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新・気まぐれ読書日記 (44) 石山文也 昭和十八年幻の箱根駅伝(その1)

  • 2017年2月9日 14:41

通算93回目となる今年の箱根駅伝は青山学院大学が圧倒的な走りで戦後初、3年連続の完全優勝を飾った。往路復路とも沿道に多くの応援の観衆を集め、常に「伝統の」を冠して紹介される大会も太平洋戦争の直前、軍部の圧力により昭和15年の第21回大会でいったん中止に追い込まれた。しかし、学徒動員で死ぬ前にもう一度箱根を走りたいという学生たちの強い願いは「戦勝祈願」という名目で開催に漕ぎつけた。それが昭和18年1月の「紀元二千六百三年靖国神社・箱根神社往復関東学徒鍛錬継争大会」である。永く「幻の大会」と言われてきたがのちに第22回と認知された。その全貌をノンフィクション作家の澤宮優が『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)で明らかにした。青学はこの大会が初参加。「ゴールは靖国、そして戦地へ」のサブタイトルが選手たちのその後の運命を暗示する。

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

『昭和十八年 幻の箱根駅伝』(河出書房新社刊)

箱根駅伝は<日本マラソンの父>と呼ばれる熊本県玉名郡出身で、ストックホルムなど3度のオリンピックにマラソンランナーとして出場した金栗四三(1891-1983)が中心になって創設した。第1回大会は大正9年2月14日、15日に開催された。主催は報知新聞社で、早稲田大学、慶應大学、明治大学、東京高等師範(のちの東京文理大学、現・筑波大学)の4校が参加したので名称は「四大学専門学校対抗駅伝競走」だった。

当時はまだマラソンという言葉はなく「葦駄天」が通用語だったことでもわかるように各校とも長距離選手は少なくメンバー確保に苦労した。なかには日比谷交差点で警備を担当していた警察官が箱根を走りたい一心で警察を退職して受験、見事選手になったエピソードや、脚力自慢の人力車夫を替え玉参加させたのが発覚するなどの珍事も紹介している。なぜバレたかというと前の選手を追い抜くたびに「あらよっと」と声を出したからというのが笑わせる。年を追うごとに参加校も増え、昭和9年には13校になって応援合戦も盛んになっていく。いつしか箱根駅伝は正月の風物詩となり、今日の流行語・山の神の元祖として昭和11年のベルリンオリンピック1万メートル代表に選ばれた日大の鈴木房茂のようなスター選手も現れた。箱根の温泉街は年末年始と駅伝で「正月が2度来る」とか小田原では「駅伝が通らなければ正月が来ない」とまで言われたという。

一方で箱根駅伝にも戦時体制の影が近づいてきた。昭和12年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発、翌13年にはさまざまな組織を戦時体制に動員させる国民精神総動員法が施行され、14年には国民徴用令で軍需産業への徴用が始まった。15年1月の第21回大会は行われたが、夏に予定されていた東京オリンピックも中止になった。9月、日独伊三国軍事同盟締結、10月には大政翼賛会が発足して政党政治は無力化、戦争に向かっての挙国一致の国家体制が作られていく。16年の大会が中止に追い込まれたのも東海道と箱根路での軍事利用を優先したためだった。箱根駅伝に向けて物資の乏しいなかで連日の苦しい練習を積んできた各校は代替レースとしてこの年1月と11月の2回、東京・明治神宮と青梅・熊野神社を往復する「青梅駅伝」を開催した。学生たちは「青梅を走っても心は箱根」ではあったものの12月、ついに太平洋戦争が始まった。

行きつけの大型書店の「新刊コーナー」でこの本を見つけたのは発売直後の10月だったと記憶している。他にも何冊か購入したので、いつものことながら「まえがき」を読んだだけで「正月の箱根駅伝までには読了しよう」とベッドわきの書棚に積んでおいた。それが災いしたのですね。毎年正月恒例となっている箱根駅伝のTV中継を観戦して何か忘れ物をしているような気がして・・・それでこの本を思い出したという次第。もちろん当時と現在では道路事情も違えば沿道の風景もまったく異なる。それでもコースのポイントや湘南の海、函嶺箱根山、芦ノ湖、富士山などは同じだと思えば<タイムスリップした気分>で読み進めることができた。この連載を読んでいただく方は先刻ご承知だろうが、あくまで「読書日記」ですから。こうした余計なことも書いてしまう。

青学OBでもある澤宮は学生たちがどうやって軍部を説得していったかを詳細に追う。政府中枢や軍部などの先輩、縁戚の縁を辿って何度も跳ね返されながらも突破口と妥協点を見つけ出したのが冒頭に紹介した「戦勝祈願名目」での開催だった。ほぼ正式にめどが立ったのは前年の17年10月だった。

そこから各校は選手集めに奔走するが、「箱根をもう一度走りたい」と熱望していた箱根や青梅駅伝の経験のある選手の多くは2度の繰り上げ卒業で出征しているから短距離、中距離、あるいは投擲やハードルの選手を総動員し、はたまた足に自信があると聞けば一般学生にまで声をかけた学校もあった。それでも常連校の明治、日本歯科、東洋などは選手、補欠の計11人が集められず参加を断念した。物資も不足するなか、時局を反映して伴走は自動車一台になった。しかもガソリン不足のため、多くは山登りの5区に回され、平地ではもっぱら自転車が使われた。資金不足も深刻で、経営難に陥っていた報知新聞は読売新聞に吸収合併されていたから、事務局員の学生たちは唯一資金の出そうな読売本社に日参して朝から晩まで座り込んだ。態度が硬かった新聞社側も彼らの熱意に打たれ、ついに資金提供してくれた。実際にお金が支払われたのは大みそかで、すでに除夜の鐘が鳴っていた。このときは参加校の各マネージャーも隣の部屋に控えていたから配られたお金を持って喜び勇んで各校の合宿所まで急いで戻った。復活した箱根はわずか4日後に迫っていた。

関東学徒鍛錬継争大会当日の昭和18年1月5日(火)朝は見事に晴れあがった。まだ寒かったが、じきに駅伝にふさわしい日和となるだろうと予感させた。大会参加の11校を50音順で紹介すると青山学院専門部(現・青山学院大学)、慶應義塾大学、専修大学、拓殖大学、中央大学、東京農業大学、東京文理科大学(現・筑波大学)、日本大学、法政大学、立教大学、早稲田大学で、選手不足で出場がかなわなかった明治大学の選手も計時員をつとめることになった。午前8時のスタートだったが選手たちは7時には集まって準備運動に余念がない。何より関係者が驚いたのは参加大学の校友、教職員、陸上部のOBたちが靖国神社に大挙して集まったことである。人々にとって年頭を飾る箱根駅伝が2年ぶりに行われるとあって居ても立ってもおられず駆けつけたことで神社前の広場は立錐の余地もないほど応援の人垣で埋まった。一区の選手たちは他の部員に守られ、霜の降りた道をゆっくり走り、体をほぐす。校友たちが選手の手を強く握りしめ「頼むぞ」と声をかける。

7時半になると1区の選手全員と大会役員、関係者が靖国神社に参拝して戦勝を祈願して結団式を行った。参拝が終わると選手は体にまっとった厚着の服を脱いでユニフォーム姿になった。選手たちに各校のスクールカラーの襷が右肩からかけられるとそれぞれがゆっくりとスタート地点である大鳥居に向かい、身体を震わせながらスタートラインで待つ。8時ちょうど、大会会長が大きな声で「ヨーイ、ゴー」、同時に右手を上げた瞬間、選手たちは一斉に飛び出した。

(以下続く)

新・気まぐれ読書日記 (43) 石山文也  酔眼日記

  • 2016年11月1日 00:52

<緑陰読書>にちょうど良さそうと購入したが、ヒマな日に限って雨。キャンプのお誘いもこないうちに読了した。本山賢司の『酔眼日記』(東京書籍)は建設業界誌などに寄稿した約100作を一冊にまとめた。「旅と酒」なら当方も負けはしないだろうが、遠征も含めてあくまで遊び=自腹だから帯にあるように「あっちこっちで酒のんで、文とスケッチ」がシゴトというのはホント、うらやましい。

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

本山賢司著『酔眼日記』(東京書籍刊)

著者の本山は私が<アウトドア・野遊び系>と勝手に名付けているイラストレーターのひとり。書庫を探すとデビュー作の画文集『海流に乗って―僕と九つの島』(山と渓谷社、1987)が見つかった。他にもあるだろうがこれだけでいい。『「宝島」探訪記』を読んでいるうち、「そういえば」と思い出したからである。「宝島」は鹿児島県の屋久島と奄美大島の間に連なるトカラ列島のひとつで、北から口之島、中之島、諏訪瀬島、悪石島、小宝島、宝島、横当島と並んでいる。この7島が住民の住む有人島で、残りの無人島3島を含めて十島(としま)村といい鹿児島市内に村役場がある。

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なぜ詳しいかというと私も宝島に行きたいと資料を集めたもののどうしても休みが取れず断念したから。島に渡るには鹿児島と奄美大島の名瀬間を結ぶフェリー「としま」しかない。鹿児島を出るとそれぞれの有人島に寄港しながら名瀬へ。名瀬からは同じように折り返す。もちろん鹿児島と奄美大島には空路があるがフェリーに乗り継ぐには運航日の確認だけでなく、空港から港までのアクセスにも気を配る必要がある。いまは週2便だが当時はたしか週1便だけで、海が荒れたら欠航し、島まで行っても入港できずに通過することもあるからスケジュールによほど余裕がなければとんでもないことになる。『海流に乗って』では運航日の変更などトラブルに見舞われたと紹介しているが今回はすんなり渡れたようだ。

島には新しい住人がいた。大物釣り師のKと、画家のKの両氏だ。かって泊った坂本さんの離れは廃屋になっていたがオバさんは元気だった。むろん僕のことは覚えていない。小柄なオバさんはプロレス好きで、テレビを見ながら「この野郎!殺(や)っちまえ、そこだ」と大声で怒鳴る。ふだんは大人しい人で、毎日おいしい料理を作ってくれた。大物釣り師のKはザルの飲み助で、毎晩ふたりで「さつま白波」をあびるように飲んだ。

そのKから「すっかり禿げてしまったが島の娘と結婚した」と便りがあった。手紙と一緒に、トビウオの干物や、島の野生のミカン、今や名物になった落花生を送ってくれた。甘味が苦手なのを知っていて、黒砂糖も荷に入れてくれた。「今年あたりか来年か、はたまたいつになるかはわからないが、三度目の宝島行きを考えている。そんな計画が頭に棲みつくと、旅の虫が騒ぎだす。あの亜熱帯の島が懐かしい」とある。なぜか画家のKのことは何も書かれていないが、あこがれの島へシゴトとはいえ何度も行けるというのはいいですなあ。

『下山家宣言』は、山の雑誌からの原稿依頼を「登山はしないので」と断ろうとしたが断れずに「下山家第一号」を宣言したオハナシ。下山に開眼したのは富士山という。登山口の五合目まで早朝新宿発の富士急行バスで行って、ひたすら下山する。高尾山は頂上まではケーブルカー。それから参道脇の道を下山する。どんな手段を取っても登らずに下るだけ。これが下山の条件。ありそうだがなかなかないと。たしかに、下りといっても多少の凹凸はあるだろうし。

おもしろかったのは『大岩の真実』だ。山梨と静岡の県境を流れる佐野川上流部で渓流釣りのエキスパートの友人が見つけたという<謎の大岩>に心を動かされてその友人を引っぱり出して探索に出かける。

富士宮市の浅間神社を横手に身延線と合流、南へ5キロほど下り、富士川沿いに北へ。県境を超えると山梨で、ここで佐野川が富士川と合流している。井出から佐野川の上流を目指す。ダム湖の天子湖をやりすごし、さらに上流へ向う。岸辺にしげるマタタビの葉の一部が白化し、木漏れ日を浴びて輝く。梅雨入り前のぐずついた空模様。太陽が雲間にかくれて、道路が意味ありげに陰る。と、その大岩が忽然と姿を現した。全体はひしゃげた五角形。一部が岸にかかり、片側は流れにえぐられている。流れは清冽で、苔むした巨岩があちこちの岸にゴロリと寝転がっている。大岩の中心には太陽らしきものが描かれ、プリミティブな線が表面をのたくっている。

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あたりは緑が濃く、空気がねっとりと重い。天候のせいか、不気味な気配がしないでもない。スケッチをすませ、大きさの目安になるように岩に乗って証拠写真を撮った。帰り道、川下の無人だと思っていた店先で、オバさんがムシロを敷いて赤ジソの葉を取る作業をしていた。昭和16年創業のタバコ屋のオバさんに大岩のことをたずねてみたら・・・。

著者が50年来、続けてきた居酒屋とバー通いは、焼酎のホッピー割りでスタート。おおよそ1時間で神輿をあげ、仕上げは50.5度の七面鳥のレッテルの酒をストレートでダブルというのがお決まりのコースという。「酩酊はしない。鼻歌のひとつやふたつ出るぐらいに飲んだ翌日、宿酔いにはならないが妙に涙目になり、うるうるする。これを酔眼というのである」とわざわざ「追記」に書いている。

「50.5度の七面鳥のレッテルの酒」といえば<バーボンの王道>と言われるアメリカ、ケンタッキーを代表するワイルド・ターキーですな、サントリーの巨額買収で話題になった。今夜も著者のいう獣道をいそいそと辿り、どこかの店の片隅で飲っているかな。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (42) 石山文也  オライオン飛行

  • 2016年10月13日 17:57

どんな風の吹き回し?と言われるかもしれないが、久しぶりに恋愛小説を紹介しよう。あれ、苦手ジャンルじゃなかったの?と問われれば、読むのはいいけどここに書くのは、とはぐらかしておく。『群像』連載中から話題になった高樹のぶ子の『オライオン飛行』(講談社)は9月末に単行本化されたばかり。新刊コーナーで「第二次世界大戦前夜、日本に墜落したフランス人飛行士と歴史の闇に隠された恋―恋愛小説の名手が史実を基に大胆に描く時空を超えた恋のミステリー」という帯に惹かれた。

高樹のぶ子著『オライオン飛行』(講談社刊)

高樹のぶ子著『オライオン飛行』(講談社刊)

オライオン(Orion)は星座の王者・オリオン座で知られるギリシャ神話の巨神オリオンの英語読みである。初冬に真東からあらわれ、冬の間は南の空高く全天を支配し続け、春になると真西へ沈んでいく。中心は日本でも昔から名高い二等星の「三つ星」が一直線に並び、これを囲むようにふたつの一等星とふたつの二等星が平行四辺形をつくる。天文マニアならアルファ、ベータ、ガンマ、カッパなどの名前とそれぞれの位置まで言い当てるかもしれない。オリオン神は海の上を陸上と同じように自由に歩くことができたことから星座になっても<天上を駆ける狩人>とされた。

1936年(昭和11年)フランス人冒険飛行家で32歳のアンドレ・ジャピーはパリ―東京間を100時間以内で到達できるかを競う空の賞金レースに参加していた。28歳で飛行機の操縦資格を取ったアンドレは翌年早くもパリ―アルジェ間のタイムレースを制し、パリからオスロ、チュニス、サイゴンまでの各レースでも新記録を達成してレジオン・ド・ヌール勲章を受けた。使用機は本来の青色を赤色に塗りかえたコードロン・シムーンで、11月15日の日曜、間もなく日付が変わる夜の11時46分、パリ郊外ル・ブルージェ空港を飛び立った。ちなみにシムーンというのは型式名でサハラ砂漠を吹く熱風を意味する。『星の王子さま』の作者として知られるサン=テグジュペリがリビア砂漠に墜落したときに操縦していたのも同じ機種である。

空冷式6気筒エンジンは排気量8千CC、220馬力の4人乗り単発プロペラ機。木製で全長8.7m、布張りの主翼の面積は16㎡、両翼間の幅は11m、重量は1,240キロだった。テグジュペリの機には整備士が同乗していたが、あらゆる故障に対応でき、天測の技術があったアンドレは整備士を乗せず懸賞飛行には有利な単独飛行を選択した。今回もコックピットの中は操縦席以外の座席を取り払って燃料タンクに改造し、給油目的の着陸を最小限にすることを狙った。最高時速は350キロ出せたが巡航速度を270キロに抑えても毎時50リットルのガソリンと1.25リットルのエンジンオイルを消費する。シリア・ダマスカス、パキスタン・カラチ、インド・アラハバッド、ベトナム・ハノイを経由して香港に着陸したのは3日後の18日午後5時10分、パリからの合計時間は55時間と15分だった。

ここで季節外れの台風に遭遇して一晩の足止めを食う。運命の19日朝、ようやく暴風は収まったものの強風下を日の出1時間半前に離陸した。台風を避けるため海岸に沿って6時間後に上海上空を通過、ここから東シナ海を一気に横断して日本をめざした。とはいえ逆風に阻まれエンジンの出力を最大限にしてもなかなか進めない。アンドレは少しでも風の影響を減らすため海面すれすれ10mほどを飛ぶことを選んだ。海面にたたき落とされれば助かる見込みも機体の発見も難しい。香港を発ってようやく10時間後に長崎県の野母崎半島を確認したが、絶えざる風との格闘で、どう計算しても燃料は東京まではもたない数値であることが判明した。

東京からの無線のやりとりでやむなく福岡県の雁ノ巣飛行場に着陸して給油することを選んだが、その手前に立ちはだかったのは佐賀・福岡県境にある脊振山(せふりやま)だった。厚い雲に視界が阻まれたのと乱気流に巻き込まれて高度が稼げなかったのかは不明だが機は午後4時ごろ山頂付近に墜落した。もちろん作中ではここまでの苦闘や、墜落直前までの状況などを臨場感たっぷりに紹介する。立木をなぎ倒した機体は大破、足の骨折や頭部に裂傷を受けたアンドレは気絶、機体に挟まれて身動きできなかった。幸運だったのは燃料に引火しなかったのと山中にいた炭焼きの村人が轟音を聞いていたこと。急報を受けた消防団員や医者も追いかけるように現地へ向かった。夜間にもかかわらず機体が赤色だったのも発見を助けることになった。

「これってどこまでが史実なの?」と盟友の歴史ライター・蚤野久蔵に聞いたところ「昭和11年か。2・26事件と前畑ガンバレのベルリンオリンピック、それと例の阿部定事件が起きた年だね。ちょっと調べてみる」といつもの調子で答えて小一時間ほどして返事があった。

岩波書店の『近代日本総合年表』には「11.19 パリ・東京100時間懸賞飛行のフランス機、佐賀県脊振山山中に墜落」と2行しか載っていなかったけど、遭難翌日の20日に東京日日新聞(現・毎日新聞)が「号外」を発行していたよ。見出しを紹介すると「沸機佐賀縣下で墜落、ジャピー氏重傷を負う」、「脊振山中で機體は滅茶々々」、「ゴール目前に壮図挫折す」、「立木に衝突して墜落、重體だが生命別条なし」、「驚く沸大使館」、「海上横断の冒険?ジャピー氏のコース」とあるよ。見出しは旧字体で「ゴール目前に」は右から左だ。「重傷のジャピー氏」という説明の顔写真は、ヘルメットにゴーグル姿でなかなかの美男子じゃないか。俳優のジャン=ポール・ベルモンドみたい。これが事故後の写真だったら包帯ぐるぐる巻きだろうけどね。救出から佐賀市にあった九州帝大第二病院(現・佐賀県立病院)での治療経過なども各新聞にさまざま取り上げられて、当時としては大ニュース、美談てんこ盛りだよ、と相変わらずの<茶々入れ>だ。おまけに恋の話はどこにも書かれてないけど、面白そうだからその本を貸してね!と約束させられてしまった。

アンドレの操縦ぶりやレースに賭ける思い、着陸地でのさまざまなできごとはともかく、ここまでは「紛うことない史実」であることがわかった。では「史実には書かれていない恋」とは何か。

アンドレが搬送された九州帝大病院には日本語がわかる宣教師や長崎から来たフランスの領事らが手術に立ち会うなどものものしい緊張感が漂った。手術も含めて担当看護婦となったのが18歳の桐谷久美子、一年後輩で女学校時代からの友人の島地ツヤ子がサブをつとめることになった。そして恋に落ちたのは久美子だった。ツヤ子は「恋人争い」を演じたのか?いやふたりの恋の<すべての秘密>を抱えてその後の人生を生きた、とだけ書いておく。

久美子の弟の娘がひそかで、里山家に嫁ぎあやめを授かったが、あやめが16歳の時に自宅の階段から転落してあっけない最後を遂げた。あやめは生まれつき股関節の変形が原因で足が不自由なことから恋愛や結婚という<人並みの幸せ>をとっくに諦めている。福岡市内の短大を卒業後は父の再婚を機に実家を出て、いまはイタリアンレストランに住み込んでスフレケーキづくりの腕を磨く26歳である。母の遺品のなかに懐中時計と何枚かの写真があった。白衣姿で写真に写る久美子はなかなかの美人で子どものときから母から写真を見せられるたびに「自慢のご先祖さま」という思いを強くした。久美子は戦後も看護婦を続け、弟を大学にやった。まさにキャリアウーマンのはしりだったがあやめが生まれる前に亡くなった。なかでも写真の1枚にはドキリとした記憶があった。久美子はベッドサイドにタオルのようなものを胸に抱えて立っていて、ベッドには上半身を起こした首の長いハンサムな外国の男がいた。男は久美子と同時に笑ったような気配で、二人ともカメラを見てはいるのだが二人の間に通う親密な空気が写真の中に立ちこめていた。シャッターを切る瞬間にはお互いに顔を見つめて会話していたのではないだろうか。写真の裏にはアンドレ・ジャピー、1936年とメモがあって母からフランス人よと聞いた記憶がある。写真の中のアンドレ・ジャピーは手に懐中時計を持っていた。いまこの時計はあやめの持ち物になっているが数年前からは動かなくなっていた。

あやめは犬を散歩させる途中にある鉢嶺時計店に修理ができるかどうかを聞いてみることにした。66歳の店主、一良は腕のいい時計職人だったが2年前に妻を亡くしてからは閉店を先延ばしにしている。懐中時計の修理など何十年ぶりだから自信はなかったもののあやめの真剣さに心が動き、預かって金庫に仕舞っておいた。一方のあやめは休みの日に実家に帰ってあらためて母の残した写真類を探した。記憶にあった写真とともに見つかったのは多くの新聞記事やフランス大使から病院の主治医に当てた感謝の手紙などだった。記事は概ね美談で飾られていた。さらに銀行勤めの父親に頼んで調べてもらった九州大学の資料から島地ツヤ子の住所が判明し、孫が同じ場所で眼科医院を経営していることがわかった。ツヤ子本人は認知症をわずらって介護施設に入院していた。見舞いに行ったあやめが唯一、聞き出せたのは「ニワトリノハコ」というひとこと。それが医院に奇跡的に残されており、ツヤ子への書簡や久美子の日記が見つかった。それからも多くの偶然に助けられてあやめは「80年前の秘密」を探っていく。行き先だけ明かしておくとアンドレの故郷、フランス東部のボークールである。時計の修理に一役買った一良も介添え役として同行することになった。

読者はいくつもの情報のピースを頭に入れてあやめたちとミステリーの旅に出る。天才飛行家と美人看護婦がお互いに言葉が通じないなかでまさぐるように燃えた生涯で一度きりの、命がけの恋と別れ。読み終わったいまも久美子がアンドレに懸命に教えようとした日本語「セ・ツ・ナ・イ」が心に残る。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (41)  石山文也 旅の食卓

  • 2016年9月27日 16:20

北海道の石狩鍋から九州屋久島の焼酎を使った豚骨まで、紹介される「忘れられない味」はどれもが思わず<食欲が湧いてくる>のが不思議だ。エッセイストでドイツ文学者、池内紀のおとなの旅日記『旅の食卓』(亜紀書房)は、写真ひとつないのにそう思わせるのはなぜだろう。高級旅館や一流ホテル、料亭などはいっさい登場しない。ふるさとの風土と人々が育て守ってきた<庶民の味>ばかり。さあ、あなたならどれを味わう旅に出ますか?

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

著者は1940年生まれであるという。

食べざかりが戦後の窮乏期ときている。ひもじい思いをかみしめながら成長した。腹がへると、おなかが声を上げることをよく知っている。「グー」とうなったり、「クエー」と叫んだり、「グワー」とうめいたりする。子ども心にカラっぽの胃袋の中で腹の虫が七転八倒している姿を想像した。だから、グルメ自慢ではなく庶民の味をおいしく食べることに人一倍情熱を傾ける。「おいしく食べる秘訣は何?」と聞かれれば迷わず「腹が減っていること」と答える。少年期に身にしみて知ったとおり、空腹はいかなる料理にもまさる味つけをする。

たしかにそうである。著者がいう「わがルール」の一つがそこから生まれた。

「食事は三度ではなく朝夕の二度、省いた一度分は、空腹をもたらす調味料」。

そ、そこまではちょっと・・・

『石狩川と鮭』は、石狩川の下流域、石狩平野のまん中あたりにある当別町のビジネスホテルを足場にして3泊の取材行である。石狩川はアイヌ語の「非常に屈曲する川」を意味するイ・シカリ・ベツに由来するそうで北海道中央部の石狩岳を水源にして平野部に入って蛇行を繰り返しながら日本海に注ぐ。長さは信濃川、利根川につぎ国内3番目、流域面積は利根川についで2番目、日本を代表する大河である。道内きっての穀倉地帯となった現在からは想像できないが、探検家近藤重蔵が明治政府に提出した報告書には「水源までおよそ百里の間、左右うち開け候は平地沃野のみにて樹木鬱茂、夷人所々に住居、川上まで夷人粮魚(りょうぎょ)おびただしくこれあり」とあると紹介する。

ここでいう粮魚の代表はもちろん鮭である。ビジネスホテルのフロントには、第二、第三のおつとめといったタイプの年輩者がおられるもので、土地のこと、また夜の居酒屋にくわしい。そんな人の助言をかりる場合は知ったかぶりをしないこと。素直にきいてメモをとったりしていると、親身になって教えてもらえるというのが池内流の極意だ。「アキアジ(=鮭)ならここ」、「石狩鍋ならこちら」と地元イチ押しの店を地図にしるしをつけてもらうと、いざ出陣!

石狩鍋は漁師が食べていたのをそれぞれの料理店がメニューに取り込み工夫をこらした。はじめは単に鮭鍋、あるいはドンガラ鍋と言っていたものが、いつのころからかこの名前に落着き、北海道の鍋料理の代表になった。一番の特徴は、鮭の身だけでなく、頭も背骨も内臓も全部入れこむこと。生鮭の「あら」がうまいのだ。その点でいくと、「ドンガラ」の言い方がもっとも合っていた気がする。

ここまで書いたら何度か味わった店自慢の「合わせ味噌」と適度に煮込んだ野菜、蓋を取ったらグツグツ煮立つ音と鮭のあのじんわりした香りを思い出した。人気番組の裏アナウンサーではないが「もう、たまりませーん」。

二日目は少しはりこんで鮭料理のコース。はじめに背ワタの塩辛「めふん」、鮭味噌、塩引き鮭の焼物、飯(い)寿司、かじ煮、焼き漬、骨せんべい、酒びたし・・・。すべて鮭づくし。欲ばって平らげたので、腹を撫でながら、軒につるされた鮭のように口をアングリあけてホテルに戻ってきた。

当然ながら<食レポ>に留まらない。北海道に移住した元佐賀藩士で開拓者の子としてこの地に生まれたプロレタリア作家、本庄陸男(1905-1939)を取り上げる。肺結核により35歳で亡くなる前年の昭和13年(1938)に『石狩川』を発表した。これが代表作になる。本庄は石狩川を一つの川ではなく、生死のはじめから語られた大いなる生きものであって、野の生きものと同じように季節ごとに姿を変える存在と書いた。冬は冬眠である。

「イシカリの原野を二つに区切るこの大河も冬は眠って了うのであった。水は底ひくくもぐって鳴りをひそめた。その上に雪が降り積っていた。川も全く姿をかくしていた」

そっと春の息吹がただよってくると、川がムックリと目をさます。雪が沈んで川筋を見せ始める。

「ぶきみな音を、うおンうおンと響かせる。閉めつけた凍氷を呪うような叫びが聞こえる。やがて春は、下から、地のなかからも来るのであった」

三日目もまた鮭料理、いささか食傷気味だったが教わった店に出かけた。鮭の店で鮭を避けるのは失礼なので三日続きであることを断わって「とびきりをちょこっと」と注文した。頭に白い鉢巻をした主人は頬をふくらませて思案してから、小皿をいくつか並べてくれた。串に刺した鮭の心臓の塩焼き、軟骨の「ひず」、皮とすり身とはらこを一緒に煮た「こかわ煮」、白子の刺身、みそ汁には内臓が入っていた。

なんともうらやましい「鮭修行」ではないか。

『播州のそうめん丼』では生まれ故郷だけに、生産地の中心の「龍野そうめん」のうんちくが面白い。銘柄は市中を流れる揖保川にちなむ「揖保乃糸」だけ。手延べそうめんは播州のあちこちでつくられているが、龍野にある兵庫県手延素麺協同組合が一手に製品を管理して、合格したものをこのブランドで出荷するからだ。もうひとつ、龍野で有名な醤油は協同組合の大工場が、麹づくり、仕込み、醗酵、圧搾までの工程を一手にやって「生(き)揚げ」と呼ばれる醤油のもとにする。そののち、配分された各社で独自の味つけをしてそれぞれの銘柄で市場に出荷する。地場産業ならではの知恵だ。私の知る奈良大峰山の登り口、天川村に共同の製造所がある伝統薬の「陀羅尼助(だらにすけ)」は醤油方式に近い。下痢止めや胃薬として用いられ<和薬の元祖>といわれる。丸薬にしたのが飲みやすさから今は製造の主流となった「「陀羅尼助丸」である

「そうめん丼」は龍野のうどん屋でたまたま食したそうで、丼鉢にごはんを盛り、上から野菜をたっぷり入れた味噌汁仕立のそうめんをぶっかける。「冷や飯に熱い汁がしみて、なんともうまい」という。ふー。

もうひとつ、『長崎のカツ丼』はこうだ。

まず容器がいい。丼は丼鉢がつきもので、大ぶり、厚手、まん丸い蓋付き。全体がお多福の頬のように福々しい。おいしく食べるということの幸せを、まさしく容器であらわしていて、アツアツを、しばらくうれしく撫でまわしている。蓋をとると、フワリと湯気が立ちのぼる。いっしょに仄かな匂いが鼻をくすぐりにくる。知られるとおり丼物は上の具と下の飯からなりたっており、正確にいうと、下の飯は二種類あって、おしるのしみたところと、しみていない白いごはんのところとがある。わが独断であるが、その比率七・三といったところが望ましい。おしるのしみていない白いごはんが大切なのだ。三くち四くちとしみたのが続くと、舌が重くなる。そんなとき白いごはんを口に運ぶと、舌が浄められたぐあいで、味覚が再び活気づく。

おしんこをつまんでひと息入れ、目分量で勘案する。具の残り、おしるのしみた残り、白いごはんの残りと、せわしくかきこんでいるようでも、きちんと味と量の配分をしながら、一つぶ残さず、きれいにたいらげた。丸い丼物はそれ自体が胃袋の形と似ており、中身がそっくり鉢から袋に移動した。手にした鉢の重みが胃袋に移り、鉢にしたのと同じように、われ知らず腹を撫でていた。

おっと忘れるところだった。巻末に特別付録:イケウチ画伯謹製「旅の絵はがき」3葉が付いている。旅先で思い出した誰かさんにあなたの「旅日記」を出すというのも一興かもしれない。

(こちらもお腹が空いたので)ではまた

新・気まぐれ読書日記 (40) 石山文也 残夢の骸

  • 2016年9月21日 15:26

『残夢の骸』(新潮社)は船戸与一が足掛け10年以上、最後は肺がんの余命告知を受けて残された体力を削りながら書いた『満州国演義』全9巻の完結作である。昨年春、たまたま古書店で入手した前作の『南冥の雫』を読もうとした矢先、船戸の訃報に接した。平成27年4月22日、肺がんの一種である胸腺がんで死去、71歳。記事には同2月に『残夢の骸』の単行本が出版されたばかりで、それが絶筆となったとあった。『満州国演義』は400字詰め原稿用紙で実に7千5百枚、まさに著者畢生のオデッセイ=叙事詩である。船戸作品を多く読んできたし、何かの対談で自身ががんを闘病中ながら『満州国演義』に賭ける思いを語っていただけに「そうか、見事にやりきったか」という感慨が湧いた。

船戸与一著『残夢の骸』(新潮文庫)

船戸与一著『残夢の骸』(新潮文庫)

初めて船戸作品を読んだのはもう30年以上前になる。昭和59年(1984)の第3回日本冒険小説協会大賞を受賞した『山猫の夏』(講談社)だった。ブラジルの辺境にある田舎町で起こる血で血を洗う抗争がこれでもかと描かれる。町の名はここに黒人奴隷として連れてこられた人たちの言葉で「悪霊」を意味する。現地を旅した船戸はこの町で数十年も抗争を続ける地元の二大勢力に警察も手が出せない無法ぶりをつぶさに体験する。その原体験を素材として船戸は見事な作品に仕上げた。

ブラジルの東北部を旅すると、時として感じる強烈な眩暈(めまい)を感ずることがある。それは何も暑さばかりのせいではない。そこでは近代が張りめぐらした網から抜け落ちた世界が突如として眼のまえに現れることもあるからだ。熱暑のなかで汗にまみれながら旅を続け、ふと立ち寄った幻の町で見たただの白日夢にすぎない―と語られるすべては<純然たる妄想の産物>である。だが読み始めるとたちまちにして「衝撃の船戸ワールド」に引き込まれた。名前は忘れてしまった船戸が実際に足を運び小説の舞台になった実在の町をようやく「ブラジル全図」で見つけた。ブラジルを大西洋に向いた「顔」にたとえると「鼻」の部分、今回オリンピックが開催されたリオデジャネイロは「下あご」に当たる。首都ブラジリアからなら東北方向に千数百キロ、同じブラジル国内とはいえ、どうやって行くのだろうという地の果てのそのまた果てのような場所だった。何でそんな場所に、と思ったが「早稲田大学探検部OB」という経歴を知ってなるほどねとようやく納得した。以来、『神話の果て』、『カルナヴァル戦記』、『猛き箱舟』、『伝説なき地』・・・と新刊が出るたびに読んだ。しばらく遠ざかっていたが、興味ジャンルの北海道を舞台にした『蝦夷地別件』を完読、この『満州国演義』はそれ以来の作品だった。

さまざまに面白く脚色した話(=白話)を織り込んだ『三国志演義』を略して『三国志』というように『満州国演義』は東京・霊南坂の名家に育った敷島家の4兄弟がそれぞれの生きざまを通してわずか13年間で終わった満州国と<切り結ぶ>壮大な物語である。舞台は満州だけにとどまらない。中国の各都市、蘭領東インドのジャワ、昭南島=シンガポール、英領ビルマからインパール・・・いやまだまだある。ところでこの霊南坂は国会議事堂の南の方角、赤坂1丁目のアメリカ大使館と虎ノ門2丁目のホテルオークラに挟まれたゆるやかな坂である。住所表示は変ったが霊南坂一帯は「東京の一等地」であることに変わりない。敷島家は長州=山口県にルーツをもつ一族で、祖父は奇兵隊で活躍、父は著名な建築家だからこの地に屋敷を構えることができた。

4人はまったく別々の道を歩く。長兄の太郎は東京帝大を卒業。満州国建国のきっかけになった満州事変の勃発時は奉天総領事館の参事官で、国家を創るという最高の浪漫を地でいくように国務院外交部政務処長へと出世していく。次男の次郎は18歳で日本を飛び出し、やがて満州で馬賊の頭目になる。何にも頼らず何も信じない生きかたは風まかせでその日その日をただ生きて上海から東アジアへと流れていく。風に吹かれる柳絮(りゅうじょ=柳の綿毛)の如く。三男の三郎は陸軍士官学校を出ると関東軍の将校として満州全域の抗日武装ゲリラ掃討作戦を指揮する。時には軍規を犯した日本軍将校を射殺するなど剛直な帝国軍人でもある。末弟の四郎は早大生だったが大杉栄の思想に共鳴して左翼劇団に入る。その後、上海同文書院で学び、阿片窟や売春宿での生活を経てロシアと対峙する北辺の武装開拓村、天津の親日新聞の記者、甘粕正彦の満映、関東軍司令部の特殊情報課の嘱託として中国、満州の地を這い回る。

船戸作品は<正史と叛(はん)史をつむぐ力技>と評される。船戸は「歴史とは暗黙の諒解のうえにできあがった嘘の集積である」というかのナポレオン・ボナパルトの箴言(しんげん)を引きながら「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」と喝破する。つまり歴史=正史は客観的と認定された事実の繋がりによって構成されているが、その事実関係の連鎖によって小説家の想像力が封殺され、単に事実関係をなぞるだけになってはならない。かといって、小説家が脳裏に浮かんだみずからのストーリーのために事実関係を強引にねじ曲げるような真似はすべきでない。認定された客観的事実と小説家の想像力。このふたつはたがいに捕捉しあいながら緊張感を持って対峙すべきであると。ではこの『満州国演義』はその対極にある「叛史の集積」なのか。否である。叛史が民衆のアナーキーな情念をも吸収しながら野史とか稗史などと、時にはさげすんだ評に甘んじることがあったとしても「船戸叛史」は少しも揺るぎはしない。ましてや巷間言うところの<自虐史観>とは全く無縁である。

ところで第1巻の『風の払暁』は戊辰戦争で長州奇兵隊の間諜が会津の武家の若妻を凌蓐するシーンから始まる。不肖私、あえて書かれたということは<望まない妊娠>で誕生する子かその子孫が主要な登場人物になるのだろうなあと想像した。この俗過ぎる発想は的中したが、なぜはじまりが戊辰戦争だったのかを見落としてしまったことに『残夢の骸』を読んでいてようやく気付いた。船戸は終戦の玉音放送を太郎と一緒に聞いた同盟通信の記者に日本における民族主義の地下水脈を語らせる。

「日本の民族主義は黒船の来航で一挙に顕在化し、このままでは欧米によって植民地化されるという危機感に包まれた。その打開策を論じたのが吉田松陰だ。それが尊王攘夷となって現れた。明治維新という内戦を終えたあとも吉田松陰の打開策は生き続けた。欧米列強による植民地化を回避するためには国の近代化と民営国家づくりを推進しながらアジアを植民地化するしかない。松陰が『幽囚録』で示した通り朝鮮を併合し、満州領有に向かうことになった。これに日本民族主義の発展形たる大アジア主義が合流し、東亜新秩序の形成をめざして走り出していった・・・それがアメリカの投下した2発の原子爆弾によって木っ端微塵にされた。日本の民族主義の興隆と破摧(さい)。たった90年の間にそれは起った。これほど劇的な生涯は世界史上類例がないかも知れない。この濁流のあとかたづけに日本は相当の歳月を要することになるだろう」

だから、はじまりは戊辰戦争に置いたわけだ。「王道楽土」といわれた満州国はわずか13年で理想の欠片まで失い、重い鉄鎖と化した。終章は昭和21年5月の広島である。三郎が助け、回り巡って預かることになった10才の孤児を連れた四郎が広島駅前のバス停から木炭バスに乗ってその祖父が住む佐伯郡石内村へ向う。満州に新天地をめざす開拓民として村を出ていった三人の息子たちやその家族は一人も帰らず消息すらつかめない。孤児は三男の長男なのである。関東軍に入った父親も、一緒に避難する途中で母親も、妹も死んだ。祖父の「何で死んだんじゃ?」と繰り返す問いかけに「言わんよ、言えん!」・・・嗚咽が慟哭に変わっていく。

四郎はこの子が他人には言えないような地獄に直面したと聞いていたが、それがどんな地獄だったのかは見当もつかないし、別に知りたくもなかった。この時代を生きている人間はだれもが地獄を経験しているのだ、いかに幼くても耐えるしかないだろう。(中略)

歩いて市街地に戻る四郎は脚を速めていった。熱情も憤怒も、高揚も失意も、恐怖も後悔も、満州に絡むすべてはがらがらと音を立てながらどこかへ流れ去っていった。いまや過去に拘ったところで何かが産み出せるわけじゃないだろう。問題はこれからどう生きるかしかない。しかし、どう生きていくのだ?そのまえに、どういうふうに生きたいのだ?この答えは見つかりそうもなかった。

ただひとつ紹介したこの満州の大地で生きながら地獄を見た孤児と祖父との再会場面にしても何かの救いがあるわけではない。四郎にも少年にもただふるさと日本に戻ってこられたというだけで、夢破れて山河あり。それにしてもさまざまな舞台でさまざまに描かれた地獄絵図に比べれば命がつながっただけでも。「不感症になれ。そうでなくては、気が狂う」というフレーズが頭の片隅にまだ消えずに残っている。

船戸はあとがきに「資料渉猟はわたしのもっとも苦手とするところである。文献に当たっては執筆し、執筆しては資料を再確認するという作業の繰り返しは苦行僧の営為のごとく感じられた」と書く。たしかにこの作品を仕上げるには膨大な量の文献との格闘が不可避だったろう。巻末にまとめられた参考文献は、単行本では13ページ、文庫本では23ページに及ぶ。船戸はさらに「文献を読むかぎり」と前置きして、「昭和初期の時代の濃さは後期とは比較にならない。戦争。革命。叛逆。狂気。弾圧。謀略。抗命。破壊。哄笑。落胆。敗戦。抑留。幕末維新時に巣立ちした日本の民族主義が明治期に飛翔しつづけ、第一次世界大戦後の国内外の乱気流に揉まれて方向感覚を失い、ついにはいったん墜死を遂げるのだ。あらゆるものがぎっしり詰まっている。そしてこの濃密な歴史は満州を巡る諸問題を軸に展開していく。わたしは昭和19年山口県生まれで、戦争にたいする記憶がまったくないにも拘わらず、満州を舞台に四つの視点からの叙事詩を書きあげようと思ったのは凝縮された時間に引きつけられたからに他ならない」と付け加える。

さて、この大作をどう読めばいいのか。単行本をじっくり読むのもいいかもしれない。私なら各巻に解説が付いた文庫本のほうをお勧めする。あえてその顔ぶれを紹介すると第1巻『風の払暁』が馳星周、第2巻『事変の夜』が志水辰夫、第3巻『群狼の舞』が北方謙二、第4巻『炎の回廊』が高山文彦、第5巻『灰塵の暦』が西木正明、第6巻『大地の牙』が北上次郎、第7巻『雷の波濤』が高野秀行、第8巻『南冥の雫』が佐々木譲、この第9巻『残夢の骸』が井家上隆幸である。いずれも船戸と親交があり、日本における冒険小説というジャンルの地平をともに切り開いてきた、あるいは文芸評論家として見続けてきた面々である。船戸という稀有な作家を、いや歴史を舞台にした小説というものをさまざまな面から案内してくれるはずだ。選りすぐりのガイド役9人を従えていざ行かん。この一大歴史小説を読み解き、あるいは歴史そのものに内在する欺瞞を学ぶもいい。シリーズの題を船戸が「演義」としたのもそこにありそうに思う。

ではまた