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B29を見た男     浜井 武

  • 2023年1月14日 15:15

一九三八年(昭和十三年)生まれの私は、敗戦の日を、小学一年生のとき、二度目の疎開地だった愛知県の山奥で迎えました。 祖父が日本の植民地政策に乗っかって、満州と朝鮮に、「大阪屋号書店」という出版社兼取次業(戦後の取次店・大阪屋とは無関係)を手広く展開していたので、わりと裕福な家庭でした。 しかし、敗戦と同時に外地の資産は全て失い、私が生まれた日本橋呉服橋(今の中央区八重洲)にあった本店も空襲で焼失し、いっぺんに生活の手段を失いました。 戦時中、幼稚園児だった頃の記憶は断片的なもので、それより前の呉服橋の赤ん坊時代もちろん、父母が一時白金に住んでいた頃の幼児期のことも全く記憶にありません。 品川の御殿山に移ったあと、八ツ山橋際にあった森村学園幼稚科に通ったのですが、子供の足では十分以上かかるので、ふだんは担当の子守さん(四人の子供にそれぞれ子守が付いていた)に送ってもらったのでしょうが、遅刻しそうになると、パッカードという祖父の自家用車で送ってもらった記憶があります。 幼稚園では、ちょっと可愛い女の子(今でも名前を覚えています)がいて、その子と一緒に駆けっこするときは、わざと負けるように遅く走ったものです。後年、といっても、初等科時代の話ですが、同級生に「オンナに甘いさん」と仇名を付けられましたが、そいつは「ハマイ」をフランス語読みにすると、「アマイ」になると知っていたのでしょうか? これは三十年の前の話ですが、銀座のバーで(酒は飲めなくても、時間外が稼げるので作家とはよく銀座に行きました)吉行淳之介さんに、「ぼくはB29を見てるんですよ」と言ったことがあります。すると吉行さんに「『B29を見た男』というのは、小説の題になるなあ」と言われましたが、そんな小説は書いていないようです。 空襲警報が鳴って、庭に堀った防空壕に逃げ込んだり、夜空に探照灯に照らされたB29の編隊が、高射砲の届かないはるか一万メートルの上空を、キラキラと銀色に機体を輝かせて飛ぶさまは、子供心には怖いというより、ワクワクするような気分でした。 私は長い間、自分が見上げたB29は、一九四五年三月のいわゆる東京下町大空襲で飛んで来たものとばかり思い込んでおりましたが、二歳上の兄の記憶によると、二月にはもう疎開していた、というのです。となると、あのB29は、いったいどこで見たのでしょう? 父は敗戦前年の一九四四年に赤紙が来て、千葉県柏の歩兵連隊でにわか訓練を受け、中国大陸に連れていかれました。留守家族の私たちはも、いよいよ東京もあぶない、ということで、神奈川県の葉山にあった別荘に疎開することになり、幼稚園を「中退」した私は、葉山小学校に入学しました。 葉山という所は、海水浴にはいいでしょうが、疎開先としては適していませんでした。三浦半島の背中合わせに横須賀軍港や浦賀ドックがあり、山の上には高射砲の陣地があって、格好の攻撃目標となります。高射砲から放たれた弾丸は空中で炸裂し、触っただけで手が切れてしまうような、ギザギザの鉄の塊が落ちてきて、屋根をぶち抜いたりするのです。私たちの家の庭にも、落ちてきました。    また、横須賀攻撃に加わったアメリカのグラマンF6Fは、機体を軽くするためなのか面白半分か、帰りついでに市街地を機銃掃射して行きます。道路には点々と穴が開き、犬が撃たれたりしたそうです。    ここも危ないということで、直参旗本の末裔を自認する母型の祖母は、長女を嫁がせた浜井の家名断絶を避けようと、長男の兄と、兄が死んだときの補欠要員として次男の私とを、自分の故郷である愛知県の山の中に、再度疎開させます。さすがに今度は空襲の心配はありませんでしたが、ひよわな都会っ子は、いじめの対象になりました。   そして、敗戦.。私には、同い歳で広島の原爆投下に遭いながら奇蹟的に助かった「はだしのゲン」の作者・中沢啓治さんや、東京大空襲で逃げ惑ったという二歳上の毒蝮三太夫さんのような、強烈な戦争体験はありませんが、それでも、ああ戦争が終わってよかった、という解放感は、今も忘れられません。    アジア太平洋戦争と呼ばれるあの戦いで、大日本帝国が敗れたのは、むしろ良いことだった、と思うようになるのは、もっとあとのことですが、それでも幼いながら、もう灯火管制もしないでいいのだ、という平和の有難さは、身に沁みて感じたものです。    一旦、父方の祖母と母と弟が待つ葉山に戻って最初に覚えた英語は、「ギブミー・チューインガム」と「ギブミー・チョコレート」。父も無事復員して来て、宇都宮に学童疎開していた小学五年生の姉も戻り、一家は焼けずに残った品川の家に戻ることができました。    しかし、外地での資産と仕事先を全て失ってしまった父には、もう出版取次業を再開する気はなく、数ある道楽の中から、社交ダンスを教えてわずかな小遣いを稼ぐほかは、好きな講談で生きていこうと思いきります。    出版関係の若社長と結婚したつもりだった母は、それには我慢がならず、小学校の調書で「保護者の職業」という欄には、とっくに失ったはずの「出版取次業専務取締役」という肩書をずっと書き続け、「キミのお父さんは講談師だろう」と言われ、私は返答に困りました。   (注 浜井氏の父浜井弘は誰あろう、かの講談界隆盛の礎を築いた二代目神田山陽その人である。弟子には人間国宝神田松鯉はじめ多くの女流講釈師、さらには、孫弟子には今人気沸騰の神田伯山らを輩出)    戦後、講釈師は忠君愛国の手助けをしたといわれて、落語家よりも生きにくく、ましてや素人の旦那芸が商売になるわけがありません。金目の物を売り払って凌いでいく、文字通りの竹の子生活が始まります。    ある日、座敷に子供たちが集められ、床の間に掛けてある横山大観の「富士山」の掛け軸を見せられると、次の日には無くなっています。また別の日には、竹内栖鳳による「竹林の雀」を見せられ、これも翌日には、姿を消します。    私が覚えていたのはこの二つですが、父が書いた『桂馬の高跳び』(注 副題は「坊ちゃん講釈師一代記」1986年光文社刊 2020年中文庫 解説神田伯山)が中公文庫になったので読み直してみたところ、びっくり。なんと川合玉堂、下村観山、川端竜子、橋本関雪、伊藤深水、上村松園といった人たちの、祖父が楽しみで集めた絵画が、日本橋T百貨店などの画商に、それこそ二束三文で叩き売られていたのです。オイオイ、子供四人にせめて一枚づつでも残しておけよな、と言いたいところですが、まあ、そのお金で生き延びたのだと思えば、仕方がないことなのでしょう。    しかし、そんなことでは、焼け石に水で、とうとう私が小学四年生の時、二百坪以上あった御殿山の家を、これも騙されたような値段で売り払い、私の生まれた呉服橋へと移り住みます。    空襲で焼けてしまった(大阪屋号書店)本店の跡地には、母方の祖母が始めた喫茶店と、祖母の末娘で宝塚出身の叔母と結婚した、映画俳優の水島道太郎の家が建っていて、私たち家族は水島の家へ移り住みます。    水島の叔父さんは、私たちをとても可愛がってくれて、釣り好きが高じて狩野川に面した大仁へ引っ越した時も、自分の運転する車で大仁を案内してくれたり、京王多摩川にある日活か大映だかのスタジオで長期の撮影に入った時には、仮住まいの多摩川で、水遊びに連れて行ってくれたりしました。    彼は、「泳げるようになるには、水の中で眼を開けなきゃだめだ」といって、私の頭をつかんで川に漬け、「目を開けているか」と訊くのです。「うん、開けてる」とウソをつくと、「じゃあ、おじさんがグーかチョキかパーを出すから当ててごらん」と言うので、これには参りました。    呉服橋の家は、東京駅八重洲口の目の前なので、近所にビルが建つ前は、物干し場に上がると、東海道線の発着がよく見えました。    学校は転校しなかったので、東京品川間を電車通学することになり、子供にとっては嬉しいことでした。時間に余裕がある帰り道は、省線には乗らず、品川駅のホームで東海道線の列車を待ちます。    ご存じのように、いやご存じないかもしれませんが、EF56かEF57など、一輌の電気機関車が長い客車を牽引するので、発車直後は人が歩くよりも遅く、だんだんと速度を上げていきます。そこで悪ガキは列車に合わせてホームを走り、もう無理だというところで、デッキに飛び乗るのです。当時の客車は手動扉でしたから、こんな芸当ができました。    そして停車するのは、新橋、東京という、日本有数の著名駅だけ。ああ楽しかったなあ。    品川駅も思い出の多い駅です。品川駅ときいて、中野重治の詩「雨の降る品川駅」を連想する人がいたらすごいと思いますが、こっちはもっと楽しい思い出です。    昔の品川駅には、貨物専用の品鶴線との関係なのか、駅構内に運河が入り込んでいました。    子供たちは駅で入場券を買い、芝浦川の東口(現南口)へ通じる長い長い渡り廊下を通って、運河に降り立ちます。そこで、セイゴやボラが釣れるはずです。「はず」といったのは、友達のリールを借りて勢いよく投げたら、リールごと飛んでいってしまい、釣れなかったものですから。    水島道太郎と結婚した宝塚の叔母は、山鳩くるみという芸名で、越路吹雪の一年上級生でした。戦争中の宝塚ですから一年でも先輩の上級生が連れてきた汚いガキにでも、愛想よくしないわけにはいかず、越路さんに「高い高い」をしてもらったのが、私だったのか、兄貴だったのか、いまだに二人の間で決着がついていません。叔母の山鳩くるみにも少しはファンがいたようで、生前の小泉喜美子さんに、叔母の芸名をつげたところ、あの小泉さんが「えっ、コバ!?(本名小林の略)」絶叫したのでした。愛知の疎開先にも叔母を慕ってついてきたガラス屋のお兄さんは、戦後になると、私をよく宝塚を観に連れて行ってくれました。    本来の東京宝塚劇場は、アニーパイルといって占領軍に接収されていたので、有楽町の日劇を借りていました。その十五日間の公演を欠かさず毎日観にいくのです。そんな小遣いがどこにあったのかふしぎですが、子供の私の分はタダだったのでしょうか。    毎日聴くのですから、さすがに歌は全部覚えてしまいました。演し物の「真夏の夜の夢」の中で歌う「筏乗りの歌」とかは、今でもソラで歌えます。    日劇と有楽町の間には、闇市が広がっていて、そこで生まれて初めて飲ませてもらったミルクセーキのうまかったこと!世の中にこんなにおいしいものがあったのか、とびっくりしたものです。    うん、まだらボケっていうのか、どんどん思い出してきたぞ!    でも、これ以上書いたら安倍さん、じゃなかった(これはひどい間違い、すいません)阿部さんに迷惑かけるので、この辺で止めときます。

ガキのころ       土山勝廣

  • 2022年12月28日 16:54

「おまえ、俺の子供の頃の話、聞きたいか?」

「別に、聞きたかねえな」

「そりゃそうだろう。他人のガキの頃の話なんて、興味ないからな」

「なにか、特別面白い話でもあれば別だが」

「面白い話って、どういうことだ?」

「たとえば、おまえの親父が酒乱で、見かねてお袋が親父を殺してしまって、お袋は刑務所に入っているとか」

「いや、二人とも長生きで、九十過ぎまで生きていたよ」

「じゃあ、こういうのはどうだ。おまえがガキの頃、駄菓子屋で万引きして捕まって、警察に通報されて、怒られて、それが町中に知れ渡って、居づらくなって、他の町に引っ越すことになって、それからおまえの流浪の日々が始まった、ってのは?」

「流浪なんかしてないよ。今でもその町に住んでいるんだから」

「じゃあ、おまえの兄貴がぐれて暴力団の手先になって、麻薬取引で警察に逮捕されたんだ」

「俺には兄貴はいない。俺が長男だ。しかしなんで警察沙汰ばっかりなんだ?」

「そうだな。じゃあ、自然災害はどうだろう。おまえが子供の頃、台風の被害にあってだな。崖崩れで家が押しつぶされて、おまえが柱の下敷きになって、泣き叫んでいたところを消防の救助隊員に助けられて、危うく命拾いをしたんだ。しかしそれがトラウマになって、大雨が降ると恐怖で体は震え出すようになった。大人になってもそれは続き、彼女とデートしていても、雨脚が強くなるとそわそわしだして、彼女をほっぽり出して家に逃げ帰ってしまう。そんな事が何回もあって、ついに結婚できず、淋しい一人暮らしを続けているわけだ」

「そんなことはない。俺は結婚して子供が二人できて、二人とも結婚して家庭を持っているんだ。しかしなんでそう暗い話ばっかりなんだ? 子供の頃のいい思い出もあるだろう」

「確かにそうだな。じゃあ、こういうのはどうだ? おまえの家から小学校に行く途中に踏切があって、あるときおまえが学校に行こうとすると、踏切の警報器が鳴っていた。しかしそこにいたおばあさんは耳が遠いらしく、警報音が聞こえなくて踏切に入っていった。そこに電車が来て、おばあさんが轢かれそうになったところを、おまえが助け出して、おばあさんは事故に遭わずに済んだ。そしておまえは人命救助と言うことで表彰されたという話だ」

「いい話だが、家から学校に行く途中には踏切はない」

「そうか、残念だな。じゃあ、こういう話はどうだ? おまえがガキの頃、一人で家を出て、道に迷って泣きながら歩いていると、親切な若い女性が見つけてくれて、その人の家に連れて行ってくれて、そこで温かい牛乳なんか飲ませてもらった。そしてその女性はおまえの名前を聞くと、いろいろ問い合わせてくれて、やっとおまえの母親が迎えに来てくれたと言うことだ。これに後日談があってな、その十年後に高校生になっていたおまえはその女性と偶然出会って、またその女性の家に招かれて、いろいろと親切にしてくれて、そしてその女性に目出度く筆おろしをしてもらったという事だ。心温まる話だろう?」

「馬鹿だな、おまえも。それはおまえの妄想だろう」

「しかし、おまえの子供時代には、何も面白いことはなかったってことだな」

「まあ、そうだが、しかし誰だって、子供の頃に、面白いことなんか、あるはずはない。だいたい子供の頃って言うのは、自分から何かするわけではなく、回りの大人たちが敷いた道を歩いていただけだからな」

「そういうことだな」

「しかし、考えて見れば、今の俺たちも似たようなものだ。会社を定年で退職し、年金暮らしの毎日だろう」

「そりゃそうだ」

「で、もう今となっては、自分から何かしようと思う事もなくなったしな」

「じゃあ、子供の頃に戻るわけだな」

「そういうことだ。で、だんだん痴呆症の気が出てきて、幼児に近くなってくる」

「そういうやあ、老人ホームの様子をテレビで見てると、みんなで手を叩いたり、歌を歌ったりと、保育園と似たようなことをやっているな」

「そのうち歯も悪くなり、固いものが食べられなくなる。老人食ってやつだ」

「そうか、だんだん離乳食を与えられる赤ん坊になっていくわけだ」

「要するに歳を取ると言うことは、だんだん子供から幼児、そして乳児に帰っていくと言うことだな」

「そしてその後はどうなる?」

「理屈では母親の胎内ということになるが、我々の場合は骨壺に入るって事だ」

「そして墓に入るわけだ」

「そう考えると、人生なんて、なんともはかないものだな」

「だいじょうぶ。人生はかなくても、墓はある」

「くだらねえ」

パンツ泥棒          藤野健一

  • 2022年12月28日 16:40

小学五年生の夏休みの事だ。

家の近くにある私立の中学校が、夏の期間中プールを安い料金で一般に開放した。昭和二十年代のことで、まだプールは珍しく、おとなも子供も涼を求めて押しかけた。大盛況で、泳ぐというより水に浸かるだけの状態だったが、それでもみんな大喜びだった。いまでもあの歓声や、水に潜ると聴こえる石がぶつかり合うような心浮き立つ響きを思い出す。

学校にとってこれはいい収入だったのだろう。更衣室などないから、教室の机や椅子を片づけ床にずらりと脱衣かごを並べ、どんどん入場者を受け入れた。

そんなある日、私はいつものようにプールで遊んだ後、脱衣かごに戻って水着を脱ぎパンツに穿き替えた。その瞬間、大きすぎると思った。自分のものとはまるで感触が違う。かごを間違えて他人のパンツを穿いてしまったのだ。どのかごもよく似ているのでとんだ間違いを仕出かした。大慌てで脱ごうとした時、プールから数人の高校生かと思われる逞しい青年が、賑やかに入って来た。その中のひとりは真っすぐこちらに向かってやって来る。まったくタイミング悪く、彼のかごだったのである。もはや脱いで戻す時間はない。といって、見知らぬ相手に事情を告白し、目の前で彼のパンツを脱いで返す勇気もなかった。

こうなったらもう逃げ出すしかない。素知らぬ顔で自分のかごの衣類を着て、自分のパンツはポケットにしまいこんだ。

やがて彼はパンツがないと騒ぎ出した。それに仲間が同調して、パンツ泥棒、パンツ泥棒がいると囃し立て脱衣所は騒然としてきた。その後どうなったかは知らない。その場を逃れるのが精一杯だった。彼がどこの人か、パンツなしでその後どうしたろうかなど、知る由もない。

しかし、他人のパンツを穿いて帰ったこちらも困った。家で穿き替えたが、これをどう処分すればよいものか。この時代、捨てるなどという行為はまず思いつなかった。何日か机の引き出しにしまっておいたが、親に見つかったら説明に困る。暫くランドセルに入れて学校を往復したが、これも先生に見つかったりしたらいよいよまずい。だんだん追い詰められた気分になってきて、遂に押入れにある祖母の行李に突っ込んで何事もなかったことにしてしまったのだ。

それっきり、すっかり忘れて月日が経ったが、当然のことながら露見する日が来る。衣替えのシーズンになり、祖母が行李を開き、男もののパンツが転がり出たのだ。

小学生の身にはそれ以上の機微はわからなかったが、これはかなりおとなを困惑させる事態だったようだ。息子のパンツにしては大きすぎるし、その頃のわが家は父が長期入院療養中で男っ氣がなかった。なぜこんなものが祖母の行李から出て来たのか。疑心暗鬼に駆られながら、祖母と母はどんな会話を交わしただろう。

周りにいる男といえば、横浜に住む叔母の夫くらいだ。彼にまで問い合わせたりしていたが、もちろん謎は解決しなかった。

わが家に起きた気味の悪いミステリーとして、それからも折に触れ話題になったが、犯人は黙して語らず。真相は迷宮入りとなり今日に至っている。その間に祖母も母も疑問を抱いたまま他界してしまった。

いまでもあの日の動顛と戦慄を思い出すと怖気立つ。まったくなんたる軽率。なんたる浅知恵。プールのお兄さんはこちらよりだいぶ上だったがまだ健在だろうか。祖母にも母にも申し訳ないことをしてしまった。

 

コロナ感染でよみがえるあの日あの頃   阿部剛

  • 2022年12月28日 16:34

7月4日アメリカ独立記念日、バカでかい星条旗をグランドいっぱいに広げ、さあ、大谷翔平がアストロズ戦先発投手だあ。例によって奪三振ショーで浮かれていたが、エンジエルスのアホ打線が鳴かず飛ばず。結局ボロ負け。毎度のことながらカリカリイライラ、ああやんぬるかな。頭にきて熱まで出て来たぞ、体調まで変になっちまった、そうこうするうちにボヤッとしてきた。ありゃりゃこりゃほんとに変だぞ。おでこに当てた体温計の数字は38度6分。おっとととと、マジかよこれ。ここ数十年こんな発熱経験ない。当然、コロナを疑い、自宅常備の抗原検査キットで見るとマーカーは陰性。それでも下がらぬ熱にふらつきながら病院でPCR検査を受けると、これが見事に陽性であった。とんだコロナ記念日になってしまったのだ。当然同居する娘にも感染。幸い私の症状は解熱剤服用で平熱になり咳無し、倦怠無し、いわゆる無症状であったが、ハンディ背負う娘のような弱者に対してコロナは容赦しない。いわゆるコロナ症状のすべてを発症したようなもので、下がらぬ発熱、止まらぬ咳、食べない、飲まない、クスリも吐き出す。こちらほんものの、嗚呼やんぬるかな状態だった。結果10日間の自宅療養中、大谷ショータイムどころでなかったが、娘は、訪問在宅診療医師のおかげもあって、ウソのように回復復元したのだった。

ふりかえれば10日の間、咳き込む娘を寝かしつけ、こちらもいつになく疲れたのか、早くから寝ちまう日々が続いた。夜半に病変で目を覚ますことがなかったが、その代わり早朝に目覚める娘を看病するためには、早寝しなければ身体が持たぬと我が免疫軍団が判断したのであろう。

普段はあまりないことだが、夢うつつ状態でよく記憶の感光板に浮かび上がって来たのが子どもの頃のあの日の事である。

山口県防府市向島。ここに伯母の家があった。時代は戦後復興で日本中が湧きたっていた昭和二六、七年の頃である。戦地から復員した伯父は、カルスト台地の山口県の石に眼をつけ石材業で一旗揚げ、羽振りがよかった。島から石を切り出し、自ら所有する石船で瀬戸内から阪神へ運搬する、そんな伯父伯母の家は、向島の海にほど近いところにあった。夏。伯母が、こざっぱりとした和服に日傘をさして防府駅ホームに笑みを浮かべながら私たち兄弟を迎えに立っていた。

夏休みと言えば、端から終いまでこの伯母の家で過ごすのが、就学前から小学高学年までの習いであった。貧乏の子だくさんの我が家にとって、経済的にも好都合とおやじおふくろが判断したわけである。幸い伯母夫婦には子がなく、我々を非常に可愛がったのである。次男は養子にと言われ、おふくろが頑強に断ったとかは後で知った。三男の私はといえば、もう伯父が防府のキャバレーにまでも連れて歩き、「坊やチョコレートパフェよ、エビフライよ」なんて取り巻くきれいな姉ちゃんに言われて、普段見たことも食べたこともないような夢幻の世界に陶然。この甘美さは今でも忘れない。さらに向島の家の広い畳、縁側、蚊帳をつっての夜、何もかもが珍しく、驚くことばかりであった。昼は蝉の声のけたたましさに、カブトムシが飛ぶもんだなんて、、、。地面が熱くて裸足で歩けぬ。ことほどに典型的な都会の子であったのだ。

そんな軟弱都会のすかし野郎に一泡吹かせてやろうと、地元の悪ガキは思うわけである。その日は遠からずやって来た。日中は泳ぐ。島にある河口が格好の泳ぎ場で、地元の子供らが歓声をあげている、そこへ熱い砂地をぴょんぴょんはねながらやって来たのが私である。小学一二年だったか。泳ぎはおろか海のしょっぱさも知らない。飛んで火に入る夏の虫じゃ。こちとら、瀬戸内の穏やかな海に幼い浪漫心が、

君知るや南の国、はあ。なんて思ったか思わなかったか、、、。あっという間もなく

我が身体は水の中。小学生にはとても背が届かない深さである。悪ガキどもがよってたかって海に引きずり込んだのである。苦しいじゃないか、アップアップしようにも水面は遥か上にある。ここの記憶が肝心なのである。その時、時間が止まったように静まり返った瞬間が訪れたのだ。見上げると海面が鏡面のごとくにキラキラ映り青い空が透けて見える。ふうう。

一刻あってまわりが騒がしくざばざばと人の手が私を引っ張り上げていた。熱い岩場に寝かされてしこたま水を吐いて見上げると、青空が頭上に広がっていた。

以来、私は海が好きになった。あの海中から見上げたキラキラが焼き付いた日から。

泳ぎも潜りも達者になったことを思えば悪ガキに感謝してもいいくらいだ。

後年、伊豆の式根島で沖にでて寄せる波に岩礁に取り付けなくなった時、渦に巻かれて、あの時と同じ海面を見た。途端に、いったん沖に戻り取り付ける場所を見つければいいのだと、気づき浜に戻れたことがあった。

あの日の記憶が、妙に懐かしくもあり、なんだか力がよみがえったような気にもなる。コロナのおかげとはいいがたいが、呼び覚ますものがあることは確かだった。

 

 

まつまつ松江は君を待つ    内藤伸之

  • 2022年12月28日 16:25

私の幼少期を語るには父のことに触れざるを得ません。なにしろ、私が誕生した時、父はすでに50歳でした。父は明治27年、日清戦争の年に生まれたのです。因みに、芥川龍之介は明治25年生まれ。

父と私の年の差は50歳、パパと呼んだ記憶はありません。末の弟は私と一回り以上、離れておりましたので、父をどう感じていたのか。母が私を生んだ時は20歳、今年96歳になります。今でも30歳差の夫婦はめったにおめにかかりません。

父は19歳で現在の名古屋大学の医学部に入学し、卒業後は名古屋大学、順天堂大学に勤務し、27歳の時、実家のある宇都宮で開業。その年、女医と内縁関係となりますが、結婚する意思はなかったようです。子供が生まれたため、仕方なく養子縁組して入籍。医院を開業したものの数年で閉院し、再び、名古屋大学の研究科に入学し、博士号を取得します。当時の地元紙は報じています。

「姿を消して幾星霜 博士となって帰郷」「医学博士となる 下野中学校出身 相撲好きで有名な人」の見出しのあと、「医学博士になった同氏は豪放磊落で逸話に富んだ人物で、殊に相撲好きなのは有名であった。何を感じてか、突如医院を閉じ飄然、姿を消したので不審の眉をひそめた者も少なくなかったが、なお研究の必要ありと名古屋大学の研究科に進んだ」記事は長々と研究内容まで紹介しております。その間、形だけ入籍していた女医との間で離婚訴訟を起こしております。このことも地元紙は五段抜きで掲載しております。「別居十余年の医師 更に解消の訴訟 父を見ぬ愛児を抱いて帰る日を待つ女医」

一市民の離婚問題を新聞ダネにすることは今では考えられないことです。

研究科を卒業すると、商船三井の船医として9年間も世界中をまわり、“ドクトル・マンボウ”気分で船旅を楽しんでいたのかもしれません。

船医を辞め、再び名古屋大学の医学部に2年間、勤務のあと、長野県駒ケ根市の院長に抜擢されたのが49歳のときです。院長の社宅の前に母の実家がありました。どういういきさつで結婚したのか、健在の母に問いただしたことはありません。なにしろ、歳の差が30歳です。この偶然の、運命的な結婚がなかったら、私はこの世に存在しませんでした。

戦後、GHQの勧告で農地解放があり、不在地主は土地が没収されるとのことで、昭和22年、私が2歳のとき、家族は実家の宇都宮に戻り、父はそこで開業することになります。

父の前の代まで地主でしたので、広い屋敷がありました。大谷石の塀は数十メートルもあり、敷地内には大谷石でできた米蔵が二棟、農機具を入れる納屋、小さな神社、交番、郵便局、竹やぶの隣は家畜小屋で、山羊、羊、鶏、豚を飼っておりました。そのほか、弓場、土俵、伝書鳩の小屋までありました。門から玄関まで数十メートルもあり、夜の塾の帰りのとき、怖くて夢中で走ったことを覚えております。毎年、羊の毛を刈る人や茶摘みの女性の作業を眺めるのが楽しみでした。自宅のそばの田んぼの田植え、稲刈りを手伝ったこともあります。当時、田にはイナゴが大量に発生し、イナゴをビンに入れて、学校に持っていくと肝油が支給されました。田んぼで賑やかに鳴いていたカエルの声が忘れられません。父は大学の相撲部に所属しておりましたので、実家の庭に土俵を作りました。父は栃木山、男女の川がひいきで彼らの手形と父の手形が額に飾られて実家に残っております。私と弟たちの手形もあり、全員、相撲のまわしを持っておりました。父の耳たぶはつぶれていたため、私は子供のとき、父の耳を見て、聴診器が落ちないために、あんな耳になったんだと思っておりました。

村祭りには相撲大会がありました。土俵の近くの大きな桜の木の下で家族だけでなく、近所の人を誘って花見の大宴会を毎年、やっておりました。相撲大会のほか、映画の上映、田舎芝居の興行も敷地内で行われました。

家族は両親、父の妹、子供たちの9人でしたが、里子が7、8人おり、大家族でした。父は実子と同様に里子もすべて平等に育てました。そのことが新聞に載ったこともあります。いちばん苦労したのは母親です。これだけの人数の手料理はできませんので献立はいつもちゃんこ鍋かすき焼きです。すき焼きのときは父と町まで牛肉の買い出しに出かけ、肉屋の主人とも親しくなり、私は将来、肉屋になるんだと、本気で考えたほどです。当時は炭でしたので七輪だけでも四卓も用意しなければなりませんでしたが、楽しい夕餉でした。後年、テニスクラブの友人18人、文春野球部の10人を連れて自宅で合宿したことがありますが、母は動じることなく、全員に料理を作ってくれたのも大家族で培った賜物です。風呂を沸かすのも今と違って大変でした。私が当番のときは薪割りから始まり、新聞紙に火をつけて熾すのですが、なかなか点火せず、竹藪から取った竹の吹子で風を送って、火を絶やさないようにしました。その火の明かりで読書をしたこともあります。

夏の風物詩ですが、毎週日曜日は歩いて10分ほどの鬼怒川での水浴びです。帰宅すると、全員、広間で大の字になって昼寝し、そのあと、井戸水の風呂で冷やしたスイカのおいしさは格別でした。夜は広間いっぱいに吊らされた蚊帳の中で寝ました。

父は氷点下の真冬でも毎朝、冷水をかぶり、開けっ放しの廊下で今でいえばストレッチを真っ裸でやっておりましたが、私にはとうていマネのできないことでした。父と弟たちと一緒に鬼怒川の土手でよくランニングをしました。私がマラソンに夢中になったのも幼い日のランニングがよみがえったせいかも知れません。父の盲腸の手術にも何度か立ち会ったことがあります。母の運転する車で夜遅くの往診に同行したこともあります。この時、医者にはなりたくないと思いました。

父が市会議員に立候補したとき、母屋には支持者が大勢いて、私たち子供は病室で寝泊まりすることになり、この経験から政治家には絶対なるまいと思いました。小学5年のとき、町の英語塾に一時間かけて通いましたが、生徒はほとんど中学生で、授業についていけず、塾をさぼって、東映の時代劇ばかり見ていました。読書に目覚めるのは、中学に入ってからのことになります。