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坂崎重盛の季語道楽(18)悄々たり、カマキリとミノムシの秋の暮れ

  • 2013年11月21日 16:14

なにか、この「季語道楽」では、毎回書いているような気がしてきたのですが、なんなんですか? この気象。先月のいまごろは、三十一度を超える日があったというのに、今朝なんかは十度を下回った。少し前まで、アロハでふうふう、夏バテでヨロヨロしていたかと思うと、いきなり、マフラーはもちろん、手袋が欲しい寒さ。もう、なにやら心細くてオロオロしてしまう。気分は、寒気に襲われて、少しでもあたたかいとろへ、と陽なたをさがすカマキリの如し。

春や夏は、この空地に何が生えていたか忘れてしまったが、いまは一面のネコジャラシ(エノコログサ)。京成・実籾駅の近く。

春や夏は、この空地に何が生えていたか忘れてしまったが、いまは一面のネコジャラシ(エノコログサ)。京成・実籾駅の近く。

実際にカマキリがいたのです。家を出るとき玄関の扉を閉めようとすると、陽の当たる扉の隅にカマキリが取り付いている。その、細いギザギザの肢(あし)が扉を閉めるとき挟まりそうなので、玄関わきの南天の細枝を折って、ツンツンと突っついて移動させようとした。

カマキリの動きは、もともと鈍い。(ほら、そこにいたら、肢が扉に挟まれちゃうよ)と、南天小枝で、そっと突っつくのだが、なかなか動こうとしない。

(うるさいなぁ、ヒトがーーといってもカマキリなのだが、——せっかく陽なたぼっこしているのに)と、いう感じなのだ。

こちらだって出がけで、気分は急いている。(ホラ、ホラ、動けよ!)と少し乱暴に突っつくと、ゆっくり、例の斧を振り上げながら、やっとソロソロ移動し始めた。で、安心して扉を閉めて駅へと向かったわけだが、面白いことに、このカマキリ、翌日の昼も、扉のほとんど同じところにいた。

というわけで、歳時記でカマキリの項をチェックした。

おびただしい数の赤い実をつける通称・ピラカンサ。この木はバラ科トキワサンザシ属の総称という。庭木や公園の植栽によく用いられる。

おびただしい数の赤い実をつける通称・ピラカンサ。この木はバラ科トキワサンザシ属の総称という。庭木や公園の植栽によく用いられる。

カマキリは「蟷螂(とうろう)」、「鎌切」、「斧虫(おのむし)」、「いぼむしり」とも表する。あまり頭のよさそうではない三角形の小さな頭と、不釣り合いなほど大きなーー鎌のような前肢、怒ると、その鎌をふりかざして向かってくる。これすなわち「蟷螂の斧(おの)」である。「自分の力の弱さをかえりみず、相手に刃向かってゆく」のたとえ。

たしかに人間にとってはカマキリの斧など恐ろしくもないが、周囲の小さな昆虫にとってはたまらない。その鎌で捕らえられバリバリ食べられてしまう。つまり、カマキリは害虫を餌とする益虫。

また、カマキリのメスは交尾を終えたオスを食べてしまう、ことでよく知られるが、それは正しくない、という説もある。交尾を終えたオスだけを食べるのではなく、目の前に動いている虫はなんでも食べてしまおうとする習性があるというのだ。

ザクロは花も可愛いが実も存在感がある。これをしぼった(グレナディン)カクテル、ジャックローズが飲みたくなる。

ザクロは花も可愛いが実も存在感がある。これをしぼった(グレナディン)カクテル、ジャックローズが飲みたくなる。

「蟷螂の斧」とかいって、人間はカマキリのことを馬鹿にしているけど、あれが人間と同じくらいの大きさだったら、そんなノンキなことは言っていられないはずだ。目の前にバルタン星人みたいのがいてごらんなさい。あわてますぞ。

それはともかく、秋の季語、カマキリの例句を見てみよう。

かりかりと蟷螂蜂の顔を食む     山口誓子

ほら、恐いじゃないですか。「蜂の顔を食む」ですもの。カマキリが人間と同じ大きさだったら……、もういいか。

霞に乗りてかまきり風を聴き澄ます  小松崎爽青

風の日の蟷螂肩に来てとまる     篠原温亭

こちらのカマキリは可愛い。次の、

堕ち蟷螂だまって抱腹絶倒せり    中村草田男

蟷螂の目に死後の天映りおり     榎本冬一郎

なにか、滑稽でもあり、悲劇的でもある。カマキリの大きな複眼に映った「死後の天」は澄みきった青空だろう。人の死よりも尊厳があるような……。

カマキリが出たので、ついでに秋の虫を。実は「虫」といえば、それだけで秋の季語。ただし、「秋鳴く」、「すだく虫」。ちなみに鳴くのはすべて雄という。

「虫」の類語は、(関連語)には「虫時雨(むししぐれ)」、「虫の声」「虫の秋」、「虫の闇」、「昼の虫」、「雨の虫」、「残る虫」、「すがれ虫」、「虫売」などがある。

虫鳴くや会いたくなりし母に書く   井上兎径子

其中に金鈴ふる虫一つ        高浜虚子

虫売りと夜の言葉を交わしけり    高木丁二

虫籠に虫ゐる軽さゐぬ軽さ      西村和子

虫といえば、作句をする人には親しい「鬼の子」がある。なにやら恐いような、あるいは、ちょっと可愛いような……。これは「蓑虫(みのむし)」のこと。

南天の赤い実。ナンテンは「難を転ずる」に通じ、この枝で作った箸は健康で長寿の効能ありという言い伝えが。

南天の赤い実。ナンテンは「難を転ずる」に通じ、この枝で作った箸は健康で長寿の効能ありという言い伝えが。

あの、枝から細い糸でぶら下がる、ミノムシを、なんで「鬼の子」などと呼ぶのだろう。清少納言の「枕草子」には、あの虫は「鬼が捨てた子」とあるらしい。この「鬼の子」が「チチヨ、チチヨ」(これは「父よ、父よ」ということでしょう)と鳴く、という。「簑虫鳴く」は、次に紹介する芭蕉の句にもあるように、秋の季語にもなっているが、ミノムシは本当に鳴くのだろうか。知っている人がいたら教えて下さい。

蓑虫の音を聞きに来よ草の庵     芭蕉

蓑虫は悄々弧々とぶら下がり     細木芒角星

蓑虫の父よと鳴きて母も無し     高浜虚子

蓑虫の留守かと見れば動きけり    星野立子

鬼の子の宙ぶらりんに暮るるなり   大竹多可志

芭蕉以後みのむしの聲は誰も聞かず  島谷征良

カマキリもミノムシも、どこか寂しげではあるが愛嬌もある。暮れゆく季節、秋の気配の中で生きるからか。

季語について書かなければ、と日頃から思っていると、やはり自ずと自然の現象に注意が向く。永井荷風の旧宅の近く、市川・八幡から本置き場を移動、越して来た習志野市の実籾は、ちょっと信じられないほど地形に高低差があり、崖が多い。

その崖に竹林が生い繁ったり、葛の花が垂れたり、彼岸花が咲いたりする。また、崖の途中の、わずかな平地には、どこから種が飛んでくるのか、季節ごとの草花が色とりどりの花を咲かす。

また、引っ越して間もない、目新しい住宅地なので、歩きながら人の庭にも目が行く。今、目につくのは、赤い南天の実、ザクロの実、あるいはピラカンサのおびただしい金赤の実などだ。

ハナミズキの赤い実も少し前まではなっていたが、冷たい風が吹き出して、実は目立たなくなり、葉も赤紫に変色しつつある。これを“紅葉”というのはちょっとツライ。イチョウなどは、(早めの寒風に付き合ってられるか)、という具合で、依然としてまだ青い葉をつけている。

先日、本置き場の部屋へ行くために、本のつまったビニール袋をぶら下げてアパートの階段を上がって行こうとしたら、鉄の踏み面に、小さな赤い実が一つ、落ちていた。南天の実だ。しかし、このアパートの植込みには南天はない。もちろん、階段の上の通路にプランターなどない。

そうか、多分、鳥が喰わえて、なにかのひょうしに落としたのだなと思った。

また、舗装された道に、これは楓(トウカエデ)? の葉が落ちている。近くの街路樹にこの木はない。(一本裏のビル街の植栽にあった)。

舗道にイタヤカエデ(多分)の葉が一枚。押し葉にしても、あまり変色せず、美しく残る。

舗道にイタヤカエデ(多分)の葉が一枚。押し葉にしても、あまり変色せず、美しく残る。

変調はなはだしい、近年の季節の移り変わりだが、すでに一の酉は過ぎ、この原稿を書いている今日は二の酉。次の三の酉が来れば、確実に年の暮れの気分となる。

一カ月前の三十度を超したころ、ぼくは何をやって日を過ごしたのだろう。今年の夏の、あの暑くて長い日々の記憶がほとんどない。ただ、自分なりに精一杯の毎日であったような気はするのだが……。

季語道楽(17)駄文を書いている場合ではなかった秋の夜ぞらに… 坂崎重盛

  • 2013年9月25日 16:44

今回の、竜巻き共連れ台風、すごかったですね。ひとつの台風に、これだけ各地で竜巻きが起きたのは、やはり観測始まって以来とか。

豪雨と竜巻き──竜巻き被害の光景はちょっと慣れっ子になってしまったけど(当事者の方々にとっては、とんでもない話でしょうが)、京都の豪雨、嵐山・渡月橋に押し寄せる濁流。あんなニュースの映像を見たのは初めてです。もうすぐ嵐山ならではの紅葉の季節になろうというのに。

初秋の一日、舗道に衰えたアオスジアゲハが。近づいても、もう飛び立つ力が残っていない。「蝶」はもちろん春の季語だが「秋の蝶」「秋蝶」で秋の句が作られる。橋本多佳子に「秋蝶に猶美しく老いにけり」がある。

初秋の一日、舗道に衰えたアオスジアゲハが。近づいても、もう飛び立つ力が残っていない。「蝶」はもちろん春の季語だが「秋の蝶」「秋蝶」で秋の句が作られる。橋本多佳子に「秋蝶に猶美しく老いにけり」がある。

しかし、台風が去って、本当に、やっと秋の気配が。というわけで秋の季語をひろってゆく気分になりました。生活関連の季語を見てみよう。

「毛見(けみ)」あるいは「検見(けみ)」。

室町、江戸時代からの言葉。その年の年貢(税)を徴収するために、役人が稲の実り具合いを検(けみ)してまわること。もちろん今日、そんな税のかけかたなどしないが、かつての稲作行事のひとつとして季語に残ったのだろう。

人の庭にザクロが実り始めていた。この季節グレナディンリキュールではなく本物のザクロをジュースにして、カクテル・ジャックローズを作る老舗バーが湯島にある。を

人の庭にザクロが実り始めていた。この季節グレナディンリキュールではなく本物のザクロをジュースにして、カクテル・ジャックローズを作る老舗バーが湯島にある。を

これからこの季語で新しい句が生まれるとは思えない。新しい歳時記には収録されにくい季語ではないだろうか。例句を挙げておこう。

不作検見声なく莨(たばこ)火をわかつ  豊川千陰

力なく毛見のすみたる田を眺め      高浜虚子

軒雀時々下りる毛見の庭         川島寄北

そういえば、総武線に「新倹見川」という駅がありました。

公園の隅にサルスベリが咲いていた。サルスベリは「百日紅」とも表記し、花期も長い。幹がツルツルと美しく、そこからサルスベリの名がついたか。

公園の隅にサルスベリが咲いていた。サルスベリは「百日紅」とも表記し、花期も長い。幹がツルツルと美しく、そこからサルスベリの名がついたか。

「古酒」。「新酒」「新走(しんばしり・あらばしり)」「今年酒」などが秋の季語というのはよく知られているが、では「古酒」は──というと、これも秋の季語。

新酒が出るころとなっても前の年にできた酒のことをいう。左党にとっては、新しい酒もいいが、古酒もまた珍重したい心持ちになる。

一盞(さん)の古酒の琥珀を讚ふる日  佐々木有風

岩塩のくれなゐを舐め古酒を舐め    日原 傅

古酒の壺(つぼ)筵(むしろ)にとんと据え置きぬ 佐藤念腹

オシロイバナの上に垂れ下がるクズの花に紫赤の花が。葉の繁るのを見ることは多いが花は初めて見た。「葛咲くやいたるところに切り通」(下村槐太)

オシロイバナの上に垂れ下がるクズの花に紫赤の花が。葉の繁るのを見ることは多いが花は初めて見た。「葛咲くやいたるところに切り通」(下村槐太)

「夜食」。秋の夜長、農家や商家は夜遅くまで仕事をしていると、当然、小腹が空くので軽い食事をとる。いかにも秋の季語といった気配がある。「夜業」「夜学」も秋。それぞれ例句を挙げる。

黙々と人のうしろに夜食かな      和田嘯風

梟が鳴けば夜食となりにけり      青木月斗

時計みる顔のふりむく夜なべかな    西山 誠

親方の影の大きな夜なべかな      三宅応人

雨のバス夜学おへたる師弟のみ     肥田埜勝美

くらがりへ教師消えたる夜学かな    木村蕪城

悲しさはいつも酒気ある夜学の師    高浜虚子

いずれも秋の夜ならではの、ひっそり、しんみり、人懐かしい一景です。

寂しい気持ちに沈んだときは、美味い物を食べるにかぎります。食べて口の周りがかぶれる人はお気の毒ですが「とろろ汁」は字を見ただけで腹がへってくる。もちろん夜なべしての夜食にも大歓迎。

生家には凭(よ)る柱ありとろろ汁   小原啄葉

トロロ薯摺る音夫(つま)にきこえよと     山口波津女

くらくなる山に急かれてとろろ飯    百合山羽公

「扇置く(おうぎおく)」。「秋扇(あきおうぎ)」、「忘れ扇」、「捨て扇」、「団扇(うちわ)置く」。

夏の季節、身の周りで活躍した物が秋の到来とともに脇役にまわり、あるいはつい忘れられたりする。といっても、そこに置かれた扇や団扇には、その物のもつ気配が残る。物の気、物の怪の磁気を発したりすることもあるのでしょう。

一文字に秋の扇の置かれけり    野村喜舟

人の手にわが秋扇のひらかれぬ   井沢正江

亡き妻の秋の扇を開きみる     佐藤漾人

と、ここまで事務所で書いてきたら、傍のW君が「月が凄いですよ。満月で」と。今日は九月の十九日。「中秋の名月」そのもの。台風一過のあと、雲を吹き去っての、まさに煌々たる満月。

「月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月」という小倉百人一首、読み人知らずの歌を思い出してしまった。

秋の季語で「月」は、あまりにも当たり前すぎるかもしれないが、この良夜の思い出のためもあり「名月」の句を見てみたくなった。名月とは「明月」であり「望月(もちづき)」であり「満月」。「十五夜」、「今日の月」、「月今宵」、そして「中秋の月」、「良夜」である。

道の石垣の上にオシロイバナとススキの穂。身近な場に自然に咲いた愛しい草々が秋を告げる。「白粉花にまたしずかなる宵のきし」(坂本碧水)。「芒の穂ばかりに夕日のこりけり」(久保田万太郎)

道の石垣の上にオシロイバナとススキの穂。身近な場に自然に咲いた愛しい草々が秋を告げる。「白粉花にまたしずかなる宵のきし」(坂本碧水)。「芒の穂ばかりに夕日のこりけり」(久保田万太郎)

名月や故郷遠き影法師       夏目漱石

生涯にかかる良夜の幾度か     福田蓼江

乳房にああ満月の重たさよ     富沢赤黄男

眉秀でし人と隣りて良夜なる    松崎鉄之介

さて、このへんで歳時記を置いて、仕事中のW君を誘って、近くで、月の見える外飲みのできる居酒屋へでもいくこととしますか。それこそ生涯このような良夜が何度あることか。駄文など書いている場合ではないかもしれないじゃないですか。

そういえば井伏鱒二に「逸題」と題する中秋の名月の詩がありました。この二節のみを記して本当に筆を置いて出かけることにします。

「逸題」(新橋よしの屋にて)

今宵は中秋名月

初戀を偲ぶ夜

われら萬障くりあわせ

よしの屋で獨り酒を飲む

春さん蛸のぶつ切りくれえj

それも鹽(しお)でくれえ

酒はあついのがよい

それから枝豆を一皿

季語道楽(16)ラテンを聴きながら、心は柳橋か神田明神か 坂崎重盛

  • 2013年7月18日 16:49

いつの間にか梅雨が明けて、七月に入ってからの連続の猛暑日は、気象台の観測はじまって以来、だそうですが、どうもこのごろ「統計をとりはじめて以来」ということが多くありません? 異常気象が、こうも続くと“異常”が通常になってしまう。

なんてことを書いても頭がボーッとしている。喫茶店の二階にいるのでクーラーは効いているのだが、窓から外を見ると、白熱したような炎天。日傘の人の影がネットリと濃い。街路の植込みのタチアオイの花が、なにか道行く人を嘲笑うかのように咲いている。

梅雨どきは「我こそ季節の花」と咲き誇っていたアジサイも、この猛暑でたちまち干上がって枯れてしまった。夏本番の到来。

梅雨どきは「我こそ季節の花」と咲き誇っていたアジサイも、この猛暑でたちまち干上がって枯れてしまった。夏本番の到来。

BGMが眠けを誘うのか、店内、少し前まではハービーハンコックかなんかのクロスオーバー系がかかっていたのに、今日は、ラテン、タンゴだ。実は好きなんですよ、子供のころに聴いていた、このての音楽。「ラ・マラゲーニア」とか「ジェラシー」とか。いまかかっているのは「アモール・アモール」か……。気持ちよくて、眠くなる。

半分寝惚けた状態で歳時記のページをめくっていく。ま、これもまた盛夏の昼下がり的な気分といえましょうか。

省エネの推奨植物、ゴーヤ(ニガウリ)の棚。すでに小さな黄色い花をつけている。正式名はツルレイシ(ウリ科)。

省エネの推奨植物、ゴーヤ(ニガウリ)の棚。すでに小さな黄色い花をつけている。正式名はツルレイシ(ウリ科)。

閑話休題、夏の季語。夏負けせぬよう食欲系からいきますか。

「麦飯」これが夏の季語。麦飯なんて秋でも冬でも食べるぞ、などと言っても、これは夏の季語なのです。理由? ないわけではない。

最近はヴィタミン剤の普及で、あまり聞かなくなりましたが、脚気(かっけ)、この脚気予防として夏に麦飯を食べる。で、夏の季語。

「鮨」だって、いつで結構、いただきます、といいたいところですが、こちらも夏の季語。鮨はかつては保存食だから、夏。

例句を見てみよう。

蓼添へて魚新たなり一夜鮓   三宅孤軒

鯛鮓や一門三十五六人      正岡子規

鮓押すや貧窮問答口吟み    竹下しづの女

やはり、この鮨は押し酢ですね。握りでは季節感が出ない。一句目、旨そうですね。蓼(たで)を添えるあたり。鮎かなんかの川魚の鮨でしょうか。

子規の句は、なんか目出たい感じがしますね。鯛鮓だからか、いや「一門三十五六人」の賑やかさだろう。

しずの女の句の「貧窮問答」は、もちろん、万葉歌人・山上憶良の「貧窮問答歌」。これを口ずさみながら鮓を作るというところに、そこはかとないユーモアを感じてしまうのはぼくだけでしょうか。

鮓をつくるつもりではないのに、この季節、ご飯がすえて、においを生ずることがある。「飯すえる」は季語になっている。もう少し俳味を感じるのが「飯の汗」

今日は、炊飯器ですぐにご飯がたけてしまうので「飯すえる」の

実感がなくなりました。子供のころ、少しすえたご飯は水で洗って臭いをとってからたべたものです。なんか懐かしい。同じ「洗い飯」「水飯(みずめし、すいはん)」いずれも夏の季語。

夏といえば、ビール(麦酒)。もちろん、夏の季語です。ビールといえば、かつては、ビヤホールは別として、生ビールは夏しか飲めなかった居酒屋がほとんどでした。だから一年中、生ビールが飲める店は貴重で、人を連れていって自慢したりしたものです。たとえば湯島天神したのTとか。

ところで「焼酎」、これが夏の季語。なぜって? これも理由がある。つまり「暑気ばらい」。日本酒ではだめなんです。暑気ばらいといえば、キュッとアルコールの度数の高い焼酎でなければ。

かと思うと「甘酒」も、この季節の季語だから、知らないと間違ったりする。かく言う自分も、また肌寒い梅見のときや雛祭りに、甘酒が出たりするので、つい早春あたりの季語かなと思っていました。

もともと甘酒は、夏の季節、麹に粥を加えて発酵させ(6〜7時間ほど)甘味を出す、これを沸騰させて飲む。ひと晩でできるので「一夜酒(ひとよざけ)」ともいう。

本来は、甘酒はあたたかい飲み物なのだが、甘酒といえば神田明神の鳥居脇の甘酒屋・天野屋糀店(こうじてん)では涼し気なグラスに入った冷やし甘酒を飲むことができる。女性に絶対喜ばれます。

「にんきや」の閉店にショックを受け神田明神の「天野屋」へ冷やし甘酒を求めて。その外観と冷し甘酒(450円)。このモロミもうまい。こちらは500円。

「にんきや」の閉店にショックを受け神田明神の「天野屋」へ冷やし甘酒を求めて。その外観と冷し甘酒(450円)。このモロミもうまい。こちらは500円。

冷やし甘酒、です。

冷やし甘酒、です。

そうか! この稿はこれくらいにして、人を誘って冷やし甘酒といくか! いや、この季節、柳橋の「にんきや」の白玉も、いいなぁ。この店、安藤鶴夫先生のごひいきでした。

——ということで白玉求めて柳橋に向かったのですが、念のためと、途中から電話を入れてみたら通じない。なになに!? ブログに「閉店」の書き込みが……。しまった!

「いつまでもあると思うな親と老舗」。

淋しいじゃないですか。そうか……ということでリベンジ気分で足はーー。

季語道楽(14)いつのまにか「行く春」の、この不確かな感覚 坂崎重盛

  • 2013年4月25日 17:30

やはり、桜が一つの境ですね。

桜が咲く前と、散った後とで、季節感がまったく違う。今はもう、八重桜も散ってしまった。

桜が咲く前のことが、ほとんど思い出せない。こうして原稿を書いていて、無理に記憶のページを捲ってみる。

早春は来たはずだ、もちろん。だから、今、春、しかも晩春。「行く春」である。一、二カ月前、ぼくはどう生きていたのだろう。何を見ていたのだろう。四月に出る本のゲラのチェックに追いまくられていたとはいえ……。

そういえば、人の家の塀から、人を招くようにユキヤナギの白い花がゆれていた。

二階の窓にふとんが干され、春の陽の中にコブシの白い花。

アスファルトの巾六メーター道路脇のU字溝に沿って、ツクシが数本生えていた。歩いていて、それに気づいた人は何人いただろうか。

アスファルトの道路の隅、U字溝脇の、ほんの狭いスペースにスギナとツクシが。なぜか小石の散ったようなところによくツクシは生える。ツクシん坊を見つけると誰でも、ちょっと嬉しくなるのでは。

アスファルトの道路の隅、U字溝脇の、ほんの狭いスペースにスギナとツクシが。なぜか小石の散ったようなところによくツクシは生える。ツクシん坊を見つけると誰でも、ちょっと嬉しくなるのでは。

初夏のような暑い日があったかと思うと、冬に逆戻り。突風も吹けば、豪雨にも見舞われる。別に今年に限ったことではないのだろうが……。初唐の詩人・劉廷芝の、

「年々歳々花相似たり

年々歳々人同じからず」

また、井伏鱒二の、

「花に嵐のたとえもあるぞ

さよならだけが人生だ」

あるいはT・S・エリオットでしたっけ、

「春はもっとも残酷な季節だ」

こちらは、わが邦の梶井基次郎の、

「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!」

といったフレーズが頭の中を横ぎってゆく。

春は、浮かれる一方、凶事の予感がある。

いや、春は、凶事の予感があるから、浮かれるのか。

歳時記を手にすることは多いのだが「○○忌」の項は、ほとんど見ない。句を作ったこともない。いや、一回あったことを思いだした。自分の本の帯裏に、

「志ん生忌昼酔う人の浮沈(うきしずみ)」

といった句を添えたことがある。

これとても、なにも「志ん生忌」にする必然性はなく「葉桜や」でも「藤の花」でもよかったのですが、本の奥付の刊行日が、古今亭志ん生の命日に近かったのと、「昼酔う人」が、この噺家を連想させたので、テキトーに上五に据えた次第。じつに、いいかげんな態度です。

ということで、今回は春の季節に逝った人々の名を思い起こしてみたい。

先ほど記した「行く春」や、「春愁」といった気分が、そんな気にさせたのかもしれない。歳時記を開く。

角川書店編の『新版俳句歳時記』(昭和46年初版)では「行事」の項の末尾に忌事関連の季語が列記されている。

「西行忌」「利休忌」「其角忌」「梅若忌」「人麿忌」「茂吉忌」「鳴雪忌」「三鬼忌」「虚子忌」「啄木忌」……。

なるほどなぁ、こうして改めて見ると錚々たるラインナップ。

「梅若忌」「人麿忌」「西行忌」は、かなりいにしえのことがらではあります。

「梅若忌」はもともと梅若伝説ですよね。謡曲「隅田川」。向島の北墨堤には梅若伝説に因む木母寺がある。今は、四月十五日には梅若祭が開かれる。

梅若忌日もくれがちの鼓かな     飯田蛇笏

ビルの前にモクレンが咲き誇っています。高層ビルの量感に紫モクレンは負けていない。

ビルの前にモクレンが咲き誇っています。高層ビルの量感に紫モクレンは負けていない。

人麿(柿本)だって、相当昔の人、万葉集の歌人ですから、高校で「東野の野にかげろひの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ」などといった歌を憶えさせられました。

灯ともればやさしき湖や人麿忌     藤田湘子

この一句、一時、話題となった梅原猛の『水辺の歌──柿本人麿論』を思い起させます。

西行の死は彼自身の歌によって強く人の記憶に残った。例の「願わくば花の下にて春死なむ この如月の望月のころ」と歌って、実際、この季節に死に至った。

つぼみなる花かぞふべし西行忌     五十崎古郷

江戸の俳人・其角の句には理解に手を焼く難句が少なくないが、明治以後活躍した鳴雪、虚子、三鬼となると、グッと身近な存在に思えてくる。

それぞれの忌を読んだ句を見てみよう。

花の戸や其角を祭る絵蠟燭       岡野知十

なるほど、絵蠟燭に江戸の華やぎが感じとれます。

子規知らぬコカコーラ飲む鳴雪忌    秋元不死男

そうか、子規はコカコーラを知らずに命を終えたのか。子規より二世代若い高村光太郎の浅草の牛鍋の「米久」の詩にはコカコーラが出てくるけど。

その子規の「ホトトギス」を継いだ俳壇のドン・虚子の命日は、いかにもその存在にふさわしく、釈尊の誕生した日と同じ四月8日。「仏生会・花祭」の日である。

墓前うらら弟子等高声虚子忌かな    山口青邨

師がエネルギッシュなら、その忌に集う弟子たちも、ということか。「弟子等高声」にチラッと皮肉を感じるのはぼくだけだろうか。

西東三鬼も春に死すか、しかも四月一日。エイプリルフールの日だ。

水枕ガバリと寒い海がある

おそるべき君等の乳房夏来る

など、少しでも俳句の世界を覗いた人なら、まず知っている有名な句がある。

釘買って出る百貨店西東忌      三橋敏雄

空地に咲いたポピー。このポピーという花も、種を飛ばし、ほんのちょっとした土のあるところにも可憐な花を咲かせます。春の風にゆれるポピーは人の心をくすぐりますね。(看板は面白いのでわざと入れました)

空地に咲いたポピー。このポピーという花も、種を飛ばし、ほんのちょっとした土のあるところにも可憐な花を咲かせます。春の風にゆれるポピーは人の心をくすぐりますね。(看板は面白いのでわざと入れました)

茂吉忌、啄木忌の例句も見てみよう。

えむぼたん一つ怠けて茂吉の忌    平畑静塔

うーん、いかにも茂吉の雰囲気。「えむぼたん」はもちろん、ズボンの前のMボタン。ボーヨーとした、あの風姿と、老いらくの恋が思い出される。

啄木はといえば、上京はしたもの、その生活は失意の日々となった。

靴裏に都会は固し啄木忌       秋元不死男

ところで、もう一冊の文庫版歳時記を手に取る。角川学芸出版編『俳句歳時記』(第四版・増補 平成23年刊)をチェックすると、あることに気づかされる。忌事の項で新しい人物が登場しているのだ。これだから歳時記は買いたして何種も持っていたほうがいい。

これまた崖の下のちょっとしたスペースに藤の花房がたわわに。物干し棹で支えているのが不粋の粋というものでしょう。(鉄柵のシートはわざとフレームに入れました。生活感があって面白いので)

これまた崖の下のちょっとしたスペースに藤の花房がたわわに。物干し棹で支えているのが不粋の粋というものでしょう。(鉄柵のシートはわざとフレームに入れました。生活感があって面白いので)

新たに歳時記に登場、季語になったその人とは、永井荷風と寺山修司。ラインダンスの太ももが目に浮かぶ。

レッスンの脚よくあがる荷風の忌    中原道夫

いかにも、ですね。

寺山忌の方は、

青空に染めきらぬかもめ修司の忌    遠藤若狭

なるほど、浅川マキの、あのハスキーな歌声を思い出しました。

その人の死も季語ともなれば、どこか親しげな気持ちが湧くのでしょうか。ところで昨日、今日は四月も下旬というのに都心でも朝は五、六度の冷え込み。季節感が狂います。いよいよ「今年の春」の記憶が混乱する。

季語道楽⒀ 新年   坂崎重盛

  • 2013年1月11日 18:51

早いもので、このWEBでの連載「季語道楽」、スタートしてから、ちょうど一年たちました。四季をひと巡りしたわけです。

と、いうわけで今回は、二年目の「新年」。

正月間近の風景。羽子板と羽根を手にする母子。うしろの人影は正月飾りを肩にする男衆だろう。明治木版画。

正月間近の風景。羽子板と羽根を手にする母子。うしろの人影は正月飾りを肩にする男衆だろう。明治木版画。

この年明け、世界は、いや、私自身、前途多難を覚悟しなければならない状況ではあるはずなのに、元日からの、おだやかな日和の中で、昼から浅草花街散歩やら神保町、昼下がりの雑本漁りとビール三昧などと、能天気な松の内。気がつけば七草七日も過ぎて、八日の夕方前、スタバでモダン・ウェスタン(?)などBGMに、この原稿を書いています。

気分は、まったく、まだ正月。その証拠に、というかなんというか、夕方過ぎから、神楽坂で文豪・A氏と新年会です。

皆さまの今年のお正月はいかがお過ごしでしょうか。初句会は、もうやってしまわれたでしょうか。

もちろん「初句会」は「新年」の季語。「初」とついたら新年にきまってる。

「初暦」「初日記」「初硯」「初湯」「初市」「初荷」──なんか字面だけ見ていても目出度い気分になりますね。

かるた取りに興ずる女性たち。放っておかれた猫は手まりと戯れる。

かるた取りに興ずる女性たち。放っておかれた猫は手まりと戯れる。

「初荷」かぁ。最近は、さっぱり見かけなくなりましたが、問屋さんが小さなトラックに青果やお酒のケースを積み上げて、のぼりを何本も立てて小売店をまわったあの情景、「イヨーッ!」とか掛け声をかけて手拍子打ったりしていたのを思い出しました。

「初鏡」「梳初(すきぞめ)」「初櫛」「結ひ初(ゆいぞめ)」「縫初(ぬいぞめ)」「俎始(まないたはじめ)」──これは女性用の季語でしょうか。まっ、男性でもかまわないのですが。女性用の季語といえば、「女正月(おんなしょうがつ)」。「女正月(めしょうがつ)」という季語があります。これは正月十五日のこと。

関西の京都・大阪では、女性は松の内はなにかと忙しく、十五日から年始の御礼まいりを始めるため、「女正月」ということになったという。

似た季語で「女礼者(おんなれいじゃ)」があるが、こちらは正月早々、正月三日から、回礼にゆく女性をさす。

「骨正月(ほねしょうがつ)」という、いかにも俳味に富んだ珍しい季語がある。正月二十日のことで、地方によって、「団子正月」「二十日団子」などともいう。

正月用の魚もほぼ食べつくし、その骨で出汁をとって正月最後の食事をするという風習。

お屠蘇で酔ったうえでの羽根つきか。赤ら顔の男の顔には、もう墨が。

お屠蘇で酔ったうえでの羽根つきか。赤ら顔の男の顔には、もう墨が。

この日が過ぎれば、客に対しても正月向きの応接をしなくてもいいという。東京育ちの私など、聞いたことがない言葉です。季語には、その地方の人にしか実感のわかない言葉がある。逆に言えば、その季語ひとつで、その地域の風習や行事の情景や気分を喚起することができることになる。

さて、「初」がつけば、まず、「新年」とはすでにふれたが、「寒」、これもまた「新年」の季語となる。

「寒造(かんづくり)」「寒稽古」「寒復習(かんさらい)」「寒見舞」「寒施行」──なにか身の引き締るりんとした雰囲気がある。

それでは例によって読みにくい季語、珍しい季語をいくつか。もちろん「新年」です。

「淑気(しゅくき)」「瑞雲(ずいうん)」、これは正月のめでたくも荘厳な気配という。

「注連飾(しめかざり)」、これを「七五三縄」と表記することもある。しめかざりのワラを七、五、三という順に垂らすため珍しい。名字で「七五三」と書いて「しめ」あるいは「しめなわ」と読ませる例もある。

わたしが愛する瓢箪についての奇書を大正時代に著した七五三翠嚴という人もいましたっけ。

「屠蘇(とそ)」「草石蚕(ちょろぎ)」「木偶回し(でくまわし)」「鷽替(うそかえ)」「土竜打(もぐらうち)」「𣜿(ゆずりは)」「野老(ところ)」。

この中で、子供に印象深いのが「ちょろぎ」と「うそかえ」。「ちょろぎ」は例のおせちの黒豆の中に入っている、妙な形をした小さな赤い巻貝のような不思議な物体。食べはしないがこれが多年草の根っ子だという。

明治期の地方(岡山)の正月風景。子供の情景が可愛いい。

明治期の地方(岡山)の正月風景。子供の情景が可愛いい。

もうひとつ「うそかえ」。家から自転車で20分ほどのところに亀戸天神(天満宮)があり、鷽(うそ)という可愛い鳥の形をした木彫りを買って帰る。一月末の行事ですが、本家の太宰府天満宮では一月七日に催されるため「新年」の季語となっている。

この「うそかえ」にせよ、藤の季節にせよ、亀戸天神へ行けば必ず寄るのが天神さまの鳥居の手前の葛餅の「船橋屋」でした。ここの葛餅、好きだったなぁ。