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連載 ジャパネスク●JAPANESQUE かたちで読む<日本>7 柴崎信三

  • 2013年10月30日 12:05

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

7 〈陶酔〉について

     山田耕筰と北原白秋の1940年

勝鬨橋の夜景(東京・築地、1940年竣工)

勝鬨橋の夜景(東京・築地、1940年竣工)

 芒種と呼ばれる季節である。隅田川を見下ろす高層ビルの十四階にあるオフィスから、團伊玖磨は勝鬨橋を行き交う車の流れを見つめている。細かい雨が窓を打って、滴を硝子に落としている。行き交う船を通すために、かつては定時に交通を遮断して中央から橋げたを跳ね上げたこの橋は、いまは重く閉ざされて開く気配がない。

 目を遠くへ移せば、開通を控えたレインボーブリッジが雨に霞みながら大きな弧を描くように東京湾を横切っている。晴海の埠頭の白い巨船は入港したクルーズ船だろうか。

 昭和が平成に改まったばかりの初夏が近づいている。パイプをくわえて眼下の見慣れた橋を眺めているうちに、團は遥かな少年の日の記憶を呼び起す。

 日露戦争で旅順要塞の陥落を記念して作られた渡船場に、月島の埋め立て地をつないだ可動橋を設ける工事が始まったのは1933(昭和8)年である。それから7年を経た1940(昭和15)年の6月14日、きょうと同じような芒種の季節に橋は完成した。総力戦体制へ向かって「皇紀2600年」を記念する国家行事が相次いで開かれた年である。

隅田川を大型船が航行できるように設計されたこの跳開橋は、航行時に晴海通りの交通が遮断され、中央部から橋が切り離されて八の字に開く奇抜な眺めが評判になった。この年、月島地区で開催が予定されていた日本万国博覧会の会場へつなぐ橋でもあり、その名が示すように戦勝と国威発揚へ向けた、戦時下の人々の心象を映した橋でもあった。

勝鬨橋が開通したその日、16歳で音楽の道を歩みはじめた中学生だった團は、麻布の自宅から友人たちと自転車を飛ばして見物に出かけた。一日5回ずつ20分間、246㍍の鋼鉄で出来た橋が中央から電動式で持ちあがり、70秒で跳ね上がって左右に直立する。その間の水路を大型の船舶が白波を立てて航行してゆく眺めは、壮観だった。

 

 この橋を眺めながら、若い日の自分を音楽の道へ導いた師の作曲家、山田耕筰のことを思い起こしたのは、日本人による初めての交響曲として知られるその作品に「勝鬨と平和」があることにくわえて、1940年という不思議な年の記憶が重なるからであろう。

 前年の1939(昭和14)年の、やはり芒種の季節だった。

 音楽が好きで「どうしても作曲家になりたい」という熱意に、美術史学者の父、伊能は「それなら山田耕筰先生にまず素質を見てもらおう」といって15歳の團を伴い、当時すでに飛ぶ鳥を落とす勢いの作曲家だった旧知の山田を、赤坂檜町の自宅に訪ねた。

 父の考えは息子の計画を断念させることだった。時代と未知の才能を考えれば、作曲家への道は無謀というほかはない。山田から引導を渡されれば、息子も諦めるであろう、と。応接間でまみえた山田は、例の禿げ頭に大きな目玉を剥いて作曲中のオペラ「黒船」(夜明け)についてひとしきり話したあと、「坊や、こっちへ来なさい」と團を縁側に導いた。

 そして、両手に少年の顔をはさんでじっくり眺めまわしてこういった。

 「この子には作曲をやらせましょう」

 まことにあっけない託宣であった。父は茫然としていた。このころ山田は星占いや人相占いに凝っていて、『生まれ月の神秘』などの本まで書いている。事前に断念させることを父と約束しながら、それを破って團を作曲への道へ導いたのはその直感に負っている。

 「からたちの花」で知られる作曲家、山田耕筰の境涯は、日本と西洋の出会いと亀裂を象徴するかのように、評価の振幅と褒貶に包まれている。それはいくつもの戦争を挟んで西洋音楽を日本の風土から生みだそうとしたこの音楽家と時代の困難、と言い換えるべきかもしれない。以降、近くに接しつつ時には遠くに離れてその歩みを追いかけてきた團の追憶のなかで、山田の後ろ姿は遠い海嘯のような「昭和」の残響に包まれている。

 

〈ジーザス、ラスミー、ジッサイノー/ホーライ、バイブル、テスミッソー〉

「これが私の得意な歌であった」と山田は記している。

Jesus loves me this I know(主われを愛す)という英語の賛美歌に幼い日に親しんで、意味も知らぬまま諳んじて歌っていたのである。

クリスチャンの家庭で、築地の居留地の宣教師館や横須賀などへ移り住んだ少年の耳には、いつも教会の讃美歌と鎮守府の勇壮な軍楽が響いていた。表向きは伝道のため、という父は不在勝ちで、折り合いのよくない家庭から愛情を受け止めた記憶が乏しく、心を寄せたのは年の離れた姉たちであった。その寵愛に囲まれた花園は、ほどなく父の死によって断たれる。養子に出された耕筰は東京・巣鴨にあったキリスト教の苦学生に対する救済施設「自営館」に預けられて、活版工場で働きながら学ぶ日々を過ごすことになる。

教会と活版工場と夜学校が一体となったこの「自営館」は、季節になると純白の花が咲き誇る枳殻の生垣で囲まれた広い敷地にあって、十代の少年たちが朝から文選箱と印刷機の前に立った。彼等は授業が終わるとくたびれた体を夜学の教室に運ぶのだった。

ここがやがてのちに、盟友だった北原白秋の詞想を得て、山田の生涯を代表する歌曲となる「からたちの花」を生んだ故郷になる。

 

からたちの花が咲いたよ。/白い白い花が咲いたよ。
からたちのとげはいたいよ。/靑い靑い針のとげだよ。

 

よく知られたこの抒情歌が「赤い鳥」に公表されたのは、それから遥かに時代を下った1924(大正13)である。もとより、この歌の詞は白秋が柳川の少年の頃の思い出を重ねて書いたものといわれるが、それは山田の「自営館」の少年時代の記憶が色濃く投影された作品でもある。それは嫋々とした旋律にのせたこの歌の最後の連の「からたちのそばで泣いたよ」にみえる。
からたちのそばで泣いたよ。/みんなみんなやさしかつたよ。
からたちの花が咲いたよ。/白い白い花が咲いたよ。

 

〈枳殻の、白い花、青い棘、そしてあのまろい金の実、それは自営館生活におけるノスタルジアだ。そのノスタルジアが白秋によって詩化され、あの歌となったのだ〉

 

戦後の回想でこのように振り返る山田のまなざしには、遠ざかった若い日への記憶の美化がもちろんある。いま読み返すと、自伝などに記された山田の人生への過剰な感激や詠嘆には、いささか鼻白むところも少なくない。しかし親元から放逐され、別れた母を恋いながらなじまない年上の職工からいじめられて独り嗚咽したという、山田の痛ましい「自営館」の青春への悔恨が「からたちの花」の出発点にあることは、おそらく疑う事は出来まい。この浪漫と哀歓の過剰性にこそ、山田の音楽の起点があるといってもいい。

山田と白秋はこの歌を作った頃に雑誌「詩と音楽」を立ち上げ、詩人と作曲家のコラボレーションによる童謡を通して、日本語と西洋音楽の融合を目指す深い友情で結ばれていった。のちに山田はこの関係を夫婦に見立てて「詩人は夫であり、作曲家は妻である」といっている。白秋は戦時下の1942(昭和17)年に57歳で没したが、山田は追悼文でこの「夫婦」の関係が深まったころを振り返っている。

 

〈当時白秋は象徴詩から小唄、民謡に奔つたばかり、ひたすら日本的簡素と侘と気韻の世界にあこがれる新流風に向ひ、文人画めいた風雅の裡に芸術と生命を求めてゐた。私は彼が青年期の異国趣味、官能描写、浪漫的情感の噴出から次第に日本趣味に変わつて行き、詩の色彩も幻惑的な油絵風から水墨風に変化した時代に、自分の愛する夫を見出した訳である〉

 

同時代に詩と音楽で結ばれた「夫婦」は、少年期への郷愁で彩られた「モダンな抒情」を歌曲によって描き上げた。それは日本の「近代」という時代に底流する人々の憧れと哀しみを掘り起こして、香り高く歌いあげたというべきだろう。

 

 この道はいつか来た道、/ああ、そうだよ、/あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘/ああ、そうだよ、/ほら、白い時計台だよ

 

このコンビのもう一つの代表作、「この道」は、白秋の詞が1926(大正15)年に書かれており、耕筰が翌年に曲をつけた。こちらは白秋が舞台を「北海道風景」と明示しているが、詩に散りばめられてアカシヤの花や時計台、馬車といった風景と、緩やかで明るい抒情的な旋律には、遠く「西洋」を夢見るモダニズムが息衝いている。

このような西欧への憧れと故郷への郷愁で結ばれた、耕筰と白秋という音楽と詩の「夫婦」がやがて、日本が戦時体制へ向かうなかで国民を戦勝へ動員し、欧米を敵と仰いで「皇国」を鼓舞する翼賛芸術家に、こぞって変身していく。それはなぜであったのか。

 

不遇と孤独のなかで若い耕筰に育った音楽への情熱の焔は、多くの僥倖というべき人との出会いを得て羽根を広げて行った。一人は長姉の恒子が結婚した英国人の教会音楽家、エドワード・ガントレットである。岡山の六高に勤務していたこの義兄から、山田は西洋音楽の基礎にふれて、東京音楽学校への進学を果たした。

日本の女性ピアニストの草分けである幸田延、のちに日本を代表するプリマドンナとなる三浦環といった才媛、ドイツ人のヴァイオリニストのオーグスト・ユンケルをはじめとする外国人教師ら、錚々たる顔ぶれが、当時の音楽学校の教壇に立っていた。ようやく音楽に正面から向き合いながら、同級生たちと親しんで悪戯や失敗を繰り返す上野の山の奔放な青春は、山田にとって日本で初の作曲家として〈世界〉へ羽ばたく跳躍台であった。

東京音楽学校を卒業した山田は、三菱財閥の岩崎小弥太の援助を得て1910(明治43)年にドイツ留学でベルリンの地を踏む。もともと奔放不羈なコスモポリタンといった性格であり、「国家有為の人になって下さい」と励ます岩崎に対して「国家の役に立つ前に、まず自分を完成させたいのです」と答えて平然としているような青年であった。

シュプレ河を望む下宿から王立音楽学院に学ぶベルリンでの青春は、失意と波乱と浪漫が交錯する疾風怒涛の日々であった。祖国に置いた恋人、徳子との別れと帝劇の女優の村上菊尾との婚約、その解消と下宿先の娘のドロテアとの婚約といった、目まぐるしい女性遍歴はついに生涯にわたった。失った母を恋うように多情で女性に惚れやすい山田の持ち前の性格に加えて、自由でデカダンスな留学生活が拍車をかけた。風評は祖国に伝わり、恩人の岩崎から留学の援助の打ち切りを伝えられても、たじろぐことはなかった。

リヒャルト・シュトラウスに憧れながら、高いレッスン料に直接指導を受けることはかなわなかったが、その影響を濃厚に受けたといわれる交響曲へ長調「勝鬨と平和」を完成させたのは1912(大正元)年、滞独二年目の夏であった。この日本人の手になる初の交響曲は、第一次大戦の勃発という世情を背景にして後期ロマン派の香りを濃厚に伝える作品として、日本の近代音楽史に大きな足跡を残すことになる。

オペラの洗礼もここで受けた。ベルリン歌劇場でシュトラウスの「サロメ」や「薔薇の騎士」、そして交響詩の「ツァラツゥストラはかく語りき」などを追いかけるようにして見た。そこから日本の伝統である歌舞伎を素材に活かして坪内逍遥の「堕ちたる天女」を仕上げたのもこの年である。これも日本人の創作による初のオペラ作品として知られるが、ようやく全曲が上演されるのは帰国してから17年を経た1929(昭和4)年のことである。

10年ほどのちに欧米各地を巡った折、ニューヨークのカーネギーホールでシュトラウスの演奏会に招かれ、この思い焦がれた巨匠との対面を果たした感激を山田は記している。

 

〈シトラウスと私との会見は、五分間ばかりで終わりました。しかし短時間であっても、この会見は、私にとっては何ものにもかへがたい貴重な時間でした。十年間別れていた恋人と再会したような心もちで、私は時間の許すかぎり、私の心のありったけを語りました。十何年前に、王立歌劇場で初めてシトラウスを聴いて、どれほど私が感激したかといふこと、ニージンスキーの踊りの夜、そのあとをしたって、ウンター・デン・リンデンのWeinstubeまで、シトラウスを尾行したといふこと、敬慕のあまり、師事しようと決心して果たさなかったことなど……〉(“リヒアルト・シトラウスの印象”「詩と音楽」1923年)

 

後期ロマン派の代表的作曲家として交響詩や歌劇、交響曲などに多彩な才能を発揮したこの巨匠は、やがてナチス政権下で帝国音楽院の総裁という音楽家としての最高位に遇され、翼賛的な音楽活動にかかわったことから戦後、無罪とされたとはいえ戦争協力で裁かれるという運命を歩んだ。傾倒した若い日本人音楽家の山田が、その音楽ばかりでなく国家と戦争とのかかわりでも同じような歩みをたどるのは、まことに皮肉である。

 

波乱万丈といえばその通りだが、山田の音楽家として毀誉褒貶の激しさの裏には、持ち前の浪漫的性格がとりもつ移り気な女性関係ばかりでなく、明治以降にあらゆる西洋音楽の様式が流入するかたわら、日本の伝統的な情念や旋律を持て余してさ迷うパイオニアとしての自恃と不安も、おそらく影を落としていた。西洋音楽の評価の水準が確立していない社会にあって、ドイツ帰りの山田にはわがままとスキャンダルがいつもつきまとった。

帰国してのちに声楽家の永井郁子との結婚と離婚、さらに村上菊尾との再婚など、またしても目まぐるしい女性遍歴にさすがの岩崎小弥太もさじを投げて支援を打ち切り、自ら率いる東京フィルハーモニー協会は赤字で解散の憂き目をみるが、それでも今度は米国への演奏旅行を計画する。近衛秀麿らの支援で1918(大正7)年にこれを実現させる行動力と、人を動かして新境地を開いてゆく才覚には驚くべきものがある。

めげることがない。それは裡に秘めた自負が裏打ちしている。ホノルルからロサンゼルスを経てニューヨークへ入った山田は同年10月10日、カーネギーホールの第一回演奏会でニューヨーク交響楽団、ニューヨーク合唱協会合唱団を従えて自作の交響詩「暗い扉」「曼陀羅の華」など、さらに翌年1月24日の第二回演奏会では交響曲「勝鬨と平和」やワーグナーの「ニュールンベルグの名歌手」の前奏曲などを演奏して成功を収めた。かつての憧れの巨匠、リヒャルト・シュトラウスと面会を果たしたのはこの時であった。

日本初の西洋音楽の本格的な作曲家として、山田が飛躍するための技術的な修業の最初の舞台がベルリンだったとすれば、交響楽団という演奏の形態を日本に根付かせるとともに、オペラを含めた興行としての西洋音楽の確立に足場を提供したのは大陸の満州だった。それは戦時体制へ向かうなかで、日本の国民を総力戦へと導くプロパガンダとしての音楽を主導した、「もう一人の山田耕筰」への大きな転換点でもあった。

日本の西洋音楽が未熟であることは、世界を巡ってきた山田が身にしみて感じてきたことである。作曲や指揮の技術はもちろん、オーケストラやオペラを編成するにしても国内の演奏家や声楽家の人材の層はいかにも薄い。東京フィルハーモニーの頓挫を経て、「完全な楽劇を上演するには、まず絶対に必要なのは優秀な管弦楽団を養成することだと考えるようになった」という山田が1920(大正9)年、日本楽劇協会を立ち上げたのちに目を付けたのは、日本が大陸進出へ植民地化を目論む満州であった。そして、アジアへの野望を広げたあげくにいくさに敗れて全てを失う日本の運命に深くかかわった、この大陸の傀儡国家がたどる短い歴史に寄り添うように、山田の旋律は大きく旋回してゆくのである。

 

白秋との「夫婦のような関係」で詩と音楽の〈結婚〉を追い求めた雑誌「詩と音楽」は、1923(大正12)年9月の関東大震災で版元のアルス社が焼失して休刊にいたった。西洋音楽と日本的な叙情の融合を通した、二人の理想郷が震災という自然災害をきっかけに断ち切られたことは、山田という一人の音楽家にとっても、そして日本の近代の音楽の歩みにとっても大いに暗示的な出来事であった。

 

〈この大正十二年という夏の悩ましさは亦一入であった。/私は書斎から、時には露台の腕椅子から、幽かに微笑を送っていた。いや、その花の圓かな盛りを蹲んで水うつ妻もうれしいと見た。遊ぶ我が子もかはいいと見た。/朝咲きて夕べは凋む阿芙蓉の花の紅ゆえ水うたせけり/ある夕べ、かうした恵まれた、而も寂しい観想の中に、私は私ひとりの秋色を寂しんでいた。/その逸興の、その次の日の烈震であった〉

 

「詩と音楽」の最終号となる震災の翌月に刊行された「震災紀念号」で、白秋はこのように綴った。耕筰は次のように記した。

 

〈《詩と音楽》は眠る。Wotanにあらぬ自然の暴令によって、いま、白銀の楯にその胸を蔽われてねむる、もえさかる炎の子守唄に揺られて圍れて眠る〉

 

この関東大震災の知らせを、山田は満州のハルビンで聞いた。本格的なオーケストラを日本に根付かせようという思惑から、白羽の矢を立てたのは当時この地にあって「東洋一」の折り紙がつけられていた東支鉄道交響楽団である。この楽団を招聘しようと、東京市長の後藤新平や政治家に働きかけて、九月の初めには契約にこぎつけたばかりであった。

ハルビンはもともと国際色の強い都市であったが、1917年にロシア革命が起こると祖国を捨てて亡命したロシア人や流浪するユダヤ系の演奏家たちが集まってきていた。東支鉄道交響楽団はそうした人材の受け皿として、優れた演奏活動を繰り広げていたのである。

震災はこの計画を頓挫させたが、1925(大正14)年4月にはこうしたハルビン在留のロシア系演奏家と日本の演奏家を合同した交響楽団による「日露交歓管弦楽演奏会」が、東京の歌舞伎座を舞台に四夜にわたって華やかに開かれる。

コンサートマスターにニコライ・シフェルブラッド、次席にヨーゼフ・ケーニヒといった、華々しいキャリアの演奏家を前にして山田と近衛秀麿が指揮台に立った。ベートーヴェンの交響曲第五番、チャイコフスキーの交響曲第六番「悲愴」、ワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」序曲などの演目に混じって、山田耕筰の「明治頌歌」と「御大典奉祝前奏曲」が演奏された。これは、日本人が日本人の指揮者のもとで初めて直接本場の西洋音楽の演奏に出会った、画期的な音楽史の一コマであった。

 

日本における西洋音楽の進化にあたって人材と演奏の場のハブ(中心)となった満州との絆がその後も深くつながれて、昭和期の山田が戦争協力へ向けた〈音楽報国〉の坂道を駆け上がってゆくのは歴史がとりもつ必然であったのだろうか。

辛亥革命で北京の故宮から放逐されて流転を重ねていた清朝のラストエンペラー、溥儀が建国された日本の傀儡国家「満州」の執政として迎えられ、首都の新京(長春)に入ったのは1932(昭和7)年の3月8日である。

折から国際連盟からリットン調査団が満州入りした時期で、この時山田は日本の植民地として発足した満州の新たな国歌を求められて作曲している。

 

〈天地のうちに新満州がある。新満州はこれすなわち新天地。天を頂き地を立てて苦なく憂いがない。わが国家を造成するや、親愛のみがあって、少しも憂いや仇が無い。人民は三千万、人民は三千万、十倍に増加するとも、なお自由を得る。仁義を重んじ、礼譲をとうとび、我をして身を修めさせる。家すでにととのい、国すでに治まる。この他に何を求めようか。これを近くしては、すなわち世界と同化し、これを強くしては、すなわち天地と同流する〉(武藤富雄『私と満州国』から)

 

歌詞は溥儀の重臣で初代国務総理を務めた鄭孝胥が担当し、山田の作曲で「大満州国歌」と名付けられた曲は、しかしついに人々の前で歌われることのない「幻の国歌」となってお蔵入りする。洋楽の旋律を生かした山田の曲想の難解さも理由の一つだったが、日本側から見ると儒教的で日本との親和が窺えない鄭孝胥による詞の不評が背景にあったといわれる。結局、満州国国歌はその後二度にわたり作り直しが行われるが、戦時体制へ向かう日本がアジア各地に戦線を拡大するなかで、国民感情を戦争へ向けて鼓舞する方向へ山田の音楽活動が転位してゆく一つのきっかけがこの「幻の満州国国歌」であった。

作曲や演奏活動ばかりでなく、のちに戦時期の音楽を国家的な統制のもとで指揮にあたる日本音楽文化協会などの運営、満州事変の翌年の1932(昭和7)年に溝口健二が監督したプロパガンダ映画「満蒙建国期の黎明」の音楽担当など、それ以降の山田は広範な戦争翼賛の活動で指導的立場にのぼってゆく。

日本がドイツ、イタリアと結んだ枢軸体制のもとで、1937(昭和12)年に制作されたドイツのアーノルド・ファンク、伊丹万作の共同監督による日独合作映画「新しき土」の音楽も担当した。筋書きは欧州留学で西洋に感化されて故郷の婚約者を捨てようとした主人公の日本人青年が、帰国してから火山に身投げをしようとする婚約者の後を追うなかで祖国に目覚め、縁りを戻してともに新天地の満州を目指すという、国策映画である。

ところがこの映画はファンクと伊丹という二人の監督で脚本と演出に対立が生じ、結局二つのヴァージョンが国内と満州などで別々に公開されることになる。日本列島の各地の風景をふんだんに織り込んで異国情緒を際立たせたファンク版では、ナチス流の国策宣伝の影で山田の西欧的な音楽は後退して不本意な扱いになった。一方の伊丹版では「個人は国家や民族や血で結ばれた鎖のなかの一部である」といった思想教化を謳いながら、ロマンティックな山田の音楽に重ねて最後は満蒙開拓へ向かう主人公たちの回生が描かれる。

 

〈なんと明るい 天地だ今日だ/響けトラクター 雲までも 吹けよ緑の東風/風よみてくれわしらが土を/若い日本だおまえよわしよ/どこに住もうと日は高い〉

 

「新しき土」のラストシーンは、満州の大地をトラクターで耕すらす若い二人の場面に主題歌の「青い空見りゃ」の歌声がかぶさりながら終わっている。作詞はあの「詩と音楽」で結ばれた盟友、北原白秋である。

 

山田耕筰はこの翌年の1938(昭和13)年に陸軍省報道部嘱託になり、中国で漢口攻略戦に従軍する一方、「昭和讃頌」を作曲した。1940(同15)年には交響詩「神風」を発表し、その翌年には演奏家協会の「音楽挺身隊」を結成して自ら隊長に就いている。

「音楽挺身隊」の隊長となった山田は高級将校の軍服に長靴、サーベルという姿で演奏団を率いて各地を巡回し、地域の空き地や集会所で軍歌や戦時歌謡を演奏するなどして戦時の人々を慰安するとともに、臨戦体制への一体的な結束と覚悟を人々に鼓舞した。

 

〈一體戦争はドラマチックなものであるが、ドラマの中には何とも云へないデリケートな叙情面がある。それが戦争にもあるのではなからうか。実際に於て死物狂ひになり鐡砲を打ちまくつてゐるが、やがていつかはなしに打ちやめる。淋しくなつて居ても立つても居られないやうな空寂しさに襲はれる。ふと見ると傍らに戦友が倒れてゐる。そしてその傍に秋の尾花が咲いてゐる。ここでコンヴェンショナルに云へば花を折つて戦友の胸に載せてやりたいといふ気持になる。ロマンティックな作家だつたらかういふ抒情面を歌ふだらう〉(「戦争交響楽―従軍を前にして」1939年2月『婦女世界』)

 

山田の戦争観には精神的なネオテニー(幼形成熟)のような現実感覚の欠落と、浪漫的な没入への陶酔がある。それが総力戦へ向かって自らの「戦線」を広げる54歳の山田の「音楽報国」の起点であった。音楽がそこで果たす役割については、こんな発言もある。

 

〈内閣情報局推薦の「愛国行進曲」を一人の男が歩きながら歌ってゆく、すると向うから女中さんなり、八百屋の若い者なりが唱って来る。勿論彼等はお互に面識はない、然しニヤツと笑いながら顔を見合わせて通り過ぎる、何んてうれしい情景ぢやあないか。/彼等は同じ歌を口ずさむことによって以心伝心でお互の気持がわかるのだ。/これと同じことで日本人と支那人が一つの歌を唱和する場合其処に自ずと感情の融和が生れるのではないかと思ふ。この空気は到底理屈や討論によって得られるものではない〉(「時局を語る」1938年4月『中央産業組合新聞』)

 

カンタータ「皇軍頌歌」(1942年)、「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」(1944年)など、戦争翼賛へ向けた国家の指導的立場から国民を「聖戦」へ導く山田の音楽活動は、終戦まで一貫して続き、この間に百曲を超える夥しい数の戦争翼賛の歌謡や軍歌を作った。そのパートナーとして作詞にあたったのが、「詩と音楽」で「夫婦のような関係」とまで呼ぶ友情を結び、映画「新しき土」で主題歌を作詞した北原白秋であった。

作詞活動を通したこの時期の白秋の戦争協力も、夥しい作品となって残されている。

白秋は戦時体制に向かって「国民歌謡」という構想を掲げて、校歌や社歌などの社会的な歌曲から広く国民に親しまれる戦時歌謡にいたるまで、山田と歩調を合わせて「聖戦」の完遂へ向けた作詞を重ねた。そこにはかつての「邪宗門秘曲」の絢爛とした頽唐と浪漫の美学はもちろん、「待ちぼうけ」や「ペチカ」などの童謡で山田とともに探った初々しい抒情の世界は影をひそめて、一世を風靡した耽美詩人の面影はすでにない。

満州事変の日本の行動を批判したリットン調査団の報告を不服として、日本が国際連盟を脱退した時の《脱退ぶし》では「何が聯盟、さよならあばよ」とうたい、《皇軍行進曲》では「皇軍の進むところ、敵無し、今や満蒙の野はよみがへる」とうたった。

このようにして白秋は、戦時の翼賛音楽を通して再び山田と「夫婦のような関係」の再現を夢に見たのだろうか。

 

「皇紀2600年」を記念して国民的なキャンペーンが国を挙げて繰り広げられた1940年、つまり昭和15年という年は、日米開戦を翌年に控えた列島が一種のユーフォリア(陶酔的な熱狂)に包まれた不思議な年であった。

16歳だった團伊玖磨は山田耕筰のお墨付きで、東京音楽学校を目指して下総脘一から和声学を学んでいた。友人と自転車に乗って勝鬨橋の開通を見に行ったのは、この橋が皇紀2600年を記念した日本万国博の会場に予定されていた晴海地区への入り口として建設されたからでもある。その年の秋、團は東京宝塚劇場で行われた「皇紀2600年」の奉祝楽曲演奏会で山田の畢生のオペラ作品「夜明け」を観た。

黒船で下田に来たハリスとお吉の悲恋を文化の衝突として描いたパーシー・ノエルという米国人作家の作品は、しかし若い團を満足させなかった。山田の台詞の細部へのこだわりが音楽と齟齬してオペラとしての骨格を損ねているように思えたのだが、今思い返せば時局の中で音楽家としての恩師が置かれた立場を映したものでもあったのだろう。

この年を祝って日本が世界各国の代表的な作曲家に依頼した祝典曲を披露する奉祝演奏会も、忘れがたい記憶としてある。師走の12月7日、勝鬨橋からほど近い歌舞伎座が会場だった。イタリアからイルデブラント・ピツェッテイの「交響曲イ調」、フランスからジャック・イベールの「祝典序曲」、ハンガリーからシャーンドル・ヴェレッシュの「祝典天交響曲」、そしてドイツからは山田の若い日の憧れの人、リヒアルト・シュトラウスの「祝典音楽」が寄せられ、臨時に編成された158人の管弦楽団が、山田を含めた内外の指揮者の下でこれを演奏した。オーケストラの後方の雛壇に東京の寺院から集めた10数個の鐘が置かれて、重々しい響きを奏でた。少年の團の目には指揮台に立った山田の晴れがましい燕尾服とともに、会場で駐日ドイツ大使のオットーに付き添われた首相の近衛文麿のどこか所在のなさそうな姿が焼き付いている。

二か月前、日独伊三国同盟が結ばれたばかりで、この演奏会では米国は外交関係の悪化から作品の依頼に応じず、イギリスのブリテンから寄せられた曲も意趣返しのような鎮魂歌だったために、祝典に相応しくないという理由から演目から除外された。

その年は隣組制度が発足して近隣の間での相互監視と言論の統制が強まる一方、劇場や映画館の早朝興業の停止やダンスホールなどの閉鎖で、市民の生活は耐乏と節約へむけた戦時体制がひときわ強まっていたが、一方で「紀元2600年奉祝」の祝祭行事が年間を通じて大都市を中心にさまざまな分野で相次ぎ、軍需景気も相まって盛り場や行楽地への人出は大幅に増加していた。開戦前夜の奇妙な熱気と陶酔が人々を包んでいたのである。

 

〈金鵄輝く日本の/栄えある光 身にうけて/今こそ祝え この朝/紀元は二千六百年/ああ一億の 胸は鳴る〉

 

巷にはこのような「紀元2600年奉祝歌」の軽躁な旋律が流れていた。

11月10日には皇居前広場で外交団や各界代表ら五万人が出席して政府主催の記念式典と祝宴が開かれた。近衛首相が壽語を読みあげ、若い昭和天皇が勅語を発したあと、頌歌が演奏されて「天皇陛下万歳」が三唱された。神輿や楽隊のパレードや日の丸を手にした祝賀パレードが終日各地で繰り広げられ、国民の高揚は極まった。

 

65歳の團伊玖磨はオフィスのフロアから窓外の風景を見ている。

半世紀の歳月を経て、眼下にのぞむ勝鬨橋は相変わらず芒種の雨に濡れている。晴海通りを行き交う車の流れは途切れることがない。この橋げたが跳ね上がって船を迎える風景は、もう見ることができない。

團はあの年開かれたもう一つの奉祝演奏会の光景を思い起こしていた。

11月26日、日比谷公会堂を会場に東京音楽学校の生徒が総出で演奏した信時潔作曲の交声曲(カンタータ)『海道東征』の公演である。「海ゆかば」で知られるこの作曲家が神武天皇の東征を主題にして日本の建国神話を描いたもので、『古事記』などに由来を求めた、独唱と混成合唱による擬古的な旋律の歌詞を受け持ったのは北原白秋であった。

山田耕筰が軽妙で分かりやすい曲想で次々と時局に合わせた戦意高揚の旋律を書き続けたのに対して、信時潔は深くこの国の建国の歴史の詩情に遡りながら、荘重で美しい鎮魂の調べをこの時局に公にしたのである。このころ最晩年にあった白秋はすでにほとんど失明の状態で、この奇妙な祝祭がうち続いた年の翌年に逝った。

 

〈海ゆかば水漬くかばね 山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ かへりみませじ〉

 

大伴家持の歌に託した信時潔の絶唱「海ゆかば」はいくさの折々にうたわれ、とりわけ太平洋上で日本軍の玉砕が相次ぐ戦争末期には、その鎮魂と祈りの調べが銃後の人々の心を揺り動かした。

 

〈信時先生は、明治・大正・昭和を孤高に生きられたが、あまたの依頼があったに拘わらず、軍歌を一つも書かれなかった。山田先生がその方向に稍々協力された事を思うと、信時先生の孤高さは立派である〉

 

團は戦後になって1940年の二人の巨匠の去就を振り返りながらこう記している。

戦時下にしばしば国民を慰撫する役割を果たした信時の「海ゆかば」は戦後社会で禁忌に等しい旋律となったが、戦後に「戦争協力」を問われた山田耕筰はいまも近代日本の童謡や歌曲の父として名前を深く刻んでいる。

二人の師の音楽の足跡は遠ざかりながら突然に蘇り、歴史の影法師のように気まぐれな振る舞いを後の世に残して、また遠ざかる。

                                 =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む 6 柴崎信三

  • 2013年9月23日 10:33

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

6 〈邂逅〉について

     山本芳翠とジュディット・ゴーティエ

 山本芳翆「裸婦」(1880年,岐阜県美術館蔵)(左)  ジュディット・ゴーティエ(ナダール撮影、1880)(右)
山本芳翆「裸婦」(1880年,岐阜県美術館蔵)(左)  ジュディット・ゴーティエ(ナダール撮影、1880)(右)

 

 ジュディット・ゴーティエとはどんな女性だったのか。

 ナダールが撮影した肖像写真は1880年ごろとされているから、三十五歳の女ざかりである。左向きの横顔の眼は意志的で、鼻梁は一筋に伸びている。長く巻いた髪が肩までかかり、襟を開いた服で包んだ豊かな半身がゆったりと息衝くようである。

 詩人のボードレールや作家のゴンクールの寵愛を受けて育ち、文豪のヴィクトル・ユゴーやドイツの作曲家のリヒャルト・ワーグナーら、19世紀末を代表する晩年の巨匠たちと奔放な愛を結んだ才媛。著名な詩人・評論家だった父親のテオフィールの知性と、母親の歌姫エルネスタ・グリジの美貌とを受け継いで社交界に羽根を広げ、自らも東洋趣味の小説や詩などで文学的な才覚を開花させた、世紀末のパリの花。役どころをその頃流行した言葉で呼ぶなら〈ファム・ファタル〉、魔性の女ということになる。

 ゴンクールの手放しの賛辞がその「日記」に残されている。

 

 〈テオの娘は、不思議な美しさを持っている。白い顔はほんのりと薔薇色に染まり、象牙のような歯を覗かせた、くっきりとした口元。輪郭の美しい整った顔立ち、固い睫毛を持った大きな目。その印象は謎めいて捉え難く、眠り続けるスフィンクスのようだ……〉(木々康子訳)

 

 岐阜県の明智村という山深い僻村に生まれた二十八歳の日本人が、画家を目指して西洋画を学ぶために横浜を発ち、海路パリの地を踏む。維新からまだ10年あまりしかたっていない1878(明治11)年3月のことである。のちに山本芳翠の名で知られるこの若者は随員の松方正義に随行して、この年に開催されるパリ万博の日本政府事務局雇員という身分を得ており、かたわら徒手空拳で西洋画を学ぶ機会を求めて遥々パリの都へやってきたのである。ジュディットより5歳ほど若い、文字通り東洋からの異邦人(エトランゼ)である。

 ルイ・ナポレオンの第二帝政が普仏戦争の敗北で崩壊し、第三共和政のもとで復興に向かうフランスがこの年開いたパリ万博には、世界から36カ国が参加した。セーヌ川を挟んで日本庭園が作られたトロカデロ宮殿の本館にはエミール・ギメやサミュエル・ビングらが収集した日本の美術品が展示され、対岸のシャン・ド・マルス広場には巨大なパヴィリオンが設けられた。日本の陳列館には、輸入した陶磁器や漆器、象牙、螺鈿、織物、家具などの美術工芸品が入場者の目を奪い、抜きんでた人気を集めていた。

ちなみに、いまこの地に建つエッフェル塔はまだ立ち上がっていないが、ここでは世紀末の欧州を包んでゆくジャポニスムの波がすでに大きなうねりとなっていた。

 芳翠はそれから足掛け10年をフランスで過ごして帰国する。この間に描いた作品にはジュディットをモデルにしたといわれる「西洋婦人像」や日本人が初めて描いた油彩の裸体画といわれる「裸婦」、さらに留学中だった西園寺公望の監修で選んだ日本の和歌八十八首をジュディットが仏訳し、それに芳翠が美しい挿絵を付けて出版した豪華な詞華集『蜻蛉集』など、親密なつながりを裏付ける作品が残されている。二人はどこで合い知り、どうかかわったのか。そしてどんな世紀末の美の饗宴を持ったのか。

 

芳翠は厳(いか)つい、野性味あふれる風貌で、フランス語も片言しか話さなかったが、南画を基礎にした東洋的な画風のキゾチックな作品の味わいに加えて、持ち前の磊落で社交的な性格によって在留する日本人はもちろん、フランス人の日本(ジャポ)愛好家(ネズリ)たちともすぐ親交を深めるようになっていった。万博の日本政府事務局で働くかたわら、国立美術学校(ボザール)のジェロームの下で西洋画を学んだが、フォブール・サントノーレ通りに構えたアトリエはそうした内外の知友の梁山泊のような場所になった。

限られた素材で日本料理を巧みに手がけた。卵焼きや焼き魚などはもちろん、煮物に鰻のかば焼きや豆腐料理、さらには日本酒まで材料を調達して工夫を凝らし、かの地では味わえない一品にして振る舞うから、自ずと故郷の味を慕って日本人が集まってくる。

酒が好きで気分が高じれば得意の講談を即席で演じた。表裏のない性格は人に愛されて、異郷での人間関係を広げた。留学してきた書生から万博などで洋行してきた政府の高官や貴顕紳士まで、その客の幅はまことに広範であった。

のちに「日本洋画の父」と呼ばれる黒田清輝もその一人だった。法律を学ぶために当地へやってきた留学生の黒田が美術へ転向するのは、芳翠の慫慂によるものといわれる。

黒田は故郷の母親にあてた手紙で、芳翠のことを伝えている。

 

〈山本さんという人は面白いことをしじゅうしゃべっております。人を笑わせてばっかりいます。この人は自分で家を借りて居りまして、ばばのおさんどんを一人使っております。そうして毎日毎晩米の飯を炊き日本のおかずをこしらえて食べているそうです。日本の飯が食べたいときは皆この山本さんの家へ行って食べます。山本さんは大変お料理が上手です。まるで料理屋の頭領です〉(1884年8月28日付、原文すべて仮名書き)

 

やがて芳翠は本格的な日本料理店まで開いて内外の客を迎えている。のちに首相となり、元老となる青年公卿の西園寺公望も行政を学ぶためにかねて念願だったパリ大学に留学中の身で、しばしば山本の料理にあずかった日本人の一人だった。

パリに着いた時、ちょうど真っただ中のパリ・コミューンに遭遇した西園寺は、国家というものがいかにもたやすくその足場を失ってゆくかを目の当たりにした。そうしたなかで師であったエミール・アコラスやのちに首相となるジョルジュ・クレマンソーら共和派の友人たちと親しく交わる一方、ゴンクールやリストといった芸術家や中江兆民ら自由民権派の日本人らとも幅広い交友を広げていった。そうした舞台の下で、西園寺が日本公使館員だった船越光之丞の紹介で知り合ったジュディット・ゴーティエに芳翠を加えた三人による、東洋と西洋を結んだ奇跡のような〈美の邂逅〉が生まれるのである。

 

〈あふれ出る美しさをたたえた私の愛するひと。やさしい手紙をありがとう。あなたの身体の具合がまだ悪いとは、私の愛し方が少なすぎるのでしょうか。それは、私の愛があなたに対して十分な力を持っていない、ということですから。どうか、すっかり恢復するよう大事にして下さい。そして自分に自信が持てるようにしてください〉(ジュディットに宛てたリヒャルト・ワーグナーの1878年1月22日付の手紙、金沢公子訳)

 

芳翠がパリへやってくる年の初め、ジュディットはドイツのバイロイトからリヒャルト・ワーグナーのこのような恋文を受け取った。

その秘められた関係は、かれこれ10年にも及んでいる。しかし、この間に夫と離別して若い音楽家志望の恋人、ベネディクトゥスを伴うようになったジュディットに対して、ワーグナーの気持には陰りが広がりつつあった。この手紙はそうした二人のもつれた関係が破局へ向かう、愛の物語の終曲に相当する。ワーグナーはジュディットに対しこれ以降、手紙は妻のコージマを介することを伝えて、関係は途切れるのである。

若いジュディットが夫の詩人、カチュル・マンデスと作家のヴィリエ・ド・リラダンを伴って初めてワーグナーをルツェルンに訪問したのは1869年の7月である。「トリスタンとイゾルデ」の巨匠はたちまちジュディットの美貌と機知の虜になり、妻のコージマの目を盗んで熱い愛を手紙に認めるようになった。ジュディットもこれに応えた。輝かしい楽劇の巨人に憧れて接近してくる若い女の媚態と、自身の成功の足がかりを求める機略がまじりあった情熱の焔にあおられて、男は演奏旅行先の欧州各地で逢引を重ねた。

三十二歳も年上の高名な音楽家とジュディットが初めて結ばれたのは、第一回バイロイト音楽祭が開かれた1876年の夏である。四夜通して演じられる「ニーベルンゲンの指輪」に各地からやってくる賓客を迎えて連日の舞台や祝宴の熱気に包まれながら、主役の巨匠はジュディットの手をとって劇場を案内し、合間を縫って秘かに滞在先を訪ねては、東洋的な美貌を漂わせたこのフランス女性に憚ることのない老いらくの愛を告白した。

 

ワーグナーがジュディットに惹かれるきっかけは何だったのか。

明らかにされてきた二人の間の恋文には〈日本〉がキーワードとして浮かび上がる。

パリの骨董屋で見つけた日本の着物を買ってジュディットに贈り、それを着た恋人の姿を夢想する。妻のコージマへの贈り物として着物の着方について、手紙でジュディットに教えを乞う。ワーグナーにとってジュディットが醸し出す「日本」にまつわる情緒や知識は、いわばこの歪んだ恋をとりもつ〈芳香〉であったのだろう。

ジュディットは父のテオフィールの影響もあって、若い日から東洋と中国や日本の文化に関心を寄せていた。18歳の時に父親が知っていた中国人から中国語を学び、4年後の1867年にはフランスで最初となる中国詩の詞華集『翡翠の書』を出版するなど、東洋文明に通じたその早熟の文藻が知られるようになっていた。

1862年にロンドンで開かれた万博へ父のテオフィールとでかけたジュディットは、そこで出会った日本人を通して〈日本〉への関心を強めた。美術作品や工芸品など、当時流行のジャポニスムから得た知識が、伝統文芸や宗教など精神文化の由来にまで翼を広げていくのは必然であったろう。こうした背景の下でジュディットが西園寺公望に出会うのは、おそらくこのワーグナーとのもつれた恋が破局へ向かう時期と重なっている。

 

ゴンクールは「日記」でしばしば西園寺との交渉を記している。

 

〈今夜、ビュルティ邸で、公子西園寺は自分の趣味を驚かし且魅了したものが三つあると語った。その三者とは苺と、桜桃と、アスパラガスである。更に、彼は今でも寝言を日本語で云ったり仏蘭西語で云ったりするとも語った。そこで、何語で観念が形成されるのかを我々が訊ねると、彼は素直に、法律に関することや、人工的な事物は仏蘭西語の言い廻し方で思い浮かぶし、自然的な事物、恋愛に関する事などは日本語の言い廻し方で思い浮かぶのであると述べた〉(1875年5月3日付)

 

〈頃日、若き公子西園寺が、家重代の大小(打刀と脇差)をビュルティに贈った。これを贈るにあたって、公子はひどく損じているのは巴里で友達が三鞭酒(シャンパン)の口を切るのに用いた故であると言い訳をした。この素晴らしい、百錬の利刀がさりとは惨めにもなり下がったものである。私は小刀の刃に、見分け難い雲形の波を見つけた。この雲形といえば、公子西園寺はビュルティに自分の指の爪と爪とで極狭い幅を作ってみせながら、日本人ならば、こんな狭い幅の中に含まれた雲形の数を算え上げ、刀匠の銘を読み取る事が出来るといったとの事である〉(同年10月16日付)

 

フィリップ・ビュルティはそのころパリで美術評論と美術行政に力を持った人物で、西園寺がこうしたサロンでゴンクールやジュディットと相知るようになるのは、おそらく自然の成り行きであったろう。

こうして結ばれたパリの社交空間のなかで、シャンゼリゼからほど近いワシントン街31番地のジュディットのサロンに招かれた西園寺が、そこで日本の詩歌など伝統芸術や東洋文化に話の華を咲かせたのは、想像するまでもない。瀟洒なアパルトマンの室内は日本や中国の仏像や絵画が飾られ、毎週日曜日にはジュディットと親しい文人や画家、音楽家やジャーナリストらが集って談論は風発した。花々と紫煙とワインの香りに包まれたサロンの客のなかに、西園寺はいた。やがてそこに芳翠が加わった。

 

「サイオンジ、それではあなたは恋の夢を日本語で見ているのかしら。それなら夢に現れる古代からの日本の詩には、どんな恋が詠まれているのでしょう」

四歳年上のジュディットが艶めいて問いかけるのに、公子西園寺はどう答えたのか。

「日本は古来詩歌の国であったのですから、私の国の王朝びとの歌はみな、自然や風景のはかない移ろいに託して、自分の気持ちを表現したのです」

紀貫之の『古今和歌集』の〈仮名序〉をとりあげて、古代から連綿と続く日本の歌の精神を説く極東の若い貴族は、色恋の奥義を極めた達人のジュディットにどう映ったのか。

 

そうしたサロンのなかに、人懐こい不思議な魅力を持った若い日本人画家の芳翠が現れて、ジュディットを囲む日本趣味を通した人々の親密なかかわりが輪を広げる。

芳翠がフランスで学ぼうとしたのは、もちろん西欧の伝統のもとで発展してきた油彩画である。岐阜の山奥から横浜へ出てワーグマンや五姓田芳柳に西洋画を学び、工部美術学校でお雇い外国人のフォンタネージに学んだのも、それまで手がけてきた南画や北斎漫画の世界に飽き足らず、西洋画のリアリズムの逆らえない魅力に惹かれたからである。

ようやくやってきたパリで国立美術学校教授のジェロームの指導を受け、ルーブルへ通って模写を重ねるという勉強を始めたのだが、サロンで出会ったこうしたフランス人たちが憧れて求めて来るのはもっぱら、伝統的な花鳥画や艶やかな色彩と線描を生かした浮世絵風の日本絵画の流儀である。芳翠は西洋画の写実精神に向き合いながらも、引き裂かれるようにジュディットとその周囲が醸し出すジャポニスムの奔流に身を寄せ、捨て去ってきたつもりの日本の伝統美術の筆触やモチーフを披歴して喝采を浴びるのである。

パリの芳翠の最初の本格的油彩画として残されているのが、渡仏から二年後の1880年ごろ描いたとみられる「裸婦」(岐阜県美術館蔵)である。この作品は芳翠が西洋画家として描いた油彩画の実質的なデビュー作というだけでなく、そのモデルの同定や描かれた作品が日本へ戻る経緯、そして何よりも日本人の手になる最も古い油彩の裸体画という点でも、多くの謎と余白を含んだ物語を残している。

もとより浮世絵の美人画などに風俗として女性の裸体が描かれることはあっても、西洋美術のなかで理想化された裸体画(ヌード)の伝統を持たない日本にあって、芳翠はどのような経緯でリアルな女性の裸体画に取り組むにいたったのか。ルーブルで見た裸体画の名作に触れて模写を繰り返し、美術学校でついたジェロームから写実の基本としての裸体画についての教えを受けるといった場面は、もちろん想像することができる。

それにしても、一糸まとわぬモデルの女性を前にしてその姿を写すべく筆を運び続けるということ自体が、日本人にとってすでに大きな異文化体験であったに違いない。

実は芳翠の「裸婦」が現実のモデルをポーズさせたものでなく、ある種の〈模写〉で描かれたのち、特定のモデルの顔をあてたとする研究が明らかにされてきた。以下は鐸木道剛、三浦篤、古川秀昭氏らによる、この裸体画のモデルについての推理である。

芳翠の「裸婦」とほぼ同じモチーフ、構図の作品が同じ時代にやはりパリにいた二人の外国人画家によって描かれている。一つはユーゴスラヴィアの画家、ヴラホ・ブコヴァツの「横たわる若い女の裸像」(1880年)、もう一つはドイツの画家、エルンスト=―フリードリッヒ・フォン・リファルトの素描「裸婦習作」(1879年)である。

三人の画家は同じ時代にパリで美術を学んでいた同時代人だが、互いに接点があったかどうかは詳らかでない。しかし三作を比較してみると、芳翠の「裸婦」のモデルの顔だけが異なっている。つまり、同じモデルで描いた後の二作のいずれかを模写したうえで、芳翠がモデルの顔を描き変えた、という推測が成り立つ。

手掛かりとしての有力な接点は、リファルトの描いた「裸婦習作」が当時ルノワールら印象派の画家たちの作品や論評を紹介する舞台となっていた、パリの週刊誌「現代生活」の1879年5月15日号に掲載されていることである。なぜなら、その数週間後の6月26日付けの同じ雑誌に掲載されたフランス人のジャポニスム論の挿絵に、芳翠が日本女性の羽根つき姿を描いた素描を寄稿しているからである。寄稿を求められた芳翠が雑誌のバックナンバーを繰るうちに、リファルトの裸婦を目にすることとなり、それを模写して作品にしたという経緯は十分考えることができるだろう。

それならばなぜ、モデルの顔は描き替えられたのか。そしてそのモデルは誰なのか。

芳翠はこの作品を描いた二年後、代表作の「西洋婦人像」(東京芸術大学蔵)を描いている。こちらは着衣の若い女性の横顔を描いた華やかな肖像画で、モデルは渡仏後に西園寺を介して知遇を得たジュディット・ゴーティエであることがわかっている。「裸婦」のモデルの横顔はこのジュディットとよく似ており、その後の日本とフランスを結んだ美術と文芸を巡る二人の親しいかかわりを考えるとき、若い芳翠が異郷で知り合ったジュディットの成熟した魅力に惹かれて描き替えた、という筋書きは十分許される想像であろう。

模写を土台にした作品とはいえ「裸婦」は芳翠が日本人として初めて取り組んだ油彩の裸体画である。やはりパリに学んでのちに「日本洋画の父」と呼ばれる黒田清輝が描き、やがて戦災で焼失した「朝妝」が美術史上で日本初の幻の裸体画とされるが、それに先立つこと13年という作品である。師のジェローム譲りともいえる新古典派風の暗い緑の森を背景にして、モデルの肌はひんやりとした硬質の官能美を漂わせており、まなざしは草花に巣を架けた蜘蛛を見つめている。作者はそこにどのような寓意を託したのだろうか。

ともかく、芳翠が出会ったジュディットというフランス女性から受け止めた霊感によって日本で初めての油彩裸体画がここに誕生するのである。13年後に黒田清輝がやはりパリで描いて日本へ持ち帰った「朝妝」が1895(明治28)年4月、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に出品された際、「風俗紊乱」などとする世論の激しい反発にあい、その後の裸体画の展示では隠し布を腰の部分にあてがうなどの混乱を広げたことを考えれば、長く私蔵されていたために社会的に知られることが遅れた芳翠の「裸婦」は、これに先駆けた異文化を結ぶ記念碑的な作品ということができよう。

 

「ヤマモト、このゆかしい日本の詩情を再現するにはあなたの絵筆の助けが必要です。サイオンジが日本へ帰国するということなので、これはその餞にもなるでしょう。日本の古来の文芸の美しさを絵筆で描いて見せて下さい。楽しみにしていますよ」

前後してそのころ、日本の古い和歌を翻訳して美しい挿絵を添えた書物にする計画を巡って、ジュディットから示されたこのような求めに、芳翠はもちろん喜んで応じた。

西洋画の伝統に息衝く裸体画に向き合う芳翠のかたわらで、パリの美術界に広がるジャポニスムの波が〈日本〉という未知の世界の扉を開こうとする。

ジュディットが西園寺公望とともに日本の和歌八十八首を選んでフランス語に翻訳し、それに合わせて芳翠が美しい14点の挿絵と装丁を担当した『蜻蛉集』を刊行するのは1884年である。西園寺は1880年にパリ留学を終えて帰朝しているから、少なくとも芳翠が「裸婦」を描いたころには、この詞華集の編集が具体化していたのであろう。

この頃のジュディットは巨匠ワーグナーとの恋が翳りを来たす一方、父親のテオフィールが親しかった43歳年上の文豪、ヴィクトル・ユゴーとの間に、経済的な後見の見返りのような打算的な男女の関係を抱えるなど、奔放な暮らしはますます高じていた。

西園寺と芳翠、そして『蜻蛉集』のプロデューサーとして巻頭にジュディットが献辞を掲げたのちの駐仏公使、光妙寺三郎らと結んだ日本とフランスを繋ぐ「美の共同体」の成立は、こうした激しい愛の情念の奔流のなかで「東洋」に恋した「魔性の女」の磁力を抜きにしては語ることはできない。

 

『蜻蛉集』(POEMES DE LA LIBELLULE)の表紙は空色の厚紙で、鰐皮の浮き出しに芳翠の筆による笹の葉と蜻蛉の絵が描かれている。もちろん、このタイトルは神武天皇が大和国の山上から国見をした際、その形状が蜻蛉の交尾する姿に似ていたことからこの国を「蜻蛉島」と呼んだという故事に由来する。

 

      POEMS de la Liballule par JUDITH GAUTIER

      Illustré par YAMAMOTO

 

このような表紙のあとに蜻蛉と菊の花を描いた日本画の見返りがあり、蜻蛉の4枚の羽根が短冊形になっていて、そのそれぞれに「蜻蛉集」「千八百八十四年春」「じゅじつとあらはす」「山本画」という日本語が示され、同じ意味のフランス語のあとに〈日本天皇参与 西園寺の手になる直訳に拠ってジュディツ・ゴオチエが日本語より訳したる“蜻蛉の詩篇”〉というフランス語の記述が目を惹く。

 

〈こよなく君の愛で給う/大和島根のもろもろの花/ここに集めて捧げまつる。/涙しげきこの国に/おぼつかな 香ぐわしきそのこころは、色は。 ジュディツ・ゴオチエ〉(高橋邦太郎訳)

 

『蜻蛉集』の巻頭にフランス語で掲げられたジュディットの献辞は、西園寺と同じパリ大学の留学生仲間であり、帰国後代議士となった光妙寺三郎に宛てられている。

『蜻蛉集』は古今和歌集に選ばれた歌を中心に、勅撰集からの選歌が大半を占めるが、冒頭に紀貫之による古今集の「仮名序」がジュディットの仏訳で掲げられている。「やまと歌はひとの心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりにける」という、和歌の本質を簡潔に述べることで王朝文芸の精神を説いた、よく知られる序文である。

おそらくは西園寺の監修で抄訳したものをジュディットがフランス語で書き改めたとみられる。こうした共同作業は全体の選歌とそれぞれの歌の仏訳でも踏襲されたとみられ、西園寺の下訳をジュディットがフランス語の語感や韻律を踏まえて五行詞に置き換える、という手続きがとられて、二つの訳を並置する構成で全巻が貫かれている。

例えば「新古今集」から選ばれた紫式部の

 

〈北へゆく雁のつばさにことづてよ雲のうはがきかき絶えずして〉

 

については、ジュディットの仏訳のあとに西園寺の直訳的な下訳が付されている。

八十八首の選歌については著しい特色がある。古今集(三十三首)、新古今集(十八種)、拾遺集(九首)、御撰集(五首)など、王朝期の勅撰集から選んだ作品がほとんどで、万葉集からは一首も選ばれていない。詠まれた歌の季節は圧倒的に春が多く、その主題も「花」に集中している。これは収録する候補として西園寺が挙げた歌が、すでにそのような傾向で選択されたものであったともいえるし、ジュディットの好みが春と「花鳥」や「恋」などに強く傾いていたことの表れともいえる。

 

〈見ずもせず見もせぬ人の恋しきは文なく今日や眺めくさらむ〉(在原業平)

〈君こふるなみだしなくばからごろも胸のあたりは色もえなまし〉(紀貫之)

 

こうした八十八首の歌に付されたのが、芳翠の描く八点の彩色された挿絵である。「飛びかう蜻蛉の図」「女性が川水に手を差伸べる図」「競馬を見る男女」「女性が鸚鵡に語りかける図」「蝉丸像」など、鮮やかな色彩が施されたやまと絵風の画面には、それぞれの歌に合わせた画賛が書き込まれている。定型詩歌という日本の伝統文芸がフランス語と交響し、それに芳翠の絵筆が融和した、希有の造形というべきであろう。

 

『蜻蛉集』は刊行後にジュディットの周辺の日本(ジャポ)愛好家(ニザン)らに所蔵されたが、広く知られることがなかった。1917(大正6)年にジュディットが72歳で没したのち、屋敷の書庫から200冊ほどの艶やかなこの詞華集がみつかり、日本でも知られるようになった。

 

芳翠は『蜻蛉集』が出版される前年の1883年春、米国人画家のジョン・S・サージャントを伴ってブルターニュの海岸に面したサン・テノガの別荘に蟄居するジュディットを訪ねた。この頃、ジュディットは若い愛人のベネディクトゥスとも別れて喧騒の渦巻くパリを離れ、この地の瀟洒な館に過ごす日々が増えていた。身近にいるのは晩年をともにした若い女友達のシュザンヌ・メイエール・ジュンディルだけである。

すでに西園寺は祖国へ帰った。芳翠はサージャントとともにこの別荘で過ごしてジュディットと親しく日本の文化や伝統についての議論を交わし、いくつかの創作にも取り組んだ。この時サージャントとともに描いたジュディットの肖像画は、いま行方を知らない。

ジュディトはここで、若い日の情熱を傾けたあのワーグナーの「パルシファル」を翻訳し、土地に根付いたケルト神話を調べるなどして、ひっそりと晩年を過ごした。それでもドーバー海峡に面したゆかしい館の別棟として建てられた「煙草入れ」と呼ばれるアトリエには多くの芸術家が滞在した。作曲家のドビュッシーはここで、嵐に見舞われた海峡を見つめながら「海」を作曲したといわれる。

芳翠がその「煙草入れ」の板張りの内装に描いた装飾画が残されている。「竹に雀」「鷺」「梅に錦鶏」といった日本的な装飾壁画は、ジュディットへの深い謝意でもあったろう。

 

西園寺が帰国したのちも、ジュディットは芳翠と独特の友情を持続したようである。

『蜻蛉集』を出版した翌年の1885年4月、ジュディットと屈折した愛憎をとり結んできた文豪、ヴィクトル・ユゴーが83歳の生涯を閉じた。父親のテオフィ-ルを亡くしたのち、心身ともに困窮したジュディットを助けて年金の受給を手配するなど、父親に代わって生活を支えたことの見返りのような、43歳も年長の文豪との屈折した愛人関係は境涯にわたって続いた。5月23日に没したユゴーの葬儀の情景を芳翠が「ヴィクトル・ユゴー葬送図」に描いたのは、ジュディットとのかかわりを措いてありえまい。

芳翠は1887年5月に10年近くにわたる滞仏生活に区切りをつけて帰国するが、文豪の死後もジュディットが芳翠をまじえてユゴーの一族と親しい交わりを続けていたことを、『林忠正とその時代』(木々康子著)が記している。

 

〈親しいお友だちへ。今、私は山本の家から書いていますが、あなたの用件を彼に伝えているのです。あなたは一〇〇フランで(商売抜きの値段で)白い絹地のすてきなカケモノを一枚手に入れるでしょう。あなたの望むもの、好きな品物を直接彼に書いて下さい。彼はすぐに取りかかるでしょう。愛をこめて。ジュディット・ゴーティエ〉

 

〈親しいお友だちへ。山本に関しては、はっきりしたことを引き出すのは容易ではありません。というのは、彼は笑ってばかりいるのよ。けれども多分あなたが一五〇フランも出せば、彼は大変満足するでしょう。もっとも、彼はいつも機嫌がよいのだけれども。土曜日に、ヴァックリー(ユゴーの長女レオポルディーヌの夫で劇作家。ユゴーの息子たちの雑誌『事件』の編集長)の家でお会いしたいわ。心をこめて。ジュディット・ゴーティエ〉

 

これらは親しかったユゴーの孫の妻、ポリ―ヌ・メナール・ドリアンにあてて、求められていた芳翠の掛け軸の入手や水彩画の個人指導をとりもつ手紙である。のちに芳翠はポリ―ヌに「芳林」の雅号を与えている。

 

ジュディットは1888年に既に帰国した西園寺公望への献辞を掲げた『微笑を売る女』という戯曲を刊行している。〈ヤマト〉という侍が〈翡翠の心〉という芸者を妾にしたことから家族が崩壊し、孤児となった息子の〈イワシタ〉はやがて〈マエダ公〉の養子となって成人する。その恋した相手が実は〈翡翠の心〉の娘だった、という悲劇である。

荒唐無稽ながら濃厚なオリエンタリズムに彩られた物語はパリで人気を集め、その年にオデオン座で百回以上にわたって上演された記録がある。西園寺はもちろん、芳翠も既に祖国へ帰国している。ジュディットが残した〈日本の物語〉の終章である。

                                 =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 5 柴崎信三

  • 2013年8月29日 16:59

  〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

5 〈武士(もののふ)〉について

    「平重盛像」とアンドレ・マルローの〈永遠〉

 

伝藤原隆信(国宝)「伝平重盛像」(12世紀末、京都・神護寺蔵)

伝藤原隆信(国宝)「伝平重盛像」(12世紀末、京都・神護寺蔵)

 

「源頼朝」「藤原光能」とともに〈神護寺三像〉の一つと呼ばれる『伝平重盛像』は、平家の盛衰と運命をともにした平清盛の長男で、『平家物語』では温厚にして沈着な武将として描かれる重盛がモデルとされる。作者は宮廷歌人で、当時肖像画の名手だった藤原隆信と伝えられてきた。

奔放で多才な藤原隆信の周辺には源平のいくさのさなか、衰亡に向かう王朝末期の宮廷の周辺に生きた男女がとり結ぶ、転換期の哀切な離合の物語がある。建礼門院右京大夫という才色兼備の閨秀歌人も、この絵の背景に生きた悲劇のヒロインの一人であろう。

高倉天皇の中宮平徳子(建礼門院)に出仕する女房だった右京大夫はその優れた容色に加えて、知的で艶やかな歌を詠み、琴や笛など音曲の芸にも非凡な才能を示した。皇族や平家の公達がまじわる歌の贈答や管弦の遊びなど、王朝のサロンの花形であった。

父は書家の世尊寺伊行、母も代々宮中で雅楽をつかさどる名門であり、学芸の才覚には持って生まれたものがあったろう。晩年に生涯の詠歌をまとめて回想した『建礼門院右京大夫集』には、若い日に平家の公達とまじわった美しい思い出が、四季折々の情趣に彩られて鮮やかに描かれている。

なかでも平重盛の二男で壇ノ浦の戦に命を断った資盛との悲恋は、この回想記の白眉をなす大きなモチーフを形作っている。25歳でいくさに殉死した年下の恋人の面影を偲んで、右京大夫は「はるか西の方」をながめながら若い日を回想する。

 

〈契りとかやはのがれがたくて、思ひのほか物思はしきことそひて、さま〲思ひみだれしころ、さとにて、はるかに西の方をながめやる、梢は、夕日の色しづみて、あはれなるに、またかきくらししぐるヽをみるにも〉

 

資盛は公卿に列したのちに平家の都落ちに身を投じ、元暦2(1185)年3月24日の壇ノ浦の戦に敗れて入水した。『平家物語』は「小松新三位中将資盛、同小将有盛、従父兄弟左馬頭行盛、三人手ヲ取組、海ニゾ沈ミ給ケル」と記している。歴史の激動に引き裂かれた資盛との遠い恋の記憶を、右京大夫は晩年にいたるまで深く心に温め続けた。

 

右京大夫のもう一人の恋人が『平重盛像』の作者とされてきた藤原隆信である。

こちらはひと周り以上も年上の、手連にたけた中年貴族である。「似絵(にせえ)」と呼ばれる肖像画を確立した絵師であり、『明月記』で知られる藤原定家とは腹違いの兄弟で、『藤原隆信朝臣集』をはじめとする和歌や物語作家としても足跡を残している。

若い公達との悲恋の傍らで、右京大夫は没落しつつある王朝の「色好み」の伝統を体現したような、この多芸多才の「恋多き男」にも恋したのである。

 

〈あはれのみ深くかくべき我をおきてたれに心をかはすなるらむ〉(隆信)

〈人わかずあはれをかはすあだ人になさけしりても見えじとぞ思ふ〉(右京大夫)

 

「私をさておいてあなたは誰に心を通わすのですか」と問う中年男に対し、若い女は「恋の気分はわかっていても、あなたのような浮気性の男にそのように思われたくはありません」と機知をきかせてはぐらかす。

それでも「よ人よりも色好むと聞く人」と評判の隆信に、女心は揺れ動くのである。

それから80歳近くまでの長寿を全うする右京大夫は、平家が滅んでのちの晩年に後鳥羽帝のもとに再び出仕した。すでに70歳を超えていたが、勅撰集に自分の歌を求められた折、選者の定家から名前をどうするかと問われて、こう歌に詠んで答えた。

 

〈言の葉のもし世に散らば偲ばしき昔の名こそ留めまほしけれ〉

 

時代は移った。「けれども懐かしい平家の時代の建礼門院の名をとどめてほしい」と。

 

作品に映しだされるのは、男女の情愛のやりとりを通して映しだされる華やいだ王朝末期の美学である。そうした時代背景の下で、右京大夫は勃興する武士という「公」の倫理に若い命を捧げた公達との悲恋の傍ら、没落しつつある王朝の「色好み」の伝統を体現するような、貴族文化に生きた多芸多才の「恋多き男」に恋したのである。

藤原隆信の「平重盛像」は、そのような時代を背景にした一人の〈サムライ〉の肖像である。同じ隆信の「源頼朝像」や「藤原光能像」とともに「神護寺三像」と呼ばれるこの人物画は、俗人を描いた「日本最古の肖像画」として、フランスの作家、アンドレ・マルローによって「発掘」されて世界に知られるようになった。

源平争乱の激動の時代、父の清盛のもとで戦功を重ねた平家一門の後継者の肖像から、乱世を生きた一人の武将の沈着にして果断な〈武士の精神〉のかたちが浮かび上がる。マルローはこの人物画に何を見ようとしたのだろうか。

オズワルド・シュペングラーのいう20世紀の「西欧の没落」を生きてきたフランスの知性は、中世の日本の一人の武人の画像なかに見出した、〈死〉を厭わない自己犠牲の行動哲学に導かれて、極東の小さな島国に息衝く「もうひとつの文明」に瞠目するのである。

 

1958(昭和33)年の末、戦後のフランス第五共和制初の大統領に就いたばかりシャルル・ド・ゴールが文化担当大臣に起用するアンドレ・マルローを、政権発足からほとんど時をおかずに特使として日本に派遣したのは、どんな意図が込められていたのであろうか。

最初の閣議でド・ゴールは〈私の右手にいつもアンドレ・マルローに座ってもらう〉と宣言した。そして厚い信頼を寄せるこの遥か年下の鬼才に対し、すぐさまイラン、インド、日本を歴訪してそれぞれの元首との会見を実現することを指示した。この旅はレジスタンスの勇士として祖国に貢献したマルローへの〈休暇〉であったのか、あるいは戦後世界に沸き起こるアジアへの関心が、老いた将軍の心を動かした結果であったのか。

対ファシズム抵抗運動の闘士であり、東洋文明への深い洞察に基づいた小説『王道』や『人間の条件』などで知られる行動派の作家、マルローにとっては、戦前の1931年に続く二度目の訪日であった。東洋(オリエント)に魅せられた作家は、この訪日で初めて現代文明に比類のない日本文化の《静謐(セレニテ)》と《永遠(エテルニテ)》の表象として、若い日から深い鑚仰を寄せ続けていた隆信の「平重盛像」の実物に対面して、あらためて深い衝撃を受けるのである。

父親に連れられてギメ美術館の展示に親しんだことなどから、マルローは若い日から東洋、とりわけ日本の美術には深い関心を育んでいたが、フランスを中心に19世紀末から20世紀初頭にかけて欧州を席巻したジャポニスムに親しんだ形跡はない。

初めて藤原隆信の「平重盛像」に接したのは1904年、日本から輸入された美術雑誌の『国華』に掲載された図版を通したものだった。戦後の1951年、ガリマール社から刊行した『沈黙の声』のなかでマルローは「平家の一人物像」のタイトルで、はじめて図版入りでこの作品をとりあげている。そのころ、終生親密な友情で結ばれる日本の作家、小松清にあてた手紙で、マルローは「神護寺三像」のなかでもとりわけ「平重盛像」から受け止めた大きな霊感を隠さずに伝えた。

 

〈ぼくは『国華』のコレクションには非常に感動した。日本の偉大な芸術を知らないわけではなかった。しかし、これらの作品はほとんど知らなかった。ここでは作品がひとつの塊りになっているよ。ここにある頼朝の肖像(藤原隆信作)は(神護寺のもの[隆信作の『平重盛像』]ではないけれども)、驚くべき傑作だ。それに、これらは鎌倉時代のすべてと、土佐(室町)時代初期のものだ!ここには、ほんとうの日本、日本の音楽につながるものがある〉(林俊、クロード・ピショワ訳)

 

マルローがはじめて実物の『平重盛像』に対面したのは1958年12月。ド・ゴールの特使として、アジア歴訪のなかでの二回目の日本訪問は多忙をきわめた。

文化特使という立場で日本へ到着した直後の記者会見で、マルローは日仏文化交流の促進へ向けて、パリで日本文化展を開く計画を明らかにする。奈良、平安、鎌倉時代のものを中心にした日本の絵画、彫刻を通して日本の伝統的な精神文化を4,5カ月にわたって紹介するという内容がそこで示された。

この旅で最初に訪れたのは奈良と京都である。

法隆寺の大法蔵院で聖徳太子の絵姿に対面し、救世観音と百済観音に大きな感動を呼び起された。中宮寺の半跏思惟像、薬師寺の薬師如来像、唐招提寺の鑑真和上像、奈良博物館の「涅槃図」や「信貴山縁起図」などを鑑賞した後、マルローは京都国立美術館でかねてから思いを募らせてきた隆信の肖像画にようやく対面した。

隆信の「源頼朝像」と「平重盛像」を並べてみたい、という希望によって、源氏と平家の両雄を描いた二つの国宝の肖像画が並置された展示室で、20分ほどにわたってこの作品をじっくりと比較した。そして、マルローはそれまでの日本の国内の評価を覆すように「古拙で高貴な重盛像のほうを隆信の代表作として選ぶ」と断定する。

このことによって、王朝の〈雅〉から武士の〈無常〉へ移ろう時代精神をかたちにした肖像として、「平重盛像」は「サムライの表象」として世界に紹介される機会を得た。

この訪日はフランス大使館でのカクテルパーティーや午餐、藤山外相、灘尾文相や田中最高裁長官の訪問、首相官邸の岸首相への表敬、入院中の作家、川端康成への見舞いなど、予定で埋め尽くされたあわただしい日程であったが、その合間を縫って昭和天皇との会見という、特筆すべき場面が設けられた。まだ文化相への任命を受けていない大統領特使という立場での謁見ということから、これは天皇の公式の会見としても記録されていない。しかし、それは一人のフランスの作家と昭和天皇のあいだで交わされた、日本文化をめぐるまことに興味深い対話として、今日に伝えられている。

 

「モーニングコートにシルクハットといった装いの、両国の、通弁役大使たち」を前にして、「どこか憂愁のチャップリン(!)といった面影の万乗の君」と、フランス第五共和国国務担当大臣との対話を、マルローは自ら『反回想録』のなかで次のように記した。

 

「奈良へ行ってこられたそうですね?」

「さようでございます、陛下」

「それはいいことをなさいました。なぜ、いにしえの日本に興味をお持ちですか?」

「武士道なるものを興した民族が、騎士道を興した民族にとって、どうして無意味のはずがございましょうか?」

しばし、間。天皇は、またも絨毯に視線を落としておられたが、

「ああ、そう…… あなたがこの国に来られてまだ間がないということもあるでしょうけれど。しかしあなたは、日本に来られてから、武士道のことを考えさせるようなものをひとつでも見たことがありますか? たったひとつでも?」

質問は、この縉紳の広間のなかに、あたかも古池に投じられた小石の広げるような波紋を、絶望的なかたちで押しひろげていった。石庭の、条痕を刻んだ白砂のおもてに伸びる物陰に似て、ゆっくり繰りひろがるところところの波紋を。

 

〈サムライ〉の哲学の現代日本におけるその不在を逆に問いかける天皇に、マルローは大きな衝撃を受け止めた。のちに隠棲したパリ郊外の館を訪ねたフランス文学者の竹本忠雄に対し、マルローはその時の天皇との対話を回想して「天皇のお口から言われてことを考えると、じつにすごい言葉ではありませんか!」と述べたうえで、この「不在の証言」こそが、逆説的な日本文化の「渝(かわ)らない本質」の証明である、と熱を込めて伝えた。

そこでは「不在の提示」というかたちで〈永遠の日本〉が示された、というのである。

昭和天皇とマルローとの間には、余り知られていない多くの往来があった。明示的には1958年12月のド・ゴール特使として来日した折の会見を嚆矢として、1960年2月には文化相として、1974年の訪日では川端康成の遺志を携えて皇太子夫妻への進講の折に、そして1971年には訪欧した昭和天皇がパリでマルローとの会見を望んで、フォンテンブロー城のサロンで極秘に会見が行われている。

二年後に再び日本を訪れた折、マルローは東京・駿河台に竣工した日仏会館の開館式で講演する。西洋文明にとって20世紀は「文明の複数性を発見した」ことこそに大きな意味があるという指摘を前置きして、日本文化を次のように見立てて讃えた。

 

〈日本は中国の一部ではない。なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切り離されているから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるようつとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十三世紀の偉大な画家たちであり、(藤原)隆信であり、この国の音楽であって、断じてその版画(浮世絵)に属する世界ではない〉

 

優美さや繊細さといった表現と感受性の水脈をつなぐ相互の文化の伝統に結ばれて、日本とフランスのあいだでは近代への入り口から今日まで、さまざまな人々が美をめぐる交響を広げてきた。

葛飾北斎らの浮世絵に東洋の美のユートピアを夢見たヴィンセント・ファン・ゴッホは言うに及ばず、そのポスト印象派から西洋絵画への憧れの「輸入」に腐心した日本の洋画の屈折した短い歴史がある。あるいは戦前の駐日大使として滞在した日本で伝統美術や文芸に深く親炙し、広く世界に紹介したことで知られるに詩人で劇作家のポール・クローデル、はたまたフランスの近代絵画に対する日本人の憧憬が世界的な収集となった「松方コレクション」の事跡なども、思いつくままに例示することができる。

こうした東西の二つの国を結ぶ往来の歴史の先で、マルローが見出した〈日本〉は装飾性や感受性といった人間の表層を超えて、伝統を持続させる文明の深層に及んでいる。

 

藤原隆信の「平重盛像」に対する、マルローの渇仰にも似た讃歌はやがて、その最晩年にいたってある具体的なかたちとなって立ち上がる。

南仏のニース近郊、サン=ポール=ド=ヴァンスにあるマーグ財団美術館で「アンドレ・マルローと空想美術館」と名付けた展覧会が開かれたのは、1973年7月である。

マルローがこの展示に選んだのは、自らの美の遍歴のなかで選び抜いた古今東西の絵画や彫刻など、180点の名品である。いわばこれは西欧と非西欧という枠組みを超えて、あらゆる「文明」と地域と時代の流れのなかに見据えたマルローの美術史であり、その窮極にある〈20世紀〉への問いにほかならない。

ティツィアーノ、ベラスケス、ゴヤ、セザンヌからピカソやマチスといった西欧絵画の巨匠たちとともに、古代インド、中国、シュメールなどの彫刻が展示室に並び、さらにはアフリカの仮面や北米の先住民族のホピ族の人形など、あらゆる時空を超えた作品が会場の展示を埋め尽くした。

そのなかで最後の展示室にただ一点、日本からようやく招いた藤原隆信の『伝平重盛像』が厳かに、しかし凛々しい佇まいで展示された。このピリオドは暗示的である。

マルローは最後に置いた重盛像の展示をこう解説する。

 

〈重盛は、1200年ごろの大臣であった。角ばったキモノを着て脚を組んだ等身大の肖像画。キモノの間から、淡青、石榴色、サーモンピンクなどの、極小の、しかし不可欠な装身具が見えている――それは、三角形と同じく絶対的かつ永遠の幾何学であり、宇宙に与えられた「ゲルニカ」がそうであるように、威厳に満ちている。英雄という言葉の表意文字。平板な顔――そこでは顔立ちも目も髭も、ほとんど消えかかった線からなっている――が、それ自体ひとつの象形文字を形作っており、直衣のゆったりした台形が全体を秩序立てている〉(『黒耀石の頭』岩崎力訳)

 

マルローの賛辞はなお、とどまることがない。

 

〈隆信は重盛を「至高の本質」に結びつける。イタリア14世紀のフランチェスコ派の絵画が、たまゆらに消える生者たちにイエスの世界を対置するように、極東の伝統的絵画は、千年以上の長きにわたって、人物、動物、風景、花など、人間によって創られたのではないものすべてを、戦いも罪もない世界に結びつける〉

 

画家がモデルの内部に探り当てたもの、つまり精神のかたちを造形したものとして、マルローは隆信の重盛像に特等席を与えることで、世界にこれを示した。それは日本人にとって眠っていた伝統の覚醒であり、西洋絵画へ投げかけられた疑問符でもあった。

 

ド・ゴールの退陣とともにすでに政権から下ったマルローは、南仏での「空想美術館」の展覧会を終えた翌年の1974年5月、人生最後となる4度目の日本訪問の途に就いた。

隆信の「重盛像」をフランスへ招いた見返りとして、ルーブル美術館の至宝であるレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を東京で展覧するのに合わせた訪日であった。

10年前の東京オリンピックあわせて『ミロのヴィーナス』を日本に初めて送り出し、述べ71日間に百七十二万人を超える入場者を迎えた折、門外不出の名品の海外展示に対する批判がフランス国内で高まり、国会で責任追及が行われたことがある。

答弁に立った文化相のマルローは「東京オリンピックの最終日にわれわれは金メダル一個を得たにすぎないが、ヴィーナス像のうしろに掲げられた三色旗を振り仰いだ日本人は400万人にも上る。これはまさにダイヤモンド・メダルではないか」とかわした。

『モナ・リザ』展にも150万人を超える入場者があり、マルローが企図した日仏文化交流は大きな成功のうちに終わった。

この最後の日本への旅で、マルローは京都で再び隆信の「重盛像」と「頼朝像」に対面した後、奈良からはじめて熊野と伊勢神宮を訪れた。根津美術館で見た『那智滝図』から大きな啓示をうけたのがきっかけである。

 

〈画軸が広げられたとき、私は思った―これは《アマテラス》だ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊〉(竹本忠雄『アンドレ・マルロー 日本への証言』)

 

130㍍の瀑布の前に佇んだマルローの感激は大きかった。

伊勢神宮の内宮を参拝して経験した死と再生への祈りとともに、マルローの日本体験はこの旅によってより根源的な思想経験となって最晩年へ導かれたと窺える。

 

マルローの〈日本〉に対する強い恋着の軌跡をたどってみると、その最も深いところでこの国の〈サムライ〉の文化が育んできた〈死〉の哲学への抜きがたい傾斜がある。

それは若い日に仏印やカンボジア、中国などアジアを探査し、スペイン戦争や対独レジスタンスに身を投じながら、戦後はド・ゴール政権の一翼を担って祖国に献身したこの行動主義の作家の人生とも深くかかわっている。

 

マルローの人生に〈死〉はいつも親しい伴侶としてあった。

8歳の時、海運業者だった祖父が自死する。29歳の時、今度は父のフェルナンがガス自殺で死ぬ。アパルトマンの傍らにはインドの輪廻思想についての本が置かれていたという。

レジスタンスに身を投じた義弟はゲシュタポにとらわれて処刑された。

若い日の恋人で、ジャーナリストのジョゼット・クロティスの事故死。二人の間に生まれた二人の息子も青春のさなかに自動車事故で亡くなった。そして失意の中で再会して晩年をエソンヌの広壮なシャトーにともに暮らした詩人のルイーズ・ド・ヴィルモランも、突然病に倒れて逝った。

まことにマルローの人生には累々たる死があった。

戦前の最初の訪日の折、マルローは出迎えた日本の報道陣を前にして、こう述べている。

 

〈近代的な日本人にとって過去の遺物となってしまったものが、私たち近代のヨーロッパ人にとっては、大きな謎となったり、あるいは深い暗示となって現れたりすると、私ははっきりと率直に言っておきたい。ハラキリにおいて<死>は消滅する。死という人間的諸条件を、ある人間の意志が自由に否定する行為であるからだ。ハラキリにおいては、より高き倫理的価値が、自己に対する超越のかたち、死に対する克服のかたちによって、肯定されているからだ〉

 

『反回想録』のなかでマルローは登場する「坊さん」の言葉として「ハラキリは自殺ではない。例証です」と述べて、西洋における自殺とは本質を異にする積極的な意味を与えている。「愛する人を死に導くことを潔しとするのは、おそらく究極の愛の形であり、それに勝るものはないだろう」と『人間の条件』のなかで登場人物に語らせているのは、まさにそのような「隷属」から逃れて理想化された「死」を日本のサムライの文化のなかに見出すことができるからであった。

戦後をともに歩んできた巨星、ド・ゴールが80年の生涯を閉じた1970年の晩秋、時を置かずしてマルローは日本の作家、三島由紀夫が「楯の会」の若者を率いて東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部総監に乱入し、クーデターを企てたのち割腹自殺するという、驚くべき報道を聞いて激しい衝撃を受けた。まさにマルローが思い描いてきた〈サムライの死〉が、高度経済成長のただなかの20世紀の日本に再現されたかのようなできごとであったからである。

マルローと三島はついに直接見(まみ)えることはなかったが、互いにその思想と行動に対して並々ならぬ関心を寄せていた。

 

〈行為者であり表現者であること、表現される者であり裁く者であること、死刑囚であり、死刑執行人であること、かつてボオドレエルが企て、二十世紀にいたって、マルローの<行為>の小説がそのひとつの典型を打ち建てた、真に今日的な文学の困難な問題がここにある〉(『ジャン・ジュネ』)

 

三島の死に続く川端康成の自裁のあと、マルローは竹本忠雄の問いに答えていった。

 

〈三島については、行為としての死はじつに強烈な現実性を持っているといわざるをえません。そこには偉大な日本的伝統が息づき、儀式がものをいっている。(左から右へと真一文字に腹を切るしぐさをして)なんといっても、これは凄まじい行為ですよ!西洋では、このようなローマ的自決にたいして、結局はこれをロマンチックな自殺と混同してしまうのが落ちですが、しかし、われわれのロマン主義者たちはけっして同じような自殺をとげたわけではありませんからね。彼らにおいては、行為の意味はぜんぜん別だったのです〉

 

『反回想録』に「日本の挑戦」の一章を書き加えたのは、事件の二年後である。マルローは1976年の晩秋、パリ近郊の病院で娘たちに看取られて75歳の平穏な死を迎えた。

 

さて、以下はこの犀利で謎に満ちたなこのフランス人作家の死後に明らかになった、藤原隆信の『平重盛像』とマルローをめぐる物語の、まことにアイロニカルな終章である。

1995年になって、美術史家の米倉迪夫が「神護寺三像」に描かれたモデルの冠や着衣の様式、眉や目鼻などの描法を考証した結果として、平重盛像のモデルを足利尊氏、源頼朝像を尊氏の弟の直義、藤原光能像は室町二代将軍の義詮とし、制作年代も一世紀半ほど下げるという新説を公にした。

制作年代と像主を変更するという、大胆な学説は美術史のみならず、先入観に支配されてきた日本の中世史の見直しにもつながるものとして、大きな反響を呼んだ。

「武士らしく、尊厳に満ちて凛々しい表情」が英雄の理想化という象徴作用をもたらして、後世の人々が歴史の文脈を読み違えてきたとすれば、これはまことに大きな問題提起である。もっとも、これには反論も強くあって決定的な同定にはなっていない。

実在したモデルのイメージを前提にして、時代風俗という状況証拠から像主の姿かたちの異同を問うのなら、これにも歴史の歪みを引き寄せる落とし穴がる。

ただあの神話的な肖像画の像主が重盛ではなく尊氏であり、作者も隆信ではなく遥か下った南北朝期の絵師ということになれば、絵画としての価値は揺らぐことがないとしても、マルローが得た霊感のありようは大きく揺らぐことにもなろう。

歴史とは、そしてそれを眼差す人間とは、まことに無慈悲なアイロニーに満ちている。

                                =この項終わり

(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 4 柴崎信三

  • 2013年7月23日 09:54

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

4 〈豊饒〉について

     「ツマリマセンネ」―六角堂の岡倉天心

 

再建された五浦六角堂(2013年)

再建された五浦六角堂(2013年)

 遠く、海はささやくような波に輝いている。

初夏の陽光は凪いだ海に照り返り、眼下の太平洋から伝わる熱気と風のざわめきが岬にしつらえられたこの小さな空間にも伝わる。熱を孕んだ一陣の風が堂宇を吹き抜ける。

〈私は何を求めてここへやってきたのだろう〉

東京美術学校(現東京芸大)の校長という自らの立場をめぐって、東京の美術界で繰り広げられた抗争で窮地に立った岡倉天心は、公職を追われて遥か茨城県五浦の海岸に自らの美の拠り所の日本美術院を移し、その岬の突堤に六角堂という小さな庵を設けた。

豊饒に輝く太平洋の波頭を見つめながら、蟠るおのれの情念に向き合う、まことに私的な祈りの聖域(アジ―ル)であった。この朝も、ひとりここに座して海をみつめているうちにしばらくまどろんだ。母親の胸に抱かれたような、幸福なまどろみだった。

いまは日課になったように、昨日も船を出して沖合で釣りに興じた。前夜、晩酌をしながら釣り道具を整えて、翌朝は読みかけた本を携え、漁師の千代次とともに船に乗る。

筒袖の道士服のような衣に、烏帽子風の被り物、草鞋履きで手には釣り竿と魚(び)籠(く)を持っている。自身を流謫の身になぞらえて演じる、東洋的(オリエンタル)な隠遁者の姿と呼ぶべきなのか。人影のない海辺でその異形はひときわ目を引くが、それこそが天心の境涯を貫くダンディズムであり、世界への眼差しの表現でもあった。

盛んな夏の海の照り返しを受けて、肌を刺す陽光が降り注ぐ小舟の上から沖合を眺めていると、手元の釣りざおが鋭い反応を見せた。アジ、サバなどとともに、宝石のような模様のシマダイがかかることもある。釣りに飽きると船上では持ち込んだ本を読んで、一日は過ぎた。昼寝をして自宅へ戻れば、また酒になった。

四十路も半ばになる。横山大観や菱田春草ら若い同志の日本画家を引き連れた五浦の暮らしを「都落ち」と嗤う声が、時折都から聞こえてくる。六角堂に身を置くとそんな憂さも清められて、黙想は過ぎ去った遠い風景や美しいものへのこころよい追想をよびおこし、秘めやかな乾坤(けんこん)が立ち上がるのである。

 

それにしても、見渡す海に突き出した景観の奇想にあふれた自然に比べれば、この小さな構築は六角形の鮮やかな朱塗りの外観を除くと内部はまことに装飾性に乏しく、あたかもそれが設計者の頑な意思に貫かれているようにさえみえる。

広さはわずか三坪、すなわち10平方㍍余りの庵を、天心は「観瀾亭」と名付けた。

奇抜な六角形の建物は、八角形をした法隆寺の夢殿から想を得た。私淑したお雇い外国人、アーネスト・フェノロサとともに古来不出の秘仏を千年の眠りから目覚めさせた、天心にとっての美の故郷であり、理想(アルカ)郷(ディア)とも呼ぶべき場所である。とはいえ、設計はその八角形が六角形となり、茶の湯を楽しむための開放的な茶屋の要素を色濃くした。

居宅とあわせて設計を請け負った地元の大工の小倉源蔵は、宮大工など伝統建築についての格別の知見を持った職人ではない。それゆえ、六角堂の外観も内部もおよそ天心の意匠をそのままかたちにしたものといっていい。

擬宝珠を頂いた瓦葺きの方形造の屋根が6つの面をなし、それを一辺の幅がほぼ2㍍ほどの壁面で支えている。そのうち海へひらいた4面にはガラス窓がある。外側には朱色の庇が張り出し、紅殻色の板張りの外壁と鮮やかな調和を生んでいる。

畳敷きの部屋の内部からは、大浦と小浦の断崖を左右において、眼下に初夏の陽光を映した太平洋の穏やかな波頭が窓越しに広がる。

室の中央には六角形の炉が切ってある。窓には内側に鴨居と敷居があって障子を立てることもできたから、まれに訪れる客を招いて海から吹きくる風にそよぐ松籟の音を伴侶にしながら茶をたてることもあった。

 

蝉雨緑に霑(うるお)う松一村

鷗雲白く漾(ただよ)う水乾坤

名山斯処詩骨を託す

滄海誰が為に月魂を招く

 

漢詩の『五浦即事』で天心は五浦の景観をこのように讃えた。

 

土壁とにじり口で閉ざされた数寄屋の茶室の、様式的な空間でたてる茶とは違って、海に向かって自然に放たれた六角堂のおおらかな茶の湯は、世俗の塵埃にまみれてたどりついた天心の心の傷を癒すのに相応しい舞台ではあった。

 

「この海原の彼方に、あのアメリカがある」

 

潮の香りを運んでくる白南風に身をまかせながら、天心は遥か彼方から若い日の一年余りに及ぶ欧米視察旅行から帰国する途上の、太平洋航路の遠い記憶を思い起こしている。

そもそも我が身の流転の端緒は、あの帰途の船上の日々の出来事にあったのだから。

 

祖国へ帰るアーネスト・フェノロサとその家族ともに、24歳の天心が横浜から米国船〈シティ・オブ・ペキン〉で欧米視察の旅の途に就いたのは、1885(明治19)年10月2日のことである。日本の美術品の収集家で修復保存の支援者でもあったウィリアム・ビゲローや画家のジョン・ラ・ファージらも同道した。

文部官僚だった天心が、国立の美術学校や美術館の設置などで「美術行政の一元化」を打ち出して時の文相、森有礼に建言したことから、文部省が美術取調委員として天心とフェノロサに9ヶ月間の欧米視察を命じたのである。

若い血気が漲る、洋々たる異郷への旅であった。

再三にわたってフェノロサとともに京都や奈良の寺社をめぐり、廃仏毀釈運動の下の荒廃のなかで「開けば落雷がある」と扉を閉してきた法隆寺の夢殿を開扉させて、秘仏の救世観音像のまばゆい姿を目の当たりにしたのは二年前である。それ以降、日本美術の心酔者であったこのお雇い外国人をいわば西洋からやってきた日本文化の後見人として、明治政府の欧化主義の影に埋もれていた日本の伝統美術を正統に復することで美術教育と美術界を主導するという、天心の文化官僚としての野望は着々と奏功していた。

一行は太平洋を渡ってサンフランシスコに上陸したのち、ボストンやニューヨーク、ワシントンで歓迎を受けた。年が明けてから大西洋を越えて欧州へ渡り、フランス、イタリア、スペイン、オーストリア、英国などの各国の美術館や博物館はもとより、国家や産業界と文化行政のかかわりまでを丹念に調査、視察した。一年余りに及ぶ、夥しい任務を帯びた長い旅であった。

帰途、天心は再び米国へ立ち寄り、かつての文部省の上司で米国駐在の特命全権公使としてワシントンにあった九鬼隆一を訪問する。

摂津三田藩から文部省に入り、木戸孝允や大久保利通といった元勲の知遇を足がかりに、若くして文部少輔、つまり事務次官へ栄達を遂げた。さらにやがて男爵の爵位を得るという人物である。欧化路線の森有礼に対抗する国粋派の文部官僚であり、腹心ともいうべき立場であった天心にとっては、その縁で出世の階梯に導かれ、一方でその昵懇なまじわりが後の自身の曲折に満ちた歩みと深くかかわる、運命的な絆で結ばれた人物である。

天心は三つ揃いの背広姿で横浜を出発したが、船上でインド人の相客がターバンやサリーなどの民族衣装を堂々と身につけているのを目の当たりにして、考えを改める。

米国や欧州の地で外国人を訪い、あるいは官庁や美術館の視察など、人目に触れる場面では、常に三つ葉かたばみ五所紋という、家紋の入った羽織袴姿でのぞんだのである。

流入する西洋文明の香りに満ちた横浜の居留地で育ち、母国語のように流暢な英語を話すこの若い日本人の奇抜な自己演出は、思惑通り欧米の各地で人々に強い印象と話題を提供した。ところが、帰途ワシントンの日本公使館を訪ねた折、天心の古風な紋服姿を認めるや、九鬼は一喝した。

「なんだ、その格好は」

「『郷に入っては郷に従え』という言葉を知らんのか」

怒気を含んだ声が返って来た。

いま振り返れば、あの姿も祖国の伝統文化を西洋に誇示しようという、若い日の気負いの現れであった。

 

もっとも九鬼の苛立ちは、若い天心が仕組んだ場所をわきまえない時代錯誤のいでたちばかりに原因があったのではない。日本から伴ってきた妻の波津子が、心身の不調を訴えて取り乱す日々が続き、帰国を強くのぞんでいたからである。

「折り入って相談したいことがある」

久々にまみえた若い腹心の部下に向かって、九鬼は声をひそめて言った。

「異郷の暮らしになじめない家内が心身を損ねて、先に日本へ帰りたがっている。貴君が帰途に同道してやってくれはすまいか」

天心に否やはない。

二人の子供をかかえ、「言葉も通じない国で外交官の妻として社交の場にのぞむことなど到底できません」と、もともと同行に消極的だった波津子であったが、ワシントンの公使館など社交の場にのぞむようになると、その美しさと控え目で淑やかな振舞が地元のメディアなどでも知られるようになった。

 

〈日本公使夫人は美しい。(略)九鬼夫人は英語を習得しようと果敢に奮闘中であるが、火曜日夕、公使館で催された見事なパーティーの席上、招待客に英語で挨拶した。顔色はつやつやしたオリーブ色で、頬には赤味がさし、非常に整った顔立ちをしている。淡いローズ・ピンクのヴェルヴェットとサテンのドレスはブルネット・タイプの夫人にはまさにぴったりのものだった〉(1885年2月6日「ハーバーズ・バザー」紙)

 

もともとは京都の花柳界の出身という。「若々しく、愛らしい。細身で、姿勢もよく、生き生きとした表情をしている」といった波津子の評判は、ワシントンの社交界に広がっていた。イラスト付きでその可憐な佇まいを伝える記事もあったが、やがてそれはこの東洋からやってきた美しい公使夫人が心身の変調を来たし、夫に先んじて帰国することを伝える内容に変わる。波津子はその時、ワシントンで生まれた幼子を連れた上、のちに哲学者となって『「いき」の構造』で知られる三男の周造を身ごもっていた。不安をかかえる帰路のエスコート役を引き受けたことが、後の天心の歩みに大きな影を落とすのである。

1887年9月、サンフランシスコからの海路は平穏であった。フェノロサ一家や公使館の書記官ら同行者とともに、長い欧米視察の成果を抱えた天心は帰国後の前途に大きな野望を温めながら船上にある。太平洋を横断してゆるやかに進む船上のデッキで三つ揃いの背広に装いを改めた若い天心に向き合うと、多忙にかまけて家庭を顧みずに奔放な女性関係の絶えないない夫のふるまいや、慣れない異郷の社交の場をとりもつことに疲れきった波津子は、久々の祖国が近づくにつれて次第に屈した心を開いていった。

「西洋の暮らしは何かと窮屈であられたでしょう。どうぞ、心を寛がせて下さい」

天心はそう語りかけながら、穏やかな初秋の海を背にして緩やかなワンピースに小柄な身を包んだ波津子に、眼差しを注いだ。

「お手間を取らせて申し訳ございません。無理にご一緒していただいてしまって」

若くしてすでに妻帯していた天心が、この米国からの帰路の船上で波津子への最初の愛情を育てたかと言えば、それはおそらくまだ同情という性質の感情であったろう。

 

天心の生涯に繰り返し噴出する、女性に対する柵を突き破るような不埒とも呼ぶべき情動の由来を、どこに探るべきなのか。これは、近代の日本文化のプロデューサーとして毀誉褒貶のうちに生涯を閉じたこの人物が遺した、大きな謎と呼ぶにふさわしい。

幼くして母を失ったことは、憧れが高じて堰を切ったような女性への没入を抑えることができない、この男の無頼のひとつの要因ではあったろう。天心の人生の折々にあらわれそれはしばしば、不倫や頽廃、そして時に迸るような女性への讃仰のかたちをとった。

波津子と天心が常軌を逸脱したような激しい恋愛関係に陥り、それが社会から醜聞として問われるようになったのは、米国から太平洋の船旅で帰途を共にして帰国してから10年ほどの歳月がたった時期である。

帰国後、天心は強かな行政手腕を駆使して官途を上り、東京美術学校の開設にあたった。

下山観山、六角紫水、横山大観ら、のちに野に下りて主宰する日本美術院を支えることになる若い才能を迎えて開校にこぎつけると、その翌年の1890(明治23)年には28歳という若さで自らこの日本で初めて生まれた美の学府の校長という顕職にのぼるのである。

脱亜入欧政策の下でグローバル化の道をすすむ日本にあって、西洋絵画の〈輸入〉に腐心する洋画派や日本画の守旧派を退けて、伝統に寄り添った新たな国粋美学を行政と画壇の中心に据えるという天心の戦略は、ここでも外連(けれん)に満ちたかたちになって現れる。

そのひとつは、天心が採用した東京美術学校の異形の制服である。

風俗史の教授である黒川真頼がデザインしたというこの制服は、天心の発案で天平時代の朝服を範にとって造られた。上衣は羅紗で作られた武官の闕腋袍(けつてきのほう)に筒袖で、袴は表袴の裾を紐で括った。靴は麻鞋で帽子は折烏帽子に似た天平風の代物であった。

明治の半ばとはいえ、洋服と洋髪の時代である。古代まで遡ったこの制服に学生はもちろん、当時の教員たちも不評の声をあげたが、天心は有頂天であった。

根岸の自宅からこの制服で愛馬にまたがり、上野の学校までの道のりを通った。天心は文化官僚として美術史や日本文化について多くの著述を残したが、理念の図像化、いわばプロデューサーとしてのこうした自己演出は最も得意とするところであった。

とはいえ、「日本美術史」などの講義のかたわら美術雑誌の『国華』を創刊し、合間にぬって帝国美術館の委嘱で中国美術調査旅行に出かけ、はたまた帰国した九鬼の下で古社寺保存に取り組むという多忙な重職にありながら、妻の元子と別居した天心の私生活は荒んでいた。原因は波津子との道ならぬ情交である。

長男の岡倉一雄がそのころの父の姿を描いている。

 

〈愈々仲根岸四番地を引き払つて、谷中初音町の新宅へ移転する数カ月の天心は、不羈とも放縦とも、言はふなき狂態に終始して、全く世間の軌道を踏み外してゐた。だらしなく袴を後ろ下りに穿いたまま、深夜の坂本通りを目的もなく彷徨(さまよ)ひ歩き、酒家を叩いて升酒を仰いだり、宿酔ひ未だ醒めやらぬ面を美校の校長室に晒すことも、決して一再には止まらなかつた〉(岡倉一雄『父天心』)

 

波津子は天心に伴われて帰国してのちも、夫の九鬼との不和とそれに伴う心身の不調が続いた。渡米前から九鬼の漁色は止むことがなかったが、その対象は花柳界から雇い人の娘まで、選ぶところがなかった。それが波津子の病の悪化の原因でもあった。

やがて別居を望んで移り住んだ根岸の御行の松のそばの瀟洒な中二階の家は、天心の住んでいた旧居とは指呼の間である。10年前に太平洋航路でともに帰国した波津子が、年下の天心を頼って寄る辺ない日々の光明を探る心の動きと、波津子の別居で温めたかつての同情と憧れが蘇り、天心の心が激しい恋情に移ろうのとは、どちらが先であったのか。

九鬼が世間体を慮って波津子に設えた御行の松の「中二階の家」は静寂だった。波津子は日中、琴と書と生け花に親しみながら過ごした。天心はしばしばここを訪れた。夕刻、雪洞の灯がともされた中二階の奥の間で、天心は波津子の酌を受けながら酔いに身を任せた。至福のひと時であった。

幼い周造は母の膝に凭れながら、この時折訪れる伯父さんの面白い話に聞き入った。

 

「周造は虎をみたことがあるか。伯父さんは朝鮮を旅したときに山の中で本物の野性の虎に出会ったことがあるぞ」

「君は通学に驢馬を使うといい。お父さんに買ってもらいなさい」

 

天心は周造を美術学校に連れて行ってモデルにし、橋本雅邦に幼い肖像を描かせた。筑波山へ狩猟に連れて行ったこともある。まことに父子のようなまじわりがあって、周造はひところひんぱんに母を訪れて来る天心を自分の実の父と疑ったことさえあった。

 

〈東京美術学校は世の希望をいれず、東西両洋とも目下多数の美術家が唱道せる学説あるを排斥し、あえて一種の奇僻たる志想を以て生徒を教養し、ますます怪物的の製作を出さしめ、美術自然の発達に背馳し、大いにその進歩を障礙せり。その校長たる岡倉覚三なるものは一種奇怪なる精神遺伝病を有し、常には快活なる態度を以て人に接し、また巧みに虚偽を飾るも、時ありて精神の異状を来すに及びては非常なる残忍の性をあらわし、また獣欲を発し、苛虐を親属知友に及ぼし、人の妻女を強姦し、甚だしきはその継母に通じて己が実父を疎外し、怨恨不瞑の死を致さしむる〉

 

「築地警醒会」なる名前でこうした天心の乱脈な私生活を指弾し、東京美術学校の刷新を迫る怪文書が関係者に送りつけられたのは1898(明治31)年3月のことである。

天心の腹心だった美術学校図案科の教授、福地復一が中国視察で校長が不在だった折の専横を周囲から問われ、管轄する九鬼の差配で退職に追い込まれたことを恨んで、天心の排斥運動を仕組んだのである。もっとも、そこには天心が仕切る西洋画を排除した美術行政への不満が美術界に渦巻き、校長の私行上の乱脈をあげつらうことで局面を逆転させたいという思惑が背後にあって、その勢いを恃んだことはいうまでもない。

それにしても、ここに及んで九鬼までもが天心の独断専横をとがめるのはなぜか。

身から出た錆という。放縦に身を委ねているうちに流れは変わったのである。

天心は美術学校校長を辞することを決意した。

若い教官たち、橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら天心を支えてきた17人が「不当な排斥」を憤って「連訣退職」を求めてついには免官となった。

立場をわきまえない、女性への憧れと没入という天心のエロスの衝動こそ、〈官僚天心〉の脆さの証明であった。

 

〈谷中鶯 初音の血に染む紅梅花

堂々男子は死んでもよい

奇骨侠骨 開落栄枯は何のその

堂々男子は死んでもよい〉

 

自ら手がけた東京美術学校を追われて下野した天心は、その年の秋に東京・谷中に「日本美術院」を発足させる。橋本雅邦、下村観山、横山大観ら、天心の理想と志を恃んで東京美術学校を連訣退職した26人の同志が参加する「美の共同体」である。

その発足に際して同人たちが作ったというこの俗謡は、ほとんどニヒリズムに接した気分が横溢しており、当時の天心らのメンバーが抱える空気を伝えている。

 

新たな拠点とした日本美術院は官立の美術学校とは異なる在野の一研究所にすぎない。

新しい日本画の勃興を掲げて、西洋画の写実主義を超えた「空気を描く」という理想を追求する天心という指導者を得たことで、その設立の経緯への関心も手伝って当初は同人たちの作品が社会的にも大きな反響をもたらした。

ところが、やがて日本絵画の伝統的な線描を否定し、西洋画に流行していた印象派の手法を取り入れるなどした折衷的な〈日本画〉は不評を招き、「朦朧派」などと手厳しい批判を浴びるようになった。

同人の中には美術学校からの働きかけに応じて教員に復帰する者もあらわれる。作品の売れ行きの不振はたちまち、美術院の経営を逼迫させ、天心はまたまた窮地に立たされる。

 

このような身辺の激動に見舞われていた天心がしばしば身を寄せた、上根岸の「中二階の家」に住まう波津子がその頃、どうしていたのか。

美術学校校長の辞任と日本美術院発足という波乱のなかでも続く頽廃(デカダンス)の日々を周囲が心配し、説得に応じてようやく天心が波津子のもとを離れ、妻、基子の住む自宅へ戻ることを決意するのと前後するように、夫の九鬼隆一と別居生活を続けてきた上根岸の波津子の精神の乱調は高じた。自宅へ出向いて天心の妻の基子と諍い、はたまた自ら出奔や奇行に及ぶことが頻繁となった。こうしたことから天心が怪文書事件で美術学校校長の座を降りて2年後の1900(明治33)年、夫の九鬼は帝室博物館館長の職を辞したうえで、とうとう波津子との協議離婚に踏み切った。

一人身の孤独をかこつことになった波津子の病勢はひときわ改まり、虚言や妄想が絶えることがなくあらわれるようになる。ついには1902(明治35)年、波津子は精神医療を専門とする東京府巣鴨病院に入院する。爾来1931(昭和6)年に七十一歳で没するまで、病室から出ることはなかったといわれる。

公私の場面を問わず、現実が思うに任せないまま窮地に立つと、責任を放棄してそこから逃げようとするのが天心の拭いがたい悪癖であった。その逃避の対象となるのが身近な女性であり、また遠く異国の地であった。

あまつさえ天心は東京美術学校の校長職に在ったこの間、家事手伝いにきていた異母姪にあたる若い娘と関係を結び、男児を産ませるという背徳を犯しているのである。波津子の精神の錯乱の原因が直接には夫の九鬼の放蕩にあったにせよ、その隙間に天心が寄せる出口のない泥沼のような愛欲が高じさせことは容易に想像できる。

 

波津子の悲劇をよそに1901(明治34)年、天心は日本美術院の窮地を逃れて今度はかねてから関心を深めていたインドへの旅に出る。ここでは世界的詩人のラビーンドラ・ナート・タゴールと親しく交わり、ベンガルの志士たちと西欧の植民地支配からのアジアの解放について熱い意見をかわした。

 

〈アジアは一つである。二つの強力な文明、孔子の共同主義を持つ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることはできない〉

 

のちに対外侵攻へ向かう日本が掲げたアジア主義のスローガンとして引用される『東洋の理想』のこうした主張は、この旅が書かせた天心一流の文化的な扇動文芸として、内外に知られるところとなった。

天心は一年にわたるこのインド周遊やその後の再度の米国歴訪のなかでも、新たな心のよりどころとなる女性を見出して偶像と仰ぐことになる。ラ・ファージの紹介でボストンに訪ねた富豪の美術評論家のイザベラ・ガードナーとインドの美貌の女流詩人のプリヤンバダ・デヴィ・バネルジーである。

なかでもプリヤンバダへ寄せるほとんど鑽仰に近い愛には、天心の失意の晩年の痛ましい情念が反映されているかのようである。

 

プリヤンバダはベンガルの名家に生まれた美貌の女流詩人で、詩聖タゴールとも血をつなぐ才媛であった。天心はインド周遊の折にカルカッタで招かれた席で初めて出会ってから、激しい思慕を募らせる。その帰途、そして再び滞在した米国のボストンや帰国後に日本美術院の拠点として移り住んだ茨城県五浦から、プリヤンバダにあてて夥しい情熱的な書簡を送り続けていたことがわかっている。

 

〈結局のところ、私の悲哀は、私のとりわけ気に入りの娯しみらしく思われます。私は孤独の中に逃げ込んで、秘かに祭りをくりひろげるのです。私の過去は、触れることもできない理想、むなしい憧憬を追っての、長い闘争でした。そして今、私はぼろぼろになり、疲れはて、しばしば長い眠りだけを欲する状態で放り出されています〉(1913年3月3日付、ボストンから)

 

こうした自己憐憫に、プリヤンパダという新たな偶像へ向けて一途な同化を求める、晩年の天心の子供のような甘えの心を認めるのはたやすいことであろう。

 

〈奥様/何度もペンをとりましたが、驚いたことに何ひとつ書くことがありません。すべては言い尽され、なし尽されました―安んじて死を待つほか、何も残されていません。広大な空虚です―暗黒ではなく、驚異的な光にみちた空虚です。炸裂する雷鳴の、耳も聾せんばかりの轟音によって生みだされた、無辺際の静寂です。私はまるで、巨大な劇場にたった一人で坐り、みずから一人だけで演じている絢爛たる演技をみつめる王侯のような気分です〉(1913年8月2日付、五浦から)

 

これは天心が認めた、最後の女性への恋文と呼ぶべきであろう。

 

六角堂が構築されたのは、天心が横山大観や菱田春草、六角紫水らを伴い、ボストン美術館の招きで一年余りの米国旅行から帰国した1905(明治38)年の6月である。

鄙びた五浦に暮らしの場を移した天心が、日本文化を世界に問うことになる英文の『茶の本』を米国ニューヨークで刊行したのはその翌年である。

 

〈やさしい花よ、星の涙滴よ、園に立ち、露と日の光をたたえて歌う蜜蜂にうなづきながら、おまえはおそろしい運命がおまえを待っているのを知っているのだろうか。夏のそよ風に撫でられているあいだは、夢をみつづけ、風に揺られ、浮かれているがいい。明日は情け容赦のない手が、おまえの喉を締めるだろう〉

 

西洋文明の嵐が日本という「やさしい花」を踏み散らすという暗喩は、アジアの南の彼方のブリヤンバダへの呼びかけに呼応するかのようである。

 

〈私は終日浜辺に坐し、逆巻く海を見つめています―いつの日か、海霧の中からあなたがたちあがるかもしれないと思いながら〉

 

大いなる構想は砕けて舞い、眼前の青い海の彼方に去ってゆく。

いま静かな五浦の沖合の波の間に探りみるのは、遠い日の波津子や遥かな南国のプリヤンバダの面影である。

 

〈ツマリマセンネ〉

 

早すぎる晩年を五浦で過ごした天心は、問わず語りにこうつぶやくことがあった。

つまりませんね。振幅の激しい生涯の果てのこのつぶやきは、悲痛である。

 

50歳という若さで天心が没してから一世紀近い日々が流れた2011年3月11日の午後3時前、激しい地震にともなう大津波がこの六角堂を一瞬のうちに沖合へ流し去った。

〈豊饒な世界〉を夢想し続けながら夢破れた天心が晩年、太平洋を望む僻村の岬に設けた心の隠れ家(アジール)の流竄は、百年の歳月ののちに迎えたある精神のかたちの崩壊でもあった。

                             

この項おわり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 3 柴崎信三

  • 2013年6月17日 18:30

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

3 〈女性〉について

     「蝶々夫人」と「花子」

㊤初演時など欧州の「蝶々夫人」の公演ポスターから

㊤初演時など欧州の「蝶々夫人」の公演ポスターから

 オペラ歌手の岡村喬生の演出によるジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』(マダマ・バタフライ)が、イタリア・ルッカのプッチーニ・フェスティバルで上演された。2011年夏のことである。初演から1世紀以上たったイタリアオペラの定番を、原作者の故郷で演じるこの舞台が注目されたのは、原曲の台詞やト書きの一部を作品の背景となった日本の演出者が「訂正」して上演したからである。
 結果は地元で大きな反響と評価を呼んだ。「正しい日本の姿を知った」「新しい蝶々夫人像を見ることができた」といった声が、有力メディアにも相次いで掲載された。
『蝶々夫人』は1904年の長崎を舞台に、地元の没落した藩士の娘で芸者となっている蝶々と、寄港した米国の海軍士官ピンカートンとの悲恋を描いた作品である。
蝶々は戦艦エイブラハム・リンカーンで長崎にやってきたピンカートンと出会い、愛をはぐくむ。そして信仰をキリスト教に改めて結ばれるが、生まれた子と蝶々を残して夫は3年後に帰国してしまう。「戻ってくる」という言葉信じて待ち続ける蝶々の前にやがて現れたのは、夫が祖国で結婚した妻のケイトで、「子どもを引き取りたい」と要求する。
一途の愛を砕かれて絶望した蝶々は、覚悟を決めて座敷に幼い子に目隠しをさせて遠ざけた後、仏壇の前で父の遺愛の刀を取り出し、「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」と書かれた銘を読みあげ、のどに突き刺し自裁する―。
武士道と芸者、満開の桜、純愛とその裏切り、日本刀による自刃など、当時の西洋の目に映ったジャポニスムの断片が散りばめられた作品である。岡村がこれを敢えて「訂正」して上演したのは、半世紀以上も前にドイツに留学して以来、歌手や演出家としてこの作品に接してきた経験から、プッチーニの原作にまつわる日本文化への誤解や偏見が日本人としていたたまれない、という気持ちを抱えてきたからであったという。

「間違いを演じることはもちろん日本人として苦痛ですが、日本と国とその文化を正しく世界に伝えられなくてはならないし、それは日本人の芸術家としての責任であり、義務でもあるはずです」

オペラ『蝶々夫人』のいくつかの場面や台詞への違和感は、岡村がオペラ歌手として半世紀以上も前にイタリアへ留学し、欧州各地で舞台に立ってこの作品を経験するなかで、拭いがたい感覚として蓄積されてきたようである。
キリスト教に改宗した蝶々に対し、叔父の僧侶〈ボンゾー〉がなぜか丁髷姿で登場して「カミサルダーシコ!」(「神猿田彦」の意)と罵る場面がある。1969年にドイツのケルン歌劇場の舞台で岡村が〈ボンゾー〉を演じたときには、演出で丁髷姿はもとより、手には「南無妙法蓮華経」の文字を逆さに記したミニチュアの鳥居を手に持たされた。烏帽子を被った〈ボンゾー〉や長崎の海の彼方に富士山が描かれた背景、日本家屋のなかを土足で歩く人物、着物の裾をたくしあげた蝶々―など、途方もない演出を数えればきりがない。

 プッチーニの代表作としていまも世界中で演じられているこの作品が、こうした誤解を若い世代に拡散し続けていることへの疑問が、自ら原曲を訂正した「改訂版」の現地上演へ踏み切らせたのである。岡村がこの二幕三場のオペラの原作で「誤解」として指摘した台詞とト書きは11箇所ある。そのおもなものをここに挙げてみよう。

▽蝶々の女中、スズキの台詞〈知恵者オクナマは申しました。微笑みは悩みの横糸を解きほぐす〉(「オクサマ」の転訛か)
▽蝶々が新居で着物の袂から手拭、煙管、鏡や扇子とともに、なぜか伊達巻やお歯黒の瓶、仏像を取り出し〈オットケです〉と説明する。(日本風俗の混乱、「ホトケ」の転訛)
▽蝶々とピンカートンの婚姻の儀式の場面で、蝶々の伯父のボンゾー(坊主の訛り)がやってきて「昔からの信心を捨てた」と蝶々の改宗を怒り、〈カミサルンダシーコ!お前の腐った魂にはどんな責め苦が降りかかることか〉と罵る。(「神猿田彦」の訛りとみられ、神道の神のたたりを仏僧が唱える混同)
▽女中のスズキが仏前の祈りを捧げる。〈イザギ、イザナミ、サルンダシーコカミ……テンショーダイサマ! 蝶々さんを泣かせないで〉(伊弉諾尊、伊弉冉尊のことで日本神話の神と仏教儀式の混同。テンショーダイは天照大神のことと思われる)
▽残された蝶々が子どもを抱いて歌う。〈この母が雨の日も風の日も街に出て、お前を抱いて歌い踊り、道行く人に喜捨を乞うのを。ああ、恥ずかしい芸者の仕事をまたするなら、命を断ったほうがいいわ!〉(芸者と言う職業への誤解と偏見)

仏教と神道の混同、「芸者」という職業に対する偏見、日本の習俗(フォークロア)への誤った解釈など、プッチーニが原作を発表した時代の情報の偏り、それによって増幅される異文化への幻影と誤解がこの作品の細部に散りばめられているとみるべきであろう。
岡村はこれらのうちの数か所を訂正して2011年に上演し、なお11か所すべてを改めた「完全改定版」の上演を2013年の上演として企画したが、原作者プッチーニの著作権継承者で孫に当たるシモネッタ・プッチーニの強い反対によって遮られている。
原著と著作権継承者の不可侵の権利という、著作物に対する今日の常識的な法の制約が背景にあるにしても、いまなお持続している日本と西欧のあいだの「誤解」にもとづく異文化理解の根深いせめぎあいが、この作品の「訂正」をめぐる騒動には内在している。ともあれ、岡村の「完全改定版」の上演を認めないとした、プッチーニの孫のシモネッタ女史の言い分も聞いてみよう。

〈プトレマイオス的天動説がコペルニクス的地動説にとって代わられたからといって、ダンテ・アリギエリの『神曲』を修正しようとする人がいるだろうか。レンブラントの『ニコラス・テュルプ博士の解剖学講義』を医師は絵に描かれているようなふるまい方をしないという理由で正そうとするのだろうか〉

〈主張されている『蝶々夫人』の中の神道と仏教の混同も、岡村氏が指摘しているほど重大なものではないように思われる。神道や仏教的要素に関する不正確な点が結果的にあったとしても、ジャコモ・プッチーニが遺したテクストに手を加える理由として承服しがたい〉

シモネッタはプッチーニの原作の〈不可侵性〉を説くにあたり、西欧の知的正統性を踏まえたうえで新たな演出による「訂正」を否定しているが、グローバリゼーションの下でいまや世界中で演じ続けられるこの作品の今日的な評価を考えると、作品成立の時代背景を差し引いても、その「誤解の拡散」に対する抵抗感が日本人にはぬぐえない。今日でもなお、原作に描かれたような日本観が根強く世界に流通しているからである。

改めて振り返るまでもなく、20世紀初めに『蝶々夫人』の「誤解」が独り歩きをはじめる背景には、当時の西欧社会がまだよく知り得ていない「日本」という表象によせた、迸るような好奇心と憧れがあった。とりわけその眼差しは、エキゾチシズムの対象として日本の〈女性〉という像が結ぶ、可憐で健気で誇り高いふるまいと謎めいた東洋的エロスの幻影に結晶していったのである。
プッチーニのオペラ『蝶々夫人』の成立には、その由来に現実のモデルや史実に基づくいくつかの物語の原型が伝えられている。
プッチーニの原作のもとをたどると、物語の原型は米国の作家のジョン・ルーサー・ロングが1897年に「センチュリー・マガジン」に発表した同タイトルの短編小説にゆきつく。作者のロングは当時欧米に伝えられて世界の〈日本〉像に影響を与えたといわれるピエール・ロティの『お菊夫人』を踏まえた上で、実在のモデルによる伝聞を参考にして小説にしたといわれる。
ロティは明治期に来日したフランス人の海軍士官でもあった作家である。見聞した日本の風俗や生活の思い出を『秋の日本』などの作品に残している。『お菊夫人』もそうした異国情緒に導かれて日本の女性を描いた小説である。

〈お前の小さい身体も、お前の小さいお辞儀も、お前の小さい音楽もすべて私にあたえてくれた〉(野上豊一郎訳)

1885年に長崎を訪れておカネさんという遊女と過ごした思い出を、ロティは『お菊さん』でこのように描いたが、日本人については「何と醜く、卑しく、また何とグロテスクなことだろう」などと記して、遅れた文明と異文化への偏見や嫌悪も隠していない。
一方、実在のモデルとして今日伝えられているのは、現在長崎の観光名所となっている「グラバー園」に名を残している幕末の英国の武器商人、トーマス・ブレイク・グラバーの妻となるツルである。
もともとは料亭の仲居で、坂本龍馬らの倒幕運動に肩入れするなど、幕末の動乱期の黒幕でもあった英国人のグラバーに嫁いだ。ツルは着物に蝶々の縫い紋をいれていたことから周囲の人々に「蝶々さん」と呼ばれた。山手のグラバー邸に住むツルを知って、グラバーとの結婚のいきさつや改宗問題などについての話を聞いたのが、米国人の宣教師の夫とともに来日してすぐ近くに住んでいたロングの姉、サラ・ジェーン・コレルである。
コレル夫妻は1891年に来日して53年もの間にわたり日本での布教活動にあたったが、故郷のフィラデルフィアに帰国した折、姉のサラからこの「お蝶さん」の話を聞いた弟の作家、ロングが大きな関心を抱いた。
ツルには『蝶々夫人』のような悲劇的な人生があったわけではない。ただロティの『お菊さん』がフランス人のアンドレ・メサージュによってオペラ化され、すでに1894年にパリのオペラ・コミックで初演されてそのオリエンタリズムが評判をとっていたから、ロングがこれを下敷きにして日本から戻った姉の話をもとに脚色を加え、いわば二番煎じの「日本の悲恋」を売り出そうとして、三年後に『蝶々夫人』という小説にしたという経緯は容易に想像することができる。
ロングのこの通俗小説はヒットした。
すぐに米国で舞台化の話が持ち上がり、劇作家で演出家のデヴィッド・ベラスコが脚本化の権利を得た。1900年、人気女優のブランチ・ベイツをヒロインに迎えてニューヨークのヘラルド劇場で初演されたべラスコ演出の『蝶々夫人』は成功し、その後すぐにロンドンのヨーク劇場で行われた再演も連日満員となるなど、一躍ブームとなってゆく。
プッチーニが見た舞台の『蝶々夫人』はこのロンドン公演である。
英語は解さないが、この舞台の日本趣味の異国情緒はプッチーニを魅了した。終演後の楽屋へ飛び込んでベラスコを抱擁し、その場でオペラ化の申し入れをしたという。

〈こんな感情過多のイタリア人と実務的な取引をするなんてことは、とても不可能なことに思えたからである。何しろ、彼の目には涙があふれ、私の首は、彼の両手でしっかりと抱きしめられていたのだからね〉(モスコ・カーナ『プッチーニ』加納泰訳)

オペラ化の権利を得たプッチーニは、作品化にあたって「日本」と日本文化についてさまざまな情報を集めて、その宗教的な風土や社会風俗を生かす努力それなりにしている。
故郷のルッカに当時駐イタリア公使だった大山綱介が妻、久子を伴って夏の休暇を過ごしていたことから親しくなり、イタリア王妃に筝曲を教えていた久子を通して「君が代」や「さくらさくら」「お江戸日本橋」「越後獅子」などの日本の歌曲を知ったプッチーニは、オペラの『蝶々夫人』のなかにそれらを採り入れた。
当時日本から劇団とともに欧州各地を訪れて巡演し、1900年のパリ万博の公演で艶やかな着物姿が熱狂的ブームを呼んでいた女優の川上貞奴も、イタリアでプッチーニと会って女性の風俗や作法について教えたといわれる。
1904年2月、満を持してプッチーニのオペラ『蝶々夫人』はミラノ・スカラ座で初演された。しかしながら、この舞台は「既作の焼き直し」などと不評をかこった。幕開けに拍手も喝采もなく、聴衆は舞台を沈黙で迎えた。やがて嘲笑と野次が渦巻いた。不評の真相は定かではないが、この原曲には現在の台本以上に日本の文化や宗教、風俗に対する誤解や日本人に対する差別的な台詞・表現があった。このため指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニの助言などを受けて削除や修正が行われ、これをもとに同年5月28日、プレッシャで行われた二度目の公演で、この東洋の悲恋物語はようやく成功を収めることになる。
初演におけるこの作品の屈折と、その後に日本のプリマドンナとして迎えられた三浦環に代表されるオペラ『蝶々夫人』の世界的な受容の歩みをたどると、ヒロインの日本の女性像をめぐる〈イメージの交換〉が、20世紀の日本と西欧という異文化間の理解と誤解に果たした役割の大きさを考えざるを得ない。その認識の落差こそが、西欧のジャポニスムという〈憧れ〉の一方で偏見や〈誤解〉の源になっていった、ということも含めて。

同じ時期の欧州を時代背景に、遠路やってきた日本女性の身体と精神を西洋人の眼差しで描いた日本人作家の作品がある。森鷗外の短編小説『花子』である。

〈Auguste Rodinは爲事場へ出て来た。廣い間一ぱいに朝日が差し込んでゐる。このHotel Bironといふのは、もと或る富豪の作つた、贅澤な建物であるが、つひ此間めで聖心派の尼寺になつてゐた〉

17歳の花子は日本からやってきた女優で、劇団とともに欧州各地を巡演している。パリでその評判を聞いた著名な彫刻家のオーギュスト・ロダンが、モデルに呼んでポーズをとらせたいというのである。留学生の久保田が通訳として、花子を斡旋する役割を引き受けてアトリエへ出向いてゆく。

〈健康で余り安逸を貪つたことの無い花子の、些かの脂肪をも貯へてゐない、薄い皮膚の底に、適度の労働によつて好く発育した、緊張力のある筋肉が、額と顎の詰まつた、短い頭、あらはに見えている頸、手袋をしない手と指に躍動してゐるのが、ロダンは気に入ったのである〉

花子は岐阜県からやってきた実在の旅回りの劇団の女優、太田久である。「欧州で芝居をしないか」という興行師の誘いで1902(明治35)年、さきにブームを起こした川上貞奴の後を追うようにして欧州の地を踏んだ。欧州各地の公演をプロデュースしたのは、貞奴のブームを仕掛けたのと同じ舞踏家のロイ・フラーである。
あでやかな着物に舞扇を手に持ち、なぜか最後に必ず演じられる「ハラキリ」の場面が各地で「花子」の人気を異常に高めた。『蝶々夫人』の結末と同じように、日本刀によるヒロインの自刃でエロティシズムとエキゾチシズムがひときわ高められるのが、この時代の欧州における日本女優ブームの一面であったことは、改めて記憶されるべきであろう。
鷗外の小説のなかで、「花子」はモデルとして裸体でポーズをとることを承諾し、ロダンは数十分のデッサンを終えてから通訳の久保田に向かって言う。

〈人の體も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹つて見える内の焔が面白いのです〉

高名なフランス人彫刻家が、突然現れた「花子」の裸体から「地中海の女性とも、北欧の女性とも違う、地に根を深く下した木のような〈強さの美〉」を受け止めた、という言葉でこの小説は終わっている。

ロダンが「花子」を初めて見たのは1906年のマルセイユ植民地博覧会における公演の折で、申し入れを承諾した花子をパリの自宅に招いて画室でポーズをとらせた。以来、巨匠ははるばる日本からやってきた、この飾り気のない小柄な女優を寵愛した。
国立西洋美術館に所蔵されている「花子像」など、花子をモデルにした50点以上に上るロダンの作品が伝えるのは、素朴で活力に満ちた日本女性の身体と精神の「強さ」である。ロダンはそこに西洋女性にはない、〈死〉とも通い合う日本女性のなかの固有の〈美〉を見出したというべきだろう。

花子は欧州から米国へと巡演しながらブームを広げた。鷗外が『花子』を発表するのは1910年だから、これは欧州留学から帰った後の鷗外が花子とロダンの挿話に想を得た創作である。やがて帰国して故郷岐阜の妓楼に戻った「花子」、すなわち太田久はロダンから贈られた自身がモデルの「花子像」を終生、大切にしたといわれる。

〈誰もかれもが、彼女の演技の、いかにも扇情的で安っぽいうわべの底にひそむ、なにか名状しがたい、魔法のような要素、彼女の身裡から輝き出る、焔のようなものを感じたらしいのだ〉

ドナルド・キーンは欧米を駆け抜けた「花子」のブームについて、こう記した。
19世紀末、西洋の目によって発見された〈日本〉は繊細な花鳥の意匠や優美な曲線模様などによって、欧米社会にジャポニスムの花を咲かせた。舞台で演じられる「女性」を通したエロティシズムは、そのもっとも誘惑的でミステリアスな表象というべきだろう。
『蝶々夫人』と「花子」という、この時代の現実の日本女性がモデルとなって欧米にブームを広げたジャポニスムの遺産は、多くの幻影と誤解を増幅しながら、21世紀のいまにも生きている。

この項おわり
(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)