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昭和の大家族の風景    岡崎正隆

  • 2022年12月28日 16:17

私の幼少期を語るには父のことに触れざるを得ません。なにしろ、私が誕生した時、父はすでに50歳でした。父は明治27年、日清戦争の年に生まれたのです。因みに、芥川龍之介は明治25年生まれ。

父と私の年の差は50歳、パパと呼んだ記憶はありません。末の弟は私と一回り以上、離れておりましたので、父をどう感じていたのか。母が私を生んだ時は20歳、今年96歳になります。今でも30歳差の夫婦はめったにおめにかかりません。

父は19歳で現在の名古屋大学の医学部に入学し、卒業後は名古屋大学、順天堂大学に勤務し、27歳の時、実家のある宇都宮で開業。その年、女医と内縁関係となりますが、結婚する意思はなかったようです。子供が生まれたため、仕方なく養子縁組して入籍。医院を開業したものの数年で閉院し、再び、名古屋大学の研究科に入学し、博士号を取得します。当時の地元紙は報じています。

「姿を消して幾星霜 博士となって帰郷」「医学博士となる 下野中学校出身 相撲好きで有名な人」の見出しのあと、「医学博士になった同氏は豪放磊落で逸話に富んだ人物で、殊に相撲好きなのは有名であった。何を感じてか、突如医院を閉じ飄然、姿を消したので不審の眉をひそめた者も少なくなかったが、なお研究の必要ありと名古屋大学の研究科に進んだ」記事は長々と研究内容まで紹介しております。その間、形だけ入籍していた女医との間で離婚訴訟を起こしております。このことも地元紙は五段抜きで掲載しております。「別居十余年の医師 更に解消の訴訟 父を見ぬ愛児を抱いて帰る日を待つ女医」

一市民の離婚問題を新聞ダネにすることは今では考えられないことです。

研究科を卒業すると、商船三井の船医として9年間も世界中をまわり、“ドクトル・マンボウ”気分で船旅を楽しんでいたのかもしれません。

船医を辞め、再び名古屋大学の医学部に2年間、勤務のあと、長野県駒ケ根市の院長に抜擢されたのが49歳のときです。院長の社宅の前に母の実家がありました。どういういきさつで結婚したのか、健在の母に問いただしたことはありません。なにしろ、歳の差が30歳です。この偶然の、運命的な結婚がなかったら、私はこの世に存在しませんでした。

戦後、GHQの勧告で農地解放があり、不在地主は土地が没収されるとのことで、昭和22年、私が2歳のとき、家族は実家の宇都宮に戻り、父はそこで開業することになります。

父の前の代まで地主でしたので、広い屋敷がありました。大谷石の塀は数十メートルもあり、敷地内には大谷石でできた米蔵が二棟、農機具を入れる納屋、小さな神社、交番、郵便局、竹やぶの隣は家畜小屋で、山羊、羊、鶏、豚を飼っておりました。そのほか、弓場、土俵、伝書鳩の小屋までありました。門から玄関まで数十メートルもあり、夜の塾の帰りのとき、怖くて夢中で走ったことを覚えております。毎年、羊の毛を刈る人や茶摘みの女性の作業を眺めるのが楽しみでした。自宅のそばの田んぼの田植え、稲刈りを手伝ったこともあります。当時、田にはイナゴが大量に発生し、イナゴをビンに入れて、学校に持っていくと肝油が支給されました。田んぼで賑やかに鳴いていたカエルの声が忘れられません。父は大学の相撲部に所属しておりましたので、実家の庭に土俵を作りました。父は栃木山、男女の川がひいきで彼らの手形と父の手形が額に飾られて実家に残っております。私と弟たちの手形もあり、全員、相撲のまわしを持っておりました。父の耳たぶはつぶれていたため、私は子供のとき、父の耳を見て、聴診器が落ちないために、あんな耳になったんだと思っておりました。

村祭りには相撲大会がありました。土俵の近くの大きな桜の木の下で家族だけでなく、近所の人を誘って花見の大宴会を毎年、やっておりました。相撲大会のほか、映画の上映、田舎芝居の興行も敷地内で行われました。

家族は両親、父の妹、子供たちの9人でしたが、里子が7、8人おり、大家族でした。父は実子と同様に里子もすべて平等に育てました。そのことが新聞に載ったこともあります。いちばん苦労したのは母親です。これだけの人数の手料理はできませんので献立はいつもちゃんこ鍋かすき焼きです。すき焼きのときは父と町まで牛肉の買い出しに出かけ、肉屋の主人とも親しくなり、私は将来、肉屋になるんだと、本気で考えたほどです。当時は炭でしたので七輪だけでも四卓も用意しなければなりませんでしたが、楽しい夕餉でした。後年、テニスクラブの友人18人、文春野球部の10人を連れて自宅で合宿したことがありますが、母は動じることなく、全員に料理を作ってくれたのも大家族で培った賜物です。風呂を沸かすのも今と違って大変でした。私が当番のときは薪割りから始まり、新聞紙に火をつけて熾すのですが、なかなか点火せず、竹藪から取った竹の吹子で風を送って、火を絶やさないようにしました。その火の明かりで読書をしたこともあります。

夏の風物詩ですが、毎週日曜日は歩いて10分ほどの鬼怒川での水浴びです。帰宅すると、全員、広間で大の字になって昼寝し、そのあと、井戸水の風呂で冷やしたスイカのおいしさは格別でした。夜は広間いっぱいに吊らされた蚊帳の中で寝ました。

父は氷点下の真冬でも毎朝、冷水をかぶり、開けっ放しの廊下で今でいえばストレッチを真っ裸でやっておりましたが、私にはとうていマネのできないことでした。父と弟たちと一緒に鬼怒川の土手でよくランニングをしました。私がマラソンに夢中になったのも幼い日のランニングがよみがえったせいかも知れません。父の盲腸の手術にも何度か立ち会ったことがあります。母の運転する車で夜遅くの往診に同行したこともあります。この時、医者にはなりたくないと思いました。

父が市会議員に立候補したとき、母屋には支持者が大勢いて、私たち子供は病室で寝泊まりすることになり、この経験から政治家には絶対なるまいと思いました。小学5年のとき、町の英語塾に一時間かけて通いましたが、生徒はほとんど中学生で、授業についていけず、塾をさぼって、東映の時代劇ばかり見ていました。読書に目覚めるのは、中学に入ってからのことになります。

 

そして名古屋の子どもたち    校條 剛

  • 2022年12月28日 16:09
元・新潮社

 

 

 

今回は、私の幼少期の思い出を書いてほしいというリクエストです。

私は小学校を五回変わっています。東京杉並区沓掛小学校に入学し、卒業したのもやはり杉並区の桃井第二小学校ですが、その間、兵庫県尼崎市の園和小学校、同じく神戸市の高羽小学校、さらに愛知県名古屋市の東山小学校と転校しています。

サンドイッチに譬えると初めと終わりのパンの部分は東京ですが、具の部分は関西・中部地方であったわけです。父親の転勤に素直に従っていたら、京都と豊橋が加わっていたのですが、中学校からは東京の荻窪近辺から離れませんでした。

入学したときの一年生のときのことで覚えているのは、岡(実名)というまだ若い男性教諭が四六時中怒鳴っていて、飛び出た眼球の白目の部分を赤く充血させている顔ばかりです。我々は「団塊」の最後っ屁を飾る世代ですから、児童数は一クラス優に五十人を超えていました。教師も児童一人一人の事情なんかには手が回らなかったのでしょうが、それでもね。小学校生活の出だしは最悪。

児童数の多さはどの学校に変わっても弊害でしかありませんでした。二年生から転校した尼崎の小学校では、二部授業といって、午前と午後でクラスが入れ替わりました。同じ机を二人で共有するわけです。午前中登校して、午後は帰宅する、あるいはその逆もあったかもしれません。給食はもちろんありませんでした。

尼崎には数ヶ月しか居らず、すぐに神戸市灘区の省線(国鉄?)六甲道駅の近くに転居しました。六甲山の麓にある高羽(たかは)小学校には、越境して入学していました。本来の学区では六甲小学校なのですが、母親は成績のいい優良校に子どもたちを入れたがりました。当時は、学区内の知り合いに頼んで「寄留」という行為が当たり前に行なわれていて、その家の住所だけを借りて申告するのです。

高羽小学校は、神戸市内でも最高ランクの公立小学校だったので、定期券を首に提げて、省線や阪急で通ってくる同級生がたくさんいました。まだ偏差値の高い私立校など存在しない時代で、最終的には東大や京大に通じる公立ルートを確保しようと教育熱心な家庭では一所懸命だったのです。

しかし、この小学校にもいい思い出は少ないです。比較的豊かな家の子どもが多いといっても、やはりさまざまな地域からやってきています。神戸は山口組の発祥の土地ですから、「ガラの悪さ」では、大阪か神戸かというくらい天下無双の地方です。チンピラまがいの子どももいて、何の理由もなく「しばくぞ」と、ポケットのなかから肥後守という折り畳みのナイフを出して脅しを掛けてきたりします。どこそこで、不良が待ち伏せをしているぞという情報が入ると、遠回りして別の道で帰宅したりしました。

学校給食がありましたが、その不味いこと、不味いこと。いまでも思い出すのは、豆腐とゴボウの煮物です。しかも、それをコッペパンのお菜として食べろというのです。残した給食は自分で持って帰るのがきまりでしたから、給食袋には食器からはみ出した残飯の臭いとともに醤油の色で染まっていました。神戸を美食の街と思っている人には意外な話でしょうが、庶民の実情はそんなものでした。

給食の話題続きで、小学校五年の一学期だけ住んだ名古屋に飛びましょう。今日の話のエッセンスはこの土地にあります。

私が住んだのは千種区唐山町というところで、まだ地下鉄は出来ておらず、市電の駅がすぐ傍にありました。唐山町から二駅目くらいが、有名な東山動物園駅です。つまり、東山動植物園のすぐ近くに転居したのです。

現在のこの場所は名古屋市の中心部といっていいほどレヴェルの高い住宅地ですが、昭和三十五年当時は、神戸よりもはるかに田舎っぽい地域でした。学校の近くの池で、アメリカザリガニを吊ったり、田んぼの用水でぶっといドジョウを捕まえたり。名古屋大学のキャンパスも近かった記憶があります。そのキャンパスに付属する池を周遊する銀ヤンマのツガイを捕虫網でとったりもしました。

給食の話の続きをしなければなりませんね。実はこの名古屋市立東山小学校は、全国給食コンクール(ってものがあったそうです)で、三位という栄冠を勝ち取った有名校だったのです。確かに、この学校の給食はそのあと体験した東京の小学校のかなり上を行っていました。大げさに言えば、この学校のポテトサラダの味がまだ舌に残っていると言っていいほど美味しかったのです。念のため、当時は現在のような集中給食センターなるものはなく、すべて自校でつくっていました。

突然ですが、仁丹ガムをご存じでしょうか。正式な名称は知りませんが、その時代、板ガムのおまけにプロ野球選手のカードが一枚入っていたのです。選手の上半身写真入りの板ガムと同じ形をしたカードで、チームごとにカラーが違っていました。タイガースはオレンジ、ジャイアンツは薄緑という具合に。このカードほしさに仁丹ガムを買うという少年たちも多かったことでしょう。

私は野球ファンではなく、相撲のほうに興味があり、若乃花びいきでしたが、やはり野球のこととなると長嶋茂雄選手は特別の存在でした。まだプロ入り三年目でしたが、すでに少年たちのあいだでも最高の人気を保っていたのです。

仁丹ガムでは、タイガースの安達とか、地味な選手ばかりを引いていた私でしたが、ある日、なんということでしょう、長嶋選手のカードを手にしたのです。さっそく見せびらかしていたのですが、同級生の今枝(実名)というヤツに取られてしまいました。

今枝は決して粗暴な不良ではなく、ある意味いい奴なのですが、何分、話すことの半分はウソというような虚言男だったので、クラスの「正義の少年」たちからは阻害されていました。

転校してきたばかりの気の弱そうな私からことの経緯を聞いた「正義漢」たちは今枝を追い詰めて、私の長嶋カードを取り返してくれました。

名古屋のカッコいい少年たち! 東京でも神戸でも少年の髪はぼっちゃん刈りが当たり前だったのに、この土地では正義のダンディーたちは、横分けをしていました。

彼らは、それぞれが極めて個性的でした。男児は男気があって、弱者をかばい、美男が多く、女児たちは気品と優しさと芯の強さを示し、しかも美人揃いでした。

名古屋畏るべし。

東京に戻ることになったとき、周囲からは「東京の学校はたいへんだよ」と脅かされていました。なにしろ、日本の首都なのですから、全国でも最高レヴェルの子どもたちが集まっているのだからと。

しかし、東京に転校した時に、その心配が的外れであったことを知りました。東京の子どもたちは、あまりに「角」がなかったのです。あまりに個性がなかったのです。

これ以上、言い募ると差し障りがありますので、東京の子どもたちについては、このくらいに。

 

名古屋の同級生たちのなかで、名前を覚えているのは三人だけ。今枝はともかく、あとの二人、えくぼの可愛かった河合君! 親友だった近藤君! 顔は覚えてますが、名前を忘れたその他のみんな、どうしていますか? 元気でやっているよね? 僕のほうもなんとか元気でやっています。

 

 

子どものころのオリンピック    齋藤俊夫

  • 2022年12月28日 15:56

元・電通

私が初めてオリンピックに出会ったのは、メルボルンオリンピックの時で、その時小学校3年生であった。その前はヘルシンキであるが、五歳なのでほとんど覚えていない。メルボルン五輪ではラジオ放送があり、水泳の中継をよく憶えている。特に一五〇〇メートル自由形で山中選手とオーストラリアの選手が競り合っていたのが耳に残っている。山中選手は惜しくも銀メダルだった。二〇〇メートル平泳ぎで古川選手が金メダルを取ったが、二〇〇メートルはあっという間に終わってしまうので、印象に残ってない。この大会で日本は4個

金メダルを取った。古川選手の他に、体操鉄棒で小野選手、レスリングの笹原、

池田両選手である。水泳、体操、レスリングが日本のお家芸といわれるようになった。

次のローマオリンピックでは、テレビ放送で見ることができるようになった。

このように回を重ねる毎に、放送するメディアが進歩していく。さらに次の東京オリンピックでは、カラー放送が始まったわけである。

ローマオリンピックをテレビで見て、憶えているのは、体操の小野選手の活躍。男子団体で見事金メダル、小野選手個人も鉄棒で金メダル。メルボルンに続いて連覇。「鬼に金棒」をもじって「小野に鉄棒」と称賛された。小野選手は跳馬でも金メダル。3個の金メダル獲得の偉業を成し遂げた。この大会で日本選手の取った金メダルは4個。あとの一つは体操徒手の相原選手。全部体操で取ったわけである。テレビ放送で印象的だったのは、閉会式で電光掲示板に「ARRIVEDERCI A TOKYO(東京で会いましょう)」と表示されたことだ。いよいよ東京へオリンピックがやってくるという思いが湧いてきた。

そして4年後、東京オリンピックの年となった。ENGLISH AID という来日する外国人に道を教えたりする、ボランティアみたいなことができるようになるための養成講座があり、友人が応募していたので一緒について行った。講師はNHKのTV語学番組に出ていたハリー・クイニ―という人だった。1日ぽっきりの講座で、その後具体的に活動することなく、オリンピックムードを感じるだけで終わった。しかしそのことで、オリンピックを実際に観てみたいという思いが強くなった。

観るには入場券が必要。入場券の一斉発売の記事を新聞で見つけ買いに行こうと思いついた。しかし、その日は平日。当時通っていた学校は埼玉県の熊谷。チケット販売は、東京。行って帰ってくるのにかなりの時間を要する。まさか休むわけにもいかない。そこで思いついたのは、出席を取るのは、1時間目だけなので、2時間目までの休み時間に学校を抜け出し、最後の6時間目までに戻れば良い。中抜けというかキセルみたいなもの。しかし一人でやるのはどうもと思っていたところ、同級生に同行の士を見つけることができた。彼は何と射撃というマイナー種目を希望していた。季節はたしか7月だったと思う。そうすると制服はなしで、ワイシャツだけなので目立たない。

そして、決行当日一時間目終了後、うまく学校を抜け出した。正門からだと校舎から見えてしまうので、横の出口から脱出。熊谷駅から東京へ向かった。入場券の販売所は交通公社(今はJTB)やプレイガイドで種目別に何か所かに分かれていた。先ずは神田の交通公社で友人が射撃のチケットを入手。次に銀座の十字屋へ行く。(当時十字屋はプレイガイドをやっていた)買った種目はホッケーとサッカー。人気の陸上や水泳、バレーボールなどは当然売り切れていた。恐らく開店前の朝早く並ばねば買えなかったであろう。従ってそれは最初からあきらめていた。ただ、オリンピックを見られれば良いと思っていたので、競技種目のこだわりは無かった。ホッケーは見たことがなく、珍しさもあって選んだ。サッカーは、秩父宮、駒沢、大宮、横浜の4会場あったが、家にわりと近い大宮でのゲームにし、母親、兄貴の分も合わせ3枚購入した。こうして無事使命を果たし、午後には何食わぬ顔で学校に戻ることができた。

十月になり、十日の開会式を迎える。テレビ中継を見たが、どこで見たのか思い出せない。当日は土曜日だったので、家で見ることは可能だったはず。しかしカラーで見た憶えがある。日本選手団の赤のブレザーが鮮烈な記憶となっている。その頃家のテレビは白黒だった。開会式はファンファーレで始まり、続いて古関裕而作曲のオリンピックマーチに乗せて各国選手団の入場。最後に聖火の入場。坂井選手が場内を一周。聖火台への長い階段を駆け上る。階段脇に合唱団が陣取っており、その中に学校の音楽担当の先生が居て、いいところにいるなと思ったものだ。苦労して買ったチケットを持って、実際の競技を観に行ったのはその3~4日あと。学校ではオリンピックを観に行くのは欠席にしないとなったので、正々堂々と制服を着て出かけた。ホッケーの会場は駒沢だったので、渋谷から玉電に乗った。初めての経験だった。正面が卵形のまあるい電車でユニークだった。5年後に玉電は廃止になったので、良い思い出となった。試合の対戦は、ドイツとオランダだったと思う。オレンジのユニフォームが印象的だった。サッカーの試合は大宮であり、チェコとブラジルの対戦だった、チェコのユニフォームは白、ブラジルは今も変わらないカナリア色。勝敗は0対0で伯仲していたが、後半にチェコが一点ゴールして勝利した。

試合終了後、出口で待ち構えて何人もの選手からサインを貰った。サインは期間中、選手村や町中でも集めてサインブックとなったが、今はどこへ行ったか

見当たらない。オリンピック期間中、競技を見るだけでなく競技会場周辺や銀座の街、選手村などを回ったことがあった。各国の選手がそれぞれカラフルなお揃いのブレザーを着て、闊歩している姿を見て、これがオリンピックならではの風景なのだなと強く感じた。世界が東京に集まって来ていると。選手村は今の代々木公園。ゲートに待ち構えて、出入りする選手開催となったからサインを貰った。

他の日はテレビ中継を見ていた。学校にも体育館にテレビが置かれ、授業の合間に観ることができた。オリンピックの期間は一五日間であったが、まさにどっぷり浸かったわけである。振り返ると、若き頃のことで一番憶えているのはこの時のことである。世界を身近に感じることができ、その後の人生に少なからず良い影響を与えてくれたと思う。また、このオリンピックは日本の国と国民に大きな自信と活力を与えたと言って良いだろう。

少し蛇足になるが、今年のオリンピックは、やったという記録が残るだけで

人々の間に残るものの何と少ないことか。国の借金は沢山残った。本来は世界の人々が集まることがオリンピックの大義ではないかと思う。単に選手だけでなく。選手は来ただけで、日本の人々と触れ合うことなく帰って行った。開会直前まで、開催の是非論が飛び交ったが、結局無観客開催となった。人々は、画面を通してオリンピックを観るしかなかった。折角東京でやっているのに、誠に味気ないこととなった。最近とみに画面で済ませてしまうことが多い。画面を通じては伝わる情報の質量共に実際より少ないものになってしまう。東京オリンピックの一年延期が決まる前の昨年3月に、二年延期を提案した人がいた。組織委員会の理事で、私も知っている人だった。そうすれば、少しはましだったかもしれない。不可能なことではないはずだ。一年延期を決めたのは時の政権の意向が反映されていたのではないか。どうもスポーツに政治が介入してくるのは良い傾向ではない。とにかく今回のオリンピックは様々なことを浮き彫りにさせてくれた。そういうことでは意味があったのかもしれない。

こどものころのことがテーマなので、ちょっと脱線し始めたのでこの辺で。結局は「昔は良かった」ということなのか。少し寂しい気がする。

色は匂へど散りぬるを我     梶屋隆介

  • 2022年12月28日 15:12

「恋」の記憶というものは、その時の「あなた」を思い出せる、思い出したいということだ。だから、思い出せない「色の事」は「恋」とは呼ばない。

甘かろうがしょっぱかろうが、香しかろうがそうでなかろうが、記憶されていれば「恋のむかし話」はいつでも始められる。

恋のむかし話の系統樹を辿ってゆくと、新ピンのトヨペット・クラウンの車内の匂いがした。昭和三十三年春、幼稚園の卒園を間近にした頃のことになる。丸山恵子という女の子が同じふじ組にいた。家が近かったので、帰りによく一緒に歩いていた。会話はない。途中にあるパン工場の前を通る時に、ふたりで鼻をクンクンさせて空を見上げていただけだ。

その丸山恵子がこう言った。「うちにクルマのきたけん、今日、乗ってみらんね」。

寄り道をして彼女の家に行くと、トヨペット・クラウンがピカピカに輝いていたのだった。黒とシルバーの観音開きドアのトヨペット・クラウンだった。この一台でゆうに家が建ったはずだ。後ろの座席に座らせてもらって、丸山恵子と鼻をクンクンさせて高級車の匂いをかいだ。彼女が「パパ」と呼んでいた父親が、クルマを発車させてくれることはなかった。「パパ」は開業医だった。丸山恵子は卒園すると地元で唯一のお坊ちゃんお嬢ちゃんの学校へ進んだ。女医への道を歩み始めたのだろう。私は小学校二年生まで、パン工場の前で鼻をクンクンさせて胸いっぱいに酵母の香り吸い込み、空を見上げていた。

系統樹を少し上がってみる。ネアンデルタール人からホモ・サピエンスに行きついた頃合いだ。世渡りに長けた子も出てくるもので、そういう子にくっついて行って、パン工場の裏口でもじもじしながら立っていると、おばさんがやってきて五円玉と引き換えに乾袋いっぱいのパンのクズが手に入ることを教わった。多くは食パンの耳だったが、運がいいと菓子パンの残りものの山に当った。小学校三年生になっていた。パンの切れはしを頬張って三角ベースボール、凧あげ、紙ヒコーキ作りに忙しいから「恋」はない。

小学校四年生になった日、ひとりの女の子が転校してきた。「大阪の豊中から来ました」と彼女が挨拶をした途端、クラス中が笑った。『てなもんや三度笠』や藤山寛美の松竹新喜劇のテレビ放送にも笑いころげていたが、この時の笑いは違った。オレたちと同じ歳の女の子が藤田まことや白木みのる、藤山寛美と同じようなイントネーションでしゃべるという「発見」であった。

驚いた。驚いた時の感情表現は、小学校四年生のイナカの子らには笑うことしかできなかった。以来、糸木恵子は学校ではほとんどしゃべらなくなった。

そして冬が来たある日、昼休みの校庭で彼女がひとりで鉄棒をやっていた。片脚を鉄棒にかけて、後ろへクルックルッと回っている。鮮やかな緑色の毛糸のタイツがクルッ

クルッと回っている。大阪の都会の色だと思った。あの頃のイナカの女の子は、いったい、冬は何をはいていたんだろう。その日によってオレンジ色や黄色や空色に変わる毛糸のタイツは、糸木恵子だけのものだった。

ランドセルの中にしまっているクレヨンや折り紙にこそ原色はあったが、日常に原色は見当たらなかった。レナウン娘がワンサカワンサカと明るい色をまとって街に飛び出してくるのは、もう少し先だ。結局、糸木恵子とは卒業まで同じクラスのままだった。そして、卒業式が近づいた日、彼女が渡り廊下を駆けてきた。

「あたしのこと、どげん思っとるん?」

もうフツウのイナカの女の子のしゃべりだった。多分、その時も糸木恵子は原色の毛糸のタイツをはいていた、に違いない。

「恋のむかし話」はこれでおしまいになる。小学生まではみんなこんなもんじゃなかろうか。『ロッテ 歌のアルバム』は毎週のように観てたから、歌謡曲の大人のそのような世界は耳に入ってくるが、脳ミソが消化できない。消化できるようになった頃には、それこそ色香に惑わされるだけで、腹ペコの時に鼻をクンクンさせたことや原色のタイツに驚いたことなど、どこかへ置いてきてしまっている。鼻をクンクンさせるのは、鰻屋の前を通る時だけ、という約束事になってしまっている。

北国から  石井紀男

  • 2022年12月22日 16:36

石井紀男
昭和十五年一月一日生 北海道上川郡剣淵町出身 中央大学文学部仏文科卒 フリーライターを経て徳間書店に入社、文芸編集部門を担当、退職後コニカミノルタのPR誌『月刊遊歩人』の編集を経て、現在に至る。

 

私の郷里、北海道はもう雪になっているだろう。最近は雪の量も少なくなっているようだから、まだ根雪にはなっていないかも知れない。かつては十二月ともなれば、完全に根雪で、野原も道路も真っ白になる。酒類食品雑貨商という田舎のなんでも商う店が生家だった。
雪の降った朝は、取り敢えず店の前の五十センチ以上ある雪を、お客さんの為によけなければならない。これが毎朝の日課だった。
寒いなんてものじゃなかった。
「雪は、嫌だった」
そんな雪深い田舎で育った。

なにしろ病弱だった。
小学二年生で、大病を患った。肺結核の一種で肺に水が溜まる膿胸が病名だった。
道央の旭川市が一番近い都会だったが、当時は宗谷本線で二時間はゆうにかかった。
近くに入院する病院などはなくて、自宅で寝かされて十カ月。
学校の担任の先生も代わった。友達もいなかった。遊び相手と言ったら、ちょっと太った猫くらい。
少し良くなって、起きられるようになると、近所の同級生の女の子のうちにおもちゃ道具を抱え、学校帰りを狙って、出かけるくらい。おままごとの好きな男の子なんてものは、相手の女の子には迷惑だったかもしれませんね。
この時の私を見てくれていた医者は、北海道大学医学部を出たばっかりの先生で、出来立てホヤホヤだった。のちほど、高校生の頃に偶然この先生の診察を受けることになった。
「君が子供の時は大変だった、今なら抗生物質があるからね、治療は簡単だが、あの頃はやばかったよ。八歳だったか。これは助からない、大人になることはない、それで、目の前で死ぬのを見るのは嫌だったから、怖くなって、僕は病院に帰って、もうダメでした、という連絡が来るのを待ってたんだ。しかし、生き延びたんだ。よかったな!」
まぁ感動の対面だったけど、情けない先生だなと思った。
学校にはなじめず、一人で本を読むか、お絵描きぐらい。
体育の時間ともなると、先生は、私を指さし、ピンと横に振る。列をさっさと離れて、見学しろの合図だった。学校はつまらないし、私という存在もつまらない奴だった。
中学に入ってから、転機がきた。
自家製のスキーを近所の馬橇屋さんで、先端を曲げて、それらしい形にして、皮の尾錠のようなものを。鉄工場の職人さんに作ってもらって、徒歩で一時間はかかる小高い丘のスキー場へ出かける。けっこう滑れた。回転、ジャンプ、平気だった。この手製のスキーはすぐに壊れて。当時最新式のカンダハーというものに変わった。
スケートも、兄に買ってもらったスピードスケート靴で颯爽と滑った。スケートリンクが無かったので、高校生の時には自分達で校庭に水を撒いて作ったりした。
それからは、健康になった。風邪も滅多にひかなくなった、のはなぜだろうか。
雪国も住めば悪くないかもしれない。

春になると東京よりは少し遅い四月、学校の校庭の凍っていた根雪が、少し解け始めると、冷たい雪の上に水の流れができ始める、真っ白い川の上を透明な水がサラサラと流れていく。水蒸気が晴れた空に昇っていくのです。
春の小川?  ちょっと違うけど、まぁそんなものさ。
雪ノ下から、ようやく土が現れる。
こんな時の、新鮮な土の匂いっていいもんですよ。
なにしろ半年ぶりの土なんですから。