Web遊歩人

Web遊歩人
You are currently browsing the 未分類 category

ヒトラーの時代 (24) 池内 紀

  • 2017年4月12日 16:19

 

平穏の時代

1933年から38年まで、ヒトラーが政権についてからポーランド侵攻前年までの五年間は第三帝国の「平穏の時代」と呼ばれている。第一次大戦終了後、狂乱の20年代があった。古今未曾有のインフレで、ドイツ・マルクが紙屑になり、預金が一挙にかぎりなく0になった。失業者がうなぎのぼりで、総数600万をこえ、ドイツ人の10人に1人は失業者だった。ワイマール憲法は史上もっとも優れた憲法といわれたが、20をこえる政党の足のひっぱり合いで、どの政権も半年ともたない。とめどない混乱を縫ってナチスがめざましく勢力をひろげ、ついに過激を売りものにする極右政治家に首班の座をあけわたした。

ヒトラーは内閣を組織した翌日のラジオ演説で、「われに4ヵ年の猶予を与えよ、しかるのち批判し審判せよ」と大ミエをきった。誰もがいつもの大ボラだと考えていた。数ヶ月もせぬうちに行き詰まり、すごすごと政権を投げ出すだろう。

ところが、そうはならなかった。「ドイツ国民への檄」に始まり、きびすを接して「経済4ヵ年計画」「フォルクスワーゲン(国民車)構想」、「自動車専用道路計画」……。人気とりの青写真と思われていたことが、一つ、また一つと実現する。日ごとに膨大な雇用の場が生まれ、600万もの失業者が、めだって減っていく。約束の四年が過ぎたとき、全国民所得が1・⒌倍にふえ、失業者は100万台にまで減少していた。造船所からは次々と巨船が進水していく。世界で初めての自動車専用道路は「アウトバーン」の名のもとに、全長3000キロに及び、完工式には50万の道路労働者のうち3000人が招待客になって、お祝いをした。

この間、1936年にはガルミッシュ=パルテンキルヒェン(冬)とベルリン(夏)の2度のオリンピックがあり、世界中からの報道陣が急テンポのドイツの復興ぶりを故国に報道した。オリンピックが一つの国で1年に2度開催されたのは異例のことで、大戦の後遺症から抜け出せないヨーロッパにあって、ナチス・ドイツがいち早く放れワザをやってのけた。

首相アドルフ・ヒトラーへの全権委任法、反国家的運動、出版に対する取締強化、デモ及び屋外集会の禁止、報道の自由制限、共産党の禁止、と社会民主党の機関紙発行停止命令、ユダヤ人弾圧……。ナチスの政策は、ことあるごとに国外の批判をあびていた。ナチズムによる不当な全体国家ドイツのイメージは広く流布していた。それをオリンピック報道が大きく修正した。世界中からベルリンへやってきた報道陣は、予期したような暗いドイツではなく明るいドイツを見出し、奇蹟の復興に目をみはった。これほど短期間に、これほどの成果をなしとげたヒトラー独裁をあらためて見直した。政党党首、首相、国防軍最高司令官、国家元首︱︱一人で何役も兼ねた人物に並外れたカリスマ的指導者を見た。

この間の主だった出来事は、次のとおり。

1933年7月 ヒトラー、ローマ法王とのコンコルダート(政

教条約)締結。

同年10月 ドイツ、国際連盟脱退。

1934年6月 ヒトラー、SA幕僚長レームらを粛清。

1935年1月 住民投票でザール地方がドイツ復帰。

同年3月 ヒトラー、ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄。ド

イツ再軍備。

1936年3月 ヒトラー、ロカルノ条約破棄。ドイツ軍、ライ

ンラント進駐。

同年8月 ベルリン・オリンピック。

1938年3月 ナチス・ドイツ、オーストリアを併合。

同年9月 ミュンヘン会議。ドイツ、チェコのスデーデン地方

を併合。

いずれも総統ヒトラーの決断による。ローマ法王庁との宗教条約は、ナチスがカトリック教会や学校の宣布を承認する一方で、ヴァチカンはカトリック政党(中央党)や労組の強制的解散を承認するというもの。ヒトラーはナチズムを宗教にとって代わらせ、最終的には無宗教を信念としていたが、当面はあいまいな妥協策をとった。ヒトラーによる最初のめざましい外交的成果とされた。対外的には、反教会的といわれるナチス権力をヴァチカンを通じ国際的に承認させたし、国内的には反ナチスのカトリックを体制内にとりこんだからだ。

国際連盟の脱退に際しては、国民に信任を問う総選挙を約束。95・1%の支持を得た。

SA(突撃隊)は幕僚長レームの育成のもとに隊員三〇〇万を数え、「第二革命」が噂されていた。レーム事件は「長いナイフの夜」と呼ばれ、34年6月30日から7月1日にかけての夜に起きた。ヒトラー指揮下のゲシュタポ(国家秘密警察)とSS(親衛隊)が全国のSA幹部と反ナチス政府分子を襲撃、銃殺した。レームのほか、元首相シュライヒャーとその夫人、元ナチ党幹部シュトラッサー、元バイエルン首相ファン・カールら、粛清されたのは公表では70名。パリの粛清白書では401名。戦後の公表では1000人以上にのぼる。強敵レームを武力で排除して、この日がナチスの権力掌握の決定的な日となった。

きわめて血なまぐさい事件だが、国民には「反逆を芽のうちにつみとった決断力と勇気ある行動」として報じられた。ヒトラーは直ちに緊急閣議を開き、「国家緊急防衛法」を発布。正式には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」といって、緊急防衛の必要があれば殺人行為も正当化される。

「長いナイフの夜」にSSが果たした功績にかんがみてだろう、SSをSAから正式に独立させ、ヒトラー直属の党内機関とした。SS中央指導者ヒムラーのもと、SSは国家の中の国家、国防軍にも手のつけられない軍隊の中の軍隊へと変貌していく。

ライン川東部のザール地方は石炭と鉄鋼業で栄え、ドイツ重工業の心臓部にひとしかった。第一次大戦終了後、国際連盟の管理に委ねられ、実質的にはフランスの占領下にあった。ヒトラーにとっては再軍備に欠かせない資源地域であり、政権を固めるやいなやザールのドイツ復帰を呼びかけ、35年1月、国際連盟管理下の住民投票を実現させた。90・5%の多数決でドイツ復帰を決定。ヒトラーが国際条約に準拠して行動した最後の事例である。

つづいて満を持していたかのように同年3月、ヴェルサイユ条約の軍備にかかわる条項の破棄を通告、ドイツ再軍備を宣言した。直ちに「ドイツ国防軍編成法」を公布。

  • 国民兵役制度。第二条、平時陸軍兵力を12個軍団36個師団の55万に拡張整備……2年後には第13軍団設立、38年秋、18軍団51個師団とする」

急激な兵力増員はドイツ国内の労働力に不足をきたすまでになった。

ライン川西岸のラインラントはヴェルサイユ条約、及び1925年にスイスのロカルノでドイツが自発的に締結したロカルノ条約によって、非武装地帯と定められていた。1936年3月6日、ヒトラーはひそかに国防軍のラインラント進駐を命令。翌7日、3万五5千のドイツ国防軍はライン川を渡り、同地帯を占領。この日、ヒトラーが国会で「只今ドイツ軍、進軍中」と発表したとき、国会は興奮のるつぼと化した。ヒトラーは合わせて国会を解散して信を問うと宣言。同月末の国民投票では、98・8%がヒトラーの政策を支持した。

1938年3月のオーストリア併合。同年9月のチェコ・ズデーテン地方併合後、ナチスはにわかに拡大した領土全域に「大ドイツ帝国」の名称を定めた。いずれも神がかり的なヒトラーの決断により、国民の熱狂的な賛同を得た。

 

ドイツ国民がやっと迎えた「平穏の時代」であり、安らぎの時期だった。経済が安定し、暮らしが目に見えて向上した。ナチス体制は多少とも窮屈であれ、体制に口出しさえしなければ平穏に暮らせる。ナチ党員のユダヤ人苛めは目にあまるが、われ関ぜざるをきめこめばすむこと。ナチスの好きな式典の華麗さ、もどってきた戦車隊の大行進、強大な戦艦、短期間にヨーロッパ一に整備されたドイツの翼。第一次大戦後、打ちひしがれていた国民感情が誇りと自負をとりもどした。そのすべてがヒトラー総統の偉業によった︱︱。

一枚の写真がある。ベルリン・オリンピックの直前、一九三六年六月のもので、ハンブルクのブローム&ヴォス造船所での海軍の練習船「ホルスト・ヴェセル号」進水式の模様を撮影している。船がドックを離れて海に浮かんだ瞬間、いっせいに「ハイル・ヒトラー」の声が上がり、人々はこぞって右手を差し上げるナチス式敬礼をした。

前方にSSの制帽、制服が見える。群衆はいでたちよりして招待客と造船所の労働者と思われる。よく見ると右上にひとり、憮然とした顔で腕組みした人がいる。いっせいに差し出された腕に委細かまわず、やや顔をしかめている。

あらためてまわりの人々をよく見ると、多くが前方の船ではなく、カメラの方向に顔を向けている。上方のカメラをうかがう目つき。撮影に気がついて、あわてて腕を差し出したようでもあり、自分が敬礼していることをカメラに確認させたようでもある。圧倒的な多数のなかで、ひとり自分の考えをつらぬくのは勇気のいることだった。なにげない写真が、強大なナチス体制のなかのささやかな市民的良心のあかしを伝えている。

のちの歴史的経過で判明していったことだが、「平穏の時代」をもたらしたヒトラーの明察と決断は、少なからず情報宣伝大臣ゲッベルスのお手柄だった。この間の「偉業」はつねに演出ずみの方法で国民に伝えられた。オープンカーで帰国する総統、あるいはバルコニーに立つヒトラー、威厳をおびた肖像にはつねに圧倒的な熱狂で迎える大群衆の写真がそえられた。総統と国民の一体性を、くり返し、またくり返し報道した。

一九三三年の欺瞞的な政教条約ののち、ヴァチカンはドイツの神父たちにヒトラー政権への忠誠を命じたが、ナチス時代を通じ、良心的な神父たちの抵抗はやまなかった。

レーム派の粛清に際し、殺してからの殺人正当化立法は茶番劇というしかないことを人々は知っていた。

ラインラント非武装地帯への進軍と占領はあきらかに政治的賭けであって、まだ未整備だったナチスの軍事力にとって無謀な博打的行為だった。ヒトラー自身がそれを認めていて、フランス軍の反撃がある場合は、直ちに撤退を命じていた。フランス政府とフランス軍首脳は協議にあけくれて決定を先送りした。その消極的な姿勢がヒトラーに幸いした。

ミュンヘン会談に先立ち、ヒトラーは国防軍と外務省の人事を行い、骨のある幹部たちを更迭した。あわせてアウトバーン建設の監督だったフリット・トットに西武要塞ジークフリート線建設を命じ、五十万の労働力を約束した。いち早く戦争を見こしての対フランス防御システムの整備にとりかかっていた。

ミュンヘン会談は、ドイツ人住民の多いチェコのズデーテンのドイツ併合をヒトラーが要求したのに応じるもので、チェンバレン(イギリス)、ムッソリーニ(イタリア)、ダラディエ(フランス)それにヒトラーの四名が会談した。ヒトラーの恫喝的外交に、イギリス、フランス首相はなすすべがなかった。チェンバレンはイギリスに帰国したとき、「名誉ある平和」を持ちかえったと胸を張って声明したが、チャーチルが下院の演説で、「全面的、包括的敗北」とチェンバレンを非難したとおり、「名誉ある平和」は一年とつづかなかった。

「平穏な時代」が、底流ではまっしぐらに戦争へと、ひた走りに走っていたことが見てとれる。ひとたび政治システムができあがったとき、もはや押しとどめるすべがないのである。亡命を拒み、まさに肌身で時代に立ち会った作家ケストナーは述べている。「雪の玉が小さいうちに踏みつぶさなくてはならない。雪崩になってからでは、もう遅すぎる」

 

新・気まぐれ読書日記 (44) 石山文也 昭和十八年幻の箱根駅伝(その1)

  • 2017年2月9日 14:41

通算93回目となる今年の箱根駅伝は青山学院大学が圧倒的な走りで戦後初、3年連続の完全優勝を飾った。往路復路とも沿道に多くの応援の観衆を集め、常に「伝統の」を冠して紹介される大会も太平洋戦争の直前、軍部の圧力により昭和15年の第21回大会でいったん中止に追い込まれた。しかし、学徒動員で死ぬ前にもう一度箱根を走りたいという学生たちの強い願いは「戦勝祈願」という名目で開催に漕ぎつけた。それが昭和18年1月の「紀元二千六百三年靖国神社・箱根神社往復関東学徒鍛錬継争大会」である。永く「幻の大会」と言われてきたがのちに第22回と認知された。その全貌をノンフィクション作家の澤宮優が『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)で明らかにした。青学はこの大会が初参加。「ゴールは靖国、そして戦地へ」のサブタイトルが選手たちのその後の運命を暗示する。

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

箱根駅伝は<日本マラソンの父>と呼ばれる熊本県玉名郡出身で、ストックホルムなど3度のオリンピックにマラソンランナーとして出場した金栗四三(1891-1983)が中心になって創設した。第1回大会は大正9年2月14日、15日に開催された。主催は報知新聞社で、早稲田大学、慶應大学、明治大学、東京高等師範(のちの東京文理大学、現・筑波大学)の4校が参加したので名称は「四大学専門学校対抗駅伝競走」だった。

当時はまだマラソンという言葉はなく「葦駄天」が通用語だったことでもわかるように各校とも長距離選手は少なくメンバー確保に苦労した。なかには日比谷交差点で警備を担当していた警察官が箱根を走りたい一心で警察を退職して受験、見事選手になったエピソードや、脚力自慢の人力車夫を替え玉参加させたのが発覚するなどの珍事も紹介している。なぜバレたかというと前の選手を追い抜くたびに「あらよっと」と声を出したからというのが笑わせる。年を追うごとに参加校も増え、昭和9年には13校になって応援合戦も盛んになっていく。いつしか箱根駅伝は正月の風物詩となり、今日の流行語・山の神の元祖として昭和11年のベルリンオリンピック1万メートル代表に選ばれた日大の鈴木房茂のようなスター選手も現れた。箱根の温泉街は年末年始と駅伝で「正月が2度来る」とか小田原では「駅伝が通らなければ正月が来ない」とまで言われたという。

一方で箱根駅伝にも戦時体制の影が近づいてきた。昭和12年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、翌13年にはさまざまな組織を戦時体制に動員させる国民精神総動員法が施行され、14年には国民徴用令で軍需産業への徴用が始まった。15年1月の第21回大会は行われたが、夏に予定されていた東京オリンピックも中止になった。9月、日独伊三国軍事同盟締結、10月には大政翼賛会が発足して政党政治は無力化、戦争に向かっての挙国一致の国家体制が作られていく。16年の大会が中止に追い込まれたのも東海道と箱根路での軍事利用を優先したためだった。箱根駅伝に向けて物資の乏しいなかで連日の苦しい練習を積んできた各校は代替レースとしてこの年1月と11月の2回、東京・明治神宮と青梅・熊野神社を往復する「青梅駅伝」を開催した。学生たちは「青梅を走っても心は箱根」ではあったものの12月、ついに太平洋戦争が始まった。

行きつけの大型書店の「新刊コーナー」でこの本を見つけたのは発売直後の10月だったと記憶している。他にも何冊か購入したので、いつものことながら「まえがき」を読んだだけで「正月の箱根駅伝までには読了しよう」とベッドわきの書棚に積んでおいた。それが災いしたのですね。毎年正月恒例となっている箱根駅伝のTV中継を観戦して何か忘れ物をしているような気がして・・・それでこの本を思い出したという次第。もちろん当時と現在では道路事情も違えば沿道の風景もまったく異なる。それでもコースのポイントや湘南の海、函嶺箱根山、芦ノ湖、富士山などは同じだと思えば<タイムスリップした気分>で読み進めることができた。この連載を読んでいただく方は先刻ご承知だろうが、あくまで「読書日記」ですから。こうした余計なことも書いてしまう。

青学OBでもある澤宮は学生たちがどうやって軍部を説得していったかを詳細に追う。政府中枢や軍部などの先輩、縁戚の縁を辿って何度も跳ね返されながらも突破口と妥協点を見つけ出したのが冒頭に紹介した「戦勝祈願名目」での開催だった。ほぼ正式にめどが立ったのは前年の17年10月だった。

そこから各校は選手集めに奔走するが、「箱根をもう一度走りたい」と熱望していた箱根や青梅駅伝の経験のある選手の多くは2度の繰り上げ卒業で出征しているから短距離、中距離、あるいは投擲やハードルの選手を総動員し、はたまた足に自信があると聞けば一般学生にまで声をかけた学校もあった。それでも常連校の明治、日本歯科、東洋などは選手、補欠の計11人が集められず参加を断念した。物資も不足するなか、時局を反映して伴走は自動車一台になった。しかもガソリン不足のため、多くは山登りの5区に回され、平地ではもっぱら自転車が使われた。資金不足も深刻で、経営難に陥っていた報知新聞は読売新聞に吸収合併されていたから、事務局員の学生たちは唯一資金の出そうな読売本社に日参して朝から晩まで座り込んだ。態度が硬かった新聞社側も彼らの熱意に打たれ、ついに資金提供してくれた。実際にお金が支払われたのは大みそかで、すでに除夜の鐘が鳴っていた。このときは参加校の各マネージャーも隣の部屋に控えていたから配られたお金を持って喜び勇んで各校の合宿所まで急いで戻った。復活した箱根はわずか4日後に迫っていた。

関東学徒鍛錬継争大会当日の昭和18年1月5日(火)朝は見事に晴れあがった。まだ寒かったが、じきに駅伝にふさわしい日和となるだろうと予感させた。大会参加の11校を50音順で紹介すると青山学院専門部(現・青山学院大学)、慶應義塾大学、専修大学、拓殖大学、中央大学、東京農業大学、東京文理科大学(現・筑波大学)、日本大学、法政大学、立教大学、早稲田大学で、選手不足で出場がかなわなかった明治大学の選手も計時員をつとめることになった。午前8時のスタートだったが選手たちは7時には集まって準備運動に余念がない。何より関係者が驚いたのは参加大学の校友、教職員、陸上部のOBたちが靖国神社に大挙して集まったことである。人々にとって年頭を飾る箱根駅伝が2年ぶりに行われるとあって居ても立ってもおられず駆けつけたことで神社前の広場は立錐の余地もないほど応援の人垣で埋まった。一区の選手たちは他の部員に守られ、霜の降りた道をゆっくり走り、体をほぐす。校友たちが選手の手を強く握りしめ「頼むぞ」と声をかける。

7時半になると1区の選手全員と大会役員、関係者が靖国神社に参拝して戦勝を祈願して結団式を行った。参拝が終わると選手は体にまっとった厚着の服を脱いでユニフォーム姿になった。選手たちに各校のスクールカラーの襷が右肩からかけられるとそれぞれがゆっくりとスタート地点である大鳥居に向かい、身体を震わせながらスタートラインで待つ。8時ちょうど、大会会長が大きな声で「ヨーイ、ゴー」、同時に右手を上げた瞬間、選手たちは一斉に飛び出した。

(以下続く)

書斎の漂着本(97) 蚤野久蔵 日本と世界の人名大事典

  • 2017年1月30日 22:58

この角度なら題名のように<大事典らしく>見えるから不思議だ。実際のサイズは縦15センチ、横10.5センチのA6判だからA4コピー用紙の四分の一の大きさ、厚さは3センチで全826ページ。もっとも「縮刷版」とあるのだから細かいことは抜きに「掌にすっぽり収まる小型本」だけで良かったか。谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)は長らく事典や図鑑、辞書類の棚の隅に眠っていた。奥付をみると昭和49年3月10日発行の12訂刷で、定価は1,300円だからリーズナブルな値段だとしても新刊で買ったとは思えないからやはり古書店で見つけたのだろう。値段も数百円か、せいぜい5百円止まりだったはずだからいつどこの古書店で入手したのかも忘れてしまった。そのうえせっかく手に入れたのに他に日本人、外国人などに分かれた人名事典がそれぞれ何冊かあるので引いてみる機会もなかった。まさに「不遇な漂着本」だったわけだが前々回、前回と小型本を取り上げたので、ついでの機会に3冊目を、となった次第である。

谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)

谷山茂編『日本と世界の人名大事典』(むさし書房刊)

あらためてこの本のどこに関心を持ったのだろうと考えてみる。なぜ買う気になったか?ですね。でも単に安かったからではなさそうで、そりゃそうだ。何かのわけがあるはず・・・。このカットはどこかで見たような・・・。ギリシャ彫刻・・・そうか、ミロのヴィーナスだ!それは間違いないけど、これに魅かれたわけじゃないし・・・ウーム・・・。理由をあげるならやはり冒頭に紹介した小型本なのに大事典とあるところ。もうひとつは、人名事典は同じ出版社でも日本人名、外国人名と別々になっているのが普通なのに、この1冊で両方が引けるというのが面白いと思ったのではなかったか。世界的大ヒットとなったあのピコ太郎のPAPPほどではないが<ありそうでなかった組み合わせ>である。私見であるが人名事典が分かれているのは編著者の専門分野が大きく日本史、世界史にジャンル分けされるのと、例えば図書館に納入するにしてもあわよくば両方買ってもらえるとすれば出版社の営業政策からみても有利なのではあるまいか。

編者の谷山茂は表紙に大阪市立大学名誉教授、文学博士とあるだけなので他の人名事典で調べてみると明治43年(1910)生まれ、岡山県出身、京都帝国大学文学部国文科卒。大阪市立大学の助教授、教授を歴任、定年退官後に京都女子大の学長をつとめた。中世和歌文学とくに藤原俊成・定家研究の第一人者で、日本学術会議会員、『新編国歌大観』代表編集委員。『新古今集とその歌人』で角川源義賞を受賞、平成6年(1994)に亡くなっている。

谷山博士は「はしがき」で選考の基準について述べている。
古代から現代にいたる世界の歴史は、休むことなく進んでいる。本書はその歴史をつくる人間の中から、人類文化の発展に、民族国家の興亡に寄与した人物を、政治家・科学者・武将・経済人・芸術家・宗教家などあらゆる方面から古今東西に求めて、その実績を記述し、適切な解説をほどこしたものである。その大部分は私たちの処世の範となる偉人英才であるが、なかには、ふたたびこのような人が現れないことを人類のために祈りたい人物もある。正と不正、善と悪といった固定観念によらず、ある時代、ある世代の歴史を作り、時代を動かし、また世に影響を与えた人物約六〇〇〇名を挙げた。

「ふたたびこのような人が現れないことを人類のために祈りたい人物」ですか。古くは帝政ローマの暴君・ネロ、血の粛清の旧ソビエト連邦のスターリン、ユダヤ人大虐殺のナチス・ドイツのヒトラー、隋の煬帝(ようだい)、カンボジア、クメール・ルージュのポル・ポト将軍、文化大革命の下放政策で多くの犠牲者を生んだ中国の毛沢東、人食い大統領と言われたウガンダのアミン大統領・・・。このなかでポル・ポトとアミンはなかったが、まだまだあるのでしょうねえ。ちなみに「あいうえお順」なので【あ】は江戸末期の儒者で水戸学の代表的思想家、会沢正志斎(あいざわ・せいしさい=1782-1863)から始まる。続いて古代ギリシャの詩人、アイスキュロス(前525ごろ-前456)。ギリシャ悲劇の代表『アガメムノン』で知られる。3人目が大正・昭和期の詩人、会津八一(1881-1956)、4人目がアメリカの軍人・大統領、アイゼンハウアー。「アイク」の愛称で呼ばれた。水戸学、アガメムノンの解説などがあってこれでちょうど1ページである。いちばん最後は【わ】の完顔阿骨打(わんやんあくだ=1068-1123)で中国(満州)金の初代皇帝。女真族の出身。契丹(きつたん)の遼(りょう)の支配から独立し、1115年ハルピン付近の会寧府(かいねいふ)に都して、国号を金と定めた。のち宋と結んで、遼の勢力を満州から駆逐することに成功した。

残念ながら私、最初の会沢正志斎もこの完顔阿骨打も知らなかった。紹介したのは最初と最後だけだったが日本人、外国人が混在しているところが面白い。しかも何ページにもわたって日本人名ばかりが続くところや外国人名ばかりのところもある。フランス国王もルイ9世、11世、12世、13世、14世、15世、16世、18世は載っているが8世までと10世、17世はどんな国王だったのか気になる。まあ8世までは特筆すべき事象はなかったのかもしれないが「喧嘩王」と呼ばれたルイ10世はわずか1年半の在位中、ブルゴーニュ公国やイングランドとの争いが絶えず、24歳の若さで急死した。もう一人のルイ17世はフランス革命で父のルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑されるとパリのタンブル塔に幽閉されたままわずか10才で病死した。谷山博士はこの二人を外したのでこちらも他の人名事典で調べてわかった。

ここまで書いて、好奇心旺盛な私、そもそも縮刷版に先行する「元版」があったのでは、と酔狂にも版元の㈱むさし書房に問い合わせてみた。京都・大阪を結ぶ京阪電車沿線の大阪市阿倍野区美章園にある。以下がその報告である。

現在の代表者は『日本と世界の人名大事典』の発行者だった稲橋兼吉氏のご子息、俊治氏で事典類からは撤退したが学習参考書などの出版を手がけておられることがわかった。俊治氏の話では元版は昭和39年8月1日に発行、昭和60年代まで版を重ねたそうだ。大きさは縮刷版の倍のA5判、活版印刷で定価4,500円だった。一方の縮刷版は学生や社会人が気軽に引いてもらえるように内容はそのままで堅牢なビニール加工の表紙をつけて企画したが、最盛期はこちらの方が何倍も売れたという。人名事典は業界大手といわれる岩波書店や平凡社、三省堂などいずれも東京で、それに対抗して「大阪の出版社ここにあり」とがんばったものですと。なかでも当時は<人名事典のタブー>とされていた現存の人物も含まれていたため、改訂のたびに生没を調べたり、在庫を出荷する際に亡くなっている人物は同じ活字を使って手作業で没年を印字したりしたそうだ。「倉庫に何冊かあったはずだからよろしければ差し上げましょうか」というご厚意でいただいたのが下の写真左(昭和60年6月10日、改訂16版)である。

DSCN1316

「縮刷版を頼んでいた印刷所の火事で刷版が焼けて作り直したり、何でこの人物が入っていないのかとねじ込まれたり、ここが違うと熱心な読者から指摘を受けたり、色々あったようですけどすべて父の時代でした。いまは事典や辞書はみなさんネットや電子辞書で検索する時代ですからこれもいい思い出です」という俊治氏の声が耳に残った。

ヒトラーの時代(22) 池内 紀

  • 2017年1月26日 18:30
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

民族共同体

ドイツ北部の港湾都市フレンスブルクは人口10万たらず。その町でかつて「フレンスブルガー・イルストリールテ・ナッハリヒテン」という新聞が出ていた。イルストリールテは「絵入り・写真入り」といった意味で、グラフ誌のようなつくりだったと思われる。発行のモットーが「世界と故里を結ぶリング」というのだから勇ましい。その1933年5月17日号の表紙が意味深い歴史的資料として残されている。

画家による肖像画と写真を組み合わせたコラージュの方法であって、とりわけ1930年代に流行したスタイルである。上に顔が一つ、下に大群衆、旗を掲げ誓いをするように右手を差しつけている。

肖像はヒトラーだが、即座にはわからない。写真でおなじみのヒトラーと何かちがうからで、全体に若々しく、理想化されて描かれている。さらに顔だけがアトバルンのように空中に浮いていて、なにか異様な感じがする。

顔がヒトラーとなれば、下の大群衆もすぐにわかる。ナチ党の集会であって、右手を差し上げるのが正式な挨拶だった。制帽・制服に身をつつみ、党組織の団旗が林立している。よく見ると上と下のあいだにドイツ文字で「総統と民族共同体」としるされている。

1933年1月、ヒトラーが政権につき、ナチス政府が発足した。それから四ヶ月、ヒトラー総統のもとに国民一丸となって民族共同体の実現に向かう。港町の一メディアがそのための特集を組んだ。

当時の情勢からして、それ自体は特別のことではないが、表紙のコラージュが興味深い。虚空に顔が浮いていて異様な感じがするが、当時のドイツ人は異様とは思わなかっただろう。ひと目見て、同時に別の顔を連想した。正面を向いたキリストの顔であって、それと二重写しにこの顔を見た。

ヒトラー

キリスト伝説の一つで教会の言い方では「ヴェロニカの帛(はく)」と称されている。十字架をせおってゴルゴタの丘に向かうキリストの汗と血を拭うため、ヴェロニカという女が白い布を差し出した。教会のカレンダーには「御公現の日」あるいは「顕現の日」とあるが、ヴェロニカの布にキリストの顔が現れる。布の中央に一つの顔が浮かび出る。

カソリックの教会には「聖遺物」といって、伝説ゆかりの品が保存されているものだが、「ヴェロニカの帛」もその一つで、なぜか数多くある。ヴェロニカの祝い日には司教座のある教会などで、展示され、善男善女が大挙して見物に来る。

聖遺物としては眉つばものだが、人々は顕現するキリストの顔のことを幼い時から聞かされ、イメージに描いてきた。フレンスブルクのグラフ誌を手にした人は、いまや政治の表舞台に登場した人物に、救世主キリストを見たにちがいない。ヒトラーを神格化する動きは、すでにこのころ始まっていた。

主義主張から反ナチの人は除いて、一般国民にナチス政権は好感を持って迎えられた。何よりも街に秩序が戻ったことが大きかった。秩序、ドイツ語では「オルドヌンク」こそ、ドイツ人にとって世界の始まりであり、ワイマール共和国の14年間は、まさしく秩序の失われた時代だった。経済の要(かなめ)である金銭が未曾有のインフレで紙クズになった。政党が乱立して、どの政権も半年ともたない。失業者がとめどなくふえていく。往来では党派に分かれて殴り合い、流血沙汰が絶えない。夜は娼婦と酔っぱらいがワンサとたむろしているーー。

ヒトラーが政権についたのは1月30日である。2月10日、ラジオで「ドイツ国民への呼びかけ」を行った。ワイマール体制がなにをもたらしたか。国を破壊し、「一つの廃墟」を生み出しただけではないか。「ドイツ国民よ、われら(ナチス)に4年の猶予を与えよ。しかるのち、われらに裁断を下せ」

2月10日、ベルリンでの「自動車展」に際して、国民のための国民車(フォルクスワーゲン)計画を発表。政治的な花火ではなく、すぐさま自動車工学のフェルディナント・ポルシェに具体的に設計を依頼。

フォルクスワーゲン計画は、つづいて「自動車税法」(国産自動車の所有者に対する税金の一切免除)、自動車専用道路建設へと拡大する。アウトバーン計画はナチス以前からあったが、本格化するのはヒトラー政権になってからで、失業者救済事業を兼ねており、第一期三万人、第二期六万人の雇用を実現。五年間で延べ3000キロの高速道路網を完成させた。

3月16日、ドイツ帝国銀行総裁に民間人ヒャルマー・シャハトを抜擢。シャハトは「経済の天才」といわれた人で、ナチス嫌いで知られていた。おのずと党内から反対、干渉、妨害があいついだが、ヒトラーの全権を受け「メフォ手形(政府保証の信用手形)」の発行など、経済の安定のために辣腕を振った。

3月23日、全権委任法成立。

ヒトラーに全権を委任するというこの法律は、「逼迫(ひっぱく)する諸要素に迅速に対処する指導者(ヒューラー)国家を創設するための四年間の時限立法」とし提出され、ドイツ共和国議会は圧倒的多数で承認した。この法律により、ヒトラーは議会制度の制約から解放され、合法的に独裁権を獲得する。時限立法であれ、四年後に反対多数とならないかぎり自動延長する。やがてナチス一党制となった議会の「反対多数」などあり得なかった。

3月27日、1933年度の会計年度に対し、「失業者救済課金」実施を指令。

3月31日、「ドイツ国とドイツ支邦との統整のための暫定法」成立。ドイツは州の権限が強く、独自の政府と議会と軍隊をもち、国家として対処しなければならない対外関係以外は、州の自治に委ねられていた。そのような州の自治、独立性を撤廃して、中央で統制する。ここに名実ともに統一されたナチス国家が出現した。

4月10日、国民労働祝祭日の創設。5月1日の労働者のメーデーを廃止して、ドイツ全国民の祝祭日とする。

5月3日、「労働奉仕制度」を発令。18歳から25歳までのドイツ人青年男女に、年間20万人規模で6カ月の労働奉仕を義務づけたもの。農地開墾、土地改良、営林作業、農作業、道路建設など、「民族共同体のための労働」を提供する。

このころから「民族共同体」がメディアやポスターにしきりに現れるようになった。党大会におけるヒトラーの演説では、「労働を通して全てのドイツ人を統合し、一つの共同体を形成する」「民族共同体の実現をめざす」といった言葉とともに現われた。

6月1日、「結婚奨励法」発令。少子化に対処するため、無利子で妻帯貸付金を支給。結婚ローンであって、子供1人が生まれると、四分の一が即座に贈与金に切り替わった。4人生めばローンはゼロになった。より正確に言うと、ナチスの財政的措置は結婚ローンのほか、さらに子供への補助金、家族手当の三本柱からなり、子供への補助金は、子沢山の低額所得者に家具、備品、衣料費のための一時金として支給された。こういった政策により、ドイツの出産率は急速に改善された。

大半が「総統指令」として世に現われ、ヒトラー=救世主のイメージが日ごとに高まっていく。

7月15日、新婚者のための新築住宅の税金免除。

8月20日、国民ラジオ(フォルクスエンプェンガー)展示。政府がラジオ時代の到来を告げ、」当時としては驚くべき安価なラジオを提供。数年で全所帯の70%が所有するまでになった。

9月13日、冬季救済事業の開始。失業者や老人に対して、ヒトラーは国民的規模による事前運動を呼びかけ、それは1000万人の人々が恩恵にあずかる運動に発展した。さらに拡大、発展させたのが、KdF=歓喜力行団の創設である。労働は営利の手段ではなく、ドイツ民族共同体の福祉に奉仕するものとし、そのためには「喜びを通しての力」、ドイツ語ではクラフト・ドゥルヒ・フロイデ(略してKdF)運営組織を発足させた。一流のコンサート、映画、スポーツ、国内旅行、海外旅行を、労働者にもまかなえるように安く提供、余暇の喜びだが、明日への労働力を生み出す。

もともとKdFはイタリア・ファシズムの「ドッポラーヴォーロ=労働のあと」の制度をまねたものだが、ナチスはイタリア人よりもより大々的に、より効果的に運営した。組織はやがて大きく発展、事務職2、547名、ボランティア75,000人を数え、ナチス国家に対する良質の宣伝をもたらした。それまでナチスの運動に懐疑的だった人々も、KdFの進展のなかで、なだれを打つようにしてナチス体制に同調し始めた。

さらに自然保護運動がある。エコロジズムの実践活動で、植林には針葉樹ばかりでなく広葉の落葉樹も含めること、野生動物の生息環境を守るため、低木や雑木林の保護をうたう法律を定めた。

また健康に関する研究に巨額の援助をして、タバコは肺ガンの主因であることを、世界で初めて証明した。アスベストの発ガン作用についても警告した。いずれもヒトラーが独裁制を確立して以後の業績である。600万を数えた失業者の数が数年で半減。労働条件の改善がはかられ、社会保障と老齢福祉の大胆な試みが発表された。浩瀚なヒトラー評伝の作者ジョン・トーランドは述べている。もしこの独裁者が政権四年目ごろに死んでいたら、ドイツ史上、もっとも偉大な人物の一人として後世に残ったであろう。

書斎の漂着本(96)蚤野久蔵 五分間演説集

  • 2017年1月10日 21:36

有名人といえども「スピーチが苦手」いう人は意外に多い。英国王・ジョージ6世も吃音(=どもり)を克服するまでは大変な努力を重ねたことをアカデミー賞の作品賞など4部門を受賞した映画『英国王のスピーチ』(2010年)で知った。「スピーチ下手の国民」と言われる日本人ならなおのこと悩みは尽きなかったろうから多くのハウツー本が出版された。先日、京大前の古書店で見つけて思わず購入した雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』もそんな一冊である。幅9センチ、高さ14.5センチのほぼはがき大で336ページの外函付。昭和4年9月に大阪の村田松榮館から定価60銭で売り出されている。

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

雄辧研究會編『祝辞挨拶五分間演説集』(村田松榮館刊)

この年は前年に起きた「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」での政府責任を追及する野党民政党の動きが不発に終わるなかで、天皇の<不信>により田中義一内閣が総辞職して、浜口雄幸内閣が誕生した。新内閣は緊縮財政を唱える一方では金解禁を実施するなど経済立て直しをスローガンに掲げたがそれは遅々として進まず、世界的な恐慌の波が目前に迫っていた。巷には「東京行進曲」、「君恋し」などが流れ、これらヒットレコードの映画化が進んだ。こうした時代背景が例文にも見られるのが興味深い。

表紙は蝶ネクタイにメガネと髭の「弁士」が握りこぶしを振り上げて熱弁をふるっている。例文の多くにあるように「諸君」から始まる演説そのままをイメージしたカットである。ガラスコップの水はまだ七分目ほどだから最初の一口を飲んだばかりだろうか。いや、題名が「五分間」だから水は単なる<お飾り>だったか。「水をさすのは止めろ!」とヤジが出そうなので本題に戻す。そもそも雄辧=雄弁とは弁論ともいい、歴代首相や多くの政治家を輩出した早稲田大学雄弁会が有名だが、この演説集を手がけた雄辧研究会なるものは正体不明で、書店のお抱え筆者が手がけたのかもしれない。いまどきの「専門ライター」ですね。

「序文に代へて」では「ラジオを聞きながらボロボロと涙を流している人があるかと思うと一方には馬鹿に興奮して聞いている人がいる。これを見てラジオに泣いたり、怒ったりしていると思ったら大間違いである。彼らはその放送された題目のプロット(筋)とリズムとを銘々の境遇に取り入れ、これに共鳴してある者は涙を流し、ある者は緊張するのである。演説もこれと同じだ。話す人は一人で聴者は多い。従って一人の口から出る同一の話によって聴者に多種多様なショックを与えることになるのだ」と演説の意義を強調する。そして「聴者の受け取る感動はラジオや蓄音器よりも深刻だ。それらは単に耳にだけしか刺激を与えないが演説となると話す本尊(=演説者)を前において耳と目の二覚官(=感覚器官)に刺激を受けるからである。話すということは文章よりも、その他あらゆる方法や機関よりも自己を表白する上において最も強い機能を持っている。しかし同じ話すにしてもその話ぶりに巧拙があり、その内容に貧富の差があり、態度やその他の影響も手伝って相手に与える反響に異同があり、時をすると目的と全く反対の結果を招くことがある。これらは話すことの最も下手な例である。ともかく人は巧みに話すことによって、自己の幸福をより多く受け取り得られるのである以上、何人も上手に話したいと望むのは人情である。本書はこうした要求に応じ、最も新しい時代において巧みに話すことを望む人たちに対し、何かの便宜を与えるであろうことを自信して現れた(出版した)ものである」とPRしている。「機関」は当時、情報を受信するための主要な手段だったラジオや蓄音機=レコードを指し、「内容に貧富の差がある」とはそれが「豊かであるか貧しいか」ということだろう。当時も今も変わらないが、こうしたハウツー本は「手に取ったときから<読後の効果>をそそのかすのである」と言ってしまうと身もフタもないか。

「演武場開場祝賀演説」は「諸君、今日の日本は奢侈淫靡の悪気流が渦を巻き、ただでさえ人は文弱に流れんとしているのであります。そこへ加えてあてにもならない平和論を振り回して惰弱の空気を吹き送るから士気の萎靡はほとんど収拾すべからざる有様であります。堂々たる日本男子でありながら白粉(おしろい)をつけ、香水を振りまいて得意然と反り返っているがごときはその現れである。恋愛至上主義だの、享楽気分だの歯の浮くような寝言ともうわ言とも分からぬことを臆面もなく吹き散らし、新しい思想の持ち主らしい顔で高く止まっている変性男子の多いのもその現れの一つであります。そんな奴らを跋扈させておいたら帝国の前途は一体どうなるのか、諸君、思いここに至るは痛憤浩歎、自ら涙のこぼれるのを覚える次第ではありませんか」が前段。「かかる軟体動物性時代において武士道的競技の随一なる柔道の修行を行い、かつこれを宣伝することはそれによって勇猛清廉なる男子的気象を養い、

おっと気象は気性の誤植とここでミスを発見!

頑丈事に堪える壮健なる肉体を作るのみならず、鼻持ちならぬ方今の文弱を押しつぶし、憐れむべき惰眠から叩き起こす痛快なる一大面棒である。かくして初めて我が帝国はその惰弱より救われ、淫蕩より引揚げられ、その尊厳と神聖とが保たれるのである。柔道の道場が開かれるのを見て痛快に堪えず、あえて駄弁を叩いてこれを祝し、諸君の批評に訴えるものである」。ウーム。

「只」や「之」などは平仮名にし、文語表現の一部は現代語に変えたが文弱、奢侈淫靡(しゃしいんび)、萎靡(いび)、跋扈(ばっこ)、痛憤浩歎(つうふんこうたん)、一大面棒(いちだいめんぼう)などは、正直、タイムスリップしてこの演説を聞いただけでは漢字を思い浮かべる自信はないことをおわかりいただこうとそのままにしてある。これが全文であるが率直に言って頭でっかちで龍頭蛇尾の見本のような気がする。

「結婚披露会にて」では大時代的な定型そのものだから失礼ながら皆さん下を向いてアクビしていそう。「本日は目出たき結婚披露会に招待の栄を受け、祝意を表するは私の欣慶措く能わざるところであります」から始まって新郎を「学識において徳望において青年紳士の模範的人格者であり・・・」とか新婦を「女学校在学時よりすでに才媛を唄われ、花の如き美貌と多方面にわたる高尚な趣味と貞淑なる婦道の持ち主で・・・」など誉めちぎって最後は「尾の上の松の幾千代かけて両君の上に幸多からんことを祈り、謹んで祝意と敬意を表する次第であります」と。ま、五分間なら居眠りまではいかないか、というのが意地悪な感想である。

勇ましいタイトル「壇上の獅々吼」として紹介されているのは移民問題、戦争と軍縮、芸術と思想、漢字の難しさとローマ字の普及、軍事演習と兵士の民家分宿批判とさまざまだがまさに雄弁会の面目躍如といったところだから少しばかり紹介しておこう。

「生ぬるい救済」は、当時流行した富豪からの寄付が病院や医学研究にのみ傾いているのをチクリ。「金ができると病気にかかりやすい」という経験からの思いつきかもしれない。せいぜい長生きして現生の享楽に耽溺したい、もし病気にかかった時はできるだけ尽力をつくしたいという人情に対しては非難をさしはさむ余地はない。寄付者に敬意を払うにやぶさかではないが、何ゆえに彼らは病院ばかりに寄付をしたがるのか。病院を建てるとその名は永久に残るからか。諸君、わが国の医療機関は大体において不自由を感じていないのであります。社会公共とか救済のためならばもっと緊急な火の付くようなことがたくさんある筈で、売名的ではなく真に社会を救済したいという精神があるならば火急なるものから順を追って救うことがより意義のある行為ではありますまいか。寒い夜を公園のベンチの上で明かしている幾千の失業者は少しも省みられずして、数年先または十数年先に至って初めて役に立つ救済機関(=病院)に寄付する篤志家の行為は涙ぐましいことではあります。だが、失業者に一杯のうどんを振舞うことは一時的ではあるが、それを知らない篤志家が多い現世相を何と言ったらよいのでしょう。私は売名を予期する公共事業には賛成できない一人であります。私もそう思うからこれには一応パチパチ(拍手)。

「ヤンキーの挑戦と国民の覚悟」では米国海軍が大正14年の大演習以来、ハワイ真珠湾の防備に力を入れ、太平洋艦隊の大部分が入ることができる岸壁や大船渠(ドック)、将校や兵員宿舎の建設を急いでいることを挙げ、米国の軍備論者の着眼点がハワイを中心とした太平洋に置かれ、明らかに日米戦争を予測した企てであるまいか、とブツ。さらに彼=米国は20浬(=かいり、約37キロ)の距離にある一切のものを焼き尽くす威力を持つ死光線を発明し、これを太平洋に配備する準備を進めているのは見逃すことのできない敵対行動であると。死光線とは「死のレーザー光線」の意味だろうが「しかし諸君、今は起(た)つ時ではない。沈勇を誇る日本人はあくまで慎重な態度をとり、満を持して放たざる覚悟を定めることが今の場合、最も大切なことであります」と結んでいる。太平洋戦争の火ぶたを切ったのはこの真珠湾だったが、最後は死光線をはるかに上回る広島、長崎への新型爆弾=原爆の投下だった。

ところで本体はめくったりしたあともほとんどないのに外函だけはひどく傷んでいる気がする。ひょっとして元の所有者は演説のたびに「緊張してあがらないお守りがわり」にこれを持ち歩いていたのでは。まさかそれはないか。