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連載 ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 12  柴崎信三

  • 2014年9月30日 14:20

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

11 〈成長〉について

丹下健三と岡本太郎 1970年の「対決」

岡本太郎「太陽の塔」(1970年、大阪・千里丘陵) 

岡本太郎「太陽の塔」(1970年、大阪・千里丘陵) 

「人類の進歩と調和」をうたって大阪・千里丘陵を会場に大阪万博が開かれた1970(昭和45)年の日本列島の風景には、高度経済成長という戦後日本の大きな波が呼び起した人々の迸るような熱気と、その陰画がモザイクのように交錯している。

3月に始まった大阪万博は9月の閉幕までに内外から6420万人の入場者でにぎわい、人々は日本が開花させたテクノロジーや消費文化を通して未来へ広がる豊かな社会の手触りをそこに実感した。しかし開幕からほどない三月末、「赤軍派」を名乗る過激派学生が日本航空の羽田発福岡行きの定期便「よど号」を航行中の機上でハイジャックし、途中乗客ら103人を釈放したあと、北朝鮮へ亡命するという事件が起きた。

半年にわたる万博が高度成長経済の日照りのなかで幕を下ろしてから3カ月余りを経て、師走の足音が聞こえ始めた11月25日、今度は審美的な作品で知られた作家の三島由紀夫が国粋派の集団である「楯の会」の学生4人とともに東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入、幹部を人質にクーデターを呼び掛けて失敗し、割腹自殺を遂げた。戦後の目覚ましい〈成長〉の渦の中で公害問題などの陰画が広がり、戦後社会の背後に広がる根源的(ラディカル)な問いと懐疑や不信が激しく噴き出した年であった。

大阪万博が開幕した3月14日、幕開けを待ちかねて千里丘陵の会場に押し寄せた人々はまず、メーンゲートにつらなる広大な「お祭り広場」の屋根を貫いて立っている化身のような「太陽の塔」に目を奪われた。丹下健三が設計した「お祭り広場」は、広い空間を被膜の様に重ねた鋼鉄製の屋根が水平に覆っていたが、その屋根を突き破って上空に突き出した「太陽の塔」は、まるで巨大な土偶を思わせる土俗的なシンボルタワーであった。

「お祭り広場」は万博の中心施設で、現代建築の技術の粋を極めた「トラス構造」で組み立てられ、巨大な大屋根が広場全体の上空を水平に覆いつくしていた。剥きだしのスチールの骨組みを内部にめぐらせた天井を六本の柱で支える構造は、それ自体が合理性と機能性を視覚化した、この時代のモダニズム建築の最先端というべき無機的でメカニックな造形であったが、「太陽の塔」はすべてにわたってこれとは異質であった

戦前から国家的なプロジェクトの象徴的な建築物を手がけてきた丹下は万博開催の六年前、1964年の東京オリンピックの代表的な施設として今日知られる代々木オリンピックプールを設計した。東京の都心に忽然として、東大寺を思わせる仏閣の大伽藍に似た巨大な屋根が、伸びやかな曲線を描きながらたちあらわれ、人々の目を惹きつけた。「日本的」と形容していいこのダイナミックな空間の演出は、アジアで初の五輪を東京で開催するプロジェクトの意味とその祝祭性を意識したものとして、それまで丹下が依ってきたモダニズム建築を自ら問い直す意図が込められた作品、と解されたのである。

これに比べれば、「人類の進歩と調和」をキャッチフレーズに掲げた大阪万博の「お祭り広場」の構築は、最先端の工法を通して効率と機能を追求した現代建築のテクストのようでもあり、「お祭り広場」というローカルな香りを漂わせたネーミングとは裏腹に、日本的な風土性や伝統的な文脈からは遠く隔たった構築にうかがえた。

ところが開幕へ向けて建設が進んでいたある日、突然この「お祭り広場」の水平の大天井に大きな穴が開けられ、屋根を突き破って70㍍の高さに及ぶ巨大な人形のような搭が上空を貫いた。白地の壁面には深紅の唐草のような装飾を施されていて、両手を広げた胴体部分の中心に刻まれた顔は古代の土偶を思わせた。塔の尖端部分にも金色の仮面のような顔が施されている。まことに奇怪なこの「太陽の塔」を目の当たりした時の驚きを、丹下研究室の若いスタッフとしてその現場で働いていた建築家の磯崎新はこう振り返る。

〈近代主義的な構造システムを徹底させた大屋根を岡本太郎の「太陽の塔」がブチ抜く。およそ異質なもの同士、近代的なものと反近代的なものが衝突している。私はこの「お祭り広場」の巨大イベントを演出するための諸装置の設計を担当していたし、このような大屋根の提案者の一人でもあったが、巨大な男根のような塔が柔らかい被膜をかぶった屋根を突き抜いたときに、勝負あった、と思ったことを記憶している。〉

若い磯崎は丹下の「お祭り広場」のプロジェクトの一員として働いていたが、役割はもっぱらこの無機的で巨大な大屋根の空間にどんなソフトを組み込んで演出するかということであった。そこでは「お祭り広場」の屋根の下で自動制御の巨大なロボットを動かし、人間と科学技術の進化を問いかける、といったアイデアが具体的に検討されていた。

「人類の進歩と調和」という万博のキャッチフレーズそのままに、科学技術文明と人間の融合によって豊かな未来を構想するテーマを、ロボットなど最先端の技術を駆使して具体化し、この「広場」に展示することがあたえられた仕事である。モダニズムの洗礼を受けてきた磯崎の世代は「進歩」という言葉が示す直線的な文明観に導かれた基本理念をおおむね疑わなかったし、まして、そこに自然との共生や人間の原初的な情念をたたえた、日本の伝統を呼び起す発想や造形が入り込む余地はほとんどなかった。

ところが、途中でテーマ・プロデユーサーとして岡本が加わったことで構想は一変したのである。磯崎は姿を現した「太陽の塔」の衝撃を、さらにこう続ける。

〈伊勢論で丹下健三が「原始の暗さと永遠の光」と表現していた根源的なものが、あまりにあっけらかんなかたちをもって、壮大なキッチュとして出現してしまった。にこやかにほほえむこの塔につけられた仮面は、エイリアンのようにおぞましく感じられたのだが、何よりも拒絶できなかったのは、そこに「日本的なもの」がみえたことだった〉

44年の歳月を経た現在、千里丘陵の万博跡地に丹下の「お祭り広場」の建築はすでになく、その屋根を突き抜いた岡本の「太陽の塔」だけが、あふれる緑に囲まれながら露天に異形をたたえて屹立しているのである。

奇想に富む「太陽の塔」をつくった岡本太郎は、前衛的な美術家で民族学や文化人類学にも造詣が深く、それまで丹下とさまざまな建築や都市計画の現場で摩擦や対立をまじえながらも密接なかかわりを持ってきた、いわばライバルである。

しかし建築家と美術家という基本的な立ち位置の違いに加えて、官学の建築アカデミズムの頭目として正統を歩んだ丹下の秩序感覚と、著名な芸術家の両親の下でフランスへ留学し、西欧モダニズムの解体を目の当たりにしてアヴァンギャルドの道を歩んできた岡本の活動の挑戦的なイメージは、ほとんど対極的であった。丹下が戦前から国家の主だった建築プロジェクトの中心となり、いわば日本の近代の蹉跌と再生、そして成長を視覚化するプロデューサーだったとすれば、岡本はその日本の近代の枠組みを根源に遡ってとらえ直し、文明と民族を相対化して西欧の近代とは異なるエネルギーを探る異端者だった。

それゆえ、大阪万博で会場全体のプロデューサーを務める丹下のもとに、テーマ・プロデューサーとして岡本が加わった時点で「対決」と「衝突」はおのずから予想されたことであり、二人の大阪万博での出会いは高度成長の坂道を歩む戦後日本の頂点を象徴する、クライマックスというべき場面であった。


広島平和記念資料館(1955)

広島平和記念資料館(1955)

東京オリンピック国立屋内総合競技場(1964)

東京オリンピック国立屋内総合競技場(1964)

東京都庁新庁舎(1991)

東京都庁新庁舎(1991)

丹下健三はこの時点ですでに国際的にも高い評価をもつ、日本の建築界の巨匠であり、その作風はモダニズムを貫いた洗練性を特徴とした。しかし戦前からの歩みをたどると、そこには欧米に向き合って同化と反発を重ねてきた近代日本の屈折が投影されている。

1933年に来日したドイツ人建築家のブルーノ・タウトが、出会った桂離宮と伊勢神宮から西洋的なるものに拮抗する「日本的構築」の美学を見出して世界に示して以降、建築家だけではなく日本人のアーティストの多くは西欧モダニズムを超えた「日本的なるもの」の再評価と構築を追求してさまざまな試みを繰り返してきた。やがてそれは、単なる伝統への回帰ではなく、西欧の近代を超えて「大東亜」という新たな秩序の中に日本を置き直し、米英との戦時体制へ向かう体制を支える国粋的な文化表象の潮流につながってゆく。

1942(昭和17)年に雑誌『文學界』が各界の知識人を集めて開いた座談会「近代の超克」は、その最も典型的な事例である。

戦時下に「知的協力者会議」の名のもと、下村寅太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、中村光夫、林房雄、諸井三郎といった、哲学、文芸、科学、音楽、美術など幅広い分野の知識人を動員し、膨張する西欧近代の「衰弱」をとらえて日本を中心としたアジアの精神文化を対置しながらその優越性を論じたこの座談会は、日米開戦の翌年の1942年秋、雑誌『文學界』誌上に連載された。日本文化の特質を戦時下というある意味のグローバルな視野に置いて問い直し、合理主義にもとづく世界秩序を主導してきた西欧的知性を超えた「知的戦慄」をそこに探る、きわめてポレミックな試みであった。

これと同じ年に行われた第16回日本建築学会のコンペ「大東亜建設記念営造計画」に、ようやく30歳を迎えたばかりの少壮建築家、丹下健三が応募し、作品の「大東亜建設忠霊神域計画」が1等に選ばれた。戦時下の日本の国家的なアイデンティティーを図像化したものといえる。日本がその後の敗戦から復興、そして高度成長期を経てバブル経済の時代へ至るなかで、その歩みに寄り添って戦後の「国家の造形」を担ってゆく丹下にとって暗示に富んだ作品であり、同時にそれは総力戦体制のもとで高揚する「近代の超克」の時代の空気をそのまま建築と都市計画に体現した作品ということができよう。

「大東亜建設忠霊神域計画」は建造物というより、戦没学徒の慰霊追悼施設を中心にした一種の都市計画であり、富士山麓に設けるこの追悼施設と東京の皇居を高速道路で結ぶという壮大な計画である。現在残されているその図版では壮麗な富士山を仰ぐ裾野に自然に抱かれた慰霊追悼施設が整然と区画されて描かれているが、富士山という国家表象を舞台装置とした国家のモニュメントがここで、アジアの融合を掲げた戦時下の「八紘一宇」の精神へとつながっていることは指摘するまでもない。

タウトが「発見」した桂離宮の数寄屋と寝殿造りを融合させた美学は、戦後の丹下の活動の代表作との一つである「広島平和記念資料館」(1955年)などに引用された。さらに東京五輪という戦後日本の画期をなす国家イベントのシンボルとして「代々木オリンピックプール」では、古刹の大伽藍を想起させる吊屋根の緩やかな曲線が「日本的なるもの」の表象として大きな反響を呼んだ。モダニズム建築の傑作として今日も高い評価を得ているこの作品も、「四角いトーフのような建築よりは屋根の格好であれ、ドームであれ、アーチであれ昔の建築のほうがよほどいいじゃないか」と、西洋建築批判をぶち上げていた丹下の伝統に対する初心を伝えた作品であろう。

〈桂の書院は、寝殿造りから書院造りにいたる上層系譜の伝統、弥生的性格を―静的な平面性、平面的空間性、そのようなエスセティックな形態均衡が支配している―その基本的な性格をもっている。しかし、その形式化を阻止し、そこに躍動する空間性や、自由な諧調を与えているものは、他のものである。私はそれを下層系譜の伝統、縄文的とよんでもよいところの生成的エネルギーであると考えている〉

丹下は1960年に書いた『桂―日本建築における伝統と創造』のなかで、日本の伝統文化に流れる弥生的なものと縄文的なものに触れて、このように記した。

「弥生的な文化形成の伝統と縄文的文化形成のエネルギーが、ここで伝統と破壊者として、デレアクティクに燃焼しあうことによって、この桂の創造はなしとげられたとみてよいだろう」という丹下の日本の伝統的な建築造形に対するまなざしは、モダニズムの巨匠としての戦後の歩みのなかでも持続し、こうした戦後の代表的な国家プロジェクトのなかにいわばアクセントのようなかたちで組み込まれてきた、というべきかも知れない。

ところが「代々木オリンピックプール」から6年後の大阪万博で丹下が取り組んだ「お祭り広場」の造形に、このような日本の伝統の気配は当初から全く影をひそめていた。

〈このとき日本という国家はみずからを表象する主題を失いはじめた。経済的な復興が成功した。技術大国と呼ばれはじめた。日本という明治がつくりあげた民族国家が、伝統的な文化ではなく、経済や技術で表象されるようになる。EXPO’70は主題の変換、つまり「日本的なもの」という問題構制が変質してゆくその転換点だったとみていいだろう〉

戦後日本の祝祭空間を次々と手がけてきた師の丹下の下で、大阪万博の「お祭り広場」の構築の現場にいた建築家の磯崎新は、丹下の変化の背景をこう振り返っている。

たしかに、それ以降の日本は経済大国として成長の坂道を上り詰めるなかで、五輪や万博のような国家的な祝祭空間は国民のまなざしを集める舞台装置としての役割を失った。これに伴い丹下も「日本」を意匠のなかに意識した造形から離れてゆき、バブル経済のさなかの1992年に完成した新・東京都庁舎などを例外として、主要な活動の軸足を中東やアジア、アフリカなど新興国の都市計画や都市施設の設計に移していくのである。

国家的な建築や祝祭空間が熱い国民的なまなざしのもとでつくられて時代の表象として後世へ伝えられる時代から、グローバリゼーションの下でそうした風景が拡散して失われてゆく時代への転換点が、大阪万博だった。「お祭り広場」というその現場で、稀代の国家プロジェクトのデザイナーとしての丹下のもとに岡本太郎という異端者が突然のように〈乱入〉し、モダニズムを極めた鋼鉄の巨大な屋根を突き破る不気味な土偶に似た「太陽の塔」によって当初の会場の風景を全く変えてしまった。

千里丘陵の万博会場は全体で380㌶という広大な敷地を切り開いて中央の約1㌔にわたってシンボルゾーンが設けられ、「お祭り広場」と「太陽の塔」に各テーマ館、エキスポタワーなどが配置された。ここから四方に「動く歩道」がつながり、入場者は全体で116にのぼるパビリオン群を巡り歩く。巨大なマルチスクリーンの映像や音声認識のロボット、自動制御で衝突を回避する自動車やのちの携帯電話につながる移動体通信など、各企業館の展示には今日の最先端技術に重なる画期的な試みが組み込まれていた。

海外からは76カ国の政府、4つの国際機関などが参加したが、アポロ11号が人類初の月面着陸を果たして持ち帰った「月の石」を展示するアメリカ館には連日長蛇の列ができた。科学技術と文明の未来に対する人々の迷いのない期待が、そこにはあった。

経済成長と科学技術の進歩が人類の豊かな未来を切り拓くというこの博覧会に漲る楽天的な確信は、会場のシンボルとなる「太陽の塔」の設計者となる岡本太郎の思想とはもちろん相容れない。岡本はそうした直線的な文明観を根底から疑い、「進歩と調和」を批判するところからこの奇矯な意匠の塔をデザインしたというべきであろう。

〈私の担当するテーマ館には、何か見る人の心の奥底にグンとこたえてくる根源の重みをうちすえたい。作りもの、見せものの強烈な色・光・音に、耳目がさらわれて、存在としての人間が空しくなってしまっては意味がない。未来への夢に浮き上がってゆく近代主義に対決して、ここだけはわれわれの底にひそむ無言で絶対的な充実感をつきつけるべきだ〉(1970年5月)

「お祭り広場」の天井を打ち抜いた「太陽の塔」は、ライバルの丹下から呼ばれてテーマ館のプロデューサーに就く岡本が仕組んだ、ほとんど確信犯的な万博の主題への反逆であった。大阪万博は事務局の代表を財界の石坂泰三が務め、通産省(現経産省)が中心となって官民から集まったスタッフが実際の企画や運営を担った。丹下のもとではメタボリズム(新陳代謝)という設計思想を掲げた黒川紀章や菊竹清訓らの若い建築家が新しい技術を駆使した材質と機能、デザインを競い、斬新で奇抜なパビリオンや会場設備が並んだ。モダニズムと合理主義のもとでそれをのりこえるべく企画された、挑戦的ではあっても計画的な会場施設の設計思想を根本から覆すように、岡本はそこに挑戦的であやしい原始的エネルギーが迸る「太陽の塔」を構築するのである。

テーマ館からお祭り広場の上空に丹下が設計した大屋根は幅100㍍、高さ30㍍、長さ292㍍という広がりを持った。それを突き破って高さ70㍍、直径20㍍の「太陽の塔」が上空へ伸びている。それは大阪万博という、歴史的な国家イベントの中心理念とその会場や展示が伝える技術文明のありかたを批判した、まことに対決的な構築であった。

「太陽の塔」は、頂点に置かれた黄金の顔と、両手を広げた土偶のような胴部の中央に刻まれた巨大なもう一つの顔によって強いインパクトを人々に与えた。未開社会のトーテムを思わせる奇抜でエネルギッシュな造形は、岡本が一貫して追求してきた人間の根源的な生命力の表象であり、「近代」という秩序に対する正面からの批判の表現であった。上空を蔽う大屋根の広大な平面を突き抜けた塔の、安定から逸脱して周囲の風景と折り合わないアンバランスな突出は、岡本が意図した祭典の異化効果を否応なく高めた。

〈いたるところに近代主義的な機械でつくったようなものばかりならべて、得意になって“進歩と調和”とかいっていた。ぼくはテーマ・プロデューサーでありながら、テーマと反対をやっていたわけだ。人間は進歩していない。逆に破滅に向かっているとおもう。調和といってごまかすよりも、むしろ純粋に闘いあわなきゃならないというのがぼくの主義で、モダンなものに対して反対なものをつきだした。丹下健三の建てた大屋根はメカニックなものだけれども、それにたいして屋根をぶち抜いて、まったく根源的な感じのものを。けんかじゃない、うれしい闘いをやったわけ。アンチ・ハーモニーこそ本当の調和ですよ〉(梅棹忠夫編『民博誕生』)

「太陽の塔」はその内部の仕掛けも、岡本の強い文明批判を仕組んで設計された。人類の過去を生命の根源をなすたんぱく質やDNAの模型で展示する地下の「いのち」から、世界の民族の仮面や偶像の陳列で紹介する「いのり」、そして人類の誕生に至る進化の過程をアメーバや魚類、爬虫類などの生物模型でたどる「生命の樹」へと、観客は歩み上ってゆく。人々はここで人類の進歩の歩みというよりも、生物的で土俗的な人類の生命の源への遡行を経験するのである。

もっとも20世紀の科学技術の進展と経済成長によって豊かな消費社会を謳歌する大阪万博の基調への懐疑は、そのころ広がる政治的な抗争や社会的な翳りとなって浮き彫りにされつつあった。赤軍派学生による日航機ハイジャックと三島由紀夫の割腹自殺という左右両翼の過激な事件に加えて、日米安全保障条約の自動延長を巡って新左翼系の学生や野党勢力の反対運動が高揚して列島は騒然とした空気に包まれていた。経済成長は全国各地で公害問題を深刻化させ、この年だけでも東京の光化学スモッグ、静岡県田子の浦のヘドロ公害、整腸剤キノホルムによるスモン病事件などが相次いで国民への被害を広げた。

左右のイデオロギーの対立はまだ熱を持ち、大阪万博に対しても「反博」をスローガンに開催に反対する動きがあった。パビリオンの展示にかかわる芸術家も多様な主張と表現を持ち込んで、科学技術の発展による「バラ色の未来」の演出に異を唱える声もあった。

岡本の「太陽の塔」はそうした背景を映した作品でもあった。

それにしても無機的な鋼鉄の支柱を巡らせた巨匠の丹下の「お祭り広場」の天井を、岡本太郎がおどろおどろしい人間の原始的なエネルギーを漂わせる「太陽の塔」でぶち抜いて見せたのは、あからさまな「挑発」と呼ぶべきできごとではなかったか。

人気漫画家の岡本一平と流行作家の岡本かの子という芸術家を両親に生まれ、個性的な教育環境の下で若くしてフランスに渡って美術を学んだ太郎は、ピカソやマックス・エルンストらシュルレアリストの美術家、ジョルジュ・バタイユらの思想家と親交を結びながら、パリ大学ではマルセル・モースから民族学や人類学の手ほどきを受けた。

のちに「対極主義」を掲げて時代の支配的な潮流を否定したうえで、「痛ましき腕」などの作品にみる新しく大胆な表現を次々と繰り広げて、いわゆるアヴァンギャルド芸術を主導してゆく背景には、こうしたコスモポリタンとしての遍歴が大きく影を落としている。同時に美術の領域にとどまらない文明を掘り下げた幅広い知見と中国大陸への従軍などの戦争体験は、この芸術家に「日本」という母国への独特の重層的な視点と同時代への強かな批判精神を育てた。

岡本太郎はそもそも丹下とどこで出会ったのか。

戦後の1954(昭和29)年、岡本は東京・青山に建てた板倉準三設計の住居兼アトリエを新しい芸術運動の拠点とし、亀倉雄策、剣持勇、芥川也寸志、花田清輝といった分野を超える芸術家が名を連ねて新しい芸術運動を立ち上げた。20世紀前半にグロピウスらがドイツで展開した建築運動、バウハウスの日本版を目指したというこの「現代芸術研究所」で、その筆頭メンバーに迎えられたのが丹下健三であった。

バウハウスが目指した建築と美術の融合という二人の理想への試みはその後、いくつかの建築物やプロジェクトを通して形になった。例えば丹下が設計した東京・有楽町の旧東京都庁庁舎(1957年)である。シャープな鋼鉄製のグリッドで構成されたモダンで開放的な庁舎の正面ホールを飾ったのが、岡本に手になる激しい原色の幾何学模様をデザインした巨大な壁画で、その対比は大阪万博の「お祭り広場」と「太陽の塔」の関係を彷彿とさせるが、ここでは二人はまだ異質でありながら調和する関係にあった。丹下がつくった1964年の「代々木オリンピックプール」で「吊り構造」と呼ばれる技術を通して造形した曲線が渦巻く日本的な意匠の屋根の下でも、岡本は自分の意匠を細部に提供している。

それが1970年の大阪万博で二人を「対決」に向かわせたのは、つまるところ両者の表現と造形のなかの「日本」という表象を巡る乖離が決定的になったということであろう。

東京五輪が開かれた1964年の春、「万国博を考える会」が大阪に発足し、民族学の梅棹忠夫や社会学の加藤秀俊、SF作家の小松左京らがメンバーとなって、博覧会の基本理念やテーマの設定などの検討が行われた。その過程でテーマ館のプロデューサーとして小松が強く推したのが岡本太郎であった。6年後に実現した「太陽の塔」を目の当たりにした時の印象を、小松は次のように振り返っている。

〈その相貌は、ある人はアジア的といい、ある人はアフリカ的といった。だが、私はそんな地域とは関係なく、19世紀から20世紀へかけて、人類世界を席巻したように見えた西欧近代文明に対し、20世紀後半になって、再び私たちの「世界」によみがえり、未来にむかって参加しはじめた、「近代以前」の全ての世界の「顔」を象徴しているように思えた〉(『太陽の塔、そして』)

岡本がフィールドワークで深めた日本の文化への視点は、縄文文化や沖縄など辺境から原始的な生命の力を掘り起こす方向に向かわせた。「もののあはれ」や様式の美学とは対極的な、日本列島の民族の「原郷」を探し求めて、もう一つの伝統へ向かうのである。「太陽の塔」の古代人のような顔と逞しい胴体の巨大なオブジェは、まさに岡本が幻視するような、生命と力が漲る古来の日本のもうひとつの〈伝統〉を造形したものであった。

平安朝の繊細優雅も、近世から近代へ向けた侘びさびの美学も、表層の日本文化はおしなべて大陸から輸入された文化の枝葉の広がりであり、「大地に根を張った生命力と生活的な厚みを感じさせない」と岡本は指摘している。そこには「伝統」を洗練という名の衰弱ではなくて、生命の豊饒と盛衰、代謝と再生に求める、強靭な美への眼差しがある。

〈人間文化のすばらしさは、それが人間のいのちとともにひらき、そして消滅してゆく、重み、深さにある。/たまたま奈良・京都などを訪れて私が感嘆するのは、宏壮な東大寺をふり仰いだり、平安神宮の境内に立つときではない。小高い丘から奈良盆地を眺める茫漠としたひろがり。今こそなんの面影もとどめていない、がかつて、われわれの祖先が激しくおこり、からみあい、滅亡した、その無の空間にかえって無限の彩りを感銘する。(略)私は昔の文化を讃える。それは滅亡した、しているからである〉(『日本発見』)

科学技術と合理主義の優位に正面から異を唱え、現状との対決を際立たせる岡本のこうした過激な文明観を後押しして万博という国家的なイベントの空間に組み込んでいったのが「万国博を考える会」の人類学者、梅棹忠夫やSF作家の小松左京であった。

梅棹は『文明の生態史観』で地球を自然と生態系で捉えることにより、人間の文明がそれぞれの条件の下で自生的に分布してきたという歴史観を示して衝撃をもたらした。

西欧の近代というモデルへの追随が一種の強迫観念となり、そのパラダイムに支配されてきた日本人にとって、それは目から鱗のような歴史観の視点の転換であり、同時に日本の文化や伝統の独創性に対する国民の自負をいかばかりか回復させた。

メキシコの美術と造形の持つ強い生命力と、その背後にある生々しい死生観に深い関心を持ち続けてきた岡本は、「太陽の塔」を手がけるのと前後してメキシコを訪れて壁画に取り組んだ。それが近年発掘されて東京・渋谷駅の通路の壁面を飾っている『明日の神話』である。この壁画の主題は原爆によって生命を奪われる人々の姿である。1954年に南太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で被爆した第五福竜丸事件を題材した『燃える人』や『瞬間』と題した原爆の炸裂を描いた作品もあるように、岡本の主題には戦争や人間の死という文明の陰画が重く横たわっている。

〈原爆は今日の生活の最も大きな問題である。広島の最初の投下に遭遇したもの、また幾つかの実験に立ち会ったもの以外、ほとんどの人間がその実態を見てはいない。しかしその、見たことのない原爆は、人間の生活全体をゆさぶり、戦争の不安、死の灰、放射能雨、はては人類の破滅、地球の終末というように、われわれをおびやかしている〉

核の脅威の告発は20世紀の〈文明〉の先行きへ向けた岡本の避けがたい主題であった。長引くベトナム戦争で米軍の北ベトナムへの侵攻は、最新兵器による空爆によって夥しい死者と国土の破壊を繰り返していた。大阪万博が開かれたのはそのさなかであった。

1967年4月3日付の『ワシントンポスト』紙上に〈殺すな〉という日本語のメッセージを岡本が図案化して掲載した反戦意見広告は、〈文明〉という大義の下で行われる現代の戦争の悲惨と反人道性を告発している。万博から2年後の1972年にローマクラブが人口爆発や環境問題、資源の枯渇の深刻化など地球環境の危機を指摘して「成長の限界」の警鐘を鳴らした。岡本太郎が『太陽の塔』で提起した文明への問いは、次第に現実味を帯びて顕在化してくるのである。

テーマ・プロデューサーに岡本太郎を推薦した小松左京は万博の終了後、『日本沈没』という近未来小説を書いてベストセラーになった。日本が人口減に転じた近未来のある時点で、日本海溝に亀裂が走りだし、地殻変動による乱泥流に巨大地震が重なって日本列島が水没するという衝撃的な物語である。国民は次々脱出して国外に移住し、流浪の民となる。30年の歳月を経て東日本大震災を経験した現在から改めて読めば、その筋書きはあながち荒唐無稽とばかりはいえない。

丹下健三

丹下健三

岡本太郎

岡本太郎

岡本太郎は万博を終えたのち、成熟する消費社会のトリックスターの役割を引き受けてテレビCMなどメディアで活躍した。ウィスキーのCMで「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と自らデザインしたグラスに語りかけ、「芸術は爆発だ」と叫ぶ姿は岡本の生涯を最も簡潔に表現したものかもしれない。一方、丹下健三は1970年の岡本太郎との「対決」のあと、次第に活動の軸足を中東やアフリカ、東南アジアなどの新興国の都市計画に移し、日本の国家的なプロジェクトからは遠ざかった。バブル時代に手がけた新東京都庁舎はパリのノートルダム大聖堂を参照した「壮麗にして空虚」な構築とも評されたが、それが晩年の最後の仕事とみなされる。

かつてブルーノ・タウトによって見出された桂離宮は、丹下にとって建築における「日本」を考える上で生涯にわたる大きな主題であり続けた。それは1953年に東京・成城に建築した高床式の自邸に結晶しており、桂の開放的で審美的な内部の構成と畳やふすま、障子などのモジュールで特徴づけられる機能性は「何か緊張した空間と、比例が、何か生きもののように尚また生きているのを感じる」とも述べている。しかし、その主題はグローバル化とポストモダンの時代の波のなかへ埋没していった。

経済成長と技術文明の先行きへの信頼のもとで洗練された弥生的な日本美をモダニズムの拠りどころに求め続けた丹下に対し、岡本は縄文的なエネルギーと原初の人間の生命を日本の美の源泉ととらえて、その発掘を創造活動の中心に据えた。ライバルであり、同時代の同伴者でもあった二人が大阪万博における「対決」を契機に道を別かち、それぞれが新たな舞台に足場を移していったのは、グローバリゼーションの中で「日本」という国の姿が曖昧になり、やがてバブル経済の中で融解していったことと無関係ではない。

1970年の二人の〈対決〉に現場で立ち会った磯崎新によると、日本の近代建築史において「日本的なるもの」を巡る論争は30年周期で繰り返されてきた。

〈それを国内での論争とみると「我国将来の建築様式は如何にすべきや」(1910頃)、「帝冠様式論争」(1930頃)、「伝統論/民衆論」(1960頃)とほぼ30年サイクルであった。これを延長すると1990年頃となるが、その頃は二項対立した冷戦構造およびバブル経済の崩壊、そしてグローバリゼーションの進展という激変に逢遇して、論争の基盤までが崩れたために、目立った論争はない。その替わりに疑似日本風のデザインが大量に出まわり始める。日本へ回帰することへの自己規制が消えていた。論争が不能になったことは、「日本的なるもの」をイデオロギーとしてとりだすことが無意味になったのと同じことで、「日本」は単純にサンプリングの対象となるだけだった〉

1970年の大阪万博における丹下健三と岡本太郎の〈対決〉は、日本の〈成長〉の先行きを巡って二人の芸術家が国家プロジェクトを舞台に繰り広げた戦いであった。

千里丘陵にいま残された岡本太郎の「太陽の塔」は、その戦いを通して20世紀とその先の日本のゆくえを問いかけた黙示録である。

=連載「ジャパネスク」了

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む 6 柴崎信三

  • 2013年9月23日 10:33

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

6 〈邂逅〉について

     山本芳翠とジュディット・ゴーティエ

 山本芳翆「裸婦」(1880年,岐阜県美術館蔵)(左)  ジュディット・ゴーティエ(ナダール撮影、1880)(右)
山本芳翆「裸婦」(1880年,岐阜県美術館蔵)(左)  ジュディット・ゴーティエ(ナダール撮影、1880)(右)

 

 ジュディット・ゴーティエとはどんな女性だったのか。

 ナダールが撮影した肖像写真は1880年ごろとされているから、三十五歳の女ざかりである。左向きの横顔の眼は意志的で、鼻梁は一筋に伸びている。長く巻いた髪が肩までかかり、襟を開いた服で包んだ豊かな半身がゆったりと息衝くようである。

 詩人のボードレールや作家のゴンクールの寵愛を受けて育ち、文豪のヴィクトル・ユゴーやドイツの作曲家のリヒャルト・ワーグナーら、19世紀末を代表する晩年の巨匠たちと奔放な愛を結んだ才媛。著名な詩人・評論家だった父親のテオフィールの知性と、母親の歌姫エルネスタ・グリジの美貌とを受け継いで社交界に羽根を広げ、自らも東洋趣味の小説や詩などで文学的な才覚を開花させた、世紀末のパリの花。役どころをその頃流行した言葉で呼ぶなら〈ファム・ファタル〉、魔性の女ということになる。

 ゴンクールの手放しの賛辞がその「日記」に残されている。

 

 〈テオの娘は、不思議な美しさを持っている。白い顔はほんのりと薔薇色に染まり、象牙のような歯を覗かせた、くっきりとした口元。輪郭の美しい整った顔立ち、固い睫毛を持った大きな目。その印象は謎めいて捉え難く、眠り続けるスフィンクスのようだ……〉(木々康子訳)

 

 岐阜県の明智村という山深い僻村に生まれた二十八歳の日本人が、画家を目指して西洋画を学ぶために横浜を発ち、海路パリの地を踏む。維新からまだ10年あまりしかたっていない1878(明治11)年3月のことである。のちに山本芳翠の名で知られるこの若者は随員の松方正義に随行して、この年に開催されるパリ万博の日本政府事務局雇員という身分を得ており、かたわら徒手空拳で西洋画を学ぶ機会を求めて遥々パリの都へやってきたのである。ジュディットより5歳ほど若い、文字通り東洋からの異邦人(エトランゼ)である。

 ルイ・ナポレオンの第二帝政が普仏戦争の敗北で崩壊し、第三共和政のもとで復興に向かうフランスがこの年開いたパリ万博には、世界から36カ国が参加した。セーヌ川を挟んで日本庭園が作られたトロカデロ宮殿の本館にはエミール・ギメやサミュエル・ビングらが収集した日本の美術品が展示され、対岸のシャン・ド・マルス広場には巨大なパヴィリオンが設けられた。日本の陳列館には、輸入した陶磁器や漆器、象牙、螺鈿、織物、家具などの美術工芸品が入場者の目を奪い、抜きんでた人気を集めていた。

ちなみに、いまこの地に建つエッフェル塔はまだ立ち上がっていないが、ここでは世紀末の欧州を包んでゆくジャポニスムの波がすでに大きなうねりとなっていた。

 芳翠はそれから足掛け10年をフランスで過ごして帰国する。この間に描いた作品にはジュディットをモデルにしたといわれる「西洋婦人像」や日本人が初めて描いた油彩の裸体画といわれる「裸婦」、さらに留学中だった西園寺公望の監修で選んだ日本の和歌八十八首をジュディットが仏訳し、それに芳翠が美しい挿絵を付けて出版した豪華な詞華集『蜻蛉集』など、親密なつながりを裏付ける作品が残されている。二人はどこで合い知り、どうかかわったのか。そしてどんな世紀末の美の饗宴を持ったのか。

 

芳翠は厳(いか)つい、野性味あふれる風貌で、フランス語も片言しか話さなかったが、南画を基礎にした東洋的な画風のキゾチックな作品の味わいに加えて、持ち前の磊落で社交的な性格によって在留する日本人はもちろん、フランス人の日本(ジャポ)愛好家(ネズリ)たちともすぐ親交を深めるようになっていった。万博の日本政府事務局で働くかたわら、国立美術学校(ボザール)のジェロームの下で西洋画を学んだが、フォブール・サントノーレ通りに構えたアトリエはそうした内外の知友の梁山泊のような場所になった。

限られた素材で日本料理を巧みに手がけた。卵焼きや焼き魚などはもちろん、煮物に鰻のかば焼きや豆腐料理、さらには日本酒まで材料を調達して工夫を凝らし、かの地では味わえない一品にして振る舞うから、自ずと故郷の味を慕って日本人が集まってくる。

酒が好きで気分が高じれば得意の講談を即席で演じた。表裏のない性格は人に愛されて、異郷での人間関係を広げた。留学してきた書生から万博などで洋行してきた政府の高官や貴顕紳士まで、その客の幅はまことに広範であった。

のちに「日本洋画の父」と呼ばれる黒田清輝もその一人だった。法律を学ぶために当地へやってきた留学生の黒田が美術へ転向するのは、芳翠の慫慂によるものといわれる。

黒田は故郷の母親にあてた手紙で、芳翠のことを伝えている。

 

〈山本さんという人は面白いことをしじゅうしゃべっております。人を笑わせてばっかりいます。この人は自分で家を借りて居りまして、ばばのおさんどんを一人使っております。そうして毎日毎晩米の飯を炊き日本のおかずをこしらえて食べているそうです。日本の飯が食べたいときは皆この山本さんの家へ行って食べます。山本さんは大変お料理が上手です。まるで料理屋の頭領です〉(1884年8月28日付、原文すべて仮名書き)

 

やがて芳翠は本格的な日本料理店まで開いて内外の客を迎えている。のちに首相となり、元老となる青年公卿の西園寺公望も行政を学ぶためにかねて念願だったパリ大学に留学中の身で、しばしば山本の料理にあずかった日本人の一人だった。

パリに着いた時、ちょうど真っただ中のパリ・コミューンに遭遇した西園寺は、国家というものがいかにもたやすくその足場を失ってゆくかを目の当たりにした。そうしたなかで師であったエミール・アコラスやのちに首相となるジョルジュ・クレマンソーら共和派の友人たちと親しく交わる一方、ゴンクールやリストといった芸術家や中江兆民ら自由民権派の日本人らとも幅広い交友を広げていった。そうした舞台の下で、西園寺が日本公使館員だった船越光之丞の紹介で知り合ったジュディット・ゴーティエに芳翠を加えた三人による、東洋と西洋を結んだ奇跡のような〈美の邂逅〉が生まれるのである。

 

〈あふれ出る美しさをたたえた私の愛するひと。やさしい手紙をありがとう。あなたの身体の具合がまだ悪いとは、私の愛し方が少なすぎるのでしょうか。それは、私の愛があなたに対して十分な力を持っていない、ということですから。どうか、すっかり恢復するよう大事にして下さい。そして自分に自信が持てるようにしてください〉(ジュディットに宛てたリヒャルト・ワーグナーの1878年1月22日付の手紙、金沢公子訳)

 

芳翠がパリへやってくる年の初め、ジュディットはドイツのバイロイトからリヒャルト・ワーグナーのこのような恋文を受け取った。

その秘められた関係は、かれこれ10年にも及んでいる。しかし、この間に夫と離別して若い音楽家志望の恋人、ベネディクトゥスを伴うようになったジュディットに対して、ワーグナーの気持には陰りが広がりつつあった。この手紙はそうした二人のもつれた関係が破局へ向かう、愛の物語の終曲に相当する。ワーグナーはジュディットに対しこれ以降、手紙は妻のコージマを介することを伝えて、関係は途切れるのである。

若いジュディットが夫の詩人、カチュル・マンデスと作家のヴィリエ・ド・リラダンを伴って初めてワーグナーをルツェルンに訪問したのは1869年の7月である。「トリスタンとイゾルデ」の巨匠はたちまちジュディットの美貌と機知の虜になり、妻のコージマの目を盗んで熱い愛を手紙に認めるようになった。ジュディットもこれに応えた。輝かしい楽劇の巨人に憧れて接近してくる若い女の媚態と、自身の成功の足がかりを求める機略がまじりあった情熱の焔にあおられて、男は演奏旅行先の欧州各地で逢引を重ねた。

三十二歳も年上の高名な音楽家とジュディットが初めて結ばれたのは、第一回バイロイト音楽祭が開かれた1876年の夏である。四夜通して演じられる「ニーベルンゲンの指輪」に各地からやってくる賓客を迎えて連日の舞台や祝宴の熱気に包まれながら、主役の巨匠はジュディットの手をとって劇場を案内し、合間を縫って秘かに滞在先を訪ねては、東洋的な美貌を漂わせたこのフランス女性に憚ることのない老いらくの愛を告白した。

 

ワーグナーがジュディットに惹かれるきっかけは何だったのか。

明らかにされてきた二人の間の恋文には〈日本〉がキーワードとして浮かび上がる。

パリの骨董屋で見つけた日本の着物を買ってジュディットに贈り、それを着た恋人の姿を夢想する。妻のコージマへの贈り物として着物の着方について、手紙でジュディットに教えを乞う。ワーグナーにとってジュディットが醸し出す「日本」にまつわる情緒や知識は、いわばこの歪んだ恋をとりもつ〈芳香〉であったのだろう。

ジュディットは父のテオフィールの影響もあって、若い日から東洋と中国や日本の文化に関心を寄せていた。18歳の時に父親が知っていた中国人から中国語を学び、4年後の1867年にはフランスで最初となる中国詩の詞華集『翡翠の書』を出版するなど、東洋文明に通じたその早熟の文藻が知られるようになっていた。

1862年にロンドンで開かれた万博へ父のテオフィールとでかけたジュディットは、そこで出会った日本人を通して〈日本〉への関心を強めた。美術作品や工芸品など、当時流行のジャポニスムから得た知識が、伝統文芸や宗教など精神文化の由来にまで翼を広げていくのは必然であったろう。こうした背景の下でジュディットが西園寺公望に出会うのは、おそらくこのワーグナーとのもつれた恋が破局へ向かう時期と重なっている。

 

ゴンクールは「日記」でしばしば西園寺との交渉を記している。

 

〈今夜、ビュルティ邸で、公子西園寺は自分の趣味を驚かし且魅了したものが三つあると語った。その三者とは苺と、桜桃と、アスパラガスである。更に、彼は今でも寝言を日本語で云ったり仏蘭西語で云ったりするとも語った。そこで、何語で観念が形成されるのかを我々が訊ねると、彼は素直に、法律に関することや、人工的な事物は仏蘭西語の言い廻し方で思い浮かぶし、自然的な事物、恋愛に関する事などは日本語の言い廻し方で思い浮かぶのであると述べた〉(1875年5月3日付)

 

〈頃日、若き公子西園寺が、家重代の大小(打刀と脇差)をビュルティに贈った。これを贈るにあたって、公子はひどく損じているのは巴里で友達が三鞭酒(シャンパン)の口を切るのに用いた故であると言い訳をした。この素晴らしい、百錬の利刀がさりとは惨めにもなり下がったものである。私は小刀の刃に、見分け難い雲形の波を見つけた。この雲形といえば、公子西園寺はビュルティに自分の指の爪と爪とで極狭い幅を作ってみせながら、日本人ならば、こんな狭い幅の中に含まれた雲形の数を算え上げ、刀匠の銘を読み取る事が出来るといったとの事である〉(同年10月16日付)

 

フィリップ・ビュルティはそのころパリで美術評論と美術行政に力を持った人物で、西園寺がこうしたサロンでゴンクールやジュディットと相知るようになるのは、おそらく自然の成り行きであったろう。

こうして結ばれたパリの社交空間のなかで、シャンゼリゼからほど近いワシントン街31番地のジュディットのサロンに招かれた西園寺が、そこで日本の詩歌など伝統芸術や東洋文化に話の華を咲かせたのは、想像するまでもない。瀟洒なアパルトマンの室内は日本や中国の仏像や絵画が飾られ、毎週日曜日にはジュディットと親しい文人や画家、音楽家やジャーナリストらが集って談論は風発した。花々と紫煙とワインの香りに包まれたサロンの客のなかに、西園寺はいた。やがてそこに芳翠が加わった。

 

「サイオンジ、それではあなたは恋の夢を日本語で見ているのかしら。それなら夢に現れる古代からの日本の詩には、どんな恋が詠まれているのでしょう」

四歳年上のジュディットが艶めいて問いかけるのに、公子西園寺はどう答えたのか。

「日本は古来詩歌の国であったのですから、私の国の王朝びとの歌はみな、自然や風景のはかない移ろいに託して、自分の気持ちを表現したのです」

紀貫之の『古今和歌集』の〈仮名序〉をとりあげて、古代から連綿と続く日本の歌の精神を説く極東の若い貴族は、色恋の奥義を極めた達人のジュディットにどう映ったのか。

 

そうしたサロンのなかに、人懐こい不思議な魅力を持った若い日本人画家の芳翠が現れて、ジュディットを囲む日本趣味を通した人々の親密なかかわりが輪を広げる。

芳翠がフランスで学ぼうとしたのは、もちろん西欧の伝統のもとで発展してきた油彩画である。岐阜の山奥から横浜へ出てワーグマンや五姓田芳柳に西洋画を学び、工部美術学校でお雇い外国人のフォンタネージに学んだのも、それまで手がけてきた南画や北斎漫画の世界に飽き足らず、西洋画のリアリズムの逆らえない魅力に惹かれたからである。

ようやくやってきたパリで国立美術学校教授のジェロームの指導を受け、ルーブルへ通って模写を重ねるという勉強を始めたのだが、サロンで出会ったこうしたフランス人たちが憧れて求めて来るのはもっぱら、伝統的な花鳥画や艶やかな色彩と線描を生かした浮世絵風の日本絵画の流儀である。芳翠は西洋画の写実精神に向き合いながらも、引き裂かれるようにジュディットとその周囲が醸し出すジャポニスムの奔流に身を寄せ、捨て去ってきたつもりの日本の伝統美術の筆触やモチーフを披歴して喝采を浴びるのである。

パリの芳翠の最初の本格的油彩画として残されているのが、渡仏から二年後の1880年ごろ描いたとみられる「裸婦」(岐阜県美術館蔵)である。この作品は芳翠が西洋画家として描いた油彩画の実質的なデビュー作というだけでなく、そのモデルの同定や描かれた作品が日本へ戻る経緯、そして何よりも日本人の手になる最も古い油彩の裸体画という点でも、多くの謎と余白を含んだ物語を残している。

もとより浮世絵の美人画などに風俗として女性の裸体が描かれることはあっても、西洋美術のなかで理想化された裸体画(ヌード)の伝統を持たない日本にあって、芳翠はどのような経緯でリアルな女性の裸体画に取り組むにいたったのか。ルーブルで見た裸体画の名作に触れて模写を繰り返し、美術学校でついたジェロームから写実の基本としての裸体画についての教えを受けるといった場面は、もちろん想像することができる。

それにしても、一糸まとわぬモデルの女性を前にしてその姿を写すべく筆を運び続けるということ自体が、日本人にとってすでに大きな異文化体験であったに違いない。

実は芳翠の「裸婦」が現実のモデルをポーズさせたものでなく、ある種の〈模写〉で描かれたのち、特定のモデルの顔をあてたとする研究が明らかにされてきた。以下は鐸木道剛、三浦篤、古川秀昭氏らによる、この裸体画のモデルについての推理である。

芳翠の「裸婦」とほぼ同じモチーフ、構図の作品が同じ時代にやはりパリにいた二人の外国人画家によって描かれている。一つはユーゴスラヴィアの画家、ヴラホ・ブコヴァツの「横たわる若い女の裸像」(1880年)、もう一つはドイツの画家、エルンスト=―フリードリッヒ・フォン・リファルトの素描「裸婦習作」(1879年)である。

三人の画家は同じ時代にパリで美術を学んでいた同時代人だが、互いに接点があったかどうかは詳らかでない。しかし三作を比較してみると、芳翠の「裸婦」のモデルの顔だけが異なっている。つまり、同じモデルで描いた後の二作のいずれかを模写したうえで、芳翠がモデルの顔を描き変えた、という推測が成り立つ。

手掛かりとしての有力な接点は、リファルトの描いた「裸婦習作」が当時ルノワールら印象派の画家たちの作品や論評を紹介する舞台となっていた、パリの週刊誌「現代生活」の1879年5月15日号に掲載されていることである。なぜなら、その数週間後の6月26日付けの同じ雑誌に掲載されたフランス人のジャポニスム論の挿絵に、芳翠が日本女性の羽根つき姿を描いた素描を寄稿しているからである。寄稿を求められた芳翠が雑誌のバックナンバーを繰るうちに、リファルトの裸婦を目にすることとなり、それを模写して作品にしたという経緯は十分考えることができるだろう。

それならばなぜ、モデルの顔は描き替えられたのか。そしてそのモデルは誰なのか。

芳翠はこの作品を描いた二年後、代表作の「西洋婦人像」(東京芸術大学蔵)を描いている。こちらは着衣の若い女性の横顔を描いた華やかな肖像画で、モデルは渡仏後に西園寺を介して知遇を得たジュディット・ゴーティエであることがわかっている。「裸婦」のモデルの横顔はこのジュディットとよく似ており、その後の日本とフランスを結んだ美術と文芸を巡る二人の親しいかかわりを考えるとき、若い芳翠が異郷で知り合ったジュディットの成熟した魅力に惹かれて描き替えた、という筋書きは十分許される想像であろう。

模写を土台にした作品とはいえ「裸婦」は芳翠が日本人として初めて取り組んだ油彩の裸体画である。やはりパリに学んでのちに「日本洋画の父」と呼ばれる黒田清輝が描き、やがて戦災で焼失した「朝妝」が美術史上で日本初の幻の裸体画とされるが、それに先立つこと13年という作品である。師のジェローム譲りともいえる新古典派風の暗い緑の森を背景にして、モデルの肌はひんやりとした硬質の官能美を漂わせており、まなざしは草花に巣を架けた蜘蛛を見つめている。作者はそこにどのような寓意を託したのだろうか。

ともかく、芳翠が出会ったジュディットというフランス女性から受け止めた霊感によって日本で初めての油彩裸体画がここに誕生するのである。13年後に黒田清輝がやはりパリで描いて日本へ持ち帰った「朝妝」が1895(明治28)年4月、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に出品された際、「風俗紊乱」などとする世論の激しい反発にあい、その後の裸体画の展示では隠し布を腰の部分にあてがうなどの混乱を広げたことを考えれば、長く私蔵されていたために社会的に知られることが遅れた芳翠の「裸婦」は、これに先駆けた異文化を結ぶ記念碑的な作品ということができよう。

 

「ヤマモト、このゆかしい日本の詩情を再現するにはあなたの絵筆の助けが必要です。サイオンジが日本へ帰国するということなので、これはその餞にもなるでしょう。日本の古来の文芸の美しさを絵筆で描いて見せて下さい。楽しみにしていますよ」

前後してそのころ、日本の古い和歌を翻訳して美しい挿絵を添えた書物にする計画を巡って、ジュディットから示されたこのような求めに、芳翠はもちろん喜んで応じた。

西洋画の伝統に息衝く裸体画に向き合う芳翠のかたわらで、パリの美術界に広がるジャポニスムの波が〈日本〉という未知の世界の扉を開こうとする。

ジュディットが西園寺公望とともに日本の和歌八十八首を選んでフランス語に翻訳し、それに合わせて芳翠が美しい14点の挿絵と装丁を担当した『蜻蛉集』を刊行するのは1884年である。西園寺は1880年にパリ留学を終えて帰朝しているから、少なくとも芳翠が「裸婦」を描いたころには、この詞華集の編集が具体化していたのであろう。

この頃のジュディットは巨匠ワーグナーとの恋が翳りを来たす一方、父親のテオフィールが親しかった43歳年上の文豪、ヴィクトル・ユゴーとの間に、経済的な後見の見返りのような打算的な男女の関係を抱えるなど、奔放な暮らしはますます高じていた。

西園寺と芳翠、そして『蜻蛉集』のプロデューサーとして巻頭にジュディットが献辞を掲げたのちの駐仏公使、光妙寺三郎らと結んだ日本とフランスを繋ぐ「美の共同体」の成立は、こうした激しい愛の情念の奔流のなかで「東洋」に恋した「魔性の女」の磁力を抜きにしては語ることはできない。

 

『蜻蛉集』(POEMES DE LA LIBELLULE)の表紙は空色の厚紙で、鰐皮の浮き出しに芳翠の筆による笹の葉と蜻蛉の絵が描かれている。もちろん、このタイトルは神武天皇が大和国の山上から国見をした際、その形状が蜻蛉の交尾する姿に似ていたことからこの国を「蜻蛉島」と呼んだという故事に由来する。

 

      POEMS de la Liballule par JUDITH GAUTIER

      Illustré par YAMAMOTO

 

このような表紙のあとに蜻蛉と菊の花を描いた日本画の見返りがあり、蜻蛉の4枚の羽根が短冊形になっていて、そのそれぞれに「蜻蛉集」「千八百八十四年春」「じゅじつとあらはす」「山本画」という日本語が示され、同じ意味のフランス語のあとに〈日本天皇参与 西園寺の手になる直訳に拠ってジュディツ・ゴオチエが日本語より訳したる“蜻蛉の詩篇”〉というフランス語の記述が目を惹く。

 

〈こよなく君の愛で給う/大和島根のもろもろの花/ここに集めて捧げまつる。/涙しげきこの国に/おぼつかな 香ぐわしきそのこころは、色は。 ジュディツ・ゴオチエ〉(高橋邦太郎訳)

 

『蜻蛉集』の巻頭にフランス語で掲げられたジュディットの献辞は、西園寺と同じパリ大学の留学生仲間であり、帰国後代議士となった光妙寺三郎に宛てられている。

『蜻蛉集』は古今和歌集に選ばれた歌を中心に、勅撰集からの選歌が大半を占めるが、冒頭に紀貫之による古今集の「仮名序」がジュディットの仏訳で掲げられている。「やまと歌はひとの心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりにける」という、和歌の本質を簡潔に述べることで王朝文芸の精神を説いた、よく知られる序文である。

おそらくは西園寺の監修で抄訳したものをジュディットがフランス語で書き改めたとみられる。こうした共同作業は全体の選歌とそれぞれの歌の仏訳でも踏襲されたとみられ、西園寺の下訳をジュディットがフランス語の語感や韻律を踏まえて五行詞に置き換える、という手続きがとられて、二つの訳を並置する構成で全巻が貫かれている。

例えば「新古今集」から選ばれた紫式部の

 

〈北へゆく雁のつばさにことづてよ雲のうはがきかき絶えずして〉

 

については、ジュディットの仏訳のあとに西園寺の直訳的な下訳が付されている。

八十八首の選歌については著しい特色がある。古今集(三十三首)、新古今集(十八種)、拾遺集(九首)、御撰集(五首)など、王朝期の勅撰集から選んだ作品がほとんどで、万葉集からは一首も選ばれていない。詠まれた歌の季節は圧倒的に春が多く、その主題も「花」に集中している。これは収録する候補として西園寺が挙げた歌が、すでにそのような傾向で選択されたものであったともいえるし、ジュディットの好みが春と「花鳥」や「恋」などに強く傾いていたことの表れともいえる。

 

〈見ずもせず見もせぬ人の恋しきは文なく今日や眺めくさらむ〉(在原業平)

〈君こふるなみだしなくばからごろも胸のあたりは色もえなまし〉(紀貫之)

 

こうした八十八首の歌に付されたのが、芳翠の描く八点の彩色された挿絵である。「飛びかう蜻蛉の図」「女性が川水に手を差伸べる図」「競馬を見る男女」「女性が鸚鵡に語りかける図」「蝉丸像」など、鮮やかな色彩が施されたやまと絵風の画面には、それぞれの歌に合わせた画賛が書き込まれている。定型詩歌という日本の伝統文芸がフランス語と交響し、それに芳翠の絵筆が融和した、希有の造形というべきであろう。

 

『蜻蛉集』は刊行後にジュディットの周辺の日本(ジャポ)愛好家(ニザン)らに所蔵されたが、広く知られることがなかった。1917(大正6)年にジュディットが72歳で没したのち、屋敷の書庫から200冊ほどの艶やかなこの詞華集がみつかり、日本でも知られるようになった。

 

芳翠は『蜻蛉集』が出版される前年の1883年春、米国人画家のジョン・S・サージャントを伴ってブルターニュの海岸に面したサン・テノガの別荘に蟄居するジュディットを訪ねた。この頃、ジュディットは若い愛人のベネディクトゥスとも別れて喧騒の渦巻くパリを離れ、この地の瀟洒な館に過ごす日々が増えていた。身近にいるのは晩年をともにした若い女友達のシュザンヌ・メイエール・ジュンディルだけである。

すでに西園寺は祖国へ帰った。芳翠はサージャントとともにこの別荘で過ごしてジュディットと親しく日本の文化や伝統についての議論を交わし、いくつかの創作にも取り組んだ。この時サージャントとともに描いたジュディットの肖像画は、いま行方を知らない。

ジュディトはここで、若い日の情熱を傾けたあのワーグナーの「パルシファル」を翻訳し、土地に根付いたケルト神話を調べるなどして、ひっそりと晩年を過ごした。それでもドーバー海峡に面したゆかしい館の別棟として建てられた「煙草入れ」と呼ばれるアトリエには多くの芸術家が滞在した。作曲家のドビュッシーはここで、嵐に見舞われた海峡を見つめながら「海」を作曲したといわれる。

芳翠がその「煙草入れ」の板張りの内装に描いた装飾画が残されている。「竹に雀」「鷺」「梅に錦鶏」といった日本的な装飾壁画は、ジュディットへの深い謝意でもあったろう。

 

西園寺が帰国したのちも、ジュディットは芳翠と独特の友情を持続したようである。

『蜻蛉集』を出版した翌年の1885年4月、ジュディットと屈折した愛憎をとり結んできた文豪、ヴィクトル・ユゴーが83歳の生涯を閉じた。父親のテオフィ-ルを亡くしたのち、心身ともに困窮したジュディットを助けて年金の受給を手配するなど、父親に代わって生活を支えたことの見返りのような、43歳も年長の文豪との屈折した愛人関係は境涯にわたって続いた。5月23日に没したユゴーの葬儀の情景を芳翠が「ヴィクトル・ユゴー葬送図」に描いたのは、ジュディットとのかかわりを措いてありえまい。

芳翠は1887年5月に10年近くにわたる滞仏生活に区切りをつけて帰国するが、文豪の死後もジュディットが芳翠をまじえてユゴーの一族と親しい交わりを続けていたことを、『林忠正とその時代』(木々康子著)が記している。

 

〈親しいお友だちへ。今、私は山本の家から書いていますが、あなたの用件を彼に伝えているのです。あなたは一〇〇フランで(商売抜きの値段で)白い絹地のすてきなカケモノを一枚手に入れるでしょう。あなたの望むもの、好きな品物を直接彼に書いて下さい。彼はすぐに取りかかるでしょう。愛をこめて。ジュディット・ゴーティエ〉

 

〈親しいお友だちへ。山本に関しては、はっきりしたことを引き出すのは容易ではありません。というのは、彼は笑ってばかりいるのよ。けれども多分あなたが一五〇フランも出せば、彼は大変満足するでしょう。もっとも、彼はいつも機嫌がよいのだけれども。土曜日に、ヴァックリー(ユゴーの長女レオポルディーヌの夫で劇作家。ユゴーの息子たちの雑誌『事件』の編集長)の家でお会いしたいわ。心をこめて。ジュディット・ゴーティエ〉

 

これらは親しかったユゴーの孫の妻、ポリ―ヌ・メナール・ドリアンにあてて、求められていた芳翠の掛け軸の入手や水彩画の個人指導をとりもつ手紙である。のちに芳翠はポリ―ヌに「芳林」の雅号を与えている。

 

ジュディットは1888年に既に帰国した西園寺公望への献辞を掲げた『微笑を売る女』という戯曲を刊行している。〈ヤマト〉という侍が〈翡翠の心〉という芸者を妾にしたことから家族が崩壊し、孤児となった息子の〈イワシタ〉はやがて〈マエダ公〉の養子となって成人する。その恋した相手が実は〈翡翠の心〉の娘だった、という悲劇である。

荒唐無稽ながら濃厚なオリエンタリズムに彩られた物語はパリで人気を集め、その年にオデオン座で百回以上にわたって上演された記録がある。西園寺はもちろん、芳翠も既に祖国へ帰国している。ジュディットが残した〈日本の物語〉の終章である。

                                 =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 4 柴崎信三

  • 2013年7月23日 09:54

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

4 〈豊饒〉について

     「ツマリマセンネ」―六角堂の岡倉天心

 

再建された五浦六角堂(2013年)

再建された五浦六角堂(2013年)

 遠く、海はささやくような波に輝いている。

初夏の陽光は凪いだ海に照り返り、眼下の太平洋から伝わる熱気と風のざわめきが岬にしつらえられたこの小さな空間にも伝わる。熱を孕んだ一陣の風が堂宇を吹き抜ける。

〈私は何を求めてここへやってきたのだろう〉

東京美術学校(現東京芸大)の校長という自らの立場をめぐって、東京の美術界で繰り広げられた抗争で窮地に立った岡倉天心は、公職を追われて遥か茨城県五浦の海岸に自らの美の拠り所の日本美術院を移し、その岬の突堤に六角堂という小さな庵を設けた。

豊饒に輝く太平洋の波頭を見つめながら、蟠るおのれの情念に向き合う、まことに私的な祈りの聖域(アジ―ル)であった。この朝も、ひとりここに座して海をみつめているうちにしばらくまどろんだ。母親の胸に抱かれたような、幸福なまどろみだった。

いまは日課になったように、昨日も船を出して沖合で釣りに興じた。前夜、晩酌をしながら釣り道具を整えて、翌朝は読みかけた本を携え、漁師の千代次とともに船に乗る。

筒袖の道士服のような衣に、烏帽子風の被り物、草鞋履きで手には釣り竿と魚(び)籠(く)を持っている。自身を流謫の身になぞらえて演じる、東洋的(オリエンタル)な隠遁者の姿と呼ぶべきなのか。人影のない海辺でその異形はひときわ目を引くが、それこそが天心の境涯を貫くダンディズムであり、世界への眼差しの表現でもあった。

盛んな夏の海の照り返しを受けて、肌を刺す陽光が降り注ぐ小舟の上から沖合を眺めていると、手元の釣りざおが鋭い反応を見せた。アジ、サバなどとともに、宝石のような模様のシマダイがかかることもある。釣りに飽きると船上では持ち込んだ本を読んで、一日は過ぎた。昼寝をして自宅へ戻れば、また酒になった。

四十路も半ばになる。横山大観や菱田春草ら若い同志の日本画家を引き連れた五浦の暮らしを「都落ち」と嗤う声が、時折都から聞こえてくる。六角堂に身を置くとそんな憂さも清められて、黙想は過ぎ去った遠い風景や美しいものへのこころよい追想をよびおこし、秘めやかな乾坤(けんこん)が立ち上がるのである。

 

それにしても、見渡す海に突き出した景観の奇想にあふれた自然に比べれば、この小さな構築は六角形の鮮やかな朱塗りの外観を除くと内部はまことに装飾性に乏しく、あたかもそれが設計者の頑な意思に貫かれているようにさえみえる。

広さはわずか三坪、すなわち10平方㍍余りの庵を、天心は「観瀾亭」と名付けた。

奇抜な六角形の建物は、八角形をした法隆寺の夢殿から想を得た。私淑したお雇い外国人、アーネスト・フェノロサとともに古来不出の秘仏を千年の眠りから目覚めさせた、天心にとっての美の故郷であり、理想(アルカ)郷(ディア)とも呼ぶべき場所である。とはいえ、設計はその八角形が六角形となり、茶の湯を楽しむための開放的な茶屋の要素を色濃くした。

居宅とあわせて設計を請け負った地元の大工の小倉源蔵は、宮大工など伝統建築についての格別の知見を持った職人ではない。それゆえ、六角堂の外観も内部もおよそ天心の意匠をそのままかたちにしたものといっていい。

擬宝珠を頂いた瓦葺きの方形造の屋根が6つの面をなし、それを一辺の幅がほぼ2㍍ほどの壁面で支えている。そのうち海へひらいた4面にはガラス窓がある。外側には朱色の庇が張り出し、紅殻色の板張りの外壁と鮮やかな調和を生んでいる。

畳敷きの部屋の内部からは、大浦と小浦の断崖を左右において、眼下に初夏の陽光を映した太平洋の穏やかな波頭が窓越しに広がる。

室の中央には六角形の炉が切ってある。窓には内側に鴨居と敷居があって障子を立てることもできたから、まれに訪れる客を招いて海から吹きくる風にそよぐ松籟の音を伴侶にしながら茶をたてることもあった。

 

蝉雨緑に霑(うるお)う松一村

鷗雲白く漾(ただよ)う水乾坤

名山斯処詩骨を託す

滄海誰が為に月魂を招く

 

漢詩の『五浦即事』で天心は五浦の景観をこのように讃えた。

 

土壁とにじり口で閉ざされた数寄屋の茶室の、様式的な空間でたてる茶とは違って、海に向かって自然に放たれた六角堂のおおらかな茶の湯は、世俗の塵埃にまみれてたどりついた天心の心の傷を癒すのに相応しい舞台ではあった。

 

「この海原の彼方に、あのアメリカがある」

 

潮の香りを運んでくる白南風に身をまかせながら、天心は遥か彼方から若い日の一年余りに及ぶ欧米視察旅行から帰国する途上の、太平洋航路の遠い記憶を思い起こしている。

そもそも我が身の流転の端緒は、あの帰途の船上の日々の出来事にあったのだから。

 

祖国へ帰るアーネスト・フェノロサとその家族ともに、24歳の天心が横浜から米国船〈シティ・オブ・ペキン〉で欧米視察の旅の途に就いたのは、1885(明治19)年10月2日のことである。日本の美術品の収集家で修復保存の支援者でもあったウィリアム・ビゲローや画家のジョン・ラ・ファージらも同道した。

文部官僚だった天心が、国立の美術学校や美術館の設置などで「美術行政の一元化」を打ち出して時の文相、森有礼に建言したことから、文部省が美術取調委員として天心とフェノロサに9ヶ月間の欧米視察を命じたのである。

若い血気が漲る、洋々たる異郷への旅であった。

再三にわたってフェノロサとともに京都や奈良の寺社をめぐり、廃仏毀釈運動の下の荒廃のなかで「開けば落雷がある」と扉を閉してきた法隆寺の夢殿を開扉させて、秘仏の救世観音像のまばゆい姿を目の当たりにしたのは二年前である。それ以降、日本美術の心酔者であったこのお雇い外国人をいわば西洋からやってきた日本文化の後見人として、明治政府の欧化主義の影に埋もれていた日本の伝統美術を正統に復することで美術教育と美術界を主導するという、天心の文化官僚としての野望は着々と奏功していた。

一行は太平洋を渡ってサンフランシスコに上陸したのち、ボストンやニューヨーク、ワシントンで歓迎を受けた。年が明けてから大西洋を越えて欧州へ渡り、フランス、イタリア、スペイン、オーストリア、英国などの各国の美術館や博物館はもとより、国家や産業界と文化行政のかかわりまでを丹念に調査、視察した。一年余りに及ぶ、夥しい任務を帯びた長い旅であった。

帰途、天心は再び米国へ立ち寄り、かつての文部省の上司で米国駐在の特命全権公使としてワシントンにあった九鬼隆一を訪問する。

摂津三田藩から文部省に入り、木戸孝允や大久保利通といった元勲の知遇を足がかりに、若くして文部少輔、つまり事務次官へ栄達を遂げた。さらにやがて男爵の爵位を得るという人物である。欧化路線の森有礼に対抗する国粋派の文部官僚であり、腹心ともいうべき立場であった天心にとっては、その縁で出世の階梯に導かれ、一方でその昵懇なまじわりが後の自身の曲折に満ちた歩みと深くかかわる、運命的な絆で結ばれた人物である。

天心は三つ揃いの背広姿で横浜を出発したが、船上でインド人の相客がターバンやサリーなどの民族衣装を堂々と身につけているのを目の当たりにして、考えを改める。

米国や欧州の地で外国人を訪い、あるいは官庁や美術館の視察など、人目に触れる場面では、常に三つ葉かたばみ五所紋という、家紋の入った羽織袴姿でのぞんだのである。

流入する西洋文明の香りに満ちた横浜の居留地で育ち、母国語のように流暢な英語を話すこの若い日本人の奇抜な自己演出は、思惑通り欧米の各地で人々に強い印象と話題を提供した。ところが、帰途ワシントンの日本公使館を訪ねた折、天心の古風な紋服姿を認めるや、九鬼は一喝した。

「なんだ、その格好は」

「『郷に入っては郷に従え』という言葉を知らんのか」

怒気を含んだ声が返って来た。

いま振り返れば、あの姿も祖国の伝統文化を西洋に誇示しようという、若い日の気負いの現れであった。

 

もっとも九鬼の苛立ちは、若い天心が仕組んだ場所をわきまえない時代錯誤のいでたちばかりに原因があったのではない。日本から伴ってきた妻の波津子が、心身の不調を訴えて取り乱す日々が続き、帰国を強くのぞんでいたからである。

「折り入って相談したいことがある」

久々にまみえた若い腹心の部下に向かって、九鬼は声をひそめて言った。

「異郷の暮らしになじめない家内が心身を損ねて、先に日本へ帰りたがっている。貴君が帰途に同道してやってくれはすまいか」

天心に否やはない。

二人の子供をかかえ、「言葉も通じない国で外交官の妻として社交の場にのぞむことなど到底できません」と、もともと同行に消極的だった波津子であったが、ワシントンの公使館など社交の場にのぞむようになると、その美しさと控え目で淑やかな振舞が地元のメディアなどでも知られるようになった。

 

〈日本公使夫人は美しい。(略)九鬼夫人は英語を習得しようと果敢に奮闘中であるが、火曜日夕、公使館で催された見事なパーティーの席上、招待客に英語で挨拶した。顔色はつやつやしたオリーブ色で、頬には赤味がさし、非常に整った顔立ちをしている。淡いローズ・ピンクのヴェルヴェットとサテンのドレスはブルネット・タイプの夫人にはまさにぴったりのものだった〉(1885年2月6日「ハーバーズ・バザー」紙)

 

もともとは京都の花柳界の出身という。「若々しく、愛らしい。細身で、姿勢もよく、生き生きとした表情をしている」といった波津子の評判は、ワシントンの社交界に広がっていた。イラスト付きでその可憐な佇まいを伝える記事もあったが、やがてそれはこの東洋からやってきた美しい公使夫人が心身の変調を来たし、夫に先んじて帰国することを伝える内容に変わる。波津子はその時、ワシントンで生まれた幼子を連れた上、のちに哲学者となって『「いき」の構造』で知られる三男の周造を身ごもっていた。不安をかかえる帰路のエスコート役を引き受けたことが、後の天心の歩みに大きな影を落とすのである。

1887年9月、サンフランシスコからの海路は平穏であった。フェノロサ一家や公使館の書記官ら同行者とともに、長い欧米視察の成果を抱えた天心は帰国後の前途に大きな野望を温めながら船上にある。太平洋を横断してゆるやかに進む船上のデッキで三つ揃いの背広に装いを改めた若い天心に向き合うと、多忙にかまけて家庭を顧みずに奔放な女性関係の絶えないない夫のふるまいや、慣れない異郷の社交の場をとりもつことに疲れきった波津子は、久々の祖国が近づくにつれて次第に屈した心を開いていった。

「西洋の暮らしは何かと窮屈であられたでしょう。どうぞ、心を寛がせて下さい」

天心はそう語りかけながら、穏やかな初秋の海を背にして緩やかなワンピースに小柄な身を包んだ波津子に、眼差しを注いだ。

「お手間を取らせて申し訳ございません。無理にご一緒していただいてしまって」

若くしてすでに妻帯していた天心が、この米国からの帰路の船上で波津子への最初の愛情を育てたかと言えば、それはおそらくまだ同情という性質の感情であったろう。

 

天心の生涯に繰り返し噴出する、女性に対する柵を突き破るような不埒とも呼ぶべき情動の由来を、どこに探るべきなのか。これは、近代の日本文化のプロデューサーとして毀誉褒貶のうちに生涯を閉じたこの人物が遺した、大きな謎と呼ぶにふさわしい。

幼くして母を失ったことは、憧れが高じて堰を切ったような女性への没入を抑えることができない、この男の無頼のひとつの要因ではあったろう。天心の人生の折々にあらわれそれはしばしば、不倫や頽廃、そして時に迸るような女性への讃仰のかたちをとった。

波津子と天心が常軌を逸脱したような激しい恋愛関係に陥り、それが社会から醜聞として問われるようになったのは、米国から太平洋の船旅で帰途を共にして帰国してから10年ほどの歳月がたった時期である。

帰国後、天心は強かな行政手腕を駆使して官途を上り、東京美術学校の開設にあたった。

下山観山、六角紫水、横山大観ら、のちに野に下りて主宰する日本美術院を支えることになる若い才能を迎えて開校にこぎつけると、その翌年の1890(明治23)年には28歳という若さで自らこの日本で初めて生まれた美の学府の校長という顕職にのぼるのである。

脱亜入欧政策の下でグローバル化の道をすすむ日本にあって、西洋絵画の〈輸入〉に腐心する洋画派や日本画の守旧派を退けて、伝統に寄り添った新たな国粋美学を行政と画壇の中心に据えるという天心の戦略は、ここでも外連(けれん)に満ちたかたちになって現れる。

そのひとつは、天心が採用した東京美術学校の異形の制服である。

風俗史の教授である黒川真頼がデザインしたというこの制服は、天心の発案で天平時代の朝服を範にとって造られた。上衣は羅紗で作られた武官の闕腋袍(けつてきのほう)に筒袖で、袴は表袴の裾を紐で括った。靴は麻鞋で帽子は折烏帽子に似た天平風の代物であった。

明治の半ばとはいえ、洋服と洋髪の時代である。古代まで遡ったこの制服に学生はもちろん、当時の教員たちも不評の声をあげたが、天心は有頂天であった。

根岸の自宅からこの制服で愛馬にまたがり、上野の学校までの道のりを通った。天心は文化官僚として美術史や日本文化について多くの著述を残したが、理念の図像化、いわばプロデューサーとしてのこうした自己演出は最も得意とするところであった。

とはいえ、「日本美術史」などの講義のかたわら美術雑誌の『国華』を創刊し、合間にぬって帝国美術館の委嘱で中国美術調査旅行に出かけ、はたまた帰国した九鬼の下で古社寺保存に取り組むという多忙な重職にありながら、妻の元子と別居した天心の私生活は荒んでいた。原因は波津子との道ならぬ情交である。

長男の岡倉一雄がそのころの父の姿を描いている。

 

〈愈々仲根岸四番地を引き払つて、谷中初音町の新宅へ移転する数カ月の天心は、不羈とも放縦とも、言はふなき狂態に終始して、全く世間の軌道を踏み外してゐた。だらしなく袴を後ろ下りに穿いたまま、深夜の坂本通りを目的もなく彷徨(さまよ)ひ歩き、酒家を叩いて升酒を仰いだり、宿酔ひ未だ醒めやらぬ面を美校の校長室に晒すことも、決して一再には止まらなかつた〉(岡倉一雄『父天心』)

 

波津子は天心に伴われて帰国してのちも、夫の九鬼との不和とそれに伴う心身の不調が続いた。渡米前から九鬼の漁色は止むことがなかったが、その対象は花柳界から雇い人の娘まで、選ぶところがなかった。それが波津子の病の悪化の原因でもあった。

やがて別居を望んで移り住んだ根岸の御行の松のそばの瀟洒な中二階の家は、天心の住んでいた旧居とは指呼の間である。10年前に太平洋航路でともに帰国した波津子が、年下の天心を頼って寄る辺ない日々の光明を探る心の動きと、波津子の別居で温めたかつての同情と憧れが蘇り、天心の心が激しい恋情に移ろうのとは、どちらが先であったのか。

九鬼が世間体を慮って波津子に設えた御行の松の「中二階の家」は静寂だった。波津子は日中、琴と書と生け花に親しみながら過ごした。天心はしばしばここを訪れた。夕刻、雪洞の灯がともされた中二階の奥の間で、天心は波津子の酌を受けながら酔いに身を任せた。至福のひと時であった。

幼い周造は母の膝に凭れながら、この時折訪れる伯父さんの面白い話に聞き入った。

 

「周造は虎をみたことがあるか。伯父さんは朝鮮を旅したときに山の中で本物の野性の虎に出会ったことがあるぞ」

「君は通学に驢馬を使うといい。お父さんに買ってもらいなさい」

 

天心は周造を美術学校に連れて行ってモデルにし、橋本雅邦に幼い肖像を描かせた。筑波山へ狩猟に連れて行ったこともある。まことに父子のようなまじわりがあって、周造はひところひんぱんに母を訪れて来る天心を自分の実の父と疑ったことさえあった。

 

〈東京美術学校は世の希望をいれず、東西両洋とも目下多数の美術家が唱道せる学説あるを排斥し、あえて一種の奇僻たる志想を以て生徒を教養し、ますます怪物的の製作を出さしめ、美術自然の発達に背馳し、大いにその進歩を障礙せり。その校長たる岡倉覚三なるものは一種奇怪なる精神遺伝病を有し、常には快活なる態度を以て人に接し、また巧みに虚偽を飾るも、時ありて精神の異状を来すに及びては非常なる残忍の性をあらわし、また獣欲を発し、苛虐を親属知友に及ぼし、人の妻女を強姦し、甚だしきはその継母に通じて己が実父を疎外し、怨恨不瞑の死を致さしむる〉

 

「築地警醒会」なる名前でこうした天心の乱脈な私生活を指弾し、東京美術学校の刷新を迫る怪文書が関係者に送りつけられたのは1898(明治31)年3月のことである。

天心の腹心だった美術学校図案科の教授、福地復一が中国視察で校長が不在だった折の専横を周囲から問われ、管轄する九鬼の差配で退職に追い込まれたことを恨んで、天心の排斥運動を仕組んだのである。もっとも、そこには天心が仕切る西洋画を排除した美術行政への不満が美術界に渦巻き、校長の私行上の乱脈をあげつらうことで局面を逆転させたいという思惑が背後にあって、その勢いを恃んだことはいうまでもない。

それにしても、ここに及んで九鬼までもが天心の独断専横をとがめるのはなぜか。

身から出た錆という。放縦に身を委ねているうちに流れは変わったのである。

天心は美術学校校長を辞することを決意した。

若い教官たち、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら天心を支えてきた17人が「不当な排斥」を憤って「連訣退職」を求めてついには免官となった。

立場をわきまえない、女性への憧れと没入という天心のエロスの衝動こそ、〈官僚天心〉の脆さの証明であった。

 

〈谷中鶯 初音の血に染む紅梅花

堂々男子は死んでもよい

奇骨侠骨 開落栄枯は何のその

堂々男子は死んでもよい〉

 

自ら手がけた東京美術学校を追われて下野した天心は、その年の秋に東京・谷中に「日本美術院」を発足させる。橋本雅邦、下村観山、横山大観ら、天心の理想と志を恃んで東京美術学校を連訣退職した26人の同志が参加する「美の共同体」である。

その発足に際して同人たちが作ったというこの俗謡は、ほとんどニヒリズムに接した気分が横溢しており、当時の天心らのメンバーが抱える空気を伝えている。

 

新たな拠点とした日本美術院は官立の美術学校とは異なる在野の一研究所にすぎない。

新しい日本画の勃興を掲げて、西洋画の写実主義を超えた「空気を描く」という理想を追求する天心という指導者を得たことで、その設立の経緯への関心も手伝って当初は同人たちの作品が社会的にも大きな反響をもたらした。

ところが、やがて日本絵画の伝統的な線描を否定し、西洋画に流行していた印象派の手法を取り入れるなどした折衷的な〈日本画〉は不評を招き、「朦朧派」などと手厳しい批判を浴びるようになった。

同人の中には美術学校からの働きかけに応じて教員に復帰する者もあらわれる。作品の売れ行きの不振はたちまち、美術院の経営を逼迫させ、天心はまたまた窮地に立たされる。

 

このような身辺の激動に見舞われていた天心がしばしば身を寄せた、上根岸の「中二階の家」に住まう波津子がその頃、どうしていたのか。

美術学校校長の辞任と日本美術院発足という波乱のなかでも続く頽廃(デカダンス)の日々を周囲が心配し、説得に応じてようやく天心が波津子のもとを離れ、妻、基子の住む自宅へ戻ることを決意するのと前後するように、夫の九鬼隆一と別居生活を続けてきた上根岸の波津子の精神の乱調は高じた。自宅へ出向いて天心の妻の基子と諍い、はたまた自ら出奔や奇行に及ぶことが頻繁となった。こうしたことから天心が怪文書事件で美術学校校長の座を降りて2年後の1900(明治33)年、夫の九鬼は帝室博物館館長の職を辞したうえで、とうとう波津子との協議離婚に踏み切った。

一人身の孤独をかこつことになった波津子の病勢はひときわ改まり、虚言や妄想が絶えることがなくあらわれるようになる。ついには1902(明治35)年、波津子は精神医療を専門とする東京府巣鴨病院に入院する。爾来1931(昭和6)年に七十一歳で没するまで、病室から出ることはなかったといわれる。

公私の場面を問わず、現実が思うに任せないまま窮地に立つと、責任を放棄してそこから逃げようとするのが天心の拭いがたい悪癖であった。その逃避の対象となるのが身近な女性であり、また遠く異国の地であった。

あまつさえ天心は東京美術学校の校長職に在ったこの間、家事手伝いにきていた異母姪にあたる若い娘と関係を結び、男児を産ませるという背徳を犯しているのである。波津子の精神の錯乱の原因が直接には夫の九鬼の放蕩にあったにせよ、その隙間に天心が寄せる出口のない泥沼のような愛欲が高じさせことは容易に想像できる。

 

波津子の悲劇をよそに1901(明治34)年、天心は日本美術院の窮地を逃れて今度はかねてから関心を深めていたインドへの旅に出る。ここでは世界的詩人のラビーンドラ・ナート・タゴールと親しく交わり、ベンガルの志士たちと西欧の植民地支配からのアジアの解放について熱い意見をかわした。

 

〈アジアは一つである。二つの強力な文明、孔子の共同主義を持つ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることはできない〉

 

のちに対外侵攻へ向かう日本が掲げたアジア主義のスローガンとして引用される『東洋の理想』のこうした主張は、この旅が書かせた天心一流の文化的な扇動文芸として、内外に知られるところとなった。

天心は一年にわたるこのインド周遊やその後の再度の米国歴訪のなかでも、新たな心のよりどころとなる女性を見出して偶像と仰ぐことになる。ラ・ファージの紹介でボストンに訪ねた富豪の美術評論家のイザベラ・ガードナーとインドの美貌の女流詩人のプリヤンバダ・デヴィ・バネルジーである。

なかでもプリヤンバダへ寄せるほとんど鑽仰に近い愛には、天心の失意の晩年の痛ましい情念が反映されているかのようである。

 

プリヤンバダはベンガルの名家に生まれた美貌の女流詩人で、詩聖タゴールとも血をつなぐ才媛であった。天心はインド周遊の折にカルカッタで招かれた席で初めて出会ってから、激しい思慕を募らせる。その帰途、そして再び滞在した米国のボストンや帰国後に日本美術院の拠点として移り住んだ茨城県五浦から、プリヤンバダにあてて夥しい情熱的な書簡を送り続けていたことがわかっている。

 

〈結局のところ、私の悲哀は、私のとりわけ気に入りの娯しみらしく思われます。私は孤独の中に逃げ込んで、秘かに祭りをくりひろげるのです。私の過去は、触れることもできない理想、むなしい憧憬を追っての、長い闘争でした。そして今、私はぼろぼろになり、疲れはて、しばしば長い眠りだけを欲する状態で放り出されています〉(1913年3月3日付、ボストンから)

 

こうした自己憐憫に、プリヤンパダという新たな偶像へ向けて一途な同化を求める、晩年の天心の子供のような甘えの心を認めるのはたやすいことであろう。

 

〈奥様/何度もペンをとりましたが、驚いたことに何ひとつ書くことがありません。すべては言い尽され、なし尽されました―安んじて死を待つほか、何も残されていません。広大な空虚です―暗黒ではなく、驚異的な光にみちた空虚です。炸裂する雷鳴の、耳も聾せんばかりの轟音によって生みだされた、無辺際の静寂です。私はまるで、巨大な劇場にたった一人で坐り、みずから一人だけで演じている絢爛たる演技をみつめる王侯のような気分です〉(1913年8月2日付、五浦から)

 

これは天心が認めた、最後の女性への恋文と呼ぶべきであろう。

 

六角堂が構築されたのは、天心が横山大観や菱田春草、六角紫水らを伴い、ボストン美術館の招きで一年余りの米国旅行から帰国した1905(明治38)年の6月である。

鄙びた五浦に暮らしの場を移した天心が、日本文化を世界に問うことになる英文の『茶の本』を米国ニューヨークで刊行したのはその翌年である。

 

〈やさしい花よ、星の涙滴よ、園に立ち、露と日の光をたたえて歌う蜜蜂にうなづきながら、おまえはおそろしい運命がおまえを待っているのを知っているのだろうか。夏のそよ風に撫でられているあいだは、夢をみつづけ、風に揺られ、浮かれているがいい。明日は情け容赦のない手が、おまえの喉を締めるだろう〉

 

西洋文明の嵐が日本という「やさしい花」を踏み散らすという暗喩は、アジアの南の彼方のブリヤンバダへの呼びかけに呼応するかのようである。

 

〈私は終日浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています―いつの日か、海霧の中からあなたがたちあがるかもしれないと思いながら〉

 

大いなる構想は砕けて舞い、眼前の青い海の彼方に去ってゆく。

いま静かな五浦の沖合の波の間に探りみるのは、遠い日の波津子や遥かな南国のプリヤンバダの面影である。

 

〈ツマリマセンネ〉

 

早すぎる晩年を五浦で過ごした天心は、問わず語りにこうつぶやくことがあった。

つまりませんね。振幅の激しい生涯の果てのこのつぶやきは、悲痛である。

 

50歳という若さで天心が没してから一世紀近い日々が流れた2011年3月11日の午後3時前、激しい地震にともなう大津波がこの六角堂を一瞬のうちに沖合へ流し去った。

〈豊饒な世界〉を夢想し続けながら夢破れた天心が晩年、太平洋を望む僻村の岬に設けた心の隠れ家(アジール)の流竄は、百年の歳月ののちに迎えたある精神のかたちの崩壊でもあった。

                             

この項おわり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 2 柴崎信三

  • 2013年5月17日 15:02

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

2〈象徴〉について

米国大使館の35分

昭和天皇とマッカーサー元帥との会見写真(1945年9月27日、米国大使館)

昭和天皇とマッカーサー元帥との会見写真(1945年9月27日、米国大使館)

余りにも知られつくした昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、終戦の日からまだ40日余りしかたたない1945年9月27日に東京・赤坂の米国大使館で撮影された。一枚の写真が敗戦後の新しい日本のかたちを決定的なものにした。これは占領軍という、歴史を動かし、日本の姿を変えた為政者の大きな意思を体現した画像であるが、同時にこの画像を受け入れた国民と国際社会の眼差しによる、ある種の〈合意〉によって日本の戦後の(精神)を視覚化した、きわめて深い含意を持つ写真でもある。
撮影者はジターノ・フェイレイス。1904年、ニューヨーク生まれの米軍将校で、米国陸軍極東司令官として太平洋戦争の指揮にあたったダグラス・マッカーサーの専属写真家として従軍、レイテ上陸作戦などを取材した。終戦直後、連合国総司令官として日本へ赴任したマッカーサーとともに来日、1945年9月27日に米国大使館で行われた昭和天皇との会見の冒頭で記念写真を撮影した。引退後には、占領期の東京や横浜を撮影した写真集『マッカーサーの見た焼跡』を日本で刊行している。
さて、その写真を少し仔細に眺めてみたい。
モーニングに正装した昭和天皇はこの時44歳。身長が165㌢ほどで両手を側面へまっすぐに下げ、足元は踵をそろえて直立している。その身辺には敗戦からまだ一月余りという時点で、占領軍の頭目と初めてまみえる緊張に強張った空気が漂っている。傍らのマッカーサーは65歳だから、世代的には父と子ほどの隔たりがあるとはいえ、日米の指導者の公式な会見写真として、その寛いだ姿の対照はあまりにも際立っている。
マッカーサーの身長はおよそ180㌢で、天皇より顔一つ抜き出た長身はいかにも軽快な軍装で整えられ、もちろんネクタイもなく、襟元は自然に開かれている。後ろ手で両手を腰のポケットにあてがい、隣の天皇と50㌢ほどを隔てて立つ足は心持前後に開いて、ほとんどスナップ写真のポーズといってもいい。
一人はフィリピン米国極東陸軍司令官として、太平洋上の日本陸軍の進攻をバターンで迎撃して、壊滅に追い込んだ伝説の英雄。隣に立つもう一人は超越的な「現人神」として軍部の独走の下で日米開戦へ道を開き、やがて戦況の悪化でポツダム宣言の受諾による敗戦へ国民の運命を導いた、日本の若いカリスマである。そこには勝者と敗者、支配者と被支配者の露わな構図があっても、乗り込んだ占領軍がその敗戦国の当主としての天皇へ寄せる同情や敬意、民族の誇りへの眼差しはない。撮影者にシンボリックな演出がない即物的な写真であるだけに、モデルの〈無意識〉が戦後の日本と国際社会に効果的で大きな政治作用をもたらした、というべきかもしれない。
実は、フェイレイスが撮影したこの記念写真はほぼ同じポーズで三種類ある。1枚は会見の直後にメディアを通じて内外に流布された、この有名な写真である。公表されてこなかった残りの2枚は米国ヴァージニア州ノーフォークにあるマッカーサー記念館に保存されている。その1枚は裏に「アイ・クローズ」と書かれており、その通りマッカーサーがフラッシュに目が眩んで両目を閉じている。残りの一枚は「マウス・オープン」と裏書きされていて、こちらは昭和天皇がやや口を開いて、足も少し開いた姿勢になっている。いずれも撮影技術上の失敗からボツとなって未使用のままにされた写真である。
メディアに公表された写真は背景のトリミングが施されてわかりにくいが、元の写真を見ると背景には米国大使館の居室の二つの大きなフランス窓の前にカウチ(長椅子)が置かれ、その前の飾台には伊万里のような絵皿が数点置かれている。また右手には公表写真には映っていないクラシックな応接用の椅子や観葉植物が見える。35分間の歴史的な会見を包んだ空気が、こうした未使用の写真からリアルに浮かび上がってくる。
会見の終了後、撮影された3枚のうち失敗のない一枚が報道用としてGHQから内外のメディアに提供された。とはいえそれから二日間、この写真は〈勝者〉と〈敗者〉を絵にしたあからさまなその図像性によって、メディアの上で翻弄されることになる。
すなわち、当日のGHQの提供を受けて海外メディアがこの写真を掲載し、国内メディアも掲載へ踏み切るのだが、内務省は国民感情への影響を恐れて発行前にその阻止へ動くのである。しかし、占領統治者の圧倒的な力を背景にした連合国軍総司令部は「掲載命令」という強制力をもってこれを覆す。初期の占領統治下の息詰まる政治の駆け引きによって二転三転したあと、会見から二日を経た9月29日付の国内各新聞紙上で、この写真はようやく日本人の目に晒されるのである。

江藤淳は『閉ざされた言語空間 占領下の検閲と戦後日本』のなかで、この写真の公表を挟んだ数週間にかかわる、言論表現をめぐって繰り広げられたGHQの検閲や統制と日本政府やマスメディアとの葛藤について記している。
9月10日、連合軍最高司令官代行、ハロルド・フェア名の「新聞報道取締方針」で、日本政府に対し「報道機関が真実に合致せずまた公共の安寧を妨げるべきニュースを伝播することを禁止する所要命令を発出すべきこと」など、占領軍の強い統制を明示した。さら14日には同盟通信が英、仏、西、中国語で行っていた海外放送を「公共の安寧を妨げるニュースの伝播」を理由に即時中止の措置が取られた。
15日には民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァーが同盟、NHKなどのメディアの代表と情報局総裁らを招致し、GHQの統制下に置かれている日本の言論表現にあっては、連合国軍と対等な関係で意見を述べるような自由な公表を認めない旨、声明を発表した。
さらにこの三日後、軽井沢に隠棲していたのちの首相、鳩山一郎が米国による広島・長崎への原爆投下を批判して「極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、彼ら自身彼らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること」を求める談話を掲載した朝日新聞に対し、二日間の発行停止の指令がフーヴァーによって発せられている。
占領開始から日の浅いこの時期、広島・長崎への米軍の原爆投下による非戦闘員の大量殺戮という非人道行為を問い、あるいは戦後進駐した米兵による日本人婦女子への非行を暴露するなど、国内メディアの占領軍に対する批判的な論調の広がりを危ぶんだGHQは、ただちに占領統治者の強権を発動して、マスメディアの報道に対する事前検閲や発行・公表の停止による厳しい言論統制に踏み切るのである。この間、報道の差し止めなどの措置は「朝日」のみならず、独占的に日本の占領統治情報を世界に伝えていたさきの同盟通信の外国語による海外向け短波放送への停止命令、占領軍兵士の日本人女性らに対する非行を暴いた「東洋経済新報」9月29日号の押収処分と、相次いだ。
「天皇・マッカーサー会見」の写真公表をめぐってGHQ、内務省、メディアの間に繰り広げられた三日にわたる「暗闘」には、初期占領体制下の勝者と敗者のこうした情報操作のせめぎ合いが背景にある。マッカーサーと並んだありのままの天皇の姿を国民に示すことは、戦前の神格化された天皇像を覆して民主化をすすめる占領統治者のGHQが、日本の国民世論の誘導へ向けて要請された、喫緊の重要なイメージの統治にほかならず、天皇の威信の失墜と国民心理への影響を恐れて掲載をためらう政府や国内メディアと真正面から対立するのは必然であった。
天皇・マッカーサー会談に先立つ二日前、天皇は米紙「ニューヨーク・タイムズ」の特派員、ロバート・クラックホーンとの会見に応じた。ここでは、戦争責任問題にからんで「日米開戦に当たり、真珠湾攻撃を開始するために行った東条英機による宣戦の詔書の扱いは陛下の意思であられたか」という問いに対し、天皇は「そうした意図はなかった」と答えている。これは国際社会で広がる天皇の戦争責任追及をかわすために、真珠湾への奇襲が「東条の独断」であったことを示す天皇のメッセージを米国世論に向けて発信する意図を受けた発言といわれる。25日付の同紙に「ヒロヒト、東条に責任を押し付ける」などと報じられたこの記事は、その後に天皇の免責ともに「象徴天皇制」への道を開くことで日本の戦後を主導した米国とGHQの企図の伏線とみることができよう。
内外に広がる天皇の戦争責任追及と戦後の天皇制のありかたをめぐる決断が、GHQの占領統治の大きな懸案であったから、天皇自らの発意によるとされる二日後の米国大使館におけるマッカーサーとの会見で撮影された二人の記念写真が、その後の占領体制下でどのような政治的文脈を形成していったかは、おのずから想像できる。
公表されたこの写真が日本国民にとって、勝者の威光と敗者の悲傷をそのまま図像としたものであり、それゆえに敗戦という現実を目の当たりに示す戦後の黙示録として国民に受け止められていったことは、改めて指摘するまでもない。
その意味でこれは紛れもない〈政治的写真〉なのであるが、その一方で〈無防備〉な図像がつくる新しい物語が「象徴天皇」という戦後日本の文化シンボルの形成へ向けて、国民の眼差しを統合していったこともまた事実なのである。撮影後、同じ部屋で行われた歴史的会見がもう一人の当事者であるマッカーサーの天皇と戦後日本に対する認識に決定的な影響を与えたという意味においても、これは日本人と米国社会の双方に深い暗喩を伴って二重の歴史の痕跡を残した写真というべきであろう。

1945年9月27日の午前10時から、米国大使館の応接室でおおむね35分間にわたって行われた会見は、冒頭でフェイレイスが記念撮影をしたあと、昭和天皇とマッカーサーの二人のほかは通訳の外務次官、岡村勝蔵だけが同席した。
その内容は今日に至っても公式に発表されていないが、後年マッカーサーが書いた回顧録や奥村が遺した手記、それらの伝聞のかたちで公にされた周辺の人々の談話などによって、虚実が入り組んだやりとりが伝えられている。
敗戦間もない日本で、「現人神」と怖れられる天皇を頂いた軍部の暴走によって破産に至った国家を、占領軍の総帥として根本的に改革しょうと乗り込んだマッカーサーが、その天皇本人と日本の統治について初めて直接会話を交わした。神秘のヴェールに覆われてきた天皇自身は国際社会の一部から「戦犯」として問われ、国内でも戦争責任をめぐる論議が広がっていた。密室での35分、その二人はそこで何を話したのか。

〈モーニングに縞のズボン、トップハットという姿で、裕仁天皇は御用車のダイムラーに宮内大臣と向かい合わせに乗って、大使館に到着した。私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をささげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた〉(『マッカーサー大戦回顧録』津島一夫訳)

帰国して退役したマッカーサーが1964年に84歳で亡くなる前の3年間を費やしてまとめたこの回顧録は、会見の時点からの長い時間の経過に伴う事実の誤認や過去への美化などによる矛盾が多く、とくに9月27日の最初の会見での天皇の発言については、今日では歴史資料としての信頼性に多くの疑問が投げかけられている。
赤坂の米国大使館で行われたこの日の会見は、天皇が到着した午前10時に始まった。同道したのは宮内大臣の石渡荘太郎、侍従長の藤田尚徳、侍従の徳大寺実厚、侍医の村山浩一、行幸主務官の筧素彦、それに通訳の奥村である。
玄関で待ち受けたマッカーサーの軍事秘書を務める准将、ボナー・フェラーズと通訳の少佐、フォービアン・バワーズの案内で、一行は居室の入り口へ案内され、マッカーサーの出迎えを受けた。待ち構えるフェイレイスが部屋の中央で記念撮影すると扉は閉ざされ、暖炉の前のソファへ移動した二人と通訳の奥村の三者だけで会見が始まった。
「回顧録」のこの場面の記述には、マッカーサーの記憶違いと思われる箇所が多い。

〈私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感じた。連合国の一部、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ〉

天皇の名前を筆頭に記載した戦犯リストが連合国から提出されたことはなかったし、天皇が訴追されて裁かれればゲリラ戦が起こりうるから、その時は百万の将兵が必要になるというワシントン(米連邦政府)への警告をマッカーサーが送ったのは翌年一月である。
最も大きな疑問点は、戦争責任についての天皇自身の言葉である。

〈「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」/私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである〉

この天皇の「全責任を負う」という発言は、晩年のマッカーサーの感傷と記憶の誇張による「虚構」とする見方が、いまは有力である。
後年、作家の児島襄が月刊『文藝春秋』誌上(1975年11月号)で発表した「天皇とアメリカと太平洋戦争」は、ただ一人立ち会った通訳の奥村勝蔵の手記によっており、今日もっとも正確に両者の会話を再現したものとみられている。

〈元帥ノ案内ニテ居室中央立御。元帥其ノ向ツテ左側ニ立テバ、米国軍写真師ハ写真三葉ヲ謹写ス。/更に元帥ノ案内ニテ「ファイア・プレイス」ニ向ツテ左ノ椅子ニ陛下御着アリ、元帥ハ右側ノ同様ナル椅子ニ着席ス〉

マッカーサーは自由な態度で「実際写真屋というのは妙なもので、バチバチ撮りますが、一枚か二枚しか出てきません」と冗談をかわす余裕をのぞかせたあと、冒頭約20分間にわたってこの戦争と日本の再建についての考えを論じた。これを受けて天皇は言った。

〈コノ戦争ニツイテハ、自分トシテハ極力之ヲ避ケ度イ考デアリマシタガ、戦争トナルノ結果ヲ見マシタコトハ、自分ノ最モ遺憾トスル所デアリマス〉

通訳の立場で詳細にこの会見を記録した奥村勝蔵の手記に、天皇の「全責任」云々の発言のくだりはない。したがって戦争責任についての「処罰も覚悟している」と天皇がこの席で述べたという後年のマッカーサー周辺の記述を裏付ける材料はない。
ただこの歴史的会見は天皇の戦争責任と戦後の天皇制の存続が大きな争点として浮かび上がっていた時期と重なり、日米開戦と真珠湾攻撃などへの関与の責任を戦犯として収監中の前首相、東条英機にすべて負わせて天皇を救済するというシナリオは、東京裁判を控えた政府や天皇周辺でも検討されていた。この文脈の下で、天皇が自らの戦争責任についてGHQとの政治的な駆け引きのなかで何らかの意思表明を試みたことは想像できるし、その言葉から天皇の高潔無私な人格にマッカーサーが感銘を受けて、戦争責任の免責と「象徴天皇制」の成立に少なくない影響をもたらしたことも、ありえた展開であろう。
その朝、米国大使館の玄関で天皇を出迎えなかったマッカーサーは、35分間の会見を終えると玄関先まで伴って御用車に乗りこむ天皇を見送った。回顧録のなかで天皇の戦争責任についての発言に「虚構」が入り込んだのは、マッカーサーがその会見で天皇から受け止めた強い印象に伴う、ある種の心の飛躍があったからではなかったか。そしてこうした会見の空気を映した冒頭の記念写真は、日本人のみならずマッカーサーと米国世論に対しても歴史の神話作用をもたらしたというべきであろう。

そこには一人の隠れた演出者が浮かび上がる。会見の朝、大使館の玄関で天皇一行を出迎えたマッカーサーの軍事秘書を務める准将、ボナー・フェラーズである。
戦前に二度も来日したことがある知日派の軍人で、ラフカディオ・ハーンの著作などを通じて深く日本文化に馴染んだ人物である。戦争中は対日心理作戦を指揮し、終戦直後にGHQの要員となってマッカーサーの片腕として来日したフェラーズは、すぐに旧知のクリスチャン教育者で恵泉女学園創立者、河井道を訪ねるなどして天皇の戦争責任と天皇制のあり方を問い、連夜にわたって最高司令官に提言を重ねた。その集成が会見直後の10月2日にマッカーサーにあてて提出された「フェラーズ覚書」である。

〈天皇に対する日本国民の態度は概して理解されていない。キリスト教徒とは異なり、日本国民は、魂を通わせる神をもっていない。彼らの天皇は、祖先の美徳を伝える民族の生ける象徴である。天皇は過ちも不正も犯すはずのない国家精神の化身である。(略)いかなる国の国民であろうと、その政府をみずから選択する固有の権利をもっているということは、米国人の基本的観念である。日本国民は、かりに彼らがそのような機会を与えられるとすれば、象徴的国家元首として天皇を選ぶであろう〉

〈大衆は、裕仁に対して格別の敬慕の念を抱いている。彼らは、天皇みずから直接国民に語りかけることによって、天皇はかつて例がないほど彼らにとって身近になると感じている。和を求める詔書は、彼らの心を喜びで満たした。彼らは天皇がけっして傀儡などではないことを知っている。また、天皇を存置しても、彼らが権利として選びうる最も自由主義的な政府の樹立を妨げることはないと考えている〉

まことに「文学的」と呼んでもいい、きわだった占領文書である。
「フェラーズは頭のいい、歯切れのいいがっちりした、そしてほんの一寸ばかりダンディな、国際人的なところを持った五十代の男、全身ぴちぴちした弾力性にはずんでいる」。当時文部省でGHQとの連絡にあたった精神医学者の神谷美恵子はそう回想する。
フェラーズの覚書が提出されてから4か月後の1946年1月25日、マッカーサーは本国政府の米国陸軍参謀総長にあてて天皇の処遇に関する最終回答を送った。

〈過去十年間に、程度はさまざまであるにせよ、天皇が日本帝国の政治上の諸決定の関与したことを示す同人の正確な行動については、明白確実な証拠は何も発見されていない。可能なかぎり徹底的に調査を行った結果、終戦時までの天皇の国事へのかかわり方は、大部分が受動的なものであり、輔弼者の進言に機械的に応じるだけのものであったという、確かな印象を得ている〉

かくして天皇の免責と新憲法のもとで象徴天皇制への移行の条件が整った。
2月、神奈川県を皮切りに天皇の戦後地方巡幸がはじまった。5月に開廷した東京裁判では、6月に入って首席検事のジョセフ・キーナンが「天皇訴追せず」を正式に言明した。
昭和天皇の侍従として終生仕えた入江相政のその頃の日記に、こんなくだりがある。

〈侍従長、次長と車で侍従長の官舎に行く。七時前にフェラーズ、その女秘書メッカ、寺崎(英成、侍従)氏、同夫人、同令嬢マリ子さん来着、牛鍋で会が始まる。はじめの中は言葉の関係でまるで御通夜のやうなものであったが、段々えらい騒ぎになり、終は脱兎の如き勢、和洋のダンスが始まったりする。終にジョーといふ運転手まで来て、実に愉快であった〉(1946年6月7日付)

隠す事の出来ない喜びと安堵が行間から伝わる。
象徴天皇制への移行が固まったのである。
連合国軍総司令官として日本の占領統治にあたったマッカーサーは1950年、朝鮮戦争を指揮する国連軍総司令官に転じたが、作戦をめぐって大統領のトルーマンと対立して解任され、帰国後は失意の晩年を過ごした。
老いた英雄にとって遠ざかる昭和天皇との35分間への回想は、一枚の記念写真の向こうに懐かしくも美しく呼び起されていったのであろう。

=この項終わり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 1 柴崎信三

  • 2013年4月20日 02:04

文芸、美術、写真、建築、映画などを通してあらわれた〈日本の図像〉にまつわる、小さな物語を読み解いてみたい。〈日本〉という場所をめぐって繰り広げられたあこがれや屈折など、一世紀の表象のたたかいはグローバリゼーションの下のこの国のいまに重なる。〈日本〉はみずからをどのように伝え、それが世界にどのように受け止められたのか。〈ジャパネスク〉の表現を通して、20世紀のこの国の人々の隠された風景に光をあてる。
〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

1 〈望郷〉について

モンパルナスの光と影

モンパルナスの藤田嗣治を囲む日本人画家たち(1923年)

モンパルナスの藤田嗣治を囲む日本人画家たち(1923年)

パリに住む美術プロデュサーのヘレン・ザーディは2011年春、サントノーレ通りの画廊で、埋もれていたベル・エポックの画家、板東敏雄の個展を開いた。おそらく没してからのちのパリで初めてのこの画家の個展である。板東は「エコール・ド・パリの寵児」と呼ばれた藤田嗣治とともに同じ時代を異郷に生きた日本人画家のひとりだが、いまはその作品はもちろん、板東という名前自体を知る人も、おそらく少なかろう。
留学した東京芸大で日本美術を学んだヘレンは、美術品競売会社のサザビーズで多くの作品の流通にかかわりながら、フランスのこの時代に生きた日本人画家の作品や消息を訪ねてきた。そのなかで出会ったのが板東敏雄という画家の境涯と作品である。

「〈寵児〉となった藤田の周辺にはモジリアニやパスキンといった、1920年代を中心に世界から集まったエコール・ド・パリの画家たちがいましたが、同じように藤田の後を追って日本からやってきたたくさんの〈小さなフジタたち〉がいました。そのなかでも板東は作品的にも、実生活の面でもきわめて藤田に近い存在だったといえるでしょう」

いまはほとんど知られていない〈Bando〉の名前は、国や時代を超えて世界の芸術家を網羅した美術辞典とされている「べネジット」で調べると小さな記述があった。それをたよりに調べてみると、フランス人の未亡人と娘がパリにいることがわかった。所在を訪ねあてた1994年、晩年の未亡人の手元に200点ほどの作品と、板東が遺した戦間期から第二次大戦後にかけた日記が残されているのがわかり、その記憶を聞きとってきたのである。
渡仏して「乳白色の肌」の裸体画で脚光を浴びる藤田の影に寄り添うように生きた板東の作品は、静物や風景、犬などの小動物を繊細で静謐な筆触で描いたものが多い。藤田を売り出したシェロン画廊と契約して日本人画家としての一定の評価を得ながら、板東はふとしたすれ違いから藤田と決別して、パリで孤独な画業を続けた。フランス人女性と結ばれて娘が生まれ、日本が敵国となった戦時下もフランスにとどまった。1973年にパリの自宅で階段から転落して78歳の生涯を閉じるまで、ついに帰国することはなかった。

パリの板東の若い日    「ガレの自宅の美しい眺め」        「子犬と子猫のいる自画像」 =いずれも「Toshio Bando 板東敏雄(1895-1973)」から
(左)パリの板東の若い日    (中央)「ガレの自宅の美しい眺め」    (右)「子犬と子猫のいる自画像」
〈Toshio Bando 板東敏雄 (1895-1973)〉(Saint Honoré Art Consulting,2011)から

ヘレンは板東の自画像のダンディで孤高なたたずまいが伝える、作品の独特の静けさに惹かれた。その一見平穏な境涯に浮かび上がる藤田との離別は、パリに埋もれたこの画家の大きな転機であったろう。海老原喜之助、岡鹿之助、長谷川路可、小柳正といった、藤田の周辺に集った若い日本人の画家たちのなかでも、板東はこの「エコール・ド・パリの寵児」となる巨匠ときわめて親密なかかわりをもった一人であったからである。
1895(明治28)年に徳島県で生まれた板東は、上京して川端画学校で藤島武二に師事した。23歳で文展(文部省美術展覧会)に入選したのち1922年にパリへ渡った。
フランスの土を踏んだその足ですぐに画学校で同期だった上山二郎を訪ねている。「日記」には渡仏した板東が上山の紹介で藤田と出会った場面がある。作品を見ての帰り道、すでに日本人の留学生たちから「先生」と呼ばれていた藤田の作品を「下手だ」と批判して上山にたしなめられ、それをきっかけにして始まった藤田との交流は、10歳ほどの世代の隔たりを超えて急速に深まった。当時の藤田の恋人だった伝説のモデル、キキを交えて頻繁に食卓を囲み、アトリエを訪ね合って時間をともにする。遠く日本からやってきた若い画家たちのモンパルナスの青春は、燦々と輝いてことであろう。
藤田の名声はますます高まって1925年にはレジオン・ドヌール勲章を受章するが、地方へ一緒に旅をするなど親密なかかわりを深めていた板東との関係は、そのころある事故をきっかけに暗転して離別に向かう。1924年、郊外で藤田を後ろに乗せた板東のオートバイが事故を起こし、藤田が脚にけがを負って病院に収容された。以来二人は不仲となり、藤田は右岸パッシーに転居、板東もパリの郊外へ住まいを移して袂を分かつのである。
それにしても、この離反はいささか唐突である。何があったのだろうか。

「板東は藤田のモデルのキキを通じて写真家のマン・レイとも懇意になり、ポートレートも撮ってもらっています。板東が撮ったキキの写真や彼女からの手紙、キキをモデルにした裸婦像も数点残されています。藤田との付き合いのなかで、作品への影響とともにキキやマン・レイとのかかわりが深まっていったようです。さらに当時藤田と不仲になっていた妻のフェルナンド・バレーとの関係も影を落としているようです。のちに藤田が再婚するユキからも、板東が嫉妬された形跡がうかがえます」

年上のモデルだったフェルナンド・バレーは、無名のころの藤田の苦しい生活を支えた。しかし藤田の名が高まるにつれてそのうるわしい男女の関係は崩壊する。バレーはやはり藤田の周辺にいた日本人画家の小柳正と不倫関係に陥り、藤田も傷心をいやすように、シャンゼリゼで浮名を流す文学少女のユキに心を移してゆく。そんな修羅場のただなかで起きたオートバイ事故は、男女関係が絡んだ互いの「才能」をめぐるゲームに発展して、板東と藤田の間に抜き差しならない対立をよびおこしたのだろうか。
「才能」をめぐるライバル関係の深まりが、異郷の二人を引き裂いたのではないか、とヘレンがみるのは、当時のパリの新聞には板東の作品を絶賛して「フジタのライバル」と見なすような記事が散見されるからである。
渡仏して間もない時期の板東の作品には藤田の影響が色濃く残されているものの、やがてそのミニアチュア(細密画)風の画面は独特の素材と色調によって「Bandoの世界」が形作られていく。

〈ここでは藤田と板東の絵を比較するつもりはない。しかし、板東は日欧美術界に第二の段階を築く才能を秘めているようだ。板東はデッサン画家というよりは本格画家としての素質を持っている。藤田風ではなく、被写体を忠実に描いている。ヴォリューム感を大切にして、三次元の世界へ到達している。自分のアイデンティティーを失うことなく、筆触はほとんど欧風である。超現実主義的な才能とともに、描かれた帽子の藁や婦人のケープの毛糸、陶器の冷たい硬さなど、完璧なほどの素材感がうかがえる〉

当時、有力だった評論家のアンドレ・ワルノが《アヴェニル》紙上に書いたこうした記事を通して、ヘレンは板東が当時パリの日本人画家のなかに置かれた立場を想像する。
板東は藤田と出会った1922年から1929年までの間に、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デュ・チュルリーなどに出品し、ワルノをはじめとするフランスの画壇の周辺ばかりでなく、イタリアやベルギー、米国でもその画風に注目する評論家があらわれた。藤田と袂を分かってから1931年まではシェロン画廊と契約し、200点ほどの作品が売られているのをみれば、一定の評価を得た日本人画家であったのだが、それ以降も作品に「寵児」である藤田との対比が終生にわたってつきまとったことが、板東の運命を大きく動かしていったことは否めない。
結局、藤田とその恋人のキキ、キキの恋人のマン・レイ、そして藤田の前妻のフェルナド・バレーと後妻となるユキといった、「エコール・ド・パリの寵児」の周辺の入り組んだ人間模様の渦のなかで板東が暮らしたのは、渡仏した年から2年余りという短い時間であった。その後、郊外のピエルフィットの田園に移り住んだのちも板東は画業を続けたが、1929年に故郷の徳島から父の死が伝えられ、その二年後に後ろ盾となってきた画商のシェロンが世を去ったことは、大きな痛手であったろう。
一方のそのころの藤田はといえば、一世を風靡した「乳白色の肌」の画布に大きな喝采が寄せられ、私生活の混乱を抱えながら「エコール・ド・パリの寵児」は絶頂期にあった。
木綿貿易で巨財をなした近江商人の孫で、大戦後の好景気を背景にその惜しみない散財から当時パリの社交界で〈バロン〉(男爵)と呼ばれた薩摩治郎八による巨額の資金提供によって、パリの大学国際都市に日本館が華々しく開館したのは世界恐慌が見舞う1929年の5月であった。藤田と離別した板東が祖国から伝えられた父の死で失意に沈んでいた年である。首相のポアンカレ以下、政府首脳や作曲家のモーリス・ラヴェルら華やかな招待客を前にして、パリ日本館のホールの正面をパトロンの薩摩が描かせた藤田の大作「欧人日本へ渡来の図」が飾った。
蕩尽して戦後帰国した〈バロン〉は晩年、当時を振り返った自伝のなかで、藤田を売り出したシェロン画廊の飾り窓に板東の作品が並べて展示されていた情景を回想して、その才能を惜しみながら記憶を書き遺している。

〈板東敏雄は美術評論家として権威的なアカデミー・コンクール会員レオ・ラルギュから現代のシャルダンと買われた。ミニチュア(ママ)風画風の静物画家で、若し藤田派なる一種のアカデミーが成立していたとしたら、その第一人者となるべき人物だった。重厚な性格で、細密な静物を藤田風に描き続けていた。彼は現在でもパッシーの画室で克明な画風を続けている〉(『せ・し・ぼん』)

板東が遺した「日記」には、藤田と決別して田舎のピエルフィッテに退いた板東を海老原喜之助が訪ねて来る場面がある。

「ようやく手に入れたハムを切って歓待しようとするのですが、おなかをすかした海老原がなけなしのハムをほとんど一人で食べてしまった、とあります。モンパルナスの仲間たちと別れて田舎に移り住みながら、板東は1938年に開かれた第一回在仏日本人美術家展には参加していて、その記念写真には藤田たちと一緒に映った姿があります。孤独でゆとりのない暮らしのなかで、板東にとって絵を描くことは表現への情熱を持ち続けることであるとともに、自らの暮らしを支えることでもあったでしょう」

ヘレンはそこに、藤田の影で異郷に生き続けた日本人画家のあらわな寂しさを見る。

板東は犬や鳥などの小さな動物を愛した。住みついた田舎町の獣医師のところへ通って繊細な動物画を数多く描いた。その縁で獣医師の娘のマリー・ユーゼニ・ネルシーと結ばれ、第二次大戦が始まってからも帰国することなくフランスの片隅で家族とともに暮らした。

日本が第二次大戦の敵国となって戦火が激しくなると、フランスを去って祖国へ舞い戻った藤田が戦争画を積極的に手がけて、戦争協力の指導的立場に立ったことはよく知られている。戦後その立場を問われて祖国を追われた藤田は再びフランスへ戻って帰化し、カトリックの洗礼を受けた後、望郷と無念の思いに引き裂かれながら1968年に没している。
パリの近郊で家族とともに過ごしながら、板東もひっそりと動物や風景や静物を描いて異郷の戦後を生きた。晩年は病弱ではあったが、ピアノ教師の妻の支えによって同じ画家の道を選んだ娘のキミエの個展の開催に力を注いだ。しかし同じフランスの地に戦後を過ごしながら、藤田と再びまみえることはおそらくなかったであろう。
ヘレンは晩年の板東の未亡人、マリーからこんな話を聞いている。

「板東が亡くなってからまもなく、夢のなかに現れた板東が〈里帰りをしてくる〉といっており、一週間後に再び見た夢では〈帰って来たよ〉と嬉しそうに微笑んでいた、というのです。その夢をみて彼女は安心したといっていました」

藤田嗣治という、戦争を挟んで西欧と向き合った〈日本〉の写し鏡のような巨匠の褒貶の影で、異郷に生きた一人の画家が終生抱えた〈望郷〉の心の痛ましさを考える。
繊細で、孤独で、それでいてどこか素朴な温かさを伝える動物や静物の佇まい。それはついに日本へ戻ることなくフランスに生涯を閉じた板東敏雄が〈祖国〉へ寄せた、遠い祈りのようにもみえる。                          (この項終わり)