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連載 ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 12  柴崎信三

  • 2014年9月30日 14:20

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

11 〈成長〉について

丹下健三と岡本太郎 1970年の「対決」

岡本太郎「太陽の塔」(1970年、大阪・千里丘陵) 

岡本太郎「太陽の塔」(1970年、大阪・千里丘陵) 

「人類の進歩と調和」をうたって大阪・千里丘陵を会場に大阪万博が開かれた1970(昭和45)年の日本列島の風景には、高度経済成長という戦後日本の大きな波が呼び起した人々の迸るような熱気と、その陰画がモザイクのように交錯している。

3月に始まった大阪万博は9月の閉幕までに内外から6420万人の入場者でにぎわい、人々は日本が開花させたテクノロジーや消費文化を通して未来へ広がる豊かな社会の手触りをそこに実感した。しかし開幕からほどない三月末、「赤軍派」を名乗る過激派学生が日本航空の羽田発福岡行きの定期便「よど号」を航行中の機上でハイジャックし、途中乗客ら103人を釈放したあと、北朝鮮へ亡命するという事件が起きた。

半年にわたる万博が高度成長経済の日照りのなかで幕を下ろしてから3カ月余りを経て、師走の足音が聞こえ始めた11月25日、今度は審美的な作品で知られた作家の三島由紀夫が国粋派の集団である「楯の会」の学生4人とともに東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に乱入、幹部を人質にクーデターを呼び掛けて失敗し、割腹自殺を遂げた。戦後の目覚ましい〈成長〉の渦の中で公害問題などの陰画が広がり、戦後社会の背後に広がる根源的(ラディカル)な問いと懐疑や不信が激しく噴き出した年であった。

大阪万博が開幕した3月14日、幕開けを待ちかねて千里丘陵の会場に押し寄せた人々はまず、メーンゲートにつらなる広大な「お祭り広場」の屋根を貫いて立っている化身のような「太陽の塔」に目を奪われた。丹下健三が設計した「お祭り広場」は、広い空間を被膜の様に重ねた鋼鉄製の屋根が水平に覆っていたが、その屋根を突き破って上空に突き出した「太陽の塔」は、まるで巨大な土偶を思わせる土俗的なシンボルタワーであった。

「お祭り広場」は万博の中心施設で、現代建築の技術の粋を極めた「トラス構造」で組み立てられ、巨大な大屋根が広場全体の上空を水平に覆いつくしていた。剥きだしのスチールの骨組みを内部にめぐらせた天井を六本の柱で支える構造は、それ自体が合理性と機能性を視覚化した、この時代のモダニズム建築の最先端というべき無機的でメカニックな造形であったが、「太陽の塔」はすべてにわたってこれとは異質であった

戦前から国家的なプロジェクトの象徴的な建築物を手がけてきた丹下は万博開催の六年前、1964年の東京オリンピックの代表的な施設として今日知られる代々木オリンピックプールを設計した。東京の都心に忽然として、東大寺を思わせる仏閣の大伽藍に似た巨大な屋根が、伸びやかな曲線を描きながらたちあらわれ、人々の目を惹きつけた。「日本的」と形容していいこのダイナミックな空間の演出は、アジアで初の五輪を東京で開催するプロジェクトの意味とその祝祭性を意識したものとして、それまで丹下が依ってきたモダニズム建築を自ら問い直す意図が込められた作品、と解されたのである。

これに比べれば、「人類の進歩と調和」をキャッチフレーズに掲げた大阪万博の「お祭り広場」の構築は、最先端の工法を通して効率と機能を追求した現代建築のテクストのようでもあり、「お祭り広場」というローカルな香りを漂わせたネーミングとは裏腹に、日本的な風土性や伝統的な文脈からは遠く隔たった構築にうかがえた。

ところが開幕へ向けて建設が進んでいたある日、突然この「お祭り広場」の水平の大天井に大きな穴が開けられ、屋根を突き破って70㍍の高さに及ぶ巨大な人形のような搭が上空を貫いた。白地の壁面には深紅の唐草のような装飾を施されていて、両手を広げた胴体部分の中心に刻まれた顔は古代の土偶を思わせた。塔の尖端部分にも金色の仮面のような顔が施されている。まことに奇怪なこの「太陽の塔」を目の当たりした時の驚きを、丹下研究室の若いスタッフとしてその現場で働いていた建築家の磯崎新はこう振り返る。

〈近代主義的な構造システムを徹底させた大屋根を岡本太郎の「太陽の塔」がブチ抜く。およそ異質なもの同士、近代的なものと反近代的なものが衝突している。私はこの「お祭り広場」の巨大イベントを演出するための諸装置の設計を担当していたし、このような大屋根の提案者の一人でもあったが、巨大な男根のような塔が柔らかい被膜をかぶった屋根を突き抜いたときに、勝負あった、と思ったことを記憶している。〉

若い磯崎は丹下の「お祭り広場」のプロジェクトの一員として働いていたが、役割はもっぱらこの無機的で巨大な大屋根の空間にどんなソフトを組み込んで演出するかということであった。そこでは「お祭り広場」の屋根の下で自動制御の巨大なロボットを動かし、人間と科学技術の進化を問いかける、といったアイデアが具体的に検討されていた。

「人類の進歩と調和」という万博のキャッチフレーズそのままに、科学技術文明と人間の融合によって豊かな未来を構想するテーマを、ロボットなど最先端の技術を駆使して具体化し、この「広場」に展示することがあたえられた仕事である。モダニズムの洗礼を受けてきた磯崎の世代は「進歩」という言葉が示す直線的な文明観に導かれた基本理念をおおむね疑わなかったし、まして、そこに自然との共生や人間の原初的な情念をたたえた、日本の伝統を呼び起す発想や造形が入り込む余地はほとんどなかった。

ところが、途中でテーマ・プロデユーサーとして岡本が加わったことで構想は一変したのである。磯崎は姿を現した「太陽の塔」の衝撃を、さらにこう続ける。

〈伊勢論で丹下健三が「原始の暗さと永遠の光」と表現していた根源的なものが、あまりにあっけらかんなかたちをもって、壮大なキッチュとして出現してしまった。にこやかにほほえむこの塔につけられた仮面は、エイリアンのようにおぞましく感じられたのだが、何よりも拒絶できなかったのは、そこに「日本的なもの」がみえたことだった〉

44年の歳月を経た現在、千里丘陵の万博跡地に丹下の「お祭り広場」の建築はすでになく、その屋根を突き抜いた岡本の「太陽の塔」だけが、あふれる緑に囲まれながら露天に異形をたたえて屹立しているのである。

奇想に富む「太陽の塔」をつくった岡本太郎は、前衛的な美術家で民族学や文化人類学にも造詣が深く、それまで丹下とさまざまな建築や都市計画の現場で摩擦や対立をまじえながらも密接なかかわりを持ってきた、いわばライバルである。

しかし建築家と美術家という基本的な立ち位置の違いに加えて、官学の建築アカデミズムの頭目として正統を歩んだ丹下の秩序感覚と、著名な芸術家の両親の下でフランスへ留学し、西欧モダニズムの解体を目の当たりにしてアヴァンギャルドの道を歩んできた岡本の活動の挑戦的なイメージは、ほとんど対極的であった。丹下が戦前から国家の主だった建築プロジェクトの中心となり、いわば日本の近代の蹉跌と再生、そして成長を視覚化するプロデューサーだったとすれば、岡本はその日本の近代の枠組みを根源に遡ってとらえ直し、文明と民族を相対化して西欧の近代とは異なるエネルギーを探る異端者だった。

それゆえ、大阪万博で会場全体のプロデューサーを務める丹下のもとに、テーマ・プロデューサーとして岡本が加わった時点で「対決」と「衝突」はおのずから予想されたことであり、二人の大阪万博での出会いは高度成長の坂道を歩む戦後日本の頂点を象徴する、クライマックスというべき場面であった。


広島平和記念資料館(1955)

広島平和記念資料館(1955)

東京オリンピック国立屋内総合競技場(1964)

東京オリンピック国立屋内総合競技場(1964)

東京都庁新庁舎(1991)

東京都庁新庁舎(1991)

丹下健三はこの時点ですでに国際的にも高い評価をもつ、日本の建築界の巨匠であり、その作風はモダニズムを貫いた洗練性を特徴とした。しかし戦前からの歩みをたどると、そこには欧米に向き合って同化と反発を重ねてきた近代日本の屈折が投影されている。

1933年に来日したドイツ人建築家のブルーノ・タウトが、出会った桂離宮と伊勢神宮から西洋的なるものに拮抗する「日本的構築」の美学を見出して世界に示して以降、建築家だけではなく日本人のアーティストの多くは西欧モダニズムを超えた「日本的なるもの」の再評価と構築を追求してさまざまな試みを繰り返してきた。やがてそれは、単なる伝統への回帰ではなく、西欧の近代を超えて「大東亜」という新たな秩序の中に日本を置き直し、米英との戦時体制へ向かう体制を支える国粋的な文化表象の潮流につながってゆく。

1942(昭和17)年に雑誌『文學界』が各界の知識人を集めて開いた座談会「近代の超克」は、その最も典型的な事例である。

戦時下に「知的協力者会議」の名のもと、下村寅太郎、小林秀雄、亀井勝一郎、中村光夫、林房雄、諸井三郎といった、哲学、文芸、科学、音楽、美術など幅広い分野の知識人を動員し、膨張する西欧近代の「衰弱」をとらえて日本を中心としたアジアの精神文化を対置しながらその優越性を論じたこの座談会は、日米開戦の翌年の1942年秋、雑誌『文學界』誌上に連載された。日本文化の特質を戦時下というある意味のグローバルな視野に置いて問い直し、合理主義にもとづく世界秩序を主導してきた西欧的知性を超えた「知的戦慄」をそこに探る、きわめてポレミックな試みであった。

これと同じ年に行われた第16回日本建築学会のコンペ「大東亜建設記念営造計画」に、ようやく30歳を迎えたばかりの少壮建築家、丹下健三が応募し、作品の「大東亜建設忠霊神域計画」が1等に選ばれた。戦時下の日本の国家的なアイデンティティーを図像化したものといえる。日本がその後の敗戦から復興、そして高度成長期を経てバブル経済の時代へ至るなかで、その歩みに寄り添って戦後の「国家の造形」を担ってゆく丹下にとって暗示に富んだ作品であり、同時にそれは総力戦体制のもとで高揚する「近代の超克」の時代の空気をそのまま建築と都市計画に体現した作品ということができよう。

「大東亜建設忠霊神域計画」は建造物というより、戦没学徒の慰霊追悼施設を中心にした一種の都市計画であり、富士山麓に設けるこの追悼施設と東京の皇居を高速道路で結ぶという壮大な計画である。現在残されているその図版では壮麗な富士山を仰ぐ裾野に自然に抱かれた慰霊追悼施設が整然と区画されて描かれているが、富士山という国家表象を舞台装置とした国家のモニュメントがここで、アジアの融合を掲げた戦時下の「八紘一宇」の精神へとつながっていることは指摘するまでもない。

タウトが「発見」した桂離宮の数寄屋と寝殿造りを融合させた美学は、戦後の丹下の活動の代表作との一つである「広島平和記念資料館」(1955年)などに引用された。さらに東京五輪という戦後日本の画期をなす国家イベントのシンボルとして「代々木オリンピックプール」では、古刹の大伽藍を想起させる吊屋根の緩やかな曲線が「日本的なるもの」の表象として大きな反響を呼んだ。モダニズム建築の傑作として今日も高い評価を得ているこの作品も、「四角いトーフのような建築よりは屋根の格好であれ、ドームであれ、アーチであれ昔の建築のほうがよほどいいじゃないか」と、西洋建築批判をぶち上げていた丹下の伝統に対する初心を伝えた作品であろう。

〈桂の書院は、寝殿造りから書院造りにいたる上層系譜の伝統、弥生的性格を―静的な平面性、平面的空間性、そのようなエスセティックな形態均衡が支配している―その基本的な性格をもっている。しかし、その形式化を阻止し、そこに躍動する空間性や、自由な諧調を与えているものは、他のものである。私はそれを下層系譜の伝統、縄文的とよんでもよいところの生成的エネルギーであると考えている〉

丹下は1960年に書いた『桂―日本建築における伝統と創造』のなかで、日本の伝統文化に流れる弥生的なものと縄文的なものに触れて、このように記した。

「弥生的な文化形成の伝統と縄文的文化形成のエネルギーが、ここで伝統と破壊者として、デレアクティクに燃焼しあうことによって、この桂の創造はなしとげられたとみてよいだろう」という丹下の日本の伝統的な建築造形に対するまなざしは、モダニズムの巨匠としての戦後の歩みのなかでも持続し、こうした戦後の代表的な国家プロジェクトのなかにいわばアクセントのようなかたちで組み込まれてきた、というべきかも知れない。

ところが「代々木オリンピックプール」から6年後の大阪万博で丹下が取り組んだ「お祭り広場」の造形に、このような日本の伝統の気配は当初から全く影をひそめていた。

〈このとき日本という国家はみずからを表象する主題を失いはじめた。経済的な復興が成功した。技術大国と呼ばれはじめた。日本という明治がつくりあげた民族国家が、伝統的な文化ではなく、経済や技術で表象されるようになる。EXPO’70は主題の変換、つまり「日本的なもの」という問題構制が変質してゆくその転換点だったとみていいだろう〉

戦後日本の祝祭空間を次々と手がけてきた師の丹下の下で、大阪万博の「お祭り広場」の構築の現場にいた建築家の磯崎新は、丹下の変化の背景をこう振り返っている。

たしかに、それ以降の日本は経済大国として成長の坂道を上り詰めるなかで、五輪や万博のような国家的な祝祭空間は国民のまなざしを集める舞台装置としての役割を失った。これに伴い丹下も「日本」を意匠のなかに意識した造形から離れてゆき、バブル経済のさなかの1992年に完成した新・東京都庁舎などを例外として、主要な活動の軸足を中東やアジア、アフリカなど新興国の都市計画や都市施設の設計に移していくのである。

国家的な建築や祝祭空間が熱い国民的なまなざしのもとでつくられて時代の表象として後世へ伝えられる時代から、グローバリゼーションの下でそうした風景が拡散して失われてゆく時代への転換点が、大阪万博だった。「お祭り広場」というその現場で、稀代の国家プロジェクトのデザイナーとしての丹下のもとに岡本太郎という異端者が突然のように〈乱入〉し、モダニズムを極めた鋼鉄の巨大な屋根を突き破る不気味な土偶に似た「太陽の塔」によって当初の会場の風景を全く変えてしまった。

千里丘陵の万博会場は全体で380㌶という広大な敷地を切り開いて中央の約1㌔にわたってシンボルゾーンが設けられ、「お祭り広場」と「太陽の塔」に各テーマ館、エキスポタワーなどが配置された。ここから四方に「動く歩道」がつながり、入場者は全体で116にのぼるパビリオン群を巡り歩く。巨大なマルチスクリーンの映像や音声認識のロボット、自動制御で衝突を回避する自動車やのちの携帯電話につながる移動体通信など、各企業館の展示には今日の最先端技術に重なる画期的な試みが組み込まれていた。

海外からは76カ国の政府、4つの国際機関などが参加したが、アポロ11号が人類初の月面着陸を果たして持ち帰った「月の石」を展示するアメリカ館には連日長蛇の列ができた。科学技術と文明の未来に対する人々の迷いのない期待が、そこにはあった。

経済成長と科学技術の進歩が人類の豊かな未来を切り拓くというこの博覧会に漲る楽天的な確信は、会場のシンボルとなる「太陽の塔」の設計者となる岡本太郎の思想とはもちろん相容れない。岡本はそうした直線的な文明観を根底から疑い、「進歩と調和」を批判するところからこの奇矯な意匠の塔をデザインしたというべきであろう。

〈私の担当するテーマ館には、何か見る人の心の奥底にグンとこたえてくる根源の重みをうちすえたい。作りもの、見せものの強烈な色・光・音に、耳目がさらわれて、存在としての人間が空しくなってしまっては意味がない。未来への夢に浮き上がってゆく近代主義に対決して、ここだけはわれわれの底にひそむ無言で絶対的な充実感をつきつけるべきだ〉(1970年5月)

「お祭り広場」の天井を打ち抜いた「太陽の塔」は、ライバルの丹下から呼ばれてテーマ館のプロデューサーに就く岡本が仕組んだ、ほとんど確信犯的な万博の主題への反逆であった。大阪万博は事務局の代表を財界の石坂泰三が務め、通産省(現経産省)が中心となって官民から集まったスタッフが実際の企画や運営を担った。丹下のもとではメタボリズム(新陳代謝)という設計思想を掲げた黒川紀章や菊竹清訓らの若い建築家が新しい技術を駆使した材質と機能、デザインを競い、斬新で奇抜なパビリオンや会場設備が並んだ。モダニズムと合理主義のもとでそれをのりこえるべく企画された、挑戦的ではあっても計画的な会場施設の設計思想を根本から覆すように、岡本はそこに挑戦的であやしい原始的エネルギーが迸る「太陽の塔」を構築するのである。

テーマ館からお祭り広場の上空に丹下が設計した大屋根は幅100㍍、高さ30㍍、長さ292㍍という広がりを持った。それを突き破って高さ70㍍、直径20㍍の「太陽の塔」が上空へ伸びている。それは大阪万博という、歴史的な国家イベントの中心理念とその会場や展示が伝える技術文明のありかたを批判した、まことに対決的な構築であった。

「太陽の塔」は、頂点に置かれた黄金の顔と、両手を広げた土偶のような胴部の中央に刻まれた巨大なもう一つの顔によって強いインパクトを人々に与えた。未開社会のトーテムを思わせる奇抜でエネルギッシュな造形は、岡本が一貫して追求してきた人間の根源的な生命力の表象であり、「近代」という秩序に対する正面からの批判の表現であった。上空を蔽う大屋根の広大な平面を突き抜けた塔の、安定から逸脱して周囲の風景と折り合わないアンバランスな突出は、岡本が意図した祭典の異化効果を否応なく高めた。

〈いたるところに近代主義的な機械でつくったようなものばかりならべて、得意になって“進歩と調和”とかいっていた。ぼくはテーマ・プロデューサーでありながら、テーマと反対をやっていたわけだ。人間は進歩していない。逆に破滅に向かっているとおもう。調和といってごまかすよりも、むしろ純粋に闘いあわなきゃならないというのがぼくの主義で、モダンなものに対して反対なものをつきだした。丹下健三の建てた大屋根はメカニックなものだけれども、それにたいして屋根をぶち抜いて、まったく根源的な感じのものを。けんかじゃない、うれしい闘いをやったわけ。アンチ・ハーモニーこそ本当の調和ですよ〉(梅棹忠夫編『民博誕生』)

「太陽の塔」はその内部の仕掛けも、岡本の強い文明批判を仕組んで設計された。人類の過去を生命の根源をなすたんぱく質やDNAの模型で展示する地下の「いのち」から、世界の民族の仮面や偶像の陳列で紹介する「いのり」、そして人類の誕生に至る進化の過程をアメーバや魚類、爬虫類などの生物模型でたどる「生命の樹」へと、観客は歩み上ってゆく。人々はここで人類の進歩の歩みというよりも、生物的で土俗的な人類の生命の源への遡行を経験するのである。

もっとも20世紀の科学技術の進展と経済成長によって豊かな消費社会を謳歌する大阪万博の基調への懐疑は、そのころ広がる政治的な抗争や社会的な翳りとなって浮き彫りにされつつあった。赤軍派学生による日航機ハイジャックと三島由紀夫の割腹自殺という左右両翼の過激な事件に加えて、日米安全保障条約の自動延長を巡って新左翼系の学生や野党勢力の反対運動が高揚して列島は騒然とした空気に包まれていた。経済成長は全国各地で公害問題を深刻化させ、この年だけでも東京の光化学スモッグ、静岡県田子の浦のヘドロ公害、整腸剤キノホルムによるスモン病事件などが相次いで国民への被害を広げた。

左右のイデオロギーの対立はまだ熱を持ち、大阪万博に対しても「反博」をスローガンに開催に反対する動きがあった。パビリオンの展示にかかわる芸術家も多様な主張と表現を持ち込んで、科学技術の発展による「バラ色の未来」の演出に異を唱える声もあった。

岡本の「太陽の塔」はそうした背景を映した作品でもあった。

それにしても無機的な鋼鉄の支柱を巡らせた巨匠の丹下の「お祭り広場」の天井を、岡本太郎がおどろおどろしい人間の原始的なエネルギーを漂わせる「太陽の塔」でぶち抜いて見せたのは、あからさまな「挑発」と呼ぶべきできごとではなかったか。

人気漫画家の岡本一平と流行作家の岡本かの子という芸術家を両親に生まれ、個性的な教育環境の下で若くしてフランスに渡って美術を学んだ太郎は、ピカソやマックス・エルンストらシュルレアリストの美術家、ジョルジュ・バタイユらの思想家と親交を結びながら、パリ大学ではマルセル・モースから民族学や人類学の手ほどきを受けた。

のちに「対極主義」を掲げて時代の支配的な潮流を否定したうえで、「痛ましき腕」などの作品にみる新しく大胆な表現を次々と繰り広げて、いわゆるアヴァンギャルド芸術を主導してゆく背景には、こうしたコスモポリタンとしての遍歴が大きく影を落としている。同時に美術の領域にとどまらない文明を掘り下げた幅広い知見と中国大陸への従軍などの戦争体験は、この芸術家に「日本」という母国への独特の重層的な視点と同時代への強かな批判精神を育てた。

岡本太郎はそもそも丹下とどこで出会ったのか。

戦後の1954(昭和29)年、岡本は東京・青山に建てた板倉準三設計の住居兼アトリエを新しい芸術運動の拠点とし、亀倉雄策、剣持勇、芥川也寸志、花田清輝といった分野を超える芸術家が名を連ねて新しい芸術運動を立ち上げた。20世紀前半にグロピウスらがドイツで展開した建築運動、バウハウスの日本版を目指したというこの「現代芸術研究所」で、その筆頭メンバーに迎えられたのが丹下健三であった。

バウハウスが目指した建築と美術の融合という二人の理想への試みはその後、いくつかの建築物やプロジェクトを通して形になった。例えば丹下が設計した東京・有楽町の旧東京都庁庁舎(1957年)である。シャープな鋼鉄製のグリッドで構成されたモダンで開放的な庁舎の正面ホールを飾ったのが、岡本に手になる激しい原色の幾何学模様をデザインした巨大な壁画で、その対比は大阪万博の「お祭り広場」と「太陽の塔」の関係を彷彿とさせるが、ここでは二人はまだ異質でありながら調和する関係にあった。丹下がつくった1964年の「代々木オリンピックプール」で「吊り構造」と呼ばれる技術を通して造形した曲線が渦巻く日本的な意匠の屋根の下でも、岡本は自分の意匠を細部に提供している。

それが1970年の大阪万博で二人を「対決」に向かわせたのは、つまるところ両者の表現と造形のなかの「日本」という表象を巡る乖離が決定的になったということであろう。

東京五輪が開かれた1964年の春、「万国博を考える会」が大阪に発足し、民族学の梅棹忠夫や社会学の加藤秀俊、SF作家の小松左京らがメンバーとなって、博覧会の基本理念やテーマの設定などの検討が行われた。その過程でテーマ館のプロデューサーとして小松が強く推したのが岡本太郎であった。6年後に実現した「太陽の塔」を目の当たりにした時の印象を、小松は次のように振り返っている。

〈その相貌は、ある人はアジア的といい、ある人はアフリカ的といった。だが、私はそんな地域とは関係なく、19世紀から20世紀へかけて、人類世界を席巻したように見えた西欧近代文明に対し、20世紀後半になって、再び私たちの「世界」によみがえり、未来にむかって参加しはじめた、「近代以前」の全ての世界の「顔」を象徴しているように思えた〉(『太陽の塔、そして』)

岡本がフィールドワークで深めた日本の文化への視点は、縄文文化や沖縄など辺境から原始的な生命の力を掘り起こす方向に向かわせた。「もののあはれ」や様式の美学とは対極的な、日本列島の民族の「原郷」を探し求めて、もう一つの伝統へ向かうのである。「太陽の塔」の古代人のような顔と逞しい胴体の巨大なオブジェは、まさに岡本が幻視するような、生命と力が漲る古来の日本のもうひとつの〈伝統〉を造形したものであった。

平安朝の繊細優雅も、近世から近代へ向けた侘びさびの美学も、表層の日本文化はおしなべて大陸から輸入された文化の枝葉の広がりであり、「大地に根を張った生命力と生活的な厚みを感じさせない」と岡本は指摘している。そこには「伝統」を洗練という名の衰弱ではなくて、生命の豊饒と盛衰、代謝と再生に求める、強靭な美への眼差しがある。

〈人間文化のすばらしさは、それが人間のいのちとともにひらき、そして消滅してゆく、重み、深さにある。/たまたま奈良・京都などを訪れて私が感嘆するのは、宏壮な東大寺をふり仰いだり、平安神宮の境内に立つときではない。小高い丘から奈良盆地を眺める茫漠としたひろがり。今こそなんの面影もとどめていない、がかつて、われわれの祖先が激しくおこり、からみあい、滅亡した、その無の空間にかえって無限の彩りを感銘する。(略)私は昔の文化を讃える。それは滅亡した、しているからである〉(『日本発見』)

科学技術と合理主義の優位に正面から異を唱え、現状との対決を際立たせる岡本のこうした過激な文明観を後押しして万博という国家的なイベントの空間に組み込んでいったのが「万国博を考える会」の人類学者、梅棹忠夫やSF作家の小松左京であった。

梅棹は『文明の生態史観』で地球を自然と生態系で捉えることにより、人間の文明がそれぞれの条件の下で自生的に分布してきたという歴史観を示して衝撃をもたらした。

西欧の近代というモデルへの追随が一種の強迫観念となり、そのパラダイムに支配されてきた日本人にとって、それは目から鱗のような歴史観の視点の転換であり、同時に日本の文化や伝統の独創性に対する国民の自負をいかばかりか回復させた。

メキシコの美術と造形の持つ強い生命力と、その背後にある生々しい死生観に深い関心を持ち続けてきた岡本は、「太陽の塔」を手がけるのと前後してメキシコを訪れて壁画に取り組んだ。それが近年発掘されて東京・渋谷駅の通路の壁面を飾っている『明日の神話』である。この壁画の主題は原爆によって生命を奪われる人々の姿である。1954年に南太平洋のビキニ環礁で行われた米国の水爆実験で被爆した第五福竜丸事件を題材した『燃える人』や『瞬間』と題した原爆の炸裂を描いた作品もあるように、岡本の主題には戦争や人間の死という文明の陰画が重く横たわっている。

〈原爆は今日の生活の最も大きな問題である。広島の最初の投下に遭遇したもの、また幾つかの実験に立ち会ったもの以外、ほとんどの人間がその実態を見てはいない。しかしその、見たことのない原爆は、人間の生活全体をゆさぶり、戦争の不安、死の灰、放射能雨、はては人類の破滅、地球の終末というように、われわれをおびやかしている〉

核の脅威の告発は20世紀の〈文明〉の先行きへ向けた岡本の避けがたい主題であった。長引くベトナム戦争で米軍の北ベトナムへの侵攻は、最新兵器による空爆によって夥しい死者と国土の破壊を繰り返していた。大阪万博が開かれたのはそのさなかであった。

1967年4月3日付の『ワシントンポスト』紙上に〈殺すな〉という日本語のメッセージを岡本が図案化して掲載した反戦意見広告は、〈文明〉という大義の下で行われる現代の戦争の悲惨と反人道性を告発している。万博から2年後の1972年にローマクラブが人口爆発や環境問題、資源の枯渇の深刻化など地球環境の危機を指摘して「成長の限界」の警鐘を鳴らした。岡本太郎が『太陽の塔』で提起した文明への問いは、次第に現実味を帯びて顕在化してくるのである。

テーマ・プロデューサーに岡本太郎を推薦した小松左京は万博の終了後、『日本沈没』という近未来小説を書いてベストセラーになった。日本が人口減に転じた近未来のある時点で、日本海溝に亀裂が走りだし、地殻変動による乱泥流に巨大地震が重なって日本列島が水没するという衝撃的な物語である。国民は次々脱出して国外に移住し、流浪の民となる。30年の歳月を経て東日本大震災を経験した現在から改めて読めば、その筋書きはあながち荒唐無稽とばかりはいえない。

丹下健三

丹下健三

岡本太郎

岡本太郎

岡本太郎は万博を終えたのち、成熟する消費社会のトリックスターの役割を引き受けてテレビCMなどメディアで活躍した。ウィスキーのCMで「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と自らデザインしたグラスに語りかけ、「芸術は爆発だ」と叫ぶ姿は岡本の生涯を最も簡潔に表現したものかもしれない。一方、丹下健三は1970年の岡本太郎との「対決」のあと、次第に活動の軸足を中東やアフリカ、東南アジアなどの新興国の都市計画に移し、日本の国家的なプロジェクトからは遠ざかった。バブル時代に手がけた新東京都庁舎はパリのノートルダム大聖堂を参照した「壮麗にして空虚」な構築とも評されたが、それが晩年の最後の仕事とみなされる。

かつてブルーノ・タウトによって見出された桂離宮は、丹下にとって建築における「日本」を考える上で生涯にわたる大きな主題であり続けた。それは1953年に東京・成城に建築した高床式の自邸に結晶しており、桂の開放的で審美的な内部の構成と畳やふすま、障子などのモジュールで特徴づけられる機能性は「何か緊張した空間と、比例が、何か生きもののように尚また生きているのを感じる」とも述べている。しかし、その主題はグローバル化とポストモダンの時代の波のなかへ埋没していった。

経済成長と技術文明の先行きへの信頼のもとで洗練された弥生的な日本美をモダニズムの拠りどころに求め続けた丹下に対し、岡本は縄文的なエネルギーと原初の人間の生命を日本の美の源泉ととらえて、その発掘を創造活動の中心に据えた。ライバルであり、同時代の同伴者でもあった二人が大阪万博における「対決」を契機に道を別かち、それぞれが新たな舞台に足場を移していったのは、グローバリゼーションの中で「日本」という国の姿が曖昧になり、やがてバブル経済の中で融解していったことと無関係ではない。

1970年の二人の〈対決〉に現場で立ち会った磯崎新によると、日本の近代建築史において「日本的なるもの」を巡る論争は30年周期で繰り返されてきた。

〈それを国内での論争とみると「我国将来の建築様式は如何にすべきや」(1910頃)、「帝冠様式論争」(1930頃)、「伝統論/民衆論」(1960頃)とほぼ30年サイクルであった。これを延長すると1990年頃となるが、その頃は二項対立した冷戦構造およびバブル経済の崩壊、そしてグローバリゼーションの進展という激変に逢遇して、論争の基盤までが崩れたために、目立った論争はない。その替わりに疑似日本風のデザインが大量に出まわり始める。日本へ回帰することへの自己規制が消えていた。論争が不能になったことは、「日本的なるもの」をイデオロギーとしてとりだすことが無意味になったのと同じことで、「日本」は単純にサンプリングの対象となるだけだった〉

1970年の大阪万博における丹下健三と岡本太郎の〈対決〉は、日本の〈成長〉の先行きを巡って二人の芸術家が国家プロジェクトを舞台に繰り広げた戦いであった。

千里丘陵にいま残された岡本太郎の「太陽の塔」は、その戦いを通して20世紀とその先の日本のゆくえを問いかけた黙示録である。

=連載「ジャパネスク」了

連載 ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 11  柴崎信三

  • 2014年5月29日 15:25

 

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

11 〈時代〉について

     「東京駅」と「日本橋」の光と影

 

 

復元された東京駅丸の内駅舎(辰野金吾設計9

復元された東京駅丸の内駅舎(辰野金吾設計9

復元された東京駅丸の内駅舎(辰野金吾設計)                                                                      

               

蘇ったこの重厚でクラシックな駅舎を「明治」というひとつの時代の終わりを告げる挽歌とみるべきか、それともその後の「帝国」の熱を帯びた興亡の象徴とみるべきなのか。

大戦の空襲で焼失した塔屋部分を建設時のままに復元して、ヴィクトリアン・ゴシック様式と呼ばれる赤レンガの姿を一新した東京駅の丸の内駅舎は、大都市東京の歴史を刻む記念碑であり、その意志的な景観はこの国の「近代」の記憶を冴え冴えと呼び起す。

列車が発着するプラットホームに沿って衝立の様に南北へ伸びる、赤レンガで壁面を彩った三階建ての駅舎は、丸ビルや皇居のお濠端に建ち並ぶ高層ビルに囲まれながらも威風堂々たる佇まいを失わない。頭部を飾る二つのビザンチン風の丸屋根は、「西洋」と向き合いながら、それを乗り越えようとしてきたこの国の百年の時間を見守るかのようだ。

一九一四(大正三)年十二月十八日。六十歳の辰野金吾は六年半を費やしてようやく竣工にこぎつけた東京駅舎の開業式典にのぞんでいた。

  

東京駅丸の内駅舎のドーム天井とレリーフ

東京駅丸の内駅舎のドーム天井とレリーフ

 

 竣工したとはいっても、まだ南側部分のステーションホテルは形をなしていない。それでも駅の天井にめぐらされた万国旗やホームの鉄柱に巻きつけられた赤と青の飾りのモールが、華やかな祝祭気分を盛り上げる。駅前の広場は「三菱が原」と呼ばれる茫漠とした荒れ地に過ぎなかった。そこに皇居に向けた約七〇㍍幅の道路が駅前から造成され、行事などで地方へ向かう天皇や皇族がここから鉄道を利用することから「御幸通り」と名付けられた。

 この通りを迎える駅前広場には巨大な凱旋門がつくられ、万国旗で結ばれた両側の塔にはイルミネーションが輝いている。というのも、この開業式典は一か月前の天長節、すなわち十月三十一日にドイツ軍が占領する中国の青島を日本軍が攻撃して陥落させたことから、立役者の神尾光臣中将らが新装なったこの中央駅に凱旋するという行事にあわせた祝典として計画されたからである。

 早朝から花火が上がり、軍楽隊の演奏が響き渡る中を招待客や一般の見物人が続々と祝典会場とその周辺に集まっている。午前九時からの開業式典は鉄道院の工事報告のあと、来賓の首相、大隈重信が祝辞を述べた。

 

〈凡そ物には中心を欠くべからず、猶ほ恰も太陽が中心にして光線を八方に放つが如し、鉄道もまた光線の如く四通八達せざるべからず、而して我国鉄道の中心は即ち本日開業する此の停車場に外ならず、唯それ東面には未だ延長せざるも此は即ち将来の事業なりとす、それ交通の力は偉大なり〉

 

一時間ほどで式典が終わると、招待客らはそのままプラットホームへ移動した。横浜の高島町から特別に運行された列車で神尾中将ら青島封鎖の作戦にかかわった幕僚たちが到着するのである。万歳、万歳の声がホームにこだまする。広場の軍楽の響きがひときわ高まった。軍装に威儀を正した軍人たちは馬車に迎えられ、集まった群衆の日の丸の小旗に見送られてそこから「御幸通り」を皇居へ向かった。

広場には舞台が設えられ、太神楽、俄狂言、素人相撲などの余興が始まる。やがて招待客らは立食の宴席で杯をあげた。鉄道院がこの日の祝典へ向けて招待状を送った各界の賓客は二千三百人を超えた。

 

「建築家として生まれたからには東京に三つの公共建築を残したい」

 

これが当時の建築界で「法王」と呼ばれる辰野が胸に秘めてきた野望であった。三つとは一に国会議事堂、二に日本銀行、そして三に中央停車場、つまり東京駅にほかならない。このうち国会議事堂は財政難などから実現に至らなかったものの、日銀本店と東京駅丸の内駅舎の二つを辰野が自らの手で設計し、そのいずれもが二十一世紀の今日まで健在で首都の都心を代表する景観を形作っているのは、歴史が仕組んだ演出であろうか。

明治維新のあとの一八七二(明治五)年に横浜と新橋の間に初めて鉄道が敷設されて以降、全国的な鉄道網の整備がすすむなかで、一八八九(明治二二)年に東海道線が全面開通した時も始発駅は新橋であった。皇居を控えた丸の内地区は首都の中枢機能を集中して整備する「市区改正計画」が進められていた。山手線や東北、常磐線などの起点である上野との間の鉄道は空白のままであったことから、「三菱が原」と呼ばれていた大名屋敷跡のこの地区の中心に「中央停車場」を設置して鉄道網をつなぐ構想がにわかに具体化していった。それは国会議事堂建設と並んで首都の「顔」を描き上げる国家的な事業である。

東京駅の駅舎を最初に図面を描いたのはドイツ人技師のフランツ・バルツァーである。鉄道延伸を委嘱されたヘルマン・ルムシュッテルの後を継いで来日した土木技師であったが、日清戦争で計画が中断したバルツァー案は辰野が手がけた現在の東京駅によく似た設計であった。南北に三百㍍にわたって伸びた長い低層の構造、乗車口を南側、降車口を北側に設けてその中央に帝室用の乗降口を置く、三つの建築物を列車のように連ねた造りはほとんどそのまま辰野が設計した現在の東京駅に踏襲されているようにもみえる。

問題は立面図、つまり建物の顔ともいうべき外観であった。

バルツァーの描いた立面図はいわば、奇妙な和洋折衷様式で、辰野を困惑させた。西洋建築そのままの赤煉瓦の壁面の上にかぶさっているのは、日本の神社や仏閣にあるような曲線が波打つ破風である。乗車口には一、二階にそり曲がった唐破風殻が積み重ねられ、さらに三階部分に三角形の千鳥破風が覆っている。日本人が見ればおそらく、洋装の西洋婦人が丸髷を結って簪を挿したような、日本文化に対する西洋人の誤解と無知を見せつけられて不快感さえかきたてられるような意匠にほかならない。

 

〈あれはいまにして思えばあの男が唱えた「和三洋七の奇図」ではなかったか〉

 

目の前に建つ自ら手がけたヴィクトリアン・ゴシック様式の赤煉瓦の駅舎を振り返りながら、喧騒が広がる開業式典の会場で辰野が思い起していたのは、終生のライバルとしてさまざまな場面で暗闘を繰り広げてきた建築家、妻木頼黄のことである。

和三洋七、つまり和風が三分を占め洋風が七分を占めるという建築様式が日本の建築界で論議の的になったのは、おそらく官庁集中計画が起案されて国会議事堂の建設計画が具体化した折、政府の臨時建築局が委嘱したドイツ人建築家、ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが提出した「第二次国会議事堂案」の意匠にはじまる。

当初、〈エンデ・ベックマン〉が提示した国会議事堂の構想は百八十㍍の間口に七十㍍の奥行きを持ち、中央にドームと左右両翼にパビリオンが張りだす、西洋のバロック様式をそのままに再現したものであった。欧州視察のなかで辰野がアムステルダム中央駅の構築から想を得たともいわれる東京駅の設計と同じように、それは近代日本の国政の中枢を体現する議事堂に西欧の都市建築の理想を再現する、明確な意思が反映されていた。

この議事堂案は、その後一転する。のちに「和三洋七」と揶揄される、和風の伝統意匠を組み込んだ「第二次国会議事堂案」を〈エンデ・ベックマン〉が提出するのである。この背景には、来日した西洋人の建築家の間でその国の歴史や風土に見合った「国民的様式」を取り込もうという機運が広がっていたこともあろう。

辰野は〈エンデ・ベックマン〉による「第二次国会議事堂案」を目にした時の大きな衝撃を思い起こす。それはあの堅牢なバロック様式を解体しかねない、奇怪な眺めというほかはなかった。両翼に位置する貴族院と衆議院の正面には入母屋風の大屋根が取り付けられ、その屋根は瓦葺きである。中央の玄関に唐破風、そして塔屋に千鳥破風がある。

西洋の建築様式の堅牢で審美的な構築の壁面を日本の祭りの山車のような、曲線に揺らいだ装飾が彩る眺めから伝わるのは、和洋折衷の粋というより、異質の文化を無理やり継ぎはぎした違和感の方が先立つのである。バルツァーが残した東京駅の立面図はまさにこれと同じような、「和三洋七の奇図」というべきものであった。

「国粋」と「国辱」の境界は見定めにくい。欧化主義のもとで近代化の坂道を駆けのぼるこの時代にあって、日本の「伝統」をそこに見出そうという創造者の意図がこのような折衷主義の迷路に陥るのは、或る意味で必然的な帰結であったのかもしれない。そして辰野はこの「和三洋七」の〈エンデ・ベックマン〉による「第二次国会議事堂案」の背後に、ドイツに留学中で臨時建築局の建築官僚としてこの国の公共建築を差配しつつあったライバル、妻木頼黄の影を思い描いたのである。

 

近代日本をつくる建築の指導者として、明治政府が招請した英国の少壮建築家、ジョサイア・コンドルの後を継いで工科大学の中枢に就いた辰野が、日本の建築家の草分けとして国家の枢要な事業にかかわるなかで、激しくその覇を競ったのが妻木頼黄であった。

 

〈私は幼にして孤独の身と爲り、種々辛苦の末、工部省に於て送電術を学んだが、ドウも面白く無い故、寧ろ洋行して勉学せんものと決心し、明治九年の春、単身渡米の途に就いた〉

 

自らの歩みをこのように振り返る妻木は一八五九(安政六)年、禄高千石の旗本の息子として江戸赤坂に生まれている。旧幕府で勝海舟に私淑していた父親の源三郎は息子が三歳の時に亡くなり、旗本の誇りを教えた母も御一新のあとに世を去る。残された家督を継いだものの天涯孤独の身となった頼黄は、労苦を重ねながら建築を学ぶために米国への留学の道を選び、コーネル大学の建築学科に進んだ。

心機一転して建築を学んだ米国から帰国すると、妻木は維新のあとの激動に身をまかせながら内閣臨時建築局など新政府の建築官僚として「官庁集中計画」などに采配を振るうのである。東京府庁舎や東京商業会議所など、その作品の多くは失われていま見ることはできないが、その後学んだドイツの建築から多くの影響を受けた横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館)など、いくつかの印象深い建築が現存している。

「和三洋七」と評された〈エンデ・ベックマン〉の「第二次国会議事堂案」に妻木が少なからぬ影響を与えていると辰野が睨んだのには、理由がある。

総裁の井上馨の下、官僚として臨時建築局で「官庁集中計画」に携わり、国会議事堂の設計もドイツから招いたベックマンに委ねていたということに加えて、妻木自身も一八八六(明治一九)年秋、交換留学のような格好で二十人ほどの日本人の職人たちを引き連れてドイツに派遣され、ベルリンの「エンデ・ベックマン事務所」に学んでいるからである。「和三洋七」の「第二次国会議事堂案」は、こうしたドイツ人建築家が抱いた異文化への憧れと妻木ら日本人が暖める「伝統」への自覚という、「日本」へ寄せる二つの異なったまなざしのベクトルが結びあって、おのずから形になっていったのであろう。

幕藩体制のもとで育んだ旧幕臣の誇りと江戸文化の残照のなかを生きた妻木は、終生日本の伝統建築と近世の文化への強い愛着を見失うことがなかった。留学したコーネル大学の卒業論文が「日本建築の成立」と題して、日本の伝統的な様式を論じているのも、旧幕臣という身分が育んだ江戸と伝統文化への郷愁と無縁ではなかったことの証である。

そうした妻木の思想を反映した、特異なデザインの建築作品が現存している。辰野金吾がベルギー国立銀行をモデルにして代表作の日銀本店を完成させてから三年後の一八九九(明治三二)年、妻木が東京・内幸町に建てた日本勧業銀行本店である。

  

旧日本勧業銀行本店(現千葉トヨペット本社)

旧日本勧業銀行本店(現千葉トヨペット本社)

 

 赤煉瓦の壁面に列柱を重ねた、堅牢な西洋建築の様式で辰野が完成させた日銀本店に対抗するかのように、妻木がこの建築で実現したのは銀行の本店という合理的な機能に一見似つかわしくない、閑雅な寺院を思わせる和風の二階建て木造建築なのである。

 

〈これが西洋とは違う日本なのだ〉

〈威風堂々とはこの建築ではないか〉

 

 この建物が二〇世紀を目の前にした帝

都の中心に現れた時の人々の驚きと慄きを想像すると、不思議な感慨に導かれる。それは若い国家の希望と憧れが交錯する西欧建築に対して、その欧化主義に抗するかような人々の伝統への自覚と郷愁を映した風景として、立ち現れたからである。

 この建物はのちに京成電鉄に売却されたあと、習志野市の谷津遊園に移築されて俳優の板東妻三郎の事務所と撮影所として使われた。戦中から戦後にかけては千葉市に移されて千葉市役所の庁舎として使われた。そして一九六五(昭和四〇)年からは再度移築されて千葉・美浜区で民間自動車販売会社の本社にあてがわれ、現役のオフィスビルとしていまも活用されている。鉄筋コンクリートに改築されているが、歌舞伎座などを彷彿とさせる唐破風の正面玄関と三角の入り母屋造りの屋根、漆喰仕上げの壁など、ほとんどは当初の純和風の意匠がそのまま保たれている。

こうした伝統美を随所に取り入れながら、官僚組織の中の周到な政治力と幅広い人脈を駆使して官庁系の建築を次々に手がけていった妻木が、工部大学校というアカデミズムを足場にして日銀本店などの正統的な西洋建築を通して「法王」とまで呼ばれるようになる同時代の建築界の第一人者、辰野との間に確執を広げ、現場での対立や衝突が起こるのは十分予想される事態であった。

妻木がこの日本勧業銀行本店を完成させた一八九九(明治三二)年、最終的には実現に至らなかった国会議事堂の建設計画をめぐって政府が「議院建築計画調査会」を発足させて、辰野は妻木とともにそのメンバーに名を連ねた。

旧幕臣出身で新政府の官僚に転じた妻木は、旧幕府作事方につながる政府の建築官僚のネットワークと幕臣出身の有力者を後ろ盾に官庁営繕と呼ばれる政府系の建築に強い政治力を発揮して次々と主要な建築物を手がけてきたが、辰野が活躍してきたアカデミズムを足場とする建築界では傍流に甘んじた。一方の辰野は日銀本店を完成させたものの、建築家として手がけたい三つの国家的な建築物の一つ、国会議事堂に関しては妻木というライバルが官僚的才覚でこれを着々と自分の手中に収めようとしていることを知っていた。妻木は日清戦争のさなかに広島に計画された仮設議事堂をわずか二週間で完成させ、国会議事堂の本建築計画でも政府部内で最も有力な建築家と目されていたからである。

日露戦争を挟んで議事堂建設計画は膠着状態に陥るが、引き継がれた大蔵省の議院建築準備委員会を足場にして一九〇七(明治四〇)年暮れ、政府が三年後を目途に議事堂着工の方針を固めると、辰野金吾は伊東忠太、塚本靖という三人の建築家の連名で「議院建築の方法に就いて」と題した声明を発表した。

 

〈聞く所に拠れば大蔵省は、事務官と技術官を欧米に派遣して彼地に於ける議院建築を調査せしむるべしと云う。内閣に在って専心調査すべき事項甚だ多し、而して今此の実際問題を捨て、倉皇として出て海外に遊ばんとする果たして何の心ぞや。/惟うに議事堂の如き国家至大の建築計画を挙げて一家の私見に委任するが如き時代は既に経過し了りたり、今日の政治は宰相一人の専断を許さずして博く国民をして之に参与せしむるに非ずや。其国政を議する所の議事堂亦豈一家の考案に委するを許すべけんや、我が済々たる建築家は均しくこの名誉ある工事に対して、其考察を提供すべき権利と義務を併有せり、当局者若し此の権利と義務とを蹂躙するが如き事あらば、これ実に昭代の不祥なり。/懸賞図案募集の方法に関しては吾人素より成算のあるあり、他日此の問題の進行するに従て之を陳述せん事を期す、慈に議院建築設計の宜しく一個人に委任すべからざる所以を明にし、懸賞募集の最適切なることを述べて江湖諸君の賛成を乞はんと欲す〉(『建築雑誌』明治四一年三月号)

 

いささか長い引用となったが、要は国会議事堂の建設と云う国家事業の設計は官僚機構のなかで裁量的な人選によって行われるべきではなく、広く民間に呼びかけてコンペティション、つまり公開選考によるべし、という主張である。正論であることは言うまでもないが、それが政官界を後ろ盾にして当然視されている妻木への流れへの激しい異議申し立てであることは、改めて指摘するまでもない。

コンペへ持ち込むことで「国会議事堂」建設の主導権を大蔵省とその下の妻木から奪おうという辰野の目論見は、一九一〇(明治四三)年十月に首相官邸で開かれた議院建築準備委員会の第五回会合で、委員の伊東忠太と大蔵次官の若槻礼次郎との激しい議論の応酬となって評決へもつれ込んだが、最終的には大差で否決された。官庁営繕という官僚機構にまつわる利権と人事を巧妙に抑えた妻木の政治力が、在野の建築界を背景にした辰野の正論を相手にしなかったのである。

 

〈夫は官界に扶植した勢力で、彼自らも官僚式を発揮して居た。性格は巧言令色、名利を重んじ、社交につとめて居た〉

 

コンペティション提案の否決の経緯を振り返って、伊東忠太は手記にこう記している。

このあからさまな妻木への反感は、公の場で「官僚建築家」の妻木に挑んで敗れた辰野の地団駄を踏むような気持ちを代弁したものであったろう。

宿敵の辰野金吾を「国会議事堂建設」という舞台の入り口で打ち破った妻木は、この日本という国家の象徴とも言うべき議会建築計画をほぼ手におさめたかにみえた。

しかし議事堂建設計画はその後、またもや膠着して先へ進むことが困難な状況に陥る。もっとも大きな要因は一九一〇(明治四四)年一月、大逆事件の被告、幸徳秋水らに対する死刑の執行をめぐって議会が紛糾し、それをきっかけに後ろ盾となった宰相、桂太郎が退陣して、代わりに首相の座に就いた西園寺公望が日本の朝鮮併合など植民地経営で膨張する軍事費の見返りに緊縮財政を打ち出したことである。当然に当時二千五百万円と見込まれた議事堂建設予算は縮小する。明治政府の開闢以来の懸案であった「議院建築計画」は、ここでまた先送りされて頓挫するのである。

 

 

幕臣から新政府官僚へ転身し、時の宰相の桂太郎をはじめとする政権の後ろ盾を得た「官僚建築家」の妻木が、時局の変転に運命を弄ばされるのは宿命であったのかもしれない。

 

〈私が妻木君を知ったのは、明治廿一二年頃でしたが、丁度妻木君が米国から帰朝されて、東京府の御用掛となられた時、当時の府知事渡邊洪基さんの紹介で初めて知り人となりました〉

 

辰野はライバルとの出会いを、のちにたんたんとこう回想している。

そもそも二人の暗闘はこのころ、東京府庁舎の設計を巡って指名を競い合って妻木がこれを取ったことに始まっている。アカデミズム出身の在野建築家として復権を期した辰野は、勝ち取った日銀本店を一八九六(明治二六)年に完成させて鬱憤を晴らし、国家プロジェクト建設の指導的な立場を確実なものにした。

もとより、妻木が有力視されていた国会議事堂にコンペ方式を提案するという大きな賭けに破れたあと、並んで持ちあがっていた中央停車場、つまり東京駅の設計についても当初有力とされていたのは妻木であった。例のドイツ人建築家、バルツァーが描いた中央停車場の「和三洋七の奇図」は妻木とその官庁営繕の職人たちが思い描いた日本的な理想と重なり、最も説得力のある計画と目されたからだ。しかし、日露戦争を挟んでバルツァーが帰国し、隆盛を誇った妻木には、大逆事件に端を発した宰相桂太郎の失脚や朝鮮の植民地政策に伴う政府の緊縮財政への転換が重なって陰りが忍び寄る。

その結果、議院建築、つまり国会議事堂計画がまたまた先送りとなる一方、日露戦争の勝利で高まる帝国の威信の象徴ともいうべき中央停車場計画の指名を受けた辰野が、ヴァルツアーの「和三洋七の奇図」を退けて英国のヴィクトリアン・ゴシック様式の堂々たる駅舎を一九一四(大正三)年に完成させるのである。

 

辰野が東京駅開業の祝賀行事の雑踏のなかで感慨にふけっていたころ、五十五歳の妻木は神経痛を患って自宅で伏すことが多くなっていた。「議院建築計画」を巡って辰野がコンペを主張して巻き返しを図ってきたのが昨日のことのようだが、この鳴り物入りの東京駅の開業は、師のお雇い外国人、ジョザイア・コンドルに代わってライバルの辰野が日本の建築界を差配する「時代の寵児」になりつつあることを映しだすかのようである。

辰野が仕立てた赤煉瓦の重厚な外観を誇る東京駅に向き合うように三年前、妻木は自らの建築家としての歩みの記念碑ともいえる作品を仕上げた。目と鼻の先といってもいい日本橋川に架けかえられて開通した日本橋である。

明治日本が世界へ向けた国家としての威信を造形したのが辰野の日銀本店や東京駅だったとすれば、日本橋は一見ささやかな構築物である。しかし、日本橋には道路原標が置かれて日本全国の五つの街道を結ぶ交通の要衝をなしているばかりか、江戸開闢以来この橋は富士山と並んで北斎や広重らの浮世絵が描く、日本人に最も愛された風景の一つとなってきた。人と物と情報と金が行き交う、江戸の都市文化の象徴的なトポスとして今日に及んでいることは、改めて述べたてるまでもない。

とりわけ、旧幕臣の一族から維新による没落をくぐりぬけて新政府に身を置いてきた妻木にとって、この橋は失われてゆく自らの来歴とその時代の記憶を呼び起す、特別の意味合いを伴って在り続けたに違いない。

東京駅の建設に先立つこと十八年前、明治国家の金融活動の中核である日銀本店は、欧化政策の陣頭に立つ外相、井上馨のもとで進められていた「官庁集中計画」を見直すなかで、ベネチアをモデルにした渋沢栄一の「日本橋商業街構想」に後押しされて造られた。それは政府の臨時建築局の職務を投げ出した辰野金吾が自分を設計者に指名し、視察してきたベルギー国立銀行をモデルに、いわば力で成し遂げた仕事である。

ドイツの建築家エンデとベックマンが設計案をつくった国会議事堂は、旧幕臣で旗本出身の官僚建築家である妻木が主導していたが、唐津藩の下級武士の家から工部大学校の教授に上り詰めた辰野がライバルとして立ちはだかり、政府の審議の場でコンペ方式に持ち込もうとして妻木の政治力に遮られた。しかし、残された東京駅という帝都の顔のデザインは辰野が奪い返し、妻木はついにこの地方出身の若い野心家に屈したのである。

 

日本橋 麒麟の象(意匠 妻木頼黄)

日本橋 麒麟の象(意匠 妻木頼黄)

 

 そんな妻木にとって最後の舞台となったのが日本橋の立て替えという事業であった。日本橋の創建は一六〇三(慶長八)年に遡り、以降記録に残るだけでも十八回もの建て替えが行われてきたといわれる。もちろん火事や水難、老朽化など、木造橋の持つ限界がこのような頻繁な建て替えにつながってきたのである。それが、明治に入って一八七三(明治六)年に行われた架け替えでは、それまでの水運を重視した

太鼓橋型の構造から、馬車など道路交通の変化に合わせた水平型の構造へと変化し、デザインも青いペンキで塗装した西洋型の橋へ替えられた。

 老朽化したこの橋を架け替える計画は日露戦争の勝利でにわかに具体化し、東京市の技師の樺島正義と米元晋一の設計で竣工した新しい日本橋の開通式が行われたのは、東京駅の開業式典から遡ること三年、一九一一(明治四四)年四月三日のことであった。着工から二年半、その燈柱のデザインが妻木に要請されたのは、江戸東京と日本文化の来歴を象徴する構築として、この橋に時代が求めるものが何であったのかを浮き彫りにする。

 

 〈今や東京市は着々市区改正の歩武を進め、家屋の形式も亦暫次洋風となり、若しくは和洋折衷となり、将に旧事の面目を一新せんとす。此時にあたり、ひとり橋梁のみ古撲の形態を存すべけんや。宜しくその規模を宏壮にし、その装飾を華麗にし、これを帝都の偉観と為すべきと共に、江戸名所の一つとして、三百年来の歴史を有する古蹟を回顧せしむるの必要あり〉

 

 日本橋の再構築について、妻木はこのように大いなる夢を語っている。

 手がけた夥しい建築物とその設計に果たせなかった、おのれの来歴と故郷の夢。

 維新で失われた江戸の夕映えと水辺の賑わいが、そこにはあった。

 

 日本橋の意匠の指揮を要請された妻木は、ルネサンス様式の採用や橋梁の切り石積みの仕上げなど設計の主だった部分にも大きな役割を担ったが、とりわけその「日本趣味」と江戸という風土と結んだ美的な趣向が生かされたのは、橋上の燈柱を飾る意匠であった。

現存する日本橋の橋上の燈柱には、中央の大燈柱に東京市の市章を楯に持った「獅子」の彫刻に榎の葉と松の文様が配されている。かつて一里塚の指標だった榎と街道の松の意匠は妻木が記憶に刻んだ遠い「江戸」が呼び起す過去のシンボルであろう。

一方、台石の左右の中燈柱には「瑞祥」を意味する想像上の動物の「麒麟」の像が掲げられている。「王者至仁なるときは即ち出ず」と妻木はその意匠の由来を説く。

 

〈明治の聖代に架設せることを記念し、及東京市の繁栄を祝福するには、最も格好の物象なり〉

 

この麒麟像に大きな翼を付しているのは、日本橋が道路原標のある全国の交通の起点であるということに加えて、日露戦争の勝利で近代国家として飛躍する日本とそこへ導いた「明治」という同時代への祝祭的な寓意が込められているとみることができる。

現存する日本橋への架け替え計画ではじめて具体案が提示されたのは一九〇二(明治三五)年、東京市の技師、金井徳三郎がまとめた石造のアーチ橋の案があった。

模型の図像も残されているこの計画案は、パリのポン・ヌフをモデルにしたフランス・ルネサンス様式に基づく西洋式橋梁で、電車など新しい交通体系に対応した近代都市にふさわしい計画であったようにみえる。しかし、この計画が実現を見ずに終わった大きな要因は、その橋梁上に配される装飾の彫像との調和の問題であった。

この案では江戸東京の歴史の開祖ともいうべき太田道灌と徳川家康の彫像を、橋の上に配するという計画が示され、それが賛否の論争の的となったのである。

確かに当時の図版に示されたフランス・ルネサンス様式の石造の二重橋の上に掲げられている、兜を身につけ弓を手にした二人の武士像を見ると、この時代の記念碑的な像主としては「守旧的に過ぎる」という批判に加えて、和洋折衷のバランスを失しているという批判の対象になったことは想像しやすい。

妻木はこの金井案の挫折を踏まえた上で、新たな日本橋の装飾意匠を考えたのである。

 

〈装飾の設計につき最も苦心せるは、その橋体との調和渾成を得るに務めたること其の一なり。日本橋は帝都橋梁の重鎮として、美観と共に威厳を具へざるべからず。又日本橋は、古来里程の元標たるの寓意を示さざるべからざること其の二なり。而も務めて日本趣味を以て、典雅安定の趣致を表現せんとすること其の三なり〉

 

「麒麟」と「獅子」の像はその和洋のバランスのなかで、妻木の夢と職人たちの技量をつないでおのずから形をなしていった。妻木が彫像の意匠を委嘱したのは江戸の鋳物師の伝統を継ぐ彫刻家の岡崎雪声と西欧彫刻にも明るい渡辺長男の二人であった。

ルネサンス期のイタリアの彫刻家のドナテーロの獅子像や西欧のドラゴン像、薬師寺の狛犬など和洋の「麒麟」と「獅子」のモデルを参考に求めて、二人の彫刻家を指揮しながら妻木は自らあたためてきた「日本趣味」を日本橋の装飾意匠のなかに実現させた。

 

一九一一(明治四四)年四月三日。

 華麗な姿をみせた日本橋の周辺には日の丸の旗が飾られて、祝祭の気分を盛りたてていた。五十二歳の妻木はゆっくりと橋のたもとの祝賀会場へ足をすすめた。

 新たな日本橋の橋銘は最後の将軍、徳川慶喜に願い出た。このとき七十三歳の慶喜は喜んでこれに応じた。千石取りの旗本の嫡男として九歳で幕府の瓦解を経験し、幼くして両親を失う非運と没落のなかから新政府の建築官僚とし身を興してきた妻木にとって、遠い江戸の賑わいの記憶を呼び起す日本橋の意匠を手がけて完成させ、その橋銘を主君である最後の将軍から得て、いまその場に身を置く。

これに過ぎる喜びはあるまい。開通式のあと、東京市長の尾崎行雄を先頭に渡り初めが始まった。慶喜の養子の家達公の顔もその行列に見える。開通を祝って柳橋や新富町から集まった芸妓衆の賑やかな音曲が響いてきた。

若い日に留学した米コーネル大学の卒業論文では日光東照宮と芝増上寺という徳川家の霊廟建築を高く評価するなど、建築家としてもともと妻木が「日本趣味」の源流へ寄せる関心は大きかった。一八九六(明治二九)年には内務省の「古社寺保存会」委員となって、いわゆる文化財保護行政にかかわってきた。これと並行して東大寺大仏殿修理など明治大修理を手がける一方、近世の伝統建築の応用などでその仕事は「和三洋七」の現代建築へ向かう傾向を日増しに強めてきたのである。

「これでいい」と妻木は思う。「あの人もこれを喜んでいるだろう」。

いま目の前にある日本橋を飾る「麒麟」と「獅子」の意匠は、もとをたどればあの人の示唆によるものだった。あの人とは森鷗外、いまは文豪の名を恣にする作家にして軍医総監へ上り詰めた、日本を代表する知性である。

 

〈二十九日。島田を訪ふ。小倉、妻木、加治等在り。小倉は自ら政治学を修むと稱する少年なり。妻木は建築家、加治は畫工なり〉

 

鷗外はドイツに留学していた一九八七(明治二〇)年六月二十九日付の日記に、議事堂建築の研修でベルリンのベックマンのもとに来ていた妻木との出会いをこう記している。

帰国したのちも、妻木は鷗外とのか細い糸を絶やす事がなかった。鷗外は帰国した後、日本の伝統建築や生活様式についても多くの論考を残している。日本橋の装飾意匠を請け負うに当たって、妻木は若い日に異国で縁を結んだ鷗外に相談を求めた。鷗外は旗本の末裔である妻木の「日本趣味」に深い理解を示して、西洋美術との調和の上での日本橋の造形に的確な意見を伝えた。「麒麟」と「獅子」の像はそのようにして生まれたのである。

前年に長男の頼功を病でなくした。自身の体の調子もすぐれない。

ライバルの辰野金吾はいま、ヴィクトリアン・ゴシック様式の赤煉瓦造りで帝都の玄関である東京駅をこの橋のすぐ近くに建設している。

妻木が見届けている日本橋の開通のざわめきのなかで、江戸はまた遠ざかる。明治という時代がもうじき幕を閉じようとしている。

                                =この項終わり

(文中敬称略、参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

連載 ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 10

  • 2014年3月18日 13:54

柴崎信三

 

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

10 〈風景〉について

     横山大観の「富士」と国民のまなざし

                                                                      

「或る日の太平洋」(1952年、東京国立近代美術館」

「或る日の太平洋」(1952年、東京国立近代美術館」

               

「乾坤輝く」は旭日を背にして雪を頂いた富士が、煙るように棚引く雲に包まれて穏やかな顔をのぞかせている。「龍躍る」の富士を取り巻き、渦巻く雲の間には雷光が走り、小さな龍が躍っている――。変幻する富士を主題にした山の十点と海の表情の移ろいを描いた十点からなる横山大観の「海山十題」は、日本の四季の自然景観を描いた日本画でありながら或る種の「戦争画」と呼ばれる。

もちろん、それは日米開戦の前年の「皇紀二六〇〇年」を奉祝して、この日本画の巨匠が戦争協力のために描いた作品だからであり、とりわけ「富士山」という表象が戦時体制下の国民の大きな共感で迎えられたからである。

展示されてすぐにすべての作品が当時で五十万円、現在の貨幣価値なら二十億円は下らない巨額で軍需産業の経営者らに買い上げられた。

大観がこの売り上げで四機の戦闘機を購入して陸海軍にそれぞれ二機を献納したという挿話が、戦争協力者として戦犯

に問われながら復権した戦後になっても大観の神話性を高める要因となった。

 「海山十題」は戦後、流転した。二十点の作品のうちの多くが購入者である大川義雄、山崎種二、五島慶太、中島喜代一といった戦時経営者らの手を離れて、戦後長い間行方不明となったのは、その「生いたち」を巡る社会的な禁忌も手伝ったのであろう。

 一九七一(昭和五一)年に北沢バルヴが倒産し、会長の北沢国男の日本画の収集のうち十七点の大観の作品を、島根県安来市の足立美術館が八億円で購入した。そのなかに「雨霽る」「海潮四題・夏」があった。いまは大観の作品の最大の収集で知られる同美術館はその後、満州国の外交官にわたった「曙色」が米国へ移住した娘のもとにあることを探り当て、一九八〇年代の初めに入手している。戦後、幻の名画とされてきた「海山十題」の二十点のすべてが揃って再び人々の目に触れたのは、二〇〇四(平成一六)年夏、東京・上野の東京芸大美術館で開かれた展覧会であった。今日の市場における大観作品の抜きんでた高い評価の要因は、こうした褒貶と流転に伴う神話作用も少なからずあろう。

横山大観は生涯に夥しい「富士」の絵を描いた。とりわけ、戦時下にそれが「彩管報国」と呼ばれる戦争遂行へ向けた国策美術の素材となり、自然表象としての〈風景〉が国家と国民の情念を取り結んで、広く社会に働きかける機能を担ったのである。

 

近代以降、日本の表現の場で風景としての〈富士〉が描かれた場面はおびただしい。絵画、文芸、映像といった独立した表現の領域はもとより、ポスターやデザイン、商標といったものまでを含めれば、その裾野の広がりに歴史が育んできた「霊山」の神意に対する国民的な表徴作用を読み解くことができる。

横山大観が富士山を画題として描いた作品は、およそ千五百点にのぼる。絶筆となったのも一九五七(昭和三二)年の「不二」だったが、生涯の富士画のうち五百二十四点が一九三七(昭和一二)年から敗戦の前年までの時期に集中している。これは戦時体制という社会背景の下の強い要請と響き合って作品が〈社会化〉したことの証であろう。

「彩管報国」は総力戦体制のもとで、国家が国民の意識を〈聖戦〉の勝利へ向けて統合するための美術キャンペーンであるが、同時にその時代の国民の強いまなざしを映したものであり、一方的なプロパガンダとは異なる共鳴効果をそこに認めることができる。

 

〈古い本に富士を『心神』と呼んでいる。心神とは魂のことだが、わたしの富士観といったものも、つまりはこの言葉に言い尽くされている。(略)春夏秋冬、朝昼晩、富士はその時々で姿を変えるが、しかし、いつ、いかなる時でも美しい。それはいわば無窮の姿だからだ。私の芸術もその無窮を追う。私はこれからも富士を描き続けるだろう〉

 

戦後、自らの〈富士〉という画題を振り返って大観はこうに述べた。

一連の〈富士〉を主題にした風景のモチーフには、勤王思想を引き継ぐ水戸藩士の家の生い立ちがもたらした、国粋主義的な精神性が深くかかわっている。

大観の〈富士〉を題材とした作品の中に当初あった絵画的な造形や技巧の変奏は、大正期から昭和前期へと時代が推移するに従って次第に影を潜め、日輪や雲海、松林などの記号的な背景を組み込んだ、国家的なシンボルとしての〈富士〉が前面に立ち上がる。

例えば一九一七(大正六)年ごろに描かれた「群青富士」(静岡県立美術館蔵)は、六曲一双で絹本着色の屏風絵であるが、雲間から顔を出した紺色の富士はデフォルメされて、ユーモラスな表情を背景の金地の華やかな広がりのなかに浮かべる。夏富士の爽快感をモダンな意匠で描いたこの作品からは、それを超えた思想的含意は伝わらない。

一方、それから二十年あまりを経て、一九四〇(昭和一五)年に紀元二千六百年奉祝美術展への出品作として描かれた「日出処日本」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の造形は、これとはすべてにわたって対照的である、

雪を頂いた富士は、頂上に向かう幾筋かの稜線によってその神さびた姿が強調され、裾野に漂うようにたなびく雲の波の上空に、朱に輝く日輪があたかも富士を迎えるような構図で対置される。この富嶽像は自然としての実在の富士を写実的に描いたというより、日輪に迎えられた白雪の頂きの気高さを、煙るように広がる下界の雲海によって際立たせて描いた、まことに政治的な暗喩に満ちた作品である。

大観が描く「富士」の図像がこのような時代的な表現の落差を広げていったのはもちろん、皇国思想のもとで「自然」に向かう画家自身の美意識の遷移と、それを促す社会、とりわけ総力戦をすすめる天皇制国家が「無窮の霊山」に仮託した寓意の作用であろう。

師の岡倉天心の影響のもとで、大観は水墨画ややまと絵を通して日本の伝統を掘り下げるとともに、中国の老荘思想やインドのヒンズー思想から東洋的な自然観を探求した。

「気韻生動」という天心が日本美術院に掲げた「日本画」の創造の理念は、西欧の写実絵画を超えて対象と描き手の間に流動する、生き生きとした心の動き表現しようというものである。しかし、新たな境地を求めて伝統的な日本絵画の線描を否定して、色彩の濃淡や刷毛の筆触などで空気や光を描くという大観らの「没線描法」は、社会から「朦朧体」という批判を浴びて不振を託った。行き詰まった天心が、インドで詩人のタゴールやヒンズー教の大家のビベカーナンダとまじわり、出会ったのが「不二一元」の思想である。

天心は『東洋の理想』のなかで、この不二一元の思想を「存在するものは外見上いかに多様だろうとじつは一であるという、偉大なインドの教説」と説いた。不二はすなわち富士であり、これが「アジアは一つ」というよく知られた惹句に導かれて、のちに大東亜共栄圏を掲げてアジア各国へ侵攻する、日本の軍国主義のスローガンに引用されていく経緯は広く知られるところである。

 

 〈アジアは一つである。二つの強力な文明、孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義をもつインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき窮極的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない〉

 

天心が「アジアは一つ」という言葉に託して、このように日本を含めたアジアを〈西欧〉への文明的な対抗軸として提示したことによって、自然と人生への観照としての気高い山という、それまでの一般的な富士像から、日本の精神的な卓越性の表徴へと大観の〈富士〉が飛躍する、ひとつのきっかけがもたらされたと理解することができる。

一九二三(大正一二)年に、大観は東洋的な自然への観照と人生の流転を河の流れに見立てた水墨画の絵巻「生々流転」を制作する。絹本で四〇㍍にも及ぶ、この長大な作品は山間に落ちた一滴の水がせせらぎを作り、やがて山河を潤す河となり、大海に注ぐまでの大自然のうねりのなかに、時間と人生の移ろいを凝縮して描いた大作である。

ここに描かれた〈自然〉は文字通り、孤独で寄る辺ない人間の一生に対応する鏡としての自然であり、後年〈富士〉に託した国民的な統合のシンボルとしての自然ではない。

大観の描く〈富士〉が、天皇を頂く「国体」の観念の視覚化という性格を顕著にしたのは、一九二七(昭和二)年に宮中御座所を飾るための下命を受けて制作し、献上した「朝陽霊峰」と題する六曲一双の屏風絵である。富士と朝日と松林という「三点セット」が、清澄で厳かな「日本」へ国民心理を誘う図像的な効果をあげている。

これをきっかけに大観は、皇室の下命や国家や軍からの要請で富士画をはじめとする日本の山河を描くようになった。同時に一九三一年には帝室技芸員へ推挙され、一九三七年には第一回の文化勲章を受章するなど、国家と結んだ「彩管報国」の指導者として坂道を上りつめてゆくのである。大観は戦時体制に入ってからも、戦闘場面など戦争それ自体を描くことはなかったが、祖国の山河という〈自然〉をひたすら描くことで戦争へ向かう国民のまなざしを集め続けた。その意味ではきわめて特異な「戦争画家」である。

その頂点が開戦前夜の一九四〇(昭和一五)年に開く、皇紀二千六百年奉祝記念展へ出品するために描いた「海山十題」である。日本の自然を素材にして、海にちなむ十点と山にちなむ十点で構成されたこの連作は、〈聖戦〉へ向けた国家への翼賛を目的として創作したことを作者が明確に謳い、それが大衆的な評判を広げて大きな反響を呼んだ。

 

 〈それ皇恩の優握なる海山もただならず、余、三朝の恩澤を蒙り絵事に専心することここに五十年。今、興亜の聖戦下に皇紀二千六百年の聖典に会し、彩管報国の念止み難きものあり、よって山海十題を描きて之を世に捧ぐ。博雅君子幸いに清鑒を給え〉

 

大観がこう記したように、作品のあからさまな政治性は覆うべくもない。にもかかわらず、「海山十題」のうち、すべて富士を描いた「山」にちなむ十点には、厳かで優美な四季折々の富士を取り巻く空気の移ろいを、さまざまな手法で描き分けた傑作が含まれる。同じ時期に同じ作者が「量産」したポスターまがいの富士画と比べれば、「空気を描く」という画家の理想が戦時下の最もきわどい場で結晶した、まことに反語的な作品といえる。

大観の〈富士〉の絵は戦時下の国民から喝采をもって迎えられる一方、枢軸国家の同盟国であったドイツ総統のアドルフ・ヒトラーや満州国皇帝の溥儀らにも外交儀礼として贈られた。自然景観を描いた絵画がこのような政治的効用を担ったことも例外的である。

天皇が単に政治上の元首であったばかりでなく「万民の上に君臨する美的・倫理的権威として、日常生活の些細な徳目や審美観にまで浸透、内在しうる原理であった」と、政治学者の橋川文三が指摘したこの国の近代の天皇制というシステムが、大観の〈富士〉に特異な社会的効用をもたらしたことを、ここで改めて参照する必要があろう。

 

 〈―あなたは東京が初めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方ない。我々が拵えたものじゃない〉

 

自然景観としての〈富士〉は、文芸などほかのジャンルでも繰り返し描かれてきた。夏目漱石の『三四郎』のなかで「広田先生」が語りかける広く知られたこの言葉には、古来日本人が〈富士〉に寄せてきた形而上的な賛美に対するシニカルなまなざしがある。

英国留学帰りの知識人、漱石が日露戦争に勝ってナショナリズムに酔う当時の日本の世相に寄せた、辛辣な批評の目をそこに見出すことはたやすい。

日清戦争に続いて日露戦争に勝利を収める日本が、列強に伍して世界にその存在を主張し始めた時期にあって、日本の自然景観を讃えることで「風景ナショナリズム」とも呼ぶべきブームを起こしていたのが地理学者、志賀重昂が著した『日本風景論』である。

日清戦争が始まった一八九四(明治二七)年に刊行されたこの著作は、その後八年間で十四版を重ねる当時として空前のベストセラーとなった。火山国である日本列島の地理学的な成り立ちを説き起こすなかで、その景観的な特徴を「瀟洒」と「美」、そして大らかなさまを意味する「跌宕」という三点に求めて、山河の景観や自然造形、気候や植生、生物の生態などから美質を世界に比較して論じた、希有の愛国的な景観論である。

 

〈想ふ浩々たる造化、その大工の極を日本国に鍾む、これ日本風景の渾円球上に絶特なる所因、試みに日本風景の瀟洒、美、跌宕なる所をいふべきか〉

 

もちろん、ここで富士山は「名山中の名山」として「豈に一字一句だに自美自讃を要せんや、聴けこの山に対する世界の嘆声を」と謳われている。漱石が広田先生に語らせた言葉には、こうした手放しの風景ナショナリズムへの深い懐疑が含まれている。

対外的なシンボルとして〈富士〉が広く意識されるようになったのは、葛飾北斎らの浮世絵で描かれた〈富士〉が西欧社会で知られるようになったことがある。その強い影響を受けたヴィンセント・ファン・ゴッホの作品などを通して、〈富士〉が日本の聖像(イコン)として世界に迎えられていったことは、この日本の表象に国民の意識を覚醒させてゆく大きな動因となった。加えてラフカディオ・ハーンやポール・クローデルといった、明治以降に日本で暮らした外国人の作家や外交官らが、著作の中でその壮麗な山容の美を世界に紹介したことを通して、国家のアイデンティティーとしての〈富士〉が大きなイメージを伴って国民意識に定着していくのは、理解しやすい経緯であろう。

昭和期に入るとともにそうした〈富士〉の表象が皇国思想との紐帯を強めて、〈聖戦完遂〉へ向けた国家的なイデオロギーを担うようになってゆくのは、大観の〈富士〉の画題がたどる造形の変遷が示す通りである。〈富士〉は「八紘一宇」の戦時標語をそのままに、「国体」の精神的な〈屋根〉として、その益荒男振りに視点が移されてゆくのである。

 

太宰治が『富嶽百景』を発表したのは、一九三八(昭和一四)年である。

東京から富士山麓の御坂峠の茶屋に移り住んで、秋から冬へ向かう数カ月を過ごした作家が、そこで出会う人と富士山の景観を綴った、文字通りの私小説である。

 

 〈まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそりと蹲って湖を抱きかかえるようにしている。私はひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ絵だ。芝居の書割だ。どうにも註文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった〉

 

この短編で富士は一見、ことさら卑小で通俗な姿に描かれている。左翼運動と日本浪曼派という国粋美学の間に揺れ動き、無頼と韜晦の日々を生きていたこの作家が、市塵を逃れて〈富士〉という崇高な景観に向き合った場面の心の屈折が、ここでは浮き彫りにされている。それは作者の心象そのものであって、「富士には月見草がよく似合う」という有名な一節もまさしく、この大いなる山を鏡として、おのれの屈託をひよわな花に託した措辞であったのだろう。太宰は「富士は、のっそりと黙って立っていた。偉いなあ、と思った」と自身に言わせて、向き合った風景とのやりとりのなかに窶した〈富士〉を、独特の自意識を転倒させた諧謔的な叙法によって、ひそかに讃えているのである。

戦火がアジア各地に広がる一九四三(昭和一八)年、詩人の草野心平が発表した詩集『富士山』は、より直截に〈聖戦〉への祈りを富士に託した、紛うことない戦争詩である。

 

〈麓には桃や桜や杏さき。/むらがる花花に蝶は舞ひ。/億万万の蝶は舞ひ。/七色の

霞たなびく。/夢み見るわたくしの。/富士の祭典。/(略)遥かの涯まで海は凪ぎ。 

/潮くだける岩窟の。/黒黒おほきな。/日本の屋根。/(略)追い迫る。/〈日本〉

/せりあがる富士〉

 

ここには、すでに現実の〈富士〉の景観はない。聞こえてくるのは、同じころ求められるままに富士画を描き続けた大観に通じる、戦時の国民に向けた激しい咆哮である。

 

日本人の〈トポス〉としての富士山を考える上で、大観に対置してみたいのは晩年になってから故郷の南仏プロヴァンスのサント・ヴィクトワール山を描き続けた、フランスの画家、ポール・セザンヌの場合である。

画家の文化背景や思想はもとより、作品のモチーフも技量もまったく異質ではあるが、ポスト印象派の巨匠で「近代絵画の父」と呼ばれるモダニストが、晩年にいたって故郷の神話的な伝説をもつ山の景観を飽くことなく描き続けたことは、近代画家にとっての〈トポス〉の意味と、その風景が働きかけるものの例証として一考に値するだろう。

印象派からキュヴィズムへの道筋をつけたともいわれるセザンヌは、晩年に故郷のエクス・アン・プロヴァンスに戻って、幼いころから親しんだサント・ヴィクトワール山を飽くことなく描き始める。さまざまな造形の変化のもとでこの山を描いた作品は、油彩、水彩、線描あわせて生涯で百点近くにのぼるといわれ、その過半はエクスへ戻った一九〇〇年ごろ以降の作品である。唐突な故郷の〈風景〉への回帰はあくまでも画家の内的な動機によるもので、大観の〈富士〉のような社会的文脈を帯びたものではない。

ゴットフリート・ベームは、セザンヌにとってサント・ヴィクトワール山が故郷の豊かさと渾然一体となったものであり、「強くそして記念碑的な仕方で、セザンヌが自らの存在および芸術の根を下ろした土地を具現している」と指摘して、こう続けている。

 

 〈しかし同時にこの山は、山または山脈の隠喩に関わっており、そしてその隠喩は、ヨーロッパの歴史においてつくられてきたものに留まるものではない。モーゼが十戒を受けた旧約聖書のシナイ山から、来るべき神の栄光をキリストの弟子たちが見たタボル山、そして、北斎の手による神聖な富士山の数多くの景色にいたるまで、山というものは、文化にとって一番の特徴的な経験を表している〉

 

ベームによれば、サント・ヴィクトワールに連なるヴァントゥー山は詩人のペトラルカが一三三五年にはじめて登り、そこで風景としての自然という、近代思想の根底にある経験を得た場所であり、風景画の成立と絵画における〈山〉の隠喩にこの山々は深くかかわっている。晩年に故郷のエクスに戻ったセザンヌは一九〇三年一月、友人のヴォラールにあてた手紙で「私は粘り強く制作しています。そして私の前には称えられた土地があるのです。ヘブライ人の偉大な指導者同様、私はどのような状況にあるのでしょうか」と、モーゼの故事に自らを重ねて問いかけている。

もちろん、繰り返し描かれたサント・ヴィクトワールの山は、画家にとってこうした歴史的な修辞に導かれただけの対象ではない。眺める場所と季節や時間によって自在に変幻する山容を、構図と筆触と色彩を改めて繰り返し造形するなかから、セザンヌは「自然」という抽象で構成された故郷の風景に、有機的な意味のつながりを追求したのである。

エクスで最晩年の画家と交流した詩人のガスケは、セザンヌの言葉を残している。

 

〈自然は万人に語りかける。ほら、ところが、風景というものはかつて一度も描かれていない。不在の人間、それでいて、風景のなかに完全に没入した人間。(略)…この土地に私をつないでいる鎖の環が完全に切れてしまわないように、つねに感動をときには自分自身で気がつかないまま味わってきたこの土地から完全に引き離されたと思うことが絶対ないように……〉

 

「風景とは何か」という問いに、柄谷行人は「風景とは一つの認識的な布置であり、いったんそれができあがるやいなや、その起源も隠蔽されてしまう」と述べている。

この定義に従えば、大観の〈富士〉とセザンヌの〈サント・ヴィクトワール山〉のいずれもが、近代国家という布置のなかで画家が自らの〈トポス〉として探りあてた、自然表象としての〈風景〉であり、それはあくまでも画家が獲得した仮想的な自然なのである。

それでは人はなぜ〈風景〉を呼び起し、故郷というトポスにそれを探ろうとするのか。

中国系米国人の地理学者、イーフー・トゥアンは著作の『トポフィリア』のなかで、〈場所愛〉という意味の興味深い造語によって、この問いに答えようとしている。

 

 〈人間は、個人でも集団でも、「自己」を中心として世界を知覚する傾向がある。自己中心主義と自民族中心主義は、その程度こそ個人や社会集団によって極めてさまざまであるが、人間の普遍的な特徴と思われるのだ。意識は個人のものなので、世界を自己中心的に構成することは避けられない〉

 

トゥアンのいう自己中心主義と自民族中心主義が構成する人間の中心的な価値観は、その置かれた環境や所属する場所に依っている。生まれた土地や親しんだ風土、そこに生きることで出会う風景や人のつながりなどが育む、広く人間に形作られる審美的な認識や愛着は、このような〈トポフィリア〉という概念で括られる、というのである。

ここから呼び出されるのは、いくつかの文芸作品に描かれた自然である。トゥアンは英国の女性作家、ヴァージニア・ウルフが『燈台へ』のなかに描いた刈られた草のそよぎや羊の鳴声、詩人のワーズワースが湖水地方のヘルヴェリン山から受け止める「哀感と無限の感覚」の知覚に、この〈トポフィリア〉の表徴を認めている。

この〈トポス〉への愛着という人間のプリミティブな感情は、やがてその場所の来歴や歴史と結んで共有される記憶を通して〈郷土〉や〈祖国〉への愛着となり、〈テラ・パトリア〉、すなわち出生地への愛という情緒を育てる、とトゥアンは敷衍していく。ここに〈風景〉がナショナリズムと結んでその翼を広げる、大きな転回点が訪れるのである。

 

 〈ヨーロッパに近代国家が誕生して以来、感情としての愛国心は、どこか特別な場所と結びつくことがまれになった。愛国心は、いっぽうでは誇りと力という抽象的なカテゴリーによって喚起され、他方では、旗のような特定の象徴によって喚起されたのである。近代国家は大きすぎ、国境はあまりに勝手に引かれ、あまりに雑多な地域が含まれているので、経験や親密な知識から生まれるある種の愛情を集めることができないのだ。現代人が克服したのは距離であって、時間ではない。人生の時間のなかで、人は今や―過去と同様に―世界の小さな片隅にしか、深く根を張ることはできないのである〉

 

またアントニー・D・スミスは、近代社会のナショナリズムを形作る「前近代的な紐帯と感情」の由来を、過去にさかのぼったエスニックな共同体である〈エトニ〉に求めて、その結びつきがどれほど時間を遡ったところで成立しているかを問いかけている。

スミスは〈エトニ〉から呼び起される文化的な属性として「集団に固有の名前」「共通の祖先に関する神話」「歴史的記憶の共有」「一つまたは複数のきわだった集団独自の共通文化の要素」「特定の〈故国〉との心理的結びつき」「集団を構成する人口の主な部分に連帯感があること」などをあげている。

こうして喚起された〈エトニ〉の表象は、理想化され、象徴化されて文芸、絵画、彫刻、建築、音楽、オペラ、バレエ、映画といったさまざまな表現の領域に再構築され、近代国家におけるナショナリズムの形成に動員される、とスミスは指摘する。

 

平安期に噴火を繰り返し、その人知を超えた自然のエネルギーが霊的な神秘や怖れの対象となってきた〈富士〉は、〈エトニ〉の造形としてもっぱらその抗いがたいイメージばかりが歴史に伝承され、日本社会に超越的な表象作用をもたらしてきたわけではない。

 

〈田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける〉

 

万葉集で山部赤人が歌枕に詠んだ富士は、文字通り清々しい真冬の叙景の対象として描かれている。江戸後期の画人、葛飾北斎が晩年を賭けて描き、この山を日本の象徴として世界に伝えることになった「富嶽三十六景」にしても、その多くは富士山を取り巻く人々の日常的な暮らしが前景となって、穏やかな近世の文明の景観を作り上げている。

それが近代に反転して、国民の意識を国家という空間に統合する政治的な装置の役割を担うのは、〈富士〉が国際的なイメージの反響を広げるなかで〈日本〉を対外的に視覚化する図像として国民に意識され、天皇制国家の〈聖像〉となっていったからであろう。

古代の詩歌に詠われ、山岳信仰や富士講に仰がれ、浮世絵にその理想美を描かれてきた〈富士〉というトポスが、日本人のなかに蓄積してきた精神的刻印は、かくして天皇を頂く〈国体〉というシステムの下で国民のまなざしを統治する審美的、倫理的な規範となって、総力戦へ向かう人々に〈恩寵〉をもたらす固有の情感を紡いでゆくのである。

「彩管報国」の指導的立場に立って〈富士〉を描き続け、それをもって国民を〈聖戦〉に向けて鼓舞した横山大観は戦後、戦争協力の責任を問われた。しかし、これを巧みにかわして日本画の巨匠として復活し、最晩年に再び〈富士〉の画像に向き合ってゆく。

日本が敗戦の荒廃から立ち上がり、サンフランシスコの講和によって独立国家を回復した一九五二(昭和二七)年、八十四歳の大観が描いた「或る日の太平洋」という作品がある。これは冷戦下に米国の占領を脱して独立を回復し、自立への道を歩む日本を象徴的に描いた、戦後の国際関係を映すまことに政治的含意にみちた作品というべきである。

きわめて大胆な構図のもとで、逆巻く太平洋の荒波がせり上がるようにぶつかり合って砕け散る。波頭がせめぎ合う海面には稲妻が走り、波間から小さな龍が頭をもたげている。その奥に漂う雲海の上空に、白雪を頂いた富士が悠然とした頂きをのぞかせている。

「富士には龍が棲む」という伝説に依りながら、廃墟から立ち上がった日本が冷戦構造の下で大国の間に揺らぐ運命を描いた作品といわれる。十七点もの下絵やスケッチが遺されており、「シュルレアリズムを思わせる」とさえ評価された画面の躍動感が、この作品に賭けた最晩年の大観の魂魄を伝えている。

とはいえ、ここに描かれた〈富士〉には風土や伝統に培われてきた〈トポス〉としての風景はもはやない。ここで大観の〈富士〉は国民が〈トポス〉として探り続けてきた風景を超えて、日本という国家をさし示す抽象的で政治的な一つの記号となっている。

 

戦後、日本人が心に映す〈トポス〉としての〈富士〉はどう変化していったのか。

洋画家の梅原龍三郎は、戦時下の日本に背を向けて中国に居を構え、戦中も「北京秋天」などの作品を発表したが、敗戦を迎えるとともに祖国の「富士」に向き合い、多くの富士画を描き始めた。「真剣に富士にぶつかり始めたのは終戦の年の秋からである」と梅原が記しているように、〈富士〉は敗れた祖国を鎮魂する図像として画家のまえに屹立した。

 

〈富士山は間断なく変ぼうして、間抜けな奴とばかり自分を翻ろうし出した。そのころの日記には毎日のやうに「時不利離不逝、時不利筆不進、おやおや富士山如何せん」と書いてゐる〉

 

富士を描くことで改めて失われた自らのアイデンティティーを模索した梅原に対し、日本画家の東山魁夷が戦後に探った風景に〈故郷〉はすでに失われつつあった。

大観が退場した戦後社会にあって、風景画家として国民的な評価を広げてゆく魁夷の描いた自然は、モダニズムのなかに穏やかな清浄感をたたえている。やがて高度成長期の日本が失ってゆく風景をそこに探りあてることで、人々は大きな慰安と郷愁を受け止めた。戦争に敗れた故郷の山河から得た一つの啓示的な経験によって、この画家は向き合った戦後の風景に日本人の〈トポスの不在〉を見出していった、というべきかも知れない。

 

 〈足もとの冬の草、私の背後にある葉の落ちた樹木、私の前に、はてしなくひろがる山と谷の重なり、この私を包む、天地のすべての存在は、この瞬間、私と同じ運命に在る。静かにお互いの存在を肯定し合いつつ無常の中に生きている。肅条とした風景、寂寞とした自己、しかし、私はようやく充実したものを心に深く感じ得た〉

 

戦後すぐに故郷の房総の山を描いて日展の特選となり、魁夷の出発点となった『残照』の制作現場に再び立ったときの心象である。画家の原風景そのものであったろう。

日本人が心の古層に育む自然への憧れと郷愁を呼び起し、失われてゆく風景を清澄なリリシズムで造形した魁夷の作品には、「ハイマート・ロゼ(故郷喪失者)」と自ら呼んだ人生が重ねられている。生まれ育った家庭が揺らぎ、応召ののちの敗戦で日本が荒廃をきわめるなかで、画家は「私は風景画家になるという方向に、だんだん追い詰められ、鍛え上げられてきた」とその歩みを振り返っている。

戦時体制へ向かうドイツに留学した青春期に大きな影響を受けた画家が、ドイツロマン派の風景画家、カスパル・ダヴィッド・フリードリッヒであった。北方ドイツの山並みや田園をパセティックに描いたこの画家の風景画は「精神の目で見るために肉体の目を閉じよ」という言葉をそのままに、自然が呼び起こすある種の霊気が観者の心をひきつける。風景が孕むフリードリッヒの作品の精神性は、姿を変えて行く祖国の「自然の残響」を探る「故郷喪失者」の魁夷に大きな痕跡を残していったはずである。

戦後の魁夷は、列島各地の山並みや樹林、古都の景観などのほか、若い日を過ごした欧州の街並みや田園なども数多く風景として手がけた。そのなかにはもちろん〈富士〉も含まれているが、それは画家にとっての数ある失われてゆく風景の一つに過ぎない。

自らの人生に深く重なり、戦後という風景を喪失してゆく時代にも重なる、私的な遍歴の記憶として描かれたノスタルジックな「故郷」の風景には、どこかで国籍をもたない旅人のまなざしが交錯する。雪が降り積もる京都の北山の杉林も、白夜の北欧の湖の風景も、等しくこの画家には仮想的な失われた「故郷」であった。その〈トポス〉に大観の〈富士〉のような、国家に働きかける「精神の大伽藍」は、もはや探るべくもなかろう。

                                 =この項終わり

(文中敬称略、参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

連載 ジャパネスク●JAPANESQUE  かたちで読む〈日本〉 9

  • 2014年1月15日 10:20

 

 〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

9 〈欺瞞〉について

     三島由紀夫と二つの「鹿鳴館」

 

 

 

「鹿鳴館」復元モデル(江戸東京博物館)

「鹿鳴館」復元モデル(江戸東京博物館)

〈このあいだ大山夫人と海軍士官の訪問は受けたけれど、それはただ西郷海相から頼まれて三月三日の夜会に夫人連をかり出す役目を仰せつかったからという挨拶のためで、井上夫人は他の夫人たちのように強いてかり出される立場にはない。/そもそもその夜会そのものが夫の井上の要請によるものだが、それというのも井上は、旧臘外務大臣という名になったが、それ以前明治十二年から継続して外務卿の地位にあり、鹿鳴館を作ったのも彼といっていいくらいだからだ。/それに、武子夫人自身が、大山捨松夫人を除けば、大官夫人中、一、二を争うハイカラであった〉

 

山田風太郎は鹿鳴館の夜会をめぐる明治の元勲の夫人たちの哀歓を描いた『エドの舞踏会』のなかで、その「プロデューサー」ともいうべき外務卿、井上馨の妻、武子をこのように紹介したあと、夜会の賓客であったフランスの外交官、ピエール・ロティの偽りのないオマージュを重ねて物語に華々しく登場させている。

 

〈ついさっき、汽車の中で、私はこの夫人の身の上話を人々から聞いたのである。彼女はもとゲイシャだったが、大臣に出世する途中の一外交官に見そめられ、落籍されてその妻となり、いまでは外国公使たちの社交界で、エドの花形たる役割をになっているのだそうだ。/……いま、肩のあたりまで手袋をはめ、非のうちどころもなく髪をゆいあげた、秀でた聡明そうな顔だちをしたひとを前にして、私はびっくりして立ちどまる〉

 

欧化政策を急ぐ明治政府の対外演出の舞台として東京・日比谷に建てられたこの社交場で繰り広げられる「鹿鳴館外交」は、大礼服や燕尾服姿の日本の大官貴顕と身に付かないローブ・デコルテで着飾ったその妻や娘が、外国の要人相手にぎこちない西洋舞踏のステップを踏む姿がしばしば諷刺画の素材となった。一方で国粋主義者たちは「嬌奢と頽廃の売国外交」としてこの館で開く饗宴をテロや焼き討ちの標的にしようと画策した。

その舞踏会の主人公が外務卿の井上馨と妻の武子である。

日比谷の旧薩摩藩装束屋敷の跡地に鹿鳴館が竣工したのは、維新のざわめきがようやくおさまり、帝都が形をなしはじめた一八七三(明治一六)年の十一月である。

敷地は八千五百三十二坪、総建坪は四百六十七坪の二階建てで、お雇い外国人だった英国の建築家、ジョサイア・コンドルが設計した。赤煉瓦を使ったフランスのルネサンス風の外観の本館は、屋根裏部屋を持つ二段に屈折したマンサード屋根を挟んで左右にベランダが広がり、その柱頭にはインド・イスラム風の椰子の葉の装飾が施された。

談話室、大食堂、応接室、事務室、新聞室などがある一階から折れ曲がった中央の大階段を上ると正面に舞踏会が行われる二階の大広間がある。貴賓室や婦人の化粧室に賓客の宿泊室も六室あった。その頃は内山下町と呼ばれ、練兵場として使われていた日比谷の原野の暗がりに忽然と現れた西洋館は眩い輝きを放ったが、その出来栄えは井上馨を十分満足させるものではない。

欧州諸国の財政と経済を視察するため英国など欧米各国へ三年にわたって滞在した井上は、一八七八(明治一一)年の七月に帰国すると即座に工部卿の辞令を受けた。その一年後に外務卿として条約改正交渉の矢面に立つことになる。

 

〈抑我輩ノ志ハ一ニ各国人民ノ文明教化ヲ伝習スルニ存リ、十年乃至十五年コノカタ現ニ其証拠ヲ立テタルニアラズヤ、且又我輩ノ願イハ泰西ノ各大国ト同等ノ権利ヲ有シ、同等ノ地位ヲ占メントスルカラニアリ〉

 

このころ欧州の列強との「同等の権利」を求める外交の本懐をこのように述べた井上には、外遊で見たロンドンのバッキンガムやパリのルーブル宮、そして完成したばかりのオペラ座の壮麗な姿を瞼に焼き付けていたはずである。そのためのなりふり構わぬ欧化主義の舞台としてにわかに構想されたのが鹿鳴館であったが、西南戦争後の財政の逼迫の下で「外国人接待所」としてコンドルが設計したこの建築は多くの矛盾を抱えていた。

皮肉屋のピエール・ロティが「鹿鳴館は美しいものではない。ヨーロッパ風の建築で、出来たてで、真っ白で、真新しくて、なんとなくそれはフランスのどこかの温泉場のカジノに似ている」と批評しているように、「安普請」への酷評は外国人に少なくなかった。コンドルにとって不運だったのは、ベランダの柱頭に施された椰子の葉の装飾に見るような、折衷的なオリエンタリズムが不評を買ったことである。

コンドルにも言い分はある。岩倉使節団の副使として欧州を歴訪していた伊藤博文が工部大学校の開校へ向けて造家学(建築)の教員を招聘するにあたり、白羽の矢を立てたのが英国建築界で注目されていた、まだ二十五歳のジョサイアだった。

破格の待遇の来日であったが、政府から依頼を受けて帝室博物館や開拓使物産売捌所などの公共建築を手がけるなかで、鹿鳴館を西欧建築のコピーとすることには少なくない抵抗があった。ジャポニスム華やかな欧州から憧れをこめて眺めてきた遥か東洋の島国に身を置いて実際に設計にかかろうという時に、日本という固有の風土や文化を意匠のなかにとどめたいと願うのは建築家として当然であろう。それが何故かインド・イスラム風の装飾という、西洋と日本の狭間に広がる異質な「東洋」であったとしても―。

かくして「日本」ではない、しかしまた「西洋」でも決してない〈鹿鳴館〉という不可思議な空間で、その幕開けの夜会が開かれたのは一八八三(明治十六)年十一月二十八日である。外務卿、井上馨と妻、武子の連名で、皇族と各国公使や外交官、高級官僚、各界名士とその妻や娘らにあてて千二百人もの招待状が送られ、五百人ほどが出席した。横浜居留地に住む外国人の送迎のために、新橋と横浜を結ぶ特別列車が運行された。

旧薩摩藩邸時代の黒門に国旗が掲げられた鹿鳴館の正面は電飾が輝いている。池をめぐらせた前庭に次々と車馬が到着すると、着飾った貴顕淑女が続々と降り立った。舞踏室からは軍楽隊が奏でる典雅な旋律がもう響いている。宴はようやく始まろうとしている。

 

「三条公爵とご令室治子さまであらせられる」

「有栖川宮の御台薫子妃殿下であらせられる」

 

次々と到着する参会者の名前が読み上げられるなかで、大階段の前で夫の馨とともに到着した賓客を迎えているのが、見事にデコルテを着こなした武子である。

 

この日、ピエール・ロティは横浜港に停泊しているフランス艦トリオンファント号に届いた菊の紋章入りの招待状を持って、横浜から特別仕立ての汽車に乗り、新橋駅に降り立った。初めてみる東京の街は煉瓦造りの高楼が並び、電線を張り巡らせた街路をガス灯が煌煌と照らしている。ここはロンドンか、ニューヨークか、メルボルンかと見紛う夜の街を人力車で走り抜けて、ようやく鹿鳴館に到着する。

階段を上ったサロンで武子の挨拶を受けたロティはこう記している。

 

〈とりどりの真珠をちりばめた硬い縫取りでおおわれている、ほっそりとした鞘形の胴着(コルサージュ)。要するにパリに出しても通用するような服装で、それがこの驚嘆すべき玉の輿の女に実に器用に着こなされている。―で、わたしは彼女を真面目に取って、礼儀正しい挨拶をする―。彼女の挨拶もまた礼儀正しく、とりわけ慇懃である。そしてわたしがすっかり圧倒されたと感じたほどの大そうすぐれた性質の気軽さをもって、アメリカ婦人のように、私に手を差しのべる〉

 

やがて舞踏会が始まった。燕尾服とデコルテの日本人が西洋人の賓客を相手にポルカを、ワルツを、カドリールを、マズルカを踊る。欧米で暮らして舞踏を身につけてきた武子のほか、岩倉使節団に加わって米国で留学し、西洋の社交になじんで帰国した大山巌の妻の捨松や津田梅子らは難なく外国人相手にステップを踏んだ。しかし、にわか仕立てで練習をして臨んだ他の夫人や令嬢たちのダンスは覚束ない。まして白襟五つ紋で和装の婦人連は、異人たちに混じった男女の華やかな円舞を遠巻きにして見物するばかりである。

ロティは、その印象も忘れずに書きとめている。

 

〈彼女たちはかなり正確に踊る、パリ風の服を着たわがニッポンヌ(日本娘)たちは。しかしそれは教え込まれたもので、少しも個性的な自発性がなく、ただ自動人形のように踊るだけだという感じがする。もしひょっとして奏楽が消えでもしたら、彼女たちを制止して、もう一度最初から出直さねばならない。彼女たちだけを放っておいては、音楽にはずれたままいつまでもおかまいなしに踊りつづけることだろう〉

 

武子が夫に従って横浜から米国船アラスカ号に乗ったのは一八七六(明治九)年のことである。元老院議官の馨が四十一歳、武子が二十九歳、十二歳の娘の末子を伴った。汚職を問われた尾去沢事件などで毀誉褒貶のさなかにあった馨が、同じ長州閥の木戸孝允の助力で「理財学研究」という目的を掲げて、国家の設計を学ぶための欧米への旅であった。

新田義貞に連なる武家の娘であった武子は御一新で零落して柳橋の芸者になり、中井桜洲という一風変わった薩摩侍から身請けされながら、築地にあった大隈重信の梁山泊に出入りしていた馨の強引な籠絡にあって結ばれた。姦通であったが、中井は恬淡としてこれを受け入れたばかりか、馨に一生添い遂げることを申し渡した上で、その博識によって中国古典の『詩経』からとった「鹿鳴館」の命名に一役買った。

奔馬のように欧化主義をひた走ろうとする夫の欧米遊学に従って、武子は昨日までの丸髷で褄をとる暮らしをあっさり捨てて、西洋の言葉と作法や社交の流儀を苦もなく身につけていった。ロンドンやパリで調達したドレスや宝飾品もすっかり馴染んで、来客に西洋料理を供して接待する日々は帰国してのち、外務卿の夫とともに取り仕切る鹿鳴館の女主人に相応しい役どころとして、おのずから生きたのである。

同じ時期に明治政府が米欧に派遣した岩倉使節団の五人の女性の一人として米国のヴァッサー大学に留学した会津藩家老の娘、大山捨松のように、帰国したのちに伯爵の大山巌に嫁ぎ、語学と教養を生かして「鹿鳴館の花」として活躍した女性もいた。

戊辰戦争に敗れた家老の娘として、賊軍の名に甘んじることなく十二歳で米国へ留学した捨松は、敗者の末裔の辛酸をなめながら新天地で西洋の新しい生活と知識を貪欲に吸収した。語学や教養はもとより、近代女性としての自立した生き方を身につけて二十三歳で帰国したが、婚期を逸していたことから十八歳年上の陸軍卿、大山の後妻に入った。武子とともに「猿真似」と揶揄される鹿鳴館の夜会へ大官夫人たちを導き、舞踏を教えるという立場はその心のなかででどのように受け止められていたのだろうか。まことに欧化という時代の嵐は、このような当時の選良女性たちの生き方をも大きく揺るがせていた。

 

とはいえ、日本の近代史に鮮やかに記憶をとどめる「鹿鳴館時代」は一八七七(明治二〇)年九月、条約改正交渉の決裂とその中心にあったプロデューサーたる井上の外務大臣辞職によって幕を閉じる。

 

〈これに処するの道惟だ我が帝国及び人民を化して、恰も欧洲諸国の如く、恰も欧洲人民の如くあらしむるに在るのみ、即ちこれを切言すれば、欧洲的一新帝国を東洋の表に造出するにあるのみ〉

 

そのころ井上は閣議の席で、条約改正を目指してこのような説明をしている。まさしく鹿鳴館は「恰も欧洲人民の如くあらしむる」ための舞台であったが、井上がすすめてきた条約改正案が、領事裁判権や関税権など治外法権に等しい不平等な条項をそのままにした内容であることが明るみに出ると、国民世論は憤った。新聞や民権派はもとより、政府部内やフランス人法律顧問のボアソナードからも批判の声が上がって条約改正は無期延期の事態となり、ほどなく井上は外務大臣の職を辞した。

英国人建築家、ジョサイア・コンドルによって設計され、開場してからわずか四年の鹿鳴館はまことに束の間の「劇場」であった。条約改正の頓挫で伊藤博文内閣が崩壊し、これに代わった黒田清隆内閣のもとで新たに外務大臣となった大隈重信夫妻が翌年秋、恒例の天長節夜会を鹿鳴館で催したが、その後華族会館に身売りして役割を終えた。

「鹿鳴館の時代」の終焉を象徴するのは一八七九(明治二二)年二月十一日、黒田内閣のもとで帝国憲法が発布されるその日、英語公用語化論や積極的混血政策を論じて井上と並ぶ欧化主義の急先鋒と見られていた文相、森有礼が永田町の総理官邸の階段で国粋主義者のテロリストにより暗殺されたことであろう。

 

〈終戦後の占領時代は、ちょっと鹿鳴館時代に似ていた。堀田善衛氏の小説には、GHQと関係のあった貴婦人たちが登場するが、もっとも現代のほうは、階級の没落も伴って卑しげであって、鹿鳴館時代のように、外人に阿諛を呈しながらも、一方新興国家のエネルギーと、古い封建的矜持をふたつながらそなえていたのとは、比べものにならない〉

 

鹿鳴館から井上馨と武子が退場してちょうど八十年の歳月を経た一九五七(昭和三二)年、作家の三島由紀夫は戯曲『鹿鳴館』を書き、自らこのように背景を解説している。

もちろんあの四年間の「束の間の劇場」を舞台に、井上夫妻をモデルにした主人公を通して欧化と国粋の間に揺れる群像を描いた作品であるが、作者が企図したのはこの開化期の明治の物語をまさしく戦後の占領下の日本への暗喩として蘇らせることであった。

日本が敗戦による焼尽から立ち上がって復活と繁栄の道を歩む「戦後」という同時代へのアンビバレンス(相反感情)を、奇想に富んだ主題と華麗な文飾で描いた夥しい三島の作品のなかでも、とりわけこの戯曲では作家が戦後という時代へ重ねた反語的な問いが深い寓意となって浮き彫りにされる。戯曲『鹿鳴館』は米国の占領から脱して経済大国に変じて行く日本の戦後に寄せた作家の想念を歴史的に敷衍した物語であり、その後の人生の劇的な顛末を暗示させる、大きな伏線と読み解くことができる。

この芝居の主人公、影山悠敏伯爵と夫人の朝子が井上馨と妻の武子をモデルにしているといっても、作劇上の虚構によって実像とは異なる物語が展開する。

朝子のかつての恋人でいまは反政府派の頭目の清原永之輔が、夫の主催する鹿鳴館の夜会に自由党の残党たちを指揮して乱入するという噂があり、自分との間に生した息子の久雄がそこで夫の影山の暗殺を企てているのを押しとどめようと、朝子は秘かに清原に会って計画の中止を乞う。夫を救うためではない。息子の久雄が育んでいるいたいけな恋を成就させてやりたい、という母心からである。清原はそれを莞爾と受け止めていう。

 

〈あなたが御存じだ。そうして非難される。婦人とすれば無理のないことだ。こう仰言りたいおつもりでしょう。そんな危険ないやがらせが、一体何の足しになるのだと。又もし御主人の口吻を借りればこうでしょう。政府は日本の将来のために条約改正をいそいでおる。そのためには外国人たちに、条約改正に値いする文明開化の日本を見てもらわねばならん。コレラとテロリズムの日本ではなく、鹿鳴館の夜会を見てもらわねばならん。それに何ぞや白鉢巻の若者が抜身をふりかざして、又しても野蛮未開な日本を彼らに認識させるのか、と。―言い古されたことです。屈辱的な逃げ口上です〉

 

清原の拒絶を受けた朝子は、それまで和装を通すことで鹿鳴館の夜会への出席を拒んできた日本の女の矜持を振り棄てて、デコルテで盛装して事件の舞台となる夜会にのぞむことを決意し、それによって計画の断念を清原から取りつけた。そこで清原は再びいう。

 

〈何もかも薩長の藩閥政府になってからだめになったのです。かつてパークス公使の恫喝に屈していた時代に逆戻りしたのです。今鹿鳴館に招かれている外国人のうちで、誰が政府の期待するように、文明開化の日本を見直して尊敬していると思います。彼らはみんな腹の中で笑っているのです。あざ笑っておるのです。貴婦人方を芸妓同様に思い、あのダンスを猿の踊りだと見ています。政府の大官や貴婦人方のお追従笑いは条約改正どころか、かれらの軽侮の念を強めているだけだ。よろしいか、朝子さん。私は外国を廻って知っておるが、外国人は自尊心を持った人間、自尊心を持つ国民でなければ、決して尊敬しません〉

 

しかし、実はこの鹿鳴館への乱入計画は親子の葛藤を利用してテロルに指嗾した久雄の矛先を父親の清原に振り向けさせ、政敵を抹殺しようという、老獪な夫の影山が仕組んだ陰謀であることが、次第に明らかになってゆく。そして天長節を祝う舞踏会が酣となったころ、一発の銃声が鹿鳴館に響きわたって舞台は暗転する―。

 

〈政治の要諦はこうだ。いいかね。政治には真理というものはない。真理がないということを政治は知っておる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ〉

 

朝子が清原と結んだ愛情への嫉妬を反転させて、政敵へのテロルを仕組んだ影山はこのように嘯くのである。三島はこの芝居の本質をメロドラマと呼んでいる。なるほどこのよく出来たメロドラマは、しかし同時に鹿鳴館という日本の近代が経験した「束の間の悲喜劇」を通して、作家が託つ戦後という同時代への齟齬を造形したものでもある。

幕切れの近くで影山は朝子に問いかける。

 

〈影山 ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやってくる。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。

朝子 一寸の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません。

影山 隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。

朝子 世界にもこんないつわりのワルツはありますまい。

影山 だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。

朝子 それでこそ殿様ですわ。それでこそあなたですわ〉

 

劇団文学座の求めによって戯曲『鹿鳴館』は一九五六(昭和三一)年に発表されたが、その五年ほど前の一九五一年暮れから約六カ月にわたり、三島は初めて日本を離れて欧米への旅に出ている。新聞社の委嘱とはいっても、この時代にまだ二十七歳の青年作家が横浜からプレジデント・ウィルソン号に乗って太平洋を渡り、北米から南米、欧州各地を巡る長い旅が特別の意味を持っていたことはいうまでもない。

けれどもそれ以上に、この旅は三島にとって初めて「西洋」と直接出会い、文学などの表象を通して馴染んできたその文化の生身の肌に触れることを通して、鏡に映し出されたわが身と戦後の「日本」に向き合う、希有の経験であった。

のちに『アポロの杯』としてまとめられるこの旅行記は、その後の作家の運命を暗示するような若い精神の生き生きとした遍歴を浮き彫りにしている。

 

〈身をかがめて不味い味噌汁を啜っていると、私は身をかがめて日本のうす汚れた陋習を犬のように啜っている自分を感じた。こういう陋習のかずかずには、日本にいるあいだ、私自身可成颯爽とした反抗を試みていたつもりであったが、桑港に来て、(幸い日本人たちの目にとまらない場所ではあるが)、私はその陋習という存在に復讐され、刑罰を課せられているのである〉

 

途上のハワイで出会った移民女性で、ロサンゼルスでホテルを経営する成功者の日系二世が、真珠湾攻撃の折に「なぜ日本軍は米国本土に攻めのぼってこないのか」と訝り、その時自分は日本軍の砲弾で木っ端みじんになってもいいと思ったと述懐するのを、三島は冒頭に記している。祖国の「戦後」という現実を初めて外側から見たのである。

眷恋の地であったギリシャと愛着するハドリアヌス帝の寵児アンティノウスとの出会いに耽溺して「今日も私はつきざる酩酊の中にいる」と三島が書いた『アポロの杯』は一見、日本の青年作家が初めて直に接する欧米や南米の社会とその人々が形作る異文化とその伝統への手放しの讃歌である。しかし古代ギリシャ人の豊饒に寄せる酩酊の対極に、若い作家は竜安寺の石庭の均整を欠いた美を思い起こし、いまだ戦後の荒廃をひきずる祖国の日本が「近代」の病とともに失いつつあるものを見出してゆくのである。

この旅で三島は、戦後日本の現実に戻って自身の中の「西洋」とどのように向き合っていくのか、という問いを自覚した。帰国して二年後に書き下ろした小説『潮騒』がギリシャ神話を素材にした『ダフニスとクロエ』を下敷きにして、伊勢湾に浮かぶ美しい小島を舞台に素朴な漁師の若者と娘の神話的な恋を描いているのは、そうした文脈をたどることによってより深い理解が可能になろう。

三島は一九五九(昭和三四)年、東京・馬込に新居を構える。東京の郊外の勤め人の住まいが建ち並ぶ閑静な住宅街に、にわかに現れたこの白亜のコロニアル風の西洋館が道行く人々の目を奪ったことは言うまでもない。中庭にあの眷恋のアポロ像を置いた「ヴィクトリア王朝風のコロニアル様式」という外観と、スパニッシュ・バロックを基調とした重厚な家具調度や美術品で装飾した室内は、戦後の高度経済成長の坂道を上りつつある日本の都市空間に異彩を放った。

三島はここに内外の友人知己や文壇関係者を集めてしばしばパーティーを開いた。盛装した招客たちは前庭で食前酒を楽しみ、吹き抜けの広い応接間でワルツやタンゴのステップを踏んだ。その芝居じみた賑わいを眺めて、人はいつしか「大森鹿鳴館」と呼んだ。

 

〈私は生来、明るい地中海文化が好きで、ラテン的な色彩を愛し、さらに中南米(ラテン・アメリカ)の植民地建築に心酔して、その熱帯の色彩美とメランコリーを日本に移植しようと志し、スペイン植民地風の家を建て、その中をフランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた。/家具類は家内と二人で、足を棒にしてマドリッドの骨董屋をあさって歩き、スパニッシュ・バロックの豪宕な装飾美に熱中した。/(略)美的生活と云っても、十九世紀のデカダンのやうな、教養と官能に疲れた憂欝で病的な美的生活は、私はまっぴら御免である〉

 

この家を建てるにあたって三島が「ヴィクトリア王朝のコロニアル様式」という一風変わった、屈折した趣味を持ちだしたのに対し、設計者の鉾之原捷夫が「よく西部劇に出て来る成り上がり者のコールマンひげを生やした金持ちの悪者が住んでいるアレですか」と返すと、施主の作家は得たりとばかりに「ええ、悪者の家がいいね」と応じた。

 

吹き抜けの高い天井を持つ部屋の真っ白い壁面を、金色の額縁で飾られたバロック風の聖画が飾り、やはり金色の唐草が施された大理石の花台の上の金色の装飾時計、そして猫足のカウチなどの家具調度が互いに干渉し合いながら、この館全体の緊張を高める―。

こうした白亜の「大森鹿鳴館」の空間はもちろん三島の趣味が生み出したものであったが、同時にそれは歴史や伝統を見失いつつ経済的な大国への道を歩む日本の「戦後」へ向けて、この作家が仕組んだ大いなる挑発でもあったに違いない。

「ヴィクトリア王朝のコロニアル様式」とは本来大英帝国の植民地支配の様式だが、三島が自邸に造形したのは、クレオールのような故郷喪失者が見失った伝統文化へ寄せる郷愁的な憧れであった。その屈折を映した建築様式と内部の装飾はそれ自体が「祖国」に対するイロニックな批評であった。戯曲『鹿鳴館』に重ねて自ら構築した私的な「鹿鳴館」を通して、三島は戦後社会の空洞の大きさをそこに見出そうとしたのであろう。

 

三島はその「ヴィクトリア朝のコロニアル様式」という住まいはもちろん、食卓ではビーフステーキを何より好み、人と交わる場では常にスーツとネクタイで正装することを自らに課すという、徹底した西洋風のライフスタイルを身上とした。この作家にとって「西洋」とは何であったのか。

最後の長編小説『豊饒の海』の結びをなす『天人五衰』のなかで、老いた本多繁邦は養子に迎えた少年の安永透に洋食のテーブルマナーを教えながら、このようにいう。

 

〈「洋食の作法はくだらないことのやうだが」と本多は教へながら言った。「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。一寸ばかり育ちがいいという印象を與へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』といふことは、つまり西洋風な生活を體で知ってゐるといふだけのことなんだからね。純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。日本といふ純粋な毒は薄まって、世界中どこの國の人の口にも合ふ嗜好品になったのだ〉

 

この場面は一九七〇(昭和四五)年、つまりこの作家が戦後社会を震撼させるような自裁を遂げたその年に設定されている。それにしても、大正から昭和を生きながらえた本多のこの語りは、戯曲『鹿鳴館』の終幕近くで伯爵の影山悠敏が語って聞かせる「こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くする」という台詞に何とよく似ていることであろう。

明治の開化期に洋装で着飾った日本人が外国人相手に鹿鳴館でダンスのステップを踏むことが、昭和の高度成長期に老いた弁護士が屋敷で迎えた養子に洋食のマナーを教えることとほとんど重ね合わされて、作家のなかで欺瞞する対象であった「西洋」が次第に「日本」を飲み込んでいく、戦後という時間があらわに示される。

自決の数ヶ月前、三島が新聞へ寄稿した「果たし得てゐない約束」という、よく知られた文章がある。

 

〈私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう〉

 

その日の朝、三島由紀夫は白亜の「大森鹿鳴館」の自室で目を覚まし、身なりを整えて「楯の会」の黄暗色の制服に着替えた。午前十時過ぎに若い三人の同志が中古の乗用車で迎えにあらわれると、『天人五衰』の最終回の原稿を秘書に託して家を出た。

市ヶ谷の自裁の現場に至るまでの車中で歌った任侠映画の主題歌と、切腹というその死を除けば、全く「日本的なるもの」を身近に寄せ付けない最期であった。

                                =この項終わり

(文中敬称略、参考・引用文献等は連載完結時に記載します)

連載 ジャパネスク●JAPANESQUE かたちで読む<日本>8 柴崎信三

  • 2013年11月27日 12:29

〈日本〉をめぐる造形、時代のイコンとなった表現。その〈かたち〉にまつわる人々の足跡を探して、小さな〈昨日の物語〉を読む。

 

8 〈南蛮〉について

     池長孟の「蒐集」と天正少年遣欧使節

 

『泰西王侯騎馬図屏風』(部分)=神戸市立博物館蔵(1606-1614)

『泰西王侯騎馬図屏風』(部分)=神戸市立博物館蔵(1606-1614)

 その異形の洋館は、九十年近い歳月を経たいまもそこにある。

 新幹線の新神戸駅から東へしばらく向かった野崎通り五丁目。港から続く坂道を上った一角は異人館が点在する北野町ともほど近く、閑静な住宅地が広がっている。

 急な坂道の中腹に六甲の山並みを背景にして、神戸の港を見下ろすように建てられた「紅塵荘」は、スパニッシュ・ミッションと呼ばれる中世スペインの様式の西洋館である。

 一九二七(昭和二)年、兵庫有数の資産家で美術品の収集家として知られる池長孟によって建てられた。安土桃山時代から江戸期にかけて、西欧からやってきたキリスト教の宣教師や長崎の出島のオランダ人らから伝えられた西洋風の絵画や工芸品は「南蛮もの」「紅毛もの」と呼ばれ、大名諸侯をはじめ多くの日本人の関心を集めた。近代に入ってからは北原白秋や芥川龍之介、新村出といった文学者の間でそのエキゾチシズムが「南蛮熱」を広げた。池長もそうした時代背景の下で「南蛮美術」の収集に生涯を蕩尽した。

 海へ向かってのぞむ、神戸製鋼所の煙突が吐き出す紅色の煙から「紅塵荘」と名付けられた館は戦災や阪神大震災にも耐えて、いまは病院の施設として使われている。往時の面影は偲ぶべくもないが、池長があたためた美への憧れと夢の結晶は形を留めている。

 地上三階、地下一階の鉄筋コンクリート造りの館はまさしく、中世スペインの僧院を思わせる。黄褐色のスペイン瓦に花崗岩と装飾タイルを使った外壁が施され、アプローチには羊の彫像とテラコッタ、中庭には噴水が設えられている。

 小山安一郎が設計した建物の白い外壁は、褐色の装飾タイルが下部を蔽い、すべての窓にほどこされた重厚なスチールサッシと鋼鉄の面格子の装飾が格調を伝えている。

 延べ床面積で七百平方㍍に及ぶ内部は、東南にめぐらしたベランダと書斎、二つの洋室にダイニングとキッチン、吹き抜けのホールに離れ風の二室の日本間などからなる一階、オーケストラボックスまで備えて舞踏会の場にあてられた二、三階のホールはそれぞれ、アールヌーボーや英国風、インド、中国風の凝った内装が、いやがうえでもエキゾチックな雰囲気を立ち上げる。特注のステンドグラスや装飾金具、室内の階段の手すりの彫刻や壁面のタピスリーにいたるまで、すべてに施主の南蛮趣味が貫かれている。

 池長は昭和二年の暮れ、道楽を尽くしたこの館を完成させて家族と移り住んだ。

 

 生家は神戸の開港当時から瓦屋で財をなしている。神戸市議会の議長などを長く務めた有力者で、教育事業にも熱心だった父の通は、土地など多くの家産を抱えていた。そんな環境の下で、孟は京都帝大法学部に在籍中から文化事業に強い関心を寄せた。先駆けとなったのは孤高の植物学者、牧野富太郎が集めた十万点以上に上る厖大な植物標本が困窮で散逸の危機に瀕していたのを知り、支援を申し出てこれを買い取ったことである。これらは新たに設けた植物学研究所に保存されて国外への流出を免れた。

 一九一六(大正五)年の師走、「大阪朝日」に牧野が窮状を訴える記事が掲載されると、孟は大阪朝日の社会部長、長谷川如是閑に面会を求めた。

 

 「この標本が海外に流出するのは何としても食い止めたい。すべてを三万円(今日の貨幣価値で云えば六、七千万円に相当するだろう)で買い取り、それを改めて牧野氏に寄贈したい」

 

 牧野にはもともと金銭にけじめのない、放蕩的な体質があった。孟が援助した金は再三遊郭通いに蕩尽されたが、それでも孟は父から引き継いだ建物を植物学研究所としてそこに標本を保存し、なおこの奇矯な植物学者を生涯にわたって助け続けた。

 

その後、浮世絵などを愛好するディレッタントとなったこの「瓦屋のぼん」は見合いで所帯を持ち、父親の事業を引き継ぐ傍ら育英商業という学校の校長を務めていた一九二二(大正一一)年、思い立って友人たちと8カ月に及ぶ欧米への旅行に旅立つ。米、英、仏、伊、墺、独、白の七カ国を巡る、文字通りの漫遊の旅である。これが「南蛮美術」に目覚めるきっかけであった。ニューヨークでみた実業家、ヘンリー・フリックの欧州絵画の蒐集や、ローマで見た枢機卿、シピオーネ・ボルゲーゼのバロック美術の蒐集を目の当たりにした経験は、わが身を引き込んでゆく「蒐集」という魔と「西洋」という異郷が日本人の自分に働きかけて来るものが何であるかを考える、大きな経験であったろう。

 

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。

黒船の加比丹を、紅毛の不可思議國を、

色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、

南蠻の棧留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。

(北原白秋「邪宗門祕曲」)

 

東夷、西戎、北狄、南蛮という。列島をとりまくさまざまな異文化の奔流のなかで、「南蛮」はキリスト教の布教のため渡来した宣教師を通して西欧との接触が始まった中世から近世にかけて、日本人にとって秘めやかな憧れと甘美な夢想の対象であった。安土桃山期にポルトガルやスペインから来た宣教師たちはキリスト教の信仰とともに珍しい外国語や風俗を通して異文化の香りを運んだ。秀吉によるバテレン追放と禁教から鎖国体制に入った後も、長崎・出島という小さな窓を通して入ってくる異教の人と文物の好奇な輝きは、失われることがなかった。近代に入って与謝野鉄幹や北原白秋、芥川龍之介、木下杢太郎らの文人たちを蠱惑したのも、遙か海の彼方からこの列島に響き続けた、禁忌と殉教という悲劇を伴うこうした異国情緒の妖美な旋律にほかなるまい。

 

〈抑々の始まりは昭和二年八月十一日である。ふとした機会で大阪の内本町のべにや美術品店の前を通ったら、陳列窓に蘭船や唐船の肉筆画や、いろいろ風変わりな品が列べられてゐた。そこで店内に飛び込んで始めて『バッテラ渡海図』と『魯西亜船』の木版を見せられたのである。その時はこれが長崎版と知らずに高価だと思ひつつ買ひ取つた〉(『南蛮堂要録』)

 

池長孟は「南蛮もの」の蒐集に入れあげるきっかけを、このように記している。

神戸の山の手に蒐集の舞台ともいうべきスパニッシュ・ミッション様式の華麗な「紅塵荘」を構築したのも、そのような歴史が伝えてきた異文化の誘惑に導かれた結果である。戦時に向かう剣呑な世相に背を向けるように、作家の谷崎潤一郎や宇野千代、画家の小磯良平や詩人の竹中郁といった著名な文化人をはじめ、地元神戸の著名の士を集めて開かれたこの館の華やかな舞踏会は、その池長の「南蛮道楽」のもうひとつの表現でもあった。

一九二五(大正一四)年の師走に妻の正枝を病で失ったあと、池長は三人の子を抱えて兵庫の実家を仕切る母親のしまのもとでやもめ暮らしを続けていたが、淀川富子という女性と出会うことでこの館の建築が具体化する。池長にとって「紅塵荘」は熱をあげていた「南蛮道楽」の蒐集を収容して展示する、社交の場であったが、同時に母親が差配する兵庫の実家を離れて、迎え入れた富子とともに子どもたちと暮らす、新しい家庭でもあった。

淀川富子は戦後に映画評論家として一世を風靡した淀川長治の姉で、まだ二十歳を少し過ぎたばかりの娘であったが、芸者あがりでモダンな喫茶店を地元で経営するかたわら、神戸の社交界ではいつも話題になるような女性だった。派手好みで奇矯な性格は、孟の期待する役どころに応えるのに必ずしも相応しくなかったのかもしれない。それでも孟は富子を後添えに選び、道楽を尽くして完成させた「紅塵荘」の女主人として迎えたのである。一九二七(昭和二)年に伏見宮夫妻を招いた新築披露の招宴が盛大に開かれ、「紅塵荘」は関西の社交の舞台として知られることになる。だがその束の間の華やぎも、奔放な富子の振る舞いによってほどなく破られる。淀川長治は自伝でこう記した。

 

〈新宅に三年もかけ、この豪邸の出来上がりとほとんど同時に姉のいっぽう的な喧嘩別れというあわただしい勝手きままの別れがやってきた。三人の子供は姉になつき姉のいうがままの豪邸であったのに、姉はこの屋敷がいんきで暗いと怒り自殺未遂事件までおっぱじめ、池長氏にさんざんめいわくをかけて二人は別れたのである〉(『淀川長治自伝』)

 

「紅塵荘」という「南蛮の館」の女主人として、富子が振る舞う時間は短かった。孟の子どもと老舗の跡取りの家庭を引き受けるには、あまりにも若すぎたことに加えて、奔放で埒のない行動的な性格が「南蛮道楽」一筋に歩む孟との行き違うことは予想されたことであった。それでも離別した後まで、富子が新たに生田筋に開いた輸入骨董店の「ラール・エヴァンタイユ」への支援を、孟は惜しまなかったという。

 

〈姉はローランサン、池長氏は南蛮美術と、趣味がことごとくちがい、姉はパーティ好き、池長氏は教育家でスポーツもゴルフよりも剣道、姉はゴルフと車。車は二台持っていた。けっきょく別れたが池長氏はこれはひとときの妻の気まぐれ、再び戻るときめて巨額のいまなら何十億というべらぼうな別れ金を姉に与え、姉はこれで商売をしようと外国美術品店を思いつく〉(同)

 

富子という若い女性とこのような派手な悶着の挙句に別れた池長は、莫寂をかみしめながらこの館を飾るにふさわしい南蛮美術品の蒐集に没頭してゆくのである。

生涯で五千点以上に上る南蛮美術を蒐集した孟は、日米開戦前夜の一九四〇(昭和一五)年、手狭になった紅塵荘に替えて近くに「池長美術館」を建設してここを自らの蒐集を展示する場とした。軍靴の足音が高まる世相を低くみて、「南蛮狂い」は高じた。

戦後になってこれらの蒐集が神戸市立博物館に寄託された折、刊行された「南蛮美術総目録」に孟はこう記している。

 

〈バカげた戦争を始めた。美術館など無用の長物だ。そんな金があるなら飛行機の一台でも寄付しろという。わけの分らぬ人達が、供出のために美術倉庫の鉄扉を持ち去ろうとした。空襲の恐怖は日々に深刻だ。ようやく災禍を免れて終戦、最後は勝つ筈だったのに、敵さんが勝った。やれやれそれでも戦争はすんだと胸撫で下ろすし下から、掠奪されないかとの不安も湧く。やがて進駐軍が本館を接収し、将校クラブにした。倉庫から美術品をほおり出し、本館付属の住宅からは幾度か私ども家族四世帯をほうりだそうとした〉

 

キリシタンへの禁教と殉教という歴史がよびおこす、悲劇性に彩られた南蛮美術の美に引き込まれた孟の蒐集の出発点はもちろん、豊かな資産を抱えた一人の好事家の「道楽」であった。ところがそれはやがて、戦時体制へ向かう世相への違和感とともに「美しいもの」を蔑にしてゆく、武断の時代への異議申し立てになっていった。そしてエキゾチックの魅力に取りつかれた孟の蒐集は戦火をくぐり、敗戦と占領を生き延びた。

 

「池長コレクション」として集められた「南蛮美術」には、池長の手元を離れたのちも歴史的な資料として知られ、今日文化財として高く評価されているものが多い。

「聖フランシスコ・ザビエル像」(一七世紀前半、神戸市立博物館蔵)はキリスト教の布教と禁教、そして迫害という激しい歴史の変転を生きた、日本史のなかのザビエル像を作ったという点で重要な作品である。狩野派を示す壷印から作者はキリシタン絵師、ペドロ狩野といわれ、イエズス会を示す「IHS」の文字とともに、イエスの最初の弟子であるペテロが漁夫であったことに由来する「漁夫環人」の署名は、当時のローマ法王庁の公文書に使われた様式に従ったものとみられている。大阪・高槻のキリシタンを祖先とする旧家から見つかったというこの作品は、当時の美術界の最大のエコールであった狩野派の周辺にも、キリシタン信仰が根強く及んでいたことを示している。

 

〈沈める船 沈める船/舳を海底に横たへて/折れたる帆柱は砂に埋もれ/艪は巌にくひこんで/天草灘の底深く/永久に沈める南蛮船

羅針盤は何をさすか/海図の皮は水にゆらるるとも/船は動かず/舷側にとりつけられたる/大砲は錆びて朽ちゆく〉

 

蒐集品の図録として一九三三(昭和八)年に刊行した「邦彩蛮華大宝鑑」のなかで、池長はこんな詩を残している。鎖国体制の下、唯一の西洋への窓口となった長崎の出島などで御用絵師が描いた「長崎絵」の代表作といわれる、蒐集品の「阿蘭陀入船図」に寄せた一種の画賛であろう。遠路はるばるやってきたオランダ船のにぎわいと、人々の衣装や言葉が発する文明と異文化の香りに誘われ、その運命へ導かれるように「南蛮」と「紅毛」の美術に生涯を預けた、奇矯な蒐集家の秘めやかな情念を垣間見るようである。

 

〈よくもまあこれだけ集めたものだ。厖大とはこれを言うのだ。汗牛充棟どころではない。あるいは集まったという方が正しいかも知れない。これは神慮であって人間わざ業ではない。しかも、私一人の手で集めたのだ。思う存分、気に入れば買い、入らねばはねる。完全なワンマンだ。役所仕事や民主とやらで多人数相談に日を暮したら、とても出来る芸当ではない。一徹な私は先祖譲りの家や土地を皆売り飛ばし、借金をしとうして南蛮美術を買った。おはら庄助さんは朝寝朝酒朝風呂が大好きで、それで身上をつぶしたらしいが、私は又南蛮紅毛絵に惚れ込んでエキゾチックに浮き身をやつし、それで身代限りをした。その頃私を馬鹿扱いし、親からの財産を後生大事にした連中は、終戦後になって、私に先見の明があったという。変な具合だ〉(『神戸市立博物館収蔵南蛮美術総目録』序文)

 

このように振り返る孟の蒐集の頂点ともいうべき南蛮絵画が、現在神戸市立博物館に所蔵されている『泰西王侯騎馬図屏風』(四曲一隻)である。

安土桃山時代に渡来したイエズス会の西洋人宣教師のもとで、洋風画の技術を身に付けたセミナリオ(神学校)の日本人が描いた南蛮美術の傑作いわれる。華やかな軍装に身を固めた中世の騎士たちが、馬上で剣を振り上げて干戈をまじえる姿を、鮮やかな金箔の背景のもとに描き出した四曲の画面は、ほとんど同時代の西洋絵画と見紛う、躍動感あふれる構図の大作である。画面には西欧の同時代のマニエリスムの影響も指摘される。

渡来した西洋人宣教師の下で、西洋美術の手法を学んだ日本人の画工が描く初期洋風画と呼ばれる絵画は、美術史のなかでも慶長年間のごく短い期間にだけしかあらわれない特異な作品ジャンルで、作品もきわめて少ない。ザビエルら西洋人宣教師によって一時は少なくない諸藩の大名にも浸透したキリスト教は、一五八七(天正一五)年の豊臣秀吉によるバテレン追放令で一転して禁教とされて鎖国体制を迎えるが、この間の歴史の雲間から差し込んだ束の間の陽光のように、初めての西洋画がこの国に花開いたのである。

孟がこの作品を入手したのは、一九三二(昭和七)年の初夏であった。「長崎絵」や南蛮屏風の蒐集に熱が入っていたころで、その後数奇な来歴とともに世間に知られることになる名品を取り持ったのは、旧知であった東京の古美術研究家の高見澤忠雄である。

いま神戸市立博物館に所蔵されている、絢爛豪華なこの屏風絵が発掘されてから池長の手に渡るまでの数奇な経緯については、その間を取り持った高見澤の娘のたか子が著書の『金箔の港』のなかで詳細に追跡して記している。

発端は一九二五(大正一四)年のことである。会津松平家に伝えられてきた『泰西王侯騎馬図屏風』とよく似た洋風画の屏風絵が、山口県萩の旧家にあるという話を友人が高見澤のもとへ持ってきた。尊王攘夷運動の志士、前原一誠の末裔の一族だという。

友人が示したその屏風絵のぼやけた写真を手にして、高見澤は会津松平家に伝わってきた四曲一双の図屏風を思い起こし、即座に萩の持ち主を訪ねた。

出迎えた前原一誠の息子の未亡人とその親族が、箪笥から「家宝にしてきた」という割には無造作に巻かれた紙本の絵画を座敷に広げた。色鮮やかな軍装を風になびかせて馬上で剣を振う西洋の騎士たちの像が、金箔の背景のもとに浮かび上がる。かつて見た会津松平家の『泰西王侯騎馬図屏風』の対をなした作品であることは、疑いをいれない。

ただし、描かれた騎士たちの図像は会津松平家所蔵の作品と対照的である。こちらが騎乗した騎士が武器をかざしてわたりあう戦闘の躍動を描いているのと比べれば、会津松平家所蔵の画面は静的で、騎士たちが儀礼や演習に向かう一場面のようにも窺える。

もともと八曲の画面だった屏風絵は会津鶴ヶ城に松平家が所蔵してきたが、何らかの理由で「動」と「静」の四曲ずつに分たれた。戦後まで松平家に所蔵されていまはサントリー美術館にある「静」の四曲に比べてみても、萩の前原家が所蔵してきたこの「動」の四曲のダイナミックな構図とモデルの動きには見るものを圧倒する迫力がある。

ところが萩の前原家へ通って秘蔵の屏風絵と対面した高見澤が作品の売却を打診しても、前原一族の反応はけんもほろろであった。池長がその作品の存在を知るようになったのは、それから七年以上も経過した一九三二(昭和七)年である。送られてきた図録が縁で「騎馬図屏風」の存在を知った池長は、この「南蛮美術の花」というべき大作の買い取りを熱心に働きかけた。高見澤が当初提示していた五千円(公務員の初任給が七十五円の時代であるから現在の一千数百万円に相当する)の五倍にあたる二万五千円(同じく六千五百万円相当)を池長が示したことで前原の遺族は売却を受け入れ、ようやく幻の屏風絵は南蛮狂いで鳴り響いていた「紅塵荘主人」の手に落ちたのである。

 

それにしても、この図屏風はその制作の成り立ちから所蔵の来歴にいたるまで、多くに謎に包まれた作品である。萩の前原家を最初に訪れた時、前原の一族を代表して縁者の老人は「これは戊辰戦争で会津落城の折、長州側の先鋒だった前原が藩主松平容保の恩情を得るところとなり、屏風から自ら切り取って記念に寄贈されたものと伝えられてきた」と説明した。もともとはキリシタン大名で、織田信長に寵愛された蒲生氏鄕が近江日野城を飾る障壁画として描かせた作品といわれ、それが転封で会津の鶴ヶ城に持ち込まれたものが受け継がれてきたというのである。池長もこの来歴を疑わなかったようである。戦後になってから記した『南蛮美術総目録』にはこう記している。

 

「かくの如き秘宝が、いかにして会津若松の僻陲の城内に、長き歳月の間埋もれいたるかは、不思議に似て、不思議に非ず。そは江州日野の城主蒲生氏鄕が、城内の障壁画として朝夕愛着措かざりしを、会津への転封の砌携行せしものと推断すべきものなればなり」

 

ところがその後、その原画とされる作品の同定がすすめられた結果、当初の「蒲生氏鄕の所蔵」説は揺らいできた。

『泰西王侯騎馬図屏風』は、後年の図像学的な考証から中世の西欧カトリック国家とイスラム国家の皇帝たちがたたかう姿を描いたものと考えられている。「静」のモデルとして推定されているのはクラウディス帝とイギリス王の図の折衷とアンリ4世、アビシニア王、そしてペルシア王、「動」の四曲は神聖ローマ帝国皇帝のルドルフ2世、トルコ王、モスクワ大公、タタール大汗とみられる。

これらは当初、16世紀末のフランドルの画家のストラダヌスが描いた『古代ローマ皇帝図集』を原画として、岩絵具や金箔など固有の画材を使って日本人の画工が描いたものと考えられてきた。しかしその後の地理学者らの考証で、一六〇七年、一六一八年、一六一九年にアムステルダムで刊行されたウィレム・ブラウの銅板世界図をもとにした「王侯騎馬図」にきわめて似た図像であることが指摘され、蒲生氏鄕の没年が一五九五(慶長元)年であることから、制作年代の引き下げが迫られることとなった。

現在では氏鄕の嫡子でのちに関ヶ原の戦功で会津松平家に入り、徳川家と婚姻関係を結んでゆく蒲生秀行が、イエズス会から受けとった贈り物、という説が有力とされる。

 

同じように、この作品を描いた画工がどういう人物であったのかも大きな謎であった。イエズス会が布教のために九州や畿内の各地に設けたセミナリオ(神学校)では聖書や聖歌などの音楽、ラテン語などの言語教育などに加えて、絵画教育が施されていた。

イエズス会の巡察使、ヴァリニャーノが九州各地に設けたセミナリオで美術教育が本格化したのは、一五八三(天正一一)年に来日したジョヴァンニ・ニッコロが来日してからといわれる。一五九三(天正二一)年に長崎からローマ法王庁に宛てたイエズス会年報の報告は、長崎の島原のセミナリオで西洋画を学ぶ日本人の画工を活写している。

初めて日本から長い困難な海路を乗り越えて欧州に渡り、ローマ法王庁で法王との接見を果たした天正少年遣欧使節の四人の少年が八年の歳月を経て帰国した二年後で、すでに秀吉のキリスト教への禁令が出ていたが、セミナリオの活動は続いていたのであろう。

 

〈彼らのうちには日本の使節がローマから持ってきた立派な絵をそっくりそのまま写す者がおり、色も形も原画さながらで、神父や修道士たちもどちらがローマから持ってきた絵で、どちらが日本人の絵か見分けがつかないほどです〉(片岡千鶴子訳)

 

ここでは画工として水彩画に八人、油彩画に八人、銅版画に五人が学んでいる、と報告されている。ニッコロもその流れを継ぐ画家であったが、欧州ではバロック期へ移り変わる頃に流行したマニエリスムの影響を強く受けた美術が隆盛を極めていた。

『泰西王侯騎馬図屏風』の作者がそうであったように、セミナリオでは欧州から遥々持ち運ばれた原画を手本として、若い日本人の画工が岩絵具に膠を混ぜた顔料で描いた画面を胡麻油などでコーティングするなどして、限りなく油彩画に近い作品が描かれた。作品の多くは、布教をすすめるイエズス会が大名ら有力者に対する贈り物としたとみられる。

セミナリオの画工たちのうちの何人かは、その名前を幽かにとどめている。イエズス会報告に名前が残されているレオナルド木村は修道士となり、やがて一六一六(慶長二一)年に長崎・西坂で二十六聖人とともに福者として殉教した。『泰西王侯騎馬図屏風』の作者とも言い伝えられてきた山田右衛門作は、島原の乱で原城に立てこもって捕えられたのちに幕府側への内通者となり、のちに江戸へ出てキリシタン目明しとなったと伝えられる。

 

池長は織田信長に心酔する蒐集家であった。

生涯にわたる膨大な南蛮美術の蒐集は、遠いその時代から響いてくる刺激的で官能的な異文化の音楽を聞くことでもあったろう。

「南蛮趣味」を恣にして虜となった織田信長はもちろん、のちにキリシタン禁令で信者への弾圧と迫害に踏み切る豊臣秀吉も、南蛮文化が放つ魅力に逆らい難かった。

『泰西王侯騎馬図屏風』が描かれた同時代、セミナリオの周辺から「天正遣欧少年使節」の四人の少年が日本人キリシタンとして初めて欧州の地を踏んでローマ教皇に接見し、八年の長い旅を終えてから帰ったのは一五九一(天正一九)年の春である。

九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の使節として選ばれた伊東マンショ、千千岩ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの四人の少年たちは、長崎を旅立った時には十三歳から十五歳の少年であったが、八年にわたる欧州の旅ですでに全員が二十歳を過ぎた逞しい若者になっていた。青年へ成長する最も多感な人生の時間を、この遠い異郷への旅のなかで過ごしたのであるが、それは信仰への献身と祝福がもたらす陶酔を通して、およそ予期し得なかった世界の拡張を経験する時間であったはずである。しかし、八年の歳月を経て長い海路の果てにようやく故郷たどり着こうという矢先のマカオで、彼らを凶報が待ち受けていた。

布教の拡大による侵略を恐れた秀吉が一転してバテレン追放令を発し、厳しいキリシタン弾圧を繰り広げているというのである。祖国が自分たちを裏切ろうとしている―。

疑心暗鬼のなかの帰国であった。一行は沢山の託されたものを携えていた。

例えば京都・妙法院に所蔵されている、関白豊臣秀吉にあてた「ポルトガル国インド副王の親書」は一行が帰路にインドのゴアから託されてきた。羊皮紙に金糸で縒った房が飾られ、飾り文字の文面を煌びやかな色彩の挿画が飾っている。

 

〈至って高貴雄偉なる関白殿/地遼遠なるが為に今に及ぶまで両国間の交際存せざりしといえども、殿下の勝利及び功業の偉大、遠方に至る迄も響く殿下の声誉芳名、日本の四方の諸侯及び諸州を殿下の版図に克服せられたる次第は、貴国各地に在る伴天連等の書簡に由りて予の知れるところ……〉

 

一五九一(天正一九)年春、帰国した少年使節一行はこの国書を携えて聚楽第に秀吉とまみえた。このほかに副王からは▽広刃の剣二振▽鎧二領▽アラビア馬二頭と馬具▽拳銃二丁と短刀一振▽金飾の掛布二対▽天幕一張り―という贈り物が届けられた。

これらはキリシタン弾圧を緩和させたいカトリック側の必死の懐柔策であったが、秀吉は実利を伴う南蛮貿易の継続は認めたものの、キリスト教の禁教を覆す事はなかった。

五十四歳の秀吉はこの年、朝鮮出兵へ踏み切る。

四人の若者の庇護者だった大村と大友の二人のキリシタン大名は既に亡くなり、眼の前の秀吉は異教への厳しい弾圧者に変わろうとしている。

それでも関白は南蛮土産に上機嫌であった。

南蛮から持ち帰った音曲を披露して欲しい。

そんな求めが関白からあったのかもしれない。

 

〈四人の公子はクラヴォ、アルパ、ラウデ、ラベキーニャ(小型のヴァイオリン)を合奏し始めた。彼等はイタリアやポルトガルで十分習っていたので極めて巧みに、優雅に、かつ軽快に演奏した。(秀吉は)彼らに歌うように命じ、好奇心をもって注意深く聞いた。……彼は同じ楽器の演奏と歌を続けるよう三回も命じた〉(ルイス・フロイス『日本史』)

 

どのような旋律が奏でられたのか。

「そのころ欧州で流行していた、ジョスカン・デ・プレのシャンソン、『千千の悲しみ』ではなかったのか」

こう指摘するのは音楽史学者の皆川達夫氏である。

「スペイン王のカルロス一世がこの曲を愛して、“カンシオン・デル・エンペダロール”(皇帝の歌)のタイトルで声楽、オルガン、ヴィオール(ヴァイオリン)などで頻繁に演奏される流行の曲だった。この時代にスペイン、ポルトガルなどに長く旅をしながら音楽を身に付けた少年使節が御前で演奏する曲は、これを措いて考えにくい」

 

作家の三浦哲郎氏は遣欧少年使節を主題にした長編小説『少年讃歌』のなかで、この曲の歌詞を再現している。

 

〈そなたと別れて嘆きは深し/つれなき我の罪をば許せ/悲しみ痛みのいやまさるゆえ/短かるべしつたなきいのち〉

 

妻を亡くして寂漠を心に抱えながら、南蛮美術の蒐集の魔となっていった池長が遠く耳を澄ませて聞こうとしたのも、彼方から聞こえるこのような旋律ではなかったのか。

 

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(参考・引用文献等は連載完結時に記載します)