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ヒトラーの時代 (25) 池内 紀

  • 2017年6月30日 16:53

亡命という生き方

ユダヤ系のドイツの作家ヨーゼフ・ロートは、1933年2月、ベルリンを発ちフランスへ亡命した。パリ・トゥルノン通りのホテル・ホワイヨが仮の住まいになった。ヒトラーの政権掌握後、二週間たらずのことである。

ロートはもっとも早くからナチス・イデオロギーの危険を語った一人だった。さらにヒトラーの狂信的な信奉者たちがドイツを制することを正確に見通していた。その過激な主張からして、左翼知識人、とりわけユダヤ人にとって亡命は逃がれようのない事態であって、それをいち早く予告した。ロートは亡命とは言わず「追放された者」と呼んだ。一つの政治体制により、人間の基本的な生の条件を根こそぎ奪い取られたことを明確にしておくためだった。

同じユダヤ系の売れっ子作家シュテファン・ツヴァイクは、困窮に陥った友人ロートに、しばしば援助の手をさしのべた。パリに亡命後、まっ先にロートはツヴァイクに「亡命の勧め」を書き送った。「いずれあなたにも、はっきりするでしょう。われわれは大きな破局に直面しているのです。いずれ全面的な新たな戦争に至るでしょう」

ドイツ市民は歓呼してヒトラーとナチ党に政権をゆだねた。このような野蛮に支配をゆだねる社会に、なんの未練があろうか。「幻想を抱かれませぬように。地獄が支配するのです」

この上なく正確な警告だったが、ツヴァイクは幻想を捨て切れなかったのだろう。亡命は五年後の1938年までズレこんだ。あわただしくスイス、イギリスを経由してブラジルに逃れ、結婚して間のない新妻とともにリオ・デ・ジャネイロで自殺した。

ロートの仮住まいのホテル・ホワイヨはパリ・トゥルノン通り33番地にあった。それが1937年に取り壊されることになり、やむなく筋向いの十八番地、ホテル・トゥルノンに移動した。どうして同じ通りを動かなかったのかはわからない。根無し草の亡命者として、住みなれた界隈を離れたくなかったからか。それとも若いころ、南フランス・ローヌ川沿いの町トゥルノンを訪れたことがあった。十六世紀の枢機卿トゥルノン師にちなみ、パリの通りは、その町トゥルノンにちなんでいる。そんな記憶があって、同じ通りに居つづけたのか。

リュクサンブール宮殿の北にあたる。すぐ東が、オデオン座のあるオデオン通り。さらに北へすすむとブールヴァール・サン・ジェルマン。この辺りはいつも人であふれているが、トゥルノン通りは忘れられたような一角であって、人通りも少ない。両側は昔ながらの小店といった感じで、花屋、万年筆専門店、洋服屋、古書店、税理士事務所……。

取り壊されたホテル・ホワイヨもほぼ同様だったと思われるが、ホテル・トゥルノンは現存していて、どういうホテルかひと目でわかる。四階建ての粗末な建物の両側が六階建てで、ここだけ歯が欠けたようにへこんでいる。一階はカフェ兼居酒屋、二階から上がホテル。知られるようにパリのホテルは星の数で区分されるが、ホテル・トゥルノンは無星、ふつう言うところの安宿である。

 

ナチス政権の誕生とともに堰を切ったように亡命者の流れが始まった。作家でいうとユダヤ系、コミュニストを中心にして、エールンスト・トラー、アルフレート・デーブリーン、リオン・フォイヒトヴァンガー、エミール・ルートウィッヒ、ルネ・シッケレ、ヤーコプ・ヴァッサーマン、フランツ・ヴェルフェルと夫人のアルマ=マーラー・ヴェルフェル、ベルト・ブレヒト、トーマス・マンの兄ハインリッヒ・マン、『西部戦線異常なし』の作家エーリッヒ・マリーア・レマルク……。

トーマス・マンはロート同じころ、ミュンヘンの住宅を出た。短期のフランス、オランダ講演旅行のためであって、亡命は考えていたにせよ、さしあたりは講演を終えてからのこと。出発に先立ち、ミュンヘンのゲーテ協会主催の講演会で、ワーグナーを私物化し、党大会のいろどりにワーグナー音楽を悪用するナチスを、こっぴどく批判した。国外に出るやいなや、ナチス政府はこの機会を待っていたかのようにノーベル賞作家マンの帰国を差しとめた。期せずしてマンは着のみ着のままで亡命状態に陥った。

亡命者たちの亡命理由はさまざまだったし、亡命先も人ごとにちがっていた。さしあたりフランス、スイスが多かったが、ブレヒトのように、スウェーデン、ノルウエーを経てアメリカに逃れた者もいた。

フォイヒトヴァンガーやルートウィッヒはユダヤ系作家のうちでも大衆に人気のある通俗的歴史小説で知られ、豊かな印税にめぐまれていた。当時の一つの流行だったようだが、ドイツの富裕層はスイスに別荘をもち、休暇ごとにスイスで過ごした。はからずもそれが幸いして、人気作家たちは国を捨てても、代わりの国で別荘暮らしができた。

レマルクはベテランの通俗作家たちとはちがって、1929年、超ベストセラーとなった『西部戦線異常なし』でドイツ文壇に登場した。それまでの十年あまりは、しがないセールスマン、小学校教師、スポーツ新聞記者などを転々とした。世界的なベストセラーによって莫大な印税が入ったとき、苦節十年がムダではなかった。ころがりこんできた印税を上手に運用し、スイスの銀行に預け、かたわら南スイスの保養地アスコーナ近傍に売りに出ていた別荘を買った。美しいマジョーレ湖の湖畔にあって、地名から「ポルト・ロンコの家」と名づけ、第二の住居にした。ヨーゼフ・ロートと同じく1933年2月、さっさとベルリンを引き払い、アスコーナに移った。亡命にちがいないが、レマルクには、それは同時に別荘暮らしを意味していた。

これらはほんの少数の例外であって、亡命者のおおかたはロートのように異国で「仮の宿り」生活を始めなくてはならなかった。仮であって住居はホテル、それもせいぜいが中程度、どちらかというと「小」にあたる規模で、一般には「安宿」と分類されるもの。

こころならずも亡命状態に入ったトーマス・マンはスイスに移り、南スイスのルガーノや近傍の町のホテルを転々とした。ノーベル賞作家という背景が当座の助けになったが、いつまでも過去の栄光にたよっていられない。やがてマンのスイス滞在地がルガーノのような景勝地ではなく、ごく小さな町が中心になったのは、およそ不安定な身にあってホテル代の節約を考えてのことと思われる。

ヨーゼフ・ロートの亡命生活は、一見、おおかたの亡命者と同じだったが、くわしく言うと大きくちがっていた。大半の亡命者にとって異国でのホテル暮らしは初めての体験であり、たちまち困惑と困窮に苦しんだ。これに対してロートは二十代で結婚したのちの数年はウィーンに住居をもったが、妻が精神異常の兆しをみせ、病院に収容しなくてはならなくなって以後、家を捨ててホテル以外に住居をもたなかった。ホテルやカフェのテーブルが仕事場兼書斎であって、その小説やエッセイは酔っ払いや婦人のおしゃべりのかたわらで生まれた。早くから彼がおそろしく正確に時代を見通していたのは、定住の場をもたず、つねに「純粋観客」としての生活スタイルを選びとっていたせいでもあるだろう。

エッセイではことさら名をあげていないが、マルセイユの定宿はノーティク・ホテルだった。パリは先に述べたとおりホテル・ホワイヨ。フランクフルトではエングリッシャーホーフ、ベルリンではホテル・アム・ツォー。大半が古い小さなホテルの部類に入る。つまるところ亡命者ロートはナチス・ドイツからの亡命に先立ち、二十年に及んで亡命者的暮らしをしてきた。その証言は、おのずと微妙な亡命者の日常を、かいま見せてくれるのである。

「静かであっても寂しくはなく、ひとりぼっちであっても見捨てられてはいず、離れていても隔離されているのではない……」

ホテルに入り、つかのまの安息を得たときの気持ちが的確に要約されている。旅の途上のホテルではない。亡命という生き方にあって、そこにいるのが二日や三日ではなく、二週間、三週間に及び、ひと月、ふた月となるかもしれない。先の予測が立たず、たとえホテルを出るとしても、我が家に帰るためではないのだ。わが家、また、「わが国」を捨ててきた。帰るためではなく、別のホテルへ移るだけのこと。ホテルの一室そのものが、「わが家」のすべてであって、そんな生き方を、こころならずも選び取った。

朝、目をさましても、台所で食器の触れ合う音がしたりしない。聞こえるのは、早発ちの旅行者が足早に廊下を通っていく足音である。隣室にいるのは家族ではなく、まるきり見知らぬ人間であって、ほんの壁一つ隣合わせなのに永遠の他人である。しかもその他人は、もしかすると自分に害をなす誰かかもしれないのだ。

かたわらに本棚があっても自分の書棚ではなく、ひらけば慰められる愛読書が収まっているわけではない。戸棚があっても、そこに見つかるのは使い慣れたコーヒーカップではなく、ひややかなホテルの調度品にすぎず、フロントに備えつけの調度品リストに記載されているたぐいである。

「おはようございます」

部屋係の女が声をかけてくれる。

「よくおやすみになれましたか?」

やさしく問いかけ、にこやかにほほえんでも、べつに彼一人へのほほえみではないのである。どの客にもひとしく、ひとしい分量だけ配られるほほえみ。どの部屋にも備えてあるタオルや石鹸のようなもので、洗いたてのシーツのように清潔で、いかなる気持ちがこもっているわけでもないだろう。

外出のとき、支配人がチラリと視線を走らせる。ほほえんでもくれる。ただし帳簿にきちんと、週ごとの「支払いズミ」のサインがついているかぎりであって、少しでも遅れぎみのときは、ほほえみがぎこちない。もし支払いのとどこうりが「少し」ではなく「かなり」となると、あきらかに目つきがちがう。その視線は、さりげなく探っている。客の服装、しぐさ、表情などから、相手の懐ぐあい、金銭の出入りを推しはかっている。いつ滞在を打ち切るべきか思案している。

「かしこまりました」

用向きを伝えると、すぐさま引き受けてくれる。何であれ頼みをきいてくれる。気の好い母親とそっくりだし、適切なアドバイスを与えてくれる点で、たのもしい父親のようでもある。

だからといって父でも母でもないだろう。だいいち父や母は、こんなに薄気味悪くはないのである。ホテルの支配人ときたら、若いのか老(ふ)けているのかわからない。三十代に見えるかと思うと五十代のようでもある。髪に白いものがまじっているようだが、見たところは黒々としている。やたらに丁寧に撫でつけてあって、頭髪全体がカツラのようでもある。

話すとき、口を開かない。歯を見せたりない。そのくせ、きわめて発音明瞭にしゃべり、ゆっくりした口調なのに、唇はせわしなく動いている。

夕方、あるいは夜遅く、亡命者は帰ってくる。かけずり廻って情報をあつめた。亡命者仲間とカフェで長いこと話し合った。政局はますます悪化していて、まったく見通しが立てられない。封鎖された預金を、どのように引き出すか。スイス経由の印税は安全なのか。耳にした強制収容所の実態はどうなのか。何一つ定かでないなかで、なにを判断の根拠にすればいいのか……。

重い足取りで帰ってくる、いそいそと妻が出迎えたりしないし、子供がとびついてくることもない。フロントには宿直の者が新聞をひろげている。新聞から目を上げ、数字つきの鍵を取る。いちいち宿泊者名簿で確認されないのが、長期滞在者の唯一の特権だ。

「おやすみ」

声をかけると返事はあるが、相手はすでに読みさしの新聞に目を落としている。

鍵を差し入れて部屋に入る。白い壁。窓を開くと、眼下に町がある。だが、自分はここの住人ではなく、市長選挙に投票することもない。通過点の一つにすぎず、「仮の宿り」の人間であって、永遠のよそ者、たかだか部屋番号の人間である。はたしてこんな暮らしが、あとどれほどつづくものか。予測のつかないことがこれほど辛いことを初めて知った。四六時中、身を切るような不安のなかで過ごさなくてはならない。そんな生き方。亡命者という、そんな無法な生き方に追いやられた。

 

トーマス・マンは1933年3月以後、克明に日記をつけていた。ルガーノに滞在中のことだが、ある日、ルートウィッヒのアスコーナの別荘に招かれた。ノーベル賞作家を迎えてパーティが開かれたらしく、日記には「談論風発、ただし話題はほとんど政治問題」とある。パーティ参加者として外交官、弁護士、亡命作家たちの名がしるされている。「レマルク夫妻」もいた。同じアスコーナ在のよしみから招かれたのだろう。

すこしあと、マン日記の5月8日付。

「ドイツ国内での身の毛のよだつような事件や殺戮についてのニュースだけでなく、国外のそうした事件のニュースさえ聞こえてくる。メンデルスゾーン青年が、〈事故死〉したが、どうやらレマルクと間違えられたらしい」

スイスに亡命していたベルリンのジャーナリスト、フェリクス・メンデルスゾーンはレマルクを訪ねたあと、別荘の敷地内で死んでいるのが発見された。マンが〈事故死〉とカギカッコつきで書いたのは、殺害されたとする見方があったからだ。一介の若いジャーナリストを暗殺する必要がないから、有名人レマルクとの人違いだと考えた。

レマルクの身辺に、そのような危険が及んでいたのだろうか? ナチス・ドイツが1933年に作成した禁書作家のリストには、トーマス・マンと並んでレマルクも入っていた。映画『西部戦線異常なし』は情報宣伝相ゲッベルスの指示でドイツ国内では上演禁止。ベルリンの広場における焚書事件では、ベストセラー小説が他の禁書作家の作品とともに火に投じられた。

しかし、スイスに亡命した作家のもとに刺客が送られたなどのことは、とうてい考えられない。マンは何かの情報を得ていたのかもしれないが、混乱した状況のなかの混乱した情報だったと思われる。少なくとも、現在判明している事実は、そうではない。第三帝国プロパガンダ大臣ゲッベルスが差し向けたのは刺客ではなく、亡命作家レマルクに帰国を促す使者だった。当代きっての人気作家が翻意してナチス・ドイツに帰国するとなれば、二つとない宣伝になる。使者は執拗に帰還を説いたが、相手はどうしても「うん」と言わない。祖国ドイツへの郷愁(ノスタルジア)はないのかと問われたとき、レマルクは「郷愁?」と訊き返ししてから答えたという。

「どうして郷愁を感じなくてはならないのです? この私はユダヤ人でしょうかね?」

ここには注釈が必要だろう。この場合の「ユダヤ人」は、ナチス政府が公布したニュルンベルク法により、いや応なく規定されたユダヤ人である。代々にわたりドイツ人であったにもかかわらず 、いまや一つの法令の下にドイツ人ではなく、ユダヤ人にならなくてはならない。だからして身を焼くようなドイツへの郷愁を感じている。第三帝国の「血の系譜」の政策によって祖国と縁切りにされ、往きくれたユダヤ人の郷愁。レマルクが自分はユダヤ人かと問い返したとき、自分の亡命は思想と信条から出たまでで、どうして郷愁を抱く必要があるかと、昂然と述べたわけだ。

ナチス政府は祖国帰還の説得をあきらめたのだろう。一九三八年、レマルクのドイツ国籍を剥奪。この年の末にレマルクはアメリカに移った。そのため先にアメリカ移住を果たしていたマンの日記に出てくる。一九三九年、映画の試写会で顔をあわせた。

「レマルクとディートリッヒ女史、劣等感につきまとわれている感じ」

そのあと何があったのか、「レマルクの不作法な振る舞い」と書き足しがある。

ドイツの女優マレーネ・ディートリッヒは『嘆きの天使』の大ヒットのあと、アメリカの映画会社パラマウントに引き抜かれ、ハリウッドで活躍していた。このとき37歳のディートリッヒと妻ある身のレマルクの恋愛は、ドイツ亡命者仲間のなかで公然の秘密だった。昔かたぎのマンにとっては、二人がつれ立って試写会に現われ、しかも不倫中の男が大っぴらに愛のしぐさを見せつけるのが、「不作法」に映ったのではあるまいか。

その後、レマルクのことはほとんど語られない。マンにとって風雲急を告げるヨーロッパ情勢のなかで、映画ではなく実地に「許されぬ愛」を実演している中年男女に関心の余地などなかったのだろう。

ドイツ国籍を失っても、また同じ亡命者たちの顰蹙(ひんしゅく)を買おうともレマルクにとっては痛くも痒くもなかっただろう。むしろ「亡命者」の肩書きに箔がついた気がしたのではあるまいか。なにしろ人気作家大歓迎のアメリカという大国が、さらにハリウッドという金のなる木が控えている。『西部戦線異常なし』を皮切りに、つづいて『帰還』『黒いオベリスク』『三人の戦友』『凱旋門』。映画はほぼ正確に原作をたどっており、レマルクの小説づくりの骨組みというものを無慈悲なまでに見せつけている。デビュー作とまったく同じで、わかりやすい筋立て、危機と不正のなかで主人公が苦しみ、劇的なスリルと感動のシーンがはさまって、やがて悲劇的な愛と死で終わる。ナチス・ドイツから亡命した知識人のおおかたが困窮と自殺に追いこまれていったなかで、ひとりレマルクは優雅に過ごした。

 

ヨーゼフ・ロートが1938年、つまり死の前年に亡命者仲間とカフェ・トゥルノンで撮った写真が残されている。髪が薄く、目がたるみかげんで、垂れた鼻ひげがさみしげだ。背広に蝶ネクタイ、いで立ちはオシャレだが、服もネクタイも相当くたびれていた。左手にタバコ、テーブルにワイングラス、コップと水差しも写っていて、ペルノーなどの強い安酒のあいまに水を飲んでいたのだろう。

まだ四十半ばのはずだが、写真ではどう見ても六十代である。亡命して5年目、亡命貴族のレマルクとはちがって、苦労がたえなかった。さらに深酒が衰えを加速させた。友人が酒量をへらすようにさとしたとき、ロートは答えている。酒は命をちぢめるかもしれないが、少なくとも「眼前の死」は遠ざけてくれる︱︱「眼前の死」が自殺を意味していたことはあきらかだ。

ロートは早くからナチズムの予兆をはっきりとかぎとっていた。1933年7月の総選挙でナチ党が第1党に躍り出た。歓呼する市民たちは、カギ十字をつけた褐色の制服の集団こそ、自分たちを守ってくれる力強い用心棒だと考えた。困難な時代には汚れ役が必要だ。ボスがチョビ髭をはやした、多少ともうさんくさい人物であろうとも、政党が暴力とユダヤ人憎悪を公然と掲げていようとも、大切なのは「わが家」を守ってくれること。「わが家の幸福」を保障してくれること。「わが家」はそのまま「わが町」「わが国」につながり、同じ髪、同じ肌、同じ血でなくてはならない。

これと対比させるようにして、ロートは自分の「わが家」、すなわちホテルの住民構成を語っている。電話交換手はイタリア人女性、給仕はオーストリア人、門番はフランス・プロヴァンス生まれ、接待主任はノルウェー人、給仕長はドイツ人、女中はスイス人、臨時雇いの男はオランダ人、支配人は中東人……。

「コックはチェコ人とにらんでいる」

客もまたそうなのだ。ここにつかのまの安住を見出す側は大陸や島や半島、さまざまなところからやってきた。キリスト教徒、仏教徒、ユダヤ人、イスラム教徒、自由思想家……。こちらもいたってまちまちであって愛国主義の息苦しさや民族心の傲慢と自惚れといったものから、しばらく遮断してくれる。ホテルそのものが小世界であるように、ホテル人間こそ国境のない「世界人」というもの。とするとヨーゼフ・ロートの選び取った亡命という生き方こそ、思想と信条そのもののスタイルだった。

1939年5月、ロートはホテルの玄関を出てすぐの街角でバッタリ倒れ、病院に運ばれて、まもなく死んだ。

もう少しくわしく言うと、フロントから電報をしらされて階下におりてきた。友人の劇作家で、ニューヨークに亡命していたエールンスト・トラーの自殺を告げるものだった。強いショックを受けたらしく、電報を握ったまま足がフラついた。ボーイやフロント係が駆けつけると、手を振って人々を制した。そしてヨロヨロと歩き出し、玄関を出て、一つ先の角まできて崩れるように倒れた。

きっと愛する「わが家」に迷惑をかけたくなかったからだろう、ホテルの正面から死体が運び出されるなど、まったくもってあってはならないことだからだ。

 

[付記 トーマス・マンの日記は『トーマス・マン日記』(全十卷・紀伊國屋書店)による。]

ヒトラーの時代 (24) 池内 紀

  • 2017年4月12日 16:19

 

平穏の時代

1933年から38年まで、ヒトラーが政権についてからポーランド侵攻前年までの五年間は第三帝国の「平穏の時代」と呼ばれている。第一次大戦終了後、狂乱の20年代があった。古今未曾有のインフレで、ドイツ・マルクが紙屑になり、預金が一挙にかぎりなく0になった。失業者がうなぎのぼりで、総数600万をこえ、ドイツ人の10人に1人は失業者だった。ワイマール憲法は史上もっとも優れた憲法といわれたが、20をこえる政党の足のひっぱり合いで、どの政権も半年ともたない。とめどない混乱を縫ってナチスがめざましく勢力をひろげ、ついに過激を売りものにする極右政治家に首班の座をあけわたした。

ヒトラーは内閣を組織した翌日のラジオ演説で、「われに4ヵ年の猶予を与えよ、しかるのち批判し審判せよ」と大ミエをきった。誰もがいつもの大ボラだと考えていた。数ヶ月もせぬうちに行き詰まり、すごすごと政権を投げ出すだろう。

ところが、そうはならなかった。「ドイツ国民への檄」に始まり、きびすを接して「経済4ヵ年計画」「フォルクスワーゲン(国民車)構想」、「自動車専用道路計画」……。人気とりの青写真と思われていたことが、一つ、また一つと実現する。日ごとに膨大な雇用の場が生まれ、600万もの失業者が、めだって減っていく。約束の四年が過ぎたとき、全国民所得が1・⒌倍にふえ、失業者は100万台にまで減少していた。造船所からは次々と巨船が進水していく。世界で初めての自動車専用道路は「アウトバーン」の名のもとに、全長3000キロに及び、完工式には50万の道路労働者のうち3000人が招待客になって、お祝いをした。

この間、1936年にはガルミッシュ=パルテンキルヒェン(冬)とベルリン(夏)の2度のオリンピックがあり、世界中からの報道陣が急テンポのドイツの復興ぶりを故国に報道した。オリンピックが一つの国で1年に2度開催されたのは異例のことで、大戦の後遺症から抜け出せないヨーロッパにあって、ナチス・ドイツがいち早く放れワザをやってのけた。

首相アドルフ・ヒトラーへの全権委任法、反国家的運動、出版に対する取締強化、デモ及び屋外集会の禁止、報道の自由制限、共産党の禁止、と社会民主党の機関紙発行停止命令、ユダヤ人弾圧……。ナチスの政策は、ことあるごとに国外の批判をあびていた。ナチズムによる不当な全体国家ドイツのイメージは広く流布していた。それをオリンピック報道が大きく修正した。世界中からベルリンへやってきた報道陣は、予期したような暗いドイツではなく明るいドイツを見出し、奇蹟の復興に目をみはった。これほど短期間に、これほどの成果をなしとげたヒトラー独裁をあらためて見直した。政党党首、首相、国防軍最高司令官、国家元首︱︱一人で何役も兼ねた人物に並外れたカリスマ的指導者を見た。

この間の主だった出来事は、次のとおり。

1933年7月 ヒトラー、ローマ法王とのコンコルダート(政

教条約)締結。

同年10月 ドイツ、国際連盟脱退。

1934年6月 ヒトラー、SA幕僚長レームらを粛清。

1935年1月 住民投票でザール地方がドイツ復帰。

同年3月 ヒトラー、ヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄。ド

イツ再軍備。

1936年3月 ヒトラー、ロカルノ条約破棄。ドイツ軍、ライ

ンラント進駐。

同年8月 ベルリン・オリンピック。

1938年3月 ナチス・ドイツ、オーストリアを併合。

同年9月 ミュンヘン会議。ドイツ、チェコのスデーデン地方

を併合。

いずれも総統ヒトラーの決断による。ローマ法王庁との宗教条約は、ナチスがカトリック教会や学校の宣布を承認する一方で、ヴァチカンはカトリック政党(中央党)や労組の強制的解散を承認するというもの。ヒトラーはナチズムを宗教にとって代わらせ、最終的には無宗教を信念としていたが、当面はあいまいな妥協策をとった。ヒトラーによる最初のめざましい外交的成果とされた。対外的には、反教会的といわれるナチス権力をヴァチカンを通じ国際的に承認させたし、国内的には反ナチスのカトリックを体制内にとりこんだからだ。

国際連盟の脱退に際しては、国民に信任を問う総選挙を約束。95・1%の支持を得た。

SA(突撃隊)は幕僚長レームの育成のもとに隊員三〇〇万を数え、「第二革命」が噂されていた。レーム事件は「長いナイフの夜」と呼ばれ、34年6月30日から7月1日にかけての夜に起きた。ヒトラー指揮下のゲシュタポ(国家秘密警察)とSS(親衛隊)が全国のSA幹部と反ナチス政府分子を襲撃、銃殺した。レームのほか、元首相シュライヒャーとその夫人、元ナチ党幹部シュトラッサー、元バイエルン首相ファン・カールら、粛清されたのは公表では70名。パリの粛清白書では401名。戦後の公表では1000人以上にのぼる。強敵レームを武力で排除して、この日がナチスの権力掌握の決定的な日となった。

きわめて血なまぐさい事件だが、国民には「反逆を芽のうちにつみとった決断力と勇気ある行動」として報じられた。ヒトラーは直ちに緊急閣議を開き、「国家緊急防衛法」を発布。正式には「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」といって、緊急防衛の必要があれば殺人行為も正当化される。

「長いナイフの夜」にSSが果たした功績にかんがみてだろう、SSをSAから正式に独立させ、ヒトラー直属の党内機関とした。SS中央指導者ヒムラーのもと、SSは国家の中の国家、国防軍にも手のつけられない軍隊の中の軍隊へと変貌していく。

ライン川東部のザール地方は石炭と鉄鋼業で栄え、ドイツ重工業の心臓部にひとしかった。第一次大戦終了後、国際連盟の管理に委ねられ、実質的にはフランスの占領下にあった。ヒトラーにとっては再軍備に欠かせない資源地域であり、政権を固めるやいなやザールのドイツ復帰を呼びかけ、35年1月、国際連盟管理下の住民投票を実現させた。90・5%の多数決でドイツ復帰を決定。ヒトラーが国際条約に準拠して行動した最後の事例である。

つづいて満を持していたかのように同年3月、ヴェルサイユ条約の軍備にかかわる条項の破棄を通告、ドイツ再軍備を宣言した。直ちに「ドイツ国防軍編成法」を公布。

  • 国民兵役制度。第二条、平時陸軍兵力を12個軍団36個師団の55万に拡張整備……2年後には第13軍団設立、38年秋、18軍団51個師団とする」

急激な兵力増員はドイツ国内の労働力に不足をきたすまでになった。

ライン川西岸のラインラントはヴェルサイユ条約、及び1925年にスイスのロカルノでドイツが自発的に締結したロカルノ条約によって、非武装地帯と定められていた。1936年3月6日、ヒトラーはひそかに国防軍のラインラント進駐を命令。翌7日、3万五5千のドイツ国防軍はライン川を渡り、同地帯を占領。この日、ヒトラーが国会で「只今ドイツ軍、進軍中」と発表したとき、国会は興奮のるつぼと化した。ヒトラーは合わせて国会を解散して信を問うと宣言。同月末の国民投票では、98・8%がヒトラーの政策を支持した。

1938年3月のオーストリア併合。同年9月のチェコ・ズデーテン地方併合後、ナチスはにわかに拡大した領土全域に「大ドイツ帝国」の名称を定めた。いずれも神がかり的なヒトラーの決断により、国民の熱狂的な賛同を得た。

 

ドイツ国民がやっと迎えた「平穏の時代」であり、安らぎの時期だった。経済が安定し、暮らしが目に見えて向上した。ナチス体制は多少とも窮屈であれ、体制に口出しさえしなければ平穏に暮らせる。ナチ党員のユダヤ人苛めは目にあまるが、われ関ぜざるをきめこめばすむこと。ナチスの好きな式典の華麗さ、もどってきた戦車隊の大行進、強大な戦艦、短期間にヨーロッパ一に整備されたドイツの翼。第一次大戦後、打ちひしがれていた国民感情が誇りと自負をとりもどした。そのすべてがヒトラー総統の偉業によった︱︱。

一枚の写真がある。ベルリン・オリンピックの直前、一九三六年六月のもので、ハンブルクのブローム&ヴォス造船所での海軍の練習船「ホルスト・ヴェセル号」進水式の模様を撮影している。船がドックを離れて海に浮かんだ瞬間、いっせいに「ハイル・ヒトラー」の声が上がり、人々はこぞって右手を差し上げるナチス式敬礼をした。

前方にSSの制帽、制服が見える。群衆はいでたちよりして招待客と造船所の労働者と思われる。よく見ると右上にひとり、憮然とした顔で腕組みした人がいる。いっせいに差し出された腕に委細かまわず、やや顔をしかめている。

あらためてまわりの人々をよく見ると、多くが前方の船ではなく、カメラの方向に顔を向けている。上方のカメラをうかがう目つき。撮影に気がついて、あわてて腕を差し出したようでもあり、自分が敬礼していることをカメラに確認させたようでもある。圧倒的な多数のなかで、ひとり自分の考えをつらぬくのは勇気のいることだった。なにげない写真が、強大なナチス体制のなかのささやかな市民的良心のあかしを伝えている。

のちの歴史的経過で判明していったことだが、「平穏の時代」をもたらしたヒトラーの明察と決断は、少なからず情報宣伝大臣ゲッベルスのお手柄だった。この間の「偉業」はつねに演出ずみの方法で国民に伝えられた。オープンカーで帰国する総統、あるいはバルコニーに立つヒトラー、威厳をおびた肖像にはつねに圧倒的な熱狂で迎える大群衆の写真がそえられた。総統と国民の一体性を、くり返し、またくり返し報道した。

一九三三年の欺瞞的な政教条約ののち、ヴァチカンはドイツの神父たちにヒトラー政権への忠誠を命じたが、ナチス時代を通じ、良心的な神父たちの抵抗はやまなかった。

レーム派の粛清に際し、殺してからの殺人正当化立法は茶番劇というしかないことを人々は知っていた。

ラインラント非武装地帯への進軍と占領はあきらかに政治的賭けであって、まだ未整備だったナチスの軍事力にとって無謀な博打的行為だった。ヒトラー自身がそれを認めていて、フランス軍の反撃がある場合は、直ちに撤退を命じていた。フランス政府とフランス軍首脳は協議にあけくれて決定を先送りした。その消極的な姿勢がヒトラーに幸いした。

ミュンヘン会談に先立ち、ヒトラーは国防軍と外務省の人事を行い、骨のある幹部たちを更迭した。あわせてアウトバーン建設の監督だったフリット・トットに西武要塞ジークフリート線建設を命じ、五十万の労働力を約束した。いち早く戦争を見こしての対フランス防御システムの整備にとりかかっていた。

ミュンヘン会談は、ドイツ人住民の多いチェコのズデーテンのドイツ併合をヒトラーが要求したのに応じるもので、チェンバレン(イギリス)、ムッソリーニ(イタリア)、ダラディエ(フランス)それにヒトラーの四名が会談した。ヒトラーの恫喝的外交に、イギリス、フランス首相はなすすべがなかった。チェンバレンはイギリスに帰国したとき、「名誉ある平和」を持ちかえったと胸を張って声明したが、チャーチルが下院の演説で、「全面的、包括的敗北」とチェンバレンを非難したとおり、「名誉ある平和」は一年とつづかなかった。

「平穏な時代」が、底流ではまっしぐらに戦争へと、ひた走りに走っていたことが見てとれる。ひとたび政治システムができあがったとき、もはや押しとどめるすべがないのである。亡命を拒み、まさに肌身で時代に立ち会った作家ケストナーは述べている。「雪の玉が小さいうちに踏みつぶさなくてはならない。雪崩になってからでは、もう遅すぎる」

 

ヒトラーの時代(23) 池内 紀

  • 2017年3月10日 16:06

強制収容所第1号

強制収容所第1号

 

1933年3月20日、ナチスによる強制収容所第1号が誕生した。この日、ミュンヘン警察長官ハインリヒ・ヒムラーが記者会見で収容所の設立を発表。2日後の22日に開所式を迎えた。

場所はミュンヘンの北西約20キロのダッハウ。街の郊外に第一次世界大戦に使われた火薬工場があり、操業を停止して以来、広大な工場跡は廃屋のまま放置されていた。それを政治犯再教育のための施設とする。収容能力五〇〇〇名。ヒムラーは、そのように説明した。放置されていた工場跡に多くの人が入り、すでに修復作業が進められていた。作業には政治犯が動員されたが、ヒムラーはそのことは言わなかった。開所式を終えると、昨日までの作業員が「囚人」として入所した。さしあたりはヒムラーが所長を代行。6月になって正式に第二代所長として親衛隊上級大佐テオドール・アイケが赴任した。

初期のころの写真がのこされているが、火薬倉庫だった石造りの建物が兵舎のように並び、送られてきた人々が整列してナチス幹部の訓辞を聞いている。はじめのころは囚人服といったものはなく、全員がおもいおもいの平服で、監視兵もいない。収容棟のベッドは、のちのアウシュヴィッツのようなカイコ棚式ではなく、病院のような配置になり、作業棟のほかに談話室、図書室、をそなえていた。

3月30日、バイエルン知事の名のもとに、ダッハウ強制収容所開設が新聞に発表された。

ヒトラーが政権についたのが、この年の1月30日である。それから二カ月たらず、この間、めまぐるしい政治的事件があった。政権成立直後、各地でヒトラー反対のデモとストが起こり、ナチスと衝突した。2月1日、ヒトラーの強要でヒンデンブルグ大統領は国会を解散。ヒトラーは全権委任をめざして総選挙を選択、直ちに広範な選挙活動に入った。

2月4日、「ドイツ国民保護のための大統領令」発令。老齢のヒンデンブルクはいまや、ヒトラーの操り人形にすぎず、指令されるままに次々と大統領令を出した。「ドイツ国民保護」をうたった法令は出版と言論の自由を厳しく制限し、さらにデモや屋外政治集会禁止など、七つの基本権停止をうたっていたが、パーペンをはじめとする閣僚の誰一人として、この規制に抗議しなかった。

2月6日、「プロイセンにおける秩序ある統治関係設定のための大統領緊急令」プロシア政府の権限を代理執行官(ゲーリング)に委譲する命令で、ゲーリングが事実上、プロイセンの全面的支配権を手にし、共産党大弾圧の中核となった。

2月27日、国会議事堂炎上。翌28日、ヒトラーの要請で「ドイツ民族に対する裏切り及び反逆的陰謀取締りのための大統領令」発令。ドイツ帝国国会議事堂が放火されたのは、27日の夜九時すぎである。10時間後の翌朝の閣議で、すでに起草されていた緊急令が審議、承認され、首相ヒトラーが大統領府に出向いて署名を取った。驚くべき手廻しのよさである。

放火犯としてオランダの共産党員マリヌス・ルッペが逮捕され、ナチス政府は共産党の陰謀として大々的に発表した。28日、国会議長兼プロイセン内相ゲーリングは、共産党員の国会、州議会、町議会議員、及び公務員約40000名を逮捕、あわせて共産党員の全活動禁止を命令した。

3月3日、ドイツ共産党党首エルンスト・テールマン、党紙「赤旗」編集長エルンスト・シュネラー逮捕。

3月5日、ヒトラー体制での最初で最後の総選挙。全議席647のうち、ナチス288(得票率四十三・九%)、社会民主党120、共産党81、中央党73。共産党議員は475万票を獲得したが、一度も登院できなかった。ドイツ共産党禁止にともない、共産党員の国会議席が剥奪され、81名の共産党国会議員資格も抹消されたからである。その結果、議員総数が566に減少し、ナチスが単独で過半数を獲得することになった。

3月13日、情報宣伝省創設。ゲッベルスが大臣として入閣。

強制収容所開設式の前日、ポツダムのフリードリッヒ大王の棺の前で、新国会の開会式が挙行された。ゲッベルス演出により、1871年のビスマルクによる統一ドイツ国会開会記念日とナチス国会開会を「ポツダムの日」の名のもとにかさねて、強く印象づける儀式だった。

3月23日、ベルリンのクロル・オペラハウスで新国会開催。ヒトラーは「全権委任法」の審議を要請した。憲法を除く法令の制定にあたり、国会の承認も大統領の署名も必要とせず、外国との条約締結に対しても議会の批准を必要としない権限を与えるというもの。即日投票の結果、賛成441、反対94で可決成立。翌24日付で発効。ここにヒトラーの独裁が確立した。強制収容所の設立と独裁制の確立とが同時に進行したのは、きわめて意味深いだろう。強制収容所が秘密警察(ゲシュタポ)と並びヒトラー体制を支える二本柱として機能しはじめる。

 

強制収容所はドイツ語(Konzentrationslagar)を略してKZ(カーツェット)とよばれた。コンツェントラツィオーンは「集中する(konzentrieren)」の名詞で、そのため初期の邦語文献は「集中収容所」と訳している。

ナチス幹部は、どういうわけで、こんな名称にしたんだろう? 共産党大弾圧に見られるように、四〇〇〇人もの共産党員がいっせいに検挙された。警察署は逮捕者であふれかえっている。分散している多数者を「集中」させて管理する必要が生じたのか。強制収容所はさしあたり、政治的な理由で検挙された者たちを一括して収容する施設だった。

KZ(カー・ツェット)がその一つだが、ナチの時代には大量の略語が使われた。党名そのものがNSDAP(エヌ・エス・デー・アー・ペー)、「国民社会主義ドイツ労働者党」である。とりわけ知られたのがSA(エス・アー)突撃隊、SS(エスエス)親衛隊、だろう。秘密警察は略語(Gestapo)を読み下してゲシュタポとなった。

HJ(ハー・イヨット) ヒトラーユーゲント

Pg(ペー・ゲー) ( NSDAP)党員

KdF(カー・デー・エフ) ドイツ労働者戦線

TV(テー・ファオ)どくろ軍団

ナチスは自分たちの理念の新しさ、独自性をいうために大量の新造語をあてた。強引な造語であって、すぐには意味のわからない言葉もあった。音のひびきが荘重で、重々しく、学術っぽい語を好んで採用した。その点、鉤十字や鷲の紋章や勲章の多用やナチスの建築に見られる極度の威容誇示のスタイルと共通している。

それにしても“集中”収容所とは何だろう? 言語学者ヴィクトール・クレンペラーは(1881〜1960)はユダヤ人というだけで大学を追われ、妻がアーリア人のために収容所送りは免れたが、ことあるごとに暴力と迫害を受けた。その只中で秘密警察の野獣のような罵りや地区役員の居丈高な口のきき方をはじめとして、ナチ特有の言葉を記録し、LTI(エル・テー・イー)と名づけ分析した。この言語学者には、ドイツ語の「強制収容所」をはじめて耳にした時、「まったくドイツ語らしくない、エキゾチックな植民地風の響き」に聞こえたという。十九世紀末に起きた南阿戦争の時、イギリス軍の捕虜になったブーア人が捕虜収容所で監視されていて、その際、集中(コンセントレーション)が使われたのを思い出した。それ以来、すっかり姿を消していた言葉が突如としてよみがえった。ヨーロッパ大陸ではじめて、敵の人間ではなく、治安維持のため自国民を収容する建築物が出現した。

「将来、強制収容所という言葉を口にするとき、人が思い起こすのはヒトラーのドイツであろう。いや、ヒトラーのドイツのみであろう」

この上なく性格な予言というものだった。

体制に異議をとなえるだけで、いや応なく罰せられる。共産党員を狙いうちにした初期の段階から、つづいて大がかりな反体制派の検挙へと拡大した。国内各地に収容施設が必要となり、第2号、第3号、第4号とつくられていく。ザクセンハウゼン、ブーヘンヴァルト、フロッセンビュルク、ラーヴェンスブリュック……。強制収容所の「強制」は、そこに待ちうけている強制労働によるものだが、国家権力という強制力のもっとも具体的なあらわれでもあっただろう。

ダッハウの設立からほぼ半年後の1933年10月1日、ダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケは「強制収容所規律懲罰布告」及び「監視部隊服務規程」を発表した。「ダッハウ方式」とよばれたもので、ナチス強制収容所管理体制の骨格となった。ナチスは囚人棟の監視役に選抜した囚人をあて、「カポ」と名づけて優遇した。そのような人間がどれほど猛威を振るい、有能な監視者になるものかをよく知っていたからだが、すでに第1号収容所の服務規程にカポ制度が明示されていた。カポとしての管理能力の不足と見なされれば、当然のことながら直ちに死が待っていた。

囚人が脱走を試みた場合、「警告なく射殺する」であって、射殺者には賞金が与えられる。のちの恐るべき管理システムのおおかたは、最初の服務規程にすでに導入されていたのである。

ユダヤ人狩りが始まり、ホロコースト(ユダヤ人迫害)が常態化するなかで、強制収容所はみるみるうちに数を増し、収容者が途方もない数になっていった。強制収容所は親衛隊の管理になり、親衛隊全国指導者、ヒムラーのもとに腹心のラインハルト・ハイドリッヒ上級大佐が実務をとっていた。ユダヤ人が日ごとに何千人単位で送られてくる。現場の担当官たちは頭をかかえていたにちがいない。この途方もない数を、どうしろというのか。強制労働の場が、急速に人間処理の機構、巨大な「屠殺場」に変貌していく。そのなかでダッハウは、強制収容所のショーウインドウの役まわりをつとめ、少なくともある時期までは厚生、教育の場の体面を保持しつづけた。

 

のちの批評家ジャン・アメリーは1943年7月、ブリュッセル市内で逮捕された。レジスタンスの一員として尋問され、拷問を受け、翌44年1月、アウシュヴィッツへと送られた。辛うじて生きのび、解放後20年あまりして収容所の生活をつづったなかで、「オランダの友人で私と同じく強制収容所を体験した作家ニーコ・ロストのすてきな本」を引きながら述べている(『罪と罰の彼岸』・法政大学出版局)。『ダッハウのゲーテ』の標題を持ち、そこにはアウシュヴィッツの生活者には「夢のようなくだり」があった。

「空襲警報の間、一心にヘルダーについて考えていた」

「再びマイモニデスを読んだ」

「より多く読むこと、より多くを、より激しく学ぶこと。赤十字の小包よりも古典文学が望ましい」

アウシュヴィッツで古典古代のマイモニデスを読むなど、ありえないこと。赤十字からの食糧の差し入れの代わりに古典文学が届けられたりしようものなら、舌打ちしてお断りしただろう。ニーコ・ロストが収容所内の病棟看護人という比較的めぐまれた現場にいたのに対して、自分は収容所のなかの無名の大衆の一人だったことはさしおくとしてーーつづいてアメリーは述べている。ニーコ・ロストのいたところがダッハウであって、アウシュヴィッツではなかったこと。

ともにひろく知られた収容所ながら、ダッハウはいわば「由緒ある」強制収容所だった。収容者は政治犯が多くを占め、収容者の管理にあたっても、収容者にかなりの程度まで権限がゆだねられていた。ダッハウには図書室がそなわっていたが、アウシュヴィッツでは一冊の本すら夢のようなものだった。ダッハウでは収容者に、ナチズムの国家管理機構に対抗して、「精神の底力を示す余地」がなくもなかった。アウシュヴィッツでは、精神はその本来の資質、つまり「超越性」というものを一切失っていたーー

ダッハウ強制収容所の特殊性がうかがえる。

1945年、東からソ連赤軍が急テンポで迫っていた。南から連合軍はライン川をこえた。ナチス政権は強制収容所を秘密のまま葬り去ろうとしたのだろう。旧ポーランド内の絶滅収容所を閉鎖、焼き払い、収容者を順送りに西へ移動させた。ダッハウは西端にあって、一挙に収容者が四万人をこえた。

4月のある日、そのうちの7千人ちかくに命令が出された。行き先その他、何も知らされていなかった。パン少々とマーガリンが支給され、長い列が収容所を出ていった。一路南へ下り、ミュンヘン近郊を通り抜け、シュタルンベルク湖畔をさらに下っていった。ただでさえ衰弱した人々がバタバタと倒れていく。「五十メートルに一人」の死者が出た。6日後、行列は半減、この間、3千人あまりのユダヤ人が死んだ。

「ダッハウ死の行進」としてナチス汚辱の歴史のなかに残っている。行く先その他、いっさい知らされていなかったのは、知らすべき行く先がなかったからだ。二十世紀が演じた悲しくも滑稽なページェントであって、そこから死者が出たのではなく、死者を出すための行進であり、そして「誰もいなくなる」ための行列だった。

ヒトラーの時代(22) 池内 紀

  • 2017年1月26日 18:30
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

民族共同体

ドイツ北部の港湾都市フレンスブルクは人口10万たらず。その町でかつて「フレンスブルガー・イルストリールテ・ナッハリヒテン」という新聞が出ていた。イルストリールテは「絵入り・写真入り」といった意味で、グラフ誌のようなつくりだったと思われる。発行のモットーが「世界と故里を結ぶリング」というのだから勇ましい。その1933年5月17日号の表紙が意味深い歴史的資料として残されている。

画家による肖像画と写真を組み合わせたコラージュの方法であって、とりわけ1930年代に流行したスタイルである。上に顔が一つ、下に大群衆、旗を掲げ誓いをするように右手を差しつけている。

肖像はヒトラーだが、即座にはわからない。写真でおなじみのヒトラーと何かちがうからで、全体に若々しく、理想化されて描かれている。さらに顔だけがアトバルンのように空中に浮いていて、なにか異様な感じがする。

顔がヒトラーとなれば、下の大群衆もすぐにわかる。ナチ党の集会であって、右手を差し上げるのが正式な挨拶だった。制帽・制服に身をつつみ、党組織の団旗が林立している。よく見ると上と下のあいだにドイツ文字で「総統と民族共同体」としるされている。

1933年1月、ヒトラーが政権につき、ナチス政府が発足した。それから四ヶ月、ヒトラー総統のもとに国民一丸となって民族共同体の実現に向かう。港町の一メディアがそのための特集を組んだ。

当時の情勢からして、それ自体は特別のことではないが、表紙のコラージュが興味深い。虚空に顔が浮いていて異様な感じがするが、当時のドイツ人は異様とは思わなかっただろう。ひと目見て、同時に別の顔を連想した。正面を向いたキリストの顔であって、それと二重写しにこの顔を見た。

ヒトラー

キリスト伝説の一つで教会の言い方では「ヴェロニカの帛(はく)」と称されている。十字架をせおってゴルゴタの丘に向かうキリストの汗と血を拭うため、ヴェロニカという女が白い布を差し出した。教会のカレンダーには「御公現の日」あるいは「顕現の日」とあるが、ヴェロニカの布にキリストの顔が現れる。布の中央に一つの顔が浮かび出る。

カソリックの教会には「聖遺物」といって、伝説ゆかりの品が保存されているものだが、「ヴェロニカの帛」もその一つで、なぜか数多くある。ヴェロニカの祝い日には司教座のある教会などで、展示され、善男善女が大挙して見物に来る。

聖遺物としては眉つばものだが、人々は顕現するキリストの顔のことを幼い時から聞かされ、イメージに描いてきた。フレンスブルクのグラフ誌を手にした人は、いまや政治の表舞台に登場した人物に、救世主キリストを見たにちがいない。ヒトラーを神格化する動きは、すでにこのころ始まっていた。

主義主張から反ナチの人は除いて、一般国民にナチス政権は好感を持って迎えられた。何よりも街に秩序が戻ったことが大きかった。秩序、ドイツ語では「オルドヌンク」こそ、ドイツ人にとって世界の始まりであり、ワイマール共和国の14年間は、まさしく秩序の失われた時代だった。経済の要(かなめ)である金銭が未曾有のインフレで紙クズになった。政党が乱立して、どの政権も半年ともたない。失業者がとめどなくふえていく。往来では党派に分かれて殴り合い、流血沙汰が絶えない。夜は娼婦と酔っぱらいがワンサとたむろしているーー。

ヒトラーが政権についたのは1月30日である。2月10日、ラジオで「ドイツ国民への呼びかけ」を行った。ワイマール体制がなにをもたらしたか。国を破壊し、「一つの廃墟」を生み出しただけではないか。「ドイツ国民よ、われら(ナチス)に4年の猶予を与えよ。しかるのち、われらに裁断を下せ」

2月10日、ベルリンでの「自動車展」に際して、国民のための国民車(フォルクスワーゲン)計画を発表。政治的な花火ではなく、すぐさま自動車工学のフェルディナント・ポルシェに具体的に設計を依頼。

フォルクスワーゲン計画は、つづいて「自動車税法」(国産自動車の所有者に対する税金の一切免除)、自動車専用道路建設へと拡大する。アウトバーン計画はナチス以前からあったが、本格化するのはヒトラー政権になってからで、失業者救済事業を兼ねており、第一期三万人、第二期六万人の雇用を実現。五年間で延べ3000キロの高速道路網を完成させた。

3月16日、ドイツ帝国銀行総裁に民間人ヒャルマー・シャハトを抜擢。シャハトは「経済の天才」といわれた人で、ナチス嫌いで知られていた。おのずと党内から反対、干渉、妨害があいついだが、ヒトラーの全権を受け「メフォ手形(政府保証の信用手形)」の発行など、経済の安定のために辣腕を振った。

3月23日、全権委任法成立。

ヒトラーに全権を委任するというこの法律は、「逼迫(ひっぱく)する諸要素に迅速に対処する指導者(ヒューラー)国家を創設するための四年間の時限立法」とし提出され、ドイツ共和国議会は圧倒的多数で承認した。この法律により、ヒトラーは議会制度の制約から解放され、合法的に独裁権を獲得する。時限立法であれ、四年後に反対多数とならないかぎり自動延長する。やがてナチス一党制となった議会の「反対多数」などあり得なかった。

3月27日、1933年度の会計年度に対し、「失業者救済課金」実施を指令。

3月31日、「ドイツ国とドイツ支邦との統整のための暫定法」成立。ドイツは州の権限が強く、独自の政府と議会と軍隊をもち、国家として対処しなければならない対外関係以外は、州の自治に委ねられていた。そのような州の自治、独立性を撤廃して、中央で統制する。ここに名実ともに統一されたナチス国家が出現した。

4月10日、国民労働祝祭日の創設。5月1日の労働者のメーデーを廃止して、ドイツ全国民の祝祭日とする。

5月3日、「労働奉仕制度」を発令。18歳から25歳までのドイツ人青年男女に、年間20万人規模で6カ月の労働奉仕を義務づけたもの。農地開墾、土地改良、営林作業、農作業、道路建設など、「民族共同体のための労働」を提供する。

このころから「民族共同体」がメディアやポスターにしきりに現れるようになった。党大会におけるヒトラーの演説では、「労働を通して全てのドイツ人を統合し、一つの共同体を形成する」「民族共同体の実現をめざす」といった言葉とともに現われた。

6月1日、「結婚奨励法」発令。少子化に対処するため、無利子で妻帯貸付金を支給。結婚ローンであって、子供1人が生まれると、四分の一が即座に贈与金に切り替わった。4人生めばローンはゼロになった。より正確に言うと、ナチスの財政的措置は結婚ローンのほか、さらに子供への補助金、家族手当の三本柱からなり、子供への補助金は、子沢山の低額所得者に家具、備品、衣料費のための一時金として支給された。こういった政策により、ドイツの出産率は急速に改善された。

大半が「総統指令」として世に現われ、ヒトラー=救世主のイメージが日ごとに高まっていく。

7月15日、新婚者のための新築住宅の税金免除。

8月20日、国民ラジオ(フォルクスエンプェンガー)展示。政府がラジオ時代の到来を告げ、」当時としては驚くべき安価なラジオを提供。数年で全所帯の70%が所有するまでになった。

9月13日、冬季救済事業の開始。失業者や老人に対して、ヒトラーは国民的規模による事前運動を呼びかけ、それは1000万人の人々が恩恵にあずかる運動に発展した。さらに拡大、発展させたのが、KdF=歓喜力行団の創設である。労働は営利の手段ではなく、ドイツ民族共同体の福祉に奉仕するものとし、そのためには「喜びを通しての力」、ドイツ語ではクラフト・ドゥルヒ・フロイデ(略してKdF)運営組織を発足させた。一流のコンサート、映画、スポーツ、国内旅行、海外旅行を、労働者にもまかなえるように安く提供、余暇の喜びだが、明日への労働力を生み出す。

もともとKdFはイタリア・ファシズムの「ドッポラーヴォーロ=労働のあと」の制度をまねたものだが、ナチスはイタリア人よりもより大々的に、より効果的に運営した。組織はやがて大きく発展、事務職2、547名、ボランティア75,000人を数え、ナチス国家に対する良質の宣伝をもたらした。それまでナチスの運動に懐疑的だった人々も、KdFの進展のなかで、なだれを打つようにしてナチス体制に同調し始めた。

さらに自然保護運動がある。エコロジズムの実践活動で、植林には針葉樹ばかりでなく広葉の落葉樹も含めること、野生動物の生息環境を守るため、低木や雑木林の保護をうたう法律を定めた。

また健康に関する研究に巨額の援助をして、タバコは肺ガンの主因であることを、世界で初めて証明した。アスベストの発ガン作用についても警告した。いずれもヒトラーが独裁制を確立して以後の業績である。600万を数えた失業者の数が数年で半減。労働条件の改善がはかられ、社会保障と老齢福祉の大胆な試みが発表された。浩瀚なヒトラー評伝の作者ジョン・トーランドは述べている。もしこの独裁者が政権四年目ごろに死んでいたら、ドイツ史上、もっとも偉大な人物の一人として後世に残ったであろう。

ヒトラーの時代(21) 池内 紀

  • 2016年12月12日 16:38
ヒトラーの時代

ヒトラーの時代

小市民について

プックリ肥った中年男で、鼻の下にヒトラーに似たチョビひげをはやしていた。おかま帽のような帽子をかぶり、胸当てのついた作業ズボン姿で、三脚の梯子を肩にかけてあらわれた。やおら梯子を立てかけて仕事にかかる。インテリアといえば聞こえはいいが、まあ、ペンキ屋といったところか。若い助手がいて、下から刷毛を手渡ししたりする。

つまり、こんな風に「カール氏」は舞台にあらわれた。一九六〇年代初めのこと。ウィーンの小さな劇場である。「カバレット」と呼ばれる地下の芝居小屋の一つ。五十人も入れば満員で、客席と同様に舞台も小さい。中央にライトが一つあるだけ。ほとんど一人芝居と言っていい。中年男のモノローグだ。若い助手に問われるままに昔ばなしをする。そんなに遠い昔ではない。一九六〇年代からすると、つい昨日のこと。ナチスが肩をいからしてかっぽしていた時代、そのころ自分はどんなふうに生きていたか。

俳優にして作者、ヘルムート・クヴァルティンガー

俳優にして作者、ヘルムート・クヴァルティンガー

タイトルの「カール氏」は、「カールさん」「カールおやじ」としてもいい。ごくふつうの男である。おりおりナチ時代の流行歌を口ずさむ。何がおかしいのか、クックッと含み笑いをもらしたりするが、どちらかというと腹の立つことが多かったのだろう。

「ひでぇー時代よ」

ウィーン訛のセリフがリフレーンのようにくり返される。ときたま仕事の手を休め一時間あまりしゃべりつづけた。

たしかにひどい時代だった。始まりは一九二〇年代の終わりちかく、世界恐慌まっただ中、記録的なインフレがあり、ついでデフレが見舞った。街には失業者があふれていた。隣国ドイツでヒトラーの率いるナチ党が、ぐんぐん勢力を拡大していく。ウィーン市中にも鉤十字の旗がひるがえり始めた。通りでは毎日のように労働者と右翼の衝突があり、血が流れた。ついで法務省放火事件、親ナチ政権の誕生。一九三八年、オーストリアはナチス・ドイツに併合された。一夜にして町中の国旗が鉤十字にかわった。つづいてなだれを打つようにしてドイツ軍の侵攻が始まった。

その間、ウィーンの一市民、カール氏はどうしていたか? 彼はさまざまな人や事件を見たり聞いたりした。ナチスに抵抗した首相が殺された。犯人は警察発表とはちがってナチの一党だという噂だった。ある日、突然、ユダヤ人が追い立てを食い、胸にダビデの星のマークをつけて連行されていった。オーストリア国内にも、いくつか強制収容所がつくられたという。何百万ものユダヤ人が送りこまれて大量に殺されているーーとの噂が流れた。

いろんな噂がとびかうなかで、小市民カール氏は終始多数派の一人だった。オーストリア社会党がのびたとき、彼はいそいそと労働者のデモに加わった。ナチスが強くなると、さっそくそちらにくらがえした。通りの群衆にまじり、連行されるユダヤ人を見物していた。オープンカーでヒトラーがやってきたとき、鉤十字の小旗を打ち振りながら歓呼の声を上げた。

ヘルムート・クヴァルティンガー(一九二八〜一九八六)は戦後ウィーンが生んだ天才的な俳優兼作者だった。自作自演の風刺劇を数多く発表した。そのなかでも「カール氏」は、とびきりの名作だった。舞台では何年もロングランをつづけ、レコード、つづいてCDになり、テレビで放映され、映画になった。今ではすでに二十世紀の古典作品と言っていい。単なる芝居にとどまらず、「カール氏」は一つの代名詞になった。時と場に応じて時流に乗る小市民。風見鶏、日和見主義者とも言われるだろう。

といってべつだん、特別のタイプでも主義者でもない。どの国にも、いつの時代にもワンサといる。大多数の「国民の皆さま」の一人である。インフレの気配があると、すぐさま買い占めの列にもぐりこむ。デフレの傾向が言われだすと、小金をかきあつめて闇金融に投資したりする。といってどの場合にも、利のいい買い物をしたとは聞かない。よけいな代物をつかまされたり、ペテン師まがいの金融業者にいいようにされるのがオチなのだ。

カール氏の考えによると、世の中の何ごともコネによるのが一番の早道である。仕事をまわしてもらうにも、出世するにも、わが子をいい学校に押しこむにも、娘の結婚にもコネをきかせる。ナチ体制にかわったとき、ひそかに地区の有力者のもとへご機嫌伺いに出向いたところ、間の悪いことに反ナチを高言していた仕事仲間とバッタリ出くわしたーー

カール氏のひとり語りには、小市民のズルさ、小心ぶり、無責任さが巧みに戯画化されていた。観客はクスクス笑いながら、いつしか顔がこわばってくる。時代を醒めた目で見ているおどけ者が、同時代の百面相をしてみせた。人は腹をかかえて笑いつつ、ふと気がつくと、それは自分の似顔絵でもあるのだった。

さまざまな知恵も心得た小市民なのです。

さまざまな知恵も心得た小市民なのです。

ヒトラーが呼びかけたのは、つねにこの「国民の皆さま」だった。お得意の演説、ただ一つの標的を狙うように多数派小市民に向けられていた。何かあれば、みんなといっしょでいたがる「よき市民たち」である。多数派にいないと不安でならない。ほかの誰かに利をさらわれそうで落ち着かない。もしそれまで

主張してきたことと行動との不一致を問われると、モゴモゴと弁解する。あるいはあれこれ言いつくろう。ときには額に青筋を立てて怒りだす。またあるいは居直る。

だからといって悪人というのではない。とんでもない。当人が信じている通り善人にちがいない。悪人であるためにはなんらかの強烈な個性を必要とするが、そのたぐいは、きれいさっぱり持ち合わせていないのだ。

風見鶏、日和見主義者、時流便乗派——心理学者はこの種の人間心理を診断して、特定の性格に分類するだろう。社会学者なら、人間における行動の類型にてらして一つの定まった型にあてはめ、このタイプに顕著に見られる性格を論じるだろう。

素顔のヘルムート・クヴァルティンガー

素顔のヘルムート・クヴァルティンガー

ヒトラーはウィーン、ミュンヘンの下積み時代の体験からよく知っていた。学者のあげる性格など机上の空論にすぎない。多数派は性格をもたないからこそ、どのような人間にもなれるし、いかなる信念に足をとられることもない。どのような個性的な性格にも縁がないからこそ、世の中の風向きに応じて方向をかえることができる。無個性であるからこそ、何はなくとも時流を泳いで生きのびるための生活力は、旺盛にそなえている。

そういった小市民的特性を最大限に発揮させて、ナチス指導部は理想的な「国民共同体」をつくり上げた。ヒトラーがとりわけ好んで演説に採用し、くり返し、またくり返し語りかけた一語である。ナチスの御用画家たちは国民共同体をキワものめいた絵であらわした。祖父母、父母、子どもたち、三代が強い絆で結ばれている。誰もが隣人を知っており、共同の意思の下に、手をたずさえて国に奉仕している。それは言い換えれば、日常のすみずみまで監視の目を光らせていること、隣人が互いを見張っており、同じ屋根の下の親しい同士が見張っている。その中で権力にすり寄るものが力を持ち、ひそかな情報を手に入れる。

ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人迫害)はよく知られている。その際、ヒトラーをはじめとしてナチス幹部たちは、ドイツやポーランド国民の根づよい反ユダヤ主義を利用した。ヒトラーはしばしば『シオン賢者の議定書』といったユダヤ人敵視の誹謗文書を演説におりまぜ、ユダヤ人の「世界陰謀」を言い立てた。

その「議定書」なるものは、十九世紀末にロシアの秘密警察によってつくられた偽書であって、「いかさま」として当初からあばかれていた。にもかかわらず、おりにつけマスコミが正当な文書であるかのように取り上げ、多数派の市民に陰謀幻想を煽り立てた。政治家が大衆迎合的効果を図って。マスコミに便乗する。選挙戦のワンフレーズにして訴える。誇張して注目させ、おどしをかけて燃え上がらせる。文書を批判をすれば、なおのこと実質ありげに見えてくる。

無知のよる偏見だろうか。しかし、教養ある市民階級にも反ユダヤ主義は根強くあった。ユダヤ人に経済や財政を握られていると言い立てたが、そんな根拠は何もなく、ユダヤ人の人口比率からして、反ユダヤ的偏見にすぎないこともわかっていた。その典型的な一例が日本のケースであって、ユダヤ人との共存の歴史的経験をまったく持たず、攻撃されるユダヤ人がほとんどいない国であるにもかかわらず『シオンの賢者の議定書』の訳本が版を重ね、「ユダヤ人の陰謀」が経済的状況の説明に使われた。

ナチズムについては、一つの図書館ができるほど多数の本が出ており、数限りなく論じられてきた。にもかかわらず今にいたるまで解明がつかない。ナチズムの妖怪は異常な人間集団のひきおこしたものではなく、その母胎にあたるものは、ごくふつうの人々だった。カール氏の集合体だった。だからこそクヴァルティンガーの「カール氏」は一つの代名詞になった。同時代人にとって、さほど楽しいことではないだろうが、ともあれ一つの典型をもつことは文化的成熟さのあかしでもある。人はおりにつけこの典型を思い出し、その一点にもどることができるからだ。つまりは「負の鏡」であって、この鏡に照らして、自分にぴったり寄りそった無性格の小市民性をたしかめることができる。

カール氏は国を問わず、どこにでもいる。失礼ながら、あなたの中にも一人のカール氏が巣くっている。この私の中にもいる。これは永遠の小市民であり、とりわけ自分を偽るのがうまいのだ。過去を話すとき巧みに事実をすりかえる。といって、とりたてて悪意あってのことではない。不都合なことはさっさと忘れ無意識のうちにすりかえて、自分でもすりかえたことに気づかない。自家製の「歴史的事実」を、誰よりも熱心に信じている。