Web遊歩人

Web遊歩人
You are currently browsing all posts tagged with 峯島正行

私の手塚治虫(14) 峯島正行

  • 2013年9月23日 11:30

アトムの終末

 

 人間はロボットの家畜

 

前回の最後で、その一端を紹介した「アトムの最後」という物語は、アトムの最後という表題そのままの物語である。この作品は、昭和四五年七月号の「別冊少年マガジン」に掲載された。手塚のまんがとしては「人間ども集まれ」の連載が始まった三年後に発表されたものだ。

この作品は実はアトムが大活躍したころから、かなりの時を経た時代の話で、この物語の世界では、ロボットが主人公で、人間はロボットに飼われる家畜以下の存在になっている。ロボット法などというものは、とっくの昔に打ち捨てられているのだ。

社会生活は現代と同容な普通の家庭が、平和に保たれて、幸福そうに見える。だが家庭の主人公たちは、皆ロボットなのだ。したがってロボットを構成している機械を治して行きさえすれば、皆長命で若々しく生きてゆかれる。

そのころの東京には、MFC貯蔵庁という役所が存在していた。そこには健康な人間の精子と卵子が貯蔵してある。その両者を試験管に入れて、受精させて、生れた赤子を透明な管に入れて、そのなかで生理学を応用して育てる。こうして生まれた赤子には市民であるロボットが配給され、そのロボットが人間に育てあげる、という仕組みになっている。

なぜそうなったのか。それは人間の数が減った故なのだ。放射能と公害のため、自業自得で、人間は一人立ちの生活ができなくなった。だから人間は家畜に堕ちたのだ。

裕福な鉄皮夫妻は、丈夫という人間の男の子を育てている。夫妻は息子を決闘士にすべく大事に育てている。決闘士とは、むかしローマのグラウンドで、奴隷と猛獣を闘わせて、市民の熱狂を受けたように、今この社会ではロボットが、二人ずつ人間と人間を決闘させて、決闘のトーナメントをし、それをロボットの群衆が、賭けをしながら見物するのである。

鉄皮丈夫少年も、決闘士たるべく、鉄川夫妻に育てられている。決闘者登録証も父親に公布されているのだ。父親が彼に与える玩具と言えば、武器、刀剣などの玩具のみであった。

そんなことは知らない丈夫は、ジュリーという隣の娘と恋に陥っている。ジュリーは丈夫の遊び相手であったが、遊んでいる間に事故が起き、一時彼の前から姿を消していたが、一〇年後丈夫と再開して、二人は恋に陥ったのであった。ジュリーはこの時は、ロボットに変じていた。というのは事故があった時彼女は死に、彼女の両親が、ロボットとして生き帰らせた娘である。

人間とロボットの恋は、この社会では固く禁じられていたのだ。ロボットであることをジュリーは丈夫に秘密にしていた。優しいパパなら、二人の結婚は絶対に許してもらえると信じ、丈夫は、父親に結婚の許可を申し出る。

「駄目だ!」

予期に反する父親の断固たる反対であった。

両親は「もう話していいだろう」と肯きあって、「自分たち夫婦はロボットで、お前は決闘者にすべく大事に育ててきたのだ。決闘者登録証があるからいつでも、申込みをすれば、出場して相手の人間と決闘ができるんだ」

ママも言う。「人間は闘うのが好きだから、男も女も強く育てて、二人ずつ戦わせるのさ。お前は私たちが育てた決闘者なのよ、お前たちの決闘を私たちロボットが見て、楽しむんだ。」

「それじゃまるっきり人間はロボットの家畜なんですか?いやだ!絶対にぼくは闘技場などに行かない。こんな証文破いてしまう」

と叫ぶと同時に、パパの鉄拳が飛んだ。

「ふざけるな、この人間め」

 

 

飛び去ってゆく(アトム)

 

張り倒された丈夫は、闘技場に強引に引かれて行くのであった。決闘場は今や、決闘のまっ最中、負けた選手が、血だらけになって、ぶっ倒れると、場内の見物はエキサイトして大声で叫びをあげている。

その日のメインエベントは、登録番号2318697号の鉄川丈夫の試合だった。丈夫のママは、「あの子は勇気がありますから、七,八人は殺してくれると思ています」などと、賭け仲間としゃべったりしている。突然、会場に轟音が鳴り響いた。高性能のマイクは会場に告げた。

「今日のスター選手鉄皮選手が行方不明になったので、試合時間を遅らす」

というのだ。丈夫はジュリーの家に駆けつけていた。二人でこの世界を逃げ出そうというのだ。あらゆる交通機関には監視隊がいるのだ。逃げる道は無い。

その時丈夫はロボット博物館に保管されている五〇年前のロボット、(アトム)を思い出した。二人は、ロボット博物館に駆け込んで、配置されている「アトム」を叩き起こす。アトムの活躍していた時代は、ロボットは人間の味方だった。ロボット法というのがあってロボットは人間に奉仕し、人間の為に尽くすことが約束されていた。

眠りから覚めた(アトム)に向かってそういう昔に帰って、自分達たちを助けてくれるか考えてくれと丈夫は哀願する。

「あなたとジュリーさんとは本当に愛し合っているんでしょうね、どんなことがあってもその心は変わりせんね」とアトムは念を押す。そこに追手が迫ってきた。アトムは二人の恋人を抱えて天高く飛びあがる。

「僕たちを助けたら、君は世界中のロボットから憎まれるぞ」

丈夫が言うと「アトム」は「解っていますよ」        と答える。

三人はある南海の孤島に降りた。そこで二人は当分愛の巣を固めることになった。「アトム」直ちに飛び立つという。そこで「アトム」は、人間とロボットの関係はどうしてこうなってしまったのか。あれは誤魔化しであったのか、本当は信じていなかったのかも……」と心の中で自問自答しながら、そしてアトムは思い切って丈夫たちに聞く。

「あなたたちなら心配ないでしょうが、たとえ人間とロボットの愛でも…」

すると丈夫が聞く

「誰がロボットですか」

「もちろんジュリーさんですよ、ぼくは一目見てわかったよ」

驚愕し怒り狂った丈夫はジュリーに、「あたしは人間だといってくれ」とすがりつく。

ジュリーも、「愛さえあれば人間だって、ロボットだっていいじゃないの」

その時追手のロケットの大群が押し寄せてくる。

「いくぞ!」と一声発してアトムは敵のロケットに向かって飛び去った。それが最後の「アトム」のすがたであった。

怒り狂った丈夫はジュリーに

「よく俺をだましたな、俺をいくら愛するといっても、こっちでお断りだ」と丈夫は一発の弾丸でジュリーを壊してしまう。そして天からふる銃弾の総攻撃に、一塊の肉も残さず、丈夫は果ててしまった。

 

アトムも「R・R・U」と同じ結果を呼んだことになる。人間は金属を使って、いかに技術と工夫を凝らしても、人間の生活を向上させる、ロボットはできないということは次第に鮮明になってきた。

そこで、手塚はずっと若い時分から、医学者である知識なり発想をもって、生物学的、生理学的にロボットができないか、言うことを考えていたようだ。つまり生命のある動植物や、今日でいうクローン人間的なロボットを作ることを、頭の中に入れていたように思える。

手塚は大阪大学医学医学部付属医学専門学校を昭和二六年に卒業した。その年の前年に私も大学を卒業し、出版社に入社、新米編集者になっていた。手塚はその翌年の27年に医師国家試験にパスして、医師の資格を得た。

そこで生活が楽な医者たらんか、人気上昇中の漫画家の道を歩いて、競争に明け暮れる一生を送るかということに悩んで、母親と相談し、自分のやりたいことをやったらと忠告され、最終的に漫画家として進むことに決めた、といわれている。

この辺のことは手塚の伝記に詳しい。手塚は医師の資格を得たと言っても、専門は外科である。

その外科の手塚がある時から、電子顕微鏡のある奈良県立医科大学に通いだした。児童漫画が盛んになり、競争相手も、次々登場する超多忙なときに、よく奈良に通えたと後でそのはなしを聞いて、私は驚いた。

しかもその研究内容が、生物の精子だというのだ。これにも驚いた。研究材料のタニシが豊富な奈良大学で精子の研究をしたという話もある。

生理学的に、動物の変化をもたらすもの、は生殖によるほかない。手塚は生き物の精虫を研究すれば、生きものに変化を与える道が開けると考えたのかも知れないと、私は近頃思うようになった。

「アトム」を描き、機械のメカニズムによるロボット製造の行き先は、結局人間をだめにするということがはっきりしてきた。あの「アトム」の末路や、チャペックの「R・U・R」の行く先はおなじだとすれば、生理学的技術の進歩によって、別なロボットができるかもしれない。それが人間にプラスになるのかも知れない、とクローン人間の出現に恐れを抱いた、田才益夫の考えと同じ結果になるのか、また反対の結果が出るのかも知れないと手塚は思案したと、と私はおもう。

手塚は奈良大学で、こうして「異形精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究)として纏まり「奈良医学雑誌」(1960年10月1日)に発表され、それにより医学博士の称号を得た。

そうして手塚がその長い時間を描けた思案してきた人間の未来と新しい漫画のアイデアのヒントを生かすため、壮大は実験を、漫画の中で行ったのが畢生の大作「人間ども集まれ」であったといいえよう。そしてこの壮大な物語が手塚に何をもたらし、我々読者は何を与えられたかを、これから探ってゆこう。

 

 

 

三大悪人の腕前

 

「人間ども集まれ」の初版表紙  昭和四三年十二月発行   実業之日本社

「人間ども集まれ」の初版表紙  昭和四三年十二月発行   実業之日本社

 

個性の全く違う悪人

 

さて、ここから いよいよ待望の「人間ども集まれ」の解説、論評、評価にはいってゆくことになるのは当然だろう。この物語は先に紹介した、「アトムの最後」より約三年早く始まっていることを、ご承知おき願いたい。

まず、この長大な物語は、三人の大悪人が、主役で、全編にわたって彼らは、大活躍する。

その三大悪人の一人は、天下を狙う大伴の

黒主である。黒主は悪人でも六歌仙の一人で、その和歌は古今集その他の勅撰集に採択されている。しかし六歌仙の作品で、百人一首に選ばれていないのは、彼ひとりである。

黒主の名前が出るときは「天下を狙う大悪人」という形容詞が何時もつく。よっぽど悪いヤツだったのだろう。黒主の名を我々が知っているのは、常磐津の舞踊曲の大曲「関の扉」の主役になっており、それが歌舞伎の舞踊劇として、しばしば舞台に登場するからであろう。

「関の扉」という芝居では、ふてぶてしい大男が、いかにも実直そうに、庭の桜の木のもとに胡坐をかいている場面から幕が開く。これこそ天下を狙う大伴黒主だというばかりである。彼はいま関兵衛と名をかえ、逢坂山の関守として、天下取りの機会を狙っている。関兵衛は、大願成就を祈る護摩木として庭に生えている黒染桜の大木を切ろうとすると、桜の精である美女が傾城の姿で現れ、黒主である山師をさんざんに悩ませ、ついに黒主の陰謀は暴露するといった趣向の、舞台である。

その黒主と同名の悪人が、この漫画の物語の主役である。

次の主役が黒主とは正反対のタイプの男である。外見は、そんじょそこらへんに、よく見かける、ごく普通の庶民である。ちょろちょろ、うまいことないかと探して歩くような男だが、泥棒もスリもできない、まして人をごまかして詐欺などできる人間ではない。然しよくばりで、意地汚い。断固自己主張ができない弱さから、チョット人の口車に乗って、わずかな報酬を狙ってやったことが、天下の悪事につながることなど認識できない頭脳と、一見ひ弱い軟弱な平凡さがこの男を悪人たらしめているところである。

彼の名は天下太平。自分のしたことが天下にドンナ影響があろうと、なかろうと彼の心は暢気に天下太平。

 

もう一人は、これまた別種の悪人である。頭の毛はアメリカ紳士風に刈って、何本かの髪を額から垂らして、ニューヨーク仕立てのチェックの上着を着て、薄い色眼鏡、指に金の指輪、腕に、材質不明の腕輪などはめちゃって、本人は精々おしゃれしているつもりの、国籍不明型の紳士、キザが身上である。

職業はプロジューサーと言ったらいいか、企画屋、興行師と言ったらいいか、一時流行の「呼びや」といったらいいか、アイデアと企画が売り物の、職業名の頗るはっきりしない人間である。もともと悪だったのが、テレビ界、興行街を歩き、アメリカくんだりまで行って、興行街のどん底まで放浪して、悪を磨いてきた男である。

ともあれ、ここで漫画を見て、三人の男の典型的風貌を、確認してください。

 

この三人は、さてどんな行動をとるのか。開巻第一ページに 一九XX年  パイパニア (東南アジアのある独裁国)とある。

一九六七年に発表された作品だから、舞台は一応現代と考えてもよかろう。世界情勢は一九六〇年代と現代とは、本質的に変わっていないからだ。

熱帯樹の繁る山々の向こうに、峨峨たる山岳が遠望できる、野蛮な風景、これが一ページ目である。まずパイパニアはあまりいいところとは思えない。

その奥深い谷川に渡してある吊り橋のたもとをめざして、敗残兵か、脱走兵かわからない襤褸服一枚の天下太平が谷底から上ってゆく。

やっと吊り橋まで、たどり着くと、そこにパイパニアの衛兵が立っていた。太平を見ると兵役忌避者じゃないか、登録カードを見せろと、剣銃を突きつける。太平は懐から数枚の写真を出す。それがエロ写真であったため、思わず敵兵が油断すると、いかにのろまの大平でも、戦場だから、敵のすきを逃さない。手にした剣でとっさに敵兵を突き刺し。危難を逃れる。

逃げるときエロ写真を忘れず拾って往くところが、この人間の、あるしたたかさを表している。

彼は吊り橋をそっとわたり、山の中を徘徊して安全な逃げ道を、探し回る。原野に出ると、いきなり上空のヘリコプターからの機銃掃射を受ける。そしてヘリからは高音のスピーカーが鳴り響く。

「兵役拒否者、および脱走兵諸君に告ぐ。今でも遅くない。日本、中華民国、韓国の義勇民諸君!わがパイパニアは諸君に期待している!直ちに原隊に戻れ」と大スピーヵーが吠えまくる。野原には兵隊の死体がいっぱいだ。ぐずぐずしているとまた機銃掃射を受ける。太平は目についた穴倉に飛び込んで、ようやく助かる。

 

吹き出しの文字はすべて手塚の手になるペン字

吹き出しの文字はすべて手塚の手になるペン字

 

黒主の生き構え

 

すると穴の奥から「もっと奥に入りなさい」と声がかかる。声をかけた男は大柄、顔中剛毛が生えている。頼りになりそうな男だ。「

どうです鴉の骨のスープでも」

と欠けたどんぶり鉢を出される。

「あの殺された死体をつついている鴉のスープですか」

流石の大平も手が出ない。「人ひとり生き延びるために野ざらしの死体を食った鴉を食うのは、かえって功徳になりますよ」

と、彼は言う。この男はもう一月間、こうして銃撃さらされながら、洞穴で生きている。

「今度の戦争は先が見えない。無計画に逃げても駄目です。落ち着いて逃亡するチャンスを探すのです」

という。彼はれっきとした日本の軍医だったといい、太平も日本の自衛隊にいた兵だと名乗り、当分一緒にチャンスを待つことにする。髭の男は大平に語った。

「前の戦争では軍医でしてね。戦後パイパニアで開業したんだが、また戦争に狩り出されてな。野戦病院で働いたが或る時、パイパニアの相当の人物らしい怪我人が、運び込まれましてな、一見ダメとわかるような体でしたが、文字通り寝食を忘れて、手当したのです。

その甲斐あってその患者はついに全快し、その男は感謝の涙にくれた。しかしそれもつかの間、わたしが『お互い戦争は否ですなぁ』といった瞬間、態度がよそよそしくなった。その男は、秘密警察の長官だった。間もなくそいつは部下を連れて、反戦派の危険人物とし私を逮捕にやってきたんです。

私は思わず腰の拳銃を抜いて、彼を『恩知らずめ』と彼の額をぶち抜いた。

余りの事にかっとなって、私は男を殺した。命をかけてやっと直した人間だったのに、なぜ殺した!

その後私はどうしようもない虚無感さいなまれ、病院を抜け出したのですよ」

と元軍医は語った。大賊、大伴黒主誕生の瞬間である。

大平は自衛隊の平凡な兵隊だったのが、無理やり義勇兵にえらばれて、この戦場に送り込まれたんだが、あまりひどい軍隊なので脱走したんだ。卑怯者のレッテルを張られては二度と戻れない」

と嘆く。彼らの隠れる戦場には、毎日脱走兵狩りが、ヘリコプターの銃撃で行われたが、何時かそれも沙汰やみになった。

彼等は逃亡者の旅に出る。

「逃亡者って、もっとかっこいいと思った」

「馬鹿、それはテレビの上のお話しよ」

二人は不毛の山野を、毛布その他の日用の荷物をしょって歩き続ける。その途中、村人全員が逆殺された、悲惨な村を通り抜けたり、ついに食物に窮して、大伴の知恵で、アリ塚を破壊して、アリの幼虫や蛹を手束みで食って、やっと飢えを脱したこともある。大平は「蟻って奴は、あんなに大勢巣食って、よく食えるなー」とつぶやくと、黒主が答える・

「働き蜂が稼いで、皆を養っているんだ」

「その働き蜂はオスかいメスかい」

「中性だよ」

「中性というとゲイか」

「馬鹿、中性は中性だ、第三の性だ」

「その働き蜂が戦争やら、力仕事を割り切って一切やってんのかい。で、オスとメスはいったい何の役をしているんだ。」

「セックスさ」

「それじゃまったく不合理じゃないか、なぜ、人間にゃ働きアリがいねえんだ」

「下らんことを考えるな」

この時この物語の中心的な材料となる(無性人間の創造)というアイデアが、黒主の本性を表して、その脳髄にひらめいたに違いあるまい。

 

 

スペルニウム採取

 

その黒主も天下太平も寝込みを襲われ、ガンで囲まれて運び込まれたのは、軍の調査部長の前であった。二人とも軍用医学研究所行きを命ぜられた。毒ガスや細菌兵器を作るところだという。そこの鉄格子の部屋に放り込まれた。黒主は生体実験のモルモットにされるんだと、言う。太平は弱い癖にモルモットにされてたまるか、と強がりを言う。先に呼び出しを食ったのは、太平の方だった。

衛兵に連れられて美しい洋室に入ってゆくと、大柄のグラマー美人が、あられもない姿で、ダブルベッドに寝そべっていた。大平の「男性」は直ちに直立した。

女はベッドからさっと立ち上がり「起立」と怒鳴った。

「よし、姓名、階級を言え、私は当研究所所属看護将校リーチ大尉である。これよりお前のスペルミウムを採取する」

「スペル何とかとは」

「精子だっ!」(続く)

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   1」

私の手塚治虫(13) 峯島正行

  • 2013年8月29日 16:59

ロボット法とロボット工学三原則

 

フランケンシュタイン・コンプレックス

私の少年時代は、あの怖い、恐ろしい顔をしたフランケンシュタインの話を読んだり、映画で見たりして、恐怖におののいたものであった。みなさんそういう経験がおありだろう。怖いもの見たさに、もう一度見たいと思ったりして……。

西欧では大人だって、私たちのそれとはちょっと違うが、フランケンシュタインに恐怖感を持っていた。フランケンシュタインというのは、一九世紀初頭の小説。主人公のフランケンシュタインは、名家出身の青年科学者。生命の謎を解き明かし、自由自在にこれを操ろうという野心に取りつかれ、「理想の人間」の設計図を完成させる野望の実現を期す。それが創造主である神の掟に背く行為である、という恐れを抱きながらも、実行に移す。彼は墓を暴き、人間の死体を手を入れ、それをつなぎ合わせることで、怪奇な人物の創造に成功する。

しかしそれで誕生した怪物はすぐれた体力と人間的知性を持っていたが、筆舌に尽くしがたい醜い容貌を持ち、生みの親であるフランシュタインさえ、怪物からか逃げ出す始末で、それから、いろいろな恐怖に満ちた事件が起きる。

この物語は、人類の心の底で常に持つ恐怖の基となった。

この恐ろしさとは、造物主である神に代わって人造人間、ロボットといった生命を持つ被造物の創造への憧れと同時に、その被造物により、創造物を作った神に背いた行為として、その罪で人間が滅ぼされるのではないか、という恐怖が、人間の心の底に沈泥しているからではないのか。この恐怖の感情を、アメリカのSF作家、アイザック・アシモフによって、フランケンシュタイン・コンプレックスと名づけられた。

アシモフは草創期のアメリカSFの作家である。彼はその後幅広い作家活動によって、アーサー・クラーク、ロバート・ハインラインなどと並ぶSF界の巨匠になった。

彼は一九五〇年、(昭和二五年)、「I,ROBOT」 (われはロボット)という、SF短編集を発刊した。昭和二五年という年は、第二次大戦終了後、五年目であり、いまだに戦塵の匂いが漂い、また朝鮮戦争が勃発した年である。そこで育ったSFは、文学の分野としては、若い、未知の荒野に芽を出したばかりであった。SFの未来は、光と闇が交錯していた。

アシモフはその中でもロボット小説の世界では先鋭な先駆者であった。彼がロボット小説を書くにあたって、一番悩んだ問題は、彼自身が名づけた「フランケンシュタイン・コンプレックス」であった。

SFにおいては、宇宙という無限の世界で人間が活躍するためには、宇宙という過酷な環境のなかで、頼りになる労働力であり、同時に太陽系の外に飛び出してゆくという困難なフロンテア事業の協力者が必要である。それがロボットである。宇宙の現場は人間とロボットのチームが密接に結びついて行動しなければならない。

しかし、人間が、フランケンシュタイン・コンプレクスを持つ限り、ロボットとの間に感情の擦れ、対立、が生じて事がうまく運ばないことがおきる心配がある。

その一方ロボットの能力は、日に日に進歩を遂げる。

技術の進歩ばかりでなく、人間の精神の動きをとらえ、彼ら自身のものにしてゆくであろう。そうなった場合に人間とロボットの関係はどうなるか、ロボットと対等、さらにはロボットの優位さえ生まれる。アイザック・アシモクは、この問題についての解決法を編み出さねばならなかった。

最初の短編集「I,ROBOTT」の序章において、75歳になるベテラン女性技術者が、ユナイテッド・ステーツ・ロボット&メカニカルマンK/Kの創業七五年を迎えて、自分の七五才の引退についての話をしている。

記者に向かって女史は聞き返す。

「あなた幾つ」

記者が三二歳と答えると、誇り高き女性技術者はこう答える。

「それではロボットのいない世界は知らないのね。人類が頼る友もなく広大な宇宙を一人ぼっちで、闘わねばならない時代があった。でも今は助けてくれるものがいる。人類より強靭で、忠実で、有能で、全く献身的に仕えてくれる者が。人類はもう孤独ではありません。

貴方にとって、ロボットはロボットなのね。歯車と金属、電気と陽電子。鉄にくるまれた心!人間の創造物!必要なら人間の手で破壊できるもの、でもあなたはロボットと一緒に働いたことがおありでないから、彼らのことは解らないわね。彼らは人間より、ずっと無垢で優秀な種族ですのよ」

とベテラン技術者はのべるのである。

こうなってくるとアシモフは一層、人間のフランケン・シュタイン・コムプレックスの問題を解決し、ロボットと人類とが、うまくいくようにしなければ、その方法を考え出してゆかなければ、小説の世界でも乱れきってしまう可能性が強いと判断したようだ。そして先輩作家であり、すぐれた編集者だった、ジョン・W・キャンベル・ジュニアと相談し、戦後、短編集「I,ROBOTT」に収められるロボット小説「ロビー」をかいた。一九四〇年の事である。それから四作目「堂々巡り」(一九四二)を書いた頃にいたって、「ロボット工学の三原則」(The Three Lows of robotics) という、彼の小説の憲法のような規定を確立する。この[robotic]という言葉も全くアシモフの造語である。日本ではこれを「ロボット工学の三原則と訳している。

一九五〇年、初期の小説をまとめた「I ROBOT」の巻頭にこの三原則を載せて、アシモフはその重要性を喚起している。その三原則を上げてみると、次のようなことになっている。

 

 ロボット工学の三原則

 

第一条          ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条          ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。

第三条          ロボットは、前掲第一条及び第二条に反する恐れのない限り、自己をまもらなければならない。

 

アシモフは、「I.ROBOTT」の後、出版した「ロボットの時代」として同時代を描いた短編集も出しているが、この作品群が雑誌単行本を通じてロボット工学の三原則、つまりロボット・行動体系の倫理規則が、文壇一般に広められた。またこの規則は、他の作家や思想家が、この種の話題を扱うに際し、大きな影響を与えた。その後もアシモフのかいた一連の作品には一見して三原則に反するような行動をとったり、それをめぐる謎を解決するというミステリ仕立ての作品も多いという。この辺りに来ると筆者も勉強不足なので、詳しい解説は、ご勘弁願うとする。

 

 

ロボット法は手塚の独創

 

さてそこでわが手塚治虫に話を戻そう。手塚治虫と言えばすぐに連想されるのが、言うまでもなく鉄腕アトムであろう。雑誌の漫画に、それを基にして、アニメーションとして多数の映像作品が制作され、また映画にもなっている。正義と平和のために、10万馬力の超能力を駆使し奮闘するアトムの活動には、世界中の少年が熱狂したことは説明するまでもない。それはディズニーの作品に匹敵する世界の人気者である。

鉄腕アトムにでてくるロボットにもロボット法は存在する。最初雑誌の連載を始めたときは、ロボット法は、活字化されていなかったが、手塚のアタマの中には存在していたことは確かである。

初出雑誌、「少年」にはロボット法は明記されないが、平成11年に初版を出したサンデー・コミックス(秋田書店)の、鉄腕アトム第一巻では、開巻初頭から、「ロボット法の説明をしている。手塚はこういう方面には、非常な敏感な感性を持っている。

アシモフが、「I ROBOT」を発表したのは、前述の通り一九五〇年であったが、日本でも先駆的SFマガジン「宇宙塵」が、柴野拓美によって発行されたのは一九五七年である。柴野を中心に先駆者である今日泊亜蘭、矢野徹が協力、同人として星新一、小松左京、光瀬流、筒井康孝、眉村卓などの新鋭作家が加わって、この雑誌を中心にSF文壇を作り上げていったのであった。これに手塚も参加している。慧眼、早耳の才に恵まれた彼らが、アシモフのロボット三原則を、早くから知っていたと思われる。

そういう情報は、昭和二七年(一九五二年)四月、アトムの連載が始まったころにはすでに手塚の耳に入っていたと考えていいだろう。手塚は、じぶんのロボット法をつくるにあたっては、アシモフのロボット工学三原則と重なる部分があるが、自分のロボット法は独自に考案したものだと、言っている。

手塚に「鉄腕アトムの生い立ちと歴史」という短編漫画があるが、その中で「ロボットの法律を作ったのは、アシモフよりずっと前なんですよ」と記者の前で強調している場面が描かれている。

私はアシモフの場合は、フランケンシュタイン・コンプレックスから始まった、人間生、神性を、ロボット強化時代に、守る方に重点を置き、手塚は,科学技術の進歩により製造され、人間の進歩、生活を補助するよう、ロボット法の重点を置いているように見える。

漫画の上ではすでに制定され、アトムがサーカス団から、お茶の水博士に引き取られたのも、この法律が制定されていた結果だとされている。其の後ロボット法の内容は、連載の上で徐々明らかされてゆくが、最も具体的内容が載ったのは、「青騎士の巻」(少年、一九六五年・昭和四〇年・一〇月号~六六年三月号)

である。今それをかかげてみる。

 

 鉄腕アトムロボット法

一、          ロボットは人間を幸せにするために生まれたものである。

二、          ロボットは人間に尽くすために生まれてきたものである。

三、          ロボットは人を傷つけたり、殺したりしてはならない。

四、          ロボットは作った人間を「父」と呼ばなくてはならない。

五、          ロボットは何でも作れるが、お金だけは作ってはならない。

六、          男のロボット、女のロボットは互いに入れ替わってならない。

七、          無断で自分の顔をかえたり、別なロボットになったりしてはいけない。

八、          大人につくられたロボットが子供になったりしてはいけない。

九、          人間が分解したロボットを別のロボットに組み立ててはいけない。

十、          ロボットは人間の家や家具を壊してはいけない。

十一、     その目的にかなう限り、すべてのロボットは自由であり、自由で平等の生活を送る権利を持つ。

十二、     ロボット省の許可なくして無断で国を離れた行動をとるものは、エネルギーの無期限差し止め、または解体の刑に処する。

十三、     ロボットは人間を信ずべし。

 

機械工学や文化が進んでくると、ますますロボットに磨きがかかり、自己主張が生まれてくる。人間に奉仕するためにだけの存在に疑問を持つロボットが現れるのは当然だといえよう。

それに一九六〇年代というと、学生運動が燃え盛り、東大安田講堂占拠などという世相になって、作者としてはいい子のロボットばかりでは読者が、不満を生むかも知れないと思うようになるのは当然だ。

いくつかの編で、人間に盾をつくロボットも現れてくるが、そのさいたる一編が、青騎士の巻である。この辺の物語を簡単に記しておこう。

 

 

反逆者、青騎士

 

アトムは多少の波乱があったが、相変わらず学校で勉強をしながら、平和を乱す事件があると、出動、活躍するという生活をしていた。トントというロボットの学友もできた。

所である時、南ア連邦のダイアモンド採掘場に、青騎士と称する騎士風の男が馬に乗って現れた。ここの仕事場は、ロボットをこき使うロボットの敵であるから、爆破すると脅す。警備軍はこれを迎え撃つが、簡単に敗れ去った。採掘場を破壊して、一二人の死者を出し、いずれとなく青騎士は去った……というニュースが世界中に飛び、人々に恐怖を巻き起こす。

ロボット法によって守られている人類はこういう経験をしたことがなかったのだ。

やがて、青騎士は、自分を作った親許であるロッス博士の家に現れる。

青騎士はブルー・ボンと言いロス博士にかわいがって育てられた優秀なロボットであったのだが、ロボットだけの国を作ると家出をしていたのだ。ロッス博士は、何度も引き止めるが、生みの親である博士を捨てても、自分の決心は代えられないと断言する。

「ロボットはロボット法でがんじがらめに縛られています。やりたくてもやれないことがうんとあります。

ロス博士、私はこのロボット法を片端から破ってやろうと決心したのです。」

と叫ぶのにロッス博士は

「そんな無茶なことはやめてくれ。人間にだって法律はある。でも人間はちゃんと守っているじゃないか」と叫ぶ。

「それは人間に都合のいい法律だからです。ロボット法だってそうです。私はロボットのためのロボットの法律を作ります。今日から父と子の縁を切ります。さよなら」と言って青騎士はさった。

ここはインドのデリーの近くロボット分解工場。そこを守備しているのはss18号という豪傑のロボット。単騎やってきた青騎士に「来るなら来い、ss18号の目の黒いうちは指一本触れさせぬ」と立ちはだかった。だが二騎士の決闘は結局青騎士の勝利に終わる。

「もうほかに邪魔するヤツはいないのか。それでは工場を破壊するぞ」

大工場を完膚なきまで叩き壊し、青騎士は悠々と去って行った。それを世界中のニュース網が伝えていた。

「これで青騎士に襲われたところは全世界で三三か所になりました。次にあらわれるのはどこか。各国警察ででは、青騎士の行方を必死に探しています……」

その世界のお尋ね者の青騎士がアトムの家の庭に深夜、突然に表れた。

青騎士はアトム前に立ちはだかって、

「私の仲間になれ」という。

彼は続けて「お前は世界一の素晴らしいロボットだ。だからこうして頼みに来た。

アトム、人間は今や怠け者で、愚かな動物だ。ロボットが力を合わせて立ち上がるのはいまだ」

それを聞いてアトムは驚く。青騎士は「ロボットの一番の幸福はロボットだけの国を作ることだと思う。アトム、そのためにはお前の力がいるのだ。どうか仲間になってくれ。

それとも今までのように人間の奴隷で暮らす気なのか」

アトムは答える。

「ロボットは奴隷じゃない。今でも僕たちは自由だ。」

「いやロボット法がある限り人間の奴隷だぞ,日をあらためてくる、よく考えて於いてくれ」

と青騎士が去ろうとするのをアトムは、それをおさえ、

「君をこのまま行かせるものか。君はまたどこかで人間を殺したり、傷つけたりするだろう!」

「そうだ、それがなぜ悪い」

「人間を傷つけるような奴はこのままゆるせない。僕が邪魔をしてやる」

そこで、二人の一騎打ちが始まる。双方が能力とエネルギ-を出し尽くして戦う。だが戦いは勝負がつかずに終わる。アトムの前から相手の姿はきえた。

場面が変わって、南フランスのある海岸。そこに設置された研究所で、青騎士を倒すために、白騎士が制作された。フランスの科学庁長官は「フランスが誇る五〇万馬力の超ロボットだ。君は人間をまもり、青騎士を打倒すのだ。必ず勝て」と命令する。

テレビでこのことが全世界に伝わったために、突然そこに青騎士が出現する。そして白青の対決が始まった。

「人間の奴隷め」と青がいえば「わたしが奴隷ならお前は恩知らずだ、人間に作ってもらいながら、裏切るとは、何ということだ。」

かくして二人は決闘を始める。激闘の末、戦いは、結局白の首がもがれ、青の勝利となった。

「人間諸君、死んだ勇士のためにフランス国家でも歌いたまえ」と凱歌を上げたが、彼の方も兜が割れ、仮面の内側の顔が現れそうになる。彼は海中深くの逃れてゆこうとする。

だが日本のテレビでこの決闘を知ったアトムが、駆け付けて来たのであった。青が海中に逃げたことをしったアトムは、その青騎士を海中に追って行くのだった……。

 

以上物語の発端を簡単に紹介したが、この後物語は複雑極まりない展開を見せて、永く続いて行くのだが、それを知りたい人は手塚の作品を読んでください。

その物語は、アトムに出てくるキャラクター、アトムの家族は勿論、人間ではご存じお茶の水博士、アトムの生みの親、天馬博士、ヒゲオヤジ、ロボットを目の敵にするブルグ伯爵、四部垣、田鷲警部、ロボットでは主役の青騎士その妹、ロボットマリヤ、弟のロボットトントの他多数の人物、ロボットが登場し、反転、逆転、変転極まりない、複雑なお話となっている。「青騎士」一篇でおわらず「メラニン一族」「ミーバ」の三作続き、本にして二冊の長編となっている。

私が、この漫画を持ち出したのは、あのように平和と正義を謳歌してきた「鉄腕アトム」という作品でも、その後半になると、人間に反逆するロボット、あるいはその集団ができ、ロボット国を繰ろうとしたりするように、人間とロボットの力関係の変化を手塚が、描き始めていることだ。

前に述べたように、人間は、自分が創り出した科学技術の産物によって自らが滅びるところまで行くのではないかという懸念を、すでにアトムという漫画の中で、考えていたことを強調したいのである。

 

 

チュウーブから生まれる子

 

アトムの連載が終わった後、手塚は、幾つかのアトム・ヴァリエイションを発表しているが、その一つに「アトムの最後」という作品がある。

それはアトムが活躍した時代から長い年月がたって、アトムの遺体が、ロボット博物館に飾られてから,五〇年の年月を経たころの話である。

少年丈夫は父と母との三人暮らしの幸福な家庭の子供として育っている。或る団欒の夕べ、母の膝の上で、丈夫は母親に質問する。

「僕チューブの中から生まれたって、ほんと?ママから生まれたんじゃないの?」

「ええそうよ、今赤ちゃんはどこのうちでもチューブのなかでうまれるの」

すると父親が言う。

「昔はお母さんのおなかの中で育ったそうだけど…今はそんなことより、乾燥して保存してある精子や卵子を、チュウーブに入れて、受精させて子供をつくるんだ。」

「フーン、なんだかわけがわからないや。要するにママは楽なんだね。」

と子供は無邪気に言う。

「もう一つ聞いていい?人間て、年をとるんでしょう?ママやパパはちっとも年をとらないのはどうしてなの。」

父親が答える。

「パパも年をとってるさ、お前に比べればのろいんだ」

子供は母に抱かれながら

「僕幸せだね。ママがずっと若いもん。おばあちゃんにならないもん」

団欒の一コマとは読めない。パパもママも、ロボットなのだ。そして丈夫はクローン人間なのだ。

田才益夫が、前述したように、チャペックと言えども人間が生きた人間を生産することは考えもつかなかったろう。ところが今クローン技術によって生殖によらず人間を再生産することができるようになった。今は人間の倫理観という恐怖心がそれを抑制している。もし生きた人間ロボットが出現した時、我々は安心してはいられないだろう。

そう田才は言うが、手塚の漫画の上ではそれが現実になっているのである。恐ろしいのは、それをこの現在の社会でやろうと思えば可能性が大であることだ。(続く)

私の手塚治虫(12) 峯島正行

  • 2013年7月23日 09:57

「RUR」から鉄腕アトムへ

「ロボット」の誕生

チェコスロヴァキアの思想的作家で、おなじみのロボットという名称の創始者、カレル・チャペックが、ロボットを主題にした戯曲「R U R」を発表したのは、一九二一年(大正九年)である。原稿はその前年に脱稿していた。第一次大戦が終わった直後である。一九一八年に、ベルサイユ講和条約が締結されたばかりのときである。

この大戦中、機械工学の発達が著しく、軍事科学が頂点に達したと思われるほど、次々と新兵器が開発され、両軍の兵士の損害は夥しいものであった。戦車、戦闘機、化学兵器などが戦場を暴れまくった。

チャペックの研究家、田才益男はこれまで人間が営々と育て上げてきた「機械文明が実は、人間虐殺の優れた道具になり得ることを第一次大戦が証明したのを目の当たりにして、機械文明に疑問をもつようになる」(チャペック戯曲全集 八月社 二〇〇六年 訳者あとがき)という。

チャペックは、その一方朝夕、神に額づき、額に汗して、耕す古い伝統の中にもいいものものがあるという心境にもいたる。チャペックのそんなところは、後年の手塚治虫にも通ずるところがあると思われる。

そしてドイツ帝国は崩壊、ソビエト連邦の誕生、国際連盟の進展などがあり、二度とあのような人間の大殺戮は行われないでほしいと全世界の人々が願っているとき、このロボット物語は発表されたのだ。

「R U R」の正式な名称は「Rossum‘s universal  robots―ロッサムズ・ユニバーサル・ロボッツ」で、タイトルは英語になっている。本国ではエル・ウー・エルと、チェコ語読みの表記で通用しているそうだ。ロボットという言葉はこの時初めて使われた、全くのチャペックの造語で、この戯曲が発表されてから、一般語として世界に通用することになったのである。わが手塚治虫の「鉄腕アトム」もそのロボットの一つである。

ロッサムズ・ユニヴァーサル・ロボッツとは、未来のとある孤島にあるロボット製造会社の名称なのだ。この企業ではすでに多くのタイプのロボットを製造し、世界中に輸出している。人々は、このロボットをありとあらゆる生産労働に従事させている。その社長、ハリー・ドミンは、劇中で次のように言う。

「……10年後までに、ロボットはたくさんの小麦を生産し、多くの織物そしてほとんどすべてのものを生産するから、いわば物にはもはや価値がなくなる。さあ、みんな欲しいだけ取れです。貧困はありません。そうです、労働ななくなるでしょう。そして仕事は存在しなくなります。すべてを生きた機械がやってくれます。人間はただ好きなことやればいい。ですからひたすら自分を完成させるためにだけ生きることになるでしょう。やがて人間が人間に仕えるということはなくなり、物質に対する人間の隷属もなくなるでしょう。もはやパンの代価を生命と憎しみで支払う必要もなくなります。」(田才益夫訳、チャペック戯曲全集、RUR)

と、ロボット製造会社のドミン社長の言うことは、最初の段階では正しかったといえよう。

ロボットに滅ぼされた人類

かくして労働から解放された人間はどうなったか。女性は子供を産まなくなり、出産率は0パーセント、出生率0パーセントの日が続く。

やがてロボットが世界中にあふれんばかりに行き渡った。ロボットの人間に尽くす姿に対して、ドミン社長の夫人、ヘレンの、ロボットにも人間的な心の働きを与えるベきだという主張が通ってしまった。

ロボットは泣きもし笑いもして、自己主張をするようになってしまった。その為にロボットは人間に抵抗することを覚え、ついには人間に対する反乱がおきて、圧倒的に数において優勢なロボットによって、人類は滅亡する。

ところが思いがけない、ロボット世界に衝撃が走る。ロボットは機械工学の産物だから、自然摩耗して末期にいたる。その生命は二〇年程度しかない。しかしロボットたちは,自分自身を製造する方法を知らない。その製造法を記した膨大な書類は、ロボットをこれ以上造ってほしくない、という社長夫人ヘレナによって焼却されていたのだ。

ロボット社会に生き残った、たった一人の人間がいた。ロボットとともに労働することに生きる意味を見出していた建築技師、アルキストであった。ロボット社会の滅亡を前にして、ただ一人の人間となった彼は全ロボットの崇拝の的になるが、彼とてロボットの、再生はできない。

そのうちに犠牲者たらんとするロボットが名乗りでた。自らに、その体を解剖して、新しい生命しい命を作ってくれと嘆願した。アルキストたちが努力してようやく生命を持つ一対ができたが、ロボット社会は既に消え失せ、あらたなアダムとイブによって人間再生の第一歩が踏み出される。

というのが物語の骨子であるが、これを読んでゆくと、当時のチェコ国民の不安というよりチャペックの時代に対する反発が、物語の背景にあるように私には思えるのだ。

この物語が描かれて十年語には、ヒトラーのナチスによって侵略的独裁主義政治が確立された。やがてチェコスロバキアが、最も強くその影響をうけ、チェコ固有の地、ズデーテン地方をヒトラーにむしりとられ、ヒトラーの侵略欲はとどまるところを知らず、チェコ全土の占領のまで発展し、ついに第二次大戦に突入してゆくのである。こうしてチャペックの最も恐れた事態へと、全人類は突入させられてゆくのである。

第二のロボット「山椒魚戦争」

チャペックはもうひとつ、RURと並んで、恐ろしい警告の物語を発表している。それはナチスが隆盛を極め始めた一九三五年に新聞に連載され、翌三六年に出版された小説「山椒魚戦争」である。来栖継の翻訳で、岩波文庫に入っている。今それによってこの小説の内容を概観してみる。

東南アジア一帯の海域で、仕事をしていたオランダ船の船長が、偶然インドネシアの小島で、人間の言葉を理解し、道具を扱ええる山椒魚の群れに遭遇する。彼らに教えると真珠貝を海底から探してくることが分った。

船長は彼らを使って真珠の採取を事業化する可能性を見出し、本国の大事業家と連絡し、その協力で、この事業化を創める。

この島にやってきた青年たちによって山椒魚の存在が喧伝され、山椒魚の学問的研究も行われ、また見世物などにも登場させ、彼らが会話できることが世界に知られていった。

山椒魚の発見者の船長が死ぬと、大事業家は、真珠採取という一事業から撤退し、山椒魚が海中でのあらゆる作業に使えることに着目し、その力により海底の大開発に着手した。それが、成功をするのだが、この時点で、山椒魚は六〇〇万頭を数えた。

そして山椒魚の利用は世界に広まり、山椒魚の方もその間に、多くのことを学び取り、彼らの生活も向上した。そして彼等を利用することで人類にも多くの富がもたらされた。だが一方、山椒魚の独自性の意識も向上した。

世界の各国は山椒魚を武装させ、海面下で戦争を起こさせるに至った。既に山椒魚の個体数は、人間をはるかに超え、人間社会は山椒魚に強く依存するようになっていった。

そのことを危惧する識者も現れ、山椒魚は人間の未来にとって危険だという意見もでてきた。

ある日アメリカの海岸線で大規模な地震が起き、陸地が広く埋没した。つづいて、中国、アフリカで同様な現象が起こり、世界は動揺する。すると山椒魚総統が、人類に対する反抗声明をだした。それによると、今までの大事件のすべては山椒魚の手によるものだというのだ。山椒魚は生存上、浅い海域が必要であって、人間はそのための技術供与を惜しんではならないと主張していた。

人間への革命であり、反逆であることがここにはっきりした。世界各国は、これに対抗して、山椒魚への攻撃を試みるが、ことごとく失敗し、さらに海上封鎖が行われて、窮地に人間は陥る。そして陸地の水没は続く。かくて人類は滅亡に向かう。

この長編では、山椒魚が人類を滅ぼした後山椒魚は二つの、グループにわかれ激しく抗争し、果ては食うか食われるかの戦争を起こすが、化学毒液や培養した殺人用バクテリアを平気に使ったために、世界中の海洋が汚染され、結局、山椒魚は全滅してしまう。

科学技術の進歩は幸福を呼ばない

このように人間は自ら作り出し山椒魚によって滅亡され、その山椒魚もまた戦争で、自ら全滅してしまう。まさに先のロボットの二の舞である。

「山椒魚戦争」の文庫版の巻末に訳者来栖の解説が掲載されているが、その中で訳者は次のように述べる。

「私は『山椒魚戦争』をチャペックに描かせた最大の要因は、人間は自ら作り出したものによって滅びるのではないか、という恐怖ないしは危機感ではないかと思う。つまり「R・U・R」のロボットが山椒魚に姿を変えただけのことなのである。そしてその山椒魚は、その後、現実の原水爆・核兵器となって、我々人類を死滅させようとしている。科学、技術の発展は、さらに『公害』をいたるところにまき起こし、このままでは地球上の人間の生存そのものが危ぶまれるほど」だといい、さらに次のことも付け加えている。

チャペックが生きていた時代の様相から見て、かれは「人間自ら創り出した科学・技術によって滅びるというよりも、やはり、人間の中から生まれた全体主義的な思想、哲学、体制によって発展を阻害され、滅亡する危機に立っているということの方が、より強調したかったのではないか、と思えてきた」

とも述べている。これはヒトラーのナチス、ロシアの一党独裁共産革命をさしているといえよう。

山椒魚が出版されて二年後、チェコはナチスドイツ軍のために、全土を占領され、反ファシズム、反ヒトラーを露わにした、この書が、ドイツからにらまれるのは当然であろう。「山椒魚」の終わりに近く、人間と戦争する山椒魚軍の総指揮官が、実は人間であって、その男は本名をアンドレアス・シュルツェといい、第一次大戦中はどこかで曹長を務めていたと、さながらヒトラーを思わせる記述をしている。これだけでもナチスとしては、許せなかったに違いない。

チャペックは幸か不幸か、祖国がドイツに蹂躙される前年のクリスマスの朝、肺炎でこの世を去った。翌年、チェコがドイツに占領された時、早速、ゲシュタポ(ナチス・ドイツの秘密警察)が、チャペックの自宅にやってきた。

作家であり俳優でもあったチャペック未亡人オルガ・シャインブルゴバーは「残念がら、チャペックは昨年のクリスマスになくなりました」と皮肉を込めて言ったという。

チャペックの世界では、ロボットにしろ、山椒魚にしろ、機械的に、科学によって実現された、あるいは養成された最高の機械であり家畜である。それによって人類は滅亡したしたのだが、チャペックの研究家、田才益夫は、さらにその先を心配して、以下のように書く。

「チャペックと言えども、まさか将来、人間が生きた人間を生産できるようになろうとは、想像もできなかっただろう。ところが、今、クローン技術によって、生殖によらずして人間が人間を再生産することができるようになった。」

このことに説明を加えると、人間の生殖細胞を取り出し、人工的に人間を生ますことをクローン技術というが、それにより、同じ遺伝的特徴を持つ子を人工的に生産することができるのである。つまり同質人間の大量生産が可能になったのである。まだ人間は、はその実行には移っていない。人類の倫理がそれを許さないからだ。

田才は続けて言う。

「ロボットが機械である限り、それがどんなに人間に近づいても、人間は恐れる必要はないだろう。生きた人間のロボットが、出現した時、つまり怖いのは人間が機械になる時だ」というように語っている。

以上要するに、人間は今に科学知識を向上させても、その為に自らに首を占める結果になるし、また科学が生み出したものを政治的、独裁的権力者の手に渡るときは、戦争は尽きない、したがって人間の衰亡に導かれる……。チャペックの考え方を推し進めると、このように要約できるのではないか。

そうして、わが手塚治虫の心情の奥においても、ほとんど同じような思想が隠されていたのではないか、と私は思う。おいおい、それを作品の上から探ってゆくのであるが、ひとまず、この問題を棚の上に置いておく。

「鉄腕アトム」は何をもたしらたか

この回の初めから、ロボットという言葉が何回も出てきたが、単純に日本で「ロボット」という言葉からまず連想されるのは、『鉄腕アトム』であろう。この手塚治虫の作品の内容は、だれでもご存知だろうから説明の用もあるまい。

そしてそれがアニメ化され、あのかわいい無敵なアトムが、軽快な小気味よい主題曲のメロデーに載って、大空に、宇宙の果てに飛んでゆく姿を、茶の間のまのテレビで、眺めた頃を思い起こすだろう。

チャペックのロボットと違って、あれだけ人に愛されたロボットはなかった。アメリカをはじめとする外国でも、あのアニメは放送され、いわば世界のアイドルであった。

「鉄腕アトム」は昭和二六年に雑誌「少年」(光文社)誌上で生まれた。最初連載は「アトム大使」という題名で一年続いたが、その中の登場人物として、アトムというロボットが出ていたが、強くてかわいいという主張でアトムを主人公として、新たに連載が始まった。

「ロボットが主人公になるが」

という手塚に対して、編集部ではそれも面白いだろう、という返事だった。新しいロボット漫画として、手塚は期するところがあって「鉄腕アトム」を描きだした。

それが圧倒的な人気が出て、昭和四三年(一九六八年)まで、掲載が続く。その後もいろいろな形で、雑誌に掲載され、それらが様々な形で、出版された。昭和五六年の段階で、その発行部数は、1億冊を突破したというから、驚く。

一歩映像化の方は、昭和三三年から、初めての国産テレビ・アニメーションとして、手塚が主催する「虫プロ」で制作、フジテレビで放映された。

この虫プロ第一作は、平均視聴率30%を超える人気を博した。やがてはカラー版の二作目も登場した。その後もいろいろな形式で、映像化されている。「アトム」は日本人全体の心の奥底に浸みこんだといえよう。手塚が国民作家たるゆえんである。

この物語の中では、アトムはいつの頃活躍したのか。ロボット製作技術が進歩し、プラスチックから、人造皮膚が発明され、それをロボットに取り付けて、それまで金属製だったロボットがやっと人並みの体になった。それは1978年ごろであった。そのころから、世界各国では自分の国のロボットの技術を隠し始め、ロボットの輸出も禁止された。

しかしロボットの技術は日に日に進み、、普通に話もでき、怒ることも笑うことも、人間並みとなり、人間の仕事は何でもできるようになった。

政府の科学省では、年に五千体のロボットを生産するに至った。かくしてロボット人口は増えてゆき、学校でも、人間と同じように勉強するようになった。そして、ロボット法という法律ができた。

その内容は、例えば第1条は、ロボットは人間を幸せにするために生まれたものである。第13条では、人を傷つけたり、殺したりできない。

これらの法律は厳重に守られ、ロボットと人間の関係は、緊密なものになっていった。

手塚はこのロボット世界の進行について、「『鉄腕アトム』は昭和26年に始まりましたが、以上にのべたロボットと人間の関係は昭和二六,七年頃ぼくが未来を想像してかいたものです」といっている。(アトム誕生 一九七五年6月20日 朝日ソノラマ『鉄腕アトム』①)

アトムというかわいい少年ロボットは、そうした中で生まれた。だがある事件で、アトムは商人の手で、売られ点々と苦労の放浪しいていた。

そのアトムを救ったのはお茶の水博士だった。サーカスに出ているアトムを一目見て、ただ物でない天才的能力を秘めていることを見抜いた。博士は直ちにアトムを引き取り、深い慈愛のもと、親代わりとして勉強させ、訓練し、あの強くてかわいい鉄腕アトムを完成されたのだ。

そうして出来上がった能力を列挙すると、1、ジェット噴射で空を飛び、身体が宇宙ロケットにかわる。2,六〇か国語を自由に操る。3、人間の心の善悪を感じ取る能力がある。4、聴力を千倍に出来、目がサーチライトになる。5,お尻からマシンガンを発射でき、6、その体力は十万馬力に達する。

このような超能力を発揮して、正義のため、平和のために、人間への愛情のため、あのかわいい姿を以って、大空を、宇宙のかなたに、ががたる山中に、深い深い大海の底まで飛び回り、走り回る姿に、雑誌のうえで、茶の間のテレビの前で、日本中の、いや世界中の人の心を躍らせたのであった。

だがしかし、手塚は前掲漫画書の中で、自画像に語らせている。

「昭和二六年からもう三〇年近くたっています。コンピューター文明はひましにすすんでいます。

しかし科学全体から見たらどうでしょうか。

ロボット法の第一条の「ロボット」を「科学文明」に置き換えてみたとき、「科学文明」は、はたして人間を幸せにできたでしょうか……」

この手塚の言葉を押し詰めてゆくと、カレル・チャペックの懸念、憂慮と同じことになりはしないだろうか。(つづく)

私の手塚治虫(11) 峯島正行

  • 2013年5月10日 13:30

戦争で鍛えられた愛の精神

手塚漫画の根底にある生命愛と反戦

手塚漫画の根底にある生命愛と反戦

修練所のしごきに耐えて

手塚の漫画を描く根本思想は,まず生きとし生けるものを愛する心である。もう一つが、反戦である。全体主義、独裁的権力によって戦争が起こされ、愛すべき多くの人や生物が殺される。

近代になって飛躍的な速さで、発達する科学、技術が、この独裁的政治勢力によって、戦争の道具にされてきて、生きるものの命が奪われてきたことが、現代の最大の問題だ。そういう状況が起きないように、心底から願う、これが手塚の漫画を描く精神の奥深く蔵されていた思想だ。

「人間ども集まれ」も、その心情で貫かれている。

手塚がこういう精神をきっちりと掴んだのは、彼自身の戦争体験から来ている。

手塚は戦争中、まだ中学上級生の頃、強制修練所に入れられた経験を、「ぼくはマンガ家」という自伝的文章の中で、以下のように書いている。

「修練所のシゴキは凄かった。畑仕事や教練はまあ我慢できるとしても、我慢ならないのはほとんど絶食に近いくらいの食事の減量だった。目はおちくぼみ、腕は鳥の脚のようになり、ものをいう元気もなくなってきた。教官だけは、どういうわけか丸々と肥え太り、元気旺盛だったので隠匿品があるのだろうと噂が立ち、とうとう教官室を襲撃しようかという計画まで企てた。しかしこれは実現しなかった。

ぼくは、こんな所から逃げ出そうと思った。しかし修練所の周囲には鉄条網が張り巡らされ、付近の地面は蟻が歩いても、足跡がつくくらいで、とても脱走はできない。

『だが俺は脱走して見せる』

『馬鹿、日本刀で切られるぞ』

『このままいたって餓死するだけだ』

ある夜、皆が寝静まるのを待って、ぼくは修練所の窓から抜け出した。ひんやりとした、おぼろ月夜だった。僕はあぶら汗を流しながら鉄条網をくぐり、足跡を消した。草をかき分けて本道へ出ると、やっとシャバへ戻った安心感がこみ上げてきた。電車に乗って,ほうほうの態でうちまでたどりついた。

ふらりと玄関を入ると、出てきた母は、腰を抜かさんばかりに驚いた。幽霊だと思ったそうである。

『腹がへった』

と、一言いうと、ぼくはへなへなとすわりこんでしまった。母は、家中から食べ物という食べ物を出してきて、ぼくに食わせてくれた。ただもうありがたかった。食糧といえば、乏しい配給だけの時代だ。おそらく家中の食物を洗いざらい食べてしまったに相違ない。

腹ができてホッと落ち着くと、また不安になってきた。母は修練所へ帰ったほうがよいという。しかたなく、また電車に乗って草深い鉄条網の中へ帰っていった。何食わぬ顔で寝てしまったので、誰にも気づかれず済んだ。」(『ぼくはマンガ 手塚治虫自伝・1』大和書房 一九八八年)

この文章は、手塚の一本気で勝ち気な性格をよくあらわしたものであるが、手塚の伝記資料を読み、このくだりにくると、私は涙がこらえきれない。彼と同年代で、学生時代に同じような経験を経ているためかも知れない。

おなじ場面を『手塚治虫物語』(伴俊男・手塚プロダクション 朝日新聞 一九八二年)という手塚の生涯を絵物語にしている文献では、ちょっと違う表現をしている。

修練所から実家に逃亡した学生は、手塚だけでなく、結構いたことになっている。逃亡を見ぬふりをして助けた仲間は、逃亡者の「土産」をあてにしていたような表現になっている。手塚の場合も、彼の母が作ってくれた蒸しパンを、旧友と分かちあって喜ぶ情景が描かれている。

単行本「人間ども集まれ!」

単行本「人間ども集まれ!」

前記の文章より、この絵物語の方が真実に近いと言えよう。

終戦間近いあのころは教育のありようも朝令暮改と言ったらいいか、上からの達しでいつのまにか制度が次々、変えられることがあった。そのため、私も手塚と同じような経験をさせられた。

昭和一九年の夏休みの前に、修練という科目が課されることになった。それは戦場へ行ったとき、困窮に耐えられる体を作るためだ、という説明だった。

私はその頃専門学校の学生だったが、週に十何時間の教練の時間のほかに、運動部の剣道部、柔道部、航空部とか、兵隊として役に立つ運動部の班に所属しなければならなかった。私は航空部のグライダー班に所属した。グライダーに乗る訓練も、毎週多摩川の河原で受けていたのである。

こうして学問をする時間がものすごく少なくなっている。その上修練という科目が付け加えられ、肉体の修練なんかさせられたら、学問どころではなくなる。学校は兵隊養成所と化していた。

ともあれ手塚さんと同様に、私たちにも修練所ゆきが通告された。訓練期間は8月の夏休み中とのこと

行く先の修練所は、千曲川の源流、甲武信岳の麓、高原列車小海線の「信濃川上」から四キロ山に入ったところにある長野県立の修練所だという。われわれは大いに喜んだ。食糧も特別に配給されるという。

学徒上がりの配属将校が指導教官として、助手二名を連れて参加、学生食堂の調理主任夫婦が付き添い、「せいぜい山の中の食品を使って旨いものを作ってやろう」と張り切った顔を見せた。

日本一高所を走るという、小海線を降り、トラックに載せられ、現地に到着。信濃川上と言えば、今日の若者にとっては レジャーのメッカみたいなところだが、当時は険しい山と、深い谷川、狭い高原の畑に桑がおい茂る寒村だった。そこに湿った冷たい空気が冷え冷えと流れていた。

宿舎も新しく修練にはいい場所には違いなかったが、なんとなくうら淋しい建物だった。

引率者から訓練生まで、期待外れのわびしい顔になった。さらに夕食時には、絶望的な気持ちに、落とされた。

村役場も長野県も宿舎を貸すだけで食料、副食物の援助は何もないということであった。われわれが持参した一日当たり二合三勺の配給米と、村から支給される普通の配給の野菜しか食うものがない、ということが分った。張り切っていた学生食堂の小父さんも手が出なかった。

翌日から手塚さんが訓練所で経験した通りの日が続く。そのあたりは穀物が高地のためにとれない。わずかばかりの雑穀やそばを、土地の百姓は貯え、それと寒冷の地でもできる馬鈴薯などを、主食にしているらしかった。

夜ひそかに仲間の学生が、村の百姓に頼みジャガイモを僅かばかりふかしてもらったり、そばの団子を作ってもらったりしてきたのを、皆で分け合って食って、飢えをしのぐ有様。

文部省の命令で横浜から訓練にきたのに、それに対応する受け入れ態勢の用意が、県からも、農林省からも届いてないのである。

或いは戦争末期で、もう学生を訓練する米さえなかったというのが実情かも知れない。

小川ほどの谷川である千曲川の水源のすんだ冷水を、すき腹に流し込みながら,つくづくと戦争を恨んだ。

戦争末期に中学や高等専門学校に学んだものは、皆同じ思いをしたのだ。手塚の戦争嫌いのもとにあるものは、終戦までの一,二年間の学生生活にある、と私は思っている。

 

焼夷弾の雨の中で

私たちは、修練という科目の訓練に行った山奥から帰ると、通年動員がかかった。通年動員とは、学校に行かず工場で働くのであるが、学生である証拠に、月に何日か学校に行って勉強することになっていた。

手塚の場合も同様であった。大阪府立北野中学の四年生は、淀川下流の三国という場所にあった、飛行機格納庫の屋根にするスレートを造る工場で働かされた。昭和二十年に入ると米軍の空襲が激しくなった。

手塚の著書『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)から、抜粋させてもらう。

「戦争末期、淀川沿いにB29が大編隊を組んで、大阪と阪神沿線を空襲にやってきました。淀川は格好の目標で、B29大編隊は紀伊水道から上ってくると、まず淀川を見つけ淀川に沿って上がってゆきます。軍需工場に爆弾を落として、帰りに余った爆弾を淀川下流の民家などに無差別に落としてゆく」

こんな日々が続いたあと、六月の大阪大空襲へと続く。その日、見張り役として、工場の火の見やぐらの上で敵機を見守っていた。普通は警戒警報のサイレンが鳴ってから、空襲警報が鳴るのであるが、どういうわけか、この日はいきなり空襲警報が鳴り、監視塔の手塚の目にB29の編隊が、自分の方をめがけて飛んでくるのが眼に入った。空襲警報が鳴ると見張りのものは塔から降りて、防空壕に非難することになっていたが、この日はそんな暇はない、大編隊は手塚の頭上で、焼夷弾の雨を降らせた。淀川付近の工場や、民間の住宅に焼夷弾の雨が降り注いだ。

手塚は頭を抱えて空を見上げていた。敵機が手塚の頭上に来たと思ったら「キューン」という音がした。その音はごく近くに焼夷弾が落下する時の音だ。

「もう駄目だ」と観念し、監視哨の上で、うずくまった。焼夷弾は、長さが一メートルほどの小型爆弾が三十個か五十個とかにまとめられ大型爆弾となっている。そいつが落とされると、地上近くになってばらばらの小型爆弾となって降り注ぐのだった。

私は横浜の専門学校の裏山を削って造った教練場に、空襲に来たB29が去る時、残り物の焼夷弾を捨てて行った跡をみたことがあった。

広い赤土の原に、縦横約1メートルおきに、小型焼夷弾の殻が半分突き刺さったままたっているのだが、それが整然とした正確な市松模様を描いているのに驚いたことがある。

その焼夷弾の束が監視哨をすり抜けて、バラバラにばらけて落ちて行った。下の監視所の屋根の穴をいくつもあけて、焼夷弾が突き抜けて行った。忽ち火の海になった。

「ああ、自分は助かった」とその瞬間、無意識に、駆け下りた。

焼夷弾は塔の下の防空壕の屋根を突き抜け、その中で爆発をしていた。

辺りには手塚の学友は勿論、大勢の工員さんが手足しをもがれ、首をもがれ、無残な屍の山を築いている。

手塚は逆上し、一散に工場を駆け抜け、淀川の堤防に逃げたという。本能のさせる技だろう。

淀川の堤防は、空襲警報が鳴った時に避難所に指定されていた。そこに多くの人が避難してきていた。そこに敵機が何トンとういう爆弾を、その堤防をめがけて無差別に落としていった。避難した人は皆殺しだ。手塚が堤防に逃げ上ると、死骸累々、山を築いていた。淀川の河原では食糧増産だといって牛を飼っていた。

「そこへ爆弾が落ちて、人間もウシも一緒くたに死んでいる。ウシは黒こげになって煙が出ている。ビフテキみたいな臭いがぷーんと漂っています。」(『ぼくのマンガ人生』)

この辺り手塚でないと書けない表現だろう。上流にある淀川大橋にも直撃弾で破壊された。大橋の下に逃げた人々は皆死んだ。北の方を見ると、大阪、阪神間の方は真っ暗な空の下が、赤黒く光っている。「地獄だ」そう感じた。

もちろん汽車も電車も止まった。宝塚の家迄徒歩で帰らなければならない。火がボウボウ燃えている中からやってきた避難民が、阪急沿線を歩いている。その一人となって、空襲下の汚れた空気で真っ黒になった姿で歩いた。

豊中辺りに来ると、さすがに被害が及んでなかったが、腹が減って喉が渇き、歩けなくなった。道路際の民家にとびこんで

「僕大阪から歩いてきたのです。おなかがぺこぺこで歩けません。食べ物があったら下さい」

と出てきた小母さんの優しそうな顔に向かって言うと、そこにへたり込んでしまった。

「まあ学生さん、かわいそうに」

といって、大きな握り飯を作ってくれた。お茶も入れてくれた。どこの家も、1日二合三勺の配給で、食糧が窮迫している時代で、おばさんの親切が身に浸みた。その握り飯をほおばると、涙が流れた。

二,三日して、その辺も空襲に会い、その家も焼けてしまった。親切な小母さんの行方も知れなかった。

書き貯めた漫画、三千枚

その頃、手塚が家では勿論学校の授業中、動員された工場の寮で、孜々として書き貯めた二千枚か三千枚かの、漫画の原稿絵を蔵していたことは、手塚の伝記に興味のある人は皆知っていることだ。

この空襲で手塚の友人の家はあらかた焼けてしまった。

「ぼくが描き貯めた漫画の原稿を、ごっそり貸してあった友人の家もきれいさっぱり焼けてしまった。焼け跡に舞い上がった灰の中に何百枚かの丹精を込めて書いたヒゲオヤジやアセチレン・ランプたちが昇天していった。ついでだが、ヒゲオヤジ、アセチレン・ランプは、ぼくが中学生のとき、すでに作ったキャラクターなのだ。

もう国のため一身をささげる意欲を全く失ったので、それ以来、ほとんど自宅にひき籠って漫画を描いていた。たまに工場に顔出しても原料の攪拌機の後ろへ隠れていて、配給のパン一週間分を食べてしまったり、蛮唐(バンカラ)の持ってきた煙草をふかしたりする……」(『ぼくはマンガ家』)

蛮唐というのは、腕力の強い不良というか、右翼というか、要するに、番長とかガキ大将みたいなものだ。中学生の間で、幅を利かせていたらしいが、こいつが手塚の漫画を気にいって、手塚の保護者になってくれた。時々美少女の絵など描いてやると、喜んだという。

そのうちせっかく描いた漫画を誰にも見せないで置くのはもったいない、どこか発表するところは無いか、二人は相談して、工員用の便所に張ることにした。

「あそこなら教官とか、えらい奴は入ってこないぞ」

ということで一頁ずつ、トイレの壁に貼った。朝早く来て、貼り替えるのである。客が便器にしゃがんだ目の前に来るように張るのだ。これは相当長く続いた。

彼の住まいのある宝塚の近辺も空襲の洗礼を受けており、夜になると尼崎、伊丹、仁川の街に、焼夷弾の雨がまるでクス玉のから出る紙テープのように、はるかかなたに降っているのが見えた。

「僕は自分の部屋にうずたかく積まれた原稿の山を見た。三千枚近くある。色が変わって黄色くなったものや、埃を被ったもの……どうせ日の目を見ることはあるまいと思ったが、焼いてしまうのは何となくもったいない気がした。そして、八月一五日がやってきた」(『ぼくはマンガ家』)

通年動員と横浜大空襲

私は漫画以外のことは、当時、手塚とすべて同じような経験をした。先に述べたような昭和一九年の夏が終わると、通年動員で、鶴見の海べりの、化学工場に連れてゆかれた。

その工場の技師によれば、B29迎撃用のロケット戦闘機の燃料となる炸薬を製造する工場の建設が、ぼくたちの仕事だという。

「このロケット飛行機が量産されれば、B29などいくら来ても撃退できる。もう試作機がドイツから来た技術によって出来上がっている。あとは生産するだけだ」

戦後にわかったのだが、このロケット戦闘機は「秋水」と名づけられていた。だがいかに優秀な飛行機でも、これからロケットの炸薬を作るのではなく、炸薬を作る工場を作るというのでは、戦争に間に合わないではないか、と私たちは思った。もうマーシャル、カロリン群島はとうに占領され、そこにB29が配され始め、日本領空を飛んでいる。

マルロとなづけられた、このプロジェクトは、機材、運送などすべての軍需産業に優先する、君たちも頑張ってくれ、と技術者は我々に言う。

だが実際に仕事について驚いた。建設用の機材が何もない、トラック一台、起重機一台さえない、ほかはおして知るべきだ。原始的な機材で、私たちか弱い肉体の労働力で、この重大な工場をつくるというのだ。

劇薬の材料液を電気分解するために、電解槽が必要なのだが、機材がないのでこれを陶器で代用するというのだ。その陶器の電解槽が、瀬戸の陶器工場で焼いて作られたという。その電界槽が鶴見に着くのを待ったが、中部大地震で、その陶器の電解槽は全壊、シャレにもならないが、もう来ないことになった。桐生高工出の技師は仕方がないから木製で、これにピッチを縫って代用するというので、我々も驚いた。それが軍の命令ならやらざるを得ない。

電解層に、硫酸アンモニアとかいう劇薬を入れて、その両側の電極を通して電気分解すると、過酸化水素というものができる。これがロケットの炸薬なのだという。

その電極となる白金は、国民から宝石類を供出させて作られ、工場の片隅に積んであった。木製の電界槽から劇薬が漏れないようにするためのピッチを塗り、試験管を並べた冷却装置を作るというのだから、今から思えば、噴飯ものだが、私たちはその作業を強いられた。ものすごい肉体労働だった。

それでも何か月のちには、工場らしいものが出来上がった。私たちの素手で作られたようなものであった。電気を入れると、1升ほどの炸薬が出来たという。戦争の役に立つはずはない。

その上、翌日の夜中の空襲で、私たちの成果は、灰燼にきしてしまった。あまつさえ私たちの面倒をよく見てくれた、寮に泊まっていた女子事務員の何人かが犠牲になった。学生たちは皆泣いた。

考えてみればいかに軍が無能であっても、資材がないのに、こんな無駄なことがあっていいものか。私たちは手塚と同じように、虚無と絶望感にとらわれ、何もする気も失われた。

それから川崎の海岸の製鋼工場に配属になったが、ニヒルな思いで通うだけであった。そういう我々を米軍の戦闘機が、川崎駅の前で、ぐいーんと急降下して機銃掃射をしたりした。

昭和二〇年年五月二五日、その日はB29、五〇〇機と艦載一〇〇機という空前の大編隊に襲われ、真昼間、半日にして、灰燼に帰した日である。

わたしはこの日はちょうど学校に登校する日に当たっていた。その日の午前、横浜の六角橋の山の上にある専門学校に行く途中、空襲警報が鳴った。学校の門まで行くと、同級生たちが、危険だから校舎に集まっていてはいけないと、追い出されてきた。私は一瞬どうしようかと思ったが、友人の一人が「警報が解除になるまで、俺ん所にきておれ」と彼の下宿に連れて行ってくれた。

警報下でも学生は暢気なもので、窓に腰かけて、和辻哲郎かなんかについてお喋りをしていると、いきなりドドーンと焼夷弾が裏に落ちて、下宿の家が傾いた。ラジオが敵機は京浜地区に侵入しつつあり、と放送していたので暢気に構えていたのがいけなかった。

下宿のおばさんたちは、近所の防空壕にすでに避難していた。

友人と二人で律儀に、バケツに水をくんでは消火に努めていた。その時ふと気がついて、表通に私は出てみた。向こう一面真っ黒な煙を出して燃えているではないか。群衆が下宿の前を通って、神奈川工業学校の方に、逃げてゆく。私たちの学校のある山の方に逃げればいいのにと思って丘の方を見ると、群衆が駆け下りてくる。

私はあわてて友人に言った。ここでぐずぐずしていると焼け死ぬぞ、すぐ逃げよう。私は友人の布団一枚と自分の鉄兜を持ち、逃げようとすると、友人は本箱の前で躊躇してから、おもいきって西田幾太郎の『哲学の根本問題』一冊を鞄につきこんで、私と表に出た。それから、雨のように降る焼夷弾の中を、布団を笠に、群衆に押され逃げ回った。

結局気が付くと東神奈川の駅から、線路の上を逃げていた。そして線路の段差にあるところに、排水溝が流れていた。その溝の中に、腰を据えて、火の手が収まるのを待つことにした。向かいは石垣で、その上は道路である。道路の並木に馬をつないだまま、馬方が逃げたらしく、その馬が焼け死ぬ様を見せられた。私たちの周囲は逃げてきた人がいっぱいで、体中火傷しているおばあさんもいた。

ここに落ち着くまで、いかに多くの人が焼けただれ、直撃弾で倒れたのを見たことか。焦熱地獄である。空は真っ黒、四方に真っ赤な炎がメラメラ首を持ち上げている。

何時間かすると、周辺の火が収まり、命が助かったのを確認できた。

二人は、道路に這い上がり、反町の通りを歩いて、友人の下宿のほうに歩いて行った。男、女、大人、子供を問わずやたらに死体が転がっている。それをよけて歩き、下宿のあった場所に行った。幸い下宿のおばさんは無事で我々を迎えてくれた。その焼跡を見ると友人の本箱が、元のままの形で、真っ黒い炭と化していたのだった。

それから三ヶ月足らずで、八月一五日を迎えるのであるが、手塚と言い、我々と言い、戦争末期に、ものの分別が付き始めた頃、終戦迄の二年程の間に学生生活を送ったものには、共通した感覚があるのではないか。戦争反対の考えにおいても、生きる感覚においても、相通ずるものあるように、私には思えてならない。

私は手塚の書いたものを読むと、おのずから、腹のそこから、共感、同感するものが湧き上がるのを禁じ得ない。

手塚の敗戦感、戦争観に、私は自分と共通するものを、いつも感じてならない。そして手塚の作品なり、文章をよむと、そのことに感動して、涙が出てくるのである。

シャンデリアの光に感動

八月一五日の夕方、手塚は一人阪急電車に乗って大阪の街に向かった。その時の感慨を次のように書いている。

「大阪に着きました。阪急電車の駅は焼け落ちて鉄骨だけになっております。其処から阪急百貨店の下のホールを出ると、なんと阪急百貨店ホールにシャンデリアの明かりがパーッとついているのです。

それまでは灯火管制と言って、夜になると電灯を消さなければいけなかったのです。電灯を消さないまでも、まず黒いカーテンで窓を覆って、電燈にも黒いシェードをつけて、そのシェードから漏れるわずかな光で本を読んだりしたものです。(中略)

八月一五日の夜、阪急百貨店のシャンデリアがパーッとついている。外に出てみると、一面の焼野原なのに、何処に電燈が残っていたのか、こうこうと街灯がつき、ネオンまでついているのです。

『ああ、生きていてよかった』と、その時初めて思いました。ひじょうにひもじかったり、空襲などで何回か、『ああ、もう駄目だ』と思ったことがありました。しかし、八月一五日の大阪の街を見て、あと数十年は生きられるという実感がわいてきたのです。本当にうれしかった。ぼくのそれまでの人生の中で最高の体験でした。

そしてその体験を今でもありありと覚えています。それがこの四十年間、ぼくのマンガを描く支えになっています。ぼくのマンガではいろいろなものを書いていますが、基本的なテーマはそれなのです。

つまり、生きていたという感慨、生命のありがたさというようなものが、意識しなくても自然に出てしまうのです……とにかく書いているかぎりどうしても出てしまう。」(『ぼくのマンガ人生』)

「ロボット」と「原子爆弾」の発明者

ロボットという言葉を作ったカレル・チャペック

ロボットという言葉を作ったカレル・チャペック

ここに紹介した文章が手塚の中心思想であり、反戦思想もそこから出てくるのである。別の頁で次のように書く。

「『生命の尊厳』は僕の信念である。ですから、ボクの作品の中には、このテーマが繰り返し出てきます。『鉄腕アトム』がぼくの代表作と言われていて、それによって僕が未来は技術革新によって幸福を生むようなビジョンをもっているように言われ、大変迷惑しています。アトムだってよく読んで下されば、ロボット

技術をはじめとする科学技術がいかに人間性をマイナスに導くか、いかに暴走する技術が社会に矛盾引き起こすかがテーマになっていることが分って頂けると思います。しかし、残念ながら10万馬力で正義の味方というサービスだけが表面に出てしまって、メッセージが伝わりません」(『ぼくのマンガ人生』)

今、鉄腕アトムの原作をじっくり読み返してみると、子供が正義は強いと安易に考えて、ただ単に読んで楽しむ漫画ではないことがよく分る筈だ。頁と頁の間から滲み出てくものは、我々にとっても重いものなのである。

だが、鉄腕アトムにより、ロボットという言葉は誰知らぬものない言葉となり、10万馬力の原子力エネルギーということも子どもは知っている。

ところで、ロボットという言葉も原子力という言葉も、一九二〇年代から三〇年代に活躍した、チェコスロバキアの思想家であり、偉大なSF作家、カレル・チャペックが、作った言葉である。

第一次世界大戦後、一九二〇年代に台頭したヒトラーのナチスに反感を以って、ロボットを主体とした、『R.U.R』という戯曲、それに類する小説『山椒魚戦争』原子爆弾を題材にした小説『クラカチット』などの、反ファシズム文学を発表している。それらによって警鐘を鳴らしたのであるが、ファシズムはますます蔓延、ついに第二次大戦へと、すすんでしまったのである。

日本のチャペック研究家として知られる田才益男は、次のように書いている。

「カレル・チャペックは一九二〇年代の最初の数年間にその後の人類の生存に大きな影響を及ぼす二大発明をしてしまった。『ロボット』と、今一つは『原子爆弾(薬)』である。後者は人間社会に取り込まれ、人間との不可欠な関係をかろうじて保っているが、ロボットには善悪の区別がつかない。自分が上司の命令で大量生産しているものが、はたして人間のためになるものかどうかの判断は無く、命令されたことを実行するだけで、判断の主体は、まだ、依然として人間である。(『クラカチット』訳者あとがき 青土社 二〇〇八年)

そうして、チャペック自身も、理学、工業、医学等すべての「技術は要するに人類に対して途方もない物質的手段を供しますが、それを用いて善をなすか悪をなすかについては、すでに最小限の影響力さえ持っていない」と説いている。

それを用いるのが、独裁者とか独裁政権が権力の維持のためである場合が、戦争という大惨事をもたらすことになるわけである

手塚の「人間ども集まれ」の主体となる「無性人間」は医学の技術を悪用して生まれた「ロボット」だといえよう。宇宙に生きとし生けるもののために造られた「アトム」とは正反対の存在である。

次回は、チャペックの作品と手塚の作品とを比較しながら、「無性人間」の誕生から滅亡までを検討したいと思います。(つづく)

私の手塚治虫(10) 峯島正行

  • 2013年4月8日 21:51

「人間ども集まれ」の完結

「人間ども集まれ!」表紙

「人間ども集まれ!」表紙

  
漫画集団の筆法
 
手塚治虫は成人漫画の作成には、彼のいわゆる、シチュエイション・マンガ手法を、多用したということを、前回、詳しく述べた。
手塚は成人漫画を描く場合、もう一つの特徴ある手法を併用した。それは手塚においては従来の少年少女向きの作品と違った画風と表現法を用いたという点である。
 その画法を以って、「タダノブ」「人間ども集まれ」「上を下へのジレッタ」等の作品を描いて貰った。
手塚は講談社版、手塚治虫漫画全集の「人間ども集まれ」(二)の「あとがき」において、次のように述べている。少し長いが、成人漫画についてのべることが少ない手塚が、重要な事を言っているので、そのまま引用する。
「そのころの週刊漫画サンデーは今みたいな劇画誌ではなく、漫画集団の作品を中心としたユウモア・ナンセンスものの専門誌でありました。
(成人漫画を)なぜこういう画風でこれらの作品をかいたか、という点については、たしかに漫画集団の人たちの画風の影響をうけていることは事実ですけれども、何よりも、それまでの僕の漫画の画風に限界を感じていたからです.子どもむけ、あかぬけしない、ごちゃごちゃしたペンタッチから、抜け出したいと思っていたからです。
それが成功したかしないかは別として、手塚治虫の漫画にしては、どうもあらけずりな、かきなぐりのようなペンタッチである、と批判もされたりしました。
漫画家もだんだん年をとっていくと、若い時のようなこまかな線がなかなかかけなくなるといいます。ぼくの場合、たしかに目が悪いせいもあって、細かいペンタッチには次第に苦痛を感じてきたわけで、この「人間ども集まれ!」や「フウスケ・シリーズ」のような書き方は、たいへん、気をはらずにかくことができました。ただ、たくさんの子供むけの連載漫画をかかえているなかに、ひとつやふたつこのような画風を変えて書くと、どうしても劇画風のペンタッチがまぎれこみます。「人間ども集まれ!」にも、そんなごたごたした部分があちこちにでています。」

これはよく、手塚の成人漫画の画風をよく表した言葉といえよう。
漫画集団の漫画の画風は、それぞれ漫画家個人によって、個性は強く持っているものの、共通した画風とムードをもっていたことは確かであった。これは集団発足して以来、かれらが努力して作り上げた、「絵の筆法」である。
 ポンチ絵を滅ぼす

漫画集団が、誕生する前の漫画家は、日本画家が内職に書く場合とか、或いは日本画家から、漫画家に転職した人も多かった。
「時事新報」の専属漫画家として有名だった北沢楽天の漫画を見ても、風刺を効かした「本画」であるというべきものだろう。今日的感覚からいうと「漫画」とは違う。
また近藤日出造や杉浦幸雄や横山隆一を育てた、近代漫画の親ともいうべき岡本一平でさえ、最初から漫画家たらんと志したわけではなかった。初めは夏目漱石の小説の挿絵を描くために、漱石の推薦で朝日新聞社に入社し、その後漱石の漫文の挿絵を描き、これを漱石が絶賛し、その後押しで漫画を描くようになったわけである。
この二人の大家のほかに多くの漫画家が生まれたが、総じて、漫画家たらんとして、漫画家になった人は少ない。多くは本画家のなれの果て、といった感じの人が多かった。その作品も人物や事物を茶化して、滑稽に描くという、感じのものが多かった。それは漫画の笑いとは異なるものと言えよう。

そして総じて、当時の漫画の役目は、ジャーナリズムの脇役、主役の添え物、飾りのような役割しか与えられなかった。
当時のジャーナリズムの主役というか、主流というか、その役目は、新聞であった。雑誌や、その他の出版物においても漫画は使用されることがあったが、いつも添え物の役しか与えられなかった。漫画はその新聞、その他の脇役であり、埋め草だったのだ。
そのためだろうか,明治から大正、昭和に入ってまで、彼らはジャーナリズムからも、蔑まれた存在であった。
その絵はポンチ絵と呼ばれた。その語源は、イギリスの漫画雑誌「パンチ」に由来するといわれるが、その辺を詮索していると、また時間も手数もかかるので、割愛しておくが、「お前の顔はポンチ絵みたいだ」ということは、相手を侮辱したことだった。
今日「君の顔はブラックジャックに似ている」あるいは「君の子供はアトムに似ているね」というのとでは、意味が正反対であったのだ。
たしか飯沢匡が伝えていたことだったと思うが、昭和に入ってから、ある日、編集室に伝言板の黒板に、「本日何時、ポンチ絵来る予定」と書いてあったという。
つまり記事のカットに漫画を頼みたい記者とか、漫画探法などの記事を企画している記者など、漫画家に用のある記者のための伝達であったのである。電話が自由に使える今日と違って、電話の普及が進んでない時代らしい話だとしても、岡本一平という有名漫画家さえ、ポンチなどと、黒板に書かれたりすることがあったということである。
明治の小説に、あいつのポンチ絵をかいてやった、などという表現があるが、これはたとえ冗談にそう言ったとしても、相手を侮蔑した表現であった。「漫画で似顔を書いてあげよう」という現在の言葉とは、まったく意味が違うのである。

ポンチ絵的侮蔑語が亡くなったのは、漫画集団が、ジャーナリズムの人気者になって以後のことだろう。しかしポンチ絵的侮蔑は、なかなか消えなかった。
西川辰美がよく言っていた。「戦前のことですがね。国勢調査があるでしょう。役所から調査用紙が配られてきて、それに家族のことを書きこむのですが、職業欄という枠もあるのです。そこに八百屋とか大工とか書くのですが、その用紙について来る職業分類には、漫画家という職業はないんです。
そこで役所に何と書いてよいのかと問い合わせると、こっちの仕事の説明を聞いた後、そういう仕事なら「画工」とでもしておいたら、という返事だった。
つまり漫画家という職業はなかったのですよ。
 
そう言う状態から、漫画家を堂々たる文化人の職業として、世間にも、お役所にもみとめさせたのは、近藤さんや横山さん達なんですよ。つまり漫画集団の漫画が世間の人気を集め、文化的役割を果たしたことによってなのですよ」
と西川は言っていたのである。

 モダニズムの先端をゆく

昭和七年頃の近藤日出造の作品 ガルフォ・ファン シネマ館の前で、彼を待つ彼女です

昭和七年頃の近藤日出造の作品 ガルフォ・ファン シネマ館の前で、彼を待つ彼女です

西川の言はともあれ、昭和七年、発足した漫画集団は、すくなくとも、ポンチ絵的な感覚を一掃したのであった。彼らの絵は、今までの筆を使って描いた日本画的な漫画に対して、ペンとインキによって、欧米のナンセンス漫画に見られるよう細い単純な線画による描写に、一変させたのである。しかもケント紙という真っ白な用紙に描いたのである。それによって、絵の雰囲気が一変したのである。   
そして、画の中では、描く対象をできるだけ単純化し、その形態は一本の線で描き出すという手法をもってしたので、当時の読者には、たいへん新鮮に見えたに相違ない。
背景など必要限度しか描かない。なくてすめば最初から書かない。
そして描く内容は、人間生活をしている中で、思わず笑いたくなる材料を、タイミングよくとらえて、一目で読者を笑わすという手法であり、また人間生活の空間の現象、つまり国家の政治、経済から、朝起きて朝飯を食い電車にのって通勤する、日常茶飯事まで、すべてを同一線上において、近代的批評精神で風刺し、ユウモア化して見せる、これが漫画集団が始めた日本のナンセンス漫画の手法であった。つまりペンをつかった短純な線を以って、描く対象を掴み、人間生活の虚をつくという表現法を編み出した。
もう一つ、ナンセンス漫画の特徴は、絵の中に登場する人物がしゃべる、吹きだしの言葉を、作者自身がペンでかいた。それまでの漫画は日本的な絵のわきに、活字で、説明文をながながといれるとか、絵の枠内に書くとしても印刷文字で、説明文を書いたものが多かった。
それを漫画集団の単純な線画の中で、吹き出しの文字を作者自身で描きいれる手法を使った。
これらの手法で、スピード感と軽快感を読者に与えた。
集団に集まった若者は、共同で行動する術を知っていた。彼等は共同制作、共同販売の売り込み方を発明した。適任者を担当マネージャーにして、会員の知っている雑誌社や新聞社に共同で売り込んだ。
これが当時のジャーナリズムの話題を呼んだ。しかも描かれた絵は、青年らしい活気に満ちた斬新な手法による、一見爆笑のナンセンス漫画であった。
忽ち彼らの作品が、ジャーナリズムの漫画領域を占領する事態となった。

昭和初年は、西欧的な生活文化が謳歌されたモダニズムの時代であった。文学では、横光利一、川端康成、中川与一などの新感覚派の登場、風俗的には、モボ (モダンボーイ)やモガ(モダンガール)を生んだモダーン感覚の隆盛、大衆演劇でも浅草では本格的なオペラが、群衆を集めると同時に、それを皮肉ったエログロな演劇の興行も盛んになり、盛り場ではカフエーが流行するといった世相になっていった。
 漫画集団の漫画は、この時代の軟派風潮にぴったり合った。モダンではあるし、エロでもグロでもなんでも来い、という調子の良さがあって、人気ものになった。昭和八,九年から、「エロ、グロ、ナンセンスの時代」だといわれたが、エノケン、ロッパのユーモアあふれたミュージカルとともに、ナンセンスの漫画集団は、時代の人気者であった。
 ある日浅草の劇場で、ラインダンスの踊り子が、パンテイを、舞台の上で落としたのを見たという噂が広がって、翌日から観客が押し寄せたという、そういう時代であった。
 
集団のナンセンスの絵は、戦後引き継がれて、新漫画派集団が、漫画集団と名前を変更しても、人気は衰えなかった。従来の漫画家に、加藤芳郎、横山泰三、荻原賢治、岡部冬彦、六浦光雄、小島功などの新鋭が加わり、さらにそのあと馬場のぼる、富永一朗、サトウサンペイ、さらに若い園山俊二、東海林さだお、秋竜山など、あたりまで、紹介しきれない位、多くの才能を生んできた。
 そしてそれらの人たちは、集団らしい画風を作り上げてきた。
 成人漫画に参入の労苦

子供漫画の先駆者として、ほとんど子供向けの漫画ばかり描いてきた手塚が、集団の中に入って、その集団が作り上げた画風で、長編物語漫画を創造しようとするのだから大変であった。
「人間ども集まれ」を描いたころは,すでに児童漫画の第一人者として多くの作品を完成させ、現に何冊もの連載マンガ執筆中であった。また一方で虫プロというアニメーションの、「大工場」を抱え、自ら描き且つ運営していたのである。
  だから担当編集者が、手塚の原稿を貰うのは大変だった。連載、読み切り合わせて、目いっぱいの仕事を抱え、アニメーションをかくのだから、各出版社の編集者の、「原稿取り競争」は大変なもので、それに関して幾多の逸話や伝説が残っている。
 その編集者の苦労話が何冊も本にされて、出版されている。例えば『神様の伴奏者』(佐藤敏章 小学館) 『1億人の手塚治虫』(1億人の手塚治虫編集委員会、gicc出版局)『ブラック・ジャック創作秘話』(宮崎克,吉本浩二 秋田書店)などなど、これに類する本や雑誌の特集が、幾つも世に出ている。いかに手塚の原稿を入手するのが困難であったか、証明されているわけだろう
 その大多忙の中に、新たに、成人向けの野心作を書くことが加わったのだから、その執筆時間の捻出が大変であった。
 
それに加えて、成人漫画執筆については、もう一つ難関があった。手塚は漫画集団流の絵で成人漫画描くと決意していたのは前に述べたとおりだが、そうなると児童漫画と違って、吹き出しの文字がすべて、作者の手書きである。この吹き出しの文字にも作者の個性が出て、漫画を面白くしていると評論家筋にもいわれていた。漫画評論の中に、そのことを論ずる評論家もあったくらいであった。
普通の児童漫画は、吹き出しの文字や、一コマの中に説明文があれば、すべて、写植印刷であった。この場合はまず漫画のこまわりを決めて、吹き出しの囲みまで鉛筆で下書きをする。
 吹き出しの中に書く文字は、別原稿にして、写植にする。編集者は写植にする文字原稿を写植工場に回して写植版を作る。その間に先生はマンガの絵を完成させて、編集者に渡す。これで漫画家の仕事は終わる。
 編集者は写植の活字原稿を切り抜いて、吹き出しに貼ってゆく。貼り終わると原稿の上がりである。
 この場合下書きさえできれば、後は画を完成させるために、下書きにペンを入れてゆけばいいわけである。その時にアシスタントが手伝うわけである。というかアシスタントがペンを入れてできたものを先生が、最後に訂正の筆を入れて画の完成となるわけである。
 だから、下書きと吹き出しの文字が決まりさえすれば、先生は次の仕事に移れるわけである。
 しかし、吹き出しの文字を先生が書くとなると、すべてを先生がやらなければならない。吹き出しの文字さえもらえば、まずは、一安心という、児童漫画の場合とちがって、分業化、アシスタントの手を借りる部分は少ない。
 そういうわけで、その週締め切りの、児童漫画の連載物がすべて書き終えた後でないと、成人漫画の仕事に入れないという不利な点があった。その為に「漫画サンデー」の担当者は、それだけ苦労が多かったのである。

 そういう悪条件のもとに長編「人間ども集まれ」がはじまったのだが、担当者も編集部も苦闘の連続であった。その苦闘ぶりを、当時の担当編集者遠山泰彦が、後年若者のために経験を書き残した文章がある。今ここに本人の承諾を得てその一部を引用させてもらう。

「それにしても、あんなに多忙なのによく連載執筆をオーケーしてくれたものです。毎日不眠不休で描きつづけていて、もはやスケジュール調整不可能状態のところへ『漫サン』が割り込んだのですから、しかもこれが週刊誌で毎週、締切があるのですから、これはもう大変なんてものじゃありません。逆に言えば、それだけ手塚先生に大人漫画へのチャレンジ意欲が旺盛だったということでしょう。案の定、連載スタート直後から毎週これ以上遅れたらもうダメというきわどいところでようやく書きあがるという、すれすれセーフの連続になりました。初の長編大人漫画ということで先生も模索しながら描いていたのでしょう。絵のタッチは意識的に変えていました。非常に白っぽいさらさらした絵でした。それにテーマがセックスです。ですから、少年漫画の合間には書けないということで、毎週他の連載をすべて片づけてから頭を切りかえて最後に取り掛かるので、どうしても遅くなってしまうんですね。
 そのころ編集会議はいつも月曜日で、連載物の締め切りは木曜日、金曜の夜には校了という進行でしたからどんなに遅い漫画家でも木曜の夜までには書いて貰いましたが、手塚先生だけは、早くて金曜の夜、たいていは真夜中か土曜の夜明け方でした。しかもそのためには手塚邸に月曜日から詰めていないとダメなんです。それで、編集会議が終わると、すぐ着替えを以って手塚邸に行きます。手塚邸には編集者のための待機部屋があり、何時も何人か編集者がいて花札をしたりしていました。時には深夜、先生の奥様がアシスタントや編集の人たちのためにラーメンを作ってくれることもありました。こんなふうに金曜の深夜ようやく原稿を貰うと、すぐさま印刷所へ届けて、それから家に帰ります。次の月曜部に編集会議が終わると、また手塚邸に行くという、そういう暮らしを1年半ぐらい続けました。いかにも辛そうで、大変そうに聞こえるかもしれませんが独身の私には、これが結構面白い仕事だったのです」

 このようにと遠山が書いているが、こんな惨めな生活を、大學出たての白面の青年たちに強いなければならなかったことを思うと、年老いた目に涙がたまりそうになるのを禁じ得ない。
 遠山は続いて書いている。
「私が手塚先生の担当になってから、長編の一回目を貰うまで、八か月ぐらいかかっています。先生はその間、何度も『では何月何日号からはじめましょう』といってくれましたが、結局やってくれない。私も先生のスケジュールを調べ、事前に調整しておいたりして万全の準備をしたつもりなのですが、それまで描き終えるはずだった分が終わらず押せ押せになって結局書いて貰えない。今度は時間的にゆとりがあるから大丈夫なんていうときは、いつのまにか外出して映画なんか見に行っちゃう。で、やっぱり押せ押せになる。私もそのつど、『今度こそ大丈夫です』なんて編集長に報告していますから、煮え湯を飲まされた思いで、もう合わせる顔がありません。
 そうしたら、あるとき編集長が『あのなあ、約束したから原稿ができるわけはないだろう。書く気にさせなきゃだめだよ。どうやったら描く気になってくれるか。おだてたって言い、怒ったっていい、泣いてもいい,なんでもいいから描かなきゃという気に追い込むんだよ。原稿取りは論理学じゃない、心理学だよ』とアドバイスしてくれました。(論理学じゃない、心理学だよと私が言ったことを今でも鮮明に覚えていてくれて、なにかというと、このことばをだすが、遠山は教育大の社会学専攻                                             の学生気分の抜けない男であったから、論理学じゃない、心理学だなんて、ぺダンチックなジョークをわざと使ったことを覚えている)編集長のそのアドバイスは目からうろこでした。それからは、からめて作戦を重視することにして、当時は先生のご両親も一緒に住んでおられて、よく邸内でお見かけしたので、つとめて話し相手になって、好感をもたれるようにしたり、ふたりのお子さんがまだ小さかったので、庭で一緒に遊んであげたり、アシスタントの人たちを連れてスケートに行ったり、旅行に行ったりなんていうことをしました。直接、接することがあまりないので、間接的に『漫サンの遠山』をアッピ-ルしようとしたわけです。ただし、そんな努力をしたことと新連載が取れたことと関係があったのかどうか、それは全然わかりません。
 実は手塚治虫作品リストをよく見ると一九六六年(昭和四一年)は「漫サン」に三月、五月、七月とそれぞれ読み切り短編を、また一二月には三回連載の作品を描いています。先生が、一年間にこんなに何本もの大人漫画を描いたのは初めてです。翌六七年一月から『人間ども集まれ』がスタートします。ですから、もしかすると、先生は私のお願いなんかと関係なく、六七年から『漫サン』に大人漫画の長編連載を始めると決めていて、六六年に描いた短編群はそのためのトレーニングだったのかなと思っているのです。」
 この遠山の文章の最後のところは、前号に描いたことと矛盾するようですが、私は確かに、六六年正月前後に六七年から長編を描く約束をとりましたが、その通りに行くかどうかが、自信が持てなかった。長編のまえに短編を幾つか書いてくれという約束もしました。遠山が四月に入社し手塚の担当者になった時、とにかく一刻も早く長編をとること、その前に時間つなぎ的な意味で、短編を書いて貰うように、命じたのだと思います。ほぼ半年強のあいだに、三回連載の中編を含めて、四本の中短編をとったということは遠山の努力のたまものであると思っている。六七年の正月から、長編連載を始められたのは遠山の大功績と、私は思っている。
 というのは最近発見したのだが、この長編の背後には、たいへんな思想的文学者の著作があったのではないか、ということだ。いずれ、後の章で詳細に検討するが、その思想的文学は、一九三〇年代、ナチスに抵抗したチェッコのカレル・チャペックの作品ではないかと思う。手塚はあの多忙な仕事の間に、この作家の膨大な作品を読んで、構想を練っていたと思われる。
 その意味で、この作品は思想漫画ともいうべき作品だと思うのである
 発売が間に合わず

さて、長編の連載が始まってからの担当者と編集部員の協力と努力は、一層強くなった。
或る金曜日の深夜、一二時近く、編集部に待機している私に、遠山から電話がかかった。今手塚先生が、眠気覚ましにチョコレートが欲しいといってるんですが、この辺を探しても、そんなものを売っているところはないんです。どこか手にいるところはないでしょうか」
これは難題である。銀座にある編集部の近所でも。一二時近くに菓子など売っている店はない。まだ深夜営業のコンビニなどなかった時代である。そこで浮かんだのは、銀座の高級クラブでよく酒のつまみに、ツブツブのチョコレートを出しているところがったことだ。あれを分けて貰えばいいかもしれないとおもった。そこで知るっているクラブに電話をかけたが、営業時間が11時30分に決まっていて、閉店になっている所が多く、たまたま営業をしている店があっても、そのマネージャーにうちでは、チョコレートを出していませんと言われ、私としては万事休す。
その結果どうなったか知らないが、とにかく原稿は入った。おそらく、遠山や手塚プロの人が、チョコレートの代わりにラーメンか寿司でも出前させて、その場をしのいだのだろう。
これが伝説化し。遠山が前日子供のためにチョコレートを買ったのを思い出し、車で横浜の家まで、それを取りに行ったという伝説が残った。そんなことはあり得ない。彼はまだ昨年卒業したばかりで、独身であったからである。とにかく手塚は疲労してくるとチョコレートをほしがることがあったらしい。
いつ頃のことか忘れたが、校了日が過ぎても、原稿が一枚も取れないということがあった。土曜日の深夜、今原稿がはいらないと、明日の朝のトラック便に何万部乗せなくては、配本が間に合わない、というぎりぎりの時間であった。遠山にもう今号は休載にするから、その旨を先生に伝えるように電話した。すると遠山から電話があった。今から大至急かくと先生が言っている、もちょっと待ってください、という。
私は大日本印刷の出張校正室で校了事務に当たっている編集次長に連絡をした、もはや絶対の時間切れである。私は遠山に最後の連絡をした。
「今号は休載に決定したから先生に連絡してくれ。」
その手続きをデスクと連絡をしていると、遠山から電話がかかった。
「先生とアシスタントが消えちゃったんです。おそらく僕と編集長と連絡の電話をしている間に、ここを出ちゃったんだと思います。みんなはタクシーで、そっち(編集部)に向かっていると思います。そっちに着いたら先生と話してください。」
 さすがの遠山の声も上ずって、泣きそうな声である。編集部で残りを描くということだろう。それにしても間に合わない。手塚が到着したら、その旨を話して休載することに決めていた。休載についてごたごたやっているうちに,手塚が数名のアシスタントを連れて、守衛に案内されて、どかどかと編集室にやってきた。
 私が、手塚に話かけようとすると、手塚は物も言わず空いている他の部の席に座ってしまった。その周りをアシスタントの青年が取り囲むように席を占めた。手塚は肩をいからして威厳を示し、ものも言わずに、原稿を書き始めた。唖然とした私が、声をかけても返事もせず原稿を描き続ける手を休めることもない。
 そこで私は、覚悟の臍を固めた。雑誌の発売時間の遅延である。
 今思い出してみるとどのくらい時間がかかったか、もう忘れたが、原稿が出来上がると、それを無言で、戻ってきた遠山に渡し、さ、さ、さと、帰り支度をして、大波が引くように、一同は編集室を去った。
 これで半日以上週刊誌の発売が遅れることは確かであった。週刊誌の販売遅延等あってはならないことである。それが起きてしまったのである。その損害は、販売量の激減はもとより、運賃、人件費その他を含めた多額の損害、その責任は私にある。
 私は、こういうことで編集部員が、非難されるのを慮って、翌日の編集会議を延期したばかりでなく、出社せずに自宅に待機するように、編集部員に言った。
 二,三時間睡眠の後私が出社すると、本社の販売本部長が私を待っていた。ある程度気脈の通じている本部長は、大きな目玉をぎょろりとさせて、睨めつけた。そして
「二度とこういうことの無いように」
と言って去って行った。
次にやってきたのは大日本印刷の営業本部長であった。これも若い時からの付き合いで、社内の出世頭であった。これも鷹揚に「困りますな」という。
「手塚さんにあんなことの無いように大日本印刷から正式に言ってくださいよ」
 そんな話の末帰っていった。大日本から手塚プロに正式な申し入れをしたかどうか、それは知らない。
 ともあれ非難ゴウゴウたることもなく、至極冷静にことは終わった。

「人間ども集まれ」の担当者は、人事の事情から、昭和四三年の春から、担当者は遠山から、中村俊一に変わった。
 中村も遠山と全く同じ苦労をして、六八年七月二四日号で長編連載「人間ども集まれ」を無事完成させた。完成までにどのくらい担当者と編集部員が苦労したか、ということは、次の事実からも知れよう。
 連載は毎号一〇頁の約束だった。一〇頁を描いたのは全六五回のうち一四回しかない。そのうちには一二頁、一一頁とサービスしている回もあるが、大抵は一〇頁に満たない。一番多いのは七,八頁で、三四回に及んでいる。たった四頁、五頁の週もあった。何れも時間切れで終わりとなっている。
 それでも手塚も編集も忍耐して、この未曾有の作品をよく終わらせたと思っている。
 「人間ども集まれ」はたんに漫画として成功しているばかりでなく、チャペックの「山椒魚戦争」「RUR」と並ぶ、人類の本質に迫る第一級の思想物語だと、私には思われる。次回に、そのことを考えてみたい。
 
 この「人間ども集まれ」を終結させた担当者中村俊一は、その後、七五年四月、「一輝まんだら」が終結するまで、足掛け八年間、手塚の担当を続け、その間に「上を下へのジレッタ」「サイテイ招待席」(フウスケもの)など力作、傑作を生み出している。その漫画に対す功績は実に大きい。彼が手塚からとった作品は逐次紹介してゆく。