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あと読みじゃんけん(8)渡海 壮 林原家

  • 2016年3月30日 18:42

変った題名である。「〇〇家」と「棺桶」とくればついつい葬儀を連想してしまう。林原家とは2011年2月に会社更生法適用を申請して倒産した岡山市のバイオ企業・林原の創業者一族である。『林原家』(日経BP社、2014年)の著者で表紙写真の林原健は倒産時の社長だったがその責任を取って辞任した。慶応大学在学中に父の死去に伴い林原の4代目社長に就任、林原を研究開発型の世界的な食品素材、医薬品素材メーカーに育て上げた。突然の倒産は社長就任から50年の節目の年に起きた。

林原健著『林原家』(日経BP社刊)

林原健著『林原家』(日経BP社刊)

隣県・広島出身の私が「岡山の企業といえば」として思いつくのは<御三家>といわれた天満屋、ベネッセとこの林原だ。デパートの天満屋は広島店に、ベネッセは旧社名の福武書店に知人がいたこともある。林原のほうは抗がん剤として使われるインターフェロンや甘味料トレハロースなどの<本業>よりもモンゴルでの恐竜化石発掘で多くの成果を挙げた林原自然科学博物館や林原美術館など文化・芸術活動を支援する旺盛な「メセナ事業」で知っていた。突然の倒産と書いたのはこうしたメセナ事業も社業の順調な発展があればこそ、と思っていたから林原倒産を新聞記事で知って意外だった。

会社勤めをしていた頃「サラリーマンたるものビジネス書を愛読すべし」と、ことある毎に声高に話す同僚がいた。彼は「それも成功者や、いい成績をあげたトップセールスマンの!」と付け加えるのを忘れなかった。それからするとこの本は「敗軍の将が敗因を語る」わけで間違いなく<論外>ということになるが、古書店の均一棚で見つけた時には副題の「同族経営への警鐘」や倒産に至る経緯などではなく、変わった題名と「棺桶の中まで持って行くつもりだったという真実」とは何かにがぜん興味が湧いた。

「経営破綻の真相」ではメイン銀行だった中国銀行からの電話から始まる経営破綻の発覚、粉飾決算、会社更生法の適用申請、経理部の聖域化などが外部調査委員会の報告書を引いて細かく紹介される。初めて<呼びつけられた>中国銀行の副頭取からは林原が何期にもわたってもう一つのメイン銀行、住友信託にそれぞれ異なる決算書を提出していたこと。実質的には債務超過状態が続いており、それをひた隠すために数字を粉飾していたことが伝えられる。社長の林原はその時まで会社の実態を一切聞かされていなかったという。「社長なのにうそでしょ」と言いたいところだが、企業統治以前に「どうせ林原家の会社だ。どんな経営をしていても自由だ」ということで非上場会社であるのをいいことに役員会は一度も開かれず、名目上の監査役はいるものの会計監査人も置いていなかった等々、常識では考えられないことだらけ。その挙句の倒産という結果がすでに出ているのだからいまさら触れないでおく。

江戸時代、美濃池田家に仕えていた林原家は関が原の戦いの戦功で姫路藩主となった池田公とともに姫路に、さらに鳥取藩への転封に従った。しかし42万石から32万石への石高減少で家臣を養えなくなった。林原家の先祖は藩公の窮状を見て士族を捨てることを申し出て米を取り扱う御用商人になった。1632年(寛永9年)池田公が岡山藩主に転封されると岡山に移り商売を続けた。いまふうにいえばリストラを言われないうちに真っ先に手を挙げたようなものか。当時の階級社会では懲罰としての士分剥奪はあっても自ら進んで武士から商人になることなどまずなかったが、士分を捨てても忠義を果たすことこそ武士の本懐と考えたのだろう。それだけに林原家は武士であったという<誇りと精神性>を現代にまで持ち続け「長幼の序」を重んじた武家社会そのままに長男には絶対的な強さが与えられ弟たちには長男への絶対的な忠誠が求められてきたこと。会社経理は弟の専務や経理部に任せきりの<放任>だったことなどが「林原家の宿痾(しゅくあ)」で明かされる。

明治維新を経て1883年(明治16年)祖父の克太郎が林原商店を創業し、米や芋を原料にした水飴の製造を始める。会社を急成長させたのは健の父で3代目を継いだ一郎だった。大阪商科大学(現大阪市立大学)を卒業すると京都帝国大学(現京都大学)の工業化学教室で飴の製造方法を研究した一郎は事業者と研究者の両面の能力に秀でていた。岡山に戻った一郎は積極的に設備投資をするが原料の高騰や排出される亜硫酸ガスに対する周辺住民の反対運動も起き、あえなく資金繰りが行き詰った。仕方なく林原商店を整理して旧満州に渡るが、再び岡山に戻ると画期的な量産技術を確立し「太陽印水飴」という商標で中国にも販路を拡大した。しかし売上の拡大をもくろんだ材料澱粉の先物取引で再び債務超過となり、倒産状態に陥った。さらに岡山はB29の空襲で一夜にして焼け野原になる。林原も工場を焼失したが、陸軍に納入予定の原料が空襲の翌日に入荷し倉庫に眠っていた。終戦後、一郎は財産すべてを工場再建につぎ込み、終戦5ヶ月目の46年1月に試運転を始める。これが吉と出た。当時は砂糖不足で、国民は甘さに飢えており、水飴は米に次ぐ貴重品だったから多くの「飴成金」が誕生した。群を抜いたのが林原で、年一度の澱粉買い付けは相場を左右すると言われた。

一郎は世の成金が豪邸の新築や遊興などに費消したのに対して、余裕のある財産は不動産、証券、古美術に投資することで完全な利殖の道を講じていった。岡山駅前にあった住友通信工業の工場跡地約5万平方メートルをはじめ「岡山で売り地が出るとことごとく買った」といわれるほど不動産投資に傾注した。対象は神戸、大阪、京都、東京などの一等地にも広がり、計20万坪(約66万㎡)にも及んだことでグループは「林原財閥」、「林原コンツェルン」、一郎は関東での巨大西武グループをつくり上げた企業家と並んで「西の堤康次郎」と呼ばれた。なかでも骨董や美術品には情熱を注ぎ、古物商から多くを買い取った。利殖目的とは別に購入したものもある。収蔵庫が空襲被害から奇跡的に免れた池田家所蔵の美術品や膨大な日記類などは希望を上回る金額を出した。トラック数台分にも上る藩公伝来の遺産はいずれも歴史資料としての価値が高く、将来的には岡山県に寄贈する予定だったがしかし資産目的の土地買収と同一視されたことで、こうした地域貢献さえも地元の評価は毀誉褒貶が相半ばしたことは否めない。1959年、一郎はついに新しいぶどう糖生産技術を確立し、岡山、大阪、東京で同時記者会見を開く。新聞紙上に「林原、酵素糖化法を確立」という大活字が躍り、事業家人生がさらなる高みに登りかけたその時、一郎は急死する。病名はスキルス胃がん、発見から死までわずか2カ月、享年52だった。

後を<いやいや継いだ>健社長の「それからの50年」については触れないでおくと書いたが独自研究に力点を置く経営手法は80年代に量産技術を確立したインターフェロン、90年代のトレハロースなどの成功によって林原をバイオ企業に変身させた。「成功体験とその秘訣」としてあげるのは

1.  大企業がやらない研究テーマを選ぶ
2.  社長が研究テーマを独断で決める
3.  予算に上限を設けず、成功するまで研究する

そして「神は現場に宿る」といって社内の工場を毎日のように歩く社長がいる。それも立派な経営スタイルだろうが私は違う。想像力をかき立てようと思うなら、現場を歩くだけでは無理だ。異分野の識者と話す機会、その咀嚼に時間を費やさなければならない。イノベーティブな会社をつくろうと思ったら、経営者が会社にいる時間は少しでいい。私が会社にいる時間は午前11時半から午後2時半までの3時間と決めていた。青天井の研究費についても持論を展開する。不動産に裏付けられた資金力があり、およそ10年ごとに大きなヒット商品が生まれたことで、管理体制を改めなくても会社は回った。上から締め付けるよりも個々の研究員の自主性を重んじる方が想像性を発揮しやすいのだと。経営破綻したことで、それまでメセナ事業のことを評価していたメディアが「メセナは社長の道楽で、それが破綻を招いた大きな要因」と手のひらを返して批判したことに対しても、投じた金額は年数億程度で会社に悪影響を及ぼす額ではないし、林原が発展していく上ではマイナスよりもプラスになった面がはるかに多いはずだと譲らない。たしかに結果的には林原家が私財を提供することで債務弁済率は93%に達し、社員の雇用も守られた。長瀬産業がスポンサーになってからも林原の社名はそのまま残った。

では、私の関心があった林原自然科学博物館のその後はどうなったのかと検索してみたら、奇しくも2016年3月吉日の「お知らせ」が掲載されていた。発掘標本のモンゴルへの完全返却、その他の化石や研究事業は岡山理科大や国内の博物館などに移管が完了して組織を解散したという内容だった。「あとがき」には、曾祖父が林原商店を創業して祖父に継ぎ、父の林原一郎が発展させ、そして私が会社を倒産させたという林原4代の企業物語にも、大きな時間軸で眺めれば、何らかの意味があったのだと信じたい。もっとも一財産を築いてくれた父には、いつか会うであろうあの世でこっぴどく叱られそうだが、その時はその時だ、と綴る。表紙の写真だけでなく、会社更生法の申請と辞任を発表した謝罪会見の写真を共同通信から入手してまで掲載したのは著者にしてもこの本は自身に贈る<葬送譜>だったのだろうか。

あと読みじゃんけん(7)渡海 壮 血族の王

  • 2016年3月25日 19:21

岩瀬達哉の『血族の王』(新潮社)には「松下幸之助とナショナルの世紀」という副題がついている。妻と始めた大阪の町工場を事業拡大への飽くなき執念で世界企業に育て上げ、従業員38万人の一大家電大国へと成長させた松下幸之助。激動の時代を背景に数々の神話に彩られた「経営の神様」を、徹底した取材と新資料で描き直すことで血族の王たらんとした<もうひとつの顔>が見えてくる。

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬達哉著『血族の王』(新潮社刊)

岩瀬は創業者の幸之助から七代目の松下電器社長となった大坪文雄が創業90周年を迎えた平成20年(2008)に和歌山市禰宜(ねぎ)にある「生誕の碑」へ参拝するシーンから書き始める。鈍い青色の緑泥片岩に彫られた文字は母方の祖父が紀州藩の元藩士で和歌山に縁のあるノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹博士が揮毫している。

蝉の声がいちだんと激しさを増したころ、目の前を一台のセンチュリーが音もなく滑り込んできて、バックで切り返すと、墓所と生誕碑のあいだの小道にぴたりと停車した。8月5日午前8時55分のことである、とあるから取材中に偶然目撃したのだろう。

このわずか2カ月後の10月1日、大坪は社名をパナソニックに変更し、誰もが親しんだナショナルというブランド名を廃止して社名とブランドの統一を果たした。さらに2カ月後の12月19日には、パナソニックの初代社長として三洋電機の完全子会社化に向けた資本・業務提携の締結を発表する。三洋電機は幸之助の仕事を長年手伝ってきた義弟の井植歳男が戦後間もなく創業した。幸之助の妻、むめのが淡路島の尋常小学校を卒業したばかりの弟を呼んで町工場時代から苦労を共にしてきた。お互いが離れたとはいえ<血族の企業>という因縁があった。「墓参はその交渉経緯を報告することで大坪は精神的な後ろ盾を求めたのかもしれない」と。

同じ和歌山市に生まれた岩瀬は幼いころから松下幸之助がいかに柔軟な思考と斬新な発想の持ち主であったかをよく聞かされて育った。周囲の大人たちが語る幸之助のエピソードの数々は「二股ソケットは、下着のステテコを見て思いついた」など少なからず脚色されて面白おかしく仕立てられたものが多い。しかも「遠い歴史上の人物」であると思い込んでいたが連載執筆の話があったときに迷わず選んだのは松下幸之助で「正伝を執筆する予感」さえあったという。幸之助には『私の行き方 考え方』『経営回想録』をはじめ社史など多くの出版物がある。それ以外の資料を独力で渉猟し役員OBや元幹部社員などの証言者を探し出すことで限りなく実像に迫ろうとした。取材と執筆の旅は実に7年がかりとなった。

松下家のルーツは苗字帯刀を許された地主階級に属し、祖父の代までは隆盛を極めていた。しかし父、政楠(まさくす)は祖父の死後、本業の農業は小作人任せにして養蚕、村会議員活動に熱中、挙句の果ては米相場の失敗で先祖伝来の田畑、家屋敷を失ってしまう。一家は、大八車2台に家財道具を積むと和歌山市内に引っ越し下駄屋を開業するが2年ほどで閉店に追い込まれた。政楠が相場から足を洗えなかったことにもあった。明治37年(1904)11月23日、尋常小学校を4年で中退した9歳の幸之助も<荷物は着替えのシャツなどを入れたふろしき包みたった一つの着の身着のままの姿>で和歌山から大阪に向かった。日露戦争の勃発で世相は暗く、旅順総攻撃は連日のように苦戦が伝えられていた。親元を離れて奉公したのは大阪の繁華街・千日前に近い八幡筋の宮田火鉢店だった。ところがわずか3カ月目に店が廃業することになったため、店主の紹介で当時は新しい商売だった自転車店の小僧になる。おもに英国製自転車を扱う店として創業した五代自転車商会は、幸之助が奉公に来て二カ月後、船場堺筋淡路町から内久宝寺町に移転した。この店で幸吉と呼ばれて6年間、一人前の商人になるための修行に励んだ。

幸之助は常に「ぼくが今日あるのは、やはりこの店でご主人と奥さんから実に親身で、またきびしい指導を受けて、知らず知らずのうちにも商売の道というものを体得することができた、そのおかげである面が大きい」と懐かしんでいる。奉公していた五代自転車商会には関西地区の自転車選手がよく顔を出した。一時は選手になりたかった幸之助は、仕事前の早朝練習を重ねて競争会と呼ばれたレースに出場するようになると賞品を稼ぐまでになった。幸之助は父の死などの寂しさを埋めるように自転車に熱中するが堺の競争会でゴール前に落車、鎖骨を折る大けがで一時は人事不省となり、主人から以後の出場を禁じられてしまう。おりから番頭と小僧の中間で、商売がうまかった手代が店の商品を他所に売り、代金を使い込むという事件が明るみに出て、それを主人が訓戒だけで済まそうとしたのが許せず店を飛び出すことになる。

その後はセメント会社の臨時運搬工、大阪電灯の内線工を経て、北区大開町でアタッチメントプラグの製造を始めた。むめのとの結婚後は猪飼野に2畳と4畳半2間の平屋を借り、大阪電灯時代の同僚二人が加わった。これがすべての躍進の始まりになるところだったが登録実用新案が認められた「松下式ソケット」はようやく完成には漕ぎつけたものの大阪の街をかけずり回っても百個ほどしか売れず、用意した資金も底をついた。給料も払えず、社員も去っていってしまったから歳男の呼び寄せは苦肉の策でもあった。初めて「ナショナル」の商標をつけた自転車用角型ランプ、ラジオ・セット(受信機)が売れ行きを伸ばして日本全国に販売店網ができていく。なかには電球のように技術力や品質が及ばない二流品を<情>で引き受けた販売店の苦労もあって「一大コンツェルン」を築いていく。

戦中から戦後へ、松下電器グループはGHQにより財閥に指定され、一族には「財閥家族の指定」がなされた。巻末には参考資料として6ページにわたり財産目録などがある。苦境打開を目指して経済研究所のPHP研究所を立ち上げて間もなく幸之助自身が公職追放となり、奈落の底に突き落とされてしまう。そこからの再出発はまさに「明るい光あればさらに暗い陰あり」ではあるまいか。「義兄弟の違う道」で井植の独立を、「崩れゆく王国」では社史に汚点を残した中国への密貿易事件を取り上げる。「経営の神様」といわれた幸之助神話が光であるとすれば、晩年の幸之助は経営を松下家にとって盤石なものにするための焦りが陰となって付きまとった。多くのビジネスプランが反故にされ、人事抗争が渦巻いた裏面史も語られる。終章「ふたつの家族」では幸之助と井植の<もうひとつの家族>にもふれられている。こちらも間違いなく名経営者が秘かに大切にした<血族>であろう。

*岩瀬達哉『血族の王―松下幸之助とナショナルの世紀』(新潮文庫、2014)

あと読みじゃんけん(6)渡海 壮 人は死ねばゴミになる

  • 2016年3月16日 12:44

「ミスター検察」と呼ばれた元検事総長・伊藤栄樹(しげき)のがん闘病記『人は死ねばゴミになる』(新潮社)は昭和63年(1988)6月に発行された途端に大きな話題となった。なかには「死ねばゴミになるとは何事か」と題名に批判の矛先を向けた人たちも多かったが販売半年間ながらこの年のベストセラー10位に食い込んだ。これは話題本を読むのをなによりの楽しみにしていた父の蔵書の一冊である。8月20日発行ですでに11刷。地方住いだったのでなじみの書店に注文はしたものの<増刷待ち>だったのかもしれない。

伊藤栄樹著『人は死ねばゴミになる』(新潮社刊)

伊藤栄樹著『人は死ねばゴミになる』(新潮社刊)

3か月前から書き始めた『あと読みじゃんけん』の6回目をどうしようかと考えていたら、前回取り上げた宮崎学の『突破者』と同じ「事件・犯罪・その他」の棚にこの本があった。分類からいうと事件関連本も、それを裁く裁判官、検事に対する弁護士なども、法医学、犯罪心理学関係も同じ棚に置いている。しかも新刊から古書まで混在しているけれどあくまで自分流だから<これでいいのだ!>である。

検事総長就任のインタビューで伊藤は「特捜検察の使命は<巨悪退治>です。巨悪と闘う武器は法律であって検察官たるもの<遠山の金さん>のような素朴な正義感を持たなければなりません」と語ったことから「巨悪を眠らせるな」が時の流行語になった。伊藤は十年来、年中行事にしていた6月の人間ドックは多忙のためこの年は1か月遅れになったが、レントゲン検査、エコー(超音波)検査などは異常なしだった。ところが10日後に右下腹部の痛みがひどいので別の病院に入院し「虫垂炎の疑い」で昭和62年(1987)7月に開腹手術を受けた。点滴、流動食、五分粥と順調に回復し、東京高裁で田中角栄元総理を含むロッキード事件丸紅ルートの控訴審判決の出た同月29日の水曜日には病院から最高検察庁(最高検)にある検事総長室に登庁した。

共同記者会見を終えて病院に戻ったその夜、主治医の部長から小腸末端から大腸にかけての回盲部にがんが見つかり組織培養の結果でもすでにリンパ腺と腹膜に転移があることが判明したという告知を受けた。さらに「それはともかく、今回の手術に関しては、もう治っていますので、いつでも退院してがんに対する手当を続けることにして下さい」と淡々と告げられた。このような場面に平素は冷静なつもりの伊藤も、さすがに部長の姿が一瞬遠くなったり、近くなったりするのを禁じ得なかった。翌日、退院前に再び部長に会い、「最良の場合、何年位生きられるでしょうか。私は楽天家なので、それを目標にがんばりたいと思いますが」と尋ねたが「個人差が大きいので、何ともいえませんが最善を尽くしますからがんばってください」という答えしか返ってこなかった。

がんであることは、余計な心配をかけ、波風を立てたくないのでごく限られた人たち以外には内緒にしておくことにして人生設計をやりなおすことにした。確たる根拠はないが、若干の欲目を加えて、昭和63年5月頃まではいのちがあるものと<盲断する>ことにし、検察人事の立案にあたる法務事務次官にも早期勇退を申し入れた。妻の康子を「康ベエ」と呼んで来たが、いちばんの難問は死後、残された妻である。退職金をつぎ込んでやっと払える計算となる終の住処も間もなく完成するがここ一年ばかりの間に地価の上昇は著しく、ある程度の相続税を納めるとなるとそんなお金はどこにもない。昭和24年以来、検事として、馬車馬のように仕事ばかりに打ち込んできた。仕事の忙しさにかまけて40年間、ほとんどほったらかしにされて、さびしい思いをしてきた康ベエだったが、毎日いつも自分の隣に夫の顔がある生活は、あこがれの的だったと思う。それもだめになってしまった。それでも「あなたといのちを取り替えたい」という声がはらわたにしみとおる。

小康を得て役所に出るようになり、最高裁判事の葬儀では検事総長として、また大学、軍隊、司法修習を共にした友人として弔辞を読むが万感胸に迫る。手術前から大相撲の親方、横綱らと約束していたゴルフ、康ベエの誕生日に思い立って出かけた箱根プリンスホテルへの一泊ドライブは、紅葉の季節にまた一泊するつもりで予約を入れた。ところが10月6日には胃が痛むので翌日、入院して検査を受ける。結果はがん再発。心配された腹水がたまり始めているので早急に入院することになる。一日だけ点滴を止めてもらいこっそりと検事総長室へ。もう来られない場合を考えて机やロッカー、本棚の中の整理。これまで一度も職場を見たことのない妻と娘も同道、最後に一度だけ「職場」を見せかたがた手伝わせる。帰途、家に寄り、書斎の机の引き出しなどの整理。本箱、書庫の本のたぐいの整理方針は娘に言い置く。午後、病室へ戻る。康ベエが洗面所にブランドものの男性用の石鹸を置いてくれている。毎朝の洗顔と風呂・シャワーに使うことになるが、随分大きいので、多分死ぬまでこいつと付き合うことになるのではないか、わが人生最後の石鹸になるのではないかと思い妙な気持ちになる。そんなことをとりとめなく考えているうち、ぼつぼつ一番大事なことに決着を付けておかなければならないと思い至った。つまり、私自身、間もなく間違いなくやってくる自分の死をどのように納得するかということである。前回の退院前の「告知」以来、おぼろげに考えていたことをベッドのそばに座ってくれている妻を相手に整理する。

僕の家も多くの日本の家と同じように檀那寺を持ってはいる。しかし、仏教という宗教を信じているわけではない。僕は、神とか仏とか自分を超えたところに存在するものにすがって心のなぐさめを得ようという気持ちには、とうていなれそうにない。それに、四十年も、冷静、客観的に証拠を科学的に追い求め、そこから過去にあった事実を再現、認定する仕事を続けてきたせいだろう、僕の頭は、生命科学などといった分野のことは暗いながら、科学的、合理的な思考の方が受け入れやすくなっている。

僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになってしまうのだと思う。死の向こうに死者の世界とか霊界といったようなものはないと思う。死んでしまったら、当人は、全くのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろうよ。

死んでいく当人は、ゴミに帰するだけだなどとのんきなことをいえるのだが、生きてこの世に残る人たちの立場は、全く別である。僕だって、身近な人、親しい人が亡くなれば、ほんとうに悲しく、心から冥福を祈らずにはいられない。それは生きている人間としての当然の心情である。死んでいく者としても、残る人たちのこの心情を思い、生きている間にできるかぎりこれにこたえるよう心しなくてはなるまい。

康ベエには大いに不満の残る私の独り言であったろう。でも、涙を浮かべながらも、じっと逆らわずに聞いてくれていた。「ごめん」

伊藤がいかにして「がん告知」とその先にある死を受け入れたか、という題名にかかわる部分をくわしく引いた。

その後、病状は一進一退を繰り返す。10月30日、妻が、家の蔦(つた)がこんなにきれいに紅葉したといってニ、三枚持ってきてくれたのに触発されて、駄句二つ、として

腸腐る病に伏して蔦紅葉
点滴具連れて歩めばそぞろ寒

鼻から挿入したチューブで看護婦さんたちに腹水やガスを抜いてもらうのを

空也忌に鼻からはらわた抜いている

空也忌は11月13日である。体調に小康を得て

小春空もすこし生きていたくなる

再手術で人工肛門を取りつけたが順調に回復して年越し。元旦に行われる宮中の新年祝賀の儀には不参せざるを得なかったが一句を

病室の窓明けゆくや去年今年

突貫工事で進められた自宅も完成して何度か宿泊することもでき、1月には仕事にも復帰して3月に退官した。共同記者会見や何日かかけて関係各所への挨拶を済ませ、皇居にて退官御挨拶の記帳のあと、東宮御所で皇太子殿下に御挨拶、首相官邸で竹下総理に挨拶。翌日は最高裁長官と日本弁護士会会長に挨拶してすべての公式行事を終えた。

本書は『新潮45』に「人は死ねばゴミになる―私の発病から死まで(上)(中)」と発表されたものに、体力が落ちて家族に引き継がれた5月3日から死に至るまでの同じく『新潮45』の(下)を「付録」として挟んだ体裁になっている。

5月25日、盲腸がんとがん性腹膜炎のため永眠。63歳であった。

*伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる』(小学館文庫、1998)

あと読みじゃんけん(5)渡海 壮 突破者

  • 2016年3月10日 23:19

関西でいうところの「とっぱ」は「突破」と書き、無茶者、突っ張り者を指す。<作家の看板をあげたアウトロー>を標榜する宮崎学が一躍、世間に知られる存在になったのが1976年(昭和51年)10月に出した『突破者』である。東京新宿の小版元、南風社の出版で、広告宣伝もしなかったにもかかわらず翌年夏までに15万部を売り上げて話題になった。ユニークな表紙を手がけた五味太郎は工業デザイナーを経て絵本作家になったが「熱烈な阪神タイガースファン」というのが意外な共通点らしい。

宮崎学著『突破者』(南風社)

宮崎学著『突破者』(南風社)

宮崎は敗戦の混乱さなかの1945年(昭和20年)に京都市伏見区に4人兄弟の末っ子として生まれた。父親は京都の伏見一帯を縄張りにしていたヤクザ組織、初代寺村組の組長。高校時代に共産党党員になり早稲田大学入学後は共産党系組織のゲバルト隊長として東大闘争などで派手な武闘を繰り返した。『週刊現代』の記者として活躍した後、家業の解体業を継ぎ、建て直しのために無茶のかぎりを尽すが企業恐喝容疑などで逮捕・検挙されること数度、銀行筋からの信用を失い家業を倒産させた。上京後はバブル地上げの象徴といわれた神田神保町の東洋キネマを手がけた。グリコ・森永事件では犯人の「キツネ目の男」の容疑者として<重要参考人扱い>されたこともある。まさか怒鳴り込まれたりする心配はないだろうがプロフィールは宮崎と新右翼のリーダーで政治団体「一水会」代表の鈴木邦男との対談集『突破者の本音―残滓の思想』(青谷舎)から引いたことを書き添えておく。

『突破者』の副題は「戦後史の影を駆け抜けた五〇年」で、第一部1945~1975と第二部1975~1996に分かれている。冒頭の「マイ・ファミリー」で京都府南部の貧農の次男坊だった父親は10代初めに京都に出て鳶職になり土建屋・解体屋の寺村組の親方になった。鳶や土方を数十人抱える一方、博徒でヤクザの親分でもあったが終生、読み書きはできなかった。母親も和歌山県の貧農の出の父親が大阪でヤクザ渡世を送っていたため釜ヶ崎周辺のスラムで生まれ育った。幼少の頃から当時のスラムの花形産業だったマッチづくりの仕事に追われ、小学校にも満足に通えなかった。親の目を盗んでときどき学校に行き、窓の外から同級生の授業を聞いていたものの読み書きは独学で身につけたという。

その親父に絶えずつき添って組と会社の裏方を支えていたのはおふくろだった。145センチあるかないかの小女で目の吊り上がったきつい顔をしていた。極端なほどに無口であったが、大変な働き者で、朝の4時に起きだして鳶や土方の朝飯の支度をし、工事現場にも出る。現場では土方連中と一緒にモッコを担いだ。夜の食事の後片付けが終わるのが午後9時頃、その後も鳶たちの衣服の繕いなどで、寝るのはいつも午前様だった。これは何も私のおふくろに限ったことではなく、当時の女たちは似たようなものではなかったかと思う。土建屋の親方としては、親父はなかなかの仕事師だった。解体屋というのは文字通り建築物を解体する生業で、関西では「こぼち屋」と蔑称されていた。元手要らずの裸一貫で始められる業種だけに昔は荒くれ者が集まっていた。ニッカーボッカーに革靴、足にはゲートルといういでたちであちこちを飛び回っていた親父は、夜は賭場か女のところに出かけ家を空けるのもしょっちゅうだった。そんな親父を<掌の上で踊らせている>というグレート・マザーのような面がおふくろにも多分にあったような気がする。

これが著者の両親についての回顧であり分析でもある。敗戦直後の京都でヤクザの組長の子として生まれたという出自がある意味生き生きと詳しく語られる。

回りにいたのは鬼のような顔をした荒くれ者ばかり、物心つく頃からそんな極道たちとの原始共産制のごとき猥雑で濃密な共同生活が始まったが福井大地震の復旧工事でしこたま儲けたこともあって自宅にはさまざまな人物が訪ねてきた。「永田ラッパ」と呼ばれた大映映画社長の永田雅一も麻雀をやりにしょっちゅう黒塗りの大型車で乗り付けた。京都生まれで日活撮影所の「見学者案内係」を振り出しに映画界に入った永田は、ラッパの所以となったハッタリ半分の弁舌と天才的なプロデュースの才を駆使して大映を興した映画界の風雲児である。「わしは映画人じゃない。最後の活動屋じゃよ。活動屋というやつは根っから映画に惚れとる」が口癖で、当時の活動屋のユニフォームであったニッカーボッカーに高級な背広を粋に着こなし、親父を「兄弟」と呼んでいた。極道たちの花札とは違い麻雀は子ども心には知的な遊びに思え、永田の膝に抱かれながら見物するとオーデコロンのような芳香が漂った。それは私が初めて体験した<東京の匂い>だった。

「少年鉄砲玉」、「喧嘩と資本論」、「都の西北とインター」、「秘密ゲバルト部隊」、「突撃記者の群れ」と、どの見出しをとってもそれぞれにドキュメント映画が何本もできそうだ。映画関連といえば永田との縁で引き受けた撮影所の解体工事でのぼろ儲けなどがあるが、そうそううまくいくわけもなかった。第二部の「掟破りの日々」、「金地獄に踊る」、「ゼネコン恐喝」では家業が倒産、債権者のヤクザに追われる日々となる。グリコ・森永事件で犯人の「キツネ目の男」の容疑者として<重要参考人扱い>されたことについて『突破者の本音』の鈴木によれば「容疑者だと自分からマスコミに売り込んだ」とある。ところが宮崎はその経緯を40ページにもわたって紹介し、犯人グループについて「なるほど」と思わせる独自の推理を展開してみせる。バブルの絶頂期にかかわった東洋キネマの地上げなどは「野郎どもとバブル」で、多くのバブル紳士や銀行とのやり取りが生々しく描かれる。宮崎はそもそも膨大な不良債権は、政官界の中枢と裏社会が結びついたプロフェッショナルで危険な方程式を安易に用いた当然の帰結であってハイリスク・ハイリターンに賭けたバブル紳士たち「脇役」は相応の傷を受けた。にもかかわらず「主役」の銀行や官僚や企業のほとんどは居座ったままで、窮地に落ち込んだ銀行や住専は自業自得なのに政府による救済が既定路線化されたのはおかしい。だれも責任を負わず、責任主体さえ定かでない戦後の無責任体制はここに至って、ついに完成を見たと主張する。

笑止千万な譬えであるが、と前置きした終章で宮崎はこの本は私の『風とともに去りぬ』なのであると書く。スカーレットやレッド・バトラー的人物は一切登場するはずもなく、顔を出すのはただならぬ形相をした男ばかり、このスマートでデオドラントな時代と折り合いをつけられない男たち。彼らと彼らがいた風景は私にとっては滅びゆきつつある哀切な「南部」であると。

一見穏やかで太平なこの社会ではあるが、その薄皮一枚下はたえず風が吹き、波が立っている。情報や金融の国際化、ボーダレス化などによって、われわれは近代国家、さらには近代主義の枠組みが崩れてゆく大きな歴史的局面に立ち合っている。東アジアだけでなく世界の転換期の混沌の現場に「荒くれの突破者ども」とともにこの身を置いてみたいという夢、それは歴史の過渡期の徒花(あだばな)にすぎず、世界の新たな再編の完了とともに窒息させられてゆく運命にあるとしても、束の間の光芒を放つのではないか。成り行きまかせの無茶な50年ではあったが、半面なかなか賑やかで悪くない年月であったと思う。難儀な面はあったが、その見返りとして人間に出会うことはできた。善も悪も含めて、やはり人間は面白いものである。たかが短い人生、人とのかかわりのなかで、瞬間瞬間の充足や感動を求めて生きるのも、これまた人生だろう。所詮は突破者、これからも、自分なりの花道を突破し続けてゆきたいと思う。

*『突破者―戦後史の影を駆け抜けた五〇年』宮崎学、幻冬舎アウトロー文庫( 上・下)

あと読みじゃんけん(4)渡海 壮 天才

  • 2016年2月25日 14:55

新聞に「下4段ブチ抜き」の広告が先日来、何回か掲載された。深刻な出版不況といわれるなかでは極めて珍しい。石原慎太郎『天才』(幻冬舎)は書籍広告には付きモノの「迫真の(か、どうかは別にして)ノンフィクションノベル」だという。「反田中の急先鋒だった著者が、今なぜ<田中角栄>に惹かれるのか」「人間は情と金で動く」の大活字が躍る。それにしても石原慎太郎がなぜ、しかも、あの<角さん>を!がぜん興味が湧いた。

石原慎太郎著『天才』(幻冬舎)

石原慎太郎著『天才』(幻冬舎)

書店にはこの『天才』とSTAP騒動で話題となった小保方晴子の手記『あの日』(講談社)が店頭の目立つ場所に競うように並べられていた。真っ白い表紙の小保方の手記の帯には「真実を否めたのは誰だ?STAP騒動の真相、生命科学界の内幕、業火に焼かれる人間の内面を綴った衝撃の手記」とある。『天才』よりわずか8日遅れの1月28日の発売だが、ともに「4刷」と肩を並べている。もちろん迷わず『天才』を購入したがカバーには文藝春秋が撮影した鏡を見ながら目を細めて裁ちバサミで鼻髭を整える田中の写真が大きく使われている。「石原慎太郎が田中角栄に成り代わって書いた衝撃の霊言!」と帯にある。

「それにしても、なぜ」が気になる方には16ページにわたる「長い後書き」から読むことをお薦めする。「世間は今更こんなものを書いて世に出すことを政治的な背信と唱えるかもしれぬが、政治を離れた今でこそ、政治にかかわった者としての責任でこれを記した。それはヘーゲルがいったように人間にとって何よりもの現実である歴史に対する私の責任の履行に他ならない」から始まる。「人間の人生を形づくるものは何といっても他者との出会いに他ならないと思う」という著者は、政界を共にした多くの政治家を挙げながら、「田中角栄ほどの<異形な存在感>などありはしなかった。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい」と、自身と田中との運命的ともいえる出会いを書いている。対して、田中の石原評は「あいつはもともと物書きだからな、仕事として書くのは当たり前だろうよ。第一、俺はあいつに金なんぞ一文もくれてやったことはないからな」だったそうで「私としては角さんの金権の相伴に与ったことが全くなかったことにつくづく感謝したものだったが」と書き添える。

私、渡海の耳に残る田中が自身をさす一人称は「わたしゃあねえ!」という「わたし」と「あたし」の中間のあのしわがれた肉声である。いや私だけでなく<国民的記憶>のはずである。全編を貫くことになるのだから当然ながら著者も思案を重ねたろうが「成り代わって」書かれた本文は「俺はいつか必ず故郷から東京に出てこの身を立てるつもりでいた。生まれた故郷が嫌いという訳でも、家が貧しかったからという訳でも決してない。いやむしろ故郷にはいろいろな愛着があった」と「俺」で始まる。

博労(ばくろう)だった父親は、ともかく馬好きの道楽者。極みは北海道月寒(つきさむ)に大牧場を持つのが夢で、手持ちの山林を売り払いオランダから乳牛ホルスタイン3頭の輸入を企てる。米が1俵6、7円の頃、1頭が1万5千円もしたのに新潟まで運ばれてくる途中、暑さと疲労のため2頭が死に、かろうじて生き残った1頭も間もなく死んで、家はそれから傾いたが道楽もそれで止むことはなく、持馬が競馬に出るのに付き添って年中家をあけた。挙句、親戚の裕福な材木屋からの借金を父に代わって借りに行った俺は「お前の親父も金の算段の後先も考えずに駄目な男だなあ」と言われ、金の貸し借りというものが人間の運命を変えるだけではなく、人間の値打ちまで決めかねないと悟らせられたこと。幼少の頃からのドモリを克服するきっかけになった学芸会で『勧進帳』の弁慶を演じて満場の大喝采を浴びたのは、劇に伴奏音楽をつけて芝居の展開がリズムに乗るようにし口上をしゃべりやすくしたことで事前の仕掛けや根回しが必要なことを学んだ。後年、上京する時、母親から「大酒は飲むな。馬は持つな。出来もしないことはいうな」と諭された俺はこれを終生忘れなかった。

高等小学校を卒業した俺の最初の仕事は土方で毎日朝から夕方までトロッコを押して1日75銭、ひと月20円足らずだったのに腹が立ちやめてしまった。それが親戚にすすめられて応募した柏崎の県土木派遣所の職員として工事現場の監督になった途端、村の業者とはそれまでの立場が逆転し平身低頭されたことで世の中の<仕組み>を学んだ。軍隊での酒保担当では賄賂の効用という別の人間関係を学び、隠れて勉強した早稲田大学の建築に関する専門講義録が除隊後に始めた建築設計や工事請負などの仕事に役立った。戦時中は田中土建工業を年間施工実績で全国50社に発展させ、戦後は「若き血の叫び」を掲げて2回目の挑戦で俺は晴れて代議士になった。

54歳で総理大臣に登りつめる政治家としての立身出世ぶりは詳しく語られる。造船疑獄、日本列島改造論をぶち上げた真の狙い、角福戦争の内幕、日米繊維交渉と沖縄返還、なかでも1972年(昭和47年)の日中国交正常化で毛沢東と会った際に毛主席が挙げた四つの敵がソ連、アメリカ、ヨーロッパに次いで中国だったことは、後の文化大革命を引き起こす伏線だったと明かす。そして金脈問題からロッキード事件に始まる長い裁判と「闇将軍」と言われた日々、脳梗塞との闘病のあとの政界引退・・・。

「俺」のプライバシーも余さず語られる。若いころから部類の洋画好きだったこと。結婚のいきさつと5歳で夭折した長男や娘の眞紀子のこと。後年、秘書として切っても切れない仲になる佐藤昭(昭子)との出会い。神楽坂で知り合って結ばれ三人の子をもうけた辻和子。それぞれの家族との確執や胸に刺さる出来事のいろいろ・・・。75歳だった1993年(平成5年)12月15日、瀕死の容態を伝え聞いた辻からの電話を看護婦が取り次いでくれ、終えたあと昔見たアメリカの恋愛映画『裏街』の最後のシーンを思い出す。翌日の午後、かけつけた家族の呼びかけに応えてただ「眠いな」と答え、そのままもっと深く永い眠りに落ち込んでいった。

さまざまに「俺」の口から語られる「人を動かす極意」の究極にあった先見性に満ちた発想の正確さは石原の評する独特の文明史観をさえ持っていたことを裏付ける。唯一「俺」が語らなかったのは<自身が天才である>ということ。その「金権主義」を政治の場で最初に批判し、真っ向から弓を引いた政治家・石原慎太郎が、作家として田中角栄に成り代わって書いた本作は話題性も含めて歴史に残るはずで、皮肉な言い方をすれば執筆・題名を考えた作家・石原慎太郎もまた間違いなく<天才>なのではあるまいか。