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新・気まぐれ読書日記 (54) 石山文也  話術

  • 2018年5月12日 08:28

行きつけの書店の<新刊文庫コーナー>で見つけた徳川夢声の『話術』は、カバーを装丁した平野甲賀の独特な書体に“手招きされた”ようで、迷わずレジへ。帯にあるように会議、プレゼン、スピーチには最近はトンと縁がないし、いまさら「話し方の教科書」でもあるまいが、ま、それはそれ。巻末に「50年の怠慢を経て名著を読む」を寄せたフリーアナウンサー・久米宏のように<襟を正して読む>ことにした。


徳川夢声著『話術』新潮文庫=新潮社刊

とはいえ、この時期になっても書斎では冬の延長のフリース上着なので正そうにも襟がない・・・などと考えるうち、盟友の歴史ライター・蚤野久蔵が連載『書斎の漂着本』に夢声のことを書いていたのを思い出した。たしかあれは彼の「戦中日記」を引用した作品だったはず、と調べたら昭和26年9月に出版された『負けるも愉し』(二十世紀日本社刊)で49回から3回もの連続なのでよほど面白かったのか。

 

聞いてみると「夢声老の、あ、ごめん、若い頃から老人めいた雰囲気があったからそう呼ばれているのだけど彼の著作の中でいちばん版を重ねたのが『話術』だ。何冊かあるから他にも参考になりそうなのと一緒に届けておくよ」と。何冊も?大論文を書くわけじゃないのに、とは思ったがせっかくなので好意に甘えることにした。

 

徳川夢声(1894-1972)は、島根県益田生れで本名は福原駿雄(としお)。父の庄次郎は地元の警察官だった。三歳のとき、看護師を目ざす母、父方の祖母と上京後、間もなく母は幼いわが子を神楽坂の路上に置き去りにしたまま、年下の恋人のもとへ出奔する。それを知った庄次郎は遅れて上京し協議離婚が成立する。祖母に育てられた駿雄は子供の頃から独学で覚えた落語を教室で披露する人気者だった。東京府立一中(現・日比谷高校)時代には寄席に通い活動写真にも触れる。卒業後は落語家を目ざすが父親の反対で頓挫。「高座に上がるのは世間体が悪いがくらがりで話す“カツベン”ならいい」ということで進路を変えて活動写真の世界へ。見習い弁士・福原霊泉としてデビュー、洋画専門の赤坂葵館に転じたさいに館から「葵」にちなんで「徳川夢声」の名を貰う。慣例だった作品紹介の「前説」を排し、本編も美辞麗句を並べた七五調ではなくリアルな語り口を心がけるアイデアで頭角をあらわした。一方で宣伝誌『週刊アフヒ(=葵)』を創刊すると毎号のように夢声を絶賛する投書が寄せられた。

 

27歳で葵館を辞めてからもさまざまな映画館から引き抜かれ、一方で弁士以外のキャリアにも磨きをかけていく。当時の人気弁士や有名俳優が得意芸を披露する「ナヤマシ会」の世話人をはじめ、ユーモア小説の執筆や試験放送の頃からラジオ出演などを経験した。映画がサイレントからトーキーの時代になると弁士を廃業し、俳優や漫談家、文筆家として活躍の場を広げた。昭和14年(1939年)、ライフワークとなる吉川英治原作『宮本武蔵』を初めてラジオで朗読。戦後は日本初のラジオクイズ番組となったNHK「話の泉」に出演、テレビ放送が始まるとレギュラー番組を多く抱える<元祖マルチタレント>として圧倒的な存在感を示した。その中心となったのは磨き続けた“話術”で生涯に百冊以上の本を出したなかで『話術』はもっとも売れたロングセラーとなった。

 

これ以上は冒頭に紹介した久米宏や解説のライター・濱田研吾の「東京を愛した“雑の人”―徳川夢声について―」に譲るが、夢声が多用した「ハナシ=話」、「マンダン=漫談」の<夢声流表現>はそのままに『話術』の魅力に迫ろう。

 

ハナシというものは、実に実に大切なものです。

どのくらい大切なものか?それはハナシというものの封じられた人生を、よく考えてごらんなさい。

ハナシは、太陽の光や、空気や、水や、あるいは食物(くいもの)や、住居(すまい)や、着ものや、そうした生活に是非とも必要なものと同じように、人間の生活には絶対必要です。

ところが、それほど大切なハナシというものが、あんまり研究されておりません。いや、少しく大袈裟にいうと、まるで放ったらかしでありました。

放ったらかしの一番好い例は、私という、いわばハナシを稼業(しょうばい)にしている男が、実は研究らしい研究は、ほとんどしていなかったということです。

 

と書き出す。食物、住居、稼業にわざわざ振り仮名を添えたのは夢声の話ぶりをなるべくそのまま紹介したかったから。我々団塊の世代ならラジオやテレビを通じて彼の肉声に触れたことがあると思うからでもある。『話術』は総説、各説に分けて誰でもが学べるように微に入り細にわたり展開されていく。決して大上段に振りかぶるのではなくて夢声のあの話ぶりそのまま。ここまで読んだだけで見事に読者である私の心を捉えてしまうが油断はできない。

 

ハナシはだれでもできる。だれでもできるから、研究をしない。だれでもできるから、実は大変難しいものである。総説の第一章「話の本体」はこうまとめられる。だれでもできるから、実は大変難しい。続けて痩せても枯れても、私は専門家、くどいようだが第一人者とか、ときによると大御所なんて声がかかる人物ですぞと言いながらハナシとかマンダンというものは、日本中に名人がザラにいて、第一人者が充満しているわけです、とくる。本職と素人の差は突きつめて言うと「それによって生計を立てるか否かということ」と言うものの「本職はウマくて、素人はマズい」と決まれば問題は簡単だが、それがなかなかそうは行かない。巧拙にしても聞いてみて、これは巧い、これは拙い、と感じるだけで、別にメーターみたいなものがあるわけではない。「天狗は芸の行き止まり」とはいえ、世の中にはテングが充満していて素人の巧い人より、はるかにまずい本職がいる・・・。

 

―ハナシほど楽にできるものなし。

―ハナシほど骨の折れるものなし。

この二つの相反している言葉が、話術の上では、両方とも本当なのである。

 

「座談十五戒」「演説心得六カ条」などいずれも要点をわかりやすく解説するがここでも一見相反する要素が多く紹介される。

 

印象に残ったのはこの挿話。フランスの名優がある有名な劇作家と宴会の席上で「演技が大切か、脚本が大切か」と大激論になった。脚本が俳優の演技より重要だと譲らない劇作家に名優は「ではここのメニューを読んでここにいる諸君を全部泣かせてみせよう」と悲しい台詞の口調で読み始めると満座の人々がすっかり感動して涙を流した。もうひとつの寓話「蟻とキリギリス」も読み方ひとつで蟻に同情させたり、キリギリスに同情させたりできるという正反対の例を挙げて間の取り方、声の強弱、明暗、コトバの緩急などのコツを紹介する。

 

ところで蚤野が届けてくれたのは、昭和22年に秀水社から初めて出版された『話術』(=左)と同じく25年に版元が白楊社に移ってからの『話術』(=右)、翌26年に姉妹編として同社から出版された『放送話術二十七年』で、いずれも初版本。それにしてもよく集めたものと感心する。もう一冊は講談社吉川英治歴史時代文庫の『宮本武蔵(八)』。全8巻のなぜか最終だけなのでその理由を聞くと「揃って届けるとあなたの場合、原稿そっちのけで読んでしまうでしょ。それに佐々木小次郎とのあの巌流島の対決はこの最終巻だから」と。余計なお世話だ。

もっとも『話術』のほうは今回の新潮文庫では漢字や仮名遣いなどが新しくなっているので参考になる程度だな、と思いながら二冊を眺めるうち、秀水社版は終戦直後の物資不足の時代だったのでこれがそのまま表紙だが写真右の白楊社版をめくるとあら不思議、本体は出版社が別なのにデザインはまったく同じではないか。

それがこちら。煙をあげるタバコはショートピース。夢声がいつもくゆらせていたのをそのままデザインにしたのだろうが、それがまったく同じということはいくら多忙を極めていたとはいえ本人も当然、了解済みだったのだろう。

ついでに姉妹編の『放送話術二十七年』も紹介しておくがこちらは別のデザインである。

ラジオ、テレビの草創期に「物語放送」の定番スタイルを創造した夢声は放送台本に青鉛筆で書き込むのを習慣にしていた。それを「眼で読む文章を、耳で聞く文章に替える」と表現する。赤でなく青鉛筆だったのは訂正ではなく自己流の改変だったからか。

 

吉川英治の『宮本武蔵』で巌流島に向う舟で武蔵が船頭と語る場面。

「思い出した―この辺の浦々や島は、天暦の昔、九郎判官殿や、平知盛卿などの戦の跡だの」

眼で読めばこの「思い出した」がオカしくない。しかし私は「思い出した」を「ふーむ」に替える。「ふーむ」という声の響きに、思い出した感じを含ませる。聞いていて、その方が自然なのである。

 

―舷(ふなべり)から真っ蒼な海水の流紋に・・・。

この「流紋」を私は、ただの「流れ」に替える。眼で眺めれば「流紋」とは面白い文字であるが、これが耳で「リューモン」と聞いたとき、おそらくわかる人は幾人もあるまい。

 

―「武蔵か」厳流(=佐々木小次郎)から呼びかけた。彼は、先を越して、水際に立ちはだかった。

これを私は、次のように替える。

―「武蔵か」厳流は、先を越して、水際に立ちはだかった。

なぜかというと「武蔵か」という呼びかけは、声で表されるのだから、呼びかけたという説明の言葉は要らないからである。

 

なるほどなるほど。講談社文庫の『宮本武蔵』を確かめるまでもない。蚤野へは彼の好きな缶ビールでもお礼に差し入れておこう。

ではまた

 

あと読みじゃんけん (18) 渡海 壮 秘宝館という文化装置

  • 2018年3月21日 00:42

「こんな本をよく見つけて、しかも買ったね!」と言われそうだが、我ながらそう思う。妙木 忍 著『秘宝館という文化装置』(青弓社刊)の表紙を飾る写真は、栃木県日光市の「鬼怒川秘宝殿」の目玉展示、マリリン・モンローだそうな。有名すぎる「不滅のセックス・シンボル」に似ているといえば似ている程度だと思うし、そもそも好みのタイプではない?からこの表紙を見て買う気になったわけではない。かといって秘宝館に入館した経験はないからノスタルジーなどがあるわけもない。あえて言えば女性である著者が<まっとうな研究対象>として選んだことに興味が湧いたからとしておこう。

妙木 忍 著『秘宝館という文化装置』(青弓社刊)

「秘宝館」は「秘宝」の「館」と書く。「秘宝」とは、大切にし、一般の人には見せない「宝」という意味が一般的だが、この本で取り上げた「秘宝館」は<性愛をテーマにした博物館>という意味である。いまふうに言えば<性のテーマパーク>だろうか。1970年に開催された大阪万博から2年後に初の秘宝館が生れ、その後の十数年間に全国の温泉観光地などに少なくとも20館が存在し、性愛シーンの人形や性にまつわる品々を展示した<おとなの遊艶地>として人気を博した。日本各地には柳田國男の『遠野物語』に出てくる金精様(こんせいさま)のように信仰対象そのもの、神社の奉納物やお祭り、性文化財を集めた資料館、歓喜天など性的要素を含む仏像などを集めた美術館があることは知っていた。当然、秘宝館にも古い歴史があると思っていたが半世紀そこらの新しいものだとは意外だった。

著者は秘宝館がそれらとは一線を画す理由を観光産業と結び付いた性の展示であるから表紙のマリリン・モンローのような等身大人形が含まれているのが大きな特徴であると指摘する。こうした等身大人形の製造文化と日本古来の性信仰と娯楽産業とが融合した世界でも特異な「文化装置」に他ならないという。モンローといえば地下鉄の通気口から吹きあがる風で白いドレスがめくれる『七年目の浮気』の名シーンが有名だが、秘宝館にもハンドルなどを操作すると風が出る仕掛けがあり、訪問者参加型の動的な展示を備えているのも特色のひとつという。

本を書くほど秘宝館の研究にのめり込むきっかけは、旅行好きな著者が『遠野物語』の舞台となった岩手県遠野市を訪問した際に「山崎のコンセイサマ(=金精様)」を見たのが原点という。そこには記念スタンプが置かれ、性の信仰の対象が観光地化されていた。愛媛県宇和島市の性文化財の資料館では「収集されたコレクション」が性の観光化でもあることを知った。伊勢旅行では日本初の秘宝館である元祖国際秘宝館伊勢館(以後、伊勢館と略)に立ち寄り、性というテーマの等身大人形などに別の形態を“発見”していく。ここでは妊娠した子宮の実物大の医学模型に、同じ女性として女性の人生や出産に関心を持っていたこともあって引き込まれていく。さらに「旅の文化研究所」の公募研究プロジェクトに選ばれたことで研究が加速、国内だけでなく海外の性愛博物館にも研究を広げていった。

「秘宝館の誕生」では伊勢館を創設した松野正人氏のライフヒストリーが紹介される。1929年(昭和4年)生れ、多くの失敗にもめげず、さまざまな事業に挑戦し宝飾品の型枠製造から真珠販売会社で成功し、「フジヤマ・パール」としてニューヨークでの万国博覧会(1964-65)の展示販売で大好評を博すと、アメリカでドライブインやモーテルを見たのを参考に伊勢神宮参拝の団体観光バスが利用するドライブインを建設する。将来予測される車時代を先取りしたものだった。松野氏は生来の宣伝上手でもあり、テレビコマーシャルで繰り返し放映することで人気を集めて規模を拡大、一時は姉妹館までできて従業員数も200人を超えた。自身もラジオやテレビに積極的に出演、道路の看板広告なども含めて年間3億円もの宣伝費を使ったという。観光バスでやってくる団体客を積極的に受け入れたが、案内するのは女性の「フロントガイド」でバスが到着すると迎えに行き、秘宝館入口まで案内、受付にも女性が常駐しやがて女性館長も誕生した。このあたりは大阪万博のコンパニオンを真似たのか。松野氏は三重県ドライブイン協会や伊勢市観光協会の理事などを歴任、地元の観光振興に尽力したなかなかの著名人だった。一時は温泉観光地にも続々と誕生した秘宝館人気もやがて凋落、伊勢館は2007年(平成19年)に、鬼怒川秘宝殿も2014年(同26年)に閉館した。他も数カ所を残すだけというからまさに<絶滅危惧種以上>か。

この本を紹介する気になったのはつい先日、新聞の記事でコメントする著者の名前を偶然見かけたから。東京大学大学院の上野千鶴子教授のもとでジェンダー研究を学びながら観光研究を手がけ、本の執筆当時は北海道大学応用倫理研究教育センターの助教だったが現在は東北大学国際日本研究講座の准教授で戦後の女性の生き方を巡る「妻無用論」などの論争を研究してきた論客でもあるという。

本にはカラーも含め多くのカット写真が掲載されている。モンローの等身大人形はロンドンのマダム・タッソー蝋人形館なども映画のシーンと同じ白いドレスのあのポーズである。いずれも著者が自ら撮影した日付データが添えられている。著者が上野サン譲りの「論客」というのを気にしているわけではないが、いずれもハンドル手前からの<全体像>なので残念ながら?風は出ていないから紹介しないでおく。

ヒトラーの時代 (29) 池内 紀

  • 2018年3月14日 13:14

強制収容所第1号

ジュタリーン文字

 

ナチスの時代に独特の活字が使われていたことは、あまり知られていない。アルファベットの形に特徴があった。ナチスが好んだ書体であって、そのため文字を見れば、ひと目でナチス時代の刊行であることがわかる。またおおむねナチス賛美であることもわかる。

英語、フランス語、ドイツ語、デンマーク語、オランダ語……。ヨーロッパの言語は共通して同じアルファベットにより、違いといえば言葉によって多少の変化が加わる程度である。どの国に行こうとも、意味はともかくとして文字は読める。

ただドイツでは、そうではなかった。ヨーロッパ語が共通してラテン文字を用いているなかで、ドイツ語には古来、「ドイツ文字」と言われている字体があって、ラテン文字と共存してきた。ナポレオン軍占領下の十九世紀初め、軍事力ではかなわなくても、文化や思想ではフランスを凌駕するといった愛国主義が背景にあったのだろう。ドイツ文字がラテン文字を圧倒しだした。おおかたの書物はドイツ文字で印刷され、書体もドイツ文字の書き方で書く。まったくちがった活字、まるで別の書き文字であって、きちんと勉強しないと読めないし、書けない。エリートの進むギムナージウム(九年制の中・高等学校)はドイツ文字、早々と社会に出る職業学校はラテン文字と、教育も二分された。ドイツ人であってドイツ語が読めないといった事態にもなったが、ドイツ文字が読めなくても、その人はべつに不便を感じたりしなかっただろう。自分には用のない世界の文字と割り切っていてよかったのである。

私自身でいうと、ドイツ文字の読み方、書き方を、学校ではなく、すでに公務から退いていた老ドイツ人に個人教授を受けて学んだ。ドイツ文学者と称するためには、古い本も読まねばならない。ゲーテをはじめとする十九世紀の文学書は、初版はドイツ文字で印刷されている。詩人リルケが書いた手紙を、オリジナルで読もうとすれば、ドイツ文字の筆記体を知らなくてはならない。概してラテン文字よりもドイツ文字の方が格段に美しい。リルケの頃はすでに、ドイツ文字の筆記体は時代遅れとみなされていたはずだが、詩人として、流麗な書体を捨てきれなかったと思われる。

第一次世界大戦終了ののち、いまや始まったワイマール共和國では、ドイツ文字は帝政ドイツの古くさい遺産にすぎなかった。ラテン文字一色となり、ドイツ文字はせいぜい、商号や看板などに装飾として残っている程度だった。教育も当然、ラテン文字であって、ドイツ文字は急速に捨てられた。過去の威光をおびた旧ドイツの文化遺産とみなされた。

そこへナチスが現れた。ワイマール体制の打倒を叫び、過激な政治闘争に打って出た。ヴェルサイユ条約破棄や赤色革命への防御とともに、ドイツ固有の文化、ドイツ的伝統の復権を主張した。党首アドルフ・ヒトラーは『わが闘争』を著して、過激派への支援を呼びかけた。

当然のことながら『わが闘争』はドイツ文字で印刷されていた。その主張からして、ラテン文字は使えない。ヒトラーは第一次大戦以前に教育を受けた世代であって、ドイツ文字をたたきこまれており、書くこと読むことに不自由はない。

読み手の側はどうであったか。ここに厄介な問題が生じた。党首ヒトラーをはじめ、ゲーリングやゲッベルス、ヒムラーといったナチス幹部たちはドイツ文字が使えるが、ナチ党を構成している大多数、また若いSAのメンバーたちは、党首の主著が読めない。ラテン文字で出されて、ようやくひもとくことができる。しかし、ラテン文字はナチの排撃する文化の一つであって、それでもって党首の「聖典」をつくるのは、自己矛盾もはなはだしい。『わが闘争』はどうあってもドイツ文字で刊行されなくてはならず、インテリしか読めないドイツ文字ではなく、誰にも読めるドイツ文字でなくてはならないーー

そんな時代背景があって、一つの活字が浮上してきた。のちに考案者の名をとって「ジュタリーン文字」と言われるようになった。L・ジュタリーン(一八六五〜一九一七)はベルリンの意匠家で主に広告業にたずさわっていた。現代でいうグラフィック・デザイナーであり、企業の広告、商標、ロゴマークなどのデザインをする。『デザイン教程』といった著書があるから、この方面で知られた人だったのだろう。

いつのころからかわからないが、このデザイナーは文字に関心を持ち、ドイツ文字の書体をラテン文字に応用する試みを始めた。一見のところ、ドイツ文字だが、よく見るとラテン文字であって、ドイツ文字を知らなくても、このドイツ文字は読める。ひとことでいえば、インチキくさいドイツ文字だが、インチキではなくラテン文字をドイツ文字式にデザインしたまでともいえる。デザインのあかしのように、ジュタリーンは大文字にはヒゲ状の、あるいは細いツルのような飾りをつけた。ドイツ文字自体、微妙なヒゲがついており、日本ではかつてドイツ文字を「ヒゲ文字」と言ったりした。あるいは単語がひとかたまりの亀甲のように見えるところから「亀の子文字」とも言った。装飾性の強い点で、ジュタリーン書体はドイツ文字の性格を色こくおびていた。

ヒトラーの『わが闘争』初版本文(1925年) 古典的ドイツ文字による熟読のあとが見られる。

ヒトラーの『わが闘争』初版本文(1925年)
古典的ドイツ文字による熟読のあとが見られる。

いずれにせよ、考案者の生前はほとんど陽の目を見なかったものが、ナチズムの拡大とともに、はじめはおずおずと、のちには大っぴらに使われ始めた。当初はポスターや党の文書類だった。大きく目立つところにジュタリーン文字があてられている。突撃隊員は手にとって、読めないはずのドイツ文字がちゃんと読めるのに目を丸くしただろう。急に自分が偉くなったような気がしたかもしれない。

ナチ党の機関紙「フェルキッシェ・ベオーバハター」には、ユダヤ人の排撃、共産党撲滅を呼びかける毒々しい言葉が、格調高いドイツ文字に似た字体で並んでいた。一面には党首の過激な呼びかけが、ゲーテの箴言に見るのとよく似た活字で印刷されていた。

ためしに並べてみよう。

Aはヒトラーの『わが闘争』の初版(1925年)、表紙はわかりやすくラテン文字、本文は古典的なドイツ文字である。

Bはヒトラーが政権についたのち、神格化を図って出されたプロパガンダの一つ。フリードヒ大王、ビスマルク、ヒンデンブルク元帥と並ぶかたちでヒトラーが据えられ、

「ドイツの4偉人」ナチ党の宣伝ハガキ(1943年) 下にジュターリン文字によるスローガン

「ドイツの4偉人」ナチ党の宣伝ハガキ(1943年)
下にジュタリーン文字によるスローガン

下にジュタリーン文字のスローガンが見える。出だしの大文字に二つの丸いループがつき、アルファベットが広告の絵文字のように見え、いかにもデザイナーの作品である。

いつの時代にも、教育界がいち早く体制に順応するものだが、1935年、ドイツの小学国語にジュタリーン書体が取り入れられた。いわば「国字」となったわけで、以後、公文書、法令、政府のスローガンなど、目につくところにジュタリーン文字があふれてくる。イベントの街がナチ党員の褐色のシャツと卍マークで占められたように、活字の森をジュタリーン文字が埋めていく。

ギュンター・グラスの長編小説『ブリキの太鼓』は、ナチス時代に三歳かぎりで成長を拒む少年オスカルが主人公だが、三歳児の身の丈のまま学齢期を迎え、母親につれられて入学式に出向いた。教室の黒板には、新入生歓迎としるされていた。

「そのころ使われていたジュタリーン書体の文字の先端を意地悪く尖らせ、詰めものをされてうさんくさい丸みをつけて……」

うさんくさい書体が、いの一番に新しい人生の門出を祝っていた。

オスカルの言うとおり、「派手な出来事や簡略にした表現やスローガン」にジュタリーン文字が用いられていた。予防接種の証明書やスポーツの記録などにも使われた。

黒板にしるされたお祝いの書き出しのMはジュタリーン特有の

ナチスの宣伝ポスター(1938年) スローガンはジュタリーン文字による。

ナチスの宣伝ポスター(1938年)
スローガンはジュタリーン文字による。

二重ループをもち、オスカルには「陰険な匂い」がして、なぜか「絞首台」を思わせた。たしかに絞首台によるか、よらないかにかかわらず、ナチス時代の数かぎりない死亡証明書は、必ずやジュタリーン文字でしるされていた。

第二次世界大戦とともに、多くのものが悪夢の消えるように消え失せたが、ジュタリーンもその一つである。現在ではせいぜい古書店のゾッキ本のコーナーに、ヒトラーの時代の存在したあかしのようにして、なにくわぬ顔でまじりこんでいる。

 

 

書斎の漂着本 (100) 蚤野久蔵 西洋音楽の知識

  • 2018年2月10日 18:19

4年前に始めたこの連載もちょうど100回目。まだ道半ばなので、はしゃぐ気はないものの「節目」ではあるので、これまでに取り上げたことがないジャンルを紹介することにした。明治・大正・昭和と作曲家、音楽教育家としてわが国の音楽界に大きな足跡を残した小松耕輔(こまつ・こうすけ)が初心者向けに書き下ろしたわが国初の入門書『西洋音楽の知識』である。大正9年5月25日に発刊されると30日に早くも再版、6月5日に3版を出していることからも大変な人気だったことがわかる。発行元は東京・神田のアルス書店で、巻末の出版案内に北原白秋、室生犀星、三木露風、相馬御風などの小唄楽譜や歌集が掲載されているところから音楽、詩歌関係専門の出版社のようだ。

 

     小松耕輔著『西洋音楽の知識』(アルス書店刊)

 

数年前に京都・寺町通りの古書店の「均一棚」=店頭にある雑本を並べた棚=のいちばん上にあったのを手にとったのがきっかけ。外函もぼろぼろで何度も修理したあとがあるし背表紙の金箔押しも剥げかかっている。所有者は余程大切にしてきただろうに誰も購入しなければそのまま廃棄処分されてしまうだろうと思ったわけで・・・。現在と違い当時の本は著者のプロフィール紹介がないのがほとんどで、私も関心分野以外は不勉強ゆえ、著者が「わが国の音楽界に大きな足跡を残した人物」とは知らなかった。当然ながら出版社そのものも少なく、逆に言えば著名人や有名な学者が著者なのだから購入する側は「書いたのが誰であるか」がわかっていたわけですね。新聞広告やこの本にも書かれている楽器店の店頭ポスターなどで知ると<書店に急いだ>から短時間に版を重ねた事情も伺える。

 

 

外函と表紙の裏側の2か所に「U.SUGIMOTO」のゴム印らしきものが押してある。この本を長く愛蔵していたのはこの「スギモト」なる人物なのか。インクはセピア色に変色しているが最終処分、つまり売却されたのが京都の古書店だから京都市かその近辺に住まわれていたのだろうと想像する。

函が壊れかけているので慎重に本を取り出し、ぱらぱらとめくりながら目次などを走り読み、あとで紹介する写真や挿画、このゴム印を見てわずか数分、いや1分足らずで音楽には門外漢ながら興味が湧いた次第。いつもながらの古本買い主義というか、均一棚を前にしての私の心得は<迷ったら買う>。かといってここまで傷んだ本を買ったことは経験がないし、そんな本を連載の節目に選ぼうとは自分でも不思議ですねえ。

 

冒頭に紹介した小松耕輔についての記述は書斎に戻ってから仕入れた「あと知識」と告白して続ける。

 

『広辞苑』には、作曲家、秋田県生れ、フランスに留学。音楽評論や音楽教育の分野でも活動。日本最初の歌劇「羽衣」、歌曲「泊り船」など。(1884-1966)とわずか3行だった。何冊かの人名辞典にあたるとほとんどにその名があるが、なかでも詳しかった『コンサイス日本人名事典』(三省堂)にはさらに、東京音楽学校(東京芸大)在学中にわが国最初の洋楽の手法による本格的なオペラ「羽衣」(1906)を作曲するなど、創作オペラ運動の先駆者として活躍。1920~23(大正9~12)パリ音楽院作曲科に留学後、1927(昭和2)国民音楽協会を起こしてわが国最初の合唱コンクールを創始し、みずからも童謡や合唱曲を多数発表して合唱運動の先駆者の1人となり、敗戦後は学習院大、お茶の水女子大、東邦短大の教授を歴任し、音楽教育の面からわが国音楽界の発展につくした。

 

「序」には「此書は音樂の初學者に向って其の一班を知らしめんがために書かれたものである。其故になるべく専門的の説明を避けて通俗を旨とした。止むを得ざる限り樂譜等の挿入をさけ、文字の説明のみを以て了解せしむるやうに心掛けた。樂譜を讀み得るものに向って音樂を説くは容易であるが、然らざるものに向って説明を試みるは極めて難事である。」と書く。目次に続く最初の挿画はその下に右から左へ「黙想せるヴエトオヴエン」とある。あごを引き、目は真正面をぐっとにらみつけているように見えるからとても「黙想している」ようには思えないけれど。

 

 

もうひとつはざっと数えただけで数百人規模が写る写真である。「グスタアヴ・マアラア氏作第八交響楽の演奏」(フイラデルフイアオルケストラ)とある。

 

「ヴエトオヴエン」にしても「グスタアヴ・マアラア氏」や「オルケストラ」もそのままでは読みにくいと思われるので以下は現行漢字、現代仮名遣い、人名は『広辞苑』最新版(第七版)に拠ることとし、最低限の言い換えはお許しいただきたい。例を挙げると「序」は「この本は音楽の初心者向けに(略)文字の説明だけでわかりやすく(以下略)」、挿画は「黙想するベートーヴェン」、写真は「グスタフ・マーラー、フィラデルフィアオーケストラ」とさせていただく。

 

小松が言う通り<難しいことを初心者向けにわかりやすく>というのは難事だろう。管楽器についての助言をもらったことに謝意を表するとあげた瀬戸口藤吉も『コンサイス日本人名事典』によると、

 

明治・大正期の軍楽隊指揮者・作曲家。海軍軍楽師時代に鳥山啓作詞によった<守るも攻むるも>の「軍艦」を作曲、のちに「軍艦行進曲」として改作、1911年のイギリス国王戴冠式には軍楽隊を率いて列席し、ヨーロッパ各地で演奏した。

 

余談ながらこのイギリス国王はエリザベス女王の祖父に当たるジョージ5世である。「軍艦行進曲」は昔よく通ったパチンコ店でかかっていたあの曲、「軍艦マーチ」ですね。調子のいい時には鼻唄が出そうになった。ただし「攻むる」じゃなくて「攻める」と覚えていた。反対にかなりつぎ込んでもう帰ろうかと思っている時にこれがかかると、もうちょっとやって負けを取り戻そうなんて気になって・・・結局、食事代までスッてしまう羽目に。

 

他にも多くの助言や協力をもらい、忙しいなか何年もかけて試行錯誤や推敲を重ねてようやく脱稿に漕ぎつけたと思われる。ありきたりの表現で恐縮だが<懇切丁寧><微に入り細にわたり>構成されて仕上げられた「本物の労作」なのだ。「あくまで音楽初心者にわかってもらうためどうするか!」という小松の並々ならない目配りがあふれている。「序」は5月1日付、初版が20日印刷、25日発行で、パリ音楽院に留学したのはこの本の発刊と同じく大正9年である。当時ヨーロッパへ向かうのはイギリス領だったシンガポールからインド洋、スエズ運河、地中海経由の南回りの船便で2か月近くかかったたから、そのあとあわただしく出発したのだろう。

 

書き出しは「秋もようやく更けて、夜な夜なの虫の声も何となく身にしむ頃となると、楽器店の飾り窓や新聞の雑報がはやくも音楽会の開かれることを報じるであろう」と始まる。「そこで私は諸君と共に音楽会のために楽しい一夜を過ごそうと考えた。そして音楽会について心ゆくばかり諸君と会話を交え、興つきない秋の夜を語り明かそう」「上野の秋の日曜はそうでなくても人出が多い。その中を自動車や俥(=人力車)が列をなして音楽会の会場へと急ぐ。定刻の午後2時近くなると、はやくも会場が立錐の余地もないほどになる。諸君が会場のドアを入ろうとするその手には今日演奏されるプログラムが渡されるであろう」として例をひく。

 

プログラムには「曲目」、ソナアタ(=ソナタ)は「奏鳴楽」、シムフオニイ(=シンフォニー)は「交響曲」、コンツエルト(=コンツェルト)は「司伴楽」、ロンドは「旋轉調」、メロデイ(=メロディ)は「旋律」、リズムは「節奏」、ハーモニーは「和聲(声)」の漢字を当てているが、それぞれの<たとえ>もおもしろい。

 

「いまここに一つの川がある。川は昼夜を分かたず流れる。流れ行く水はすなわち旋律(Melody=メロディ)である。川の水は時に洋々と流れ、時に滔々と流れる。そこには水の足踏みが聞かれるであろう。これが節奏(Rhythm=リズム)である。川の両岸にはたえず変わりゆく景色がある。時には広々とした野原を過ぎ、時には緑したたる杜(森)の影をうつし、あるいは白楊(はくよう=ドロノキ、ドロヤナギ)の茂みを通り、咲き誇る花びらに接吻(くちづけ)してゆく。これらの水にうつることごとくの物象が即ち和聲(Harmony=ハーモニー)である。水の流れが歌い、足踏みし、岸の影をやどして流れゆくとき、そこには全き(まったき=欠けたところがない)音楽の象(すがた)がある。」

 

思いついたのは<大正ロマンの香り>。門外漢の私には「そうですか、たしかに・・・」とひたすら頷くしかない。

 

演奏会で使われるさまざまな楽器については弦楽器、管楽器から始まって大型打楽器のティンパニーからシンバル、トライアングル、タンバリンに至るまで詳細な図を紹介しているからこの本を会場に持参しても見比べられそうだ。演奏される曲の作者も器楽・声楽の作家として41人、歌劇では17人を網羅しているから十分すぎるほどだったろう。とくに歌劇はモーツアルトの『魔笛』、ワグナーの『タンホイザー』、ヴェルディの『アイーダ』、ビゼーの『カルメン』というように代表作品の舞台写真を添えている。

 

なかでも「黙想せる」の挿画まで紹介したベートーヴェンには13ページといちばん多くを割いている。

1770年12月16日、ドイツ・ボンに生れた。父はエレクトラル寺院のテノール唱歌者で、祖父もまた協会の楽師長を勤めた人である。父は飲酒家で幼児の家庭はかなり悲惨を極めた。かつ彼は病身であったために常に荒涼たる生活を送り、家庭の温かさを知ることができなかった。このために彼は却って満足を芸術に求めるようになる。日常交際を嫌い、隠遁的な偏狭な生活を送らせた。

 

「田園シンフォニー」、唯一の歌劇「フィデリオ」、「第九交響曲」、「荘厳ミサ曲」を次々に公にしたあたりから聴力を失い、手の指のマヒが進行してピアノが弾けなくなると「音楽家にとってこれ以上の悲惨はあり得ないことである。彼はまた物質的にも非常な貧窮に陥った。彼を扶(たす)けた貴族たちも大方死に、また四散して今は僅かばかりの金を得るさえ困難であった。靴に穴ができたため外出を見合わせることもしばしばだった」と苦しい生活をこれでもかというくらい紹介する。

 

かくして彼は1826年11月に重い風邪にかかり、次第に衰弱して翌27年3月26日、雷鳴とどろき、暴風雨の激しい午後の6時に最後の息を引きとった。彼の葬儀にはたくさんの人の大なる哀悼のうちに行われた。

 

これでお終いかというとまだ続く。さらに代表的な作品の細かい解説が終わると「彼は古典音楽の殿将であると同時にロマン的音楽の最初の人である。音楽はバッハに至って一転し、モーツアルトに至って再転し、ベートーヴェンに至って更に衣を着け替えて近代音楽の急先鋒となったのである。彼は日常寡言、人と交わることを好まず、陰鬱なる性質を懐いて、しかも心中には燃ゆるがごとき情熱と人生に対する愛とをもっていた。ある批評家の言った通り、彼の音楽は「人間の精神から霊火を発せさせるもの」である。その熱烈真摯な点は他のいかなる音楽家も及ばない、と絶賛して結ぶ。

 

ここまで読むとなんというかフーッと息を吐いてしまいそうな・・・。他の人物についてもそれぞれ緩急をつけるように描かれているから持ち主と思われるゴム印「スギモト氏」も繰り返し読みふけったのではあるまいか。

新・気まぐれ読書日記 (53) 石山文也 琥珀の夢(その2)

  • 2018年2月3日 19:05

気の早い読者ならタイトルが『琥珀の夢』だから、信治郎いよいよウイスキーに挑戦するのか、と思われるかもしれない。とんでもない。明治・大正のこの時代、日本酒の需要に比べれば洋酒は微々たる需要しかなく、輸入販売でまかなえたから国産ウイスキーを手がけるという発想すらなかった。たとえ技術や生産設備があったとしても熟成されたウイスキーが商品となるのに早くて5年、ことによっては10年の歳月、まったく利益を生まない時間をかかえなくてはならない。利どころか、借り入れた金の利子を払い続けなければならない。世に幾多の商人がいてもこれまで誰一人として挑んだことはなく、それを「夢」として追いかける信治郎が<酔狂の極み>と言われながら挑戦を始めるのは表紙を紹介したこの下巻でも後半3分の2を過ぎてからである。さまざまな試行錯誤や戦争、天災地変、失敗や事業の撤退などをいちいち書き留はしないがもう少しお待ちいただきたい。


伊集院 静 著『琥珀の夢 下』集英社刊

 

開業9年目、寿屋洋酒店と名前を変えて間もなく誕生したのが「赤玉ポートワイン」である。作業場に籠ること丸二日半、新たな葡萄酒は昇る朝陽のようなお天道さんにあやかって「赤玉」と命名した。ラベルも気に入るまで何度もやり直させた。印刷所のオヤジとはこんなやりとりだった。

「あんさん、そんな赤色ではあかん。空にぐんぐん昇って行く朝陽の、あの真っ赤っ赤やないとあきまへん。一目見たら、あっ、これや、これが赤玉やと目に焼き付く赤やないとあきまへん」

「へぇ~、そやさかい、こうして三晩も店の職人と色出ししましたんだす」

「あかん、三晩やろうが、こないな赤色やあきまへん。すぐ戻って、やりなおしなはれ。あんさんとこの印刷なら博労町で一番の色出しがでけると見込んで頼んでんのや。銭はなんぼかかってもかましまへん。工場の方はもう赤玉がどんどんでけて、あんさんの仕事を待ってんだっせ。その子らに着せる着物だっせ。気張っとくれやす」

 

値付けも東京の「蜂印」葡萄酒を上回る1本38銭と米1升が10銭の当時、4升分に近い価格をつけることによって<真っ向勝負>に出た。とはいえ、販路拡大は自らの体力と持って生まれた愛嬌が頼りだった。四国への売り込みでは高松の得意先や松山の商人宿あてに100本ずつ送り、それを大八車に積んで大洲、八幡浜、宇和島、西条、新居浜をはじめ小さい町まで残らず回った。ひと回りする頃に顔は赤銅色に日焼けし、何度か草履を買い替えるほどで、知らない店では「漁師でもしとられましたかの」と聞かれるほどだった。

 

少し時期は遅れるが、寿屋第一号のポスターとなる赤玉のポスターは、女優の松島栄美子が赤玉の入ったグラスを手に何か言いたげな表情をみせるあのポーズが大評判となり世間を驚かせた。当時の常識からすれば大胆ではあったが半裸になっただけなのに日本初のヌードポスターと噂になり、赤玉を飲まない人たちからも、ポスターが欲しいとの申し出が殺到した。これも合格となるまでには実に1年近い歳月をかけてようやく完成したもので、後にドイツで開催された世界ポスター展で堂々の第一位を獲得した。

 

第一次大戦後は一時的に不況に陥ったが消費の増大が日本経済を下支えした。「赤玉」の売れ行きは地方都市で伸びていった。新聞広告も積極的に出し東京支店を開設するなど進出攻勢を本格化させた。国分商店を筆頭とする関東圏の問屋は信治郎の熱心な説得とさまざまな販売策により「蜂印」と対抗する葡萄酒として「赤玉」をプロモートし始めた。まさに自分の足で開拓した得意先の多さは強みであり、缶詰め問屋として十分繁盛していたから安売りをしなかったのも信用となった。この国分商店とは関東大震災直後に自ら準備した救援物資を海軍省に頼み込んで海路を運び、焼け残った社屋に届けた。集金に来たのかと心配する番頭に残った伝票を出させるとその場で全てを破り捨てて「これで決済は完了だす」と驚かせたエピソードも紹介される。

 

洋酒以外のさまざまな商品開発に信治郎は自慢の鼻と独特の勘で挑戦し続け次々に商品化していく。それでも国産ウイスキー作りへの道はまだまだ遠かった。

 

「誰もやったことのないことをやる」――信治郎のとてつもない夢は「赤玉」の好調な販売があったとはいえ、周到な準備と海軍のような洋酒党の開拓、資金にしても銀行だけではないスポンサーの確保、ありとあらゆる壁があった。

 

必要資金は大正期に入社した大番頭で秘書役でもあった児玉基治たちにこの先5年間で必要となる資金を試算させた。ようやく出てきたウイスキー蒸留所の建設費用は200万円を超えていた。当時の200万円は現在の金に換算すると十数億円になる。これに招聘する技術者の十年間の給与、材料費を加えると全ての金額がどれほどになるか見当もつかない。その上、そこに借り入れた金の利息がかかる。

 

壁のひとつが解決したのは中心となる技術者としてスコットランドで洋酒造りを学んで帰国した竹鶴正孝との出会いだった。京都・大阪府県境の山崎に作られた醸造所に仕込まれた原酒は眠りつづけた。10年間の契約のあと竹鶴は北海道の余市でニッカウヰスキーを興すが、残された原酒が目覚め「サントリーウイスキー12年もの角瓶」として日本特有の切子細工から発想を得た亀甲型のボトルデザインで登場したのは昭和12年だった。美しい琥珀色、黄金の色が売り出しから好調で国産ウイスキーの夜明けを告げるのにふさわしかった。

 

信治郎は「ようやっとでけたんやな。13年か・・・」と次々に入る「角」の注文を聞きながら山崎蒸留所が完成してからの歳月を思っていた。

 

今夜あたり、私もグラスを傾けながらもういちどこの本の余韻に浸ろうと思う。

ではまた