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書斎の漂着本 (91)      蚤野久蔵  たらちをの記

  • 2016年10月18日 17:56

内田百閒の『たらちをの記』(六興出版)である。どこの古書店だったか忘れたが変わった題名が目について購入した。自宅に帰って辞書を引くと母親の枕詞「たらちね」の反対語で父親の枕詞を「たらちを」というとあった。装画は百閒お気に入りの版画家・谷中安規。作風は天真爛漫、自由奔放で、生きることも食べることにも頓着せずに放浪したことで「稀代の偏屈作家」といわれた百閒から「風船画伯」と呼ばれた。共通していたのは家庭環境が複雑だったこと。百閒は収録された表題作品や『枝も栄えて』、『葉が落ちる』などで父との思い出を書いているが、谷中も奈良・長谷寺門前の名家に生まれながら6歳で母親を亡くし、女出入りの激しかった父のもとで多感な少年時代を過ごした。この本は「偏屈作家」と「風船画伯」のコラボレーションと考えるとおもしろいかもしれない。

内田百閒著『たらちをの記』(六興出版刊)

内田百閒『たらちをの記』(六興出版)

『たらちをの記』は、岡山の古京町にあった志保屋という造り酒屋の婿養子だった父親の久吉が、ひどい「藪にらみ」で、それを眼科病院で手術したのを店の人に連れられて見舞いにいった記憶から書き始める。

手術は目玉を一たん引っぱり出して、裏側で引っ釣っていた筋を切ったとかいう話なので、聞いただけでも気持ちが悪かった。しかしそのお蔭で父の目は普通になったから、晩年の俤(おもかげ)を思い浮かべても別に変ったところはないが、まだ若かった頃、母と一緒に神戸に遊びに行った時写したという硝子写真を見ると、ひがら目で洋服を着込んで、猿が怒ったような顔をしているので、これが私の父かと思うと感慨を催すこともある。

花街で遊び夜明けに戻って祖母に頭を下げる父。褌一つの裸になって縁側にあぐらをかき、後ろから使用人に四国丸亀産の大きな団扇であおがせ、酒を汲み、機嫌がよくなれば歌も歌った父。

まるい玉子も切り様で四角
こがるる、なんとしよ
物も云い様で角が立つ
東雲(しののめ)の、ストライキ
さりとはつらいね
テナ事、仰いましたかネ

やがて家産が傾き没落していくが、それでも世間の人が「志保屋の久さんは、遊ぶことは遊んでも、商売の目が利くから、身上は却って先代よりも太っている」とほめた噂や、買ってもらって一番うれしかったオルガンのことをくわしく紹介する。当時、35円もしたという「山葉(=ヤマハ)オルガン」はわざわざ大阪心斎橋の店まで連れて行ってもらって購入、荷物を上下にしてはいけないという注意書きの「天地無用」の荷造りをして岡山に送らせた。壊れるたびに何度も修理して大事に使い、東京に出る際には、ふたたび「天地無用」の荷物として持ってきた。生活に困窮して何度も差し押さえの札を貼られながらもその都度、最優先で取り戻した。<父の思い出が詰まっていた>からでもあったろう。

明治38年(1905年)百閒17歳の夏、父親は岡山市郊外の佛心寺という山寺に脚気の転地療養に行ったが、病気が重なってそのお寺の一室で亡くなった。

最後の日は、父が起こしてくれというので、父の姉がそっと後ろから抱き起こした。それで北向きに坐って、暫く庭の方を見ていたが「これでいい、もう死ぬ」といってそのまま静かに目を閉じた。父の手を執って、その膝の前に額いた私は、十七の頭で、今の父の一言と、それに直ぐ続いた死との境い目を考え分けることができなかった。

『葉が落ちる』に書いた
山蝉の鳴き入りて鳴き止まず佛心寺
は、百閒が父に贈る追悼の句か。

山寺の病床で、父はそれまでの苦しみがうそのように、ほっと楽になった。その時、父の魂は抜けて飛んだのであろう。

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これは裏表紙のカットである。満月の夜、お寺の庭で踊る人たちを本堂の仏様が見守っているようにも見える。酔えば踊り出すという奇癖があったという風船画伯・谷中は昭和のはじめ版画家として注目され、もうひとりの版画界の巨人・棟方志功と同じ時代を生きた。しかし棟方が「世界の棟方」と呼ばれたのに対し、東京大空襲で住まいを焼かれ終戦翌年の秋に栄養失調で餓死した。

ところで垂乳根と漢字があてられる「たらちね」には忘れられない思い出がある。二十数年前、津軽海峡をシーカヤックで横断した帰りに青森県の日本海沿い、深浦町北金ヶ沢にある樹齢千年以上の大イチョウをオッサンふたりで見に行った。幹のあちこちから乳房状というか鍾乳石のような無数の気根が垂れ下がっているところから別名「垂乳根銀杏」という日本一大きなイチョウで、古来、多くの女性たちが「母乳がよく出ますように」と祈った信仰の対象であったという。夏場だったから青々と繁った葉群を見上げながら一周したが<乳房>はいずれも失礼ながら老婆のそれであるなあと思った。ご一緒したのが若い女性だったらこちらの考えが見透かされるかもしれないと思ったから赤面していたかも。脱線ついでにこの本を入手するまで正直知らなかった「たらちを」は垂乳男と書くそうな。相撲界に転じると理想の力士像といわれた「あんこ型力士」より筋肉質の痩せ形が注目される時代である。昔なら幕内に何人かいた<垂乳力士>は影をひそめ、このことばもいまや「死語」になって久しい。

新・気まぐれ読書日記 (42) 石山文也  オライオン飛行

  • 2016年10月13日 17:57

どんな風の吹き回し?と言われるかもしれないが、久しぶりに恋愛小説を紹介しよう。あれ、苦手ジャンルじゃなかったの?と問われれば、読むのはいいけどここに書くのは、とはぐらかしておく。『群像』連載中から話題になった高樹のぶ子の『オライオン飛行』(講談社)は9月末に単行本化されたばかり。新刊コーナーで「第二次世界大戦前夜、日本に墜落したフランス人飛行士と歴史の闇に隠された恋―恋愛小説の名手が史実を基に大胆に描く時空を超えた恋のミステリー」という帯に惹かれた。

高樹のぶ子著『オライオン飛行』(講談社刊)

高樹のぶ子著『オライオン飛行』(講談社刊)

オライオン(Orion)は星座の王者・オリオン座で知られるギリシャ神話の巨神オリオンの英語読みである。初冬に真東からあらわれ、冬の間は南の空高く全天を支配し続け、春になると真西へ沈んでいく。中心は日本でも昔から名高い二等星の「三つ星」が一直線に並び、これを囲むようにふたつの一等星とふたつの二等星が平行四辺形をつくる。天文マニアならアルファ、ベータ、ガンマ、カッパなどの名前とそれぞれの位置まで言い当てるかもしれない。オリオン神は海の上を陸上と同じように自由に歩くことができたことから星座になっても<天上を駆ける狩人>とされた。

1936年(昭和11年)フランス人冒険飛行家で32歳のアンドレ・ジャピーはパリ―東京間を100時間以内で到達できるかを競う空の賞金レースに参加していた。28歳で飛行機の操縦資格を取ったアンドレは翌年早くもパリ―アルジェ間のタイムレースを制し、パリからオスロ、チュニス、サイゴンまでの各レースでも新記録を達成してレジオン・ド・ヌール勲章を受けた。使用機は本来の青色を赤色に塗りかえたコードロン・シムーンで、11月15日の日曜、間もなく日付が変わる夜の11時46分、パリ郊外ル・ブルージェ空港を飛び立った。ちなみにシムーンというのは型式名でサハラ砂漠を吹く熱風を意味する。『星の王子さま』の作者として知られるサン=テグジュペリがリビア砂漠に墜落したときに操縦していたのも同じ機種である。

空冷式6気筒エンジンは排気量8千CC、220馬力の4人乗り単発プロペラ機。木製で全長8.7m、布張りの主翼の面積は16㎡、両翼間の幅は11m、重量は1,240キロだった。テグジュペリの機には整備士が同乗していたが、あらゆる故障に対応でき、天測の技術があったアンドレは整備士を乗せず懸賞飛行には有利な単独飛行を選択した。今回もコックピットの中は操縦席以外の座席を取り払って燃料タンクに改造し、給油目的の着陸を最小限にすることを狙った。最高時速は350キロ出せたが巡航速度を270キロに抑えても毎時50リットルのガソリンと1.25リットルのエンジンオイルを消費する。シリア・ダマスカス、パキスタン・カラチ、インド・アラハバッド、ベトナム・ハノイを経由して香港に着陸したのは3日後の18日午後5時10分、パリからの合計時間は55時間と15分だった。

ここで季節外れの台風に遭遇して一晩の足止めを食う。運命の19日朝、ようやく暴風は収まったものの強風下を日の出1時間半前に離陸した。台風を避けるため海岸に沿って6時間後に上海上空を通過、ここから東シナ海を一気に横断して日本をめざした。とはいえ逆風に阻まれエンジンの出力を最大限にしてもなかなか進めない。アンドレは少しでも風の影響を減らすため海面すれすれ10mほどを飛ぶことを選んだ。海面にたたき落とされれば助かる見込みも機体の発見も難しい。香港を発ってようやく10時間後に長崎県の野母崎半島を確認したが、絶えざる風との格闘で、どう計算しても燃料は東京まではもたない数値であることが判明した。

東京からの無線のやりとりでやむなく福岡県の雁ノ巣飛行場に着陸して給油することを選んだが、その手前に立ちはだかったのは佐賀・福岡県境にある脊振山(せふりやま)だった。厚い雲に視界が阻まれたのと乱気流に巻き込まれて高度が稼げなかったのかは不明だが機は午後4時ごろ山頂付近に墜落した。もちろん作中ではここまでの苦闘や、墜落直前までの状況などを臨場感たっぷりに紹介する。立木をなぎ倒した機体は大破、足の骨折や頭部に裂傷を受けたアンドレは気絶、機体に挟まれて身動きできなかった。幸運だったのは燃料に引火しなかったのと山中にいた炭焼きの村人が轟音を聞いていたこと。急報を受けた消防団員や医者も追いかけるように現地へ向かった。夜間にもかかわらず機体が赤色だったのも発見を助けることになった。

「これってどこまでが史実なの?」と盟友の歴史ライター・蚤野久蔵に聞いたところ「昭和11年か。2・26事件と前畑ガンバレのベルリンオリンピック、それと例の阿部定事件が起きた年だね。ちょっと調べてみる」といつもの調子で答えて小一時間ほどして返事があった。

岩波書店の『近代日本総合年表』には「11.19 パリ・東京100時間懸賞飛行のフランス機、佐賀県脊振山山中に墜落」と2行しか載っていなかったけど、遭難翌日の20日に東京日日新聞(現・毎日新聞)が「号外」を発行していたよ。見出しを紹介すると「沸機佐賀縣下で墜落、ジャピー氏重傷を負う」、「脊振山中で機體は滅茶々々」、「ゴール目前に壮図挫折す」、「立木に衝突して墜落、重體だが生命別条なし」、「驚く沸大使館」、「海上横断の冒険?ジャピー氏のコース」とあるよ。見出しは旧字体で「ゴール目前に」は右から左だ。「重傷のジャピー氏」という説明の顔写真は、ヘルメットにゴーグル姿でなかなかの美男子じゃないか。俳優のジャン=ポール・ベルモンドみたい。これが事故後の写真だったら包帯ぐるぐる巻きだろうけどね。救出から佐賀市にあった九州帝大第二病院(現・佐賀県立病院)での治療経過なども各新聞にさまざま取り上げられて、当時としては大ニュース、美談てんこ盛りだよ、と相変わらずの<茶々入れ>だ。おまけに恋の話はどこにも書かれてないけど、面白そうだからその本を貸してね!と約束させられてしまった。

アンドレの操縦ぶりやレースに賭ける思い、着陸地でのさまざまなできごとはともかく、ここまでは「紛うことない史実」であることがわかった。では「史実には書かれていない恋」とは何か。

アンドレが搬送された九州帝大病院には日本語がわかる宣教師や長崎から来たフランスの領事らが手術に立ち会うなどものものしい緊張感が漂った。手術も含めて担当看護婦となったのが18歳の桐谷久美子、一年後輩で女学校時代からの友人の島地ツヤ子がサブをつとめることになった。そして恋に落ちたのは久美子だった。ツヤ子は「恋人争い」を演じたのか?いやふたりの恋の<すべての秘密>を抱えてその後の人生を生きた、とだけ書いておく。

久美子の弟の娘がひそかで、里山家に嫁ぎあやめを授かったが、あやめが16歳の時に自宅の階段から転落してあっけない最後を遂げた。あやめは生まれつき股関節の変形が原因で足が不自由なことから恋愛や結婚という<人並みの幸せ>をとっくに諦めている。福岡市内の短大を卒業後は父の再婚を機に実家を出て、いまはイタリアンレストランに住み込んでスフレケーキづくりの腕を磨く26歳である。母の遺品のなかに懐中時計と何枚かの写真があった。白衣姿で写真に写る久美子はなかなかの美人で子どものときから母から写真を見せられるたびに「自慢のご先祖さま」という思いを強くした。久美子は戦後も看護婦を続け、弟を大学にやった。まさにキャリアウーマンのはしりだったがあやめが生まれる前に亡くなった。なかでも写真の1枚にはドキリとした記憶があった。久美子はベッドサイドにタオルのようなものを胸に抱えて立っていて、ベッドには上半身を起こした首の長いハンサムな外国の男がいた。男は久美子と同時に笑ったような気配で、二人ともカメラを見てはいるのだが二人の間に通う親密な空気が写真の中に立ちこめていた。シャッターを切る瞬間にはお互いに顔を見つめて会話していたのではないだろうか。写真の裏にはアンドレ・ジャピー、1936年とメモがあって母からフランス人よと聞いた記憶がある。写真の中のアンドレ・ジャピーは手に懐中時計を持っていた。いまこの時計はあやめの持ち物になっているが数年前からは動かなくなっていた。

あやめは犬を散歩させる途中にある鉢嶺時計店に修理ができるかどうかを聞いてみることにした。66歳の店主、一良は腕のいい時計職人だったが2年前に妻を亡くしてからは閉店を先延ばしにしている。懐中時計の修理など何十年ぶりだから自信はなかったもののあやめの真剣さに心が動き、預かって金庫に仕舞っておいた。一方のあやめは休みの日に実家に帰ってあらためて母の残した写真類を探した。記憶にあった写真とともに見つかったのは多くの新聞記事やフランス大使から病院の主治医に当てた感謝の手紙などだった。記事は概ね美談で飾られていた。さらに銀行勤めの父親に頼んで調べてもらった九州大学の資料から島地ツヤ子の住所が判明し、孫が同じ場所で眼科医院を経営していることがわかった。ツヤ子本人は認知症をわずらって介護施設に入院していた。見舞いに行ったあやめが唯一、聞き出せたのは「ニワトリノハコ」というひとこと。それが医院に奇跡的に残されており、ツヤ子への書簡や久美子の日記が見つかった。それからも多くの偶然に助けられてあやめは「80年前の秘密」を探っていく。行き先だけ明かしておくとアンドレの故郷、フランス東部のボークールである。時計の修理に一役買った一良も介添え役として同行することになった。

読者はいくつもの情報のピースを頭に入れてあやめたちとミステリーの旅に出る。天才飛行家と美人看護婦がお互いに言葉が通じないなかでまさぐるように燃えた生涯で一度きりの、命がけの恋と別れ。読み終わったいまも久美子がアンドレに懸命に教えようとした日本語「セ・ツ・ナ・イ」が心に残る。

ではまた

あと読みじゃんけん (14)    渡海 壮 野蛮人の図書室

  • 2016年10月4日 10:47

ベッド脇の本棚には買ってきたばかりのから買って久しいのまで本や雑誌が置いてある。それ以上入らなくなると仕方なく整理するのだが、何冊かは「近いうちに読むだろう」ということでそのまま置いている。もちろん手つかずの本や読みだすとなぜか眠くなるのなど色々あるから一概には言えないが。好きな論客のひとりで元外務省国際情報分析官、佐藤優の『野蛮人の図書室』(講談社、2011年)は、そうした何度もの選別をくぐり抜けた一冊である。整理のたびにいくつかの章を拾い読みしていたから<5年がかりの完読>となった。

佐藤優著「野蛮人の図書室」(講談社刊)

佐藤優著「野蛮人の図書室」(講談社刊)

「ようこそ、ラズベーチク・ライブラリーへ」という見出しの「まえがき」を「われわれは、誰もが野蛮人である。この現実を見据えることが重要だ」と書き始める。外務省時代はモスクワにある在ロシア大使館に勤務したこともあり「外務省のラスプーチン」の異名をとった。だから、このラズベーチクということばはロシア語で野蛮人を意味するのかと友人のロシア語通訳者に聞いてみたところ意外な返事が返ってきた。題名通りの意味ならそのまま「ようこそ、野蛮人の図書館へ」とすればいいのに、なぜだろうと思ったからだ。彼の解説はこうだ。

くだんのラズベーチクというのは<佐藤氏流の造語>だと思います。「ラーズベ」というのが「果たして~だろうか」という意味の助詞で、ロシア語で頻繁に使われます。「チク」は「人」を表す接尾辞で<ある傾向をもつ人物>を表現するのに用います。この二つの合成語であると考えれば、アクセントの位置が「ベー」に移っているのも、ロシア語の音声学から容易に想像できます。肝心の意味ですが「果たしてこうなるんじゃないかと懸念している人物(=佐藤氏)の図書館へ」となりましょうか。日本語にはひとことでこういう意味を表現する語彙はありませんので敢えて「野蛮人の」という言葉を当てているのかもしれません。強いていえばこの造語に「野獣的感覚」、「野蛮人の嗅覚」みたいな<寓意>が込められているのかもしれませんね。

さすがに情報活動では百戦錬磨のプロフェッショナル、のっけから一筋縄ではいかない。

現代社会は複雑で、世の中で起きていることを正確に理解するためにはさまざまな知識が必要になる。確かに日本は世界でもっとも教育水準の高い国だ。アジアにありながら欧米列強の植民地にならず、太平洋戦争敗北後の荒廃から社会と国家を見事に復興させたわが日本民族は、客観的に見て優秀である。しかし、現在の日本が衰退傾向にあることは、残念ながら、事実である。どうしてなのだろうか。それを解く鍵としてドイツの社会哲学者ユルゲン・ハバーマスが唱える「順応の気構え」という言葉をあげる。

佐藤によると人間は理解できないことが生じたときに「誰かが説得してくれる」と無意識のうちに思って自分の頭で考えることをやめてしまう。テレビのワイドショーでは、殺人事件、芸能人のスキャンダル、政治、経済、外交などについてコメンテーターが15~30秒でコメントする。「よくわからないけど、有名な人がそういうのだから」と無意識のうちに思って順応してしまう。そうするうちに人類は徐々に野蛮人化していく、そして最後には自分が野蛮人であるということにすら気付かなくなってしまう。文明国であったドイツからアドルフ・ヒトラーが出てきたのもドイツ人の多くが「順応の気構え」を持つようになってしまったからだ。

この名前をどこかで聞いた気がすると思って調べてみたら2004年の「第20回京都賞」の思想・芸術部門の受賞者だった。毎年、記念講演の案内状をいただいているのでファイルを取り出すと、プロフィールには「ユルゲン・ハーバマス博士:1929年、ドイツデュッセルドルフ生まれ、哲学者・思想家、ゲッティンゲン、チューリッヒ、ボンの各大学で学ぶ。ハイデルベルク大学教授などを経てフランクフルト大学名誉教授。コミュニケーション行為論、討議倫理学など、社会哲学理論の構築および公共性に根ざした理想社会実現への実践的活動を行った哲学者」とある。名前の日本語表記はハーバマスがより近いのかもしれないが、その業績を本書でわかりやすく解説してもらった。

いうまでもなく一人の人間の能力や経験には限界がある。限界を突破するためには、他人の知識や経験から学ぶことが重要で、そのためにもっとも効果的な方法が読書であって、読書によって代理経験を積むことができる。佐藤が指摘するように高度成長期の日本では、電車の中で本を読んでいる人が今よりはるかに多くいた。「あの頃の日本人は、自分が野蛮人であることを自覚していたので、本を読んで知識や経験を積んで教養人になろうと努力していた」というのは一面当たっているかもしれないが、今のようにスマホやタブレット読書などというのもなかったし。

この本で紹介されているのは「人生を豊かにする書棚」、「日本という国がわかる書棚」、「世界情勢がわかる書棚」の各章で57テーマにそれぞれ2、3冊ずつの計百数十冊、ただし立花隆、佐藤優共著『ぼくらの頭脳の鍛え方―必読の教養書400冊』(文春新書)とか、米原万里の『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)などブックガイドも含まれているから、本のなかでの「入れ子構造」まで勘定するとその4、5倍になるだろう。「頭脳を鍛える談話室」では作家の池永永一、飯嶋和一、西木正明、経済学者の中谷巌各氏と佐藤の対談が収録されている。

この本は各章の見出しからまず読みたくさせる。「意味のある読書とは何か―著者と対話しながら、自分の頭で考えることを繰り返そう」、「ウミガメに見る女の本質―かわいさの陰に潜む<肉食系女子>の本性」、「京都に学ぶ人間の裏・表―ロシアで物事を裏読みする時に京都のイケズ解釈が役立った」、「司馬遼太郎の歴史観―日露戦争を『坂の上の雲』で学ぶとロシア観を誤る」・・・なかでも佐藤のロシア体験が生きている「<プーチン現象>の真実―権力に対して批判的。インテリだったからKGBでは出世しなかった」はなかなか興味深い。モスクワでの現役外交官時代に本人と3回あったことがあるという。表情をめったに出すことがない「死に神」のようなプーチン首相をどうとらえればよいのだろうか。

彼は優れたインテリジェンス(諜報)官僚であるとともに知識人(インテリ)なのだ。ロシアのインテリの特徴は、単に知識や教養があるだけでなく、権力に対して批判的だということだ。インテリ的体質をもったプーチン氏は、自分自身を含め、権力に対して批判的で、反体制派の知識人を守るようなタイプの諜報機関員だったからKGBでは出世しなかったのである。プーチン氏はロシア帝国の復活に文字通り命を捧げている。その心意気をロシア人が買っているのだ。圧倒的多数のロシア国民に支持されている理由はここにある。日本の総理が、日本国家のために命を捧げるという裂帛の気合でプーチン首相に立ち向かえば、北方領土問題の突破口が開く。

執筆当時の「日本の総理」は安倍総理ではなかったが、今また首脳会談で北方領土問題が注目を浴びている。果たして<裂帛の気合で立ち向かう>ことができるだろうか。

「北朝鮮とミサイル―後継者は、金正日の息子であれば誰でもいい」では、弾道ミサイル、テポドンは金正日から息子への権力移譲を記念する祝砲だったという解釈に賛成しながら、固有名詞はそれほど重要ではない。金正日の息子であれば誰でもいいと言い放つ。そう、たしかにそう!<この5年後の北朝鮮>をあれこれ知っているだけに素直に頷ける。

「休みにこそ読むべき本―いくら読んでも教養が身につかない本があるので要注意」は、さらに明快である。難しい本にはふたつの種類がある。ひとつ目は、書いている内容が滅茶苦茶なので理解できないもので、学者や官僚が書く本で結構ある。著者の名前や肩書に圧倒されてしまい「わからないのは自分の勉強が不足しているからだ」と思ってしまう。こういう本をいくら読んでも教養が身につくことなどない。ふたつ目は、書いている内容はしっかりしているのだが、読者にとって予備知識がないからわからない本だ。例えば、微分法について知らない人が金融工学の本を読んでも理解できない。基礎的な数学の勉強を身につけることが大前提である。

ここであげるのはヘーゲルの『歴史哲学講義』で、回想録を読む際の注意についてヘーゲルの「回想録の作者は高い地位についていなければならない。上に立って初めて、ものごとを公平に万遍なく見渡せるので、下の小さい窓口から見上げていては、事実の全体はとらえられないのです」を紹介し、最近は普通の人の歴史を描いた民衆史がブームであるが、歴史的事件のプレイヤーだった高い地位についていた人の回想録を読まないと歴史の本質的な流れをつかむことはできない、と釘をさす。

最後におせっかいながら著者が言いたかったことからすると、この本の題名は『野蛮人にならないための図書室』がより適切ではないだろうか、と自戒を込めて書いておく。

新・気まぐれ読書日記 (41)  石山文也 旅の食卓

  • 2016年9月27日 16:20

北海道の石狩鍋から九州屋久島の焼酎を使った豚骨まで、紹介される「忘れられない味」はどれもが思わず<食欲が湧いてくる>のが不思議だ。エッセイストでドイツ文学者、池内紀のおとなの旅日記『旅の食卓』(亜紀書房)は、写真ひとつないのにそう思わせるのはなぜだろう。高級旅館や一流ホテル、料亭などはいっさい登場しない。ふるさとの風土と人々が育て守ってきた<庶民の味>ばかり。さあ、あなたならどれを味わう旅に出ますか?

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

池内紀著『旅の食卓』(亜紀書房刊)

著者は1940年生まれであるという。

食べざかりが戦後の窮乏期ときている。ひもじい思いをかみしめながら成長した。腹がへると、おなかが声を上げることをよく知っている。「グー」とうなったり、「クエー」と叫んだり、「グワー」とうめいたりする。子ども心にカラっぽの胃袋の中で腹の虫が七転八倒している姿を想像した。だから、グルメ自慢ではなく庶民の味をおいしく食べることに人一倍情熱を傾ける。「おいしく食べる秘訣は何?」と聞かれれば迷わず「腹が減っていること」と答える。少年期に身にしみて知ったとおり、空腹はいかなる料理にもまさる味つけをする。

たしかにそうである。著者がいう「わがルール」の一つがそこから生まれた。

「食事は三度ではなく朝夕の二度、省いた一度分は、空腹をもたらす調味料」。

そ、そこまではちょっと・・・

『石狩川と鮭』は、石狩川の下流域、石狩平野のまん中あたりにある当別町のビジネスホテルを足場にして3泊の取材行である。石狩川はアイヌ語の「非常に屈曲する川」を意味するイ・シカリ・ベツに由来するそうで北海道中央部の石狩岳を水源にして平野部に入って蛇行を繰り返しながら日本海に注ぐ。長さは信濃川、利根川につぎ国内3番目、流域面積は利根川についで2番目、日本を代表する大河である。道内きっての穀倉地帯となった現在からは想像できないが、探検家近藤重蔵が明治政府に提出した報告書には「水源までおよそ百里の間、左右うち開け候は平地沃野のみにて樹木鬱茂、夷人所々に住居、川上まで夷人粮魚(りょうぎょ)おびただしくこれあり」とあると紹介する。

ここでいう粮魚の代表はもちろん鮭である。ビジネスホテルのフロントには、第二、第三のおつとめといったタイプの年輩者がおられるもので、土地のこと、また夜の居酒屋にくわしい。そんな人の助言をかりる場合は知ったかぶりをしないこと。素直にきいてメモをとったりしていると、親身になって教えてもらえるというのが池内流の極意だ。「アキアジ(=鮭)ならここ」、「石狩鍋ならこちら」と地元イチ押しの店を地図にしるしをつけてもらうと、いざ出陣!

石狩鍋は漁師が食べていたのをそれぞれの料理店がメニューに取り込み工夫をこらした。はじめは単に鮭鍋、あるいはドンガラ鍋と言っていたものが、いつのころからかこの名前に落着き、北海道の鍋料理の代表になった。一番の特徴は、鮭の身だけでなく、頭も背骨も内臓も全部入れこむこと。生鮭の「あら」がうまいのだ。その点でいくと、「ドンガラ」の言い方がもっとも合っていた気がする。

ここまで書いたら何度か味わった店自慢の「合わせ味噌」と適度に煮込んだ野菜、蓋を取ったらグツグツ煮立つ音と鮭のあのじんわりした香りを思い出した。人気番組の裏アナウンサーではないが「もう、たまりませーん」。

二日目は少しはりこんで鮭料理のコース。はじめに背ワタの塩辛「めふん」、鮭味噌、塩引き鮭の焼物、飯(い)寿司、かじ煮、焼き漬、骨せんべい、酒びたし・・・。すべて鮭づくし。欲ばって平らげたので、腹を撫でながら、軒につるされた鮭のように口をアングリあけてホテルに戻ってきた。

当然ながら<食レポ>に留まらない。北海道に移住した元佐賀藩士で開拓者の子としてこの地に生まれたプロレタリア作家、本庄陸男(1905-1939)を取り上げる。肺結核により35歳で亡くなる前年の昭和13年(1938)に『石狩川』を発表した。これが代表作になる。本庄は石狩川を一つの川ではなく、生死のはじめから語られた大いなる生きものであって、野の生きものと同じように季節ごとに姿を変える存在と書いた。冬は冬眠である。

「イシカリの原野を二つに区切るこの大河も冬は眠って了うのであった。水は底ひくくもぐって鳴りをひそめた。その上に雪が降り積っていた。川も全く姿をかくしていた」

そっと春の息吹がただよってくると、川がムックリと目をさます。雪が沈んで川筋を見せ始める。

「ぶきみな音を、うおンうおンと響かせる。閉めつけた凍氷を呪うような叫びが聞こえる。やがて春は、下から、地のなかからも来るのであった」

三日目もまた鮭料理、いささか食傷気味だったが教わった店に出かけた。鮭の店で鮭を避けるのは失礼なので三日続きであることを断わって「とびきりをちょこっと」と注文した。頭に白い鉢巻をした主人は頬をふくらませて思案してから、小皿をいくつか並べてくれた。串に刺した鮭の心臓の塩焼き、軟骨の「ひず」、皮とすり身とはらこを一緒に煮た「こかわ煮」、白子の刺身、みそ汁には内臓が入っていた。

なんともうらやましい「鮭修行」ではないか。

『播州のそうめん丼』では生まれ故郷だけに、生産地の中心の「龍野そうめん」のうんちくが面白い。銘柄は市中を流れる揖保川にちなむ「揖保乃糸」だけ。手延べそうめんは播州のあちこちでつくられているが、龍野にある兵庫県手延素麺協同組合が一手に製品を管理して、合格したものをこのブランドで出荷するからだ。もうひとつ、龍野で有名な醤油は協同組合の大工場が、麹づくり、仕込み、醗酵、圧搾までの工程を一手にやって「生(き)揚げ」と呼ばれる醤油のもとにする。そののち、配分された各社で独自の味つけをしてそれぞれの銘柄で市場に出荷する。地場産業ならではの知恵だ。私の知る奈良大峰山の登り口、天川村に共同の製造所がある伝統薬の「陀羅尼助(だらにすけ)」は醤油方式に近い。下痢止めや胃薬として用いられ<和薬の元祖>といわれる。丸薬にしたのが飲みやすさから今は製造の主流となった「「陀羅尼助丸」である

「そうめん丼」は龍野のうどん屋でたまたま食したそうで、丼鉢にごはんを盛り、上から野菜をたっぷり入れた味噌汁仕立のそうめんをぶっかける。「冷や飯に熱い汁がしみて、なんともうまい」という。ふー。

もうひとつ、『長崎のカツ丼』はこうだ。

まず容器がいい。丼は丼鉢がつきもので、大ぶり、厚手、まん丸い蓋付き。全体がお多福の頬のように福々しい。おいしく食べるということの幸せを、まさしく容器であらわしていて、アツアツを、しばらくうれしく撫でまわしている。蓋をとると、フワリと湯気が立ちのぼる。いっしょに仄かな匂いが鼻をくすぐりにくる。知られるとおり丼物は上の具と下の飯からなりたっており、正確にいうと、下の飯は二種類あって、おしるのしみたところと、しみていない白いごはんのところとがある。わが独断であるが、その比率七・三といったところが望ましい。おしるのしみていない白いごはんが大切なのだ。三くち四くちとしみたのが続くと、舌が重くなる。そんなとき白いごはんを口に運ぶと、舌が浄められたぐあいで、味覚が再び活気づく。

おしんこをつまんでひと息入れ、目分量で勘案する。具の残り、おしるのしみた残り、白いごはんの残りと、せわしくかきこんでいるようでも、きちんと味と量の配分をしながら、一つぶ残さず、きれいにたいらげた。丸い丼物はそれ自体が胃袋の形と似ており、中身がそっくり鉢から袋に移動した。手にした鉢の重みが胃袋に移り、鉢にしたのと同じように、われ知らず腹を撫でていた。

おっと忘れるところだった。巻末に特別付録:イケウチ画伯謹製「旅の絵はがき」3葉が付いている。旅先で思い出した誰かさんにあなたの「旅日記」を出すというのも一興かもしれない。

(こちらもお腹が空いたので)ではまた

新・気まぐれ読書日記 (40) 石山文也 残夢の骸

  • 2016年9月21日 15:26

『残夢の骸』(新潮社)は船戸与一が足掛け10年以上、最後は肺がんの余命告知を受けて残された体力を削りながら書いた『満州国演義』全9巻の完結作である。昨年春、たまたま古書店で入手した前作の『南冥の雫』を読もうとした矢先、船戸の訃報に接した。平成27年4月22日、肺がんの一種である胸腺がんで死去、71歳。記事には同2月に『残夢の骸』の単行本が出版されたばかりで、それが絶筆となったとあった。『満州国演義』は400字詰め原稿用紙で実に7千5百枚、まさに著者畢生のオデッセイ=叙事詩である。船戸作品を多く読んできたし、何かの対談で自身ががんを闘病中ながら『満州国演義』に賭ける思いを語っていただけに「そうか、見事にやりきったか」という感慨が湧いた。

船戸与一著『残夢の骸』(新潮文庫)

船戸与一著『残夢の骸』(新潮文庫)

初めて船戸作品を読んだのはもう30年以上前になる。昭和59年(1984)の第3回日本冒険小説協会大賞を受賞した『山猫の夏』(講談社)だった。ブラジルの辺境にある田舎町で起こる血で血を洗う抗争がこれでもかと描かれる。町の名はここに黒人奴隷として連れてこられた人たちの言葉で「悪霊」を意味する。現地を旅した船戸はこの町で数十年も抗争を続ける地元の二大勢力に警察も手が出せない無法ぶりをつぶさに体験する。その原体験を素材として船戸は見事な作品に仕上げた。

ブラジルの東北部を旅すると、時として感じる強烈な眩暈(めまい)を感ずることがある。それは何も暑さばかりのせいではない。そこでは近代が張りめぐらした網から抜け落ちた世界が突如として眼のまえに現れることもあるからだ。熱暑のなかで汗にまみれながら旅を続け、ふと立ち寄った幻の町で見たただの白日夢にすぎない―と語られるすべては<純然たる妄想の産物>である。だが読み始めるとたちまちにして「衝撃の船戸ワールド」に引き込まれた。名前は忘れてしまった船戸が実際に足を運び小説の舞台になった実在の町をようやく「ブラジル全図」で見つけた。ブラジルを大西洋に向いた「顔」にたとえると「鼻」の部分、今回オリンピックが開催されたリオデジャネイロは「下あご」に当たる。首都ブラジリアからなら東北方向に千数百キロ、同じブラジル国内とはいえ、どうやって行くのだろうという地の果てのそのまた果てのような場所だった。何でそんな場所に、と思ったが「早稲田大学探検部OB」という経歴を知ってなるほどねとようやく納得した。以来、『神話の果て』、『カルナヴァル戦記』、『猛き箱舟』、『伝説なき地』・・・と新刊が出るたびに読んだ。しばらく遠ざかっていたが、興味ジャンルの北海道を舞台にした『蝦夷地別件』を完読、この『満州国演義』はそれ以来の作品だった。

さまざまに面白く脚色した話(=白話)を織り込んだ『三国志演義』を略して『三国志』というように『満州国演義』は東京・霊南坂の名家に育った敷島家の4兄弟がそれぞれの生きざまを通してわずか13年間で終わった満州国と<切り結ぶ>壮大な物語である。舞台は満州だけにとどまらない。中国の各都市、蘭領東インドのジャワ、昭南島=シンガポール、英領ビルマからインパール・・・いやまだまだある。ところでこの霊南坂は国会議事堂の南の方角、赤坂1丁目のアメリカ大使館と虎ノ門2丁目のホテルオークラに挟まれたゆるやかな坂である。住所表示は変ったが霊南坂一帯は「東京の一等地」であることに変わりない。敷島家は長州=山口県にルーツをもつ一族で、祖父は奇兵隊で活躍、父は著名な建築家だからこの地に屋敷を構えることができた。

4人はまったく別々の道を歩く。長兄の太郎は東京帝大を卒業。満州国建国のきっかけになった満州事変の勃発時は奉天総領事館の参事官で、国家を創るという最高の浪漫を地でいくように国務院外交部政務処長へと出世していく。次男の次郎は18歳で日本を飛び出し、やがて満州で馬賊の頭目になる。何にも頼らず何も信じない生きかたは風まかせでその日その日をただ生きて上海から東アジアへと流れていく。風に吹かれる柳絮(りゅうじょ=柳の綿毛)の如く。三男の三郎は陸軍士官学校を出ると関東軍の将校として満州全域の抗日武装ゲリラ掃討作戦を指揮する。時には軍規を犯した日本軍将校を射殺するなど剛直な帝国軍人でもある。末弟の四郎は早大生だったが大杉栄の思想に共鳴して左翼劇団に入る。その後、上海同文書院で学び、阿片窟や売春宿での生活を経てロシアと対峙する北辺の武装開拓村、天津の親日新聞の記者、甘粕正彦の満映、関東軍司令部の特殊情報課の嘱託として中国、満州の地を這い回る。

船戸作品は<正史と叛(はん)史をつむぐ力技>と評される。船戸は「歴史とは暗黙の諒解のうえにできあがった嘘の集積である」というかのナポレオン・ボナパルトの箴言(しんげん)を引きながら「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」と喝破する。つまり歴史=正史は客観的と認定された事実の繋がりによって構成されているが、その事実関係の連鎖によって小説家の想像力が封殺され、単に事実関係をなぞるだけになってはならない。かといって、小説家が脳裏に浮かんだみずからのストーリーのために事実関係を強引にねじ曲げるような真似はすべきでない。認定された客観的事実と小説家の想像力。このふたつはたがいに捕捉しあいながら緊張感を持って対峙すべきであると。ではこの『満州国演義』はその対極にある「叛史の集積」なのか。否である。叛史が民衆のアナーキーな情念をも吸収しながら野史とか稗史などと、時にはさげすんだ評に甘んじることがあったとしても「船戸叛史」は少しも揺るぎはしない。ましてや巷間言うところの<自虐史観>とは全く無縁である。

ところで第1巻の『風の払暁』は戊辰戦争で長州奇兵隊の間諜が会津の武家の若妻を凌蓐するシーンから始まる。不肖私、あえて書かれたということは<望まない妊娠>で誕生する子かその子孫が主要な登場人物になるのだろうなあと想像した。この俗過ぎる発想は的中したが、なぜはじまりが戊辰戦争だったのかを見落としてしまったことに『残夢の骸』を読んでいてようやく気付いた。船戸は終戦の玉音放送を太郎と一緒に聞いた同盟通信の記者に日本における民族主義の地下水脈を語らせる。

「日本の民族主義は黒船の来航で一挙に顕在化し、このままでは欧米によって植民地化されるという危機感に包まれた。その打開策を論じたのが吉田松陰だ。それが尊王攘夷となって現れた。明治維新という内戦を終えたあとも吉田松陰の打開策は生き続けた。欧米列強による植民地化を回避するためには国の近代化と民営国家づくりを推進しながらアジアを植民地化するしかない。松陰が『幽囚録』で示した通り朝鮮を併合し、満州領有に向かうことになった。これに日本民族主義の発展形たる大アジア主義が合流し、東亜新秩序の形成をめざして走り出していった・・・それがアメリカの投下した2発の原子爆弾によって木っ端微塵にされた。日本の民族主義の興隆と破摧(さい)。たった90年の間にそれは起った。これほど劇的な生涯は世界史上類例がないかも知れない。この濁流のあとかたづけに日本は相当の歳月を要することになるだろう」

だから、はじまりは戊辰戦争に置いたわけだ。「王道楽土」といわれた満州国はわずか13年で理想の欠片まで失い、重い鉄鎖と化した。終章は昭和21年5月の広島である。三郎が助け、回り巡って預かることになった10才の孤児を連れた四郎が広島駅前のバス停から木炭バスに乗ってその祖父が住む佐伯郡石内村へ向う。満州に新天地をめざす開拓民として村を出ていった三人の息子たちやその家族は一人も帰らず消息すらつかめない。孤児は三男の長男なのである。関東軍に入った父親も、一緒に避難する途中で母親も、妹も死んだ。祖父の「何で死んだんじゃ?」と繰り返す問いかけに「言わんよ、言えん!」・・・嗚咽が慟哭に変わっていく。

四郎はこの子が他人には言えないような地獄に直面したと聞いていたが、それがどんな地獄だったのかは見当もつかないし、別に知りたくもなかった。この時代を生きている人間はだれもが地獄を経験しているのだ、いかに幼くても耐えるしかないだろう。(中略)

歩いて市街地に戻る四郎は脚を速めていった。熱情も憤怒も、高揚も失意も、恐怖も後悔も、満州に絡むすべてはがらがらと音を立てながらどこかへ流れ去っていった。いまや過去に拘ったところで何かが産み出せるわけじゃないだろう。問題はこれからどう生きるかしかない。しかし、どう生きていくのだ?そのまえに、どういうふうに生きたいのだ?この答えは見つかりそうもなかった。

ただひとつ紹介したこの満州の大地で生きながら地獄を見た孤児と祖父との再会場面にしても何かの救いがあるわけではない。四郎にも少年にもただふるさと日本に戻ってこられたというだけで、夢破れて山河あり。それにしてもさまざまな舞台でさまざまに描かれた地獄絵図に比べれば命がつながっただけでも。「不感症になれ。そうでなくては、気が狂う」というフレーズが頭の片隅にまだ消えずに残っている。

船戸はあとがきに「資料渉猟はわたしのもっとも苦手とするところである。文献に当たっては執筆し、執筆しては資料を再確認するという作業の繰り返しは苦行僧の営為のごとく感じられた」と書く。たしかにこの作品を仕上げるには膨大な量の文献との格闘が不可避だったろう。巻末にまとめられた参考文献は、単行本では13ページ、文庫本では23ページに及ぶ。船戸はさらに「文献を読むかぎり」と前置きして、「昭和初期の時代の濃さは後期とは比較にならない。戦争。革命。叛逆。狂気。弾圧。謀略。抗命。破壊。哄笑。落胆。敗戦。抑留。幕末維新時に巣立ちした日本の民族主義が明治期に飛翔しつづけ、第一次世界大戦後の国内外の乱気流に揉まれて方向感覚を失い、ついにはいったん墜死を遂げるのだ。あらゆるものがぎっしり詰まっている。そしてこの濃密な歴史は満州を巡る諸問題を軸に展開していく。わたしは昭和19年山口県生まれで、戦争にたいする記憶がまったくないにも拘わらず、満州を舞台に四つの視点からの叙事詩を書きあげようと思ったのは凝縮された時間に引きつけられたからに他ならない」と付け加える。

さて、この大作をどう読めばいいのか。単行本をじっくり読むのもいいかもしれない。私なら各巻に解説が付いた文庫本のほうをお勧めする。あえてその顔ぶれを紹介すると第1巻『風の払暁』が馳星周、第2巻『事変の夜』が志水辰夫、第3巻『群狼の舞』が北方謙二、第4巻『炎の回廊』が高山文彦、第5巻『灰塵の暦』が西木正明、第6巻『大地の牙』が北上次郎、第7巻『雷の波濤』が高野秀行、第8巻『南冥の雫』が佐々木譲、この第9巻『残夢の骸』が井家上隆幸である。いずれも船戸と親交があり、日本における冒険小説というジャンルの地平をともに切り開いてきた、あるいは文芸評論家として見続けてきた面々である。船戸という稀有な作家を、いや歴史を舞台にした小説というものをさまざまな面から案内してくれるはずだ。選りすぐりのガイド役9人を従えていざ行かん。この一大歴史小説を読み解き、あるいは歴史そのものに内在する欺瞞を学ぶもいい。シリーズの題を船戸が「演義」としたのもそこにありそうに思う。

ではまた