古今東西に求めて、その実績を記述し、適切な解説をほどこしたものである。その大部分は私たちの処世の範となる偉人英才であるが、なかには、ふたたびこのような人が現れないことを人類のために祈りたい人物もある。正と不正、善と悪といった固定観念によらず、ある時代、ある世代の歴史を作り、時代を動かし、また世に影響を与えた人物約六〇〇〇名を挙げた。

「ふたたびこのような人が現れないことを人類のために祈りたい人物」ですか。古くは帝政ローマの暴君・ネロ、血の粛清の旧ソビエト連邦のスターリン、ユダヤ人大虐殺のナチス・ドイツのヒトラー、隋の煬帝(ようだい)、カンボジア、クメール・ルージュのポル・ポト将軍、文化大革命の下放政策で多くの犠牲者を生んだ中国の毛沢東、人食い大統領と言われたウガンダのアミン大統領・・・。このなかでポル・ポトとアミンはなかったが、まだまだあるのでしょうねえ。ちなみに「あいうえお順」なので【あ】は江戸末期の儒者で水戸学の代表的思想家、会沢正志斎(あいざわ・せいしさい=1782-1863)から始まる。続いて古代ギリシャの詩人、アイスキュロス(前525ごろ-前456)。ギリシャ悲劇の代表『アガメムノン』で知られる。3人目が大正・昭和期の詩人、会津八一(1881-1956)、4人目がアメリカの軍人・大統領、アイゼンハウアー。「アイク」の愛称で呼ばれた。水戸学、アガメムノンの解説などがあってこれでちょうど1ページである。いちばん最後は【わ】の完顔阿骨打(わんやんあくだ=1068-1123)で中国(満州)金の初代皇帝。女真族の出身。契丹(きつたん)の遼(りょう)の支配から独立し、1115年ハルピン付近の会寧府(かいねいふ)に都して、国号を金と定めた。のち宋と結んで、遼の勢力を満州から駆逐することに成功した。

残念ながら私、最初の会沢正志斎もこの完顔阿骨打も知らなかった。紹介したのは最初と最後だけだったが日本人、外国人が混在しているところが面白い。しかも何ページにもわたって日本人名ばかりが続くところや外国人名ばかりのところもある。フランス国王もルイ9世、11世、12世、13世、14世、15世、16世、18世は載っているが8世までと10世、17世はどんな国王だったのか気になる。まあ8世までは特筆すべき事象はなかったのかもしれないが「喧嘩王」と呼ばれたルイ10世はわずか1年半の在位中、ブルゴーニュ公国やイングランドとの争いが絶えず、24歳の若さで急死した。もう一人のルイ17世はフランス革命で父のルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されるとパリのタンブル塔に幽閉されたままわずか10才で病死した。谷山博士はこの二人を外したのでこちらも他の人名事典で調べてわかった。

ここまで書いて、好奇心旺盛な私、そもそも縮刷版に先行する「元版」があったのでは、と酔狂にも版元の㈱むさし書房に問い合わせてみた。京都・大阪を結ぶ京阪電車沿線の大阪市阿倍野区美章園にある。以下がその報告である。

現在の代表者は『日本と世界の人名大事典』の発行者だった稲橋兼吉氏のご子息、俊治氏で事典類からは撤退したが学習参考書などの出版を手がけておられることがわかった。俊治氏の話では元版は昭和39年8月1日に発行、昭和60年代まで版を重ねたそうだ。大きさは縮刷版の倍のA5判、活版印刷で定価4,500円だった。一方の縮刷版は学生や社会人が気軽に引いてもらえるように内容はそのままで堅牢なビニール加工の表紙をつけて企画したが、最盛期はこちらの方が何倍も売れたという。人名事典は業界大手といわれる岩波書店や平凡社、三省堂などいずれも東京で、それに対抗して「大阪の出版社ここにあり」とがんばったものですと。なかでも当時は<人名事典のタブー>とされていた現存の人物も含まれていたため、改訂のたびに生没を調べたり、在庫を出荷する際に亡くなっている人物は同じ活字を使って手作業で没年を印字したりしたそうだ。「倉庫に何冊かあったはずだからよろしければ差し上げましょうか」というご厚意でいただいたのが下の写真左(昭和60年6月10日、改訂16版)である。

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「縮刷版を頼んでいた印刷所の火事で刷版が焼けて作り直したり、何でこの人物が入っていないのかとねじ込まれたり、ここが違うと熱心な読者から指摘を受けたり、色々あったようですけどすべて父の時代でした。いまは事典や辞書はみなさんネットや電子辞書で検索する時代ですからこれもいい思い出です」という俊治氏の声が耳に残った。

書斎の漂着本(96)蚤野久蔵 五分間演説集

  • 2017年1月10日 21:36

有名人といえども「スピーチが苦手」いう人は意外に多い。英国王・ジョージ6世も吃音(=どもり)を克服するまでは大変な努力を重ねたことをアカデミー賞の作品賞など4部門を受賞した映画『英国王のスピーチ』(2010年)で知った。「スピーチ下手の国民」と言われる日本人ならなおのこと悩みは尽きなかったろうから多くのハウツー本が出版された。先日、京大前の古書店で見つけて思わず購入した雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』もそんな一冊である。幅9センチ、高さ14.5センチのほぼはがき大で336ページの外函付。昭和4年9月に大阪の村田松榮館から定価60銭で売り出されている。

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

この年は前年に起きた「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」での政府責任を追及する野党民政党の動きが不発に終わるなかで、天皇の<不信>により田中義一内閣が総辞職して、浜口雄幸内閣が誕生した。新内閣は緊縮財政を唱える一方では金解禁を実施するなど経済立て直しをスローガンに掲げたがそれは遅々として進まず、世界的な恐慌の波が目前に迫っていた。巷には「東京行進曲」、「君恋し」などが流れ、これらヒットレコードの映画化が進んだ。こうした時代背景が例文にも見られるのが興味深い。

表紙は蝶ネクタイにメガネと髭の「弁士」が握りこぶしを振り上げて熱弁をふるっている。例文の多くにあるように「諸君」から始まる演説そのままをイメージしたカットである。ガラスコップの水はまだ七分目ほどだから最初の一口を飲んだばかりだろうか。いや、題名が「五分間」だから水は単なる<お飾り>だったか。「水をさすのは止めろ!」とヤジが出そうなので本題に戻す。そもそも雄辧=雄弁とは弁論ともいい、歴代首相や多くの政治家を輩出した早稲田大学雄弁会が有名だが、この演説集を手がけた雄辧研究会なるものは正体不明で、書店のお抱え筆者が手がけたのかもしれない。いまどきの「専門ライター」ですね。

「序文に代へて」では「ラジオを聞きながらボロボロと涙を流している人があるかと思うと一方には馬鹿に興奮して聞いている人がいる。これを見てラジオに泣いたり、怒ったりしていると思ったら大間違いである。彼らはその放送された題目のプロット(筋)とリズムとを銘々の境遇に取り入れ、これに共鳴してある者は涙を流し、ある者は緊張するのである。演説もこれと同じだ。話す人は一人で聴者は多い。従って一人の口から出る同一の話によって聴者に多種多様なショックを与えることになるのだ」と演説の意義を強調する。そして「聴者の受け取る感動はラジオや蓄音器よりも深刻だ。それらは単に耳にだけしか刺激を与えないが演説となると話す本尊(=演説者)を前において耳と目の二覚官(=感覚器官)に刺激を受けるからである。話すということは文章よりも、その他あらゆる方法や機関よりも自己を表白する上において最も強い機能を持っている。しかし同じ話すにしてもその話ぶりに巧拙があり、その内容に貧富の差があり、態度やその他の影響も手伝って相手に与える反響に異同があり、時をすると目的と全く反対の結果を招くことがある。これらは話すことの最も下手な例である。ともかく人は巧みに話すことによって、自己の幸福をより多く受け取り得られるのである以上、何人も上手に話したいと望むのは人情である。本書はこうした要求に応じ、最も新しい時代において巧みに話すことを望む人たちに対し、何かの便宜を与えるであろうことを自信して現れた(出版した)ものである」とPRしている。「機関」は当時、情報を受信するための主要な手段だったラジオや蓄音機=レコードを指し、「内容に貧富の差がある」とはそれが「豊かであるか貧しいか」ということだろう。当時も今も変わらないが、こうしたハウツー本は「手に取ったときから<読後の効果>をそそのかすのである」と言ってしまうと身もフタもないか。

「演武場開場祝賀演説」は「諸君、今日の日本は奢侈淫靡の悪気流が渦を巻き、ただでさえ人は文弱に流れんとしているのであります。そこへ加えてあてにもならない平和論を振り回して惰弱の空気を吹き送るから士気の萎靡はほとんど収拾すべからざる有様であります。堂々たる日本男子でありながら白粉(おしろい)をつけ、香水を振りまいて得意然と反り返っているがごときはその現れである。恋愛至上主義だの、享楽気分だの歯の浮くような寝言ともうわ言とも分からぬことを臆面もなく吹き散らし、新しい思想の持ち主らしい顔で高く止まっている変性男子の多いのもその現れの一つであります。そんな奴らを跋扈させておいたら帝国の前途は一体どうなるのか、諸君、思いここに至るは痛憤浩歎、自ら涙のこぼれるのを覚える次第ではありませんか」が前段。「かかる軟体動物性時代において武士道的競技の随一なる柔道の修行を行い、かつこれを宣伝することはそれによって勇猛清廉なる男子的気象を養い、

おっと気象は気性の誤植とここでミスを発見!

頑丈事に堪える壮健なる肉体を作るのみならず、鼻持ちならぬ方今の文弱を押しつぶし、憐れむべき惰眠から叩き起こす痛快なる一大面棒である。かくして初めて我が帝国はその惰弱より救われ、淫蕩より引揚げられ、その尊厳と神聖とが保たれるのである。柔道の道場が開かれるのを見て痛快に堪えず、あえて駄弁を叩いてこれを祝し、諸君の批評に訴えるものである」。ウーム。

「只」や「之」などは平仮名にし、文語表現の一部は現代語に変えたが文弱、奢侈淫靡(しゃしいんび)、萎靡(いび)、跋扈(ばっこ)、痛憤浩歎(つうふんこうたん)、一大面棒(いちだいめんぼう)などは、正直、タイムスリップしてこの演説を聞いただけでは漢字を思い浮かべる自信はないことをおわかりいただこうとそのままにしてある。これが全文であるが率直に言って頭でっかちで龍頭蛇尾の見本のような気がする。

「結婚披露会にて」では大時代的な定型そのものだから失礼ながら皆さん下を向いてアクビしていそう。「本日は目出たき結婚披露会に招待の栄を受け、祝意を表するは私の欣慶措く能わざるところであります」から始まって新郎を「学識において徳望において青年紳士の模範的人格者であり・・・」とか新婦を「女学校在学時よりすでに才媛を唄われ、花の如き美貌と多方面にわたる高尚な趣味と貞淑なる婦道の持ち主で・・・」など誉めちぎって最後は「尾の上の松の幾千代かけて両君の上に幸多からんことを祈り、謹んで祝意と敬意を表する次第であります」と。ま、五分間なら居眠りまではいかないか、というのが意地悪な感想である。

勇ましいタイトル「壇上の獅々吼」として紹介されているのは移民問題、戦争と軍縮、芸術と思想、漢字の難しさとローマ字の普及、軍事演習と兵士の民家分宿批判とさまざまだがまさに雄弁会の面目躍如といったところだから少しばかり紹介しておこう。

「生ぬるい救済」は、当時流行した富豪からの寄付が病院や医学研究にのみ傾いているのをチクリ。「金ができると病気にかかりやすい」という経験からの思いつきかもしれない。せいぜい長生きして現生の享楽に耽溺したい、もし病気にかかった時はできるだけ尽力をつくしたいという人情に対しては非難をさしはさむ余地はない。寄付者に敬意を払うにやぶさかではないが、何ゆえに彼らは病院ばかりに寄付をしたがるのか。病院を建てるとその名は永久に残るからか。諸君、わが国の医療機関は大体において不自由を感じていないのであります。社会公共とか救済のためならばもっと緊急な火の付くようなことがたくさんある筈で、売名的ではなく真に社会を救済したいという精神があるならば火急なるものから順を追って救うことがより意義のある行為ではありますまいか。寒い夜を公園のベンチの上で明かしている幾千の失業者は少しも省みられずして、数年先または十数年先に至って初めて役に立つ救済機関(=病院)に寄付する篤志家の行為は涙ぐましいことではあります。だが、失業者に一杯のうどんを振舞うことは一時的ではあるが、それを知らない篤志家が多い現世相を何と言ったらよいのでしょう。私は売名を予期する公共事業には賛成できない一人であります。私もそう思うからこれには一応パチパチ(拍手)。

「ヤンキーの挑戦と国民の覚悟」では米国海軍が大正14年の大演習以来、ハワイ真珠湾の防備に力を入れ、太平洋艦隊の大部分が入ることができる岸壁や大船渠(ドック)、将校や兵員宿舎の建設を急いでいることを挙げ、米国の軍備論者の着眼点がハワイを中心とした太平洋に置かれ、明らかに日米戦争を予測した企てであるまいか、とブツ。さらに彼=米国は20浬(=かいり、約37キロ)の距離にある一切のものを焼き尽くす威力を持つ死光線を発明し、これを太平洋に配備する準備を進めているのは見逃すことのできない敵対行動であると。死光線とは「死のレーザー光線」の意味だろうが「しかし諸君、今は起(た)つ時ではない。沈勇を誇る日本人はあくまで慎重な態度をとり、満を持して放たざる覚悟を定めることが今の場合、最も大切なことであります」と結んでいる。太平洋戦争の火ぶたを切ったのはこの真珠湾だったが、最後は死光線をはるかに上回る広島、長崎への新型爆弾=原爆の投下だった。

ところで本体はめくったりしたあともほとんどないのに外函だけはひどく傷んでいる気がする。ひょっとして元の所有者は演説のたびに「緊張してあがらないお守りがわり」にこれを持ち歩いていたのでは。まさかそれはないか。

書斎の漂着本(95) 蚤野久蔵 原色日本魚類圖鑑

  • 2016年12月6日 17:20

昭和6年(1931)に東京の大地書院から出版された『原色日本魚類圖鑑』である。幅9.5×高さ17.5センチのいわゆるコンサイス辞典ほどの大きさで全204ページ。厚さはほぼ3センチで紙函付きと携帯に便利なように作られている。著者の田中茂穂(=たなか・しげほ、1878-1974)は「近代魚類分類学の父」といわれた世界的に有名な魚類学者で、昭和天皇採集の魚類標本を同定したことでも知られる。高知市出身、東京帝大の理学部動物学科入学後は動物学の箕作佳吉(=みつくり・かきち、1858-1909)教授の研究室で魚類研究を専攻した。「日本に生活する魚類の分布について」で東京帝大の理学博士号を取得した。日本の魚類分類学の創始者であるばかりでなく約170種にのぼる新種を発見、生涯に約300編の研究論文と50冊以上の著書を残した。なかでもアメリカ・スタンフォード大学のジョーダン、スナイダー両教授との共著『日本産魚類目録(英文)』(1913)は当時知られていた全種類が網羅されたことから学会では<名著>の呼び声が高い。

 『原色日本魚類図鑑』(大地書房刊)

『原色日本魚類図鑑』(大地書院刊)

「序」で出版に至るきっかけを「二十数年前に恩師の箕作先生から欧米諸国によくある一般向けの色刷りの魚類図鑑があれば便利なのにと言われ、諸先輩からも同じ意見をしばしば受けた。ところが欧米と違い人々が鮮魚を見る機会が多いわが国ではその色合いが実物に近いものでないと受け入れられないと思い、自分が採集のたびに残してきた精密写生をあらためて整理し直した。原画のないものも多くてそれを描き直そうとするとこんどは標本の入手が困難だったりしてたいへん苦労した」と書いている。それがどうしたという類いかもしれないが、そうであるならばこの図鑑は<本邦初の一般向け原色魚類図鑑>ということになる。

田中茂穂博士(高知大学理学部海洋生物学教室提供)

田中茂穂博士(高知大学理学部海洋生物学教室提供)

併せて紹介しておくと箕作博士は津山藩医の三男として江戸津山藩邸に生まれた。慶應義塾、大学南校に学んで渡米、イェール大学、ジョンズ・ホプキンス大学を経て英国・ケンブリッジ大学で動物学を修めた。帰国後は東京帝大で日本人として最初の動物学教授に就任した。動物分類学や発生学研究者として日本動物学会を結成、真珠王・御木本幸吉に真珠の養殖が学理的に可能であると助言したことや、東京帝大の三崎臨海実験所を設立するなど動物学にとどまらず水産関係の研究でも大きく貢献した人物である。

ところでこの連載で何度か紹介してきた「わが古書購入法」は高価な本には縁がないこともあるが、あれこれ迷わずにエイヤッ!と買うことである。古書店巡りではまたこんど、と次に行ったらなかったとか、古書展でひと回りしてその後で、と思っていたらもう売れていたということも再三あったから、まさに古本道は一期一会、迷ったら買い!である。この図鑑もそうした一冊だったと記憶している。告白しておくと、冒頭紹介したあれこれ、著者は著名な魚類学者であることは知っていたがその業績や、師である箕作博士のほうは名前さえ知らなかった。エラそうに紹介したのはすべて<あと知識>であるがそこはお許し願いたい。

古書店で手に取ったときになぜこの図鑑に興味を持ったかを思い出すと昭和初期の出版なのに函付きの革装で程度が良かったのとその割には千円ちょっとと安かったことだろうか。奥付に押された「中川蔵書」という朱肉の蔵書印が値段の安さの原因かとも思ったが蔵書印とともに万年筆の「昭和六年十二月十四日購入、1931/12/14」の日付があったのが気になったというか心が動いた。出版が11月7日なのでそのわずか1か月後に購入している。住所はないから最初の所有者の中川氏がどこで求めたのかは分からないが大地書院の所在地は東京市外吉祥寺(現・武蔵野市)だから中川氏はすぐに新刊本が並ぶ都内の大手書店や出版元に直接買いに行ける首都圏在住ではなく地方住いで、新聞広告などで出版を知ってなじみの地方書店経由で注文していたのが、ようやく送られてきた。それがこの<差>になったのではと思ったわけだ。まあ、これも原稿を書きながらあれこれ考えたあとづけの推理といわれればその通りだけれど。

「古書ネット」のいくつかを検索すると大地書院は植物図鑑や鉱物図誌、菌類図説などを中心にして時節柄というか『教育勅語図絵』といったのも出版していることがわかった。昭和6年といえば前年の世界恐慌の波が日本を揺るがし、東北地方の冷害がそれに追い打ちをかけて不況が進行した。『大学は出たけれど』という映画の題名のように就職難が大学卒業者にも及び、一方では陸軍のクーデター計画発覚や関東軍が「満州占領」を進めた年でもあった。同じジャンルでは『有用有害鑑賞水産動植物圖鑑』(昭和8年、田中茂穂編)が「本の状態=函なし、経年の汚れ傷みと折れ、色変わりあり」として7千円で出品されていたが、この図鑑は見当たらなかった。大地書院では他の図鑑類なども昭和16年発行の『集成新植物圖鑑』がいちばん新しかったので戦後の事業再開はなかったようだ。

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奥付に定価七圓五拾銭とあるが外函の定価の上に「壱萬部限り定価金六圓」の短冊状のシールが貼ってあるから実質は2割引だった。本体は濃緑色の革装でご覧のように魚の影押しの上に英文と右書きで「原色日本魚類圖鑑」が金箔、左下に大地書院のマークが赤色で押してある。巻末の「既刊書目」に文部省認定本『集成新植物圖鑑』があり「ポケット型総革製軽快用紙上質八百八十頁図版三千六十八図入、定価二圓五拾銭」からすると発行部数もあるだろうが図版は355図だからかなり割高な設定である。田中博士は「書物の大きさは四六倍判(18.8×26.0センチ)にするのが理想だったが費用が相当かさばる。何よりも価格をあまり高くしないこと、携帯に便利なことなどを目標としてこの大きさに落着いた」と書いているから1万部までは稿料を辞退したのかもしれない。いちばんこだわったのが図版の出来栄えで「下画は多年私の研究室で写生の経験を積まれた伊藤直和氏の麗筆を煩わせた。魚の輪郭や色合いなど相当正確に現れていると信じているが、お気に召さないものがあったら遠慮なく私へお申し出願います。深く感謝すると共に適当の時期にこれを訂正することと致します」と結んでいるが続巻の発行などは結局実現しなかった。

一般向けとして配慮が見られるのは標準和名で、海魚では主に東京魚市場での名称、川魚は琵琶湖沿岸での名称を中心に採用してそれぞれの地方名もなるべく多く併記している。

例えば成長に従って呼び名が変わることから<出世魚>とされるブリ(鰤、アジ科)は

ブリ(一般の称呼)、東京では一寸から七八寸をワカシ、一尺三四寸をイナダ、二尺をワラサ、三尺以上をブリと云い、富山県では三寸をツバエソ、五寸をコヅクラ、一尺をフクラギ又はフクラゲ、一尺五寸をブリ又はニマイズル、二尺をブリ又はアオブリ又はサンカ、二尺五寸をブリ又はコブリ、二尺八寸をブリ又はオオブリと云い、和歌山県では三四寸をワカナ又はワカナゴ、六七寸をツバス、八九寸乃至一尺をイナダ、又はイナラ、一尺乃至一尺五寸をハマチ、二尺位までをメジロ、一貫乃至一貫四五百匁までをモンダイ、二三貫位をオオウオ、四貫内外をドタブリ、又はヤゾオと云い、高知県では三寸をモジャコ、一尺乃至一尺五寸をハマチ、二尺をブリ、二尺五寸以上をブリ又はオオイオと云い、岩手県では三寸をショノコ、一尺をイナダ、一尺五寸をニサイブリ、二尺以上をアオ、二尺五寸以上をブリと云うと詳しく紹介して、惣菜用としてすこぶる貴重な魚であると追記している。続けて読むと途中で息が切れる。

なかでも田中博士が高知出身者であることを考えればシイラ(鱪、シイラ科)の項目が興味深い。

シイラ(一般の称呼)、トオヤク(神奈川県三崎)、トオヒャク(関西)、マンビキ(熊本)、クマビキ(高知ではこの魚の塩乾品を云う)

体型や色などの説明に次いで「海の表層を遊泳する。左程美味のものではないが、元来水っぽい肉を持っているから塩乾品として消費せられる。高知ではこれを婚礼の際の結納品に使う。雌雄すこぶる仲のいい魚であるとの俗説から起こった儀式である」と綴っている。

博士が多くの新種を発見したことを紹介したが、このコンゴオハナダイ(金剛花鯛、ハナダイ科)もそのひとつで誇らしく「著者命名」としている。

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解説には「胸びれの上部に紅色の斑点があること、尾びれがすこぶる赤いことが特徴で、体長は165ミリ(5寸5分)に達する。南日本のものであるが食用魚としては価値がない。ハナダイ類は名称の示す通り、非常に色合いが美しく、体が小さいから所謂(いわゆる)楚々たる姿をしていて、可愛らしいものである。殊に背びれ第三棘(きょく=とげ)が著しく長く、糸状をなしている場合が多く」とか「浅海のものではないが、さりとてあまり深海のものでもない。やや深いところにいるが形が小さいために特別の漁具では漁獲されない。多くは手釣り道具で稀に捕獲されるためにすこぶるめずらしいものになっている」とぞっこん惚れ込んでいるのがうかがえる。「楚々たる」などという形容はなかなかいいじゃありませんか。

田中博士のエピソードを最後にいくつか。高知県出身の自然科学者といえば植物学の牧野富太郎、物理学の寺田寅彦とこの田中博士の3人が有名だが、寺田寅彦とは中学(高知県尋常中学校=現・高知県立高知追手前高校)で同級だった。「寅彦とはいつも首席を争ったが常に先んじられた」となつかしく回想している。また土佐人でも珍しいほどの<イゴッソー>であまり気安くない人にでも、目上の人に対しても歯に衣着せぬ意見を述べたという。牧野が推奨してやまなかった桜のソメイヨシノに対しても「あれは百年で枯れるので桜は山桜が良い」と口にするなど「ソメイヨシノ亡国論」をぶち上げた。

東京帝大時代には同僚のなかで唯一、白衣ではなく繻子(しゅす=絹製で光沢のある布、サテンともいう)の黒衣を愛用した。恩師である箕作博士が開設した東京帝大三崎臨海実験所の所長時代でもそれは変わらなかったろうから、昭和天皇に粘菌の標本を無造作にマッチ箱に入れて差し出したあの南方熊楠を思い出す。勝手な想像であるが白衣姿の天皇に対しても黒衣のままを押し通したとすると、そのイゴッソーたるや大したものと言わざるを得ない。

書斎の漂着本 (94) 蚤野久蔵 すたこらさっさ(その2)

  • 2016年11月15日 00:28

前回は田辺茂一、いや田原茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>を少しばかり紹介した。茂助の淡い初恋の行方が気になるかもしれないのでまずはそちらから。

ある日、慶応からの学校帰りの青山6丁目電停で山脇女学校4年生だった三姉妹の長姉に声をかけられた。
「田原さんじゃありません?震災のときはせっかくおいでいただいたのにお構いもしませんで。またお遊びにいらっしゃらない」
「ええ、ありがとう、また・・・」
惚れたとなると、その恋人の姉に対してでさえ、ぎこちない。それからも同じ電停で彼女に出会った。姉に会うことは妹に会ったのも同様と思っていたが、三度目の九十九里浜、一の宮海岸行きで、本命の妹からは
「姉も田原さんを好きらしいんです」
と言われて狼狽する。

帰京した茂助が腸をこわして入院したことをどこから聞いたのか姉が毎日面会にやってきて
「あたし以前から田原さんのこと好きだったのよ。お嫁にもらって下さる」
と言い寄る。返事に詰まると
「わかったわ、妹の方が好きなんでしょう」
「そうよ、それに決まっているわ」
とエスカレートした挙句、死ぬの生きるの、とまで。ようやくなだめたものの
「そうだわ、あたし生きていてあなたを看視する。あたしの眼の黒いうちは、けっして、けっして、田原さんのところに妹をお嫁にやらさない・・・」
こうして3年がかりの初恋はあっけなく幕となったのである。

茂助の学窓生活もようやく終わりに近づいた。追慕する教授もいず、語り合うクラス仲間もなく、味気ないものであった。登校時間こそ少なかったが店の売上金をくすねることで、茂助の懐具合はいつも良かった。友人の洋服代や授業料を代わりに支払ってやったりしたので何となく異色の存在でもあったから春の卒業を控えたクラス会の世話役に選ばれた。クラスの大半は地方中学の出身で東京の事情には暗い。それなのに最後だから盛大にやろう、芸妓もあげよう、記念写真も撮ろうということになった。茂助にしても父親の代理で18歳から炭問屋の組合の宴会に出て芸妓などの見聞はあるがそれ以上の仔細は知らない。玉代、祝儀、心づけのことは皆目分からないし料亭もどこを選べばよいのか。窮余の揚げ句、父親に相談して津之守の「伊勢虎」を紹介してもらった。
「津之守って四谷荒木町ですか。昔、年始に行ったことがあるから知ってはいますが芸妓はどういう名前のを呼べばいいんですか」
「ウム、名前か。そうだなあ、千成、高弥、まあ、そういうのは婆さんだけどな・・・じゃ、あとで電話しといてやるよ」
「値段のほうもひとつ、勉強するように言って下さい」
「ウム、ようしきた。心配するな」

有名料亭の「伊勢虎」は植え込みの奥へ石畳を抜けて行くと大きな玄関があった。学生たちにとっては分に過ぎたが正月も押しつまったある日、クラスのほぼ全員40人近くが2階大広間に顔をそろえた。父親はここの主人と飲み仲間だったこともあって半玉の3人を加えて、10人ほどの芸妓が裾をひいてあらわれ、三味線、太鼓に、手踊りが繰り広げられた。世話役の委員長格だった茂助は対の細かい柄の久留米絣にセルの袴で豪華で艶やかな場を仕切り、当然のように肩を張って一座の中央で記念写真におさまった。招かれた老教授のひとりが
「田原さんでなければこういう立派な宴会はできませんね」
と耳もとでお世辞をささやいた。
酔いも廻った茂助は芸妓の案内でクラス仲間の3人と「ひさご」という待合へ二次会に繰りこんだ。右にも、左にも、前にもおんな達がいて狭い座敷は<混浴>のようでもあった。その夜、仲間たちは当然のように別室に分かれておんな達を抱いたが、そんな経験がなかった茂助は<酔余の勢い>には乗れずわが家へ帰った。

それからは毎夜のように「ひさご」に通うことになった。「木之国屋の若旦那さん」と呼ばれれば親の七光りとはいえ、悪い気がしない。軍資金には事欠かない。
「若旦那、明日の晩もネ、お待ちしているわ」
と言われるとまだ初心(うぶ)な茂助は
「ウムウム・・・」
とこたえる。

やがてここで知り合った三、四歳年上の「すま子」という芸妓と出かけた御殿場の宿で結ばれた。留年を覚悟したのにビリから二番の成績で無事、卒業して炭屋の帳場に座る毎日。兄弟もなく、母もいない。父は若い女房を迎えていたから茂助は家ではひとりぼっちだった。炭屋は夕方の帳付けの付け合わせが済むとそれで終わる。現金売りは適当に省略して帳面には載せないからその一部をふところに、家の前からタクシーを拾い荒木町の花街へ。入り浸ったのは後年、パリ帰りの画家たちが<メイゾン・ルージュ>と呼んだ「小花」だった。何せ<芸事は抜き>だからいきなり別室で、一夜に二人が常習となった。それもあきたりないと三人になる。狭い土地だから一日も欠かさない「小花のたあさん」は、年齢はともかく<新顔一辺倒>で、掃くのは一回こっきりというところから「箒(ほうき)のたあさん」と言われて検番のおんな連には鬼門となった。しかも茂助が飲むのは「金線サイダー」だけで酔うこともなく12時を過ぎたらきちんと家に帰っていたから父親も文句のつけようがなかった。

芸妓遊びも退屈になったころ、茂助は父に
「もう炭屋は無理、本屋しかしたくない」
と言いだした。
困った父は知人の弟分が四谷見附に町田書店という本屋を開業していたので
「そこへ行ってみろ」
ということになった。店主は銀座の近藤書店で丁稚小僧からたたきあげた人物で、茂助の事情を聞くと
「若旦那も一度、そういう奉公をなさったらどうですか。商売を本当に覚えるならそのほうが近道だと思いますがね」
と近藤書店での修行をすすめた。

五日後、木綿の盲縞の筒っぽに角帯、前掛け姿で町田店主に付き添われて銀座に出かけた。尾張町角(銀座4丁目交差点)の近くにあった近藤書店は本屋らしい間口の狭い、奥行きの長い店だった。奥の突きあたりが帳場で、背を円くしたやせた年輩の老主人がそこに座っていた。先方も新宿の木之国屋の若旦那であることは知っていたから丁寧だった。
「御参考にもならないと思いますがネ。まあ、辛抱してやってご覧なさい」
茂助は初めて奉公する身となった。

もちろん近藤書店へ行ったのは初めてではなかったから、どこに雑誌があり、どこに全集があり、どこに新刊書が並んでいるかは先刻承知だった。新宿の本屋へは暇さえあれば三度の飯よりも多くのぞいていたから本の背中を見ただけでどこの出版社の本だかも見分けがついた。棚から本を取り出すのはカルタ取りのようなものだ。素早く取り出して見せるぞ、と意気込んでいたが誰一人そういう客はいなかった。ただ本を包み、有難うございます、だけでは芸もなければ曲もない。銀座通りの人波をただ眺めているのは退屈で、万引き監視人に等しいから馬鹿らしくなってきた。

正午になったところで帳場に座る老主人に
「いろいろ有難うございましたが、だいたいわかりましたから、これで・・・」
驚いた主人は
「左様ですか。立ち通しでなかなかお辛かったでしょう」
と引き止めはしなかった。
朝の8時からきっかり12時まで正味4時間、茂助の生涯では最初で最後の奉公だった。

戻ってきた茂助を見て父は
「やっぱり本屋なんて面白くないだろう」
と言った。
「とんでもない。だいたいわかったからすぐ始めようと思って帰って来たんで、板塀と風呂場のところを貸して下さい」
と茂助はかねて計画していた新店舗の構想をしゃべった。
「大工はどうするんだ」
「それも見積もりをとってあります。総坪数36坪で6千円です」
手順の早さに父もあきらめたようすだった。

明けて昭和2年1月22日、木之国屋書店は開業した。間口3間、奥行6間、木造2階建。階下が売場で、階上に通じる階段下の空間に机を一つ置いて帳場にし、その横の四畳半の洋間を作り、そこを茂助の応接兼事務室にした。階上は絵の展覧会用のギャラリーにした。昭和の初めの東京には画廊は日本橋の丸善と銀座の資生堂があるだけで珍しかった。店の売場のことは分かったが仕入れのほうは皆目わからなかったので町田書店の主人に依頼して近藤書店の老番頭に来てもらった。その老番頭に町内の鳶の倅の16歳の小僧、新聞広告で集めた女店員2人と茂助の5人でフタをあけた。ときに茂助22歳だった。

父親は「今に飽きるだろう。どうせ永続きしっこない・・・」。その目算をよそに2月は階上ギャラリーで「現代洋画大家展」を企画した。画廊が少ない時代だったので大家のほとんどが出品してくれ新店舗開業祝いにと近所の人が気前よく買ってくれた。それをきっかけにして東郷青児ら二科系や1930年協会の画家が出入りするようになった。一方では水戸高から東大へ進んだ舟橋とも付き合いが続いていた。築地小劇場で演出を担当していた舟橋は茂助に歌舞伎役者で劇団前進座の創設メンバーの河原崎長十郎や演出家の村山知義を紹介してくれ、役者や新劇女優らとの交友関係も広がって行く。

それから40年、茂助は日本テレビの深夜番組「11PM」に出演した。
司会のKさんが
「女の数が多いようですが、なぜそんなに?・・・」
「つまり、母親が理想でネ、そういうのに似た女を探してネ。それが見つからないままの遍歴でしてネ。三千人というけれど、まあ洒落みたいだが、母をたずねて三千里ということでしょうな」
茂助に用意はなかったがとっさに出たこのやりとりも半分冗談で、半分、真相であるらしい。書店経営も40年だが、女の清掃も40年の「すたこらさっさ」。小突かれたり、つんのめさせられたり、足払いを食ったりしながら、それでも懲りずに女の影を慕ってきた。「人生多彩」が茂助の標語だが、言葉を換えれば「七転び八起き」だ。賽の河原の石と知りつつも、積んで積んで積み抜くのが、世間の約束というものである。

田辺茂一著『続すたこらさっさ』(流動刊)

田辺茂一著『続すたこらさっさ』(流動刊)

「続」は一変して文化人としての交友が綴られる。相変わらず茂助は<その数ドーダ>の生きざまである。毎日のように銀座の文壇バーをハシゴしてドーダ、ドーダ。そして「すたこらさっさ」となる・・・。

それは茂助の心象風景でもある。春夏秋冬、花鳥風月、ぶれない生き方がすっかり身に付いた。

「すたこらさっさ」

いま、茂助はひとりだ
まわりに
だれもいない
春も
夏も
秋も
冬も
ない
花も
鳥も
風も
月も
ない
そんなもの
なにひとつ欲しくない
そんな男に
成った
毛頭
生きていることが
嫌に成ったわけ
ではない
だが別のことで
欲しいものは
いっぱい
ある
思えば
それが欲しさの
すたこらさっさ
であった
なんだろう
わかっている
わかっているから
茂助だけは
疲れない
それが
自慢だ

そういえば以前、よく通った京都祇園のお座敷バーでこれを毛筆で書いた直筆の屏風を見た覚えがある。一言一句この通り、最後に「田邊茂一」と署名があった。ということは、茂助は茂一、いや茂一は茂助なのか。

いいではないか、余計な詮索はこちらも「すたこらさっさ」ということにしておこう。