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季語道楽(20)ゼツメツキゴシュウ(絶滅季語集)を愉しむその

  • 2019年7月23日 13:54

夏井いつき先生の『絶滅寸前(傍点)季語辞典』を都心の大型書店の俳句コーナーで見かけたとき、なにかと、めんどうくさがり屋のぼくが、つい手を棚に伸ばし、この本を手にしたのは、いま思えば理由があったようだ。
ひとつは、この本が、ぼくの好みの「ちくま文庫」であったということ。そして、もうひとつの、この本のタイトルからは、なにやら“面白オーラ”が発しているように感じたのだろう。
もちろん、カジュアルな季語辞典、歳時記を見ると、つい入手してしまう性癖からのことだったのかもしれない。
さて、ページをパラパラとめくって飛ばし読みしてみると、予感した面白オーラは勘違いではなかったことに気づかされる。
しかつめらしい季語の解説書などではなく、忘れられつつある季語をネタとしつつ、遊び心満載の言語遊戯のエッセー集であったのだ。その、洒脱にしてシャープな数例を紹介してゆきたいが、その前にまず「まえがき」を見てみたい。
前回、さらっと、この「まえがき」部分を紹介したが、夏井先生の俳句への姿勢というか、“思想”表明がされているのであらためて引用、紹介したい。
その冒頭、一行目の書き出しが、
要は、歳時記を読むのが好きだったという単純な動機から、
すべてが始まった。
嬉しいですねぇ、この書き出し。ちょっとも偉そうじゃないし、まるで俳句初心者のぼくらと同じスタートラインに立ってくれている。
そして、この自著に対して、
読んでも役に立たないことにかけては、右に出るものはないの
かもしれない。
といいつつ、
が、もともと俳句なんぞは役に立つはずのないものであって、
むしろ役に立たないものとしての誇り(傍点)を胸に、堂々と
詠まれ続けてゆくのが俳句だと思っている。(傍点、坂崎)
と、サラッと俳句というものの、本来の姿、価値(無価値の価値)を訴えている。カッコいいですねぇ。毅然としているじゃありませんか! で、「まえがき」の肩書きが、
絶滅寸前季語保存委員会委員長       夏井いつき
とある。この「まえがき」と、著者の肩書きで、本文の内容が十分に期待できる。
本文を開く。季寄せ、季語集、歳時記の類は「新年」から始まるものが多いが、この本は「春」からだ。
まず第一番目に出てくる絶滅寸前季語は「藍微塵」(あいみじん)。なんだ、なんだ? この藍微塵とは? あのサックス奏者にして、微塵子(ミジンコ)研究者の坂田明(広島大学・水産学部卒)さんの好きな? 藍色をしたミジンコのこと? あるいは中国大陸の奥の砂漠から吹いてくる粒子の細かい藍色の青い砂塵?。
いや、いや、じつは、これは「忘れな草」の別名だそうな。英語で(forget-me—not)を直訳したのが名の由来、ということを知っている人も多いだろう。
ぼくらの若い頃「♫別かれても 別れても 心の奥に〜」と歌いだす「忘れな草をあなたに」という青春歌謡がありました。歌っているのが、手こねハンバーグのようなカンジの菅原洋一(ソフトな声で「知りたくないの」「今日でお別れ」などをヒットさせた)さんが、妙に心に響きました。
そこで紹介される句が、
百人の恋な忘れそ藍微塵     おののき小町
続いて︱︱「愛林日」(「緑の週間」の副題)、「青き踏む」(「踏青」の副題で、春に戸外で楽しく過ごすこと)、「翌あすなき春」(「四月尽(しがつじん)の副題で「四月の最終日」などとあるが、少し飛ばして、「従兄弟煮(いとこに)」といういかにも絶滅寸前、いや、ここしばらく発見者がなく、すでに、ほぼ絶滅してしまったかのような季語が登場する。
「従兄弟煮」、いとこ煮?
なんだか、新宿二丁目あたりのマッチョな男二人がやっているオカマバーで出す、自慢の手づくりの煮物? なんて感じなんだけど、もちろん、本当の意味は、まったく分からない。
さすがの夏井先生もギブアップ?、先生が常に愛用しているという『カラー版新日本大歳時記全五卷』(講談社刊)を引くことに。
「従兄弟煮」とは「事始(ことはじめ)の副題で、「事」は祭事をいみする、という。で、農事を中心とする考えでは、二月の八日が事始で、そのときに供せられる食べ物が「従兄弟煮」であり、「従兄弟煮は醤油汁」とのこと。しかも『大歳時記』にも「例句が載っていない」という。
う〜む、まさに“絶寸季語”! いや、“絶寸完了”季語? 夏井先生はこの季語を前に呆然と立ち尽くし、また、先生、頼りの『大歳時記』にも例句の紹介がない︱︱となると、俄然、好奇心が刺激されたぼくは、この「従兄弟煮」なる季語を、自分もちょっと調べてやろうと思い立った。
『大歳時記』ですら、例句が載っていないというのだから、あたりまえの歳時記を何種類チェックしても無駄だろう。
しかし、前回の稿でちょっと触れたが、ぼくの手元に『難解季語辞典』(東京堂刊)がある。ずいぶん昔、入手したはずだが、ほとんど読んだことも使ったこともない。(珍しい季語辞典だなぁ)と思い入手したんだろう。
「従兄弟煮」あるかな、ページをめくってゆく。
おっ! あったじゃないですか! すごいぞ『難解季語辞典』。引用する。
従兄弟煮[春]芋・大根・人参・などの菜、赤小豆、豆腐、
蒟蒻などを入れて煮込んだみそ汁、またはすまし汁。正月事
始め、事納めなどの行事に食した。(中略)雑煮と同じ風習で
ある。
とあり、しかも「いとこ煮」の言葉の由来が、それらの野菜や豆腐を煮込むとき、“おいおい”(追い追い、徐々に)煮る、“おいおい”(甥々(おいおい、つまり従兄弟)というわけ、とか。つまりは駄洒落、江戸好みの言葉遊びが由来だったとは。
ところで、この解説の最後に︱︱(栞草(しおりぐさ))︱︱の文字が。
(栞草)は曲亭馬琴編、青藍補の『俳諧歳時記栞草』の略記。江戸時代、嘉永四年(一八五一)の刊で今日の歳時記の元祖であり、本家のような存在。
文末に(栞草)とあったとなると、この『俳諧歳時記栞草』に「従兄弟煮」が出ているはず。
ぼくは手元の岩波文庫、全二巻の「栞草」に当ることにした。こうなると、まるで季語探偵、いや季語ストーカーじみてくる。
「栞草」(下)の巻末、季語字引で「従兄弟煮」をチェックする。出てない。では、春の季語というので「事始め」の項目でさがす。やはり、ない。
そういえば、先の解説の中で、関連用語のひとつとして、地方によっては「事納め」ということもあるとあったので「冬の部」の「事納め」のページを開く。
あった、あった! 「従兄弟煮」でも「事始め」の稿にもなかった「いとこ煮」の解説が「栞草」の「事納め」の項に。『難解季語辞典』に記されていた。「従兄弟煮」と、ほぼ同様の解説があったのだ。
夏井先生の信頼篤く、愛用されている『大歳時記』では「醤油汁」とあり、「この醤油汁が、どんな場面でどう使われ、どう食されるのか、チンプンカンプンである」とされていた「従兄弟煮」のことが三五〇ページに満たない『難解季語辞典』で説明され、さらに出典の『俳諧歳時記栞草』で、どのような行事のときに食され、その食材から「いとこ煮」の言葉の由来まで解説されていたのである。しかも『大歳時記』の説明にある「醤油汁」だけとは限らず、「みそ汁」で供せられることにも、ふれられている。
『大歳時記』ならぬ、ハンディな小歳時記の存在も馬鹿にならない。雑多(?)な歳時記集めの労が報われた気がして、ぼくは(だろ!)と、ひとり納得し、ほくそ笑んだのである。
ま、そんなこんなで夏井先生の奇書にして貴書、絶寸季語辞典読みを楽しんでいると、(おや?)ということに気づかされた。
各季語の説明のあとには、毎回、例句が示される(夏井宗匠の創作句が圧倒的に多い)のだが、他の人の句の、その作者の俳号を見ていると、……「黛まだか」「寺山修辞」「大福瓶太」「キム・チャンヒ」「尾崎ほうかい」「たかが修行」「石田ハ行」「夏目僧籍」「坪内でんねん」「徒歩」といった号に接することになる。(ナンダコリャー?)という気になる。そう思いませんか。つい、ニンマリしてしまう。
どうでもいいことだが、ここに夏井先生の、また、この本の豊かな遊戯性が示されていると思われるので、ちょっと蛇足してみよう。
「おののき小町」︱︱これは「枕草子」の小野小町。可愛い。
「黛またか」︱︱黛まだか? って、もちろんこれは人気俳人の「黛まどか」のもじり。しかも黛まどか氏は夏井先生の師匠筋にあたる方ではないですか!いいんでしょうか、こんなイタズラをして。
次の「寺山修辞」︱︱はもちろん、詩人にして、その短歌や俳句にもファンの多い、また劇団・「天井桟敷」の主宰者、「寺山修司」から。にしても、「修辞」がいかにもピタッとはまってます。
「大福瓶太」︱︱これは、ちょっと難易度が高いかも。まえの二者のような人の名前からかと思うと、由来がわからない。わかりますか? これは、この氏名を単純に読み下してみる。「大福瓶太」︱︱「おうふくびんた」。つまり「往復ビンタ」。人の左右の頬を平手で叩く例の行為。しかし、かつての軍事教練や、今日、体罰が禁じられている教育の場では、これはご法度になっている。つまり、「往復ビンタ」という言葉そのものが死語というか絶滅に近くなっているのではないか。ま、それはそれで結構じゃありませんか。あまり、歓迎されない言葉でもありますしね。
続く「キム・チャンヒ」︱︱はもちろん「キム・キョンヒ」、金正日の妹で今日、北朝鮮の最高指導者、金正恩の叔母。
「尾崎ほうかい」「たかが修業」「石田八行」「坪内でんねん」︱︱は、それぞれ人気の著名俳人……といえば、少しでも俳句の世界に親しむ人なら、すぐに分かるでしょう。「「尾崎ほうかい」は「尾崎放哉」、「たかが修業」は「鷹羽狩行」、「石田八行」は「石田波郷」、「坪内でんねん」は「坪内稔典」
上手いですねぇ、とくに「たかが修業」とか、石田八行」とか「坪内でんねん」も、つい笑ってしまいます。
「夏目僧籍」「徒歩」もいいですねぇ。禅寺で座禅を組んだ漱石が「僧籍」。
あの中国の、唐の時代の詩人・杜甫の「春望」と題する「国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心……」︱︱「国やぶれて山河あり 城春にして草木深し 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす︱︱」の一節はあまりにも有名ですが、その杜甫にちなんでの「徒歩」。まさに、自在の言葉遊びをやってのけています。これぞ、俳諧精神の発露。

というわけで、ひきつづき、もう少し、この、ちくま文庫の『絶滅寸前季語辞典』と続刊の『絶滅危急季語辞典』にふれてゆきたい。

絶滅寸前季語辞典 夏井いつき 著 ちくま文庫

絶滅寸前季語辞典
夏井いつき 著
ちくま文庫

絶滅危急季語辞典 夏井いつき 著 ちくま文庫

絶滅危急季語辞典
夏井いつき 著
ちくま文庫

ヒトラーの時代 最終回   池内 紀

  • 2018年6月5日 19:01

強制収容所第1号

「ヒトラーの時代」の読者へ

文源庫の石井紀男氏のご厚意で「ヒトラーの時代」をつづけてきました。始めたのは2015年の3月ですから、まる3年、連載したことになります。今回の二九回、「シュタリーン文字」でもって、ひとまず終わりにしたいと思います。

なぜ「ヒトラーの時代」が成立したのか、というのが連載のテーマでした。どうしてあのような体制が、おどろくほど短期間に実現したのか、ドイツ国民は、なぜそれを許したのか、狡猾な指導者にだまされたとしたら、どのような手段が利用されたのか。

全二九回は、このテーマの第一部にあたります。まず主だったトピックスを取り上げました。第二部として、市民の日常生活の中からテーマを見つけて、日常的なことだからこそ、より大きな意味と力をもっていたことを語らなくてはなりません。そのためにも、第一部をここで終わりにしておきたいのです。少し準備の時期をおいて、新しく第二部にかかりたいと思います。これまでのご愛顧を心から感謝しています。

なお第一部は時系列が混乱していますから、全体を構成し直し、必要な加筆を加えて完成させる予定です。

 

2018年6月     池内 紀

 

新・気まぐれ読書日記 (54) 石山文也  話術

  • 2018年5月12日 08:28

行きつけの書店の<新刊文庫コーナー>で見つけた徳川夢声の『話術』は、カバーを装丁した平野甲賀の独特な書体に“手招きされた”ようで、迷わずレジへ。帯にあるような会議、プレゼン、スピーチには最近はトンと縁がないし、いまさら「話し方の教科書」でもあるまいが、ま、それはそれ。巻末に「50年の怠慢を経て名著を読む」を寄せたフリーアナウンサー・久米宏のように<襟を正して読む>ことにした。


徳川夢声著『話術』新潮文庫=新潮社刊

とはいえ、この時期になっても書斎では冬の延長のフリース上着なので正そうにも襟がない・・・などと考えるうち、盟友の歴史ライター・蚤野久蔵が連載『書斎の漂着本』に夢声のことを書いていたのを思い出した。たしかあれは彼の「戦中日記」を引用した作品だったはず、と調べたら昭和26年9月に出版された『負けるも愉し』(二十世紀日本社刊)で49回から3回もの連続なのでよほど面白かったのか。

 

聞いてみると「夢声老の、あ、ごめん、若い頃から老人めいた雰囲気があったからそう呼ばれているのだけど彼の著作の中でいちばん版を重ねたのが『話術』だ。何冊かあるから他にも参考になりそうなのと一緒に届けておくよ」と。何冊も?大論文を書くわけじゃないのに、とは思ったがせっかくなので好意に甘えることにした。

 

徳川夢声(1894-1972)は、島根県益田生れで本名は福原駿雄(としお)。父の庄次郎は地元の警察官だった。三歳のとき、看護師を目ざす母、父方の祖母と上京後、間もなく母は幼いわが子を神楽坂の路上に置き去りにしたまま、年下の恋人のもとへ出奔する。それを知った庄次郎は遅れて上京し協議離婚が成立する。祖母に育てられた駿雄は子供の頃から独学で覚えた落語を教室で披露する人気者だった。東京府立一中(現・日比谷高校)時代には寄席に通い活動写真にも触れる。卒業後は落語家を目ざすが父親の反対で頓挫。「高座に上がるのは世間体が悪いがくらがりで話す“カツベン”ならいい」ということで進路を変えて活動写真の世界へ。見習い弁士・福原霊泉としてデビュー、洋画専門の赤坂葵館に転じたさいに館から「葵」にちなんで「徳川夢声」の名を貰う。慣例だった作品紹介の「前説」を排し、本編も美辞麗句を並べた七五調ではなくリアルな語り口を心がけるアイデアで頭角をあらわした。一方で宣伝誌『週刊アフヒ(=葵)』を創刊すると毎号のように夢声を絶賛する投書が寄せられた。

 

27歳で葵館を辞めてからもさまざまな映画館から引き抜かれ、一方で弁士以外のキャリアにも磨きをかけていく。当時の人気弁士や有名俳優が得意芸を披露する「ナヤマシ会」の世話人をはじめ、ユーモア小説の執筆や試験放送の頃からラジオ出演などを経験した。映画がサイレントからトーキーの時代になると弁士を廃業し、俳優や漫談家、文筆家として活躍の場を広げた。昭和14年(1939年)、ライフワークとなる吉川英治原作『宮本武蔵』を初めてラジオで朗読。戦後は日本初のラジオクイズ番組となったNHK「話の泉」に出演、テレビ放送が始まるとレギュラー番組を多く抱える<元祖マルチタレント>として圧倒的な存在感を示した。その中心となったのは磨き続けた“話術”で生涯に百冊以上の本を出したなかで『話術』はもっとも売れたロングセラーとなった。

 

これ以上は冒頭に紹介した久米宏や解説のライター・濱田研吾の「東京を愛した“雑の人”―徳川夢声について―」に譲るが、夢声が多用した「ハナシ=話」、「マンダン=漫談」の<夢声流表現>はそのままに『話術』の魅力に迫ろう。

 

ハナシというものは、実に実に大切なものです。

どのくらい大切なものか?それはハナシというものの封じられた人生を、よく考えてごらんなさい。

ハナシは、太陽の光や、空気や、水や、あるいは食物(くいもの)や、住居(すまい)や、着ものや、そうした生活に是非とも必要なものと同じように、人間の生活には絶対必要です。

ところが、それほど大切なハナシというものが、あんまり研究されておりません。いや、少しく大袈裟にいうと、まるで放ったらかしでありました。

放ったらかしの一番好い例は、私という、いわばハナシを稼業(しょうばい)にしている男が、実は研究らしい研究は、ほとんどしていなかったということです。

 

と書き出す。食物、住居、稼業にわざわざ振り仮名を添えたのは夢声の話ぶりをなるべくそのまま紹介したかったから。我々団塊の世代ならラジオやテレビを通じて彼の肉声に触れたことがあると思うからでもある。『話術』は総説、各説に分けて誰でもが学べるように微に入り細にわたり展開されていく。決して大上段に振りかぶるのではなくて夢声のあの話ぶりそのまま。ここまで読んだだけで見事に読者である私の心を捉えてしまうが油断はできない。

 

ハナシはだれでもできる。だれでもできるから、研究をしない。だれでもできるから、実は大変難しいものである。総説の第一章「話の本体」はこうまとめられる。だれでもできるから、実は大変難しい。続けて痩せても枯れても、私は専門家、くどいようだが第一人者とか、ときによると大御所なんて声がかかる人物ですぞと言いながらハナシとかマンダンというものは、日本中に名人がザラにいて、第一人者が充満しているわけです、とくる。本職と素人の差は突きつめて言うと「それによって生計を立てるか否かということ」と言うものの「本職はウマくて、素人はマズい」と決まれば問題は簡単だが、それがなかなかそうは行かない。巧拙にしても聞いてみて、これは巧い、これは拙い、と感じるだけで、別にメーターみたいなものがあるわけではない。「天狗は芸の行き止まり」とはいえ、世の中にはテングが充満していて素人の巧い人より、はるかにまずい本職がいる・・・。

 

―ハナシほど楽にできるものなし。

―ハナシほど骨の折れるものなし。

この二つの相反している言葉が、話術の上では、両方とも本当なのである。

 

「座談十五戒」「演説心得六カ条」などいずれも要点をわかりやすく解説するがここでも一見相反する要素が多く紹介される。

 

印象に残ったのはこの挿話。フランスの名優がある有名な劇作家と宴会の席上で「演技が大切か、脚本が大切か」と大激論になった。脚本が俳優の演技より重要だと譲らない劇作家に名優は「ではここのメニューを読んでここにいる諸君を全部泣かせてみせよう」と悲しい台詞の口調で読み始めると満座の人々がすっかり感動して涙を流した。もうひとつの寓話「蟻とキリギリス」も読み方ひとつで蟻に同情させたり、キリギリスに同情させたりできるという正反対の例を挙げて間の取り方、声の強弱、明暗、コトバの緩急などのコツを紹介する。

 

ところで蚤野が届けてくれたのは、昭和22年に秀水社から初めて出版された『話術』(=左)と同じく25年に版元が白楊社に移ってからの『話術』(=右)、翌26年に姉妹編として同社から出版された『放送話術二十七年』で、いずれも初版本。それにしてもよく集めたものと感心する。もう一冊は講談社吉川英治歴史時代文庫の『宮本武蔵(八)』。全8巻のなぜか最終だけなのでその理由を聞くと「揃って届けるとあなたの場合、原稿そっちのけで読んでしまうでしょ。それに佐々木小次郎とのあの巌流島の対決はこの最終巻だから」と。余計なお世話だ。

もっとも『話術』のほうは今回の新潮文庫では漢字や仮名遣いなどが新しくなっているので参考になる程度だな、と思いながら二冊を眺めるうち、秀水社版は終戦直後の物資不足の時代だったのでこれがそのまま表紙だが写真右の白楊社版をめくるとあら不思議、本体は出版社が別なのにデザインはまったく同じではないか。

それがこちら。煙をあげるタバコはショートピース。夢声がいつもくゆらせていたのをそのままデザインにしたのだろうが、それがまったく同じということはいくら多忙を極めていたとはいえ本人も当然、了解済みだったのだろう。

ついでに姉妹編の『放送話術二十七年』も紹介しておくがこちらは別のデザインである。

ラジオ、テレビの草創期に「物語放送」の定番スタイルを創造した夢声は放送台本に青鉛筆で書き込むのを習慣にしていた。それを「眼で読む文章を、耳で聞く文章に替える」と表現する。赤でなく青鉛筆だったのは訂正ではなく自己流の改変だったからか。

 

吉川英治の『宮本武蔵』で巌流島に向う舟で武蔵が船頭と語る場面。

「思い出した―この辺の浦々や島は、天暦の昔、九郎判官殿や、平知盛卿などの戦の跡だの」

眼で読めばこの「思い出した」がオカしくない。しかし私は「思い出した」を「ふーむ」に替える。「ふーむ」という声の響きに、思い出した感じを含ませる。聞いていて、その方が自然なのである。

 

―舷(ふなべり)から真っ蒼な海水の流紋に・・・。

この「流紋」を私は、ただの「流れ」に替える。眼で眺めれば「流紋」とは面白い文字であるが、これが耳で「リューモン」と聞いたとき、おそらくわかる人は幾人もあるまい。

 

―「武蔵か」厳流(=佐々木小次郎)から呼びかけた。彼は、先を越して、水際に立ちはだかった。

これを私は、次のように替える。

―「武蔵か」厳流は、先を越して、水際に立ちはだかった。

なぜかというと「武蔵か」という呼びかけは、声で表されるのだから、呼びかけたという説明の言葉は要らないからである。

 

なるほどなるほど。講談社文庫の『宮本武蔵』を確かめるまでもない。蚤野へは彼の好きな缶ビールでもお礼に差し入れておこう。

ではまた

 

あと読みじゃんけん (18) 渡海 壮 秘宝館という文化装置

  • 2018年3月21日 00:42

「こんな本をよく見つけて、しかも買ったね!」と言われそうだが、我ながらそう思う。妙木 忍 著『秘宝館という文化装置』(青弓社刊)の表紙を飾る写真は、栃木県日光市の「鬼怒川秘宝殿」の目玉展示、マリリン・モンローだそうな。有名すぎる「不滅のセックス・シンボル」に似ているといえば似ている程度だと思うし、そもそも好みのタイプではない?からこの表紙を見て買う気になったわけではない。かといって秘宝館に入館した経験はないからノスタルジーなどがあるわけもない。あえて言えば女性である著者が<まっとうな研究対象>として選んだことに興味が湧いたからとしておこう。

妙木 忍 著『秘宝館という文化装置』(青弓社刊)

「秘宝館」は「秘宝」の「館」と書く。「秘宝」とは、大切にし、一般の人には見せない「宝」という意味が一般的だが、この本で取り上げた「秘宝館」は<性愛をテーマにした博物館>という意味である。いまふうに言えば<性のテーマパーク>だろうか。1970年に開催された大阪万博から2年後に初の秘宝館が生れ、その後の十数年間に全国の温泉観光地などに少なくとも20館が存在し、性愛シーンの人形や性にまつわる品々を展示した<おとなの遊艶地>として人気を博した。日本各地には柳田國男の『遠野物語』に出てくる金精様(こんせいさま)のように信仰対象そのもの、神社の奉納物やお祭り、性文化財を集めた資料館、歓喜天など性的要素を含む仏像などを集めた美術館があることは知っていた。当然、秘宝館にも古い歴史があると思っていたが半世紀そこらの新しいものだとは意外だった。

著者は秘宝館がそれらとは一線を画す理由を観光産業と結び付いた性の展示であるから表紙のマリリン・モンローのような等身大人形が含まれているのが大きな特徴であると指摘する。こうした等身大人形の製造文化と日本古来の性信仰と娯楽産業とが融合した世界でも特異な「文化装置」に他ならないという。モンローといえば地下鉄の通気口から吹きあがる風で白いドレスがめくれる『七年目の浮気』の名シーンが有名だが、秘宝館にもハンドルなどを操作すると風が出る仕掛けがあり、訪問者参加型の動的な展示を備えているのも特色のひとつという。

本を書くほど秘宝館の研究にのめり込むきっかけは、旅行好きな著者が『遠野物語』の舞台となった岩手県遠野市を訪問した際に「山崎のコンセイサマ(=金精様)」を見たのが原点という。そこには記念スタンプが置かれ、性の信仰の対象が観光地化されていた。愛媛県宇和島市の性文化財の資料館では「収集されたコレクション」が性の観光化でもあることを知った。伊勢旅行では日本初の秘宝館である元祖国際秘宝館伊勢館(以後、伊勢館と略)に立ち寄り、性というテーマの等身大人形などに別の形態を“発見”していく。ここでは妊娠した子宮の実物大の医学模型に、同じ女性として女性の人生や出産に関心を持っていたこともあって引き込まれていく。さらに「旅の文化研究所」の公募研究プロジェクトに選ばれたことで研究が加速、国内だけでなく海外の性愛博物館にも研究を広げていった。

「秘宝館の誕生」では伊勢館を創設した松野正人氏のライフヒストリーが紹介される。1929年(昭和4年)生れ、多くの失敗にもめげず、さまざまな事業に挑戦し宝飾品の型枠製造から真珠販売会社で成功し、「フジヤマ・パール」としてニューヨークでの万国博覧会(1964-65)の展示販売で大好評を博すと、アメリカでドライブインやモーテルを見たのを参考に伊勢神宮参拝の団体観光バスが利用するドライブインを建設する。将来予測される車時代を先取りしたものだった。松野氏は生来の宣伝上手でもあり、テレビコマーシャルで繰り返し放映することで人気を集めて規模を拡大、一時は姉妹館までできて従業員数も200人を超えた。自身もラジオやテレビに積極的に出演、道路の看板広告なども含めて年間3億円もの宣伝費を使ったという。観光バスでやってくる団体客を積極的に受け入れたが、案内するのは女性の「フロントガイド」でバスが到着すると迎えに行き、秘宝館入口まで案内、受付にも女性が常駐しやがて女性館長も誕生した。このあたりは大阪万博のコンパニオンを真似たのか。松野氏は三重県ドライブイン協会や伊勢市観光協会の理事などを歴任、地元の観光振興に尽力したなかなかの著名人だった。一時は温泉観光地にも続々と誕生した秘宝館人気もやがて凋落、伊勢館は2007年(平成19年)に、鬼怒川秘宝殿も2014年(同26年)に閉館した。他も数カ所を残すだけというからまさに<絶滅危惧種以上>か。

この本を紹介する気になったのはつい先日、新聞の記事でコメントする著者の名前を偶然見かけたから。東京大学大学院の上野千鶴子教授のもとでジェンダー研究を学びながら観光研究を手がけ、本の執筆当時は北海道大学応用倫理研究教育センターの助教だったが現在は東北大学国際日本研究講座の准教授で戦後の女性の生き方を巡る「妻無用論」などの論争を研究してきた論客でもあるという。

本にはカラーも含め多くのカット写真が掲載されている。モンローの等身大人形はロンドンのマダム・タッソー蝋人形館なども映画のシーンと同じ白いドレスのあのポーズである。いずれも著者が自ら撮影した日付データが添えられている。著者が上野サン譲りの「論客」というのを気にしているわけではないが、いずれもハンドル手前からの<全体像>なので残念ながら?風は出ていないから紹介しないでおく。

ヒトラーの時代 (29) 池内 紀

  • 2018年3月14日 13:14

強制収容所第1号

ジュタリーン文字

 

ナチスの時代に独特の活字が使われていたことは、あまり知られていない。アルファベットの形に特徴があった。ナチスが好んだ書体であって、そのため文字を見れば、ひと目でナチス時代の刊行であることがわかる。またおおむねナチス賛美であることもわかる。

英語、フランス語、ドイツ語、デンマーク語、オランダ語……。ヨーロッパの言語は共通して同じアルファベットにより、違いといえば言葉によって多少の変化が加わる程度である。どの国に行こうとも、意味はともかくとして文字は読める。

ただドイツでは、そうではなかった。ヨーロッパ語が共通してラテン文字を用いているなかで、ドイツ語には古来、「ドイツ文字」と言われている字体があって、ラテン文字と共存してきた。ナポレオン軍占領下の十九世紀初め、軍事力ではかなわなくても、文化や思想ではフランスを凌駕するといった愛国主義が背景にあったのだろう。ドイツ文字がラテン文字を圧倒しだした。おおかたの書物はドイツ文字で印刷され、書体もドイツ文字の書き方で書く。まったくちがった活字、まるで別の書き文字であって、きちんと勉強しないと読めないし、書けない。エリートの進むギムナージウム(九年制の中・高等学校)はドイツ文字、早々と社会に出る職業学校はラテン文字と、教育も二分された。ドイツ人であってドイツ語が読めないといった事態にもなったが、ドイツ文字が読めなくても、その人はべつに不便を感じたりしなかっただろう。自分には用のない世界の文字と割り切っていてよかったのである。

私自身でいうと、ドイツ文字の読み方、書き方を、学校ではなく、すでに公務から退いていた老ドイツ人に個人教授を受けて学んだ。ドイツ文学者と称するためには、古い本も読まねばならない。ゲーテをはじめとする十九世紀の文学書は、初版はドイツ文字で印刷されている。詩人リルケが書いた手紙を、オリジナルで読もうとすれば、ドイツ文字の筆記体を知らなくてはならない。概してラテン文字よりもドイツ文字の方が格段に美しい。リルケの頃はすでに、ドイツ文字の筆記体は時代遅れとみなされていたはずだが、詩人として、流麗な書体を捨てきれなかったと思われる。

第一次世界大戦終了ののち、いまや始まったワイマール共和國では、ドイツ文字は帝政ドイツの古くさい遺産にすぎなかった。ラテン文字一色となり、ドイツ文字はせいぜい、商号や看板などに装飾として残っている程度だった。教育も当然、ラテン文字であって、ドイツ文字は急速に捨てられた。過去の威光をおびた旧ドイツの文化遺産とみなされた。

そこへナチスが現れた。ワイマール体制の打倒を叫び、過激な政治闘争に打って出た。ヴェルサイユ条約破棄や赤色革命への防御とともに、ドイツ固有の文化、ドイツ的伝統の復権を主張した。党首アドルフ・ヒトラーは『わが闘争』を著して、過激派への支援を呼びかけた。

当然のことながら『わが闘争』はドイツ文字で印刷されていた。その主張からして、ラテン文字は使えない。ヒトラーは第一次大戦以前に教育を受けた世代であって、ドイツ文字をたたきこまれており、書くこと読むことに不自由はない。

読み手の側はどうであったか。ここに厄介な問題が生じた。党首ヒトラーをはじめ、ゲーリングやゲッベルス、ヒムラーといったナチス幹部たちはドイツ文字が使えるが、ナチ党を構成している大多数、また若いSAのメンバーたちは、党首の主著が読めない。ラテン文字で出されて、ようやくひもとくことができる。しかし、ラテン文字はナチの排撃する文化の一つであって、それでもって党首の「聖典」をつくるのは、自己矛盾もはなはだしい。『わが闘争』はどうあってもドイツ文字で刊行されなくてはならず、インテリしか読めないドイツ文字ではなく、誰にも読めるドイツ文字でなくてはならないーー

そんな時代背景があって、一つの活字が浮上してきた。のちに考案者の名をとって「ジュタリーン文字」と言われるようになった。L・ジュタリーン(一八六五〜一九一七)はベルリンの意匠家で主に広告業にたずさわっていた。現代でいうグラフィック・デザイナーであり、企業の広告、商標、ロゴマークなどのデザインをする。『デザイン教程』といった著書があるから、この方面で知られた人だったのだろう。

いつのころからかわからないが、このデザイナーは文字に関心を持ち、ドイツ文字の書体をラテン文字に応用する試みを始めた。一見のところ、ドイツ文字だが、よく見るとラテン文字であって、ドイツ文字を知らなくても、このドイツ文字は読める。ひとことでいえば、インチキくさいドイツ文字だが、インチキではなくラテン文字をドイツ文字式にデザインしたまでともいえる。デザインのあかしのように、ジュタリーンは大文字にはヒゲ状の、あるいは細いツルのような飾りをつけた。ドイツ文字自体、微妙なヒゲがついており、日本ではかつてドイツ文字を「ヒゲ文字」と言ったりした。あるいは単語がひとかたまりの亀甲のように見えるところから「亀の子文字」とも言った。装飾性の強い点で、ジュタリーン書体はドイツ文字の性格を色こくおびていた。

ヒトラーの『わが闘争』初版本文(1925年) 古典的ドイツ文字による熟読のあとが見られる。

ヒトラーの『わが闘争』初版本文(1925年)
古典的ドイツ文字による熟読のあとが見られる。

いずれにせよ、考案者の生前はほとんど陽の目を見なかったものが、ナチズムの拡大とともに、はじめはおずおずと、のちには大っぴらに使われ始めた。当初はポスターや党の文書類だった。大きく目立つところにジュタリーン文字があてられている。突撃隊員は手にとって、読めないはずのドイツ文字がちゃんと読めるのに目を丸くしただろう。急に自分が偉くなったような気がしたかもしれない。

ナチ党の機関紙「フェルキッシェ・ベオーバハター」には、ユダヤ人の排撃、共産党撲滅を呼びかける毒々しい言葉が、格調高いドイツ文字に似た字体で並んでいた。一面には党首の過激な呼びかけが、ゲーテの箴言に見るのとよく似た活字で印刷されていた。

ためしに並べてみよう。

Aはヒトラーの『わが闘争』の初版(1925年)、表紙はわかりやすくラテン文字、本文は古典的なドイツ文字である。

Bはヒトラーが政権についたのち、神格化を図って出されたプロパガンダの一つ。フリードヒ大王、ビスマルク、ヒンデンブルク元帥と並ぶかたちでヒトラーが据えられ、

「ドイツの4偉人」ナチ党の宣伝ハガキ(1943年) 下にジュターリン文字によるスローガン

「ドイツの4偉人」ナチ党の宣伝ハガキ(1943年)
下にジュタリーン文字によるスローガン

下にジュタリーン文字のスローガンが見える。出だしの大文字に二つの丸いループがつき、アルファベットが広告の絵文字のように見え、いかにもデザイナーの作品である。

いつの時代にも、教育界がいち早く体制に順応するものだが、1935年、ドイツの小学国語にジュタリーン書体が取り入れられた。いわば「国字」となったわけで、以後、公文書、法令、政府のスローガンなど、目につくところにジュタリーン文字があふれてくる。イベントの街がナチ党員の褐色のシャツと卍マークで占められたように、活字の森をジュタリーン文字が埋めていく。

ギュンター・グラスの長編小説『ブリキの太鼓』は、ナチス時代に三歳かぎりで成長を拒む少年オスカルが主人公だが、三歳児の身の丈のまま学齢期を迎え、母親につれられて入学式に出向いた。教室の黒板には、新入生歓迎としるされていた。

「そのころ使われていたジュタリーン書体の文字の先端を意地悪く尖らせ、詰めものをされてうさんくさい丸みをつけて……」

うさんくさい書体が、いの一番に新しい人生の門出を祝っていた。

オスカルの言うとおり、「派手な出来事や簡略にした表現やスローガン」にジュタリーン文字が用いられていた。予防接種の証明書やスポーツの記録などにも使われた。

黒板にしるされたお祝いの書き出しのMはジュタリーン特有の

ナチスの宣伝ポスター(1938年) スローガンはジュタリーン文字による。

ナチスの宣伝ポスター(1938年)
スローガンはジュタリーン文字による。

二重ループをもち、オスカルには「陰険な匂い」がして、なぜか「絞首台」を思わせた。たしかに絞首台によるか、よらないかにかかわらず、ナチス時代の数かぎりない死亡証明書は、必ずやジュタリーン文字でしるされていた。

第二次世界大戦とともに、多くのものが悪夢の消えるように消え失せたが、ジュタリーンもその一つである。現在ではせいぜい古書店のゾッキ本のコーナーに、ヒトラーの時代の存在したあかしのようにして、なにくわぬ顔でまじりこんでいる。