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蚤の眼 大世界史 365 ㉒ 9月22日

  • 2010年12月21日 16:45

リンカーン大統領奴隷解放宣言す(1862年・文久2年)
前年に始まった南北戦争は敵味方入り交じって、一旦は収まるかに見えたが再び戦火高まる。この日に第一次と言うべき「奴隷解放」を宣言するが本格的な形は1863年の11月、ゲティスバークの演説まで待たねばならない。改革というものは時間のかかるものなのです。どんなに技術革新だけが進行しても、なかなかにいかないものですね。
鶴ヶ城炎上・会津藩降伏(1868年・明治元年)
会津の陥落がほぼ決定的になった20日に京都を発って江戸に向かった。その頃、16,7歳の少年からなる白虎隊は戸ノ口原で敗れ飯盛山に退いていたが、会津若松城下が火の海となっていくのを見て落城と思い込み互いに刺しちがえて死んだ。当時の大砲の弾丸は、落下してきたところを、まだじゅうじゅう熱いうちに、濡れたもので取り押さえ、池に投げ込んでしまうと爆発しなかった。それで、官軍に囲まれた城内の女性たちはこの弾丸拾いになかなか活躍したという話しがある。
石井十次岡山孤児院を設立(1887年・明治20年)
『オー・ミステイク』(1950年・昭和25年)
19歳の日大職員山際啓之が同僚の給料191万円を輸送中の車から強奪して恋人ととの逃避行の資金として逃げたが、2日後に同棲中のところで逮捕された。その際、傍らの恋人に「オー・ミステイク」と言ったことで、悪いことをしたという罪の意識を感じない”アプレ・ゲール”世代の特徴を表していた。これを日大ギャング事件と言っていたのだけれど、なんだか牧歌的ですね。食べることに真剣な時は、こんなものなんだ。

蚤の眼 大世界史 365 ㉑ 9月21日

  • 2010年12月21日 15:13

寺内正毅首相、米騒動の責任を取って辞任(1918年・大正7年)
8月に富山県中新川郡西水橋町で始まった米騒動は全国に波及して宇部炭坑等では軍隊まで登場、死者が出る騒ぎとなった(8月3日)。 組織化されていない民衆の抵抗運動に好意的だった朝日新聞はジャーナリズムの本場・大阪を拠点に政府を追及した。ついには民間右翼の攻撃もあって、大阪中の島公園の灯籠に村山竜平社主が縛り付けられる事態に発展し、同氏は辞任した。鳥居素川、長谷川如是閑、大山郁夫らも行動を共にし、大正デモクラシーの一方の騎手が論壇を去った。このあとに原敬内閣が組閣されるが、大きな流れは右旋回して行くことになる。
室戸台風荒れる(1934年・昭和9年)
大阪を中心に関西圏を襲った巨大台風は猛烈な勢いで、死者行方不明者3,066名、家屋全半壊42,000戸、瞬間風速60メートルを記録した。大阪では小学校の七割以上が倒壊した。この年は満鉄で大連ー新京間に特急「あじあ号」が運転を開始した明るい話題もあった。

蚤の眼 大世界史 365 ⓴ 9月20日

  • 2010年12月10日 18:57

酒は涙か溜め息か」発表され大ヒット(1931年・昭和6年)
高橋掬太郎作詞・古賀政男作曲のこの歌を藤山一郎が歌って大ヒットとなった。心の憂さやら、悩みやらが沸き上がって、それをどこにも持っていきようがなくなりつつあった閉塞感のある時代。どことなく今時と似ていなくもない。

蚤の眼 大世界史 365 ⓳ 9月19日

  • 2010年11月24日 18:46

9・18ストップ令(1939年・昭和14年)
日本国政府は閣議において前年の第一近衛内閣で成立した国家総動員法に基づき物価、運賃、家賃、賃金などをこの日の水準でストップさせることを決定した。「9・18ストップ令」というんです ね。青果物は需要調節が難しいということで除外された。この法案を巡っては当然ながら”私権の制限”にあたるわけだから、帝国憲法にてらしても違反であるはずなのに、当時の革新系の官僚が社会大衆党と共にごり押しをしてしまった。なんだか随分と社会主義に近づいているではないかとの批判があったけども、結局日本人は国家の言いなりになったことに変わりはない。中国政府は2010年7月、「国家動員法」という法律を作ったそうで、どこの国も指導者の考えることは、人民をどのようにも扱えるようにして行くことにかわりはない。警戒をおこたりなく。

蚤の眼 大世界史 365 ⓲ 9月18日

  • 2010年11月9日 19:09

満州事変起こる(1931年・昭和6年)
この日の夜10時20分、満州の奉天より北8キロメートルの柳条溝で満州鉄道のレールを爆破したのは独立守備歩兵第二大隊の第三中隊、河本末守中尉の一行である。関東軍は爆発音を合図に一斉に行動を開始、満鉄沿線の各都市をほとんど日本軍の占領下に置いた。”軍が急いで動くのはよくない。あくまで外交交渉によって…””何を言うか! 既に統帥権は発動されたのだ” とこうなって既成事実が積み重ねられていくのです。いつかきた道をまたこの国は歩こうとしているのだろうな。戻れないのですよ。
順陽丸撃沈す(1944年・昭和19年)
第2次世界大戦の折りに捕虜となった人々や労務者を強制労働のために日本各地へ運ぶための輸送船であった。排水量5,065トン。連合国側からは「ヘルシップ」(地獄船)などと呼ばれていた。スマトラ島の鉄道建設のために6,000人余を運んでいたところ、インドネシアの沖合で、イギリス海軍の潜水艦の魚雷によって沈没した。5620人の死者を出し、生存者は723人だったという。
全学連結成(1948年・昭和23年)
全国の145の大学によって全日本学生自治会総連合が結成された。初代の委員長は武井昭夫だった。時代の洗礼を大きく受けながら、学生たちは民主主義の理想をまずもって、当初は人民の側にたち、共産主義に、そして大きな転換点を迎える中で、尖鋭に戦ってきた。砂川闘争、六全協、安保闘争、成田・三里塚闘争、70年安保、全共闘運動など の足跡を残しながら、今や五派に別れてセクト間の戦いだけになってしまった感があるけれど、最も敏感な感覚を持った青年たちは、いまどうしているのだろう? 豊かな生活の中に完璧に埋もれてしまったのだろうか?