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ヒトラーの時代(27) 池内 紀

  • 2017年10月5日 18:05

強制収容所第1号

建築家ヒトラー

建築はヒトラーにとって終生かわらぬ情熱だった。当人も自分の志向を自覚していたのだろう。『わが闘争』の生い立ちをつづったくだりに、ウィーン美術学校入試に二年つづいて失敗したとき、学長から絵画はダメだが建築には才能があると指摘されたと述べている。

学長がわざわざ不合格者に、そんな感想を口にするかどうか疑問だが、受験のとき参考画を提出してもよいきまりがあって、受験生アドルフ・ヒトラーが提出した建物の素描が残されている。設計に際して建築家が「完成図」として描くのと似ており、一つの建物の全貌がわかるぐあいに描きとめてある。背の高い痩せっぽちの受験生のしょげ返りぶりを見て、わきにいた学長が参考画をとりあげ、ひとこと慰めを言ったのかもしれない。

その点はともかく、以後の数年、美術学校がかなわず、仕送りもままならず、浮浪者のような暮らしをしていたころ、建築が「飯のタネ」になっていたことはたしかである。ウィーン名所の建物をペンで絵葉書大に描きとめる。浮浪者収容所の仲間がそれを夜の酒場で、「某有名画家直筆」として売りあるいた。口上は怪しくてもタバコ代程度の安値とあって、酔っぱらいが我が家への手土産に買わないでもない。元美術学校受験生は写真絵葉書を手本にペン画に仕立てたが、まわりで見物の浮浪者は口々に、世に容れられない天才を称賛した。そんなとき政治談義の好きな青年は口をゆがめて、自嘲のセリフをつぶやいた。

ウィーンの建築家マクス・ファビアーニによると、二十代はじめのヒトラーがウィーンからミュンヘンに移る少し前のことだが、三か月ばかりファビアーニの事務所が図工として採用したという。ミュンヘンへ移ると聞いて、ミュンヘンの建築事務所ハイルマン&リトマンを紹介した。

マクス・リトマンは劇場建築で知られていた。ヒトラーがそこに勤めたかどうかは不明だが、リトマン設計の劇場のことはよく知っていて、首相になってのちのことだが、話題が劇場建築に及ぶと、こまかい数字をあげて説き立てた。ヒトラーは初めてガルニエ設計のパリ・オペラ座の前に立ったとき、誰も気づかなかった改造された部分を的確に指摘したと、建築家アルベルト・シュペーアは述べているが、「総統の建築家」として名を馳せた人物であって、ヒトラー神話化のケースにあたるかもしれない。

「総統の建築家」アルベルト・シュペーア

「総統の建築家」アルベルト・シュペーア

ミュンヘンの超過激派政党の党首時代は建築どころではなかっただろう。武力闘争を捨て、合法政党に転じ、1929年、おりからの経済不安に乗じて急激に勢力を拡大していたころであるが、ヒトラーはミュンヘンのサロンでパウル・トローストを知った。みずからは建築家を名乗っていたが、むしろインテリア・デザイナー、特に客船のデザインで知られていた。要するに建築家としては、ほとんど仕事の場がなかったからである。

ヒトラーはトローストを「ヘア・プロフェッサー」と呼んで才能を高く評価した。それまで建築家としては無名だったトローストは、ヒトラー直々の依頼による「ナチ党本部」や「ドイツ芸術会館」の設計によって一挙に世に知られた。

1933年10月、ドイツ芸術会館の定礎式にあたり、ヒトラーは「八都市改造宣言」を発表した。ドイツの主要都市をナチスの考えにもとづいて、大改造する。ベルリン、ミュンヘン、ハンブルグ、ブレーメン、ライプツィヒ、ケルン、エッセン、ヒュムニッツの八都市で、ドイツの首都、州都、中核都市にあたる。

なかでもベルリンには「ゲルマニア計画」という壮大な都市改造が想定されていた。「世界を支配する第三帝国の永遠の都市『ゲルマニア』建設」をうたい、十九世紀フランスでオスマン男爵が設計したパリ大改造に匹敵する。首都中央部にはトロースト好みの新古典主義の様式でアドルフ・ヒトラー広場、総統官邸、国防軍最高指導部、新国会議事堂、新パンテオン、凱旋門など整然と並んでいる――

様式はトロースト直伝だが、あきらかに総統のトロースト崇拝を見こしてのことで、設計図を引いたのは別人である。アルベルト・シュペーア(1905〜81)は当時二十八歳、ベルリン工科大学建築学科助手。ヒトラーに見出された才能の一つで、のちに回想記に述べている。

「私は二十八歳だった。大仕事がやらせてもらえるなら、ファウストみたいに魂を売ってもよいという気持ちだった。そういうところへ、私のメフィストが現れたのである。彼はゲーテのそれに劣らず魅惑的だった」

当時は経済不況のさなかであって、「ゲルマニア計画」が机上の空論であることはよく知っていた。だからこそなおのこと、青年建築家は壮大なと都市設計にいそしんだ。建築学科のファウストは、ありったけの夢想を盛りこんだ。たしかに広場一つも実現できなかったが、メフィストの目にかない、以後、「総統の建築家」として縦横に腕を振るった。

1937年、シュペーアは総統令によって首都建築総監兼土木総監に任じられた。若冠32歳だった。好みの建築家集団を組織してよし、またすべての官庁に自由に出入りできる。ついでシュペーアはニュルンベルクのナチ党大会会場の設計を依頼され、四十万人収容の「ドイツ・スタジアム」とともに「光の大聖堂」を設計した。ドイツ・スタジアムはあまりの巨大さのため見送りとなったが、もう一つの案は実現した。対空サーチライト140基が天空に「光の大聖堂」を描き出した。

アルベルト・シュペーア設計による、ニュルンベルク・ナチ党大会会場の40万人収容のドイツ・シュタジアム。1973年

アルベルト・シュペーア設計による、ニュルンベルク・ナチ党大会会場の40万人収容のドイツ・シュタジアム。1973年

同年、パリ万博に展示されたシュペーアの「ニュルンベルク都市計画案」はグランプリを受賞。ヒトラーに「あらゆる時代を通じて最大の天才」と褒めそやされた。

 

1936年のベルリン・オリンピックは世界中にナチス・ドイツの躍進ぶりを見せつけた。とりわけ人々はオリンピック・スタジアムの壮大さに目をみはった。公称六万人だが、優に十万人は収容できる。当時としては破天荒のスケールだった。さらに要所にはエレベーターや電動式移動設備がととのっていた。一般人にはうかがい知れぬことながら、スタジアムの下にあるトンネル、あるいは観覧席の地下構造物など、スポーツ施設をこえており、見る人が見れば戦争に備えた軍事施設の性格を感じとっただろう。

「ゲルマニア計画」が典型だが、ナチス時代の建築は破格の大型プロジェクトを特色とした。トローストは設計した「ドイツ芸術会館」の完成をみずに1934年死去したが、もし現物に立ち会っていたら、その途方もない大きさに唖然としたのではあるまいか。

ヒトラーにとって公共の建物は巨大で、かつ壮麗でなくてはならない。その大きさが国民に、みずからの偉大さ、存在の意味深さを思い出させる。建物が大きければ大きいほど、市民には国家が強大なものに見え、アーリア人の偉大さを伝えて、民族共同体の意識を高めていく。建造物がナチス原理の効果的なメディアの役割を果たしていく。

さらに「ゲルマニア計画」見てとれるのは、首都と他の都市の一体化である。ベルリンが首都として中心的な都市であれば、そのまわりに総統都市が中核をつくり、他の諸都市がこれに準じる。おのずと建築物にも都市のヒエラルヒーが適用される。パレードに欠かせない広場にしても、都市のスケールに応じており、バイロイトでは収容者数30000人とすると、ワイマールでは60000人、アウクスブルクでは100000人、ドレスデンでは300000人規模というわけである。

ナチス特有の大集会を催すホールでは、座席数がかかわってくる。バイロイトが5000人とすると、ワイマールでは15000人、アウクスブルクでは20000人、ドレスデンでは30000人となる。ホールはつねに市民の半分は収容しなくてはならない。市民ホールには党本部が寄りそい、鐘の音が民族共同体に呼びかける。そのため党本部の建物には、教会に似た鐘の塔が付属していなくてはならぬ――

ナチスは「第三帝国」を、古代ゲルマン時代の行政区画になぞらえて「ガウ(大管区)」で区分した。大管区の中核が「ガウシュタット(大管区都市)」である。おのずとその下には中管区、小管区にあたる都市が位置づけられる。

帝国のすべての建物は様式的に統一され、都市の区分に応じて建物の大きさ、塔の高さ、収容者数も定まってくる。大管区都市は、古代ローマ時代に市民集会の裁判などにあてられた「フォールム(公共広場)」をもち、それは旧市街のはずれに設置される。そこで建物とフォールムが一体となって、旧市との相違をきわ立たせ、ナチス思想を視覚化して伝えるはずだった。

ヒトラーが先に八都市、ついで五つの総統都市の大改造を発表したのは、建築と権力と理念とを造形として実現するためであって、壮大なプランに応じて精巧な模型がつくられた。1937年にはその実現のためのスタートの年であり、土木総監シュペーアの名において第一次五年計画が発表された。さしあたりはベルリンで着手。第二次、第三次と継続して、壮大な建築群が出現する。ヒトラーが唱えた「千年帝国」は、わずか12年で終了した。もし千年つづいていたら、奇妙に画一化した大小の都市がドイツ全土に散らばっていたにちがいない。

ナチス首都建築総監アルベルト・シュペーアのもとにいくつものチームがつくられ、首都改造にとりかかったが、大プロジェクトは総統の思いつきのたびに、変更されて、実質的にはほとんど進まなかった。独裁者の時代にはよくあることだが、夢のような青写真をつくり、とりかかると無理なことがわかってとりやめになったり、その場しのぎの変更をした。ベルリンの地下には不思議なトンネルや地下壕が無数にあって、新しく発見されるたびに「ナチスの隠し金塊」とか、運びこんだ名画が噂になったが、とどのつまり、目的不明の工作物と判明する。総監シュペーア自身、首都大改造をどこまでまともに受けとめていたものか。総統のご機嫌とりに、形だけ地下工事を始めたことにしていたのではなかろうか。

案の定、第一期五カ年計画自体が二年たらずで放棄された。ヒトラー・ドイツは第二次世界大戦に突入した。当然のことながら「ゲルマニア計画」は中止、シュペーアのまわりにできた建築集団は、大管区都市の整備ではなく、首都防衛のための土木工事、また西部要害や大西洋要害の建造に振り分けられた。要害の設計にあたっても、ヒトラーの狂気じみた特色が見てとれる。シュペーアが総統から受けとっていたメモには、西部要害は二万二千の要塞の建設からなり、大西洋の要塞には、攻撃型、監視塔型、司令塔型、防空壕型、都市要塞型の五種が細かく指示されていたのである。

ノルマンディ一帯には指令塔型と防空壕型があてられていた。フランス占領が完成したのち、シュペーア隊がノルマンディ要塞建設に取り組んだ。1944年の連合軍ノルマンディ上陸のあと、イギリス、フランスの軍事技術者たちは要塞建設のあざやかさに舌を巻いた。本来は全部爆破すべきものであるが、フランス政府は建造技術を惜しんで、いくつかを残すことにした。現在それらはノルマンディ観光の名所の一つになっている。

 

「総統の建築家」のその後について、少し触れておく。一九四二年、高速道路の建造をはじめ、国家的事業を推進したトット軍需相が飛行機事故で死亡。ヒトラーに諫言した直後のことで、謎の死が取り沙汰された。

宮廷地下壕で「総統都市」リンツの改造案を検討するヒトラー、1945年.(自殺の二カ月前)

官邸地下壕で「総統都市」リンツの改造案を検討するヒトラー(1945年。自殺の2カ月前)

シュペーアがあとを継いだ。行政手腕の点でも卓抜した人物だったのだろう。軍需品の生産を飛躍的に増大させて総統をよろこばせた。シュペーア当人には本意ではなかったのだろうが、このファウストはいや応なくメフィストのふところに取りこまれていく。

1944年、ヒトラーは敗北を予期し、先んじてドイツ全土を焦土と化す「焦土作戦」を命じた。忠実な土木総監兼軍需相は、初めて独裁者に逆らった。焦土作戦を阻止するため、さまざまな奔走をした。東部戦線のソ連軍が刻々と首都に近づき、西からは連合軍が攻め上がるなかで、ドイツ国防軍を説得し、ナチ幹部には術策をもってあたって、命がけの潜行と脱出をくり返しながら、首尾よく焦土作戦中止をかちとった。

戦後、ニュルンベルクの裁判でナチスの高官として被告となり、戦争に対する「共同責任」を認め、二十年の禁固刑に処せられた。

敗戦まぎわ、1945年2月9日の日付入りの写真が残されている。場所は総統官邸地下壕、大元帥の制帽、制服、手に白い手袋を握りしめたヒトラーがシュペーア・チーム作成のリンツの改造模型に見入っている。ドナウ河畔の町リンツはヒトラーの故郷であり、そのため総統都市に格上げされていた。

赤軍に包囲され、陥落まじかのベルリンである。ヒトラーの自殺は二カ月あまり後のことだ。そのまぎわに改造都市のモデルを前に独裁者は何を思っていたものか。狂気と接した正気、あるいはその逆の姿というほかないような気がする。

ヒトラーの時代(26) 池内 紀

  • 2017年8月28日 16:42

 

ゲシュタポの誕生

ヒトラー政権誕生の二カ月後にあたる1933年4月、プロイセン首相ヘルマン・ゲーリングはプロイセン州政治警察を、ベルリンのプリンツ・アルブレヒト通り8番地に移し、独立の部局とした。六月、正式名称を「ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ(秘密国家警察)」と決定。いわゆる「ゲシュタポ」、「無慈悲」の代名詞として恐れられた国家機関の誕生である。プリンツ・アルブレヒト通り8番地を本部として、やがて順次、各地に分署が設けられた。開戦後は占領地に拡大した。

初代長官はルドルフ・ディールス。翌34年4月、SS国家長官ハインリヒ・ヒムラーにゲシュタポの管理権が代理委譲されてより、ヒムラーとその部下ラインハルト・ハイドリヒのもとに戦慄すべき部局へと変貌していく。なお「ゲシュタポ」の用語は郵便局員が

Geheime StaatspolizeiのGe・sta・poを組み合わせて短縮形のスタンプをつくったのに由来するといわれている。

時代はややさかのぼる。19世紀の80年代は、新興ドイツ帝国の首都ベルリンがとめどなく膨張していたころだが、目抜き通りのウンター・デン・リンデンから少しへだたったプリンツ・アルブレヒト通りの9番地に一つのホテルが誕生した。当初は「ホテル 四季」、十年ほどして「ホテル・プリンツ・アルブレヒト」と改名。「ルネサンス様式の華麗な一流ホテル」と案内にあるが、当時ベルリンの代表的なホテルの「アドロン」や「カイザーホーフ」よりはやや劣るクラスとみなされていた。

ホテル・プリンツ・アルブレヒト。後のゲシュタポ本庁

ホテル・プリンツ・アルブレヒト。後のゲシュタポ本庁

狂乱の1920年代にホテルとして立ちいかなくなったのだろう、となりの8番地にわたって改築され、プロイセン芸術工芸学校になった。

1933年、ナチス政府の所有となり、ヒムラーを長官とするSS(親衛隊)の本部になった。のちに「プリンツ・アルブレヒト」は顔をこわばらせてささやかれる地名になったが、本来はにこやかに旅客を迎え、また芸術家、工芸家の卵をやしなうところだった。写真には十九世紀末におなじみの装飾の多い鈍重な建物が見える。正面は女神が柱頭を担うかたち。屋上にメダイヨンのような飾りファサーデがのっている。少なくとも外観からは、合法的テロ集団の拠点であったなどとはつゆ思えない。

SSの組織は急激な拡大につれて変遷があったが、一応落ち着きに至った1939年以後で見ると、ゲシュタポはSSの一部局、国家保安本部(RSHA)傘下の保安警察(SIPO(ジポ))に属し、その「罤6局」にあたる。SS中将ハインリヒ・ミュラーがゲシュタポ長官として指揮をとった。

ゲーリングからヒムラーへの管轄委譲を伝えるナチ党新聞

ゲーリングからヒムラーへの管轄委譲を伝えるナチ党新聞

同格の「第5局」が刑事警察(KRIPO(クリポ)でネーベ中将が長官をつとめた。ついでながら保安警察の同格として保安諜報部(SD)があり、これは「第3局(内務局)」と「第4局(外務局)」に分かれていた。名称はそれぞれ微妙に異なるが、いずれもスパイ活動を任務として、反ナチスを摘発、超法規で処理する権限が与えられていた。いかにナチス・ドイツが入念に国民監視の網を張りめぐらせていたかが見てとれる。

ゲシュタポはSS内の一部門にすぎないのに、その悪名がとどろいているのは、反ナチス、またレジスタンスの人々を捕え、拷問し、虐殺した凄絶な歴史による。もっとも速くにゲシュタポ通史として著されたジャック・ドラリュの『ゲシュタポの歴史』が、邦訳では『ゲシュタポ・狂気の歴史』となっているのは、組織が先鋭化するにつれ、狂気の沙汰としか思えないことが横行したからである。

1933年の設立当初、ゲシュタポ本部のスタッフは200人から300人だったと推定されている。翌年4月、ヒムラーに権限委譲されて、680名に増加。1940年には1100人を数えた。十年足らずで設立時の四倍から五倍の増加からも、いかに猛威を振るったかがうかがえる。

当初、ゲシュタポが標的としたのは共産党員だった。ナチス政権誕生直後、国会議事堂放火事件を名目に非合法化され、選挙で選ばれたばかりの国会議員七十八名は、一度も登院できないまま資格を抹消された。非合法化されたがドイツ共産党(KPD)は依然として最大の野党であり、左翼勢力の牙城だった。共産党殲滅のために、ゲシュタポは手段を選ばなかった。名目は何であれ、「反ナチスの陰謀」をデッチ上げ、逮捕、拘留、拷問をくり返した。ハンス・オトー事件がもっとも早い時期の典型的な一例である。

ハンス・オトー(1900〜1933)は、早くから俳優の道にすすみ、フランクフルト、ハンブルグを経て、ベルリンの劇場の若手俳優として嘱目されていた。演劇だけでなく社会問題にも関心をもった青年は二十代で共産党に入党、1931年、ドイツ俳優連盟左翼部会委員長。ドイツ労働者演劇連合委員長、反ナチス党総本部の主要メンバーと目された。

1933年12月、ハンス・オトーはゲシュタポに逮捕され、十日後、建物五階から墜落死。書類上は事故死だが、同僚の報告がべつの事態を告げている。

もう少し詳しく言うと、12月13日、ベルリン市中の小さなレストランで仲間と一緒に逮捕された。密告者がSA(突撃隊員)を現場に案内した。オトーたちはなじみのレストランで次の芝居の相談をしていただけであるが、それが反アチス謀議とみなされた。逮捕された全員はSA分署に連行され、したたか殴る、蹴るの暴行を受けた。

「彼らが疲労して中止するまで続けられた」

4日後、ベルリン郊外のケペニックへ連行された。イヤな臭いのする防空壕に、同じく連行されてきた男や女たちがいて、全員がSAから手ひどい扱いを受けた。さらにSAのべつの分署に移され、プリンツ・アルブレヒトのゲシュタポに引き渡された。連日、尋問と拷問がつづいた。食べ物、飲み物は一切与えない。ゲシュタポは反ナチス陰謀の証言をとりたかったのだろうが、ありもしない謀議を伝えようがない。その間、真夜中ごろ、仲間の一人がハンス・オトーを見かけた。主謀者として隔離して尋問されていた。

「もはや話せなかった。口も目も大きく腫れ上がり、ただ、呻くだけだった」

数時間後に見かけたのが最後だった。「半裸体で、顔の見分けがつかなかった。全身血まみれで、気を失っていた」

屋上からの墜落はその直後のこと。突撃隊員が運び上げて、投げ落としたと思われる。

証言者がいるのは、逮捕から拷問、虐殺までの手順がシステムとして確立されていなかったせいだろう。その後、権力側は迅速に「学習」した。そのためにハンス・オトー事件のケースは数多くあったはずだが、表面に出るのは、めだって少なくなる。拷問と虐殺を「事故死」「病死」とスリかえるシステムが完成していた。

いかにゲシュタポでも証拠なり密告がないと、逮捕は難しい。そのために愛用したのはシュッツハフト(保護検束)である。「国家と民族の敵」とされる人々を保護するという名目で拘束する。

保護検束は通常、地区警察の要請をゲシュタポ長官が了承する形で行われた。検束者の正確な数は不明だが、逮捕された者の名前の頭文字に通し番号をつける方法で記録された。そんな書類の一つに「M 34591」が残されていて、1945年までに少なくともMで始まる姓の人三万四千五百九十一人が検束されたことを示している。総計でどれほど多数が「保護」のもとにしょっぴかれたか。「保護」のあと拷問ののち、辛うじて生きのびても、次には強制収容所の「保護」へと移され大半がそこで死んだ。あるいは殺された。

辛うじて生きのびた人々の証言によって、本庁、分署を問わずゲシュタポ内部の構造はおおよそわかる。正面玄関を入ると、正面にSS長官ヒムラーの写真が掲げてあり、テーブルは卓布にかえて鉤十字の旗で覆われている。

「執務室」と呼ばれる部屋を通り抜けると、地下室じみた廊下につづく。赤味がかった小灯が点々とともり、弱々しく辺りを照らしている。廊下の左右は頑丈な扉のついた小部屋(独房)で、さらにいくつもの重々しい格子戸を抜けていくと、最後に窓のない一室に行きついた。奇妙な道具がいくつか置かれていて、天井から鎖つきの鈎のようなものが下がっている。

執務室の経過も、ほぼ定まっていた。冷ややかなヒムラーの写真のもとにドアが開け閉めされ、長靴をひびかせた男たちが忙しく出入りしている。まずSD(の管轄で、制服の袖口に黒いSDの縫いとりのある係官が身分証明書を調べて書きとめる。たいてい偽造の証明書だが、とっくに承知ずみのように一切問わない。次に連行者がわずかに身につけている小物、財布やネクタイを没収。すべてが商取引きさながらの手ぎわよさで処理されていく。

かわってSSの係官が執務室にやってくる。カーキ色の制服にSSの黒いマークをつけ、手首に革リボンつきの一メートルほどの鞭をたらしている。拷問者にはこれが出番を意味しており、連行者に声をかける。

「アルゾー・ロース(では、いくか)」

それから弱々しい明かりの照らす廊下を、いくつもの鉄格子のドアを音高く開け閉めして、先に触れた窓のない部屋へつれていく。現場ではSSのほか、逮捕したゲシュタポが立ち会った。

戦後明るみに出たゲシュタポの独房跡

戦後明るみに出たゲシュタポの独房跡

さまざまな拷問の仕方があったようだが、さしあたり共通して一つの尋問形式をとった。天井から滑車のついた鎖がぶら下がっていて、鎖の端に頑丈なS型の鈎がついている。連行者はうしろ手に縛られたまま鎖の前につれて行かれ、鉤がうしろ手の縛り目にかけられる。ついで滑車がまわり、連行者は鎖で床から一メートルばかりの高さに宙づりにされる。そして「仲間は? 隠れ家は? 連絡の方法は?」といった尋問を受ける。

とびきり頑健な肉体の持ち主でも、そう長くは我慢できない。両肩が割れ、ある証言者によると「フライパンから玉がとび出るように」両肩が脱臼して、全身が宙吊りになる。肩からもがれたうしろ手がぶら下がり、その手が頭上でねじくれている。その間にも、たえまなく革の鞭が降ってきて、みるまにズボンが裂けていった。もっとも苦痛の多い肩の脱臼による宙吊りは、ゲシュタポが効果を見定めた方法だろう。脱臼をもとにもどせば、何度でもくり返しがきく。証言を拒めば、焼いた針を刺しこんだり、火のついた葉巻を押しつけたり、基本の宙吊りに、いろいろな「細工」をしていく。拷問担当はSDなどと比べて下級官吏とされたが、肉体に加える途方もない無法に関しては、上級官よりも下級官吏が有能で知恵に満ちているものなのだ。

ヒトラー体制を支えていたものは、ゲシュタポ、強制収容所という「装置」だったことはよく言われる。拷問はナチスにかぎらず、至るところでなされたし、今なおひそかに至るところでなされているだろう。それはナチスの専売特許ではなかった。しかし、まさに拷問において第三帝国が現にあったとおりのものとなったのも事実だろう。金色の党員バッジや純血や勲章が、総統とそのイデオロギーの召使いにしたわけではない。もう一つ、優秀な召使は拷問することができなくてはならない。「他人の苦しみを耐えることにおいて偉大」でなくて総統の臣民とはいえないのだ。

ナチズムはいかなる理念とも縁がなかったが、混乱し、錯綜した理念の「片われ」はどっさりもっていた。唯一の政治組織として非人間的な支配を実践した点では、他のテロ政体とかわりはないが、ナチズムの独自性は、非人間的な支配を、はっきり原理として確立していた点にあったといえる。ユダヤ人問題に見るように人間性の破壊と奴隷化を実践しただけでなく、手をかえ品をかえてそれを理論づけた。拷問においても同様で、拷問を原理として、国家の機密を独占しようとした。

辛うじて生きのびたユダヤ人の一人、ジャン・アメリーは、ナチス・ドイツを省察した『罪と罰の彼岸』に「拷問」の章を設けて、そこで述べている。

「拷問という悪夢の体験を突きぬけて、一つの認識が残っている。もはやいかなる人間的なまじわりによっても、この世との違和感を消し去ることはできない」

愕然として知ったわけだ。絶対的な支配者としての他人がおり、その支配権は社会契約にもとづく権力とはまったくもって無関係なのだ。呻いている相手を見下している拷問官は絶大な勝利を得た一人の強者であって、拷問によって限りなく自分を主張する他人であり、この世から死の世界へと追いやる者を傲然と見つめている。ごく身近な拷問の一種である強姦になぞらえるとわかりやすいかもしれない。

「拷問された者は二度とふたたび、この世になじめない。屈辱の消えることはない」

拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度と取りもどせないからだ。

ヒトラー体制の中核として機能した組織に、SSのほかにSDとRSHAがあったことは先に述べた。ゲシュタポ同様に略称を通称として国民にニラみをきかせた。おおかたが聡明な若者たちで構成されていた。当初は知的な教養人であり、理想に燃えてナチスに入党した。その知識人部隊が、またたくまに変質した。国家的監視システムだけでなく、東欧ユダヤ人の絶滅という恐るべき企ての中核となった。どうしてこんな事態が生じたのだろう?

心理的にも社会的にも微妙な問題を含んでおり、ナチス研究であまり手をつけなかった分野にあたる。ナチス組織の有能なテクノクラートとして、昇進を競うなかで、期せずして先鋭化していったのか。ナチスはユダヤ絶滅の正当化にあたりレトリックを多用したが、若手の実務官僚たちも、ナチス原理を巧みに消化して、みずからレトリックの実行者となったのか。

いずれにせよそのなかで巧みなシステムが編み上げられた。アイヒマン裁判で実証されたが、責任者が表にあらわれないのだ。ユダヤ人問題、また拷問の事実を知りながら、仕方がないと呟いて、大方の市民は良心をくびり殺していられたのである。

 

 

 

ヒトラーの時代 (25) 池内 紀

  • 2017年6月30日 16:53

亡命という生き方

ユダヤ系のドイツの作家ヨーゼフ・ロートは、1933年2月、ベルリンを発ちフランスへ亡命した。パリ・トゥルノン通りのホテル・ホワイヨが仮の住まいになった。ヒトラーの政権掌握後、二週間たらずのことである。

ロートはもっとも早くからナチス・イデオロギーの危険を語った一人だった。さらにヒトラーの狂信的な信奉者たちがドイツを制することを正確に見通していた。その過激な主張からして、左翼知識人、とりわけユダヤ人にとって亡命は逃がれようのない事態であって、それをいち早く予告した。ロートは亡命とは言わず「追放された者」と呼んだ。一つの政治体制により、人間の基本的な生の条件を根こそぎ奪い取られたことを明確にしておくためだった。

同じユダヤ系の売れっ子作家シュテファン・ツヴァイクは、困窮に陥った友人ロートに、しばしば援助の手をさしのべた。パリに亡命後、まっ先にロートはツヴァイクに「亡命の勧め」を書き送った。「いずれあなたにも、はっきりするでしょう。われわれは大きな破局に直面しているのです。いずれ全面的な新たな戦争に至るでしょう」

ドイツ市民は歓呼してヒトラーとナチ党に政権をゆだねた。このような野蛮に支配をゆだねる社会に、なんの未練があろうか。「幻想を抱かれませぬように。地獄が支配するのです」

この上なく正確な警告だったが、ツヴァイクは幻想を捨て切れなかったのだろう。亡命は五年後の1938年までズレこんだ。あわただしくスイス、イギリスを経由してブラジルに逃れ、結婚して間のない新妻とともにリオ・デ・ジャネイロで自殺した。

ロートの仮住まいのホテル・ホワイヨはパリ・トゥルノン通り33番地にあった。それが1937年に取り壊されることになり、やむなく筋向いの十八番地、ホテル・トゥルノンに移動した。どうして同じ通りを動かなかったのかはわからない。根無し草の亡命者として、住みなれた界隈を離れたくなかったからか。それとも若いころ、南フランス・ローヌ川沿いの町トゥルノンを訪れたことがあった。十六世紀の枢機卿トゥルノン師にちなみ、パリの通りは、その町トゥルノンにちなんでいる。そんな記憶があって、同じ通りに居つづけたのか。

リュクサンブール宮殿の北にあたる。すぐ東が、オデオン座のあるオデオン通り。さらに北へすすむとブールヴァール・サン・ジェルマン。この辺りはいつも人であふれているが、トゥルノン通りは忘れられたような一角であって、人通りも少ない。両側は昔ながらの小店といった感じで、花屋、万年筆専門店、洋服屋、古書店、税理士事務所……。

取り壊されたホテル・ホワイヨもほぼ同様だったと思われるが、ホテル・トゥルノンは現存していて、どういうホテルかひと目でわかる。四階建ての粗末な建物の両側が六階建てで、ここだけ歯が欠けたようにへこんでいる。一階はカフェ兼居酒屋、二階から上がホテル。知られるようにパリのホテルは星の数で区分されるが、ホテル・トゥルノンは無星、ふつう言うところの安宿である。

 

ナチス政権の誕生とともに堰を切ったように亡命者の流れが始まった。作家でいうとユダヤ系、コミュニストを中心にして、エールンスト・トラー、アルフレート・デーブリーン、リオン・フォイヒトヴァンガー、エミール・ルートウィッヒ、ルネ・シッケレ、ヤーコプ・ヴァッサーマン、フランツ・ヴェルフェルと夫人のアルマ=マーラー・ヴェルフェル、ベルト・ブレヒト、トーマス・マンの兄ハインリッヒ・マン、『西部戦線異常なし』の作家エーリッヒ・マリーア・レマルク……。

トーマス・マンはロート同じころ、ミュンヘンの住宅を出た。短期のフランス、オランダ講演旅行のためであって、亡命は考えていたにせよ、さしあたりは講演を終えてからのこと。出発に先立ち、ミュンヘンのゲーテ協会主催の講演会で、ワーグナーを私物化し、党大会のいろどりにワーグナー音楽を悪用するナチスを、こっぴどく批判した。国外に出るやいなや、ナチス政府はこの機会を待っていたかのようにノーベル賞作家マンの帰国を差しとめた。期せずしてマンは着のみ着のままで亡命状態に陥った。

亡命者たちの亡命理由はさまざまだったし、亡命先も人ごとにちがっていた。さしあたりフランス、スイスが多かったが、ブレヒトのように、スウェーデン、ノルウエーを経てアメリカに逃れた者もいた。

フォイヒトヴァンガーやルートウィッヒはユダヤ系作家のうちでも大衆に人気のある通俗的歴史小説で知られ、豊かな印税にめぐまれていた。当時の一つの流行だったようだが、ドイツの富裕層はスイスに別荘をもち、休暇ごとにスイスで過ごした。はからずもそれが幸いして、人気作家たちは国を捨てても、代わりの国で別荘暮らしができた。

レマルクはベテランの通俗作家たちとはちがって、1929年、超ベストセラーとなった『西部戦線異常なし』でドイツ文壇に登場した。それまでの十年あまりは、しがないセールスマン、小学校教師、スポーツ新聞記者などを転々とした。世界的なベストセラーによって莫大な印税が入ったとき、苦節十年がムダではなかった。ころがりこんできた印税を上手に運用し、スイスの銀行に預け、かたわら南スイスの保養地アスコーナ近傍に売りに出ていた別荘を買った。美しいマジョーレ湖の湖畔にあって、地名から「ポルト・ロンコの家」と名づけ、第二の住居にした。ヨーゼフ・ロートと同じく1933年2月、さっさとベルリンを引き払い、アスコーナに移った。亡命にちがいないが、レマルクには、それは同時に別荘暮らしを意味していた。

これらはほんの少数の例外であって、亡命者のおおかたはロートのように異国で「仮の宿り」生活を始めなくてはならなかった。仮であって住居はホテル、それもせいぜいが中程度、どちらかというと「小」にあたる規模で、一般には「安宿」と分類されるもの。

こころならずも亡命状態に入ったトーマス・マンはスイスに移り、南スイスのルガーノや近傍の町のホテルを転々とした。ノーベル賞作家という背景が当座の助けになったが、いつまでも過去の栄光にたよっていられない。やがてマンのスイス滞在地がルガーノのような景勝地ではなく、ごく小さな町が中心になったのは、およそ不安定な身にあってホテル代の節約を考えてのことと思われる。

ヨーゼフ・ロートの亡命生活は、一見、おおかたの亡命者と同じだったが、くわしく言うと大きくちがっていた。大半の亡命者にとって異国でのホテル暮らしは初めての体験であり、たちまち困惑と困窮に苦しんだ。これに対してロートは二十代で結婚したのちの数年はウィーンに住居をもったが、妻が精神異常の兆しをみせ、病院に収容しなくてはならなくなって以後、家を捨ててホテル以外に住居をもたなかった。ホテルやカフェのテーブルが仕事場兼書斎であって、その小説やエッセイは酔っ払いや婦人のおしゃべりのかたわらで生まれた。早くから彼がおそろしく正確に時代を見通していたのは、定住の場をもたず、つねに「純粋観客」としての生活スタイルを選びとっていたせいでもあるだろう。

エッセイではことさら名をあげていないが、マルセイユの定宿はノーティク・ホテルだった。パリは先に述べたとおりホテル・ホワイヨ。フランクフルトではエングリッシャーホーフ、ベルリンではホテル・アム・ツォー。大半が古い小さなホテルの部類に入る。つまるところ亡命者ロートはナチス・ドイツからの亡命に先立ち、二十年に及んで亡命者的暮らしをしてきた。その証言は、おのずと微妙な亡命者の日常を、かいま見せてくれるのである。

「静かであっても寂しくはなく、ひとりぼっちであっても見捨てられてはいず、離れていても隔離されているのではない……」

ホテルに入り、つかのまの安息を得たときの気持ちが的確に要約されている。旅の途上のホテルではない。亡命という生き方にあって、そこにいるのが二日や三日ではなく、二週間、三週間に及び、ひと月、ふた月となるかもしれない。先の予測が立たず、たとえホテルを出るとしても、我が家に帰るためではないのだ。わが家、また、「わが国」を捨ててきた。帰るためではなく、別のホテルへ移るだけのこと。ホテルの一室そのものが、「わが家」のすべてであって、そんな生き方を、こころならずも選び取った。

朝、目をさましても、台所で食器の触れ合う音がしたりしない。聞こえるのは、早発ちの旅行者が足早に廊下を通っていく足音である。隣室にいるのは家族ではなく、まるきり見知らぬ人間であって、ほんの壁一つ隣合わせなのに永遠の他人である。しかもその他人は、もしかすると自分に害をなす誰かかもしれないのだ。

かたわらに本棚があっても自分の書棚ではなく、ひらけば慰められる愛読書が収まっているわけではない。戸棚があっても、そこに見つかるのは使い慣れたコーヒーカップではなく、ひややかなホテルの調度品にすぎず、フロントに備えつけの調度品リストに記載されているたぐいである。

「おはようございます」

部屋係の女が声をかけてくれる。

「よくおやすみになれましたか?」

やさしく問いかけ、にこやかにほほえんでも、べつに彼一人へのほほえみではないのである。どの客にもひとしく、ひとしい分量だけ配られるほほえみ。どの部屋にも備えてあるタオルや石鹸のようなもので、洗いたてのシーツのように清潔で、いかなる気持ちがこもっているわけでもないだろう。

外出のとき、支配人がチラリと視線を走らせる。ほほえんでもくれる。ただし帳簿にきちんと、週ごとの「支払いズミ」のサインがついているかぎりであって、少しでも遅れぎみのときは、ほほえみがぎこちない。もし支払いのとどこうりが「少し」ではなく「かなり」となると、あきらかに目つきがちがう。その視線は、さりげなく探っている。客の服装、しぐさ、表情などから、相手の懐ぐあい、金銭の出入りを推しはかっている。いつ滞在を打ち切るべきか思案している。

「かしこまりました」

用向きを伝えると、すぐさま引き受けてくれる。何であれ頼みをきいてくれる。気の好い母親とそっくりだし、適切なアドバイスを与えてくれる点で、たのもしい父親のようでもある。

だからといって父でも母でもないだろう。だいいち父や母は、こんなに薄気味悪くはないのである。ホテルの支配人ときたら、若いのか老(ふ)けているのかわからない。三十代に見えるかと思うと五十代のようでもある。髪に白いものがまじっているようだが、見たところは黒々としている。やたらに丁寧に撫でつけてあって、頭髪全体がカツラのようでもある。

話すとき、口を開かない。歯を見せたりない。そのくせ、きわめて発音明瞭にしゃべり、ゆっくりした口調なのに、唇はせわしなく動いている。

夕方、あるいは夜遅く、亡命者は帰ってくる。かけずり廻って情報をあつめた。亡命者仲間とカフェで長いこと話し合った。政局はますます悪化していて、まったく見通しが立てられない。封鎖された預金を、どのように引き出すか。スイス経由の印税は安全なのか。耳にした強制収容所の実態はどうなのか。何一つ定かでないなかで、なにを判断の根拠にすればいいのか……。

重い足取りで帰ってくる、いそいそと妻が出迎えたりしないし、子供がとびついてくることもない。フロントには宿直の者が新聞をひろげている。新聞から目を上げ、数字つきの鍵を取る。いちいち宿泊者名簿で確認されないのが、長期滞在者の唯一の特権だ。

「おやすみ」

声をかけると返事はあるが、相手はすでに読みさしの新聞に目を落としている。

鍵を差し入れて部屋に入る。白い壁。窓を開くと、眼下に町がある。だが、自分はここの住人ではなく、市長選挙に投票することもない。通過点の一つにすぎず、「仮の宿り」の人間であって、永遠のよそ者、たかだか部屋番号の人間である。はたしてこんな暮らしが、あとどれほどつづくものか。予測のつかないことがこれほど辛いことを初めて知った。四六時中、身を切るような不安のなかで過ごさなくてはならない。そんな生き方。亡命者という、そんな無法な生き方に追いやられた。

 

トーマス・マンは1933年3月以後、克明に日記をつけていた。ルガーノに滞在中のことだが、ある日、ルートウィッヒのアスコーナの別荘に招かれた。ノーベル賞作家を迎えてパーティが開かれたらしく、日記には「談論風発、ただし話題はほとんど政治問題」とある。パーティ参加者として外交官、弁護士、亡命作家たちの名がしるされている。「レマルク夫妻」もいた。同じアスコーナ在のよしみから招かれたのだろう。

すこしあと、マン日記の5月8日付。

「ドイツ国内での身の毛のよだつような事件や殺戮についてのニュースだけでなく、国外のそうした事件のニュースさえ聞こえてくる。メンデルスゾーン青年が、〈事故死〉したが、どうやらレマルクと間違えられたらしい」

スイスに亡命していたベルリンのジャーナリスト、フェリクス・メンデルスゾーンはレマルクを訪ねたあと、別荘の敷地内で死んでいるのが発見された。マンが〈事故死〉とカギカッコつきで書いたのは、殺害されたとする見方があったからだ。一介の若いジャーナリストを暗殺する必要がないから、有名人レマルクとの人違いだと考えた。

レマルクの身辺に、そのような危険が及んでいたのだろうか? ナチス・ドイツが1933年に作成した禁書作家のリストには、トーマス・マンと並んでレマルクも入っていた。映画『西部戦線異常なし』は情報宣伝相ゲッベルスの指示でドイツ国内では上演禁止。ベルリンの広場における焚書事件では、ベストセラー小説が他の禁書作家の作品とともに火に投じられた。

しかし、スイスに亡命した作家のもとに刺客が送られたなどのことは、とうてい考えられない。マンは何かの情報を得ていたのかもしれないが、混乱した状況のなかの混乱した情報だったと思われる。少なくとも、現在判明している事実は、そうではない。第三帝国プロパガンダ大臣ゲッベルスが差し向けたのは刺客ではなく、亡命作家レマルクに帰国を促す使者だった。当代きっての人気作家が翻意してナチス・ドイツに帰国するとなれば、二つとない宣伝になる。使者は執拗に帰還を説いたが、相手はどうしても「うん」と言わない。祖国ドイツへの郷愁(ノスタルジア)はないのかと問われたとき、レマルクは「郷愁?」と訊き返ししてから答えたという。

「どうして郷愁を感じなくてはならないのです? この私はユダヤ人でしょうかね?」

ここには注釈が必要だろう。この場合の「ユダヤ人」は、ナチス政府が公布したニュルンベルク法により、いや応なく規定されたユダヤ人である。代々にわたりドイツ人であったにもかかわらず 、いまや一つの法令の下にドイツ人ではなく、ユダヤ人にならなくてはならない。だからして身を焼くようなドイツへの郷愁を感じている。第三帝国の「血の系譜」の政策によって祖国と縁切りにされ、往きくれたユダヤ人の郷愁。レマルクが自分はユダヤ人かと問い返したとき、自分の亡命は思想と信条から出たまでで、どうして郷愁を抱く必要があるかと、昂然と述べたわけだ。

ナチス政府は祖国帰還の説得をあきらめたのだろう。一九三八年、レマルクのドイツ国籍を剥奪。この年の末にレマルクはアメリカに移った。そのため先にアメリカ移住を果たしていたマンの日記に出てくる。一九三九年、映画の試写会で顔をあわせた。

「レマルクとディートリッヒ女史、劣等感につきまとわれている感じ」

そのあと何があったのか、「レマルクの不作法な振る舞い」と書き足しがある。

ドイツの女優マレーネ・ディートリッヒは『嘆きの天使』の大ヒットのあと、アメリカの映画会社パラマウントに引き抜かれ、ハリウッドで活躍していた。このとき37歳のディートリッヒと妻ある身のレマルクの恋愛は、ドイツ亡命者仲間のなかで公然の秘密だった。昔かたぎのマンにとっては、二人がつれ立って試写会に現われ、しかも不倫中の男が大っぴらに愛のしぐさを見せつけるのが、「不作法」に映ったのではあるまいか。

その後、レマルクのことはほとんど語られない。マンにとって風雲急を告げるヨーロッパ情勢のなかで、映画ではなく実地に「許されぬ愛」を実演している中年男女に関心の余地などなかったのだろう。

ドイツ国籍を失っても、また同じ亡命者たちの顰蹙(ひんしゅく)を買おうともレマルクにとっては痛くも痒くもなかっただろう。むしろ「亡命者」の肩書きに箔がついた気がしたのではあるまいか。なにしろ人気作家大歓迎のアメリカという大国が、さらにハリウッドという金のなる木が控えている。『西部戦線異常なし』を皮切りに、つづいて『帰還』『黒いオベリスク』『三人の戦友』『凱旋門』。映画はほぼ正確に原作をたどっており、レマルクの小説づくりの骨組みというものを無慈悲なまでに見せつけている。デビュー作とまったく同じで、わかりやすい筋立て、危機と不正のなかで主人公が苦しみ、劇的なスリルと感動のシーンがはさまって、やがて悲劇的な愛と死で終わる。ナチス・ドイツから亡命した知識人のおおかたが困窮と自殺に追いこまれていったなかで、ひとりレマルクは優雅に過ごした。

 

ヨーゼフ・ロートが1938年、つまり死の前年に亡命者仲間とカフェ・トゥルノンで撮った写真が残されている。髪が薄く、目がたるみかげんで、垂れた鼻ひげがさみしげだ。背広に蝶ネクタイ、いで立ちはオシャレだが、服もネクタイも相当くたびれていた。左手にタバコ、テーブルにワイングラス、コップと水差しも写っていて、ペルノーなどの強い安酒のあいまに水を飲んでいたのだろう。

まだ四十半ばのはずだが、写真ではどう見ても六十代である。亡命して5年目、亡命貴族のレマルクとはちがって、苦労がたえなかった。さらに深酒が衰えを加速させた。友人が酒量をへらすようにさとしたとき、ロートは答えている。酒は命をちぢめるかもしれないが、少なくとも「眼前の死」は遠ざけてくれる︱︱「眼前の死」が自殺を意味していたことはあきらかだ。

ロートは早くからナチズムの予兆をはっきりとかぎとっていた。1933年7月の総選挙でナチ党が第1党に躍り出た。歓呼する市民たちは、カギ十字をつけた褐色の制服の集団こそ、自分たちを守ってくれる力強い用心棒だと考えた。困難な時代には汚れ役が必要だ。ボスがチョビ髭をはやした、多少ともうさんくさい人物であろうとも、政党が暴力とユダヤ人憎悪を公然と掲げていようとも、大切なのは「わが家」を守ってくれること。「わが家の幸福」を保障してくれること。「わが家」はそのまま「わが町」「わが国」につながり、同じ髪、同じ肌、同じ血でなくてはならない。

これと対比させるようにして、ロートは自分の「わが家」、すなわちホテルの住民構成を語っている。電話交換手はイタリア人女性、給仕はオーストリア人、門番はフランス・プロヴァンス生まれ、接待主任はノルウェー人、給仕長はドイツ人、女中はスイス人、臨時雇いの男はオランダ人、支配人は中東人……。

「コックはチェコ人とにらんでいる」

客もまたそうなのだ。ここにつかのまの安住を見出す側は大陸や島や半島、さまざまなところからやってきた。キリスト教徒、仏教徒、ユダヤ人、イスラム教徒、自由思想家……。こちらもいたってまちまちであって愛国主義の息苦しさや民族心の傲慢と自惚れといったものから、しばらく遮断してくれる。ホテルそのものが小世界であるように、ホテル人間こそ国境のない「世界人」というもの。とするとヨーゼフ・ロートの選び取った亡命という生き方こそ、思想と信条そのもののスタイルだった。

1939年5月、ロートはホテルの玄関を出てすぐの街角でバッタリ倒れ、病院に運ばれて、まもなく死んだ。

もう少しくわしく言うと、フロントから電報をしらされて階下におりてきた。友人の劇作家で、ニューヨークに亡命していたエールンスト・トラーの自殺を告げるものだった。強いショックを受けたらしく、電報を握ったまま足がフラついた。ボーイやフロント係が駆けつけると、手を振って人々を制した。そしてヨロヨロと歩き出し、玄関を出て、一つ先の角まできて崩れるように倒れた。

きっと愛する「わが家」に迷惑をかけたくなかったからだろう、ホテルの正面から死体が運び出されるなど、まったくもってあってはならないことだからだ。

 

[付記 トーマス・マンの日記は『トーマス・マン日記』(全十卷・紀伊國屋書店)による。]

ヒトラーの時代 (24) 池内 紀

  • 2017年4月12日 16:19

 

平穏の時代

1933年から38年まで、ヒトラーが政権についてからポーランド侵攻前年までの五年間は第三帝国の「平穏の時代」と呼ばれている。第一次大戦終了後、狂乱の20年代があった。古今未曾有のインフレで、ドイツ・マルクが紙屑になり、預金が一挙にかぎりなく0になった。失業者がうなぎのぼりで、総数600万をこえ、ドイツ人の10人に1人は失業者だった。ワイマール憲法は史上もっとも優れた憲法といわれたが、20をこえる政党の足のひっぱり合いで、どの政権も半年ともたない。とめどない混乱を縫ってナチスがめざましく勢力をひろげ、ついに過激を売りものにする極右政治家に首班の座をあけわたした。

ヒトラーは内閣を組織した翌日のラジオ演説で、「われに4ヵ年の猶予を与えよ、しかるのち批判し審判せよ」と大ミエをきった。誰もがいつもの大ボラだと考えていた。数ヶ月もせぬうちに行き詰まり、すごすごと政権を投げ出すだろう。

ところが、そうはならなかった。「ドイツ国民への檄」に始まり、きびすを接して「経済4ヵ年計画」「フォルクスワーゲン(国民車)構想」、「自動車専用道路計画」……。人気とりの青写真と思われていたことが、一つ、また一つと実現する。日ごとに膨大な雇用の場が生まれ、600万もの失業者が、めだって減っていく。約束の四年が過ぎたとき、全国民所得が1・⒌倍にふえ、失業者は100万台にまで減少していた。造船所からは次々と巨船が進水していく。世界で初めての自動車専用道路は「アウトバーン」の名のもとに、全長3000キロに及び、完工式には50万の道路労働者のうち3000人が招待客になって、お祝いをした。

この間、1936年にはガルミッシュ=パルテンキルヒェン(冬)とベルリン(夏)の2度のオリンピックがあり、世界中からの報道陣が急テンポのドイツの復興ぶりを故国に報道した。オリンピックが一つの国で1年に2度開催されたのは異例のことで、大戦の後遺症から抜け出せないヨーロッパにあって、ナチス・ドイツがいち早く放れワザをやってのけた。

首相アドルフ・ヒトラーへの全権委任法、反国家的運動、出版に対する取締強化、デモ及び屋外集会の禁止、報道の自由制限、共産党の禁止、と社会民主党の機関紙発行停止命令、ユダヤ人弾圧……。ナチスの政策は、ことあるごとに国外の批判をあびていた。ナチズムによる不当な全体国家ドイツのイメージは広く流布していた。それをオリンピック報道が大きく修正した。世界中からベルリンへやってきた報道陣は、予期したような暗いドイツではなく明るいドイツを見出し、奇蹟の復興に目をみはった。これほど短期間に、これほどの成果をなしとげたヒトラー独裁をあらためて見直した。政党党首、首相、国防軍最高司令官、国家元首︱︱一人で何役も兼ねた人物に並外れたカリスマ的指導者を見た。

この間の主だった出来事は、次のとおり。

1933年7月 ヒトラー、ローマ法王とのコンコルダート(政

教条約)締結。

同年10月 ドイツ、国際連盟脱退。

1934年6月 ヒトラー、SA幕僚長レームらを粛清。

1935年1月 住民投票でザール地方がドイツ復帰。

同年3月 ヒトラー、ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄。ド

イツ再軍備。

1936年3月 ヒトラー、ロカルノ条約破棄。ドイツ軍、ライ

ンラント進駐。

同年8月 ベルリン・オリンピック。

1938年3月 ナチス・ドイツ、オーストリアを併合。

同年9月 ミュンヘン会議。ドイツ、チェコのスデーデン地方

を併合。

いずれも総統ヒトラーの決断による。ローマ法王庁との宗教条約は、ナチスがカトリック教会や学校の宣布を承認する一方で、ヴァチカンはカトリック政党(中央党)や労組の強制的解散を承認するというもの。ヒトラーはナチズムを宗教にとって代わらせ、最終的には無宗教を信念としていたが、当面はあいまいな妥協策をとった。ヒトラーによる最初のめざましい外交的成果とされた。対外的には、反教会的といわれるナチス権力をヴァチカンを通じ国際的に承認させたし、国内的には反ナチスのカトリックを体制内にとりこんだからだ。

国際連盟の脱退に際しては、国民に信任を問う総選挙を約束。95・1%の支持を得た。

SA(突撃隊)は幕僚長レームの育成のもとに隊員三〇〇万を数え、「第二革命」が噂されていた。レーム事件は「長いナイフの夜」と呼ばれ、34年6月30日から7月1日にかけての夜に起きた。ヒトラー指揮下のゲシュタポ(国家秘密警察)とSS(親衛隊)が全国のSA幹部と反ナチス政府分子を襲撃、銃殺した。レームのほか、元首相シュライヒャーとその夫人、元ナチ党幹部シュトラッサー、元バイエルン首相ファン・カールら、粛清されたのは公表では70名。パリの粛清白書では401名。戦後の公表では1000人以上にのぼる。強敵レームを武力で排除して、この日がナチスの権力掌握の決定的な日となった。

きわめて血なまぐさい事件だが、国民には「反逆を芽のうちにつみとった決断力と勇気ある行動」として報じられた。ヒトラーは直ちに緊急閣議を開き、「国家緊急防衛法」を発布。正式には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」といって、緊急防衛の必要があれば殺人行為も正当化される。

「長いナイフの夜」にSSが果たした功績にかんがみてだろう、SSをSAから正式に独立させ、ヒトラー直属の党内機関とした。SS中央指導者ヒムラーのもと、SSは国家の中の国家、国防軍にも手のつけられない軍隊の中の軍隊へと変貌していく。

ライン川東部のザール地方は石炭と鉄鋼業で栄え、ドイツ重工業の心臓部にひとしかった。第一次大戦終了後、国際連盟の管理に委ねられ、実質的にはフランスの占領下にあった。ヒトラーにとっては再軍備に欠かせない資源地域であり、政権を固めるやいなやザールのドイツ復帰を呼びかけ、35年1月、国際連盟管理下の住民投票を実現させた。90・5%の多数決でドイツ復帰を決定。ヒトラーが国際条約に準拠して行動した最後の事例である。

つづいて満を持していたかのように同年3月、ヴェルサイユ条約の軍備にかかわる条項の破棄を通告、ドイツ再軍備を宣言した。直ちに「ドイツ国防軍編成法」を公布。

  • 国民兵役制度。第二条、平時陸軍兵力を12個軍団36個師団の55万に拡張整備……2年後には第13軍団設立、38年秋、18軍団51個師団とする」

急激な兵力増員はドイツ国内の労働力に不足をきたすまでになった。

ライン川西岸のラインラントはヴェルサイユ条約、及び1925年にスイスのロカルノでドイツが自発的に締結したロカルノ条約によって、非武装地帯と定められていた。1936年3月6日、ヒトラーはひそかに国防軍のラインラント進駐を命令。翌7日、3万五5千のドイツ国防軍はライン川を渡り、同地帯を占領。この日、ヒトラーが国会で「只今ドイツ軍、進軍中」と発表したとき、国会は興奮のるつぼと化した。ヒトラーは合わせて国会を解散して信を問うと宣言。同月末の国民投票では、98・8%がヒトラーの政策を支持した。

1938年3月のオーストリア併合。同年9月のチェコ・ズデーテン地方併合後、ナチスはにわかに拡大した領土全域に「大ドイツ帝国」の名称を定めた。いずれも神がかり的なヒトラーの決断により、国民の熱狂的な賛同を得た。

 

ドイツ国民がやっと迎えた「平穏の時代」であり、安らぎの時期だった。経済が安定し、暮らしが目に見えて向上した。ナチス体制は多少とも窮屈であれ、体制に口出しさえしなければ平穏に暮らせる。ナチ党員のユダヤ人苛めは目にあまるが、われ関ぜざるをきめこめばすむこと。ナチスの好きな式典の華麗さ、もどってきた戦車隊の大行進、強大な戦艦、短期間にヨーロッパ一に整備されたドイツの翼。第一次大戦後、打ちひしがれていた国民感情が誇りと自負をとりもどした。そのすべてがヒトラー総統の偉業によった︱︱。

一枚の写真がある。ベルリン・オリンピックの直前、一九三六年六月のもので、ハンブルクのブローム&ヴォス造船所での海軍の練習船「ホルスト・ヴェセル号」進水式の模様を撮影している。船がドックを離れて海に浮かんだ瞬間、いっせいに「ハイル・ヒトラー」の声が上がり、人々はこぞって右手を差し上げるナチス式敬礼をした。

前方にSSの制帽、制服が見える。群衆はいでたちよりして招待客と造船所の労働者と思われる。よく見ると右上にひとり、憮然とした顔で腕組みした人がいる。いっせいに差し出された腕に委細かまわず、やや顔をしかめている。

あらためてまわりの人々をよく見ると、多くが前方の船ではなく、カメラの方向に顔を向けている。上方のカメラをうかがう目つき。撮影に気がついて、あわてて腕を差し出したようでもあり、自分が敬礼していることをカメラに確認させたようでもある。圧倒的な多数のなかで、ひとり自分の考えをつらぬくのは勇気のいることだった。なにげない写真が、強大なナチス体制のなかのささやかな市民的良心のあかしを伝えている。

のちの歴史的経過で判明していったことだが、「平穏の時代」をもたらしたヒトラーの明察と決断は、少なからず情報宣伝大臣ゲッベルスのお手柄だった。この間の「偉業」はつねに演出ずみの方法で国民に伝えられた。オープンカーで帰国する総統、あるいはバルコニーに立つヒトラー、威厳をおびた肖像にはつねに圧倒的な熱狂で迎える大群衆の写真がそえられた。総統と国民の一体性を、くり返し、またくり返し報道した。

一九三三年の欺瞞的な政教条約ののち、ヴァチカンはドイツの神父たちにヒトラー政権への忠誠を命じたが、ナチス時代を通じ、良心的な神父たちの抵抗はやまなかった。

レーム派の粛清に際し、殺してからの殺人正当化立法は茶番劇というしかないことを人々は知っていた。

ラインラント非武装地帯への進軍と占領はあきらかに政治的賭けであって、まだ未整備だったナチスの軍事力にとって無謀な博打的行為だった。ヒトラー自身がそれを認めていて、フランス軍の反撃がある場合は、直ちに撤退を命じていた。フランス政府とフランス軍首脳は協議にあけくれて決定を先送りした。その消極的な姿勢がヒトラーに幸いした。

ミュンヘン会談に先立ち、ヒトラーは国防軍と外務省の人事を行い、骨のある幹部たちを更迭した。あわせてアウトバーン建設の監督だったフリット・トットに西武要塞ジークフリート線建設を命じ、五十万の労働力を約束した。いち早く戦争を見こしての対フランス防御システムの整備にとりかかっていた。

ミュンヘン会談は、ドイツ人住民の多いチェコのズデーテンのドイツ併合をヒトラーが要求したのに応じるもので、チェンバレン(イギリス)、ムッソリーニ(イタリア)、ダラディエ(フランス)それにヒトラーの四名が会談した。ヒトラーの恫喝的外交に、イギリス、フランス首相はなすすべがなかった。チェンバレンはイギリスに帰国したとき、「名誉ある平和」を持ちかえったと胸を張って声明したが、チャーチルが下院の演説で、「全面的、包括的敗北」とチェンバレンを非難したとおり、「名誉ある平和」は一年とつづかなかった。

「平穏な時代」が、底流ではまっしぐらに戦争へと、ひた走りに走っていたことが見てとれる。ひとたび政治システムができあがったとき、もはや押しとどめるすべがないのである。亡命を拒み、まさに肌身で時代に立ち会った作家ケストナーは述べている。「雪の玉が小さいうちに踏みつぶさなくてはならない。雪崩になってからでは、もう遅すぎる」

 

ヒトラーの時代(23) 池内 紀

  • 2017年3月10日 16:06

強制収容所第1号

強制収容所第1号

 

1933年3月20日、ナチスによる強制収容所第1号が誕生した。この日、ミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラーが記者会見で収容所の設立を発表。2日後の22日に開所式を迎えた。

場所はミュンヘンの北西約20キロのダッハウ。街の郊外に第一次世界大戦に使われた火薬工場があり、操業を停止して以来、広大な工場跡は廃屋のまま放置されていた。それを政治犯再教育のための施設とする。収容能力五〇〇〇名。ヒムラーは、そのように説明した。放置されていた工場跡に多くの人が入り、すでに修復作業が進められていた。作業には政治犯が動員されたが、ヒムラーはそのことは言わなかった。開所式を終えると、昨日までの作業員が「囚人」として入所した。さしあたりはヒムラーが所長を代行。6月になって正式に第二代所長として親衛隊上級大佐テオドール・アイケが赴任した。

初期のころの写真がのこされているが、火薬倉庫だった石造りの建物が兵舎のように並び、送られてきた人々が整列してナチス幹部の訓辞を聞いている。はじめのころは囚人服といったものはなく、全員がおもいおもいの平服で、監視兵もいない。収容棟のベッドは、のちのアウシュヴィッツのようなカイコ棚式ではなく、病院のような配置になり、作業棟のほかに談話室、図書室、をそなえていた。

3月30日、バイエルン知事の名のもとに、ダッハウ強制収容所開設が新聞に発表された。

ヒトラーが政権についたのが、この年の1月30日である。それから二カ月たらず、この間、めまぐるしい政治的事件があった。政権成立直後、各地でヒトラー反対のデモとストが起こり、ナチスと衝突した。2月1日、ヒトラーの強要でヒンデンブルグ大統領は国会を解散。ヒトラーは全権委任をめざして総選挙を選択、直ちに広範な選挙活動に入った。

2月4日、「ドイツ国民保護のための大統領令」発令。老齢のヒンデンブルクはいまや、ヒトラーの操り人形にすぎず、指令されるままに次々と大統領令を出した。「ドイツ国民保護」をうたった法令は出版と言論の自由を厳しく制限し、さらにデモや屋外政治集会禁止など、七つの基本権停止をうたっていたが、パーペンをはじめとする閣僚の誰一人として、この規制に抗議しなかった。

2月6日、「プロイセンにおける秩序ある統治関係設定のための大統領緊急令」プロシア政府の権限を代理執行官(ゲーリング)に委譲する命令で、ゲーリングが事実上、プロイセンの全面的支配権を手にし、共産党大弾圧の中核となった。

2月27日、国会議事堂炎上。翌28日、ヒトラーの要請で「ドイツ民族に対する裏切り及び反逆的陰謀取締りのための大統領令」発令。ドイツ帝国国会議事堂が放火されたのは、27日の夜九時すぎである。10時間後の翌朝の閣議で、すでに起草されていた緊急令が審議、承認され、首相ヒトラーが大統領府に出向いて署名を取った。驚くべき手廻しのよさである。

放火犯としてオランダの共産党員マリヌス・ルッペが逮捕され、ナチス政府は共産党の陰謀として大々的に発表した。28日、国会議長兼プロイセン内相ゲーリングは、共産党員の国会、州議会、町議会議員、及び公務員約40000名を逮捕、あわせて共産党員の全活動禁止を命令した。

3月3日、ドイツ共産党党首エルンスト・テールマン、党紙「赤旗」編集長エルンスト・シュネラー逮捕。

3月5日、ヒトラー体制での最初で最後の総選挙。全議席647のうち、ナチス288(得票率四十三・九%)、社会民主党120、共産党81、中央党73。共産党議員は475万票を獲得したが、一度も登院できなかった。ドイツ共産党禁止にともない、共産党員の国会議席が剥奪され、81名の共産党国会議員資格も抹消されたからである。その結果、議員総数が566に減少し、ナチスが単独で過半数を獲得することになった。

3月13日、情報宣伝省創設。ゲッベルスが大臣として入閣。

強制収容所開設式の前日、ポツダムのフリードリッヒ大王の棺の前で、新国会の開会式が挙行された。ゲッベルス演出により、1871年のビスマルクによる統一ドイツ国会開会記念日とナチス国会開会を「ポツダムの日」の名のもとにかさねて、強く印象づける儀式だった。

3月23日、ベルリンのクロル・オペラハウスで新国会開催。ヒトラーは「全権委任法」の審議を要請した。憲法を除く法令の制定にあたり、国会の承認も大統領の署名も必要とせず、外国との条約締結に対しても議会の批准を必要としない権限を与えるというもの。即日投票の結果、賛成441、反対94で可決成立。翌24日付で発効。ここにヒトラーの独裁が確立した。強制収容所の設立と独裁制の確立とが同時に進行したのは、きわめて意味深いだろう。強制収容所が秘密警察(ゲシュタポ)と並びヒトラー体制を支える二本柱として機能しはじめる。

 

強制収容所はドイツ語(Konzentrationslagar)を略してKZ(カーツェット)とよばれた。コンツェントラツィオーンは「集中する(konzentrieren)」の名詞で、そのため初期の邦語文献は「集中収容所」と訳している。

ナチス幹部は、どういうわけで、こんな名称にしたんだろう? 共産党大弾圧に見られるように、四〇〇〇人もの共産党員がいっせいに検挙された。警察署は逮捕者であふれかえっている。分散している多数者を「集中」させて管理する必要が生じたのか。強制収容所はさしあたり、政治的な理由で検挙された者たちを一括して収容する施設だった。

KZ(カー・ツェット)がその一つだが、ナチの時代には大量の略語が使われた。党名そのものがNSDAP(エヌ・エス・デー・アー・ペー)、「国民社会主義ドイツ労働者党」である。とりわけ知られたのがSA(エス・アー)突撃隊、SS(エスエス)親衛隊、だろう。秘密警察は略語(Gestapo)を読み下してゲシュタポとなった。

HJ(ハー・イヨット) ヒトラーユーゲント

Pg(ペー・ゲー) ( NSDAP)党員

KdF(カー・デー・エフ) ドイツ労働者戦線

TV(テー・ファオ)どくろ軍団

ナチスは自分たちの理念の新しさ、独自性をいうために大量の新造語をあてた。強引な造語であって、すぐには意味のわからない言葉もあった。音のひびきが荘重で、重々しく、学術っぽい語を好んで採用した。その点、鉤十字や鷲の紋章や勲章の多用やナチスの建築に見られる極度の威容誇示のスタイルと共通している。

それにしても“集中”収容所とは何だろう? 言語学者ヴィクトール・クレンペラーは(1881〜1960)はユダヤ人というだけで大学を追われ、妻がアーリア人のために収容所送りは免れたが、ことあるごとに暴力と迫害を受けた。その只中で秘密警察の野獣のような罵りや地区役員の居丈高な口のきき方をはじめとして、ナチ特有の言葉を記録し、LTI(エル・テー・イー)と名づけ分析した。この言語学者には、ドイツ語の「強制収容所」をはじめて耳にした時、「まったくドイツ語らしくない、エキゾチックな植民地風の響き」に聞こえたという。十九世紀末に起きた南阿戦争の時、イギリス軍の捕虜になったブーア人が捕虜収容所で監視されていて、その際、集中(コンセントレーション)が使われたのを思い出した。それ以来、すっかり姿を消していた言葉が突如としてよみがえった。ヨーロッパ大陸ではじめて、敵の人間ではなく、治安維持のため自国民を収容する建築物が出現した。

「将来、強制収容所という言葉を口にするとき、人が思い起こすのはヒトラーのドイツであろう。いや、ヒトラーのドイツのみであろう」

この上なく性格な予言というものだった。

体制に異議をとなえるだけで、いや応なく罰せられる。共産党員を狙いうちにした初期の段階から、つづいて大がかりな反体制派の検挙へと拡大した。国内各地に収容施設が必要となり、第2号、第3号、第4号とつくられていく。ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、フロッセンビュルク、ラーヴェンスブリュック……。強制収容所の「強制」は、そこに待ちうけている強制労働によるものだが、国家権力という強制力のもっとも具体的なあらわれでもあっただろう。

ダッハウの設立からほぼ半年後の1933年10月1日、ダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケは「強制収容所規律懲罰布告」及び「監視部隊服務規程」を発表した。「ダッハウ方式」とよばれたもので、ナチス強制収容所管理体制の骨格となった。ナチスは囚人棟の監視役に選抜した囚人をあて、「カポ」と名づけて優遇した。そのような人間がどれほど猛威を振るい、有能な監視者になるものかをよく知っていたからだが、すでに第1号収容所の服務規程にカポ制度が明示されていた。カポとしての管理能力の不足と見なされれば、当然のことながら直ちに死が待っていた。

囚人が脱走を試みた場合、「警告なく射殺する」であって、射殺者には賞金が与えられる。のちの恐るべき管理システムのおおかたは、最初の服務規程にすでに導入されていたのである。

ユダヤ人狩りが始まり、ホロコースト(ユダヤ人迫害)が常態化するなかで、強制収容所はみるみるうちに数を増し、収容者が途方もない数になっていった。強制収容所は親衛隊の管理になり、親衛隊全国指導者、ヒムラーのもとに腹心のラインハルト・ハイドリッヒ上級大佐が実務をとっていた。ユダヤ人が日ごとに何千人単位で送られてくる。現場の担当官たちは頭をかかえていたにちがいない。この途方もない数を、どうしろというのか。強制労働の場が、急速に人間処理の機構、巨大な「屠殺場」に変貌していく。そのなかでダッハウは、強制収容所のショーウインドウの役まわりをつとめ、少なくともある時期までは厚生、教育の場の体面を保持しつづけた。

 

のちの批評家ジャン・アメリーは1943年7月、ブリュッセル市内で逮捕された。レジスタンスの一員として尋問され、拷問を受け、翌44年1月、アウシュヴィッツへと送られた。辛うじて生きのび、解放後20年あまりして収容所の生活をつづったなかで、「オランダの友人で私と同じく強制収容所を体験した作家ニーコ・ロストのすてきな本」を引きながら述べている(『罪と罰の彼岸』・法政大学出版局)。『ダッハウのゲーテ』の標題を持ち、そこにはアウシュヴィッツの生活者には「夢のようなくだり」があった。

「空襲警報の間、一心にヘルダーについて考えていた」

「再びマイモニデスを読んだ」

「より多く読むこと、より多くを、より激しく学ぶこと。赤十字の小包よりも古典文学が望ましい」

アウシュヴィッツで古典古代のマイモニデスを読むなど、ありえないこと。赤十字からの食糧の差し入れの代わりに古典文学が届けられたりしようものなら、舌打ちしてお断りしただろう。ニーコ・ロストが収容所内の病棟看護人という比較的めぐまれた現場にいたのに対して、自分は収容所のなかの無名の大衆の一人だったことはさしおくとしてーーつづいてアメリーは述べている。ニーコ・ロストのいたところがダッハウであって、アウシュヴィッツではなかったこと。

ともにひろく知られた収容所ながら、ダッハウはいわば「由緒ある」強制収容所だった。収容者は政治犯が多くを占め、収容者の管理にあたっても、収容者にかなりの程度まで権限がゆだねられていた。ダッハウには図書室がそなわっていたが、アウシュヴィッツでは一冊の本すら夢のようなものだった。ダッハウでは収容者に、ナチズムの国家管理機構に対抗して、「精神の底力を示す余地」がなくもなかった。アウシュヴィッツでは、精神はその本来の資質、つまり「超越性」というものを一切失っていたーー

ダッハウ強制収容所の特殊性がうかがえる。

1945年、東からソ連赤軍が急テンポで迫っていた。南から連合軍はライン川をこえた。ナチス政権は強制収容所を秘密のまま葬り去ろうとしたのだろう。旧ポーランド内の絶滅収容所を閉鎖、焼き払い、収容者を順送りに西へ移動させた。ダッハウは西端にあって、一挙に収容者が四万人をこえた。

4月のある日、そのうちの7千人ちかくに命令が出された。行き先その他、何も知らされていなかった。パン少々とマーガリンが支給され、長い列が収容所を出ていった。一路南へ下り、ミュンヘン近郊を通り抜け、シュタルンベルク湖畔をさらに下っていった。ただでさえ衰弱した人々がバタバタと倒れていく。「五十メートルに一人」の死者が出た。6日後、行列は半減、この間、3千人あまりのユダヤ人が死んだ。

「ダッハウ死の行進」としてナチス汚辱の歴史のなかに残っている。行く先その他、いっさい知らされていなかったのは、知らすべき行く先がなかったからだ。二十世紀が演じた悲しくも滑稽なページェントであって、そこから死者が出たのではなく、死者を出すための行進であり、そして「誰もいなくなる」ための行列だった。