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あと読みじゃんけん (17)  渡海 壮  熔ける

  • 2017年11月16日 16:21

井川意高著『熔ける』(双葉社刊)は帯にあるように「カジノで106億8千万円を失った男の懺悔録」である。

ティッシュペーパーなど<エリエール>ブランドやこの名を冠した女子プロゴルフの大会スポンサーで知られる大王製紙の前会長、名前は「もとたか」と読む。カジノで使う資金を子会社から借り入れた会社法違反(=特別背任)により最高裁で懲役4年の実刑が確定、昨年末に仮出所したが「井川もとたかって覚えている?」と聞かれていくらニュースに明るい人でも「それ誰?」と答えるのではあるまいか。「海外カジノで大負けした大王製紙社長の御曹司・・・」と言っても「そんなこともあったなあ」程度かもしれない。106億円は地方都市の年間予算に匹敵する。有力企業のサラリーマン数十人分の生涯賃金、あるいは米プロバスケットボールリーグや欧州の有名サッカークラブの超人気選手だって年収の何年分、といってもピンとこないだろうがとにかく“とてつもない金額”であることは間違いない。

 

 井川意高著『溶ける』(双葉社刊)

 

大王製紙は手すき和紙の産地として有名だった愛媛県東部の伊予三島(現・四国中央市)に井川の祖父、伊勢吉が1943年(昭和18年)に創業した。東予地方と呼ばれるこの地には書道で使う半紙や奉書紙を作る数百もの小さな製紙会社があったが伊勢吉は戦後の急成長という時流にうまく乗り全国レベルの大会社に育て上げた。意高はその孫である。創業家二代目髙雄の長男として1964年(昭和39年)に生まれ、小学校までを大王製紙の四国本社がある伊予三島で育った。祖父母の家と自宅は隣接しており土地は合わせて1200坪あったから家にやって来た友達と庭を運動場がわりにして「三角ベース」をしてよく遊んだという。東京の中学校を受験することになったのは営業を担っていた父の転勤による。第一次オイルショックが一段落し会社の営業ターゲットが従来の段ボール原紙や新聞社への用紙供給から大きく変わる。新たに出版物向け用紙のマーケットを開拓するため営業本部長として出版社が集中する東京で陣頭指揮を執ることになった。小学校5年生から夏休みなどを利用して東京の予備校に通い、6年の三学期だけ渋谷区立の小学校に転校した甲斐あって合格した私立と公立の2校のうち、父親の意向もあって授業料が安く中高一貫の東京教育大学附属駒場中学校(のちの筑波大学附属駒場中学校)に通った。

 

競争率10倍以上の難関校だけに優秀な生徒ぞろい、熱心に勉強しなくても田舎ではトップだったのに勝手が違った。周囲の生徒との学力差は開く一方で、とりわけ英語の授業にはついて行けず、中学2年の頃は学年最下位に近かった。これを知った父親は、自身が慶應大学英文科出身ということもあって怒り心頭に発するところとなる。平日は取引先との会食があっても終わるとすぐに帰宅、土日も半日以上かけて英語を叩き込んだ。ものを投げつけるだけでなく、鉄拳制裁もしょっちゅうで「ゴルフクラブを振り上げる父のスパルタ鬼教育」、「瞬間湯沸かし器の父から喰らった往復ビンタ」の見出しさながらの厳しい指導が続いた。中学は1学年120人、高校は同160人で毎年、浪人も含め120人以上が東京大学に進学する。東大に合格できない者は劣等生と見なされる雰囲気があり、必然的に周りの生徒と同じように東大へ進学しようと考えるようになった。父親のスパルタ教育を受けた中学時代の劣等生は高校になると自己流ながら地道な勉強を重ね東大法学部への現役合格を果たす。

 

大学ではゴルフサークルに入り、車の免許を取ると買ってもらった外車は「BMW635を乗り回した東大生時代」にあるようになんと1000万円以上の新車で、一度もバイトをしたことはないというのもさすがにお坊ちゃまらしい。学生時代から銀座などで自由に遊んでこられたのはファミリー企業の役員としての交際費が使えたことや、翌日の仕事に備えて取引先との会合は早目に切り上げるという父親の<身代わり>に出向くのがしょっちゅうだったということもある。この本は出版前から有名女優や人気女性タレントらとの交際が紹介されるらしいというので週刊誌などで噂になったがそこはあえて控えておく。卒業後は当然ながら大王製紙へ入社した。借金900億円の赤字会社を立て直し、王子製紙による日本初の敵対的TOBを切り抜けて42歳で社長に就任する。ここまでは井川家三代目の<予定コース>だった。有名会社の社長や歌舞伎役者、いまや実業家として人気のあるホリエモンこと堀江貴文らとの交友録もさまざま語られるが割愛させていただく。この本を取り上げる気になったのもあくまでなぜここまでカジノに溺れたのかのほうに興味があるからだ。

 

初めてカジノを体験したのは30代前半、ゴールデンウイークを使った家族旅行でオーストラリア東海岸のリゾート地・ゴールドコーストだった。「軍資金」として用意したのは帯封がついたままの100万円。どうせ失っていいと思ったのに見事に大勝ちし数日間で2000万円を稼いだ。この大きすぎたビギナーズラックが後に恐るべき底なし沼に引きずり込まれる快感体験となる。その後の10年ほどは年2回の長期休暇のうち1回はラスベガスへ出かけたがまだほんの余興程度の遊びだった。

 

浮き沈みはあったものの傍からは順風そのものにみえた人生が一挙に奈落へと転がり始めたのは社長に就任してから。六本木のクラブで知り合った人物がマカオのカジノホテルの「ジャンケット」の資格を取り、そこへ誘われることでのめり込んでいく。なかでも好んだのは偶然性が大きいバカラ。ジャンケットは世界中からやってくるVIPとカジノとを繋ぐエージェントのような存在で、コンシェルジュとカネ貸しを兼ねる。電話一本で往復の飛行機からホテルの手配などいっさいをしてくれる。空港との送り迎えは高級車ロールスロイス、泊るのは一流ホテルのスイートルーム、ギャンブルに興味のない同伴者はレストランやショーなどに案内してくれる。たとえ数千万の負けとなってもそのまま一発逆転の勝負を続けられる。一方的に負け続けたら誰しもこうまで深入りしなかっただろうが、時に大勝を重ねると自身の運とツキを信じて更に掛け金を積む。なかでもカジノにとっては上得意となったこのVIPルームの客はいつも勝つまで止めようとしない。目の前に積まれた大量のチップをさらに増やせると信じ「まだまだ。もっとだ。もっと勝てるに決まっている」――東日本大震災が起きた2011年(平成23年)3月期の連結決算が182億円の巨額赤字になった責任を取って社長を辞任し会長に退いた頃からはマカオからシンガポールの高層カジノホテル「マリーナ・ベイ・サンズ」に転戦し、ますますのめり込んでいく。数千万の掛け金がやがて億を超えるようになっていく。前年の5月以降、カジノでの負けを子会社7社から借り入れる手法で総額はすでに50億円を超えていた。

 

最後の勝負は目の前に積まれた20億円のチップだった。運と偶然のみが支配するバカラの勝負に私は全生命をかけて挑んだ。カジノ史上誰も成功させたことがない奇跡を呼び起こす。そして伝説をつくる。目の前に開きかけた地獄の釜の蓋を、我が強運によって轟音高らかに閉じてみせる――。

 

だが、ひとたび開いてしまった地獄の釜の蓋は、二度と閉じることはなかった。48時間の死闘が終わったとき私は煮えたぎる熔鉱炉のごとき奈落で熔解していた。

 

ギャンブルに没入するあまり、周囲のことがまるで見えなくなり、連結子会社から借り入れを繰り返していた。「どんなに借りても、いずれは自分のカネから返すのだから・・・」と、自分勝手な言い訳を繰り返しながら、さらに蟻地獄の奥深くへと落ちていった。

 

自分が犯した愚かな罪から、誰かに何かを伝えるほどのものは何もない。本書を手にとってくださった方には、一人の愚かな男の転落記として読んでいただければ充分だ。一番信用できないのは自分――1068000万円の代償として私が得たものは、かくも悲しい事実のみだった。

 

(出所後の「独白」を加えた同名の幻冬舎文庫=写真が本年1月に出版された)

あと読みじゃんけん(16)渡海 壮 ビーチコーミングをはじめよう

  • 2017年7月5日 17:18

まもなく梅雨明け、海水浴シーズン前の海辺はビーチコーミング(=漂着物さがし)には絶好の季節である。折しも台風一過、大量の漂着物が打ち上げられている光景を想像していると海辺の漂着物博士、石井忠さんからいただいた『ビーチコーミングをはじめよう』(2013、福岡市・木星舎)があったのを思い出した。謹呈の短冊には「異国から届くメッセージ入りの漂着瓶」の版画が添えてある。石井さんが病身をかえりみず情熱を込めて書きあげたこの本は、表紙イラストや挿絵、カットのほとんどを自ら手がけた。40年以上もの海辺歩きで「海からのメッセージ」を拾い、その魅力を伝え続けた思いが詰まった石井さんの<宝箱>でもあり、最後の本になった。

 石井忠著『ビーチコーミングをはじめよう』(福岡市・木星舎刊)

石井さんは福岡県福間市在住の漂着物研究家だった。<広げたパラソルのふち>と名付けた玄界灘沿いの海岸線を歩きまわり、打ち寄せられた漂着物を採集、分類、分析することによってなじみのなかった分野を「漂着物学」として位置づけた。最初に出版した『漂着物の博物誌』(西日本新聞社、1977年)には「よりもの」とルビをふっている。わが書斎には「漂着物・海流・漂着ゴミ他」というコーナーがあり、石井さんの『漂着物事典』や『新編 漂着物事典』をはじめ多くの関連本が並ぶが、この一冊以外は一般用語となった「ひょうちゃくぶつ」だからもとよりルビなどない。

 

冒頭、海水浴シーズン前、と書いたのはビーチの管理者にとって漂着物は厄介なゴミでしかないわけで、当初はなぜそんなものを拾うのかといぶかる声や偏見もあったはずだ。それ以上に石井さんを海辺へと誘ったのは「寄り来るもの」への限りないロマンだったのだろう。

「まえがき」代わりに短冊と同じ呼びかけからはじまる。

「オーイ!海君」

海が見える砂丘から大声で叫び、砂丘を駆け下りて波打ち際へ・・・・・。

そうして四十年が過ぎました。

海で見たこと、拾ったもの、調べたことを絵と写真でまとめてみました。たくさんの出会いがありましたが、これは、そのほんの一部です。

さ、一緒に海岸を歩いてみましょう。

 

石井さんが『玄海を歩く』で漂着物採集に案内してくれるのは、北九州市に近い遠賀郡芦屋浜から岡垣浜までの9キロ弱。JR鹿児島本線の水巻駅で下車、駅の近くの店でパンとお茶、あめ玉を買い、タウンバスに乗り、終点の芦屋中央病院前で降りると海までは歩いてわずか2、3分ほどのロケーションという。

 

「今日はいいぞ!」

波打ち際にまず目をやると、黒い帯となって漂着物が続いています。黒い帯の中心は海底に生えている海藻類がちぎれて寄せられたものです。漂着した黒い帯を見て「今日はあるぞ」という予感がします。目的地の人家が潮風にかすんで遠くにぼうと見えます。

波に寄せられた海藻は、主にホンダワラやカジメ類です。それに混じって流木、ガラスビン、ポリタンクやポリ容器類が目につきます。海藻にからんだビニールの袋や洗剤のポリ容器など、ずいぶん多くあります。日本の製品ばかりでなく、ハングル文字や漢字ばかり書かれてものもあります。特に韓国や中国のプラスチック製の浮子(うき)や洗剤の容器は、いたるところに見られます。缶やビン類をよく見ると、フジツボやエボシガイ、海藻類や薄い石灰質のものが付着し、これらが海を長期間、漂流していたことがわかります。ここで、フィリピンあたりに生えているマングローブ(monggi=マレー語、紅樹林)の樹種であるホウガンヒルギの種子を拾いました。南方果実にしても、種子にしても、同一のものが一度に多く見られることは滅多にありません。それがなんと一カ所に固まるようにして5、6個漂着しているのです。次いで、緑色をした細長い、長さ5~10センチほどのものが。これもヒルギの仲間で、マングローブ林から流れ出たものに違いありません。丸いままのココヤシもありますが流れ着くココヤシは大部分が皮や「内果皮」という中の殻の部分です。私はこれまで660個ほど、玄海沿岸で採集しましたが、波にもまれ、表面の皮がはげたりしているものが多く、丸いままのものとなると十分の一です。この日の採集行でも丸いままのを1個見つけました。

 

少しばかり長く引用したのは採集したココヤシの数を紹介したかったからである。「玄海沿岸で」というだけで660個、「ヤシと言えば、皮でも拾ってくる」とも書いているからそれ以外のも含めるととんでもない数量ではあるまいか。「流れ寄る椰子の実」(玄海にて)という説明の写真にはほんの一部だろうが小山ほどの物量が写る。

 

「はやる気持ちを落ち着けて」

私はいく度も「今日はいいぞ、あわてるな、もう少し注意して歩け」そんなことを自分に言い聞かせながら歩きました。するとククイナットの種子を一個拾いました。一見クルミのようですが、真っ黒でクルミのようなシワがありません。油分を多く含んで「キャンドルナット」とも呼ばれ、灯りにも使われるのです。殻を作ってその中に卵を産むタコの一種アオイガイ、アカウミガメの死骸、台湾から中国へ向けて流す宣伝ビラが入った「海標器」、弥生土器や古墳時代の須恵器、中世の陶磁片なども百片ばかり・・・帰宅すると早速、採集した漂着物を水洗いして乾燥したら油性ペンで採集月日と場所を記入します。フィールドノートには天候、漂着状況、採集物と数量、それにちょっとしたコメントを書いておけば後でその日の状況を思い出すきっかけになります。植物図鑑でヒルギについて調べるとこれまで約300個採集しているホウガンヒルギではなくはじめてのオヒルギとわかりました。新しいものの発見はうれしくなります。

 

どうです、海岸歩きは?異国から種々のものが潮に乗り、何千キロの距離を旅してくるのです。初めの姿や形がなくなって、角が取れて丸みをおびたりして、また違った美しさになっている漂着物もあり、それを手にすると、何とも言いようのない、いとおしさを感じますから不思議です。

 

『椰子の旅』では「流れ寄る椰子の実ひとつ」の島崎藤村の歌から正倉院御物になった椰子の実まであれこれを。『漂着物と文化』では各地に残るさまざまな漂着物伝承を紹介。『いろいろ漂着する』では種子・果実、生きもの、お札や仏像まで<漂着物の百科事典>。『あらそいの漂着物』では近年、海底の発掘調査が続く元寇船が沈む鷹島の海岸で破片を見つけた石弾(=てつはう)を紹介する。ビーチコーミング入門編となる『さあ、海に出かけよう』では採集品を入れる袋から筆記用具類、カメラなど用意するもののリスト、服装から足回り、雷など天候急変の際の諸注意を挙げ、漂着物を拾うコツは「まあ次にするか」ではなく「チャンスは一度」の気持ちで、と書き添える。

 

日本漂着物学会の発起人に名を連ねるなど漂着物研究は石井さんの人生そのものだった。そう考えると<達人>のこんなひとこともなかなか味があるのではないだろうか。

 

漂着物を拾うだけでなく、砂丘に寝ころんで、海を、風を感じてみると、海岸歩きが一層楽しくなります。心も癒されますよ。

あと読みじゃんけん (15)    渡海 壮 日本の探検家たち

  • 2016年10月27日 10:51

この連載10回目に角幡唯介の『探検家36歳の憂鬱』(文藝春秋)を取り上げたが、もう一冊、探検記マニアの私の蔵書から滋賀県の「西堀榮三郎記念 探検の殿堂」が創館記念に発刊した『日本の探検家たち―未知への挑戦』を紹介しよう。そもそも探検とは、探検家とは、を国立民族学博物館の初代館長で企画の選考委員長をつとめた梅棹忠夫が「明快な基準」で選んでいるのが興味深いと思っていただけるのではないかと考えるからでもある。書店に並ぶ一般書とは違い美術展や博物館の図録のように館内だけで販売されていたのだろうが図録のように写真ではなく選ばれた49人の探検家のそれぞれが肖像画で紹介されているから「画集」といえるかもしれない。なぜか東京・早稲田の古書店で見つけたのは、実際に見学に行った旧蔵者が手放したのを当時、自宅のある滋賀を離れて東京に単身赴任していた私がたまたま見つけたというだけのことだろうが、本への興味はともかく「この本がわざわざ滋賀から・・・」と一瞬の<里ごころ>をかき立てられたのかもしれない。

『日本の探検家たち―未知への挑戦』

『日本の探検家たち―未知への挑戦』

西堀榮三郎(1903―1989)は、京都市出身。南極観測隊の第一次越冬隊長や日本初の8千メートル峰挑戦となったマナスル遠征ではネパール政府との困難な交渉役を担った。旧制三高、京都大学時代にはのちにいずれも文化勲章を受けるフランス文学者の桑原武夫や生態学の今西錦司らと日本アルプス登山で活躍、京都大学学士山学会を創設して朝鮮半島北部の白頭山(ペクトウサン)に遠征するなど海外における学術的登山の先鞭をつけた。いまも登山愛好者に広く愛唱されている『雪山讃歌』の作詞者でもある。「南極大陸犬橇横断」を生涯の夢としながら厳冬のアラスカ・マッキンレー峰登頂後に行方不明になった植村直己(1941―1984)に六分儀などの天測器具の使い方を教えるなど有力な支援者の一人だった。研究者としても独創力に富み、戦後日本での製品品質管理などの分野でのパイオニアとしてデミング賞などを受賞した。「西堀語録」のいくつかを紹介すると「石橋を叩けば渡れない」、「百の論より一つの証拠」、「人生は実験なり」などがある。人呼んで<八ヶ岳>、さまざまな分野で活躍し、取り巻く人たちを元気にさせたことでも知られる。

松尾敏男画「西堀先生像」

松尾敏男画「西堀先生像」

「西堀榮三郎記念 探検の殿堂」は平成6年(1994)8月、滋賀県愛知郡湖東町(現・東近江市)にオープンした。西堀家は代々この地で続いた近江商人だった。メイン施設はマイナス25℃を体験できる「南極体験ゾーン」が売り物で、冷蔵設備の老朽化から6年前に休止するまでのべ42万人超が訪れた。南極・昭和基地とのテレビ会議など多くのイベントを行ったが、現在は西堀の活躍や交友を紹介する記念室や著名探検家の業績や探検精神を伝えるコーナーがあり地域の文化施設として活用されている。

「日本の探検家たち49人」を選定するにあたり委員長の梅棹は吉良龍夫・滋賀県琵琶湖研究所長、本多勝一・元朝日新聞編集委員ら4人の委員をまず選んだ。いずれも探検・登山の猛者で西堀とは深い交流があった。選考の前提として「ここでいう探検とは、未知の地域に分け入って、新しい発見をもたらす行為のことである」を明確にした。

未知の地域とは、厳密にいえば、いわゆる人跡未踏の地であるが、多くの探検はすでに人が住んでいる地域で行われた。地理的には知られた土地であっても、その地域の民族、動植物、地質などが十分調査されていない場合、そこに赴き、これらを学術的に明らかにすることも探検ということができるのである。未知を明らかにすることであれば、実験室で未知なる現象を探求することや、技術的に新分野を開発することも探検に類する行為かもしれないが、ここでは現地に赴いて調べる行為に限って「探検」と呼ぶ。

登山における初登頂やヴァリエーション・ルートの開拓は未知の領域へ踏み込んだものとして探検に準ずる行為であるが目的が純粋に登山である場合は除外した。

さらに危険そのものを求める冒険的行為とは一線を画し、近世以降の人物に絞り、存命中の人物は70歳以上という制限を設けた。探検家の資格としては、明確な意図をもち、みずから探検に参加し、または組織した人であること。これは漂流の末、たまたまその地域に漂着したとか、戦争などでその地域に足を踏み入れたなどなどの偶発的なものでないことを意味する。一方で、みずから探検隊に参加することはなかったが内外の探検の記録や未知なる地域に関する文献を収集、研究し、それらをもとに探検に関する著書を発表して多くの人たちを鼓舞し、探検家の要請に貢献した人の功績を顕彰するために、例外的に「探検の研究家」として加えることにした。

探検家は探検した地域について報告を行う義務がある。いくら未開の地域に分け入ったとしても、報告がなければ、何をしたのかを知るすべがない。ただし、ここにいう報告とは、必ずしも報告書という体裁をとったものでなくともよい。日記、写真、地図、紀行文など、どのような形でも良いわけであるが、知的に考察されたもので、人類の知識の蓄積に加えられるべき質の高さを持つものでなくてはならないとした。

前置きはいいから早く紹介しろ!と言われそうなので「日本とその周辺」で、まずは江戸中期小笠原諸島の探検で知られる嶋谷市左衛門(しまや・いちざえもん、生年不明―1690)から。1675年、江戸幕府が編成した探検調査隊長として小笠原諸島の調査に向かった。八丈島を経て20日後にめざす無人島を発見、島の地図を作成し、それぞれに名前を付けるとともに植物、鳥類、魚類などについても調査し、種々の標本を持ち帰った。また、神社を建て、日本の領土であることを示す柱も立てている。幕末になってアメリカやイギリスとその領有権が問題になった時にこの調査記録が日本側の大きな根拠となった。

千島列島探検の最上徳内(1755―1836)、択捉島探検の近藤重蔵(1771―1829)、国後から択捉への海路を開いた高田屋嘉平(1769―1827)、樺太=サハリンの北端を明らかにした松田伝十郎(1769―1843)、間宮海峡の確認で知られる間宮林蔵(1775―1844)、最初の実測地図を作製した伊能忠敬(1745―1818)、北海道探検とアイヌ民族抑圧を報告した松浦武四郎(1818―1888)と続く。当然ながら西堀は「極地」で、日本初の南極探検を成し遂げた白瀬矗(しらせ・のぶ、1861―1946)に続いて紹介されている。3人目がグリーンランド犬橇縦断の植村直己である。肖像画を担当した五十嵐晴徳は「どこかで生存していてほしいと思う心や、同行した犬たちの気持ちを描写できたらと制作した」と語っている。

五十嵐晴徳画「植村直己氏像」

五十嵐晴徳画「植村直己氏像」

漂流・漂着を経験した人物でも「冒険家を自覚した日本人」として唯一、ジョン万次郎(1827―1898)が選ばれている。どんな人物かはよくご存じだろうから小山硬(おやま・かたし)が担当した絵の方を紹介する。小山は高知県にあるジョン万次郎の記念館を訪れたとき、鮮烈に印象付けられたのが革靴をはいた姿だったという。後年、遣米大使の通訳としてさっそうとアメリカへ渡る姿を描いてみたという。私が抱いていたのよりも「美白の美青年」の印象であります。

小山硬画「ジョン万次郎像」

小山硬画「ジョン万次郎像」

委嘱を受けたのは日本画壇を代表する松尾のような大家から新進気鋭の若手までさまざまだったが、それぞれが「自分の探検家像」を模索して苦しみながら、あるいは楽しみながら思いを込めて描いた秀作・力作ぞろいである。写真なら見慣れていても肖像画、しかも構成自在な日本画となると自由な発想がこちらの想像を刺激してやまない。そこが企画としても画期的で面白いところではあるまいか。

「探検の研究家」では極地探検の先導と研究で知られる加納一郎(1898―1977)とヒマラヤ・中央アジアの研究者である深田久弥(1903―1971)が選ばれている。加納は北海道大学在学中にスキー部を創設し、冬季の大雪山に初登頂。山の雑誌『山とスキー』、『ケルン』を創刊、今西錦司らと日本初の探検専門誌『探検』を創刊するなど探検の精神的・理論的指導者として今日の日本を代表する多くの探検家に大きな影響を与えた。深田は作家、登山家で『中央アジア探検史』、『ヒマラヤの高峰』、『日本百名山』など数多くの山岳紀行や旅行記を執筆した。55歳のときにネパールのジュガール・ヒマール踏査隊を組織し、隊長として参加した。それまでの登山隊と違い、大学や日本山岳会のような大きな組織を背景とせず、現在のトレッキング(軽登山)のさきがけで個人的にヒマラヤに出かけた最初の試みとされる。蒐集した内外の膨大な文献や地図などの資料は国立国会図書館に収蔵されている。

ところで選ばれた49人というのは率直に言わせてもらえば「中途半端な人数」である。梅棹は選んだ49人について「この数は今後も増加してゆくであろうがその人選は将来の選考委員にまかせるほかない」と結んでいるが少なくとも「50人目」は間違いなく梅棹であろう。その資格は十分にある。ジグソーパズルに例えれば、梅棹が「日本の探検家たち」として選んだピースは50ちょうどあり、最後のピース(=梅棹)がぴたりとはまれば、まさに<思い通りの完成をみた>のではなかろうか。そう思えてならない。

あと読みじゃんけん (14)    渡海 壮 野蛮人の図書室

  • 2016年10月4日 10:47

ベッド脇の本棚には買ってきたばかりのから買って久しいのまで本や雑誌が置いてある。それ以上入らなくなると仕方なく整理するのだが、何冊かは「近いうちに読むだろう」ということでそのまま置いている。もちろん手つかずの本や読みだすとなぜか眠くなるのなど色々あるから一概には言えないが。好きな論客のひとりで元外務省国際情報分析官、佐藤優の『野蛮人の図書室』(講談社、2011年)は、そうした何度もの選別をくぐり抜けた一冊である。整理のたびにいくつかの章を拾い読みしていたから<5年がかりの完読>となった。

佐藤優著「野蛮人の図書室」(講談社刊)

佐藤優著「野蛮人の図書室」(講談社刊)

「ようこそ、ラズベーチク・ライブラリーへ」という見出しの「まえがき」を「われわれは、誰もが野蛮人である。この現実を見据えることが重要だ」と書き始める。外務省時代はモスクワにある在ロシア大使館に勤務したこともあり「外務省のラスプーチン」の異名をとった。だから、このラズベーチクということばはロシア語で野蛮人を意味するのかと友人のロシア語通訳者に聞いてみたところ意外な返事が返ってきた。題名通りの意味ならそのまま「ようこそ、野蛮人の図書館へ」とすればいいのに、なぜだろうと思ったからだ。彼の解説はこうだ。

くだんのラズベーチクというのは<佐藤氏流の造語>だと思います。「ラーズベ」というのが「果たして~だろうか」という意味の助詞で、ロシア語で頻繁に使われます。「チク」は「人」を表す接尾辞で<ある傾向をもつ人物>を表現するのに用います。この二つの合成語であると考えれば、アクセントの位置が「ベー」に移っているのも、ロシア語の音声学から容易に想像できます。肝心の意味ですが「果たしてこうなるんじゃないかと懸念している人物(=佐藤氏)の図書館へ」となりましょうか。日本語にはひとことでこういう意味を表現する語彙はありませんので敢えて「野蛮人の」という言葉を当てているのかもしれません。強いていえばこの造語に「野獣的感覚」、「野蛮人の嗅覚」みたいな<寓意>が込められているのかもしれませんね。

さすがに情報活動では百戦錬磨のプロフェッショナル、のっけから一筋縄ではいかない。

現代社会は複雑で、世の中で起きていることを正確に理解するためにはさまざまな知識が必要になる。確かに日本は世界でもっとも教育水準の高い国だ。アジアにありながら欧米列強の植民地にならず、太平洋戦争敗北後の荒廃から社会と国家を見事に復興させたわが日本民族は、客観的に見て優秀である。しかし、現在の日本が衰退傾向にあることは、残念ながら、事実である。どうしてなのだろうか。それを解く鍵としてドイツの社会哲学者ユルゲン・ハバーマスが唱える「順応の気構え」という言葉をあげる。

佐藤によると人間は理解できないことが生じたときに「誰かが説得してくれる」と無意識のうちに思って自分の頭で考えることをやめてしまう。テレビのワイドショーでは、殺人事件、芸能人のスキャンダル、政治、経済、外交などについてコメンテーターが15~30秒でコメントする。「よくわからないけど、有名な人がそういうのだから」と無意識のうちに思って順応してしまう。そうするうちに人類は徐々に野蛮人化していく、そして最後には自分が野蛮人であるということにすら気付かなくなってしまう。文明国であったドイツからアドルフ・ヒトラーが出てきたのもドイツ人の多くが「順応の気構え」を持つようになってしまったからだ。

この名前をどこかで聞いた気がすると思って調べてみたら2004年の「第20回京都賞」の思想・芸術部門の受賞者だった。毎年、記念講演の案内状をいただいているのでファイルを取り出すと、プロフィールには「ユルゲン・ハーバマス博士:1929年、ドイツデュッセルドルフ生まれ、哲学者・思想家、ゲッティンゲン、チューリッヒ、ボンの各大学で学ぶ。ハイデルベルク大学教授などを経てフランクフルト大学名誉教授。コミュニケーション行為論、討議倫理学など、社会哲学理論の構築および公共性に根ざした理想社会実現への実践的活動を行った哲学者」とある。名前の日本語表記はハーバマスがより近いのかもしれないが、その業績を本書でわかりやすく解説してもらった。

いうまでもなく一人の人間の能力や経験には限界がある。限界を突破するためには、他人の知識や経験から学ぶことが重要で、そのためにもっとも効果的な方法が読書であって、読書によって代理経験を積むことができる。佐藤が指摘するように高度成長期の日本では、電車の中で本を読んでいる人が今よりはるかに多くいた。「あの頃の日本人は、自分が野蛮人であることを自覚していたので、本を読んで知識や経験を積んで教養人になろうと努力していた」というのは一面当たっているかもしれないが、今のようにスマホやタブレット読書などというのもなかったし。

この本で紹介されているのは「人生を豊かにする書棚」、「日本という国がわかる書棚」、「世界情勢がわかる書棚」の各章で57テーマにそれぞれ2、3冊ずつの計百数十冊、ただし立花隆、佐藤優共著『ぼくらの頭脳の鍛え方―必読の教養書400冊』(文春新書)とか、米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)などブックガイドも含まれているから、本のなかでの「入れ子構造」まで勘定するとその4、5倍になるだろう。「頭脳を鍛える談話室」では作家の池永永一、飯嶋和一、西木正明、経済学者の中谷巌各氏と佐藤の対談が収録されている。

この本は各章の見出しからまず読みたくさせる。「意味のある読書とは何か―著者と対話しながら、自分の頭で考えることを繰り返そう」、「ウミガメに見る女の本質―かわいさの陰に潜む<肉食系女子>の本性」、「京都に学ぶ人間の裏・表―ロシアで物事を裏読みする時に京都のイケズ解釈が役立った」、「司馬遼太郎の歴史観―日露戦争を『坂の上の雲』で学ぶとロシア観を誤る」・・・なかでも佐藤のロシア体験が生きている「<プーチン現象>の真実―権力に対して批判的。インテリだったからKGBでは出世しなかった」はなかなか興味深い。モスクワでの現役外交官時代に本人と3回あったことがあるという。表情をめったに出すことがない「死に神」のようなプーチン首相をどうとらえればよいのだろうか。

彼は優れたインテリジェンス(諜報)官僚であるとともに知識人(インテリ)なのだ。ロシアのインテリの特徴は、単に知識や教養があるだけでなく、権力に対して批判的だということだ。インテリ的体質をもったプーチン氏は、自分自身を含め、権力に対して批判的で、反体制派の知識人を守るようなタイプの諜報機関員だったからKGBでは出世しなかったのである。プーチン氏はロシア帝国の復活に文字通り命を捧げている。その心意気をロシア人が買っているのだ。圧倒的多数のロシア国民に支持されている理由はここにある。日本の総理が、日本国家のために命を捧げるという裂帛の気合でプーチン首相に立ち向かえば、北方領土問題の突破口が開く。

執筆当時の「日本の総理」は安倍総理ではなかったが、今また首脳会談で北方領土問題が注目を浴びている。果たして<裂帛の気合で立ち向かう>ことができるだろうか。

「北朝鮮とミサイル―後継者は、金正日の息子であれば誰でもいい」では、弾道ミサイル、テポドンは金正日から息子への権力移譲を記念する祝砲だったという解釈に賛成しながら、固有名詞はそれほど重要ではない。金正日の息子であれば誰でもいいと言い放つ。そう、たしかにそう!<この5年後の北朝鮮>をあれこれ知っているだけに素直に頷ける。

「休みにこそ読むべき本―いくら読んでも教養が身につかない本があるので要注意」は、さらに明快である。難しい本にはふたつの種類がある。ひとつ目は、書いている内容が滅茶苦茶なので理解できないもので、学者や官僚が書く本で結構ある。著者の名前や肩書に圧倒されてしまい「わからないのは自分の勉強が不足しているからだ」と思ってしまう。こういう本をいくら読んでも教養が身につくことなどない。ふたつ目は、書いている内容はしっかりしているのだが、読者にとって予備知識がないからわからない本だ。例えば、微分法について知らない人が金融工学の本を読んでも理解できない。基礎的な数学の勉強を身につけることが大前提である。

ここであげるのはヘーゲルの『歴史哲学講義』で、回想録を読む際の注意についてヘーゲルの「回想録の作者は高い地位についていなければならない。上に立って初めて、ものごとを公平に万遍なく見渡せるので、下の小さい窓口から見上げていては、事実の全体はとらえられないのです」を紹介し、最近は普通の人の歴史を描いた民衆史がブームであるが、歴史的事件のプレイヤーだった高い地位についていた人の回想録を読まないと歴史の本質的な流れをつかむことはできない、と釘をさす。

最後におせっかいながら著者が言いたかったことからすると、この本の題名は『野蛮人にならないための図書室』がより適切ではないだろうか、と自戒を込めて書いておく。

あと読みじゃんけん (13)   渡海 壮 惜檪荘だより(その2)

  • 2016年9月13日 22:20

実はこの『惜檪荘だより』(岩波書店)を読むまで、知らなかったというか、気付かなかったことがある。著者は人気時代小説の『酔いどれ小藤次留書』や『居眠り磐音 江戸双紙』シリーズなどで活躍しているのはご存じの通りだが、1970年代には写真家としてスペインに滞在し「黄金の時代」といわれた闘牛社会を取材していた。私は以前、鹿児島県の徳之島で「伝説の横綱」として活躍した実熊(さねくま)牛を描いた小林照幸のノンフィクション『闘牛の島』(新潮社、1997)に惚れ込み、沖縄に売られていった実熊牛の哀れな末路を追いかけたことがある。そういえば、と書庫の奥から探し出したのがこの『闘牛はなぜ殺されるか』(新潮選書)である。同一人物だったとはと不思議な偶然に驚いた。

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

佐伯泰英著『闘牛はなぜ殺さ れるか』(新潮選書)

「闘牛への招待」から始まって、地中海一帯にあった牡牛信仰、男社会から女の時代に変わる「闘牛社会の変革」、「闘牛はピカソに何を与えたか」、「闘牛はなぜ午後5時に始まるか」など微に入り細にわたり闘牛を紹介した労作である。題名の理由は、牡牛は信仰の対象で猛きものの代名詞として闘牛場の砂場に登場するが「祝祭の当然の帰結」として殺される。表舞台からラバに引かれて去ったわずか5分後には食肉として処理される。年間3万頭以上もの牛が闘い死んでいく闘牛は「スペイン文化の神髄」とされ、失業率の高い国を支える観光産業ではあるが、動物愛護の思想が強く主張されるにしたがって捕鯨反対の国際世論に押されて商業捕鯨が禁止されたように確実に衰退の道を進むだろうと示唆している。

写真家時代に佐伯が取材に同行したのは作家の堀田善衛、詩人の田村隆一、英文学者の氷川玲二らがいる。一時期、佐伯は堀田がマネージャー役の夫人と住んでいたスペイン・グラナダのマンションに運転手兼小間使いとして居候していた。いつもは寡黙でレース編みなどで静かに時を過ごしていた夫人は一度その勘気に触れると老練の編集者も出版社の重役も震え上がる。日本では永く逗子に住んでいたから「逗子のライオン」と怖れられていた。あるとき「佐伯、作家というものはね、文庫化されてようやく一人前、生涯食いっぱぐれがないものなのよ」としみじみ、そして誇らしげに呟いたという。芥川賞作家の堀田は老舗文庫に名を連ねていた。売れっ子作家は雑誌連載をハードカバーに纏め、さらに数年後か十数年後に、読者と識者の厳しい目に曝され、価値を認められた本が「古典」として文庫化されるのだと言いたかったわけである。田村からは詩人らしくあれこれあった人間関係を学んだ。スペインで知り合った氷川とはその生前20年ほどの付き合いがあり、文章の手ほどきを受けた。いまでも覚えているのは「原稿用紙でもいい、初校ゲラでもいい。一見して黒っぽく感じたら、こなれた文章ではないということだ」と教わった。こうしたエピソードが惜檪荘修復のさまざまな場面に挿まれているから、単に熱海での専門家を巻き込んだ純粋な工事進行の紹介にとどまらず飽きさせない。

佐伯はなぜ仕事場の条件として「海の見える地」を選んだかについてあらためて書く。スペイン時代にお金の工面を願った佐伯に母親は「先祖は豊後の大友宗麟配下の地下者(じげもん)で、天正年間、薩摩に追われて肥後に逃げた一族であるから恥ずかしい真似だけはするな」と手紙で説諭した。豊後はリアス式海岸の海の国、南蛮に憧れを抱いたキリシタン大名の大友宗麟が活躍した地である。佐伯は福岡県の旧八幡市折尾(現・北九州市)生まれで「幼い頃は海への思い入れが格別にあったとは思えないが後年、時代小説を書くようになった時、豊後を迷うことなく物語の舞台に選んだ。スペインに憧れたのも宗麟が夢半ばにして潰えた野望を思うてか。また海を想う気持ちも海の民の豊後者だからか、ともかく私の体内にも同じ血が流れていて海に憧憬を抱いたのだと勝手に考えている」と。だからか、『酔いどれ小藤次』の主人公赤目小藤次にしても豊後森藩ゆかりで『居眠り磐音』の坂崎磐音は架空だが豊後関前藩中老の嫡男という設定だ。

修復工事に戻ろう。建築当時の設計原図は吉田が描いた22枚のスケッチが東京芸大建築学科に残されていたが、現況の「実測図」を起こすことからはじめられた。窓の金具から戸車にいたるまで原寸大で、さらに床下と天井にはカメラを入れて現況を出来るだけ正確に把握することが進められた。吉田は京都からわざわざ職人を呼んでさまざまな工夫を凝らした。なかでも洋間の開口部は、雨戸、網戸、ガラス戸、障子、それぞれ3枚、計12枚の戸をすべて戸袋に仕舞うことで創られた開口部=額が醸し出す壮大な「絵」でまさに<十二単>を思わせた。のちに岩波ホールの支配人岩波律子に聞いたエピソードが紹介されている。ここに一夜泊ったポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ夫妻が窓からの眺めに感動した。日本画、なかでも浮世絵にも関心があった監督の絵には歌川広重風の斜めに突き刺さる雨が描かれていた。<吉田の黄金比率>ともいわれる横広のガラス窓をそのまま額縁に見たてたか。静的な雨だれよりもあえて広重の動的な雨を描くことで滞在記念の絵にダイナミズムの息吹を与えている。

工事はまず、洋間の床板のチーク材が一枚一枚丁寧に剥がされてナンバーが打たれた。吉田デザインの応接セット、文机、天井の照明器具も取り外され修理技術のある高島屋(=デパート家具部)に預けられた。すべての建具、部材、建物の解体から始まり、例えば石畳は庭の一角に砂を敷き詰めた「仮置場」が作られてそのままの配置で移動、保存された。上棟式には岩波家からワイダ監督が描いた絵と岩波茂雄と親交があり惜楽荘にも縁があった安倍能成の書が届けられた。

長く続いた再建工事については詳細にわたり過ぎることもあるからあえて紹介しない。この間、佐伯に前立腺がんが見つかって手術したり、その気分転換のためにベトナムに旅行したりとさまざまあったが、特筆しておきたいのは佐伯を大いに力づけた俳優・児玉清の存在だろう。古今東西の書物を読破し続けた児玉には『寝ても覚めても本の虫』(新潮文庫)などの著書がある。『居眠り磐音』シリーズが15巻に達した新聞対談が初回だった。児玉は幼い頃、講談本を愛読していて時代小説に親近感を持っており、佐伯の著書を読破していた。いつの日か時代小説を書こうと思っている。それを文庫書き下ろしでねと、どこか引け目を感じていた佐伯の胸中を見抜くように「面白いからこそ読者の支持を受け、売れるんです。悔しかったらキャッシャーのベル(会計レジの音)を鳴らす作家になれということですよ。作家は読者に支持されてなんぼの存在です」と喝破した。児玉はその後も年2回のペースで佐伯と対談し、以来、会うたびに同じ言葉を吐いて鼓舞してくれたばかりでなく、いろいろなところで『居眠り磐音』は面白いよと宣伝これ努めてくれたお陰で、二百万部だったシリーズ累計が五百万部を超え、一千万部に化けた。いわば大恩人である。惜檪荘の洋間で行われたNHKのテレビドキュメンタリーでは「佐伯さん、これはやりがいのあるすばらしいプロジェクトです」とその決断を認めてくれたのに楽しみにしていた完成披露を待たずに亡くなった。

完成した惜檪荘のたたずまい

完成した惜檪荘のたたずまい

惜檪荘の修復落成式は平成23年(2011)10月13日に行われた。付き合いのある編集者、岩波家と岩波書店関係、不遇な時代を支えてくれた友人知人たちだけで60名になった。そうなると惜楽荘での飲食はできないので、建物見学のあとは近くのレストランでの宴となった。出版関係では角川春樹事務所の御大自ら出席し、乾杯の音頭をとってくれるということが知れると、他社も「うちも幹部を」となったが、それをすべて断ったのも佐伯流だった。当日は曇り空で宴が始まる頃には雨が降り出した。主賓の角川は「新たに惜楽荘主人に就いた佐伯は、時代小説に転じた当初から売れたわけではありません。うちでハードカバーとして出した『瑠璃の寺』は全く出ませんでした、はい。ところが文庫化すると動き出した」とスピーチした。児玉の令息で当時はタレントだった北川大裕も児玉の元マネージャーと出席してくれて降り続く雨を「これは父が流すうれし涙の雨です。おれもこの場に居たかったという雨です」と佐伯を感動させた。なかでも場を盛り上げたのが司会に指名された某社の文庫担当だった。佐伯が考えもしなかったほどの「あがり屋」で、冒頭から惜檪荘を「落石荘」と言い間違え、佐伯を「そ、それでは落石荘番人の・・・」と失笑ならぬ爆笑を誘って会場を大いに和ませた。それもあってではなかろうが、文庫版には背と表紙に、単行本では帯だけにしかなかったルビがふってある。

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)

佐伯泰英著『惜檪荘だより』(岩波現代文庫)