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新・気まぐれ読書日記 (29)  石山文也 颶風の王

  • 2015年10月20日 12:35

行きつけの大型書店で探したが見当たらなかったので尋ねたら「入荷履歴なし」だった。仕方なく取り寄せを頼むと、こんどは「版元品切れで再版待ちです」とのこと。ようやく届いたのがこの『颶風(ぐふう)の王』(河崎秋子、角川書店)である。

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仕方なく、というのは購入するなら店頭で確かめてから、というのではなく、題名のほうに興味を惹かれたから。購読紙の書評で『氷点』50周年を記念した「三浦綾子文学賞」の受賞作であることを知ったが、それ以上に颶風の二字が気になった。台風の旧字「颱風」とどう違うのかと旧字を調べるのに重宝している博文館の『辞苑』(第227版、昭和14年)を引くと「颶風=(名)螺旋状に旋転する急激な風」とそっけない。「颱風は颶風の別名とあったら堂々巡りだよ」と思いながら次に颱風。こちらは「颱風=(名)フィリッピン諸島付近に発生して支那大陸・東支那海・日本・太平洋西部等に襲来する熱帯性の颶風。盛夏から9月末にかけて襲来し、往往海難・風水害を惹起する。我が国でニ百十日・ニ百二十日として警戒されるのはこれである。タイフーン」。つまり北国特有の強風なのだ。それもあって<ようやく感>がいや増したわけです。

著者は「羊飼い」を自称する。1979年北海道東部の根室支庁別海町生まれ。札幌の大学を卒業後ニュージーランドで緬羊飼育技術を一年間学んだあと実家の牧場で緬羊を飼育、出荷している。とはいえ、まだ子羊も入れて数十頭規模、主力は乳牛中心の酪農業だそうだからチーズなど乳製品にも詳しい。著者のプロフィールをわざわざ紹介したのは「明治から平成にかけて馬と共に命をつないだ6世代の家族の物語」という本作に登場する肝心の馬は牧場では飼ったことがないと知ってちょっと意外だったからでもある。

第一章   「乱心」の時代は明治、東北の山奥、やがて峠にかかる雪道から始まる。

嗚咽が積もった雪へと滲みた。抑えきれず漏れ出した泣き声が、鼻を啜る音と混じりながら、冷えた空気へと白く吐き出されていく。青年が野で独り、そうして泣いていた。名を捨蔵という。歳は十八、ぼろを着ているがその下の肉体は骨太で、この貫禄が彼を実年齢以上に頑強に見せていた。

章の主人公、捨蔵は生まれる前に父親を亡くし、離乳が済むと生家である庄屋宅から厄介払いされるように小作農家へ里子に出された。その事情は捨蔵という名前に込められる。困窮の中で優しく養ってくれた年老いた養父母のもと、3歳のころから見よう見まねで鍬をふるい、10歳を越す頃には大人とほぼ同じ働きができた。養父母の死出を立派に見送り、早朝から夕刻まで狭い田畑に出て一心に仕事をし、時々乞われて近隣の家を手伝うだけの明け暮れ。そんなある日、仕事に行った家の土間の一角に焚きつけにするために丸められていた新聞の「開拓民募集」というひときわ大きい活字が目に止まる。北海道。開拓者。明るい未来。開墾。未開の沃野・・・「これだ、これこそが」という<確かな直観>が捨蔵を突き動かす。

心を病んで生家で暮らす母ミネは別れ際、捨蔵に「これ、持ってお行き。餞別だあ」と、ぐしゃぐしゃになった紙の塊を手渡す。捨蔵は少しずつ貯めていた貯金や餞別で隣村の農家から明三歳の堂々とした牝馬を手に入れる。かねてから惚れ込んだ栗毛がきれいに磨かれて光を放つ立派な体躯の馬はこれからの道行きの相棒となった。陸路酒田の港まで行き、そこから船であこがれの北の大地へ向う。馬の綱を引くと馬は長年一緒に働いてきたかのように従順に捨蔵の傍を歩く。間もなく峠に入ろうかという山道で、捨蔵はふと馬のために塩の包みを用意していたのを思い出す。峠越えの前に塩を舐めさせてやろうと懐に手を入れると、先ほど母親から貰った紙の束に指が当たった。そこに書かれていたのは母の、自分の過去についての記録だった。捨蔵を宿るに至った経緯と、産むまでに経験した事件、あるいは惨事の一部始終だった。父と母、それに愛馬のアオが必死で生きて果てた記録だった。母は正気と幻想の間を行き来し、そうして正気の部分で確かに捨蔵の選択を支持し、喜び、この手紙と共に送り出してくれたのだ。父の最後の言葉「生き延びれ!絶対にっ!」とともに。捨蔵は頬を濡らす涙をがしがしと拭うと「俺は、人と馬の子だ。なあ」と馬の首を撫でさする。温かい。新天地ではこの温もりがきっと俺の支えとなると歩き出す。

第二章「オヨバヌ」は戦後まもなくの昭和。かつて馬と共に北海道に渡った捨蔵は様々な苦難を経て、根室半島の南に太平洋を望む海岸線、集落から離れた海辺の地で馬を飼い、地曳網を引きながら暮らしている。来た時は30を越えたころだったが孫も3人いる。馬も、共に北海道に渡った馬の子孫ばかり16頭を育てていた。この章の主人公は捨蔵から馬飼いを叩き込まれるいちばん上の孫娘・和子で小学校の高学年になっている。

晩秋のある晩、難産の末産まれ、育てるのにもいちばん手間のかかったワカをめぐる事件が起こる。捨蔵の「まるで若様みてえだじゃ」の一言から名付けられた。懸命に世話をしてきた和子にとってもワカはいささか持て余すところがあった。暴風が近づき雨も降り始めた夕刻、放牧地でいくら呼んでもワカは現れない。和子は仕方なく他の馬を連れて家路を辿ったが食後の片付けが終わっても1頭だけが戻っていない。そこに捨蔵の雷が落ちた。

「馬は目ぇかけてやらねば人間ば信用してくんねえ。信用してくれねぇば、いざちゅう時に人間も命預けられん。分かってんのか、和子」

「時間も何も関係ねぇっ!遅いっちゅうのだら、こったら遅ぇ時間まで馬ほっぽいた自分の馬鹿さ加減ば反省しながら探しに行け!」

「俺は。俺の家は。馬に生かされたんだ。報いねばなんねえ、報いねば・・・」

背中を向けて呪文のようにつぶやく祖父の声を思い出しながら和子は深夜の森を抜けていく。「むくいねば。むくいねば・・・」

この地方で人は空と海と森とを「およばぬ」ものとして畏怖した。普段は穏やかに美しく見える風景も、天候不順などの際は何もかもが荒々しく豹変する。人の努力も及ばない。例えば荒天で海が荒れ漁師がなくなる。人がどれだけ生きんと欲しても、無慈悲に根こそぎもぎ取られていく。昭和30年の夏、それまで苛烈な風土に抗いながらも懸命に生きてきた一家と馬の平穏は無慈悲に、そして突然崩される。沖の孤島、花島でのコンブ運びに貸し出されたワカをはじめとする7頭が嵐による豪雨がもたらした大規模ながけ崩れで取り残されてしまったのだ。生計の基盤を失った一家は残った馬を売却すると母の実家のある十勝の内陸部へと旅立つ。

第三章「凱風」は平成の現代、孫の大学生ひかりたちと暮らしていた和子は突然の脳卒中で倒れる。緊急手術は無事終了したが眠り続けていた。倒れてからちょうど1週間後に、和子はようやく意識を取り戻す。付き添っていたのはたった一人、家庭教師のバイトを休んで様子を見に来たひかりだった。和子は「う、ま。うま、は・・・」、「馬ぁ、あれ、まだおるべか」とひかりには意味不明のことばをつぶやき続ける。馬と共に生き、手塩にかけた馬たちを手放さなければいけなかった和子の深層意識がその言葉を発せさせたのだが、馬とは無縁で育ったひかりにはさっぱり理解できなかったのである。

ひかりは祖母の「気がかり」を求めてふたたび根室の地へ。この章の主人公はもちろんひかりなのだが現代へのワープというか見事な転換以上に、これはひかりにつながる一家の物語であることを知っているから、ひかりとともにその旅を見届けることになる。最後の「弥終(いやはて)の島」でわれわれ読者は<颶風の王>という題名に込められた意味を知る。

ひかりの記憶と、祖母らの記憶とが境界を無くして混じり合い、やがて海風に混じって流れていく。その風はいつでも海を渡り、島の草を揺らし、あの馬の鬣(たてがみ)を揺らすだろう。望むらくはより強く。あらゆる淀みを引き飛ばし、変わらぬ意思を研ぎ続け、強く激しく吹くといい。

最後まで一気に読ませる見事な筆さばきにただただ圧倒され続けた。

ではまた

新・気まぐれ読書日記  (28)  石山文也 海を照らす光

  • 2015年10月6日 13:25

何年振りだろう、読後に「まいったな!」とつぶやいたのは。『海を照らす光』(M.L.ステッドマン、古屋美登里訳、早川書房)を閉じたときに遥か南半球の孤島に立つ灯台の光を思い浮かべた。

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舞台は第一次世界大戦が終わったばかりのオーストラリア。連合国軍の大尉として多くの犠牲者を出した西部戦線に従軍し、その功績により武功十字勲章を受けて名誉除隊となったトムはヤヌス・ロックという無人島の灯台守としての職を得た。そこはオーストラリア大陸の南西端、フランス人探検家にちなんで命名されたパルタジョウズ岬の南西沖にあり、本土からは160キロも離れたまさに絶海の孤島だった。断崖がある島の西側はアフリカ大陸まで続く広大な海、押し寄せるインド洋がここでオーストラリア南洋とぶつかる海の難所でもある。灯台は付近を航行する船に危険を知らせるため5秒おきに周囲50キロに光を放つ。「布の端にぶら下がっている取れかけのボタンのように、南極大陸にあっさりと落ちていきそうなところ」と表現されるように南は南極まで海が広がる。年4回、物資を運んでくる定期船が外界との唯一の連絡手段だった。

トムは東海岸やタスマニアの灯台で半年間にわたり臨時要員として灯台守としての生活を体験したあと定期船が出る港町パルタジョウズにやってきた。同名の岬の付け根にある小さな町だ。ヤヌス・ロックの新任灯台守は港にかかわる全業務を管理する港長(=こうちょう)の食事会に招かれるという慣例があった。ここで小学校の校長の娘イザベルに会う。昼間、港の桟橋で鷗に餌のパンをやっているのを見つけ、短い会話のあとどちらに多くの鷗が寄ってくるかを競争したが名前も聞かずに別れた娘は食事会で<初対面>を貫いた。

ところが3カ月後にやってきた定期船の船長が娘から託された手紙を持ってきた。そこには「拝啓、あなたが海に吹き飛ばされたり押し流されていないことを確かめたいと思っただけなのです。それとあまりに寂しい思いをしていないといいのですが。 イザベル」とあった。さらに、「ヤヌスでの任務が終わって別の任地へ出発する前にちょっと立ち寄ってお顔を見せて下さいね。そのときまで、鯨に食べられないよう充分に注意すること」ということばと灯台に寄りかかっている灯台守が口笛を吹いているその後ろの海に巨大な鯨が大きく口を開けて襲いかかろうとしている絵が描かれていた。ばかばかしくて愉快な絵には、返事の言葉よりも微笑みだけを伝えたかったがトムは「幸いなことに吹き飛ばされたり押し流されたりはしていません。たくさんの鯨を見ましたが、これまでのところ、私を食べようとした鯨は一頭もいません。きっと不味いからでしょう」と書き、「あなたこそそちらの鷗を(パンの餌で)太らせていることでしょう。次の任地はどこか分かりませんがお会いするのを楽しみにしています」と付け加え、船長にポストに投函してもらえるよう頼んだ。宛先を見た船長は「ちゃんと相手に届けるさ。そこを通るついでにな」とウインクした。

こうして3カ月おきに定期船が運ぶ「文通」が「恋」に発展し、やがて結婚へ。二人だけの新婚生活はトムが継続して灯台守を任されることになったヤヌス・ロックで営まれる。幸せな日々、イザベルは島を隅々まで<探検>し、入江や崖、岩、草地にことごとく名前をつけた。「楽園の池」「嵐の角」「不実の岩」「難破の浜」「のどかの湾」「トムの見張り台」「イジー(イザベルの愛称)の崖」などなど。彩色したスケッチに地名を書き込んだ地図を作った。
島の名前についてトムはイザベルに
「ヤヌスという神から1月(January)の名が取られたって知ってる?この島も1月も同じ神から名を取ったんだ。その神にはふたつの顔がある。背中と前に。ひどく醜いやつだ」
「なんの神?」
「門の守護神。いつもふたつのものを見ている。その間で引き裂かれている。1月は新しい年を前に、古い年を後ろに見ている。過去と未来を見ているんだ。この島もふたつの方向を向いている。南極と赤道とをね」

やがてイザベルは妊娠し、トムは定期船で取り寄せた育児書を贈る。イザベルは時間があるときはいつもこの本を読み、知り得た情報を矢継ぎ早にトムに伝える。夫婦の間ではこどもの名前をどうするかが楽しい話題になる。イザベルは次の定期船で両親に吉報を伝えようと楽しみにその到着を待っていた。

ところがある嵐の晩、トムが徹夜で灯台の保守にあたっている間に流産してしまう。二人目も、三人目も。そのたびに崖の手前にトムが流木で作った小さな十字架が立てられ、ハーブ園から持ってきたローズマリーの木が移植された。三人目を埋葬した数日後、やってきた定期船にもう一人、鞄を下げた人物が乗っていた。イザベルはてっきりあれほど嫌がった医師がやってきたのかと勘違いして「裏切り」と名付けた洞窟近くの草地で怒りに身を震わせていたが、それはトムが手配したピアノの調律師だった。イザベルが島に持ってきたピアノはフェルトがすりきれたのか音が出なかった。修理道具を入れたカバンが診療鞄に見えたことで起きた勘違いだった。その夜、光源のマントルを点検するトムの耳にはイザベルが演奏するバッハの曲が届いた。トムは日誌の1922年9月13日水曜日の「備考」欄に「定期便により調律師が来島。事前承認を得て」と書いた。

そして1926年4月27日早朝、奇跡が起きる。イザベルが流木で作った墓の手入れをしているとどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。幻聴かと思ったイザベルは温んだ海の中で出産をするために沿岸へと向かう鯨の群れに目をやるが、また泣き声がする。連絡を受けたトムが入り江に漂着したボートを見つけ、近くに寄ってみると座席には身動きしない若い男。舳先の隙間には女物の柔らかなラベンダー色のカーディガンに包まれて泣き続ける女の赤ん坊がいた。男は既に死んでいたが母親の姿はどこにもない。トムはすぐに無線で本土へ連絡しようとするが、イザベルの強い反対で日誌にも書かずじまいになる。

ルーシーと名付けられた赤ん坊はすくすくと育ち、クリスマス休暇を利用してイザベルの両親や縁者たちと洗礼式を迎える。久しぶりに戻った町で夫婦は驚愕の情報を耳にする。資産家の長女が親の反対を押し切って敵国だったドイツ人と結婚し、娘を産んだが祭の日に町のチンピラたちから夫がリンチを受け、連れていた娘とからくも港のボートに逃れ漕ぎ出したまま行方不明になるという事件が起きていた。娘はひたすら彼らの生存を信じ、毎日のように自宅から警察署を訪ねて往復する生活を送っているが今では誰も相手にしなくなっている。一代で財を成した親は有力な情報をくれた人物にこのあたりでは牧場3つ分にもなる3千ギニーもの懸賞金を払うことにしたがまだ何の知らせもないというのだ。

もちろんこれがルーシーと名付けられ、トムとイザベルの「実子」として成長した赤ん坊である。悩むトムとすべてを忘れることを主張するイザベルの葛藤が続く。さらに2年後、懸賞金に目がくらんだ若者によって「真実」は警察の知るところとなる。ここでは462ページもある長編のほんの入り口だけしか紹介しないが、トムの戦場体験だけでなく、癌で死の床にあった父が戦場に出した手紙があちこち転送されて届き、そこにあった住所から訪ねて知った母親の最後が明らかにされる。毒ガスにやられたり手足を失ったりしても帰還した若者が多くいる町は戦争の傷跡が癒えないままだった。戦場ではトムのすぐそばにいた多くの<真の英雄たち>、彼らはは誰一人として故郷へ帰ることはなかったし、イザベルも優しかった兄二人を戦争で失っていた。

作品の中で繰り返し描かれるのはたくさんの「ふたつのもの」である。善と悪、正と邪、光と闇、感情と理性、生と死、罪と赦し、生みの親と育ての親、後半には警察幹部や弁護士などが登場して実母のほうの「別の人生」が語られる。まさに「禍福はあざなえる縄の如し」ではあるまいか。その間で人々は揺れ動き<正しい選択>をしようと迷い苦しむ。構成も巧みだが登場人物それぞれの心の奥底までもが見事に活写される。まさに灯台のある島の名のヤヌス神がふたつの側面をもつように。

冒頭で書いた「まいったな」のつぶやきにはもうひとつ理由がある。著者のステッドマンはオーストラリアに生まれ育ち、現在はイギリスで活躍する女性法律家である。「マンなのに」は冗談だが、これが作家としてのデビュー作だという。出版されると英語圏でベストセラーになりニューヨーク・タイムズをはじめとする多くの新聞雑誌が書評に取り上げた。スピルバーグらが創立したドリームワークスが映画化権を獲得しているそうだ。理想的な撮影場所となる灯台を探すのに時間がかかったがようやく映画の撮影がスタートしたとのこと。えっ、ヤヌス・ロックは?著者ステッドマンの頭の中だけにある架空の島なのである。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (27)  石山文也 悲素

  • 2015年9月6日 16:52

「あれからもう17年になるのか」というのが最初に浮かんだ感想である。帚木蓬生の『悲素』(新潮社)は和歌山市園部地区の夏祭り会場を一瞬にして恐怖のどん底に突き落とし、死者4名、重軽症者63名を出した「和歌山毒カレー事件」をテーマにした544ページの長編ドキュメントノベルである。

『悲素』(帚木蓬生・新潮社)

『悲素』(帚木蓬生・新潮社)

事件が起きたのは平成10年(1998)7月25日土曜日の午後6時過ぎ、陽射しは弱まったものの日没にはまだ間があった。子供たちや住民が楽しみにしていたのは町内会の人たちが朝から総出で作ったカレーで、大型の寸胴鍋二つ分が用意されていた。集まった全員にカレーがようやく行き渡った頃、早くも異変が起きた。突然の吐き気に襲われ、腹をかかえてうずくまる人たち、あちこちでうめき声が上がり「早く救急車を!」と叫ぶ声が悲鳴と交錯した。

主人公の神経内科医、沢井直尚は6年半前に母校、九大衛生学教室の教授に就任した。なかでも特定化学物質と呼ばれる鉛や水銀、砒素などの金属やトルエンやメタノールなどの有機溶剤による健康被害を診断する専門医である。沢井は翌26日、日曜の朝刊で事件を知った。

夏祭りで60人食中毒
和歌山、手作りカレー原因か

小さな見出しだったものの「中毒」はまがりなりにも専門にしていたので、目が釘付けになった。症状は吐き気と腹痛。激しい嘔吐と手のしびれ、不整脈を伴った35人は入院。市保健所は集団食中毒とみて、原因食材の特定を急いでいる。

このくだりを二、三度読み返して首をかしげた。集団で中毒症状が出ているにしても、これが食中毒であるはずがない。食中毒、いわゆる食あたりでは、通常の食物の中に潜む病原菌が、食品中や体内で繁殖して毒素を出し、病気を引き起こすから経口摂食から発症までは時間を要する。いくら独特の匂いと色、味をもつカレーとはいえ、調理担当の住民が気づかないはずはない。新聞記事は「食べている最中から気分が悪くなる人もおり、会場は一時騒然となったという」と伝えていた。

報道が事実なら、何らかの毒物がカレーライスに混入したとしか考えられない。しかし「住民が集う」夏祭りの会場で、何のためにカレーの中に毒を入れなければならないのか。さまざまな薬品を使う大工場ならいざ知らず、住民総出の炊き出しのような場で、誤混入など起るはずがない。無差別のテロだろうか。特定の人物を狙った殺人だろうか。ひとりを標的にするのはむずかしいので、他の犠牲はかえりみず、犯行におよんだのだろうか。もしそうなら、冷酷無比の犯人だ。いやそもそも、混入された毒物は何なのか。疑問は堂々巡りで、また振り出しに戻る。テレビをつけっ放しにしているとはたして正午のニュースの冒頭が、カレー事件だった。内容が朝刊と異なり、混入毒物が青酸に変わっている。しかも既に4人の死者が出ているという。青酸が検出されたのは、犠牲になった人の司法解剖の結果だった。しかし混入された毒が青酸となると、食中毒以上におかしい。死人が出るほど高濃度の場合、数秒以内に意識が消失し短時間で呼吸停止する。被害者の顔も紅潮して見えるし、司法解剖に手慣れた医師であれば、容易に異変に気づくし治療法も確立している。だが、夕方のニュースでも事件を青酸カレーと言い続けた。

国内のみならず、世界の犯罪史にも前例がない事件のこれが始まりだった。主人公・沢井のモデルは巻末の「主要参考文献」のほとんどを占める九州大学医学部衛生学教室の井上尚英教授(当時、現・名誉教授)で、オウム真理教による松本サリン事件や地下鉄サリン事件の捜査にも関与したわが国では生物兵器や化学兵器の数少ない専門家である。とくに松本サリン事件では使われた毒物がサリンであり、その製造にはくわしい化学知識と大がかりな装置を使わなければできないとして、警察が当初から事情を聞いたことでマスコミが重要参考人と報道した現場近くに住む人物(=河野義行氏)ではないことを早くから言い当てていた。わが書庫にも『生物兵器と化学兵器』(中公新書)があるが、読みながらその途方もない<威力>に震えたことを思い出す。

全国紙が「青酸カレー ヒ素化合物を検出 複数毒物混入 故意、強まる」と大見出しで特報したのが8月3日。当用漢字にない「砒」は使えないため「ヒ素」となっていた。

それなら辻褄が合うと沢井は新聞などが報道した情報を整理し、砒素中毒の症例を医局の助教授らと集めていったが、犯罪に使われたケースが少ない分、治療法が確立していない。被害者は体内からの「自然排出」を待たねばならないだけに苦痛が続くのが心配された。

砒素の歴史は古い。古代ギリシャやローマ時代に登場した。それが17世紀のイタリアでは洗練した形で<秘薬>として使われ始める。表向きはシミやそばかすを取る化粧水というふれ込みの「トッファーナ水」で<ナポリの小雨>というしゃれた名前が付けられていた。買い手はもっぱら上流階級の貴婦人たちで、使用目的は化粧品としてではなく、夫を死に至らしめ、遺産を受け取りまた新たな夫を得る手段に使われた。フローベールの『ボヴァリー夫人』にも砒素の中毒症状が描かれている。参考にしたのはフランスで起きた「マリー・ラファルジュ事件」とされ、砒素の中毒学と法医学の歴史がくわしく紹介される。

若い恋人と不倫を重ねるたびに借財を重ねたボヴァリー夫人は、裁判所から差し押さえの書類が届いてうろたえる。医師である善良な夫が知れば、どんな屈辱が待ち受けているか。金策に奔走し、泣きついた元カレにも冷たく断られた夫人が選んだのは砒素による服毒自殺だった。沢井はカナダのモントリオール大学付属臨床医学研究所に留学した経験を持つ。州の公用語がフランス語で主任教授の強い勧めもあって2年間の留学生活で簡単な会話だけでなく医学論文くらいは読めるようになった。夫人の断末魔の叫びの場面を描くフローベールの精密な筆は新聞で読んだ犠牲者の「しんどい。しんどい」の声を彷彿させた。

捜査に当たる和歌山県警が学界を探し回ってようやく沢井に行きついたのは8月中旬、お盆の休み明けの17日午前9時過ぎ、大学に電話を入れたのは捜査トップの刑事部長、加藤だった。「詳細は、お会いしてから申上げます。できれば明後日19日に伺いたいのですが」。沢井はもちろん快諾した。この瞬間、沢井がこの難事件に長くかかわっていくことになる。和歌山行きに用意したのは急性砒素中毒に関する資料とフランス語の『ボヴァリー夫人』ポケット文庫版だった。

大阪空港への和歌山県警の迎えは普通車、行先は市内の小さな交番で、最初に診察を依頼されたのは意外にも事件の被害者ではなかった。交番はマスコミに気づかれないようにという隠密作戦だったが、この人物こそのちに<疑惑の夫婦>とされた白アリ駆除業者の元従業員だった。夫婦宅に居候をしていた男性は、いつものように亭主らとマージャン卓を囲むが、昼食に出されたレトルトパックの牛丼を食べて体調を壊し一週間入院した。ようやく外泊許可が出て居候宅に戻るが、こんどは主婦から勧められた中華丼で再び同じような症状になった。ところが診断は胃潰瘍で4カ月にもおよぶ入院治療が始まる。さらに手足の感覚が鈍り、しびれが出始める。指先が箱の角に触れただけで針に刺されたように痛く、感覚の鈍さはいつも手袋や靴下をはいているようで吸っているタバコを落としたのに気づかないこともあった。

こうした症状のくわしい診断書や毒物を疑った警察の供述調書以外にも男性が日付だけでなく場面や状況をくわしく記憶できるというサヴァン症候群のような特異な性格の持ち主だったことも幸いした。ダスティン・ホフマンとトム・クルーズ主演で話題になった映画『レインマン』で広く知られるようになったが、体調を壊した原因が砒素を盛られたことだとすると辻褄が合う。その裏には男性に掛けられた多額の保険金があり、主婦は元生保レディで保険の裏事情に精通していた。

そうでした。事件現場のすぐ近くに住む主婦が<疑惑の人物>として浮上すると連日のようにニュースに登場したのをあらためて思い出した。ときに笑顔を浮かべながら饒舌に自分は関係ないとくり返す小太りの主婦は、しつこく追い回すカメラマンにはホースで水をかけた。やがて「Xデーはいつ」が取りざたされ、逮捕当日の模様はテレビ各局が中継で伝え新聞各紙が号外で報じた。そんなあれこれがまるでフラッシュバックのように浮かんだ。

空港は和歌山市により近い関西国際空港に変わるが、沢井の和歌山行きは多忙なスケジュールをやりくりして続く。警察は元従業員の中に死亡例があったことや他の被害従業員、亭主までもが不審な中毒症状で入退院を重ね、そのたびに多額の保険金が支払われていることを掴む。事件の底にどす黒く流れ続ける多額保険金詐欺事件を地道に暴いていく警察と毒物鑑定、後遺症診断から捜査を支えた沢井たち医師の姿が描かれる。もちろん砒素中毒だけをとっても前例がないだけに一筋縄ではいかない。世界基準があるから余計な鑑定は必要なしと主張する科学警察研究所の副所長に憤慨した沢井が協力を降りると言い出す。あわてた県警本部が加藤刑事部長と科学警察研究所の所長らに九大まで翻意を懇願しに行かせるという緊迫の裏話も明かされる。

10月4日朝、容疑者夫婦が保険金詐取容疑で逮捕される場面、沢井の案内役として空港への送迎だけでなく毎回の診断などに付き添った和歌山東署の光山刑事が疑惑の主婦に手錠をかける。1週間後にあらためて和歌山を訪れた沢井に光山刑事が話す。
「先生は気づかれなかったと思いますが、逮捕当日、県警本部と東警察署に集まった捜査員は、全員左胸の階級章をはずしていました。上司と部下の区別をなくすためでした。先生たちと違って、自分たちの科学的知識はゼロです。砒素についての知識は、上司も部下も区別ありません。そこで、上下関係なく、知恵と意見を出し合おうということになったのです。縁もゆかりもない九大の先生方が、ここまで私どもに協力して下さる。そして過去の事例がすべて砒素に関係していると突き止めて下さったので、確信が持てたのです」

物語の終盤、この光山刑事が自ら希望して地区を担当する交番勤務となり、カレー事件で命を落とした四人の遺族宅だけでなく後遺症を心配しながら暮らす被害者に寄り添っていくことを決意したことが紹介される。タイトルの『悲素』は砒素からの造語であるが、被害者だけでなく、かけがえのない家族を失った遺族の心の底に長くとどまり続ける悲しみは容易に排出されない砒素という毒に似ていると言えまいか。

最高裁は平成21年(2009)4月21日にこの作品では小林真由美としている林眞須美被告の上告を棄却した。被告の犯人性は、カレー内の砒素と、被告の自宅から発見された砒素の組成上の同一性、被告の頭髪に付着した砒素、夏祭り当日において鍋の蓋を開ける不審な行動から、犯行は被告によってなされたと考える他ないと結論。そのうえで、犯行動機の解明自体は、犯人特定を何ら左右しないとした。さらに量刑の妥当性も事件がカレー毒物混入のみならず、保険金詐欺のための長年にわたる度重なる殺人未遂、何ら落ち度もない犠牲者4人の無念さ、生死の境をさまよった多数の重症者、そしてなおも後遺症に苦しむ被害者、社会に与えた衝撃の甚大さにまったく反省がなく、かつ遺族や被害者への慰藉の措置を一切講じていない卑劣さは、死刑の科刑以外あり得ないと結論した。この判決は裁判長以下、五人の裁判官全員の全員一致の意見だった。

作品はあくまで実際に起きた事件を素材にしたドキュメントノベルである。さらに著者の帚木蓬生は現職の精神科医でもあり、専門分野のギャンブルなど「依存症という精神疾患」についての多くの著書を持つ。それだけに一審二審三審と揃い踏みのように被告の犯行動機の解明まで行きつけなかった理由を、カレー事件だけに眼目を置き、過去の殺人や殺人未遂を軽視し有機的に連関して考察しないという初歩的な誤謬を犯したからである。あくまでひとりの人間が犯した罪を、人為的に切り離して考えるなど、一般常識からも逸脱していると厳しく指弾する。

では、著者が作中の小林真由美の犯行の動機として「見立てた」のは何であったか。
毒を手にした人間は、知らず知らずのうちに万能感を獲得する。万能感とともに神の座に昇りつめた錯覚に陥る。こうなると、毒の使用はもはや一回ではやめられない。こうして毒の行使がまた次の行為を呼ぶという、やめられない嗜癖の病態に達する。毒を盛る行為自体が目的化して自走状態に陥るのである。カレー事件の当日、真由美は自宅で麻雀大会を開き、夫とその仲間たちを夏祭りのカレーによって一網打尽にしようとした。最後の補強として彼らにかけた数種類の保険のいくつかは災害時にも支払われる期間一年の傷害保険だった。夏祭りの会場からカレーを運んで自宅で提供すれば、自分の犯行とは分からない。これまで13年間にわたって重ねてきた犯行はいっさい露見していないので、絶対の自信があった。ところが前日になって人数が揃わず麻雀大会が開けなくなる。それでも夫だけは殺害できる。当日朝、夫の気持ちが変わり、行先がカラオケ喫茶に変わったにもかかわらず砒素の投入が止められなかったのは彼女が強い嗜癖病態に抗えなかったからである、と。

派手な生活を支えてきた保険金は「やめられない毒」でもあった。いずれの「毒」も真由美の心を闇の世界に引きずり込んでいた。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (26)  石山文也 新訳 説教節

  • 2015年8月29日 23:37

題名そのままに、この本を著者による<新訳>である、と書きかけて、それはちょっと違うなと思い直したことをまず告白しておく。『新訳 説教節』(平凡社)は「苦の多い人生を送ってきました」という詩人で作家の伊藤比呂美が、それぞれの登場人物が背負う「苦」と、自身の人生でのそれとを重ね合わせながら<訳出した>ものであることがさまざまなところに感じられるからでもある。それは「説教節には惚れ抜いてまいりました」という著者の「ライフワーク、ここに結実!」と帯にあることの証左でもある。

『新訳 説教節』(伊藤比呂美・平凡社)

『新訳 説教節』(伊藤比呂美・平凡社)

説教節は江戸時代初めの1600年前後にいちばん隆盛をみた口承文芸、つまり「語りの文芸」である。文字を読めない人たちにもわかりやすく勧善懲悪にまつわる神仏の功徳などを語り尽す。担い手となったのは諸国の村々を巡り歩いた人々。熊野三社の霊験を説きながらお札を配った「熊野聖(ひじり)」や、社寺の制約から離れた旅の僧である「六部(=六十六部)」、やがて専門の集団になっていく「説教節語り」、盲目の女旅芸人「瞽女(ごぜ)」、あるいは「人形芝居語り」たちがさまざまに伝えてきた。それぞれの場面効果を上げるために使われたのはささらや琵琶、近代になってからは三味線なども加わり、能や歌舞伎、文楽、浄瑠璃にも取り入れられた。語りの現場がどんなものだったのかをイメージしてもらおうと装丁の菊地信義は「見返し」に女性漫画家・一ノ関圭の挿画を配した。東京芸大で油絵を学び、江戸・明治を舞台に歴史に翻弄される民衆を描き続ける骨太な作品で知られる。

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説教節のなかでも『小栗判官』『しんとく丸』『山椒太夫』は代表作品とされ、『小栗判官』は梅原猛作の新作歌舞伎が大きな話題になった。『山椒太夫』といえば何と言っても森鷗外が素材にして創作した同名作品を思い浮かべる方も多いだろう。では伊藤はどう挑んだのか、であるが、語り物に特有のくどい表現をていねいに追いながらも変化させるという工夫を忘れない。『山椒太夫』では、何回となく繰り返される残酷場面も「ああ、いたわしいことでございます」と重ねながら、時には「ああ、いたわしくてなりません」とか「ああ、哀れでした」と使い分けるところにリズム感が生まれる。
姉の安寿姫と弟の厨子王丸との永遠の別れとなるシーン。

谷の清水を酒にして、柏の葉を杯にして、まず姉さまが一つ飲み、それから厨子王どのに杯を差して言いました。
「お守りの地蔵菩薩さまも、今はあんたにあげる。
逃げるときにも短気はだめよ。短気があると未練になるから。
行った先に里があったら、お寺を探してそこに行くの。
そしてお坊さんに頼るのよ。
お坊さまならきっと助けてくださる。
さあ、もう行って。早く行って。
あんたを見てると、あたしの心が乱れるわ。
ねえ、よく聞いて、厨子王丸。
今日みたいな薄雪の降るときは、
草鞋(わらじ)の後先を逆に履くのよ。
右についてる杖を左でつくのよ。
上りのときでも下りに見える。
下りのときでも上りに見える。
さあ、もう行って。早く行って」
それじゃ姉さま、それじゃ厨子王丸と、くり返しくり返す暇乞い。かりそめの別れと思っていましたが、永(とわ)の別れとなりました。ああ、いたわしいことでございます。

姉、安寿姫のわざとらしい蓮っ葉な物言いが、気弱な弟、厨子王丸に<決心する勇気>を与える。

「結婚は何回もしましたし、男の苦労も、子の苦労もさんざっぱら。支払日は通帳かかえて右往左往していますし、ここ数十年は他国に流離し、ビザの苦労にことばの苦労、老いた親を看取る苦労もありまして・・・」(「わたしの説教節」)

そうした日常のなかで説教節のちょっとしたフレーズが著者を励ましてきた。それが日々の暮らしの些細な危機の折々に、ふと口の端をついて出てくる。

たとえば「心は二つ、身は一つ」。
男と自分、娘と自分、父親と自分、父親と家族、男と家族・・・今までに、空港で、あるいは家の戸口で、なんど口ずさんできたことか。
それから「えいさらえい」。
常用する「よいしょ」より明るく、ほがらかで、青空の下を風が吹きわたるようで、にっちもさっちもいかなくなった自分を押し動かしてくれるような気がして、口ずさんできました。(「同」)

「えいさらえい」は、私の連想では「よっこらしょ」くらいだろうか。『小栗判官』ではいったんは地獄に堕ちた小栗が閻魔大王のはからいで地上に戻るが「餓鬼阿弥」という異形の病者になっている。それを車に乗せた人々が「一引き引けば、千僧供養。二引き引けば万僧供養」と唱えながら「えいさらえい」と掛け声をあげる。車が進んでいく先々で入れ替わり立ち替わり引く人が発する同じ掛け声は、聴衆も知る街道名所や地名などが次々にあげられる道行(みちゆき)では演者の名調子が聴衆に乗り移り、あたかも小栗を乗せた車を共に引いている気持にさせたはず。あえて訳さずにそのまま「えいさらえい」を重ねることで臨場感を超えて、いにしえの演者たちとの<交感>が生まれる。

『しんとく丸』では病者になり果てたしんとく丸を、それでも忘れられない乙姫が「御供申さぬものならば、なにしにこれまで参るべしと、しんとく取って肩に掛け、町家に出でさせたまえば」というシーン。著者はこう訳す。

「お供をしないつもりなら、わたくしが、どうしてここまで参りましょう」
そしてしんとく丸を抱え上げ、自分の肩に寄りかからせて、一歩、一歩を、町の方に歩き出して行きました。

「しんとく取って肩に掛け」は一人で危機に立ち向かわなくちゃいけない、誰にも頼れない、むしろ親も子も男も何もかも引きずって行かなきゃならないとき、このフレーズを口ずさんで、その都度立ち上がりました。そうなんです、説教節の女たちは、みんなわたしだった。説教節のお話もキャラも、荒唐無稽なのにもかかわらず、受け取り手が自分の人生に普遍的に引きつけてしまう力がそこにある。(「同」)

それほど気に入っているということが、偶然、カバーを取って見つけた表紙の大きな活字だったので紹介しておこう。

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人があっけなく死んだ時代、最下層に生きる人々にとって生きること自体が苦しみだった。それは現代のわれわれの想像を絶する過酷なもの。運命や別れを受け入れるということは神仏に頼る、まかせるという心とともに人々のせつない知恵であり、説教節の根底にある癒しだった、という著者は、彼らが手に汗を握りながら、ときに笑いながら、あるいは心を揺さぶられて泣きながら聴き入るなかで「しんとく取って肩に掛け」と表現される、心根までも強くたくましい女性に自分を重ねながら、ときにはなりきって、拍手喝采を贈ったのではあるまいか。
ではまた

新・気まぐれ読書日記(25) 石山文也 老骨の悠々閑々

  • 2015年7月30日 00:41

「本屋へ出かけると買うつもりのなかった本をつい買ってしまう、それも魅力のうち」と広告クリエーターで東京・下北沢に本屋を開業した嶋浩一郎さんが書いていた。私の場合<ささやかな小遣いと相談>ではあるが、つい、どころか、ついつい買ってしまう。これもそんな一冊である。著者に失礼な!そんなことはありません。著者にとって「本が売れる」のはなにより大事なことですから。

『老骨の悠々閑々』(半藤一利・ポプラ社)

あらためて著者を紹介する必要もないかもしれないが、文藝春秋で『週刊文春』や『文藝春秋』などの編集長、出版局長、専務を歴任、在職中に手がけた『日本のいちばん長い日』や『ノモンハンの夏』、『昭和史』など近現代史を中心に多くの著書がある。本にも登場する末利子(まりこ)夫人が夏目漱石の孫という関係もあって『漱石先生ぞな、もし』などの「漱石もの」や、子供時代からの相撲通だけに大相撲用語辞典の『大相撲こてんごてん』というのもある。帯にある通り85歳。自由闊達。円熟無碍。「おおいに健在の老骨」には違いない。

まずは「老いにホレるっ!」という帯の左、黒猫が示す「必見!」の円内にある「単行本未収録作品+秘蔵の版画集」に注目いただきたい。そう、この「黒猫」も、タイトル下の「天女」も自ら彫刻刀や画筆をとった。ひょっとしたら題字もそうかも。

「なんでまた木版画を?と驚く人もあろうが、頭の中の動きというものは奇妙不可思議なもので、文字との格闘と、絵を彫る力仕事とは、まったく別の働きをするものらしく、疲労が倍加するどころか、結構なレクリエーションになる。それで、いつの間にか木版画が何十点、それにいたずら描きみたいなスケッチがそれこそ山のように貯まった。要は、人間や人生についての見聞を<フム、これはなかなかの名画だぞ>と妄信して描いたものが残ることになったのである」(はじめに)

でも「黒猫」と「天女」くらいでは納得いただけないかもしれないので、私もそのレベルの高さに思わず唸った「砂漠の詩」シリーズの版画を紹介する。東京・青山にあった行きつけのスナックの開店8周年に常連客が開いた「大展覧会」用に制作したという。店名の「羊舎」から羊をテーマにしたのは、初めての中国旅行で敦煌へ行ったとき、ゴビの砂漠で受けた印象が強烈で、唐の詩人、王翰(おうかん)の「辺塞の歌」がすっかり気に入り、羊とアレンジしたのだという。

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葡萄の美酒 夜光の杯
飲まんと欲して 琵琶 馬上に催す
酔うて沙場(さじょう)に臥すとも
君 笑うことなかれ
古来征戦 幾人か回(かえ)る

これを井伏鱒二氏の「サヨナラダケガ人生ダ」式に、我流に訳してみると――

越ノ寒梅 ナミナミツゲヨ
ドンチャン騒ギダ 三味カキナラセ
笑ッテクレルナ 無頼ナオレヲ
ドウセコノ世ハ シャクノタネ

「マリリン・モンロー」(老骨の手習い)は、自装の表紙ですっかり落ち込んだ話だ。

旧制中学時代のクラスメイト荒川博君と共著で出した『風・船のじてん』(蒼洋社)の表紙に使った画がこのマリリン・モンロー。この本、中身は気に入っているのだが、どうしてこんなにと首をかしげたくなるほど売れなくて、参った参った。きっと著者自装の表紙が悪かったからであろうと、気を滅入らせている。
「オレに任せろ」と大口を叩いたくせに、何だよ、この絵は・・・と荒川君も大ボヤキにボヤいた。「お前、たしかにこのモンローの出演した映画を観て、この地下鉄の風に吹きあげられたスカートの場面を確認したのか」ともガミガミやられた。題名は『七年目の浮気』であることは間違いないが、正直な話、観たような観ないようなおぼろげな記憶しかない。でも、映画のスチールにはこの風でまくれあがったスカートのシーンがあって、一世を風靡したことは確かである。

ここまで書いてこの『風・船のじてん』をたまたま持っているのを思い出した。趣味のシーカヤック遠征用資料として手に入れた。せっかくなのでカットより表紙の現物のほうを紹介する。もっとも私が購入したのは、この表紙からではなく中身からだから誤解のないように!

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マリリン・モンローのあの名場面を表紙に使うという発想は、なかなか面白いと思われませんか。このあと改訂版として出された『風の名前 風の四季』(平凡社新書・2001)は項目が増やされた分、カットの半藤作品の木版画や切り絵はすべて割愛されている。こちらも「現物」で確認済みなのは、著者と同じく「<風が吹かば風吹くままに>という生き方を無上の心得としている」ゆえ。

漱石の『草枕』を「漱石先生の愛する<長閑な>気分で書いた」という「ことば散歩」は熊本日日新聞に50回連載した人気エッセイだが、最終回の「がんがらがんだから・・・」を再録する。

漱石は『草枕』という小説で芸のかぎり・学のかぎりをつくしている。とてもかなわない。しかし著者が、読者はこの小説を開いてどこでもいいから読んでいい気分になればいい、と言っているから、わからぬところはすっ飛ばして、愉快な気持ちで好むところを開いて、声をだして読むといい。
最終回にあげた床屋の親方のこの啖呵じゃないが、わが「ことば散歩」はいろいろ偉そうに書いてきたが、中身は「がんがらがん」である。これは「がらんどう」からきている。漢字で書けば伽藍堂。大きな建物を大伽藍というが、もとの梵語の意では、伽藍とは楽しむ場所、休む場所であるそうな。
この章が、皆さんの楽しむ場所であったかな、と思いつつ、筆を擱(お)く。

最後は「うちのカミさん」(スケッチ帖から)

数から言えば、他のものを圧して、カミさんを描いた絵がいちばん多くあるかもしれない。まずは年賀状で最初のころは木版画を彫って皆さんに送り届けたのであるが、その後はイラストになり、とにかくいろいろと二人そろっている絵を描いた。
(中略)
ここには数が多すぎるので、2003年の年賀状の妙ちくりんな絵にした。

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なお、念のために書いておくが、片々たるものを含めて、どの絵もカミさんの顔の表情だけは、とくに強調しておくが、すべてカミさん自身の手によるものである。わたくしはいっさいタッチしていない。女とは、面容を大切にするのであります。

「今は老齢にほれている。老骨、おおいに健在!ボケているのではありませんぞ!」
という帯の文句を最後に引きながら。
ではまた