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書斎の漂着本(95) 蚤野久蔵 原色日本魚類圖鑑

  • 2016年12月6日 17:20

昭和6年(1931)に東京の大地書院から出版された『原色日本魚類圖鑑』である。幅9.5×高さ17.5センチのいわゆるコンサイス辞典ほどの大きさで全204ページ。厚さはほぼ3センチで紙函付きと携帯に便利なように作られている。著者の田中茂穂(=たなか・しげほ、1878-1974)は「近代魚類分類学の父」といわれた世界的に有名な魚類学者で、昭和天皇採集の魚類標本を同定したことでも知られる。高知市出身、東京帝大の理学部動物学科入学後は動物学の箕作佳吉(=みつくり・かきち、1858-1909)教授の研究室で魚類研究を専攻した。「日本に生活する魚類の分布について」で東京帝大の理学博士号を取得した。日本の魚類分類学の創始者であるばかりでなく約170種にのぼる新種を発見、生涯に約300編の研究論文と50冊以上の著書を残した。なかでもアメリカ・スタンフォード大学のジョーダン、スナイダー両教授との共著『日本産魚類目録(英文)』(1913)は当時知られていた全種類が網羅されたことから学会では<名著>の呼び声が高い。

 『原色日本魚類図鑑』(大地書房刊)

『原色日本魚類図鑑』(大地書院刊)

「序」で出版に至るきっかけを「二十数年前に恩師の箕作先生から欧米諸国によくある一般向けの色刷りの魚類図鑑があれば便利なのにと言われ、諸先輩からも同じ意見をしばしば受けた。ところが欧米と違い人々が鮮魚を見る機会が多いわが国ではその色合いが実物に近いものでないと受け入れられないと思い、自分が採集のたびに残してきた精密写生をあらためて整理し直した。原画のないものも多くてそれを描き直そうとするとこんどは標本の入手が困難だったりしてたいへん苦労した」と書いている。それがどうしたという類いかもしれないが、そうであるならばこの図鑑は<本邦初の一般向け原色魚類図鑑>ということになる。

田中茂穂博士(高知大学理学部海洋生物学教室提供)

田中茂穂博士(高知大学理学部海洋生物学教室提供)

併せて紹介しておくと箕作博士は津山藩医の三男として江戸津山藩邸に生まれた。慶應義塾、大学南校に学んで渡米、イェール大学、ジョンズ・ホプキンス大学を経て英国・ケンブリッジ大学で動物学を修めた。帰国後は東京帝大で日本人として最初の動物学教授に就任した。動物分類学や発生学研究者として日本動物学会を結成、真珠王・御木本幸吉に真珠の養殖が学理的に可能であると助言したことや、東京帝大の三崎臨海実験所を設立するなど動物学にとどまらず水産関係の研究でも大きく貢献した人物である。

ところでこの連載で何度か紹介してきた「わが古書購入法」は高価な本には縁がないこともあるが、あれこれ迷わずにエイヤッ!と買うことである。古書店巡りではまたこんど、と次に行ったらなかったとか、古書展でひと回りしてその後で、と思っていたらもう売れていたということも再三あったから、まさに古本道は一期一会、迷ったら買い!である。この図鑑もそうした一冊だったと記憶している。告白しておくと、冒頭紹介したあれこれ、著者は著名な魚類学者であることは知っていたがその業績や、師である箕作博士のほうは名前さえ知らなかった。エラそうに紹介したのはすべて<あと知識>であるがそこはお許し願いたい。

古書店で手に取ったときになぜこの図鑑に興味を持ったかを思い出すと昭和初期の出版なのに函付きの革装で程度が良かったのとその割には千円ちょっとと安かったことだろうか。奥付に押された「中川蔵書」という朱肉の蔵書印が値段の安さの原因かとも思ったが蔵書印とともに万年筆の「昭和六年十二月十四日購入、1931/12/14」の日付があったのが気になったというか心が動いた。出版が11月7日なのでそのわずか1か月後に購入している。住所はないから最初の所有者の中川氏がどこで求めたのかは分からないが大地書院の所在地は東京市外吉祥寺(現・武蔵野市)だから中川氏はすぐに新刊本が並ぶ都内の大手書店や出版元に直接買いに行ける首都圏在住ではなく地方住いで、新聞広告などで出版を知ってなじみの地方書店経由で注文していたのが、ようやく送られてきた。それがこの<差>になったのではと思ったわけだ。まあ、これも原稿を書きながらあれこれ考えたあとづけの推理といわれればその通りだけれど。

「古書ネット」のいくつかを検索すると大地書院は植物図鑑や鉱物図誌、菌類図説などを中心にして時節柄というか『教育勅語図絵』といったのも出版していることがわかった。昭和6年といえば前年の世界恐慌の波が日本を揺るがし、東北地方の冷害がそれに追い打ちをかけて不況が進行した。『大学は出たけれど』という映画の題名のように就職難が大学卒業者にも及び、一方では陸軍のクーデター計画発覚や関東軍が「満州占領」を進めた年でもあった。同じジャンルでは『有用有害鑑賞水産動植物圖鑑』(昭和8年、田中茂穂編)が「本の状態=函なし、経年の汚れ傷みと折れ、色変わりあり」として7千円で出品されていたが、この図鑑は見当たらなかった。大地書院では他の図鑑類なども昭和16年発行の『集成新植物圖鑑』がいちばん新しかったので戦後の事業再開はなかったようだ。

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奥付に定価七圓五拾銭とあるが外函の定価の上に「壱萬部限り定価金六圓」の短冊状のシールが貼ってあるから実質は2割引だった。本体は濃緑色の革装でご覧のように魚の影押しの上に英文と右書きで「原色日本魚類圖鑑」が金箔、左下に大地書院のマークが赤色で押してある。巻末の「既刊書目」に文部省認定本『集成新植物圖鑑』があり「ポケット型総革製軽快用紙上質八百八十頁図版三千六十八図入、定価二圓五拾銭」からすると発行部数もあるだろうが図版は355図だからかなり割高な設定である。田中博士は「書物の大きさは四六倍判(18.8×26.0センチ)にするのが理想だったが費用が相当かさばる。何よりも価格をあまり高くしないこと、携帯に便利なことなどを目標としてこの大きさに落着いた」と書いているから1万部までは稿料を辞退したのかもしれない。いちばんこだわったのが図版の出来栄えで「下画は多年私の研究室で写生の経験を積まれた伊藤直和氏の麗筆を煩わせた。魚の輪郭や色合いなど相当正確に現れていると信じているが、お気に召さないものがあったら遠慮なく私へお申し出願います。深く感謝すると共に適当の時期にこれを訂正することと致します」と結んでいるが続巻の発行などは結局実現しなかった。

一般向けとして配慮が見られるのは標準和名で、海魚では主に東京魚市場での名称、川魚は琵琶湖沿岸での名称を中心に採用してそれぞれの地方名もなるべく多く併記している。

例えば成長に従って呼び名が変わることから<出世魚>とされるブリ(鰤、アジ科)は

ブリ(一般の称呼)、東京では一寸から七八寸をワカシ、一尺三四寸をイナダ、二尺をワラサ、三尺以上をブリと云い、富山県では三寸をツバエソ、五寸をコヅクラ、一尺をフクラギ又はフクラゲ、一尺五寸をブリ又はニマイズル、二尺をブリ又はアオブリ又はサンカ、二尺五寸をブリ又はコブリ、二尺八寸をブリ又はオオブリと云い、和歌山県では三四寸をワカナ又はワカナゴ、六七寸をツバス、八九寸乃至一尺をイナダ、又はイナラ、一尺乃至一尺五寸をハマチ、二尺位までをメジロ、一貫乃至一貫四五百匁までをモンダイ、二三貫位をオオウオ、四貫内外をドタブリ、又はヤゾオと云い、高知県では三寸をモジャコ、一尺乃至一尺五寸をハマチ、二尺をブリ、二尺五寸以上をブリ又はオオイオと云い、岩手県では三寸をショノコ、一尺をイナダ、一尺五寸をニサイブリ、二尺以上をアオ、二尺五寸以上をブリと云うと詳しく紹介して、惣菜用としてすこぶる貴重な魚であると追記している。続けて読むと途中で息が切れる。

なかでも田中博士が高知出身者であることを考えればシイラ(鱪、シイラ科)の項目が興味深い。

シイラ(一般の称呼)、トオヤク(神奈川県三崎)、トオヒャク(関西)、マンビキ(熊本)、クマビキ(高知ではこの魚の塩乾品を云う)

体型や色などの説明に次いで「海の表層を遊泳する。左程美味のものではないが、元来水っぽい肉を持っているから塩乾品として消費せられる。高知ではこれを婚礼の際の結納品に使う。雌雄すこぶる仲のいい魚であるとの俗説から起こった儀式である」と綴っている。

博士が多くの新種を発見したことを紹介したが、このコンゴオハナダイ(金剛花鯛、ハナダイ科)もそのひとつで誇らしく「著者命名」としている。

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解説には「胸びれの上部に紅色の斑点があること、尾びれがすこぶる赤いことが特徴で、体長は165ミリ(5寸5分)に達する。南日本のものであるが食用魚としては価値がない。ハナダイ類は名称の示す通り、非常に色合いが美しく、体が小さいから所謂(いわゆる)楚々たる姿をしていて、可愛らしいものである。殊に背びれ第三棘(きょく=とげ)が著しく長く、糸状をなしている場合が多く」とか「浅海のものではないが、さりとてあまり深海のものでもない。やや深いところにいるが形が小さいために特別の漁具では漁獲されない。多くは手釣り道具で稀に捕獲されるためにすこぶるめずらしいものになっている」とぞっこん惚れ込んでいるのがうかがえる。「楚々たる」などという形容はなかなかいいじゃありませんか。

田中博士のエピソードを最後にいくつか。高知県出身の自然科学者といえば植物学の牧野富太郎、物理学の寺田寅彦とこの田中博士の3人が有名だが、寺田寅彦とは中学(高知県尋常中学校=現・高知県立高知追手前高校)で同級だった。「寅彦とはいつも首席を争ったが常に先んじられた」となつかしく回想している。また土佐人でも珍しいほどの<イゴッソー>であまり気安くない人にでも、目上の人に対しても歯に衣着せぬ意見を述べたという。牧野が推奨してやまなかった桜のソメイヨシノに対しても「あれは百年で枯れるので桜は山桜が良い」と口にするなど「ソメイヨシノ亡国論」をぶち上げた。

東京帝大時代には同僚のなかで唯一、白衣ではなく繻子(しゅす=絹製で光沢のある布、サテンともいう)の黒衣を愛用した。恩師である箕作博士が開設した東京帝大三崎臨海実験所の所長時代でもそれは変わらなかったろうから、昭和天皇に粘菌の標本を無造作にマッチ箱に入れて差し出したあの南方熊楠を思い出す。勝手な想像であるが白衣姿の天皇に対しても黒衣のままを押し通したとすると、そのイゴッソーたるや大したものと言わざるを得ない。

書斎の漂着本 (94) 蚤野久蔵 すたこらさっさ(その2)

  • 2016年11月15日 00:28

前回は田辺茂一、いや田原茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>を少しばかり紹介した。茂助の淡い初恋の行方が気になるかもしれないのでまずはそちらから。

ある日、慶応からの学校帰りの青山6丁目電停で山脇女学校4年生だった三姉妹の長姉に声をかけられた。
「田原さんじゃありません?震災のときはせっかくおいでいただいたのにお構いもしませんで。またお遊びにいらっしゃらない」
「ええ、ありがとう、また・・・」
惚れたとなると、その恋人の姉に対してでさえ、ぎこちない。それからも同じ電停で彼女に出会った。姉に会うことは妹に会ったのも同様と思っていたが、三度目の九十九里浜、一の宮海岸行きで、本命の妹からは
「姉も田原さんを好きらしいんです」
と言われて狼狽する。

帰京した茂助が腸をこわして入院したことをどこから聞いたのか姉が毎日面会にやってきて
「あたし以前から田原さんのこと好きだったのよ。お嫁にもらって下さる」
と言い寄る。返事に詰まると
「わかったわ、妹の方が好きなんでしょう」
「そうよ、それに決まっているわ」
とエスカレートした挙句、死ぬの生きるの、とまで。ようやくなだめたものの
「そうだわ、あたし生きていてあなたを看視する。あたしの眼の黒いうちは、けっして、けっして、田原さんのところに妹をお嫁にやらさない・・・」
こうして3年がかりの初恋はあっけなく幕となったのである。

茂助の学窓生活もようやく終わりに近づいた。追慕する教授もいず、語り合うクラス仲間もなく、味気ないものであった。登校時間こそ少なかったが店の売上金をくすねることで、茂助の懐具合はいつも良かった。友人の洋服代や授業料を代わりに支払ってやったりしたので何となく異色の存在でもあったから春の卒業を控えたクラス会の世話役に選ばれた。クラスの大半は地方中学の出身で東京の事情には暗い。それなのに最後だから盛大にやろう、芸妓もあげよう、記念写真も撮ろうということになった。茂助にしても父親の代理で18歳から炭問屋の組合の宴会に出て芸妓などの見聞はあるがそれ以上の仔細は知らない。玉代、祝儀、心づけのことは皆目分からないし料亭もどこを選べばよいのか。窮余の揚げ句、父親に相談して津之守の「伊勢虎」を紹介してもらった。
「津之守って四谷荒木町ですか。昔、年始に行ったことがあるから知ってはいますが芸妓はどういう名前のを呼べばいいんですか」
「ウム、名前か。そうだなあ、千成、高弥、まあ、そういうのは婆さんだけどな・・・じゃ、あとで電話しといてやるよ」
「値段のほうもひとつ、勉強するように言って下さい」
「ウム、ようしきた。心配するな」

有名料亭の「伊勢虎」は植え込みの奥へ石畳を抜けて行くと大きな玄関があった。学生たちにとっては分に過ぎたが正月も押しつまったある日、クラスのほぼ全員40人近くが2階大広間に顔をそろえた。父親はここの主人と飲み仲間だったこともあって半玉の3人を加えて、10人ほどの芸妓が裾をひいてあらわれ、三味線、太鼓に、手踊りが繰り広げられた。世話役の委員長格だった茂助は対の細かい柄の久留米絣にセルの袴で豪華で艶やかな場を仕切り、当然のように肩を張って一座の中央で記念写真におさまった。招かれた老教授のひとりが
「田原さんでなければこういう立派な宴会はできませんね」
と耳もとでお世辞をささやいた。
酔いも廻った茂助は芸妓の案内でクラス仲間の3人と「ひさご」という待合へ二次会に繰りこんだ。右にも、左にも、前にもおんな達がいて狭い座敷は<混浴>のようでもあった。その夜、仲間たちは当然のように別室に分かれておんな達を抱いたが、そんな経験がなかった茂助は<酔余の勢い>には乗れずわが家へ帰った。

それからは毎夜のように「ひさご」に通うことになった。「木之国屋の若旦那さん」と呼ばれれば親の七光りとはいえ、悪い気がしない。軍資金には事欠かない。
「若旦那、明日の晩もネ、お待ちしているわ」
と言われるとまだ初心(うぶ)な茂助は
「ウムウム・・・」
とこたえる。

やがてここで知り合った三、四歳年上の「すま子」という芸妓と出かけた御殿場の宿で結ばれた。留年を覚悟したのにビリから二番の成績で無事、卒業して炭屋の帳場に座る毎日。兄弟もなく、母もいない。父は若い女房を迎えていたから茂助は家ではひとりぼっちだった。炭屋は夕方の帳付けの付け合わせが済むとそれで終わる。現金売りは適当に省略して帳面には載せないからその一部をふところに、家の前からタクシーを拾い荒木町の花街へ。入り浸ったのは後年、パリ帰りの画家たちが<メイゾン・ルージュ>と呼んだ「小花」だった。何せ<芸事は抜き>だからいきなり別室で、一夜に二人が常習となった。それもあきたりないと三人になる。狭い土地だから一日も欠かさない「小花のたあさん」は、年齢はともかく<新顔一辺倒>で、掃くのは一回こっきりというところから「箒(ほうき)のたあさん」と言われて検番のおんな連には鬼門となった。しかも茂助が飲むのは「金線サイダー」だけで酔うこともなく12時を過ぎたらきちんと家に帰っていたから父親も文句のつけようがなかった。

芸妓遊びも退屈になったころ、茂助は父に
「もう炭屋は無理、本屋しかしたくない」
と言いだした。
困った父は知人の弟分が四谷見附に町田書店という本屋を開業していたので
「そこへ行ってみろ」
ということになった。店主は銀座の近藤書店で丁稚小僧からたたきあげた人物で、茂助の事情を聞くと
「若旦那も一度、そういう奉公をなさったらどうですか。商売を本当に覚えるならそのほうが近道だと思いますがね」
と近藤書店での修行をすすめた。

五日後、木綿の盲縞の筒っぽに角帯、前掛け姿で町田店主に付き添われて銀座に出かけた。尾張町角(銀座4丁目交差点)の近くにあった近藤書店は本屋らしい間口の狭い、奥行きの長い店だった。奥の突きあたりが帳場で、背を円くしたやせた年輩の老主人がそこに座っていた。先方も新宿の木之国屋の若旦那であることは知っていたから丁寧だった。
「御参考にもならないと思いますがネ。まあ、辛抱してやってご覧なさい」
茂助は初めて奉公する身となった。

もちろん近藤書店へ行ったのは初めてではなかったから、どこに雑誌があり、どこに全集があり、どこに新刊書が並んでいるかは先刻承知だった。新宿の本屋へは暇さえあれば三度の飯よりも多くのぞいていたから本の背中を見ただけでどこの出版社の本だかも見分けがついた。棚から本を取り出すのはカルタ取りのようなものだ。素早く取り出して見せるぞ、と意気込んでいたが誰一人そういう客はいなかった。ただ本を包み、有難うございます、だけでは芸もなければ曲もない。銀座通りの人波をただ眺めているのは退屈で、万引き監視人に等しいから馬鹿らしくなってきた。

正午になったところで帳場に座る老主人に
「いろいろ有難うございましたが、だいたいわかりましたから、これで・・・」
驚いた主人は
「左様ですか。立ち通しでなかなかお辛かったでしょう」
と引き止めはしなかった。
朝の8時からきっかり12時まで正味4時間、茂助の生涯では最初で最後の奉公だった。

戻ってきた茂助を見て父は
「やっぱり本屋なんて面白くないだろう」
と言った。
「とんでもない。だいたいわかったからすぐ始めようと思って帰って来たんで、板塀と風呂場のところを貸して下さい」
と茂助はかねて計画していた新店舗の構想をしゃべった。
「大工はどうするんだ」
「それも見積もりをとってあります。総坪数36坪で6千円です」
手順の早さに父もあきらめたようすだった。

明けて昭和2年1月22日、木之国屋書店は開業した。間口3間、奥行6間、木造2階建。階下が売場で、階上に通じる階段下の空間に机を一つ置いて帳場にし、その横の四畳半の洋間を作り、そこを茂助の応接兼事務室にした。階上は絵の展覧会用のギャラリーにした。昭和の初めの東京には画廊は日本橋の丸善と銀座の資生堂があるだけで珍しかった。店の売場のことは分かったが仕入れのほうは皆目わからなかったので町田書店の主人に依頼して近藤書店の老番頭に来てもらった。その老番頭に町内の鳶の倅の16歳の小僧、新聞広告で集めた女店員2人と茂助の5人でフタをあけた。ときに茂助22歳だった。

父親は「今に飽きるだろう。どうせ永続きしっこない・・・」。その目算をよそに2月は階上ギャラリーで「現代洋画大家展」を企画した。画廊が少ない時代だったので大家のほとんどが出品してくれ新店舗開業祝いにと近所の人が気前よく買ってくれた。それをきっかけにして東郷青児ら二科系や1930年協会の画家が出入りするようになった。一方では水戸高から東大へ進んだ舟橋とも付き合いが続いていた。築地小劇場で演出を担当していた舟橋は茂助に歌舞伎役者で劇団前進座の創設メンバーの河原崎長十郎や演出家の村山知義を紹介してくれ、役者や新劇女優らとの交友関係も広がって行く。

それから40年、茂助は日本テレビの深夜番組「11PM」に出演した。
司会のKさんが
「女の数が多いようですが、なぜそんなに?・・・」
「つまり、母親が理想でネ、そういうのに似た女を探してネ。それが見つからないままの遍歴でしてネ。三千人というけれど、まあ洒落みたいだが、母をたずねて三千里ということでしょうな」
茂助に用意はなかったがとっさに出たこのやりとりも半分冗談で、半分、真相であるらしい。書店経営も40年だが、女の清掃も40年の「すたこらさっさ」。小突かれたり、つんのめさせられたり、足払いを食ったりしながら、それでも懲りずに女の影を慕ってきた。「人生多彩」が茂助の標語だが、言葉を換えれば「七転び八起き」だ。賽の河原の石と知りつつも、積んで積んで積み抜くのが、世間の約束というものである。

田辺茂一著『続すたこらさっさ』(流動刊)

田辺茂一著『続すたこらさっさ』(流動刊)

「続」は一変して文化人としての交友が綴られる。相変わらず茂助は<その数ドーダ>の生きざまである。毎日のように銀座の文壇バーをハシゴしてドーダ、ドーダ。そして「すたこらさっさ」となる・・・。

それは茂助の心象風景でもある。春夏秋冬、花鳥風月、ぶれない生き方がすっかり身に付いた。

「すたこらさっさ」

いま、茂助はひとりだ
まわりに
だれもいない
春も
夏も
秋も
冬も
ない
花も
鳥も
風も
月も
ない
そんなもの
なにひとつ欲しくない
そんな男に
成った
毛頭
生きていることが
嫌に成ったわけ
ではない
だが別のことで
欲しいものは
いっぱい
ある
思えば
それが欲しさの
すたこらさっさ
であった
なんだろう
わかっている
わかっているから
茂助だけは
疲れない
それが
自慢だ

そういえば以前、よく通った京都祇園のお座敷バーでこれを毛筆で書いた直筆の屏風を見た覚えがある。一言一句この通り、最後に「田邊茂一」と署名があった。ということは、茂助は茂一、いや茂一は茂助なのか。

いいではないか、余計な詮索はこちらも「すたこらさっさ」ということにしておこう。

書斎の漂着本(93)蚤野久蔵 すたこらさっさ(その1)

  • 2016年11月10日 16:57

紀伊国屋書店創業者の田辺茂一は連日連夜、銀座に繰り出し、バーからバーへと飲み歩き華麗な女性関係を繰り広げて<夜の市長>と言われた。ところが「いつ書くのだろう」と思われるほど多くの著作を残した。その代表作をあげるとするとやはり自身の処世術をそのまま題名にした自伝小説『すたこらさっさ』ではあるまいか。昭和48年(1973)3月に出版されると話題を呼び、同じ年の11月に「続」が出された。装丁は人気切り絵画家の宮田雅之だからこの題名部分も切り絵である。

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

田辺茂一著『すたこらさっさ』(流動刊)

表紙見返しには親交のあった流行作家の梶山季之が一文を寄せている。

この小説は、田辺茂一先生の最初の週刊誌連載小説の筈である。『すたこらさっさ』と言う題名も、先生らしく軽妙ながら、文体にも新しい試みを大胆に駆使して居られるあたり、心憎い次第だ。田辺先生は、粋人として名高いが、志は文学にあると伺っている。それも通り一遍のものではない。われわれ如き駆け出し文士は大いに範としなければならぬ。

梶山は週刊誌などのフリーライターとして活躍し、多くのスクープを手がけて「トップ屋」と呼ばれた。小説家に転身して書いた『黒の試走車』が大ヒットし、長者番付のトップを飾ったことで「稼ぎでもトップ屋に」と書かれた。田辺とは二回り以上(25歳)の年齢差があったのに<駆け出し文士>とへりくだっているのがおもしろい。

『すたこらさっさ』の主人公は本名をもじった田原茂助、生家で紀州備長炭や石炭、コークスなどを扱う薪炭問屋・紀伊国屋は木之国屋としている。幼時の記憶に残る新宿界隈の風景や生家をこう描写する。

新宿停車場も、人っ気少なく、その周囲に、二十数軒の薪炭間屋があり、荷をつけた馬車の轍の、ぬかるみの道路が続いて、人呼んで、馬糞横丁と言っていた。
一歩裏へ入ると、茶畑、田圃、原っぱで、今日の歌舞伎町は鬱蒼とした森林であった。
薪炭問屋木之国屋は五間木造二階建ての店で、小僧、中僧、女中、併せて七、八人の奉公人がいた。

茂助はこの店の跡取りだった。生まれたのは明治38年(1905)2月、日露の大戦争が終わりに近づいたころで、父親は尋常小学校を4年で終え、夜間の正則英語学校に半年通っただけだが神田佐久間河岸の炭屋に奉公していた。実直な働きぶりが認められ、奉公先の親戚筋にあたる栃木県黒磯出身で共立女子職業学校を優秀な成績で卒業した2歳年上の才媛と結婚していた。茂助が生まれた時、23歳だった父親は名付けに窮し、町内の十二社熊野神社の宮司に相談して茂助という名前をつけたという。

このあたり、生まれた年といい父母の経歴といい本人(=田辺茂一)とまったく同じであるが、これはあくまで小説であって主人公の田原茂助が繰り広げる物語なのである。なぜかというと6、7歳で近所の理髪店で聞いた若い職人たちの会話から前夜の遊郭での相手の話であることがわかったり、年始の得意先参りに中僧に連れて行かれた先が新宿、品川、洲崎、吉原の遊郭で、応対に出てきたお女郎さんを「あんまりきれいなのはいないね」と評したり。母と同じ布団に寝るとき、すぐ乳房のあたりをまさぐったり、自分の足を、それとなく母の股間に入れたりして間もなく離れ座敷にひとりで寝るように言い渡されたり。早熟な茂助の<ヰタ・セクスアリスな日々>をこと細かに書いているが、あくまで茂助の、であって、茂一の所業ではないのである。

早生まれの茂助は7歳から町立淀橋尋常小学校に通った。ところが言葉遣いが乱暴になったのを心配した母は2年生から大久保にあった私立高千穂小学校に転入学させた。3年生からは本所から転入学してきたのちの作家・舟橋聖一と一緒になり、中学では同じクラスになった。仲良くなった二人は本屋で茂助はトルストイの翻訳物を買った。
それを見て舟橋は
「そんなの読んでいるのかい。トルストイなんてつまんないだろう。ぼくは嫌いだなあ」
舟橋の言い方には自信らしいものがあって、ちょっとたじろいだ茂助は
「いやぼくだって知らないんだ。今日が初めてだよ。もう読んだのかい?」
あらためてたずねると
「ウム読んだサ。ちっとも面白いとは思わないね」
と言い、茶色のポケット型の絹地本の新汐(潮)文庫の田山花袋『蒲団』を買った。茂助はまだ花袋の名を知らなかった。茂助の場合は健康な性欲をもて余しての小説本の乱読で、のちに発禁になる島田清次郎の『地上』とか生田春月の『相寄る魂』、有島武郎の『或る女』といった<官能路線>だった。

一方では町内にできた市内初の映画館「武蔵野館」に入り浸った。新宿に地下街ができるという噂に対抗して茂助の父ら有力商店主が資金を出し合い完成させた。鉄筋木造3階建ての建物で、茂助も優待パスが出される重役の末席に収まった。客席が満席になると赤い大入り袋が配られるのを父は居間の長火鉢の横に吊るして飾りにしていた。これを母が見とがめて「大入り袋なんか吊るしてあるから茂作の勉強がおろそかになるんです。はがしてしまいましょう」ということになった。思春期の茂助には小説本もだが映画も楽しかったから、この一件を知ってか知らでか、学校から帰ると相変わらず武蔵野館に直行した。座るのはいつも2階正面の特等席、一列目の左側だった。すぐ脇に制服を着た案内嬢が立っていて、かすかな香料の匂いもした。茂助より三つぐらい年上に見えたが、制服のなかの成熟したカラダがすぐそばにある、ということだけでたまらない。場内が明るくなると、スカートの下の太い脚も見える。久留米がすりの中学生の視線を案内嬢のほうも意識する。
「新しいプロ(グラム)ある?」
「あります」
「今日は混んでいるね」
「ええ、とても」
その程度のやりとりではあったが帰ったあとでひとり思い出しては興奮した。

茂助17歳の夏、超チブスで2カ月ほど寝込んだ母があっけなく死んだ。以前、母とはこんなやりとりがあった。
「本屋以外には、なんにもなりたくはありません」
と答える茂助に、その性格を知り抜いて行末を案じていた母は
「本屋になりたければ、なってもいいが、お前は商人にはなれないと思うよ。そんなことをするより、本が好きなら、ただ本を買って、読んでいれば、それでいいじゃないか」
それとは反対に父は長男には炭屋を継がせればいいと考えるだけだったから、母だけが茂助の最大の理解者といえた。学校の成績簿を貰ってくるとすぐ母にだけは見せた。その見せる人は、見せ甲斐のある人はこの世にいない。とすれば、学校の成績なんぞは、もうどうでもいいことであった。

母の死後、茂助の気持ちは荒れた。秋の運動会のプログラムには「中隊訓練」というのがあり、茂助は小隊長を命じられた。運動場を音楽隊に合わせて進み、中央右手の台上にいる校長のところまで来ると、小隊長の声で「頭右っ!!」いっせいに生徒たちが右を向く。校長が挙手で挨拶すると「直れ!!」で、また小隊が進むという段取りである。これを茂助は運動会には無縁のように思った。予行演習で腰にサーベルを下げさせられた茂吉は、声はかけたが自分は前方ばかりを見ていた。校長の怒声が響き渡り、突き飛ばされた茂助は腰の帯皮ごとサーベルを取って思いきり地面にたたきつけた。「サーベル事件」は校内に広まり、校長批判の漢文の教師からは
「田原、よくやったなあ。あれでいいんだよ」
と激励されたが、茂助はそのころから性格も変わった。表よりも裏が人生の真実のようにも考えられた。善良が不良に見え、不良が善良に見えた。倉田百三の『愛と認識の出発』『善の知識』や阿部次郎の『三太郎の日記』をむさぼり『菜根譚』を手にした。

翌年、落第覚悟で受験した一ツ橋は不合格でそのまま5年生に進級した。放課後、週一度は日本橋の三越に出かけ、真っ白いエプロン姿の給仕の少女の胸の番号札で
「30番ってのがとても綺麗なんだ」
「いや17番のほうがいいぞ、すぐ耳を紅くする」
と話題にしたりしたがそこまでだった。

夏休みには九十九里浜の真ん中ほどにある千葉県の一の宮海岸に出かけた。田原家が所有する一万坪を超える地所でキャンプ生活をすることを思いついたからである。さっそく天幕店からテントを取り寄せ、飯盒を用意して缶詰をいっぱい鞄に詰めた。友人の美少年、下田を誘い、二人はデパートで揃いの海水パンツを買った。計画した自炊生活はうまくいかず、地所の管理人夫婦に食事の世話を頼んだ。毎朝、ご飯やみそ汁鍋を運んできたのはそこに東京から避暑に来ていた三姉妹で、12歳の次女アコチャンに淡い恋心を抱いた。

再度受験した一ツ橋はまたまた不合格だったが、三田の慶応義塾が新設した専門部を受験した。予科一年、本科三年の修了で、受験勉強など用意のなかった茂助は、そそくさといい加減な答案を書いた。またダメかと思っているところへ<意外にも>合格の通知が来た。「ペンに勲章のKOボーイか・・・」茂助は特別に嬉しいとも思わなかったが三田へは新宿から市電で通った。四谷塩町、青山一丁目、さらに飯倉で乗り換えて50分で三田に着く。慶応はハイカラな学校と期待していたのに専門部は地方の中学や商業の出身者ばかりで、甚だ泥臭い。数学も歴史も心理も原書ばかりなのが珍しいとはいえ、授業は退屈で教室の後ろであくびばかりしていた。夏休みになると再び一の宮海岸に出かけた。こんど誘ったのは水戸高校に進学していた舟橋である。舟橋は夏の制服に、太い鼻緒の朴歯の下駄をはき、帽子の白線も誇らしげにやってきた。舟橋は茂助が関心をもっていたアコチャンに眼をつけて
「利巧そうだね、いくつだい」
と聞く。
「ウム、ちょっと気に入ってんだ。13だよ、ことし竹早(府立第二高女)に入ったらしい。頭脳(あたま)はよさそうだがね、熟していないのがキズさ。水泳はうまいがね」
「待っていればいいじゃないか」
「四、五年は待てないね」
オカッパの髪の下に見える、頸筋が可愛かった。瞳も澄み利発そうであった。

舟橋が帰ったあと、町まで買い物に行くというアコチャンの付き合い、舟を漕いで出かけた。午後いっぱいの買い物ごとに赤い兵古帯の間から小さいノートを出し、金額を書き入れるのをみて
「ナカナカ家計簿はしっかりしてるね」
と冷やかしたのに対し
「私、お嫁さんになれるかしら」
といわれ、
「提灯を買っていこう。この分だと途中で日がくれちゃうから」
と茂助。櫓を漕ぎながら茂助が
「新世帯を持ったようだね」
「新所帯なんて、新家庭とおっしゃって・・・」
夕暮れのなかで19の少年と13の少女との会話だが、茂助自身はほんとうにアコチャンが嫁に来てくれたなら、と心のうちで思った。帰りはアコチャン一家と同じ汽車で一の宮駅を発った。
「若さん、すっかりアコチャンがお気に入りのようで」
と管理人からささやかれると茂助はちょっと、顔を赤くした。

帰って一日おいて9月1日午前11時、東京は関東大震災に見舞われた。激しい余震が続いた。東京市街の大部分は震災後の延焼で焼失したが、新宿の角筈に近い部分はその厄を免れた。親類知己が茂助の家を頼って大勢避難してきて寝泊まりした。ラジオ放送もなかったころだから得意先や親戚の消息も判明しない。茂助は父の命を受けて自転車に乗って安否を見舞いがてら洲崎の吉原神社を訪ねることになった。まだ夏のきざしの強いさなかだったが火事装束のような刺し子半纏を着込み、握り飯を風呂敷にかたく結んで荷台に縛り付けた。
「気をつけろよ!」
と父から言われ、朝早く家を出た。ところが茂助は目的地ではなく小石川植物園近くにあると聞いていたアコチャンの家へ向った。何をおいても、まずそこへ行き、彼女の安否を確かめたかったのである。

(以下続く)

書斎の漂着本 (92) 蚤野久蔵 日米會話必携

  • 2016年10月19日 08:49

敗戦直後の混乱の中で文字通り<飛ぶように売れた本>は占領軍兵士たちとの「会話手引書」だった。旺文社の『日米會話必携』もそのなかの一冊である。こちらは父の所蔵していた改訂版で、昭和20年に発刊したのを25年10月に「普及版」として出版している。

 『日米會話必携』(旺文社刊)

『日米會話必携』(旺文社刊)

陸軍士官学校を出た父は職業軍人として旧満州から南方=トラック島守備隊に転属となったが幸いにして大きな戦闘に巻き込まれることなく無事、妻の実家のある広島に復員した。ところが公職追放で公務員などにはなれず、原爆で焼け野原となった広島での需要を見込んだ材木屋の仕事にようやくありついた。たしか「M木材」という名前の零細会社で、中国山地のあちこちへ出掛け、仕入れた丸太をトラックに積み込んで広島市内に運び、製材、乾燥して販売していた。戦前は大本営や帝国議会が臨時に移されるなど「軍都」として大きく発展した広島の復興は、他都市に比べ遅く、バラックなども含め需要が一巡したのと仕入れ価格の急上昇などで会社は資金繰りに苦労し廃業に追い込まれたと聞いている。

山口県岩国市の旧日本海軍の航空基地跡に在日米軍の岩国基地が設置された影響もあり、広島市を訪れるアメリカ兵の姿も多かったが、父が彼ら相手の商売を始めるとか通訳などに転じる気もなかっただろうから、この本を購入したのは、単に「流行に乗り遅れまいとしただけ」だったのではなかろうか。というのも本全体には経年変化による相応の日焼けや色褪せなどはあるものの繰り返してページをめくったような<使用感>は見られない。いくつか残る赤鉛筆による下線も

どう致しまして、少しでもお役に立って嬉しいです→Not at all.  I am only too glad to have been of some help (or service) to you.

私の言うことがお解りですか→Do you get me now? (米語)

聞きとれますか→Can you follow me?

憲兵→M.P(Military police)

米兵→G.I(Government Issue)

など十数カ所に引かれているだけで、会話に役立ったとは思えない。もっともいまふうのブロークンな会話にはこんな表現は使わないよ、というご意見もあるだろうが、そこはご寛容に願いたい。とどのつまりは長く本棚の奥に眠っていたわけである。

あらためて詳細にみると「普及版」とあるから表紙カバーはなかったか。全264ページで定価100円、下に見慣れない「地方定価105円迄」とあるから、北海道や九州など東京からの送料のかさむ地域は105円のところもあったのだろうか。著者はJ.A.サージェント、J.B.ハリス、須藤兼吉の3名で、人名事典などで調べたところサージェントはイギリス・ランカスター出身でケンブリッジ大学を卒業後、広島の江田島海軍兵学校の英語講師として来日していた人物。ハリスは日本名を平柳秀夫といい兵庫県・神戸出身で新聞記者だったイギリス人の父と日本人の母との間に生まれた。横浜で関東大震災に遭い、父の転勤に伴いアメリカ・ハリウッドで少年時代を送ったが父の死で横浜に戻り、英字紙の給仕から苦労して記者に昇進した。太平洋戦争が始まると外国人収容所に一時拘束されたものの、釈放後は日本人として徴兵されて戦地に行った。もうひとりの須藤は東京商船学校の教授で海洋文学に造詣が深く、詩人でもあった。戦後は旺文社の顧問をつとめ、昭和24年に新制大学となった玉川大学で初代の英米文学科教授に就任した。英語・英文学の権威で専門は古代ウエイルズの封建制度というから米語より英語に明るかったのではなかろうか。

余談ながらハリスはすべての出版物の著者名を「J.B.ハリス」で通している。昭和61年に同じ旺文社から『ぼくは日本兵だった』という自叙伝を出版しているが、訳者がいることからすると著作はすべて英語だったか。著者は創業者で社主の赤尾好夫。昭和6年に欧文社の名前で創業したが「欧」の字を軍部から敵性語とみなされて旺文社に改名させられたエピソードは有名である。私も高校時代に購読していた『螢雪時代』や、ポケットサイズで「赤尾の豆単」と呼ばれた『英語基本単語集』にお世話になったからなつかしい。

当時の旺文社の雰囲気が伝わる奥付の「讀者へ」を紹介しておこう。

出版事業の使命は文化の向上と普及にあります。新しい文化国家建設についての出版の重要性を認識する吾々は、此の社の微力をあげて、良き本の刊行に努力します。尤もらしい言論出版が自由の名の下に横行しています。何人も言う事は易くして行うことは難い。敢て吾々は言う事を少なくして真価を讀者の批判に俟(ま)ちます。道義というものを諸賢が高く評価されることを信じ、かかる観点に立っての審判こそ吾々は絶対視します。人、社各々主張があり主義があり方針があります。吾々は一切の小手先の手段を排し、ひたむきに真価あるものの提供に此の社の総力を結集しその命運を賭します。真価を御認めの上は切に御支援御鞭撻を懇請する次第であります。

まさに<赤尾節>であり、「教育産業の雄」をめざしたその心意気が伝わる。

「讀者へ」は他の出版物にもそのままの文章で使われただろうが「尤もらしい言論出版が自由の名の下に横行しています」というのは、同じようなことが日米会話本のジャンルでも、ということだろう。<戦後出版界の神話>とまでいわれる昭和20年発行開始の誠文堂新光社の『日米會話手帖』は昭和56年に黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が出現するまで総発行数360万部という未曽有の記録を作り「戦後最大のベストセラー」といわれた。創業社長の小川菊松が旅行先で「天皇陛下の重大発表」を聞いて終戦を知り、東京へ帰る列車の中で出版を思いついたとされる。会社に戻るとさっそく社員に命じて作らせた日本語の例文を東大の大学院生にわずか3日の徹夜作業で英訳させたという。32ページの小冊子にもかかわらず、軍関係の印刷を引き受けて大量の用紙在庫があり東京大空襲でも焼け残った大日本印刷に持ち込んだのが功を奏した。

ちなみにいつも使っている古書ネット「日本の古本屋」を検索すると発行年を昭和20年から22年までに絞ってもあるわあるわ。『ポケット米日会話』(愛育社)、『ハンドブック日米会話』(朝日新聞社)、『日米会話の手引』(松陽書房)、『誰ニモスグ役立ツ速成日米会話』(金園社)、『英語略語辞典』(産業図書)、『自習英語の学び方』(荻原星文館)・・・某古書店が出品している『新版日米會話手引』(新生相互研究所)の商品説明には「B5判、二つ折り、少シミ、少インクシミ、ツカレ有、表紙には「進駐軍兵士トノ接触ハ円滑ニ!コノ表サヘアレバ誰デモ兵士ト簡単ニ話ガ出来ル」とある。加えて「四分の一サイズに折り畳まれた跡が見られるため旧蔵者は進駐軍兵士との接触に備え、本品をポケットに忍ばせていたのだろうか」とこれまた懇切丁寧な解説までついている。こういった本の性格上、傷んだり、用済み後はそのまま捨てられただろうから古書としてはほとんど残っていないようで価格はいまや5千円超となかなかの<貴重品>ではありました。

書斎の漂着本 (91)      蚤野久蔵  たらちをの記

  • 2016年10月18日 17:56

内田百閒の『たらちをの記』(六興出版)である。どこの古書店だったか忘れたが変わった題名が目について購入した。自宅に帰って辞書を引くと母親の枕詞「たらちね」の反対語で父親の枕詞を「たらちを」というとあった。装画は百閒お気に入りの版画家・谷中安規。作風は天真爛漫、自由奔放で、生きることも食べることにも頓着せずに放浪したことで「稀代の偏屈作家」といわれた百閒から「風船画伯」と呼ばれた。共通していたのは家庭環境が複雑だったこと。百閒は収録された表題作品や『枝も栄えて』、『葉が落ちる』などで父との思い出を書いているが、谷中も奈良・長谷寺門前の名家に生まれながら6歳で母親を亡くし、女出入りの激しかった父のもとで多感な少年時代を過ごした。この本は「偏屈作家」と「風船画伯」のコラボレーションと考えるとおもしろいかもしれない。

内田百閒著『たらちをの記』(六興出版刊)

内田百閒『たらちをの記』(六興出版)

『たらちをの記』は、岡山の古京町にあった志保屋という造り酒屋の婿養子だった父親の久吉が、ひどい「藪にらみ」で、それを眼科病院で手術したのを店の人に連れられて見舞いにいった記憶から書き始める。

手術は目玉を一たん引っぱり出して、裏側で引っ釣っていた筋を切ったとかいう話なので、聞いただけでも気持ちが悪かった。しかしそのお蔭で父の目は普通になったから、晩年の俤(おもかげ)を思い浮かべても別に変ったところはないが、まだ若かった頃、母と一緒に神戸に遊びに行った時写したという硝子写真を見ると、ひがら目で洋服を着込んで、猿が怒ったような顔をしているので、これが私の父かと思うと感慨を催すこともある。

花街で遊び夜明けに戻って祖母に頭を下げる父。褌一つの裸になって縁側にあぐらをかき、後ろから使用人に四国丸亀産の大きな団扇であおがせ、酒を汲み、機嫌がよくなれば歌も歌った父。

まるい玉子も切り様で四角
こがるる、なんとしよ
物も云い様で角が立つ
東雲(しののめ)の、ストライキ
さりとはつらいね
テナ事、仰いましたかネ

やがて家産が傾き没落していくが、それでも世間の人が「志保屋の久さんは、遊ぶことは遊んでも、商売の目が利くから、身上は却って先代よりも太っている」とほめた噂や、買ってもらって一番うれしかったオルガンのことをくわしく紹介する。当時、35円もしたという「山葉(=ヤマハ)オルガン」はわざわざ大阪心斎橋の店まで連れて行ってもらって購入、荷物を上下にしてはいけないという注意書きの「天地無用」の荷造りをして岡山に送らせた。壊れるたびに何度も修理して大事に使い、東京に出る際には、ふたたび「天地無用」の荷物として持ってきた。生活に困窮して何度も差し押さえの札を貼られながらもその都度、最優先で取り戻した。<父の思い出が詰まっていた>からでもあったろう。

明治38年(1905年)百閒17歳の夏、父親は岡山市郊外の佛心寺という山寺に脚気の転地療養に行ったが、病気が重なってそのお寺の一室で亡くなった。

最後の日は、父が起こしてくれというので、父の姉がそっと後ろから抱き起こした。それで北向きに坐って、暫く庭の方を見ていたが「これでいい、もう死ぬ」といってそのまま静かに目を閉じた。父の手を執って、その膝の前に額いた私は、十七の頭で、今の父の一言と、それに直ぐ続いた死との境い目を考え分けることができなかった。

『葉が落ちる』に書いた
山蝉の鳴き入りて鳴き止まず佛心寺
は、百閒が父に贈る追悼の句か。

山寺の病床で、父はそれまでの苦しみがうそのように、ほっと楽になった。その時、父の魂は抜けて飛んだのであろう。

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これは裏表紙のカットである。満月の夜、お寺の庭で踊る人たちを本堂の仏様が見守っているようにも見える。酔えば踊り出すという奇癖があったという風船画伯・谷中は昭和のはじめ版画家として注目され、もうひとりの版画界の巨人・棟方志功と同じ時代を生きた。しかし棟方が「世界の棟方」と呼ばれたのに対し、東京大空襲で住まいを焼かれ終戦翌年の秋に栄養失調で餓死した。

ところで垂乳根と漢字があてられる「たらちね」には忘れられない思い出がある。二十数年前、津軽海峡をシーカヤックで横断した帰りに青森県の日本海沿い、深浦町北金ヶ沢にある樹齢千年以上の大イチョウをオッサンふたりで見に行った。幹のあちこちから乳房状というか鍾乳石のような無数の気根が垂れ下がっているところから別名「垂乳根銀杏」という日本一大きなイチョウで、古来、多くの女性たちが「母乳がよく出ますように」と祈った信仰の対象であったという。夏場だったから青々と繁った葉群を見上げながら一周したが<乳房>はいずれも失礼ながら老婆のそれであるなあと思った。ご一緒したのが若い女性だったらこちらの考えが見透かされるかもしれないと思ったから赤面していたかも。脱線ついでにこの本を入手するまで正直知らなかった「たらちを」は垂乳男と書くそうな。相撲界に転じると理想の力士像といわれた「あんこ型力士」より筋肉質の痩せ形が注目される時代である。昔なら幕内に何人かいた<垂乳力士>は影をひそめ、このことばもいまや「死語」になって久しい。