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書斎の漂着本 (100) 蚤野久蔵 西洋音楽の知識

  • 2018年2月10日 18:19

4年前に始めたこの連載もちょうど100回目。まだ道半ばなので、はしゃぐ気はないものの「節目」ではあるので、これまでに取り上げたことがないジャンルを紹介することにした。明治・大正・昭和と作曲家、音楽教育家としてわが国の音楽界に大きな足跡を残した小松耕輔(こまつ・こうすけ)が初心者向けに書き下ろしたわが国初の入門書『西洋音楽の知識』である。大正9年5月25日に発刊されると30日に早くも再版、6月5日に3版を出していることからも大変な人気だったことがわかる。発行元は東京・神田のアルス書店で、巻末の出版案内に北原白秋、室生犀星、三木露風、相馬御風などの小唄楽譜や歌集が掲載されているところから音楽、詩歌関係専門の出版社のようだ。

 

     小松耕輔著『西洋音楽の知識』(アルス書店刊)

 

数年前に京都・寺町通りの古書店の「均一棚」=店頭にある雑本を並べた棚=のいちばん上にあったのを手にとったのがきっかけ。外函もぼろぼろで何度も修理したあとがあるし背表紙の金箔押しも剥げかかっている。所有者は余程大切にしてきただろうに誰も購入しなければそのまま廃棄処分されてしまうだろうと思ったわけで・・・。現在と違い当時の本は著者のプロフィール紹介がないのがほとんどで、私も関心分野以外は不勉強ゆえ、著者が「わが国の音楽界に大きな足跡を残した人物」とは知らなかった。当然ながら出版社そのものも少なく、逆に言えば著名人や有名な学者が著者なのだから購入する側は「書いたのが誰であるか」がわかっていたわけですね。新聞広告やこの本にも書かれている楽器店の店頭ポスターなどで知ると<書店に急いだ>から短時間に版を重ねた事情も伺える。

 

 

外函と表紙の裏側の2か所に「U.SUGIMOTO」のゴム印らしきものが押してある。この本を長く愛蔵していたのはこの「スギモト」なる人物なのか。インクはセピア色に変色しているが最終処分、つまり売却されたのが京都の古書店だから京都市かその近辺に住まわれていたのだろうと想像する。

函が壊れかけているので慎重に本を取り出し、ぱらぱらとめくりながら目次などを走り読み、あとで紹介する写真や挿画、このゴム印を見てわずか数分、いや1分足らずで音楽には門外漢ながら興味が湧いた次第。いつもながらの古本買い主義というか、均一棚を前にしての私の心得は<迷ったら買う>。かといってここまで傷んだ本を買ったことは経験がないし、そんな本を連載の節目に選ぼうとは自分でも不思議ですねえ。

 

冒頭に紹介した小松耕輔についての記述は書斎に戻ってから仕入れた「あと知識」と告白して続ける。

 

『広辞苑』には、作曲家、秋田県生れ、フランスに留学。音楽評論や音楽教育の分野でも活動。日本最初の歌劇「羽衣」、歌曲「泊り船」など。(1884-1966)とわずか3行だった。何冊かの人名辞典にあたるとほとんどにその名があるが、なかでも詳しかった『コンサイス日本人名事典』(三省堂)にはさらに、東京音楽学校(東京芸大)在学中にわが国最初の洋楽の手法による本格的なオペラ「羽衣」(1906)を作曲するなど、創作オペラ運動の先駆者として活躍。1920~23(大正9~12)パリ音楽院作曲科に留学後、1927(昭和2)国民音楽協会を起こしてわが国最初の合唱コンクールを創始し、みずからも童謡や合唱曲を多数発表して合唱運動の先駆者の1人となり、敗戦後は学習院大、お茶の水女子大、東邦短大の教授を歴任し、音楽教育の面からわが国音楽界の発展につくした。

 

「序」には「此書は音樂の初學者に向って其の一班を知らしめんがために書かれたものである。其故になるべく専門的の説明を避けて通俗を旨とした。止むを得ざる限り樂譜等の挿入をさけ、文字の説明のみを以て了解せしむるやうに心掛けた。樂譜を讀み得るものに向って音樂を説くは容易であるが、然らざるものに向って説明を試みるは極めて難事である。」と書く。目次に続く最初の挿画はその下に右から左へ「黙想せるヴエトオヴエン」とある。あごを引き、目は真正面をぐっとにらみつけているように見えるからとても「黙想している」ようには思えないけれど。

 

 

もうひとつはざっと数えただけで数百人規模が写る写真である。「グスタアヴ・マアラア氏作第八交響楽の演奏」(フイラデルフイアオルケストラ)とある。

 

「ヴエトオヴエン」にしても「グスタアヴ・マアラア氏」や「オルケストラ」もそのままでは読みにくいと思われるので以下は現行漢字、現代仮名遣い、人名は『広辞苑』最新版(第七版)に拠ることとし、最低限の言い換えはお許しいただきたい。例を挙げると「序」は「この本は音楽の初心者向けに(略)文字の説明だけでわかりやすく(以下略)」、挿画は「黙想するベートーヴェン」、写真は「グスタフ・マーラー、フィラデルフィアオーケストラ」とさせていただく。

 

小松が言う通り<難しいことを初心者向けにわかりやすく>というのは難事だろう。管楽器についての助言をもらったことに謝意を表するとあげた瀬戸口藤吉も『コンサイス日本人名事典』によると、

 

明治・大正期の軍楽隊指揮者・作曲家。海軍軍楽師時代に鳥山啓作詞によった<守るも攻むるも>の「軍艦」を作曲、のちに「軍艦行進曲」として改作、1911年のイギリス国王戴冠式には軍楽隊を率いて列席し、ヨーロッパ各地で演奏した。

 

余談ながらこのイギリス国王はエリザベス女王の祖父に当たるジョージ5世である。「軍艦行進曲」は昔よく通ったパチンコ店でかかっていたあの曲、「軍艦マーチ」ですね。調子のいい時には鼻唄が出そうになった。ただし「攻むる」じゃなくて「攻める」と覚えていた。反対にかなりつぎ込んでもう帰ろうかと思っている時にこれがかかると、もうちょっとやって負けを取り戻そうなんて気になって・・・結局、食事代までスッてしまう羽目に。

 

他にも多くの助言や協力をもらい、忙しいなか何年もかけて試行錯誤や推敲を重ねてようやく脱稿に漕ぎつけたと思われる。ありきたりの表現で恐縮だが<懇切丁寧><微に入り細にわたり>構成されて仕上げられた「本物の労作」なのだ。「あくまで音楽初心者にわかってもらうためどうするか!」という小松の並々ならない目配りがあふれている。「序」は5月1日付、初版が20日印刷、25日発行で、パリ音楽院に留学したのはこの本の発刊と同じく大正9年である。当時ヨーロッパへ向かうのはイギリス領だったシンガポールからインド洋、スエズ運河、地中海経由の南回りの船便で2か月近くかかったたから、そのあとあわただしく出発したのだろう。

 

書き出しは「秋もようやく更けて、夜な夜なの虫の声も何となく身にしむ頃となると、楽器店の飾り窓や新聞の雑報がはやくも音楽会の開かれることを報じるであろう」と始まる。「そこで私は諸君と共に音楽会のために楽しい一夜を過ごそうと考えた。そして音楽会について心ゆくばかり諸君と会話を交え、興つきない秋の夜を語り明かそう」「上野の秋の日曜はそうでなくても人出が多い。その中を自動車や俥(=人力車)が列をなして音楽会の会場へと急ぐ。定刻の午後2時近くなると、はやくも会場が立錐の余地もないほどになる。諸君が会場のドアを入ろうとするその手には今日演奏されるプログラムが渡されるであろう」として例をひく。

 

プログラムには「曲目」、ソナアタ(=ソナタ)は「奏鳴楽」、シムフオニイ(=シンフォニー)は「交響曲」、コンツエルト(=コンツェルト)は「司伴楽」、ロンドは「旋轉調」、メロデイ(=メロディ)は「旋律」、リズムは「節奏」、ハーモニーは「和聲(声)」の漢字を当てているが、それぞれの<たとえ>もおもしろい。

 

「いまここに一つの川がある。川は昼夜を分かたず流れる。流れ行く水はすなわち旋律(Melody=メロディ)である。川の水は時に洋々と流れ、時に滔々と流れる。そこには水の足踏みが聞かれるであろう。これが節奏(Rhythm=リズム)である。川の両岸にはたえず変わりゆく景色がある。時には広々とした野原を過ぎ、時には緑したたる杜(森)の影をうつし、あるいは白楊(はくよう=ドロノキ、ドロヤナギ)の茂みを通り、咲き誇る花びらに接吻(くちづけ)してゆく。これらの水にうつることごとくの物象が即ち和聲(Harmony=ハーモニー)である。水の流れが歌い、足踏みし、岸の影をやどして流れゆくとき、そこには全き(まったき=欠けたところがない)音楽の象(すがた)がある。」

 

思いついたのは<大正ロマンの香り>。門外漢の私には「そうですか、たしかに・・・」とひたすら頷くしかない。

 

演奏会で使われるさまざまな楽器については弦楽器、管楽器から始まって大型打楽器のティンパニーからシンバル、トライアングル、タンバリンに至るまで詳細な図を紹介しているからこの本を会場に持参しても見比べられそうだ。演奏される曲の作者も器楽・声楽の作家として41人、歌劇では17人を網羅しているから十分すぎるほどだったろう。とくに歌劇はモーツアルトの『魔笛』、ワグナーの『タンホイザー』、ヴェルディの『アイーダ』、ビゼーの『カルメン』というように代表作品の舞台写真を添えている。

 

なかでも「黙想せる」の挿画まで紹介したベートーヴェンには13ページといちばん多くを割いている。

1770年12月16日、ドイツ・ボンに生れた。父はエレクトラル寺院のテノール唱歌者で、祖父もまた協会の楽師長を勤めた人である。父は飲酒家で幼児の家庭はかなり悲惨を極めた。かつ彼は病身であったために常に荒涼たる生活を送り、家庭の温かさを知ることができなかった。このために彼は却って満足を芸術に求めるようになる。日常交際を嫌い、隠遁的な偏狭な生活を送らせた。

 

「田園シンフォニー」、唯一の歌劇「フィデリオ」、「第九交響曲」、「荘厳ミサ曲」を次々に公にしたあたりから聴力を失い、手の指のマヒが進行してピアノが弾けなくなると「音楽家にとってこれ以上の悲惨はあり得ないことである。彼はまた物質的にも非常な貧窮に陥った。彼を扶(たす)けた貴族たちも大方死に、また四散して今は僅かばかりの金を得るさえ困難であった。靴に穴ができたため外出を見合わせることもしばしばだった」と苦しい生活をこれでもかというくらい紹介する。

 

かくして彼は1826年11月に重い風邪にかかり、次第に衰弱して翌27年3月26日、雷鳴とどろき、暴風雨の激しい午後の6時に最後の息を引きとった。彼の葬儀にはたくさんの人の大なる哀悼のうちに行われた。

 

これでお終いかというとまだ続く。さらに代表的な作品の細かい解説が終わると「彼は古典音楽の殿将であると同時にロマン的音楽の最初の人である。音楽はバッハに至って一転し、モーツアルトに至って再転し、ベートーヴェンに至って更に衣を着け替えて近代音楽の急先鋒となったのである。彼は日常寡言、人と交わることを好まず、陰鬱なる性質を懐いて、しかも心中には燃ゆるがごとき情熱と人生に対する愛とをもっていた。ある批評家の言った通り、彼の音楽は「人間の精神から霊火を発せさせるもの」である。その熱烈真摯な点は他のいかなる音楽家も及ばない、と絶賛して結ぶ。

 

ここまで読むとなんというかフーッと息を吐いてしまいそうな・・・。他の人物についてもそれぞれ緩急をつけるように描かれているから持ち主と思われるゴム印「スギモト氏」も繰り返し読みふけったのではあるまいか。

新・気まぐれ読書日記 (53) 石山文也 琥珀の夢(その2)

  • 2018年2月3日 19:05

気の早い読者ならタイトルが『琥珀の夢』だから、信治郎いよいよウイスキーに挑戦するのか、と思われるかもしれない。とんでもない。明治・大正のこの時代、日本酒の需要に比べれば洋酒は微々たる需要しかなく、輸入販売でまかなえたから国産ウイスキーを手がけるという発想すらなかった。たとえ技術や生産設備があったとしても熟成されたウイスキーが商品となるのに早くて5年、ことによっては10年の歳月、まったく利益を生まない時間をかかえなくてはならない。利どころか、借り入れた金の利子を払い続けなければならない。世に幾多の商人がいてもこれまで誰一人として挑んだことはなく、それを「夢」として追いかける信治郎が<酔狂の極み>と言われながら挑戦を始めるのは表紙を紹介したこの下巻でも後半3分の2を過ぎてからである。さまざまな試行錯誤や戦争、天災地変、失敗や事業の撤退などをいちいち書き留はしないがもう少しお待ちいただきたい。


伊集院 静 著『琥珀の夢 下』集英社刊

 

開業9年目、寿屋洋酒店と名前を変えて間もなく誕生したのが「赤玉ポートワイン」である。作業場に籠ること丸二日半、新たな葡萄酒は昇る朝陽のようなお天道さんにあやかって「赤玉」と命名した。ラベルも気に入るまで何度もやり直させた。印刷所のオヤジとはこんなやりとりだった。

「あんさん、そんな赤色ではあかん。空にぐんぐん昇って行く朝陽の、あの真っ赤っ赤やないとあきまへん。一目見たら、あっ、これや、これが赤玉やと目に焼き付く赤やないとあきまへん」

「へぇ~、そやさかい、こうして三晩も店の職人と色出ししましたんだす」

「あかん、三晩やろうが、こないな赤色やあきまへん。すぐ戻って、やりなおしなはれ。あんさんとこの印刷なら博労町で一番の色出しがでけると見込んで頼んでんのや。銭はなんぼかかってもかましまへん。工場の方はもう赤玉がどんどんでけて、あんさんの仕事を待ってんだっせ。その子らに着せる着物だっせ。気張っとくれやす」

 

値付けも東京の「蜂印」葡萄酒を上回る1本38銭と米1升が10銭の当時、4升分に近い価格をつけることによって<真っ向勝負>に出た。とはいえ、販路拡大は自らの体力と持って生まれた愛嬌が頼りだった。四国への売り込みでは高松の得意先や松山の商人宿あてに100本ずつ送り、それを大八車に積んで大洲、八幡浜、宇和島、西条、新居浜をはじめ小さい町まで残らず回った。ひと回りする頃に顔は赤銅色に日焼けし、何度か草履を買い替えるほどで、知らない店では「漁師でもしとられましたかの」と聞かれるほどだった。

 

少し時期は遅れるが、寿屋第一号のポスターとなる赤玉のポスターは、女優の松島栄美子が赤玉の入ったグラスを手に何か言いたげな表情をみせるあのポーズが大評判となり世間を驚かせた。当時の常識からすれば大胆ではあったが半裸になっただけなのに日本初のヌードポスターと噂になり、赤玉を飲まない人たちからも、ポスターが欲しいとの申し出が殺到した。これも合格となるまでには実に1年近い歳月をかけてようやく完成したもので、後にドイツで開催された世界ポスター展で堂々の第一位を獲得した。

 

第一次大戦後は一時的に不況に陥ったが消費の増大が日本経済を下支えした。「赤玉」の売れ行きは地方都市で伸びていった。新聞広告も積極的に出し東京支店を開設するなど進出攻勢を本格化させた。国分商店を筆頭とする関東圏の問屋は信治郎の熱心な説得とさまざまな販売策により「蜂印」と対抗する葡萄酒として「赤玉」をプロモートし始めた。まさに自分の足で開拓した得意先の多さは強みであり、缶詰め問屋として十分繁盛していたから安売りをしなかったのも信用となった。この国分商店とは関東大震災直後に自ら準備した救援物資を海軍省に頼み込んで海路を運び、焼け残った社屋に届けた。集金に来たのかと心配する番頭に残った伝票を出させるとその場で全てを破り捨てて「これで決済は完了だす」と驚かせたエピソードも紹介される。

 

洋酒以外のさまざまな商品開発に信治郎は自慢の鼻と独特の勘で挑戦し続け次々に商品化していく。それでも国産ウイスキー作りへの道はまだまだ遠かった。

 

「誰もやったことのないことをやる」――信治郎のとてつもない夢は「赤玉」の好調な販売があったとはいえ、周到な準備と海軍のような洋酒党の開拓、資金にしても銀行だけではないスポンサーの確保、ありとあらゆる壁があった。

 

必要資金は大正期に入社した大番頭で秘書役でもあった児玉基治たちにこの先5年間で必要となる資金を試算させた。ようやく出てきたウイスキー蒸留所の建設費用は200万円を超えていた。当時の200万円は現在の金に換算すると十数億円になる。これに招聘する技術者の十年間の給与、材料費を加えると全ての金額がどれほどになるか見当もつかない。その上、そこに借り入れた金の利息がかかる。

 

壁のひとつが解決したのは中心となる技術者としてスコットランドで洋酒造りを学んで帰国した竹鶴正孝との出会いだった。京都・大阪府県境の山崎に作られた醸造所に仕込まれた原酒は眠りつづけた。10年間の契約のあと竹鶴は北海道の余市でニッカウヰスキーを興すが、残された原酒が目覚め「サントリーウイスキー12年もの角瓶」として日本特有の切子細工から発想を得た亀甲型のボトルデザインで登場したのは昭和12年だった。美しい琥珀色、黄金の色が売り出しから好調で国産ウイスキーの夜明けを告げるのにふさわしかった。

 

信治郎は「ようやっとでけたんやな。13年か・・・」と次々に入る「角」の注文を聞きながら山崎蒸留所が完成してからの歳月を思っていた。

 

今夜あたり、私もグラスを傾けながらもういちどこの本の余韻に浸ろうと思う。

ではまた

新・気まぐれ読書日記 (52)  石山文也 琥珀の夢(その1)

  • 2018年2月2日 18:40

明治12年の年が明けてほどなく“商いの都”大阪、道修町に近い釣鐘町の一角でひとりの男児が産声を上げた。江戸期から両替商を営む三代目鳥井忠兵衛、こまの第4子、次男で信治郎と名付けられた。道修町は江戸時代から薬種問屋が集まり「薬の町」として知られる。現在では田辺三菱のほか、武田薬品工業、塩野義製薬など日本を代表する製薬メーカーが本社を構えているものの「どしょうまち」と正確に読めた20代は10%を割り込んだことがつい最近もニュースになった<なにわ難読地名>のひとつである。

『琥珀の夢 小説 鳥井信治郎』(伊集院 静、集英社刊)は、その次男坊を主人公にした小説である。13歳で道修町の薬種問屋の丁稚となり、薬種以外の合成葡萄酒の製造などを学び、20歳で鳥井商店を興すと洋酒造りと販売にまい進していく。研究を重ね「赤玉ポートワイン」を発売、さまざまな新事業、新製品開発にチャレンジするなかで周囲の大反対を押し切って日本初の国産ウイスキーの製造事業に乗り出した。鳥井商店は寿屋、サントリーと社名は変わるが、戦争などさまざまな苦難を乗り越えて世界有数の企業となったそのバックボーンには信治郎の「生き方」があった。

いわゆる企業小説や経済小説とは縁がなかった著者が日本経済新聞からの執筆依頼を引き受けたのは「信治郎の生涯を書くことは日本人の仕事に対する考え方、ひいては日本人とは何かということにつながると思ったからだ」と新聞インタビューに答えている。

伊集院 静 著『琥珀の夢 上』集英社刊

 

信治郎は三歳の頃、死地をさまようほどの重い病にかかった。このとき、信心深かった母のこまは御百度参り重ねたが、治ってからは決して体躯の大きくなかった息子の足腰を鍛えようと手を引いて天満天神や四天王寺へ連れていった。人が集まるこうした場所には物乞いがずらりと並んでいた。天神さんへ向う天神橋も別名“物乞い橋”と呼ばれ、橋が近づくとこまは信治郎に小銭をくれるが「お銭(ぜぜ)あげたかて振り向いたらあかんで。振り向いたらあかんよってにな」と鬼のような顔で言い聞かせた。少しでもキョロキョロしようものなら恐ろしく強い力で手を引っ張った。普段やさしい母が、どうして物乞いに施しをした後、彼らを振り向いて見てはならないときつい口調で命じたのかはずっと疑問だったが後年、ある意味の「陰徳」ではなかったかと思い至ったという。

 

信治郎が丁稚奉公に入った小西儀助商店は、倒産寸前まで追い込まれた店を彦根の薬屋で修行を積んだ奉公人だった店主が当時大阪にはなかった薬を刻む技術で借財を完済して身代をつないだ。研究熱心で知られ、店の仕事が終わった後の夜鍋もいとわなかった。信治郎は他の丁稚仲間が敬遠するこの手伝いを進んでつとめるうちさまざまな薬品の調合や活用知識を蓄えていく。手がけたのは合成葡萄酒、ブランデー、ベルモト酒はいまのブランデーである。失敗を重ねながらも実験の手控えだけでなく頭の中に膨大な知識が詰め込まれていった。近江商人に伝わる商売のやり方である<売り手良し><買い手良し><世間良し>の「三方良し」の精神も教わった。「商い言うもんは、山を見つけたら誰より先に登るこっちゃ。人がでけんことをやるのが商いの大事や」ということも叩き込まれた。

 

鳥井商店を開業したのは明治32年2月1日。京町堀と阿波掘にはさまれた細長い土地の間口2間の狭い店だった。商売の中心地の船場とは川を隔てた西へ延びる一画で、淀川から船で入る葡萄酒樽などは店の真裏から直接荷揚げできた。商いの中心となる葡萄酒の製造販売には欠かせない製瓶商が近くにあり、甘味を出すのに必要な砂糖商もある。何より大切な得意先の外国人居留地が橋を渡った中州にあったから、注文を受けるにも納品にも最良の場所だった。自前の「向獅子」ブランドの葡萄酒は東京、大阪だけでなく名古屋、九州圏でも国産のシェアトップの東京の「蜂印」には歯が立たない。経営の基盤となったのは缶詰、洋酒、炭酸水などで、店頭に置いてもらえたとしてもお付き合い程度でしかなかった。しかも日清戦争で軍への大口納入話を仲介した男に代金を踏み倒されて店が潰れかけるなど苦労が続いた。

 

明治39年9月1日に信治郎は屋号を寿屋洋酒店に変更した。新しい門出に際し葡萄酒のラベルもあざやかな金粉を加えた印刷に仕上げ、店内に棚を設けて並べ、問屋にも同じように陳列してもらった。さらに4色の色彩絵具で商品名を浮き彫りにした檜造の宣伝看板を各問屋や商店へ自らが木工店の職人と出向いて掲げてもらうと手代にも看板のお守代として祝儀袋を忘れなかった。得意先を回るのに購入したのは当時、百円、現在なら50万円以上もした輸入品の「ピアス号」で、昼間の船場界隈を「すまへーん、すまへーん、気い付けておくれやす、すまへーん」と猛スピードで走り回った。

 

購入先の五代自転車店の丁稚だったのがのちの松下幸之助で幸吉どんと呼ばれていた。修理したピアス号を届けるシーン。

棚の葡萄酒を珍しそうに眺める幸吉少年に信治郎は

「ところで今、何を見てたんや」

「す、すんまへん。こ、この棚の葡萄酒があんまりきれいなんで、つい見惚れてもうて。ほんまにすんまへん」

「何も謝ることはあらへん。坊の目にこの葡萄酒が綺麗に見えたか。そら、嬉しいこっちゃ」

「坊は故郷(くに)はどこや?」

「和歌山の海草だす」

「そうか、坊は紀州か。紀州は昔からええ商いがでける商人を出しとる土地や。坊も気張るんやで」

嬉しそうに信治郎を見返した目に強い光があったのに気付くとさらに続ける。

「坊には見どころがある。この棚の、この葡萄酒が綺麗やと思えることが商いの肝心のひとつや。商いはどんなもんを売ろうと、それをお客はんが手に取ってみたい、使うてみたい、この葡萄酒ならいっぺん飲んでみたいと思うてくれはらなあかん。それにはどこより美味いもんやないとあかんのや。ええもんをこしらえることが肝心や。ええもんをこしらえるためには人の何十倍も気張らんとあかんのや。そうやってでけた品物には底力があるんや。わかるか。品物も人も底力や。坊、気張るんやで・・・」

信治郎は丁稚の頭をやさしく撫でた。

 

この少年がのちに“経営の神様”と呼ばれる人物になろうとはお互い知るよしもなかったが二人が大阪から日本全国に商いの規模をすさまじい勢いでひろげ、やがて日本有数の企業となってからも、船場出身の商人として、互いに助け合う日々が来る。

(以下続く)

書斎の漂着本 (99) 蚤野久蔵 空母プロメテウス

  • 2018年1月31日 18:28

新聞の訃報で京都在住の作家、岡本好古(よしふる)氏の逝去を知った。(本年1月)7日、虚血性心不全のため左京区の自宅で死去、享年87歳。記事を読みながら駆け出し記者時代に先輩記者のお伴をしてご自宅に伺ったのを思い出した。この先輩とは以前から知り合いだったようで、昭和46年の第17回小説現代新人賞を受賞した『空母プロメテウス』が直木賞候補になったその<予定稿>のための取材だったと記憶する。結局、候補のまま終わったので先輩の記事は日の目を見なかったが書庫の奥に単行本があったはずと、ひと苦労して引っぱり出した。

岡本好古著『空母プロメテウス』(講談社刊)

当時はこうした予定稿や予定写真が当然のように準備された。予定稿は「そうなった場合の予想記事」だが、選挙の場合は「バンザイ写真」が用意された。本社から遠い早版地域は開票結果が出る前に締め切りがあるためで結果が間に合う遅版ではバンザイよりはダルマに片目を入れる「当選ダルマ」の写真が使われた。バンザイ写真の撮影では落選癖のある立候補者が「これだけは今回も元気よく精一杯の声を出しておきますのでご唱和下さい。各社の皆さんよろしいか」などという自虐発言で事務所が失笑に包まれる一幕もあった。いまではテレビのナマ実況が当たり前になり、予定写真もなくなったが選挙事務所からダルマそのものも消えて久しいですねえ。

 

なぜ先輩のお供をしたかというと取材カメラにはまったく笑わないことで有名だった医学博士の取材で<笑わせた>実績があったから。脳の中枢神経系のひとつ錐体外路(すいたいがいろ)系の研究で知られる京都大学の平澤 興(ひらさわ・こう)名誉教授=当時=が勲一等瑞宝章を受けた取材だった。博士は医学部長のあと京大総長を2期6年つとめた。いつもの取材は各社とも科学部やいわゆる「大学回り」記者が担当し内容も専門分野に終始したのと、カメラ嫌いだったのか笑ったところを見せなかった。ところが叙勲記事なら新米の私でも間に合うというデスクの判断だったのかピンチヒッターに選ばれた。事前に「錐体外路系とは大脳皮質の運動野(や)と延髄を結ぶ神経系で不随意筋をコントロールする。不調の場合の代表疾患がパーキンソン病である」くらいはにわか仕込みしたものの医学の専門分野だけに内容についてはちんぷんかんぷんだった。それでも受章の感想などをひととおり聞いた後、「先生、取材前にご専門は錐体外路と聞いて中学校の頃にカエルの足に電流を流すとピクピクするあれかと思いました」と言った途端に破顔一笑。「カエルの実験を思い出したというのは君が初めてだよ」とあきれられたところをすかさずカメラマンがシャッターをパチリ。この写真が取材各社の中では唯一、「受章を喜ぶ平澤博士」ということになったわけです。

 

『空母プロメテウス』はベトナム戦争で「北爆」を担う大型空母プロメテウスに配属された日系二世の海軍軍医大尉ケイル・ハマナカが主人公で、ハマナカが軍港サンディエゴの埠頭から乗艦してわずか数週間後、思わぬ爆発事故により空母がトンキン湾に沈むまでの顛末を活写し、新人賞選考委員の柴田錬三郎、山口瞳、結城昌治、野坂昭如、五木寛之をうならせた。ハマナカが艦内で偶然再会するコネチカットの高校時代の同窓、リチャードはその後、工科大学で流体力学を専攻し空軍パイロットに。すでにこの空母から100回以上の離発着を成功させていたが「おれは飛行機が怖い。恐怖をおさえて飛んできた。だが、慣れることはない。大胆とか臆病というのは男の評価ではない。科学者の君ならわかるだろう。要は過敏か無神経かだ」そして、どうだ、おれの飛行恐怖症はかなりなものだろう、と私(=ハマナカ)をこづき「プロメテウス・・・か、科学を結集した船にこう名づけるなど、海軍も感心にも自己反省しているようだ」と続ける。ギリシャ神話のプロメテウスは天帝ジュピターの許から火を盗んで地上に持ち帰ったが、天罰で内臓を食われたという。「科学・・・人間がこれを乱用しているのを神は怒り給わないか」と私はつぶやいた。そしてその不安は的中する。

 

単行本になったのは翌年5月で同じくベトナム戦争を舞台にした『アロウヘッド』、『鬼軍曹』、『蒼いファントム』と太平洋戦争での沖縄戦に向かう米駆逐艦が特攻機の攻撃を受ける『KAMIKAZE』のいずれも『小説現代』に発表された戦争もののシリーズを収録している。初の単行本だったせいか著者紹介には「英文タイプ業のかたわら、18年前に“得意な想像力”を頼りに小説家を志す。以来大変な試行錯誤の連続。時には吉川英治に凝り時代物を書き、また司馬遼太郎、松本清張のボリュームに圧倒され、ペンを折りかけたのもしばしば。文字通り苦節18年の末、『空母プロメテウス』で選考委員の絶賛を得た」と率直に記している。さらに「あとがき」では「掲げたテーマは<機械と人間>。高々とのぼりを立てたものの、力不足で持ちこたえかねる担ぎ手にはならぬ積りである」と書いている。

 

ここで思わず声を上げるところだった。表紙を描いたのは何とイラストレイタ―の生頼範義(おおらい・のりよし1935-2015)じゃありませんか。このあと、いったん奥さんの郷里、宮崎市に転居したが『スター・ウォーズ』ジョージ・ルーカス監督に見出されてシリーズのポスターを制作するなどして世界的な名声を博した。ならば中表紙も紹介しておきましょう。

岡本氏の取材に戻る。作家の創作現場を訪ねたのはこれが初めてだった。階段をあがった窓のない狭い部屋に照明スタンドを置いただけの木製の机が一つ、原稿用紙はあったか無かったか思い出せないが意外にも本はほとんどなかったのが印象的だった。天井からは釣りに使うテグスにプラモデルの戦闘機が2、3機ぶら下がり、多分、昼間だったと思うが、あるいは夜だったのかはっきりしない。覚えているのは表紙の「スカイフォーク」の模型を手にして動かしながら熱く語った。「パイロットは操縦桿を巧みに動かして急上昇したり、急旋回したりするわけですがコックピットでの孤独はすごいと思う。何キロ、何十キロも先の目標に照準を合わせて瞬時にミサイルのボタンを押す。不意に敵機と遭遇したり、対空砲火を受けたりするリスクが絶えないから生還は期し難いかもしれないし、脱出できたとしても捕虜になる確率も高い。離着艦するのもある意味、はなれ業だ。恐怖で失神しないまでも失禁はしょっちゅうらしい。これは模型にすぎないけれどいじっているとさまざまな想像力が湧いてくる・・・」と。この取材は結局記事にはならなかったが「パイロットの孤独」「恐怖による失禁」「はなれ業」などを断片的に覚えている(ような気がする)。

 

この本をなぜ持っているかというと東京時代に古書店の均一棚で見かけ、なつかしくなって購入したから。お会いした時も時おり前髪が額にぱらりとかかるこんな感じだったが幻に終わったわれわれの「直木賞受賞の予定写真」はもっと表情があったことだけは確かだ。

ヒトラーの時代(28) 池内 紀

  • 2017年12月6日 13:14

「長いナイフの夜」

 

1934年6月30日から7月1日にかけての夜、大規模な血の粛清が生じた。ナチス・ドイツには底流として、つねに残虐劇がつきまとっていたが、これがその幕開けにあたる。一般には少々芝居がかった「長いナイフの夜」と呼ばれた。ヒトラーの指令のもとに、SS(親衛隊)と、創設されてまのないゲシュタポ(秘密警察)が総動員され、全国のSA(突撃隊)幹部らを襲撃、銃殺した。粛清されたのは政府発表では77名、パリの「粛清白書」には400名。戦後の調査では1000人以上にのぼる。反主流派を殲滅(せんめつ)させて、ヒトラーによる権力掌握の決定的な日となった。

本来、ナチスの防衛団であるSAを、その母体から生まれたSSが、どうして襲撃したのか? それについてはSAの成り立ち、以後の発展、指導者をたどらなくてはわからない。

一九一九年のワイマール共和国誕生とともに、さまざまな政党が誕生した。共産党、社会民主党、国家人民党、中央党、ドイツ国権党……、ひところは二十にあまる政党が林立していた。絶えず離合集散し、多数派をつくって政権についても、たがいに足を引っぱり合って何ごとも決まらない。短命の政府があわただしく入れ替わる間に、天文学的インフレが進行し、一時はドイツ通貨が用をなさなくなった。

突撃隊員と共にSAの行進をながめているシュトラッサーとゲッペルス。1931年。このときはまだ宿敵同士ではなかった。

突撃隊員と共にSAの行進をながめているシュトラッサーとゲッペルス。1931年。このときはまだ宿敵同士ではなかった。

当時の主要な政治的メディアはホールや広場での演説である。ラジオは始まっていたが、受信機が高価で、一般の人には手が出ない。党首が演台、あるいはベランダに立ち、長々と演説をする。それを支持者が取り巻いて、要所ごとに熱烈な拍手を送った。

当然、反対党が妨害にくる。支持者が撃退に打って出る。政治集会がしばしば乱闘の場になった。そのころの写真は、広場を埋めた大群衆の一方で、つかみ合い、殴りあう山高帽や鳥打ち帽のむれを伝えている。

おのずとどの政党も防衛団をそなえていた。極右団体にかぎらず、リベラルな党も屈強な若者をよりすぐって演説防衛隊をつくり、演台の周りに配置した。ワイマール憲法は、世界でもっとも民主的な憲法といわれたが、各政党はいずれも、前近代的な暴力組織に頼っていた。

1921年7月、ナチスの臨時党大会でヒトラーは党首に選ばれ、直ちに組織の改変に取りくんだ。これまで「整理隊」「秩序隊」「警備隊」などと呼んでいたのを「体育・スポーツ隊」に統一した。会場防衛が任務で、具体的には共産主義者の妨害を排除する狙いがあった。「体育・スポーツ」の名称は無害化して目的をくらますためだったが、意味不明で意気が上がらないといった声が隊員から出てきたのだろう。二カ月後の9月、「突撃隊(SA)」と改め、11月の党大会で正式に発表した。弱小政党ながら、それまでに何度か、集会場の乱闘で勝利を得ており、勇ましくて格好いい名称に昇格したわけだ。ヒトラーの古くからの盟友エールンスト・レームが突撃隊指揮官についた。

レームは一八八七年、ミュンヘンの生まれ。ヒトラーより二歳年長。第一次世界大戦では陸軍大尉であって、この点で伍長どまりのヒトラーのはるかな上官にあたる。軍事組織をつくる才能の持ち主だったのだろう。ミュンヘン一揆失敗のあと、党首ヒトラーが入獄中に「戦線団(フロントバン)」という三万人の組織をつくり、それをそっくり再建されたナチスの突撃隊として採用した。

ヒトラーにとってはSAはナチスの下部団体だが、育ての親レームには、自立した軍事部門であり、いずれナチスが政権につくときには、国防軍を補助する予定だった。そんな両者が折り合うはずはなく、一九二五年四月、対立が激化してレームは突撃隊指揮官を辞任した。ヒトラーは党員ザロモンを後任に任命、レームはボリビアより軍事顧問に招かれ、ミュンヘンを去った。

やがてナチスは国内の政情不安のなかで着々と勢力をのばし、1930年の国会選挙で第二党に躍進。この間、突撃隊は着実に増加したが、その一方で不満が高まってきた。薄給に据えおかれ、党員でありながら国会議員選挙の名簿にも加えられない。

共産党員とSAの睨み合い。1933年1月。ベルリン共産党本部前。

共産党員とSAの睨み合い。1933年1月。ベルリン共産党本部前。

1930年8月には、ベルリンの東部SA副司令官が部下を率いて、ナチス・ベルリン大管区長ゲッベルスの選挙演説を妨害する事態になった。守るべき者が逆に妨害を引きおこした。ザロモンが辞任したが、責任をとったというより、いっこうに改善されない待遇を党本部に抗議するためだった。さしあたりヒトラー自身が指揮官を兼務しつつ、急遽ボリビアのレームに帰国を促し、あわせて突撃隊員の報酬増額を約束した。

11月、レーム、帰国。ナチス突撃隊幕僚長に就任。一方、ヒトラーはSSのSAからの分離を指令した。SS隊長ヒムラーの要請に答えたもので、SAの指揮官はSSに命令する権限を持たない。独立を強調するため、SS独自の黒い制服を定めた。

以上が「長いナイフの夜」の前史にあたる。この間の三年間にレームの育成のもと、突撃隊は300万を数えるまでに増大した。国防軍をはるかに凌駕する勢力である。ヒトラーが権力を掌握し、全権委任を取りつけて二年目。1934年の初頭から、出所不明の不穏な風評がひろまっていた。SAが武装蜂起するというのだ。ヒトラーはわざわざナチ党の二番目の実力者レームに公開書簡を送り、「ともに協力して共産主義者との戦いに勝つこと」を呼びかけた。

これが1月のこと、ついで2月、ヒトラーは国防省にSAと国防軍の幹部を招き、双方の妥協と、国防軍の優位性をうたった協定書にレーム(SA隊長)、ブロンベルク(国防相)に署名させた。SAの準国防軍的役割を明確化したものだったが、レームはその夜、ひそかにSA幹部を集め、自分は協定を守るつもりはないことを言明した。「彼(ヒトラー)が一緒に来ないならば、我々は彼を置き去りにして進む」というのだ。秘密の会合のはずだったが、幹部の一人ヴィクトール・ルツェよりヒトラーにこまかく内報されていた。

6月始め、再びSAの武装蜂起の噂が流れた。6月5日、ヒトラーはレームと五時間に及ぶ会談をした。国防軍は国防相より、SAの武装蜂起にそなえ、完全武装で待機する命令をうけていた。一方、ヒトラーは内閣改造を実施して、レームを無任所相として入閣させる案を示していた。懐柔策でライバルを取りこもうとしたようだ。エルンスト・レームこそもっとも古くからの同志であり、ヒトラーとは唯一「おれ」「おまえ」で話せる仲だった。何としてもこの軍事的才能を、手元にとどめておきたかったのだろう。

粛清に傾くのは、副首相パーペンの演説あたりと思われる。6月17日、パーペンはマールブルク大学で政府の言論の自由禁止を非難し、SAによる第二革命に言及した。脅威としての警告を装って、SAの武装蜂起を期待していることはあきらかだった。蜂起を理由にヒンデンブルク大統領の命令で戒厳令を敷き、首相を解任するというのだ。パーペングループにそんな筋書きができていたらしい。

SAと社民党員との殴り合い。1932年。

SAと社民党員との殴り合い。1932年。

グループのメンバーの作家エドガー・ユングがパーペンの演説原稿を書いたとされている。ゲッベルスは演説の危険性を察知して、ラジオ、新聞の公表を禁止。パーペンは抗議して副首相辞任を申し出たが、ヒトラーは拒絶した。内閣の混乱を知られたくなかったからにちがいない。粛清後のことだが、パーペンは副首相を解任され、ウイーン大使に送り出された。演説原稿の起草者ユングは7月1日に殺された。

6月21日、ヒトラーは車椅子の大統領を訪問。もしSAの問題が解決されなければ、大統領令の戒厳令の下に首相の権限を陸軍にゆだねる旨の警告を受けた。ヒトラーがレーム派粛清の舵を切ったのは、この瞬間からだろう。直ちにゲーリング、ゲッベルスらと入念に最終計画を練った。

6月28日、すべてのSA上級指導者は二日後、バート・ヴィースバーデンでの会談出席を申し渡された。

その日、つまり6月30日、ヒトラーはゲッベルス、及び少数の側近とボンから飛行機でミュンヘンに飛んだ。早朝4時30分着。車で、レーム以下のSA幕僚たちの宿泊しているバート・ヴィースバーデン郊外のホテル・ハンゼルバウアーに向かう。到着午前七時。まだ全員が寝静まっているころあいである。即刻、よりすぐりの親衛隊により粛清が開始された。

一方、ヒムラー指揮下のSSとゲシュタポは、全国のSA支部を襲撃、レームの息のかかった者たちを銃殺。さらに別働隊が元首相シュライヒャー、元ナチ党員幹部シュトラッサー、元バイエルン首相フォン・カールらレームに肩入れしていたと思われる有力者の自宅に向かった。シュトラッサーはゲシュタポの拘禁所に連行され、射殺された。(公式には自殺と発表)。シュライヒャーは自宅でくつろいでいたところ、料理番の女に案内されて二人の客が訪れた。机に向かっている人は主人かとたずね、当人が「そうですが」と答えた瞬間、銃声がした。夫人が走り寄ったところ、これも撃たれた。

レームは逮捕され七月1日の午後、シュターデルハイム刑務所の独房にいた。その処置をめぐり協議したところを見ると、ヒトラーは苦難時代からの盟友の処刑に逡巡したようだ。ゲーリング、ゲッベルス、ヒムラー、いずれも処刑を進言。レームは翌日、独房内で射殺された。これを待ってブロンベルク国防相は「非常事態宣言」を解除した。

7月2日、大統領ヒンデンベルクは年来の友人フォン・シュライヒャー夫妻の殺害に憤慨して、事件の捜査を要求した。しかし、五体不自由の身で、メッセージすら伝えられず、逆にナチスが起草したヒトラー宛の祝電に署名を強要された。文面は親ナチスの官房長官の手になったと思われる。

「あなたが決断力のある行動と勇敢さによって反逆を芽のうちに摘み取り、ドイツ国民を重大な危機から救ってくれたことに、余は心からの感謝を伝え……」

7月3日、政府は「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」、並びに「国家緊急防衛法」を閣議決定。直ちに発表された。法律は単一条文により、全文は次のとおり。

「1934年6月30日、7月1日、2日の叛逆および売国的攻撃を鎮圧するために執られた諸措置は、国家緊急防衛として正当なものとする」

殺した上で、殺しを正当化する法律をつくった。

7月13日、ヒトラーは特別国会で「6月30日事件」にわたり、二時間に及ぶ演説をした。同時中継で国民向けラジオ放送も実施された。まず今回の事件の犠牲者は74名、3名の「自殺者」があったと伝えた。

「我が国の歴史のうちに悲しみと同時に警告の追憶となるべきこのたびの危機が、いかにして生じ、それがいかにして克服されたか、諸君に対し、また国民に対して明らかにするのが当演説の目的であり……」

すべての報道がナチス管理のもとに一元化されており、民衆操作は意のままだった。終了の時点から、事件は直ちに勧善懲悪劇にすりかえられた。大々的な殺人を「道徳的粛清運動」に仕立てあげる。そのためにはレームのホモ気質が格好の理由になった。6月30日の夜、SAのメンバーが、ずっとのちにイタリアの映画監督ヴィスコンティが「地獄に堕ちた勇者たち」で描いたような性的放埓を呈していたかどうか疑問だが、妄想の素材を提供していたことは確かである。国民はヒトラーの「決断」に喝采を送り、救世主神話を高めていく。

以後、SAが党内の非政治的補助組織となったのに対して、SSがヒムラーの指揮のもとに強力な別動機関として育っていった。さながら国家の中の国家であって、そのメカニズムのおもむくところ、総統の威光をも凌いだのである。